第七十五話 帰ってこない人たち
「痛かったら、すぐに言ってくださいね」
「はい」
医者が俺の肩を指で押した。
「いっ!」
「……痛かったら、です」
「言いました!」
医者は何とも言えない顔をしたあと、俺の肩をもう一度確かめた。幸い骨に異常はなさそうで、しばらく重い物を持たなければ大丈夫らしい。
少し離れた椅子では、コレットが膝の擦り傷を手当てされていた。さっきまで平気だと言い張っていたくせに、消毒のたびに顔をしかめている。
「セイン、見ないで」
「見てないよ」
「絶対見てた!」
「痛そうだなとは思ったけど」
「それは見てるって言うんだよ!」
俺が笑うと、コレットは口を尖らせた。
その隣でリゼが小さく笑っている。けれど俺が肩を動かした途端、その笑顔はすぐに消えた。
「セイン、無理に動かさないでください。さっきもかなり痛そうでしたから」
「うん。気をつけるよ」
彼女の声がいつもより少し強い。通路で男に壁へ叩きつけられた時のことを思い出し、俺も素直に頷いた。
正直、あの瞬間は怖かった。
男が拳を振り上げた時、避けられないと思った。リオルが助けてくれなければ、今ごろこんなふうに話せていたかも分からない。
それでも、助け出した男が無事だったことを思うと、肩の痛みくらいは我慢できる気がしてしまう。
「……今、また無理してもいいって考えました?」
「え?」
「顔に書いてあります」
リゼに睨まれ、俺は慌てて首を振った。
どうやら彼女には、俺が何を考えているか随分分かるらしい。
◇
救護室の奥では、競売会場で倒れた男性が医者の診察を受けていた。
さっきまで震えていた手は毛布の下に隠れている。それでも時折、肩が小さく跳ねるのが見えた。
「購入された固有術が、身体に合っていない可能性はあります」
医者がそう言った時、男性は顔を上げた。
「……治るんでしょうか」
「まだ断言できません。何が身体に起きているのか、詳しく調べる必要があります。ただ、少なくとも今の状態で長距離を移動させるべきではありません」
医者の声は穏やかだったが、最後の言葉ははっきりしていた。
男性が俯く。
「商会の人は、慣れれば大丈夫だと言っていました。最初はみんな、こうなるんだって」
「その説明を受けたのは、いつですか?」
「買った時です。でも……」
男性は毛布の端を握った。
「俺より先に買った人も、ずっと具合が悪かったんです」
俺は椅子を近づけた。
「その人も、ここへ相談に来ていたんですか?」
「はい。何度か顔を合わせました。俺と同じように手が震えていて、うまく眠れないって言ってました」
「今は?」
「……分かりません」
男性が顔を上げた。
「診察のために別の施設へ行ったきり、見かけなくなりました。ほかにも何人かいましたけど、誰も戻ってきません」
誰も戻ってこない。
その言葉が気になった。
「治って帰った可能性はないんですか?」
「俺も最初はそう思いました。でも、変なんです。商会の人に聞いても、もうここへ来る必要はないとしか言わないから」
男性はしばらく迷ったあと、声を落とした。
「一人、泣いている女の人がいたんです。帰りたい、家に帰してほしいって。なのに、次の日にはいなくなっていました」
俺の隣で、リゼが息を呑んだ。
「その方は、自分で施設へ行くと決めたんでしょうか」
「……分かりません。ただ、最後に見た時は、行きたくないって言ってました」
俺は思わず拳を握った。
あの通路で、俺たちが守った男性も同じことを言っていた。
行きたくない。
たったそれだけの言葉を聞いてもらうために、あの人は武器を持った男たちから逃げなければならなかった。
「その施設の名前、覚えていますか?」
男性は首を振った。
「すみません。俺も連れていかれそうになった時、初めて移送すると言われたので……」
「謝らないでください」
俺が答えると、男性は申し訳なさそうに目を伏せた。
今は身体を休めてもらった方がいい。それは分かっていたが、気になることが増えるばかりだった。
そこで、救護室の入口が騒がしくなった。
◇
「こちらにいらっしゃいましたか」
入ってきたのは、ダグ・ハーランだった。
警護隊の制服を着ている。顔には疲れが見えたが、俺たちを見つけると小さく頭を下げた。
「セインさん。皆さんが襲われたと聞いて、急いで来ました。お怪我は?」
「俺は肩を打っただけです。ダグさんこそ、どうしてここへ?」
「警護隊にも連絡が入りまして。リオルから事情を聞こうと思ったんですが……」
「俺ならここだぞ」
壁際にいたリオルが左手を上げた。
ダグはその姿を見るなり、眉間に皺を寄せた。
「お前、また怪我してないだろうな」
「してないって。右腕もちゃんと守ってる」
「その台詞、この前も聞いた気がするんだけどな」
「今回は本当だよ」
「だったらいいけど」
二人のやり取りを聞いて、少しだけ肩の力が抜けた。
だが、ダグの後ろにいる人物に気づき、俺は立ち上がりかけた。
「あれ……あなたは」
そこにいたのは、以前、倉庫街の荷車から助け出した青年だった。
行方不明の兄を捜すために、二百四十万ルクもの金を払って〈追跡〉を購入した人だ。
青年の顔色は相変わらず悪く、右手には小さな震えが残っていた。
「……お久しぶりです」
「こちらこそ。身体は大丈夫ですか?」
「前より少しは。でも、まだ術がうまく使えなくて」
青年は苦笑した。
その表情が無理をしているように見え、胸が痛んだ。
「今日はダグさんに相談があって、警護隊へ行ったんです。それで、ここで騒ぎがあったと聞いて……」
「お兄さんのことですか?」
青年は頷いた。
「まだ、見つかっていません」
短い返事だった。
けれど、その言葉の中にどれだけの時間が詰まっているのか、俺には想像することしかできなかった。
「俺、最初は兄が自分からいなくなったんだと思ってたんです」
青年は膝の上で両手を組んだ。
「仕事で失敗して、誰にも会いたくなくなったんじゃないかって。でも、兄はそういう人じゃないんです」
「どんな人だったんですか?」
「……変な人です」
青年が少しだけ笑った。
「俺が子供の頃から、どんなに遅く帰ってきても、玄関の扉を二回叩くんです。鍵を持ってるのに、わざわざ二回。先に帰ってきたぞって知らせるためだって言って」
「二回?」
「はい。だから俺、兄が帰ってくる時の音だけは、今でも間違えないと思います」
笑っていた青年の目が、ゆっくりと伏せられた。
「……もう随分、聞いてないですけど」
俺は何と答えればいいのか分からなかった。
青年はきっと今も、家の扉が鳴るたびに顔を上げるのだろう。
「最後にお兄さんの行き先が分かったのは、どこですか?」
ダグが尋ねた。
「北門の外れです。古い染物場があるでしょう? あそこの近くへ荷を届ける仕事だったそうです」
「染物場……」
「それから行方が分からなくなりました。何度も訪ねたんですけど、兄のことは知らないと言われて」
ダグは黙って聞いていた。
俺はその横顔を見た。
〈追跡〉を失ってから、ダグは以前のように固有術で人の行方を調べられない。それでも青年と一緒に足を運び、話を聞き、兄を捜し続けていたらしい。
「ダグさん」
青年が小さな声で言った。
「本当は、俺が買った術があなたのものだったんじゃないかって、ずっと気になってるんです」
ダグの表情が変わった。
「まだ、そうだと決まったわけではありません」
「でも、もしそうだったら……」
「その時は、その時です」
ダグは青年の目を見た。
「私はあなたが兄さんを捜したいと思ったことを、責めるつもりはありません。ただ、私から術を奪った人間がいるのなら、そいつは見つけたい。それだけです」
青年は何か言いかけ、唇を噛んだ。
「それに」
ダグが続ける。
「術がなくなったくらいで、人捜しをやめるつもりもありませんから」
リオルが横で笑った。
「こいつ、こう見えて相当しつこいんだよ」
「お前に言われたくない」
「褒めてるんだけどな」
「それなら、もう少し褒め方を考えろ」
青年が小さく笑った。
その顔を見て、俺も少しだけ嬉しくなった。
兄が見つからないままの日々でも、こうして笑える瞬間がある。
その時間を、商会の連中にこれ以上奪わせたくなかった。
◇
「……あの」
入口から、小さな声がした。
振り向くと、商会の制服を着た女性が立っていた。
まだ若い受付係らしい。顔色がひどく悪く、両手を胸の前で握りしめている。その後ろには王宮の兵士が一人ついていた。
「こちらで、先ほど倒れたお客様のお話を聞いていると伺って……」
女性は寝台の男性を見ると、びくりと肩を震わせた。
「……無事、だったんですね」
「あなたは?」
俺が尋ねると、女性は深く頭を下げた。
「三日前、この方の受付を担当しました」
救護室の空気が変わった。
寝台の男性が、毛布の下から受付票を取り出す。
「あなたが、これを?」
「はい。私が受け取って、印を押しました」
「じゃあ、俺が具合が悪いって言ったことは……」
「覚えています」
女性の声が震えた。
「手が震えて、息が苦しくて、夜も眠れないとおっしゃいました。私、ちゃんと書いたんです」
男性は受付票を握り直した。
「でも、商会の記録には、異常なしって……」
「あとから直せと言われました」
女性が俯いた。
「受付票はお客様がお持ちになっていたので、私にはどうにもできませんでした。でも、商会の管理記録だけは書き換えるように言われて……」
「誰にですか?」
リゼが尋ねた。
女性はすぐには答えなかった。
兵士が一歩近づいたところで、ようやく口を開く。
「上の管理担当です。でも、その人も別の方から指示を受けていました。私は、その先までは……」
女性の目から涙が落ちた。
「すみません。私、怖くて。仕事を辞めさせられるだけならまだいいんです。でも、逆らった人たちが、どんどんいなくなって……」
「いなくなる?」
俺は思わず聞き返した。
女性は頷いた。
「身体の具合が悪くなったお客様を、別の施設へ運ぶようになったんです。最初は本当に治療するんだと思っていました」
「違ったんですか?」
「分かりません。でも……」
女性は震える手を押さえた。
「先週だけで、三人の方が運ばれていきました。誰も帰ってこないんです。受付に戻ってきて様子を聞かせてくれる人もいなければ、診察が終わったという連絡もなくて」
俺は寝台の男性を見た。
彼がさっき話していたことと、同じだった。
「その施設は、どこにあるんですか」
俺の声が、自分でも驚くほど強くなった。
女性は顔を上げた。
「北門の外れです。昔の染物場を改装した建物で……」
椅子が床を擦る音がした。
青年が立ち上がっていた。
「……北門?」
女性が驚いて振り向く。
「はい」
「古い染物場って、裏に細い水路があるところですか?」
「そうです。白く塗り直した建物が奥にあって……」
「そこだ」
青年の声が掠れた。
「兄が最後に行った場所です」
俺は息を呑んだ。
青年はダグの腕を掴んだ。
「ダグさん。兄は、あそこにいたんじゃないですか? 俺が何度聞いても、誰も知らないって言ってたのに……!」
「落ち着いてください。まだ決まったわけではありません」
「でも、同じ場所なんです!」
青年の手が震えていた。
ダグはその手を振りほどかなかった。
「分かっています。だからこそ、確かめましょう」
青年は荒く息をつき、ようやく椅子へ腰を下ろした。
俺の胸も激しく鳴っていた。
偶然かもしれない。
まだ、青年の兄がそこで何をしていたのかは分からない。
けれど、商会が隠そうとしている場所と、兄が最後に向かった場所が重なった。
もう、ただの偶然だと片づけたくはなかった。
「……どうして今、話してくれたんですか?」
リゼが受付の女性に尋ねた。
女性は涙を拭った。
「今日、兵士の方が商会の人たちを取り押さえたと聞いたんです。それで、まだ間に合うかもしれないと思って」
「間に合う?」
「今夜、あの施設から人を移すんです」
誰も声を出さなかった。
「昼前に連絡が来ました。今いる患者を、夜半までに全員別の場所へ運ぶようにって」
「……どこへ?」
「分かりません。私にも教えてもらえなくて。ただ、施設の部屋は全部空けろと言われました」
女性の声が細くなる。
「昨日、あそこへ書類を届けた時、病室の窓から一人の女の人が声をかけてきたんです」
俺は彼女の言葉を待った。
「その人、窓に手をついて……家に帰りたいって。助けてほしいって」
女性の唇が震えた。
「私は何もできませんでした。見張りの人が来たら、その人も窓から離されてしまって……」
女性は両手で顔を覆った。
「今日も、何も知らないふりをして帰ろうとしたんです。でも、あの人までいなくなったら、もう……」
最後まで言えず、女性は泣き崩れた。
俺は立ち上がった。
肩が痛んだが、今はそれどころではなかった。
「リオル」
「ああ」
リオルも立っていた。
さっきまでの軽い表情は消えている。
「北門の旧染物場だな。警護隊に連絡を入れる」
「俺も行く」
「待て、セイン」
リオルの声が鋭くなった。
「お前、肩を怪我してるだろ。それに、あそこに何人いるかも分からない。さっきの連中みたいなのが待ち構えてたら、また同じことになる」
「でも、今夜なんだろ!」
思わず声が大きくなった。
「助けてって言った人がいるんだぞ。何もしなかったら、その人までどこかへ連れていかれるかもしれない!」
「分かってる!」
リオルも言い返した。
驚いて、俺は口を閉じた。
親友はしばらく俺を見つめ、それから少しだけ声を落とした。
「分かってるから言ってるんだ。俺だって助けたい。でも、お前が先に突っ込んで捕まったら、助けなきゃいけない人が一人増える」
「……それは」
「さっきのこと、もう忘れたのか?」
肩がずきりと痛んだ。
忘れるわけがない。
あの拳が振り下ろされそうになった瞬間も、リオルが俺の前に立ってくれたことも、全部覚えている。
「……ごめん」
「いや。俺も言い方がきつかった」
リオルは息を吐いた。
「助けに行くなって言ってるわけじゃない。ちゃんと助けられるように考えようって話だ」
俺は頷いた。
怖いのは、間に合わないことだ。
でも、その焦りに任せて動けば、かえって誰かを危険にさらすかもしれない。
「セインさん」
ダグが声をかけてきた。
「私も行きます。警護隊には私から事情を伝えます」
「ありがとうございます。でも、ダグさんも……」
「術が使えないことなら、ご心配なく」
ダグはまっすぐ俺を見た。
「建物に人が出入りしたなら、足跡も、荷車の跡も残ります。誰に何を聞けばいいかだって、多少は分かるつもりです」
それから青年に向き直る。
「兄さんのことも、必ず調べます。ただし、あなたはここで医者に診てもらっていてください」
「でも、俺も……」
「今の身体では危険です」
ダグの声には、普段の丁寧さの中に揺るがない強さがあった。
「あなたが倒れたら、兄さんを見つけた時に知らせる相手がいなくなってしまいます」
青年は唇を噛み、しばらくしてから頷いた。
「……お願いします」
ダグは深く頭を下げた。
「お任せください」
◇
それからの動きは早かった。
リオルが警護隊に伝令を出し、王宮の兵士たちも北門方面の警備へ連絡を回した。
ムラサメ・カナタには武装した男たちの逮捕後に報告が届いていたらしく、しばらくして兵士を連れて救護室へ姿を見せた。
「北門の旧染物場か」
受付の女性から話を聞いたムラサメは、すぐに部下へ指示を出した。
「先行する者は建物の出入りを確認しろ。独断で踏み込むな。人が運び出されそうになったら、状況を知らせろ」
「はっ!」
兵士が走っていく。
ムラサメは俺たちへ向き直った。
「現場の安全はこちらで確保する。商会の施設だからといって、無関係な人間まで傷つけるわけにはいかん」
「分かっています」
俺が答えると、ムラサメは肩へ目を向けた。
「セイン、お前も無理はするな」
「……はい」
「その返事が一番信用できん顔をしているぞ」
リオルが隣で吹き出した。
「ほらな。俺だけじゃないだろ」
「お前まで笑うなよ」
俺は少しだけむっとしたが、ムラサメもリオルも真剣に心配してくれているのは分かっていた。
リゼが俺の隣へ来た。
「私も行きます」
「リゼ、危険かもしれないよ」
「分かっています。でも、現場に不自然な欠損があれば、私にしか分からないこともあるでしょう?」
彼女の赤みがかった瞳が、まっすぐ俺を見つめた。
「それに、セイン一人ではまた無茶をしそうですから」
「……そんなに信用ない?」
「さっきの行動を考えてください」
言い返せなかった。
その時、コレットも手を上げた。
「じゃあ、私も!」
「コレット、膝は?」
「もう大丈夫!」
「さっきまで痛がってたじゃないか」
「痛かったけど、歩けるもん」
コレットは立ち上がり、少しだけ足を動かしてみせた。
確かに歩けそうだったが、俺はまだ心配だった。
「無理しなくていいんだよ」
そう言うと、彼女は一瞬、不思議そうな顔をした。
「……無理じゃないよ」
返事は明るかった。
でも、さっきの受付の女性を見つめるその目には、いつもと違う真剣さがあった。
「助けてって言ってる人がいるんでしょ。それなら、私にもできることがあるかもしれない」
彼女はそう言って笑った。
「大丈夫。今度はちゃんと、みんなに頼るから」
リゼが少し驚いたように目を瞬かせ、それから頷いた。
「……約束ですよ」
「うん!」
俺は二人を見ながら、ようやく少しだけ落ち着いた気がした。
一人で何とかしようとしなくていい。
ここには、一緒に考えてくれる仲間がいる。
その時、北門へ向かった先行の兵士から伝令が届いた。
ムラサメが短い報告を聞く。
その顔から、わずかに表情が消えた。
「……どうしました?」
俺が尋ねると、ムラサメは伝令の兵士を振り返った。
「もう一度、全員にも伝えろ」
兵士が頷いた。
「北門外れの旧染物場で、大型の幌馬車が準備されています。建物の裏手から、寝台を運び出しているのが確認されました」
胸がどきりとした。
「……人は?」
「乗せられているようです。ただ、距離があって人数までは分かりません」
俺は受付の女性を見た。
彼女は真っ青になっていた。
「もう始まってる……」
小さく呟く。
「夜半までって聞いていたのに。どうして、もう……」
ムラサメが兵士たちへ向き直った。
「出発する。北門の警備にも、馬車を見失わないよう伝えろ。中に人がいる以上、乱暴な止め方はするな」
兵士たちが一斉に動き始めた。
ダグも青年の肩を一度だけ叩き、俺たちの方へ歩いてくる。
青年は椅子に座ったまま、こちらを見つめていた。
「……セインさん」
「はい」
「兄が、もしそこにいたら……」
言葉が続かなかった。
俺は何も約束できなかった。
兄がそこにいるかどうかも、無事なのかどうかも、まだ分からない。
それでも、青年が俺たちを見ている目を、逸らしたくはなかった。
「……確かめてきます」
ようやくそれだけ言った。
青年は頷き、震える手を握りしめた。
救護室を出ると、外はすっかり夕暮れだった。石畳には長い影が伸び、遠くから馬車の車輪が鳴る音が聞こえてくる。
俺は痛む肩を庇いながら、仲間たちの後を追った。
帰ってこない人たちがいる。
その中には、今も家へ帰りたいと願いながら、誰かを待っている人がいるかもしれない。
北門の向こうでは、もう馬車の準備が始まっている。
間に合ってくれ。
俺は何度もそう願いながら、足を速めた。




