第七十六話 人を捜す人
北門を抜けたところで、先頭の兵士が馬を止めた。
「見えますか。あの灯りです」
指さされた先には、古い石造りの建物があった。
夕闇の中に浮かぶ大きな煙突と、窓を塞ぐ木板。かつて染物場だったというその建物は、王都の賑やかな通りから少し離れただけなのに、随分と寂しい場所に建っていた。
裏手には細い水路が流れているらしい。湿った風に混じって、古い染料のような独特の匂いが漂ってきた。
「あそこに、お兄さんが……」
思わず呟いた。
青年の兄が最後に荷物を届けた場所。そして、商会で体調を崩した人たちが運ばれているという場所だ。
同じ建物だと分かったからといって、兄が中にいるとは限らない。それでも救護室で青年が見せた顔を思い出すと、一刻も早く確かめたかった。
「セインさん」
隣を歩くダグが声をかけてきた。
「兄さんのことは、私にも調べさせてください」
「もちろんです。お願いします」
「ありがとうございます」
ダグは礼を言うと、建物へ目を向けた。
今も〈追跡〉を使えないのだろう。けれど、前を見つめるその顔は、初めて第七係へ相談に来た時よりもずっと落ち着いていた。
「俺、こいつが術を使ってない時に仕事するの、久しぶりに見るな」
リオルが横から言った。
「お前も知ってるだろ。術を使う前は、普通に足で捜してたんだぞ」
「そうだったな。昔は聞き込みで三日かけた相手を、術を覚えてから半日で見つけてたっけ」
「便利にはなったけどな」
ダグは少しだけ笑った。
「足で歩かなくなったわけじゃない」
その言葉を聞いて、俺も少し安心した。
なくしたものが大切であるほど、なくしたあとも自分に何が残っているのか、すぐには分からないのかもしれない。
◇
建物の正門には、すでに大型の幌馬車が一台止まっていた。
男たちが二人がかりで寝台を持ち上げ、荷台へ押し込もうとしている。乗せられているのは、人間だった。
「止まれ!」
先行していた王宮兵士が声を上げる。
男たちは手を止めた。
「何だ、あんたら」
「王宮の調査だ。中にいる人間の安全を確認する。まず、その寝台を下ろしてもらいたい」
「うちは正式な治療施設だぞ。患者を運んで何が悪い!」
男の一人が怒鳴った。
俺は荷台を覗こうとして、息を呑んだ。
寝台の上には、痩せた老人が横たわっていた。目を閉じたまま、まったく動かない。身体には毛布がかけられているが、腕の先だけが外に出ている。
手首には、太い布紐が巻かれていた。
「……どうして縛ってるんですか」
思わず声が出た。
「暴れる患者もいるんだよ。転げ落ちたら危ないだろ」
男は面倒そうに答えた。
その言葉が本当なのかどうか、俺には分からない。ただ、老人の手首には紐が食い込んだような赤い跡があった。
「医者はどこですか。今すぐ診てもらえる人は?」
返事の代わりに、男が俺の前へ立った。
「部外者は引っ込んでろ」
身体が強張った。
さっき競売会場で襲われた時のことが、嫌でも頭をよぎる。
それでも目を逸らせなかった。老人の指が、わずかに動いたように見えたからだ。
「下がれ」
低い声がした。
ムラサメだった。
いつの間にか俺たちの横まで来ていた彼は、腰の刀へ手をかけることもなく、男の前に立った。
「王宮は、この施設に強制的な移送が行われている疑いを持っている。現に、本人の拒否を無視した移送と暴行が確認されている。今は目の前の患者の安全を優先する」
「だから何だってんだ!」
男がムラサメの胸元へ手を伸ばした。
次の瞬間、その腕は動かなくなっていた。
ムラサメが片手で手首を押さえている。力任せに捻った様子もないのに、男は身動きが取れず、顔をしかめていた。
「手を離せと言っている」
男が指を開く。
ムラサメはそれを確認すると、静かに手を放した。
「兵士たちへ。患者を医師に引き渡せ。建物の正面も確保する。中にいる者の安全が確認できるまで、誰も勝手に連れ出すな」
兵士たちが一斉に動き始める。
男たちはまだ何か言いたそうだったが、ムラサメを前にして、とうとう口を閉じた。
俺は老人が寝台ごと運ばれていくのを見届けた。
少なくとも、あの人は助かった。
けれど、あの建物の中にいる人が、全員あの馬車へ乗せられるとは限らなかった。
◇
「……おかしいな」
ダグが呟いた。
彼は門の前から少し離れ、湿った地面を調べていた。
「どうした?」
リオルが声をかける。
「裏にも荷を運んだ跡がある」
「荷車の?」
「ああ。しかも、ついさっきだ」
俺たちも近づいた。
地面には車輪の跡がいくつも残っていた。染物場だった頃から使われていた道なのだろう。石畳の間には青黒い泥が溜まり、ところどころに新しい擦れ跡が見える。
「ここを見てくれ」
ダグが地面を指した。
「右側の車輪だけ、一定の間隔で線が深くなってるだろ」
確かに、右の跡には小さな窪みが繰り返しついていた。
「車輪の鉄輪が一か所欠けてるんだと思う。回るたびに、そこだけ強く地面を削る」
「そんなことまで分かるんですか?」
「荷車を追う仕事もありましたから」
ダグはそう言って立ち上がった。
「それに、こっちは荷台を積んでいる時の跡です。車輪が深く沈んでる。でも戻る時の跡は、ほとんど残っていない」
「荷物を下ろしてきた?」
「その可能性が高いです」
ダグは建物の東側へ顔を向けた。
そこには細い道があり、古い塀に沿って奥へ続いていた。
「問題は、正門で降ろさず、わざわざ裏へ運んでいることです」
リオルの表情が引き締まる。
「裏口があるのか」
「たぶんな。それと……」
ダグは少し離れた石畳を指した。
「足跡が四人分。うち一人は、ほかの三人よりかなり歩幅が狭い」
「怪我をしてる人かもしれませんね」
リゼが言うと、ダグは頷いた。
「あるいは、誰かに連れられて歩いている」
嫌な想像が浮かんだ。
あの受付の女性が話していた、家へ帰りたいと泣いていた人。
その人も、こんなふうに連れられていったのだろうか。
「……行ってみましょう」
俺が言うと、リオルが頷いた。
「ムラサメさんに伝えてからな。正面を押さえてもらって、こっちは裏を確認する」
リオルはすぐに近くの兵士へ声をかけた。
ムラサメは俺たちの話を聞き、兵士を二人同行させることにした。彼自身は正面に残り、患者の救出と武装した者への対応を続けるらしい。
「ダグ、現場の判断はお前とリオルに任せる。ただし、危険があればすぐに知らせろ」
「はい」
「セインとリゼは、兵士より先へ出ないように。コレットもだ」
ムラサメの視線が、俺の肩へ向けられる。
「特にお前はな」
「……分かりました」
さっきから、俺だけ注意される回数が多い気がする。
けれど今度は反論しなかった。あの老人と同じように、助けを必要としている人がまだいるのなら、俺が怪我を増やして足手まといになるわけにはいかない。
コレットは少し迷ったあと、救護を担当する兵士と一緒に残ると申し出た。
「もし誰かを助けたら、こっちへ連れてきて。お医者さんを呼ぶの、手伝うから!」
それから俺たちを見回し、少し照れたように笑った。
「私まで勝手に突っ込んだら、またリゼに心配かけちゃうしね」
「……分かっているなら、安心です」
リゼが笑う。
コレットは頷いたが、その手が膝のあたりへ伸びたのを俺は見逃さなかった。
「痛いなら、ちゃんと座って休んでね」
「もう、セインってば!」
彼女はそう言って笑った。
俺たちは東側の細道へ向かった。
◇
道は建物の外壁に沿って曲がり、やがて水路の方へ下っていた。
足元の石は湿っていて滑りやすい。俺は肩を庇いながら歩き、前を行くダグと兵士の背中を追った。
途中で風向きが変わった。
湿った木材の匂いに混じって、薬品のような鼻につく臭いがした。
「……ここ、まだ使ってるんでしょうか」
リゼが呟く。
「染物場だった頃の設備が残ってるのかもしれません」
ダグが答える。
「川から水を引いて、染め終わった布を洗っていたんでしょう。裏の水路は、そのためのものだと思います」
塀の向こうから、何かが軋む音がした。
ダグが足を止める。
俺たちも動きを止めた。
しばらく耳を澄ますと、もう一度、小さな金属音が聞こえた。
カタン。
少し間が空いて、
カタン。
「……車輪だ」
ダグが囁いた。
「さっきの荷車だと思う。欠けた鉄輪が、回るたびに鳴ってる」
俺は驚いて彼を見た。
足跡だけじゃない。音まで覚えていたのか。
ダグは兵士へ合図を送り、ゆっくりと道の先を覗いた。
そこには、古い水門があった。
水路は建物の下をくぐり、幅の狭い船着き場へつながっている。石壁に囲まれた薄暗い場所で、小さな平底船が一艘、岸へ寄せられていた。
その横に、二台の手押し荷車がある。
一台には木箱が積まれていた。
もう一台には、寝台が載っていた。
そして、その上に横たわる人間の姿が見えた。
「……いた」
声が漏れた。
水門の近くでは、男たちが船を引き寄せている。別の男が寝台を押し、船へ乗せようとしていた。
「急げ。表が騒がしくなってる」
「まだ一人残ってるぞ」
「先に運べるものを運べ。あとは向こうでどうにかなる」
男たちの声が、水面に反響した。
リオルが俺の肩へ左手を置いた。
「落ち着け。まず、逃げ道を塞ぐ」
「でも、寝台に人が……」
「分かってる。船を出されたら、あの人ごと逃げられるんだ」
その通りだった。
俺は唇を噛み、兵士たちの動きを待った。
ところが、男の一人が寝台の毛布を掴んだ時だった。
「……やめて」
かすかな声が聞こえた。
寝台にいた人が、顔を動かした。
女性だった。
「お願い……帰して……」
その声を聞いた瞬間、胸が熱くなった。
あの人はまだ、自分で話せる。
帰りたいと言っている。
なのに男は聞こえなかったように、寝台を船の方へ押し続けた。
「リオル……!」
「分かってる!」
リオルは短く答え、兵士へ合図した。
「そこの者たち、動くな!」
兵士が剣を抜いて姿を現す。
男たちは驚いて振り向いた。
「王宮兵だ! 患者から離れろ!」
一瞬、全員の動きが止まった。
次の瞬間、一人の男が手押し荷車を強く突き飛ばした。
寝台を載せた車輪が、石畳の上を勢いよく滑り始める。
「危ない!」
船着き場の端には低い段差があった。その向こうは水路だ。
男は荷車を突き落とすつもりだった。
俺は思わず駆け出した。
肩が痛む。
けれど、目の前の寝台が水へ落ちる方が、ずっと怖かった。
「セイン、右へ回れ!」
リオルの声が飛ぶ。
彼は俺より先に動き、荷車の横へ回り込んでいた。
荷台の重みが片側へ寄り、車輪が浮きかける。
リオルは左手を荷車の縁へ当てた。
〈均衡〉。
傾きかけた荷台の左右の重みが釣り合い、持ち上がりかけた車輪が石畳へ戻った。
だが、荷車そのものはまだ動いている。
「ダグ!」
「分かってる!」
ダグが荷車の前へ飛び込んだ。
車輪へ足を差し入れるような危険なことはせず、横に置かれていた木製の輪止めを拾い、進路へ押し込む。
車輪が輪止めにぶつかった。
鈍い衝撃が響き、荷車が大きく揺れる。
俺も反対側から荷台へ手を伸ばし、肩を庇いながら車体を支えた。
「止まれっ……!」
車輪が石畳を擦った。
水路まで、あと一歩もない。
ようやく荷車が止まった時、俺は自分が息を止めていたことに気づいた。
寝台の女性が、毛布の下で小さく震えている。
「……大丈夫ですか」
声をかけると、女性は薄く目を開けた。
「……落ちるかと、思った」
「もう大丈夫です。俺たちがいます」
そう言った途端、女性の目から涙がこぼれた。
俺は胸の奥が痛くなった。
さっきの男は、この人が乗っていると知っていて荷車を押した。
逃げるためなら、人が水へ落ちても構わなかったのだ。
腹の底から怒りが湧いてきたが、今は女性を安全な場所へ移す方が先だった。
◇
兵士たちは男たちを取り押さえていた。
一人は抵抗して水路へ飛び込もうとしたが、逃げ道を塞いでいた兵士に捕まった。残りも武器を捨て、石畳に膝をつかされている。
船を操ろうとしていた男が、悔しそうにこちらを睨んだ。
「余計なことをしやがって。お前ら、何を止めたのか分かってるのか!」
「人を乗せた荷車を水へ落とそうとしたのは、あなたでしょう」
リゼの声が鋭かった。
俺は驚いて振り向いた。
彼女は男をまっすぐ見つめている。
「どうしてそんなことができるんですか。この人たちだって、帰りたいと言っているじゃありませんか」
「知らねえよ。上から言われた通り運ぶのが仕事だ!」
「それで人が死んでも?」
男は口を閉じた。
リゼはそれ以上言わず、寝台の女性へ向き直った。
その横顔が、いつもよりずっと厳しく見えた。
「セイン、この方を運びましょう。お医者さんに診てもらわないと」
「うん」
俺は頷いた。
ダグと兵士が寝台を支え、慎重に持ち上げる。
女性は痛むのか、時折顔をしかめていた。手首には、さっき正門で助けた老人と同じような布紐の跡があった。
「……助けてくれたんですね」
女性が呟く。
「はい。もう無理に連れていかせません」
ダグが答えた。
「お名前を伺ってもよろしいですか」
女性はしばらく迷い、震える声で名乗った。
「……マーレです」
「マーレさん。私はダグと申します。警護隊の者です」
ダグさんは少し屈んで、女性と目の高さを合わせた。
「今から医者のところへお連れします。その前に、ほかに助けを必要としている人がいれば、教えていただけますか」
マーレの顔色が変わった。
「……まだ、いるんです」
ダグは静かに頷いた。
「どこですか?」
「奥の部屋です。私と同じように具合が悪くなった人たちが……」
マーレの呼吸が速くなる。
「何人かは、もう運ばれていきました。でも、まだ一人だけ……」
「無理に話さなくて大丈夫です」
リゼが声をかけた。
マーレは首を振った。
「……今、言わないと」
そして、建物の奥を見つめた。
「あの部屋に連れていかれたら、誰も戻ってこないんです」
誰も戻ってこない。
救護室で聞いた言葉が、また頭の中に響いた。
◇
マーレを兵士と一緒に正門側の救護場所へ送ったあと、俺たちは船着き場の奥へ続く扉を調べることになった。
ムラサメからも、正面で保護した患者の搬送が進んでいると知らせが届いた。武装した男たちの一部は取り押さえられたが、建物全体の確認はまだ終わっていないらしい。
「この奥にも部屋があるんだな」
リオルが灯りを掲げる。
船着き場の横には、石壁に埋め込まれたような鉄の扉があった。錆びた蝶番と、古い鍵穴。壁には部屋番号を示す小さな金属板が並んでいる。
一、二、四。
俺は首を傾げた。
「三がない?」
「……本当ですね」
リゼが壁を見つめた。
しばらくして、彼女の表情が変わる。
「この部分、空白があります」
「〈空白視〉か?」
「はい。三番目の札があったはずの場所です。外された跡とは別に、何かが欠けているように見えます」
リゼは壁へ手を伸ばしかけ、途中で止めた。
「何が書いてあったのかは分かりません。ただ、ここを隠そうとした人がいるのかもしれません」
俺は鉄の扉を見つめた。
冷たい石壁の向こうに、かすかな物音がする。
カチャリ。
何か金属を置いたような音だった。
「……誰かいますか!」
思わず呼びかけた。
返事はない。
代わりに、奥から何かを引きずるような音が聞こえてきた。
リオルが俺の前へ出る。
「セイン、下がって」
その声に、さっきまでの軽さはなかった。
俺は一歩下がった。
兵士たちも剣を構え、扉の左右へ分かれる。
ダグが扉の下を見ていた。
「……床に跡がある」
「何の?」
「重い物を引きずった跡です。まだ新しい」
灯りを近づけると、鉄の扉の下から、細い筋がこちらへ伸びていた。
水路の泥とは違う、黒ずんだ擦れ跡だ。
ダグはそれを指で確かめ、顔を上げた。
「何度も、同じものを出し入れしてるんだと思います」
俺の胸がざわついた。
マーレは、この奥へ連れていかれた人が戻ってこないと言っていた。
青年の兄も、この建物へ来たあと姿を消している。
もしかしたら、ここに何か手がかりがあるかもしれない。
そう考えた時だった。
扉の向こうから、男の声がした。
「……今日は随分と騒がしいな」
低く、落ち着いた声だった。
俺たちは息を止めた。
男は誰かに話しかけるような調子で続けた。
「まだ終わってないんだが。困るなあ、途中で邪魔されると」
金属の触れ合う音がした。
それから、扉の向こうで誰かが小さく呻いた。
俺は反射的に一歩踏み出しかけた。
リオルが左手で俺の胸を押さえる。
「……待て」
「でも、中に人がいる!」
「分かってる。俺にも聞こえた」
リオルは扉を睨んだまま、低い声で言った。
「今度は絶対に、勝手に入るな」
俺は頷いた。
怖くないわけじゃない。
この扉の向こうに何がいるのか、まったく分からないのだから。
それでも、あの声を聞いてしまった。
誰かが、まだ生きている。
ダグが兵士へ短く合図した。
扉の前で剣が構えられる。
俺は痛む肩を押さえ、目の前の鉄扉を見つめた。
青年が何度も聞きたかったはずの、兄が帰ってくる時の二度のノック。
あの音を、もう一度聞かせてやりたいと思った。
けれど今、扉の向こうから聞こえてくるのは、金属が擦れる音と、誰かの苦しそうな息遣いだけだった。
俺は拳を握りしめた。
今度こそ、間に合ってほしかった。




