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王都の返却士 ~その落とし物、世界のものです~  作者: 紙森 灯
第四章 才能の値札

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第七十五話 帰ってこない人たち

「痛かったら、すぐに言ってくださいね」


「はい」


 医者が俺の肩を指で押した。


「いっ!」


「……痛かったら、です」


「言いました!」


 医者は何とも言えない顔をしたあと、俺の肩をもう一度確かめた。幸い骨に異常はなさそうで、しばらく重い物を持たなければ大丈夫らしい。


 少し離れた椅子では、コレットが膝の擦り傷を手当てされていた。さっきまで平気だと言い張っていたくせに、消毒のたびに顔をしかめている。


「セイン、見ないで」


「見てないよ」


「絶対見てた!」


「痛そうだなとは思ったけど」


「それは見てるって言うんだよ!」


 俺が笑うと、コレットは口を尖らせた。


 その隣でリゼが小さく笑っている。けれど俺が肩を動かした途端、その笑顔はすぐに消えた。


「セイン、無理に動かさないでください。さっきもかなり痛そうでしたから」


「うん。気をつけるよ」


 彼女の声がいつもより少し強い。通路で男に壁へ叩きつけられた時のことを思い出し、俺も素直に頷いた。


 正直、あの瞬間は怖かった。


 男が拳を振り上げた時、避けられないと思った。リオルが助けてくれなければ、今ごろこんなふうに話せていたかも分からない。


 それでも、助け出した男が無事だったことを思うと、肩の痛みくらいは我慢できる気がしてしまう。


「……今、また無理してもいいって考えました?」


「え?」


「顔に書いてあります」


 リゼに睨まれ、俺は慌てて首を振った。


 どうやら彼女には、俺が何を考えているか随分分かるらしい。


     ◇


 救護室の奥では、競売会場で倒れた男性が医者の診察を受けていた。


 さっきまで震えていた手は毛布の下に隠れている。それでも時折、肩が小さく跳ねるのが見えた。


「購入された固有術が、身体に合っていない可能性はあります」


 医者がそう言った時、男性は顔を上げた。


「……治るんでしょうか」


「まだ断言できません。何が身体に起きているのか、詳しく調べる必要があります。ただ、少なくとも今の状態で長距離を移動させるべきではありません」


 医者の声は穏やかだったが、最後の言葉ははっきりしていた。


 男性が俯く。


「商会の人は、慣れれば大丈夫だと言っていました。最初はみんな、こうなるんだって」


「その説明を受けたのは、いつですか?」


「買った時です。でも……」


 男性は毛布の端を握った。


「俺より先に買った人も、ずっと具合が悪かったんです」


 俺は椅子を近づけた。


「その人も、ここへ相談に来ていたんですか?」


「はい。何度か顔を合わせました。俺と同じように手が震えていて、うまく眠れないって言ってました」


「今は?」


「……分かりません」


 男性が顔を上げた。


「診察のために別の施設へ行ったきり、見かけなくなりました。ほかにも何人かいましたけど、誰も戻ってきません」


 誰も戻ってこない。


 その言葉が気になった。


「治って帰った可能性はないんですか?」


「俺も最初はそう思いました。でも、変なんです。商会の人に聞いても、もうここへ来る必要はないとしか言わないから」


 男性はしばらく迷ったあと、声を落とした。


「一人、泣いている女の人がいたんです。帰りたい、家に帰してほしいって。なのに、次の日にはいなくなっていました」


 俺の隣で、リゼが息を呑んだ。


「その方は、自分で施設へ行くと決めたんでしょうか」


「……分かりません。ただ、最後に見た時は、行きたくないって言ってました」


 俺は思わず拳を握った。


 あの通路で、俺たちが守った男性も同じことを言っていた。


 行きたくない。


 たったそれだけの言葉を聞いてもらうために、あの人は武器を持った男たちから逃げなければならなかった。


「その施設の名前、覚えていますか?」


 男性は首を振った。


「すみません。俺も連れていかれそうになった時、初めて移送すると言われたので……」


「謝らないでください」


 俺が答えると、男性は申し訳なさそうに目を伏せた。


 今は身体を休めてもらった方がいい。それは分かっていたが、気になることが増えるばかりだった。


 そこで、救護室の入口が騒がしくなった。


     ◇


「こちらにいらっしゃいましたか」


 入ってきたのは、ダグ・ハーランだった。


 警護隊の制服を着ている。顔には疲れが見えたが、俺たちを見つけると小さく頭を下げた。


「セインさん。皆さんが襲われたと聞いて、急いで来ました。お怪我は?」


「俺は肩を打っただけです。ダグさんこそ、どうしてここへ?」


「警護隊にも連絡が入りまして。リオルから事情を聞こうと思ったんですが……」


「俺ならここだぞ」


 壁際にいたリオルが左手を上げた。


 ダグはその姿を見るなり、眉間に皺を寄せた。


「お前、また怪我してないだろうな」


「してないって。右腕もちゃんと守ってる」


「その台詞、この前も聞いた気がするんだけどな」


「今回は本当だよ」


「だったらいいけど」


 二人のやり取りを聞いて、少しだけ肩の力が抜けた。


 だが、ダグの後ろにいる人物に気づき、俺は立ち上がりかけた。


「あれ……あなたは」


 そこにいたのは、以前、倉庫街の荷車から助け出した青年だった。


 行方不明の兄を捜すために、二百四十万ルクもの金を払って〈追跡〉を購入した人だ。


 青年の顔色は相変わらず悪く、右手には小さな震えが残っていた。


「……お久しぶりです」


「こちらこそ。身体は大丈夫ですか?」


「前より少しは。でも、まだ術がうまく使えなくて」


 青年は苦笑した。


 その表情が無理をしているように見え、胸が痛んだ。


「今日はダグさんに相談があって、警護隊へ行ったんです。それで、ここで騒ぎがあったと聞いて……」


「お兄さんのことですか?」


 青年は頷いた。


「まだ、見つかっていません」


 短い返事だった。


 けれど、その言葉の中にどれだけの時間が詰まっているのか、俺には想像することしかできなかった。


「俺、最初は兄が自分からいなくなったんだと思ってたんです」


 青年は膝の上で両手を組んだ。


「仕事で失敗して、誰にも会いたくなくなったんじゃないかって。でも、兄はそういう人じゃないんです」


「どんな人だったんですか?」


「……変な人です」


 青年が少しだけ笑った。


「俺が子供の頃から、どんなに遅く帰ってきても、玄関の扉を二回叩くんです。鍵を持ってるのに、わざわざ二回。先に帰ってきたぞって知らせるためだって言って」


「二回?」


「はい。だから俺、兄が帰ってくる時の音だけは、今でも間違えないと思います」


 笑っていた青年の目が、ゆっくりと伏せられた。


「……もう随分、聞いてないですけど」


 俺は何と答えればいいのか分からなかった。


 青年はきっと今も、家の扉が鳴るたびに顔を上げるのだろう。


「最後にお兄さんの行き先が分かったのは、どこですか?」


 ダグが尋ねた。


「北門の外れです。古い染物場があるでしょう? あそこの近くへ荷を届ける仕事だったそうです」


「染物場……」


「それから行方が分からなくなりました。何度も訪ねたんですけど、兄のことは知らないと言われて」


 ダグは黙って聞いていた。


 俺はその横顔を見た。


 〈追跡〉を失ってから、ダグは以前のように固有術で人の行方を調べられない。それでも青年と一緒に足を運び、話を聞き、兄を捜し続けていたらしい。


「ダグさん」


 青年が小さな声で言った。


「本当は、俺が買った術があなたのものだったんじゃないかって、ずっと気になってるんです」


 ダグの表情が変わった。


「まだ、そうだと決まったわけではありません」


「でも、もしそうだったら……」


「その時は、その時です」


 ダグは青年の目を見た。


「私はあなたが兄さんを捜したいと思ったことを、責めるつもりはありません。ただ、私から術を奪った人間がいるのなら、そいつは見つけたい。それだけです」


 青年は何か言いかけ、唇を噛んだ。


「それに」


 ダグが続ける。


「術がなくなったくらいで、人捜しをやめるつもりもありませんから」


 リオルが横で笑った。


「こいつ、こう見えて相当しつこいんだよ」


「お前に言われたくない」


「褒めてるんだけどな」


「それなら、もう少し褒め方を考えろ」


 青年が小さく笑った。


 その顔を見て、俺も少しだけ嬉しくなった。


 兄が見つからないままの日々でも、こうして笑える瞬間がある。


 その時間を、商会の連中にこれ以上奪わせたくなかった。


     ◇


「……あの」


 入口から、小さな声がした。


 振り向くと、商会の制服を着た女性が立っていた。


 まだ若い受付係らしい。顔色がひどく悪く、両手を胸の前で握りしめている。その後ろには王宮の兵士が一人ついていた。


「こちらで、先ほど倒れたお客様のお話を聞いていると伺って……」


 女性は寝台の男性を見ると、びくりと肩を震わせた。


「……無事、だったんですね」


「あなたは?」


 俺が尋ねると、女性は深く頭を下げた。


「三日前、この方の受付を担当しました」


 救護室の空気が変わった。


 寝台の男性が、毛布の下から受付票を取り出す。


「あなたが、これを?」


「はい。私が受け取って、印を押しました」


「じゃあ、俺が具合が悪いって言ったことは……」


「覚えています」


 女性の声が震えた。


「手が震えて、息が苦しくて、夜も眠れないとおっしゃいました。私、ちゃんと書いたんです」


 男性は受付票を握り直した。


「でも、商会の記録には、異常なしって……」


「あとから直せと言われました」


 女性が俯いた。


「受付票はお客様がお持ちになっていたので、私にはどうにもできませんでした。でも、商会の管理記録だけは書き換えるように言われて……」


「誰にですか?」


 リゼが尋ねた。


 女性はすぐには答えなかった。


 兵士が一歩近づいたところで、ようやく口を開く。


「上の管理担当です。でも、その人も別の方から指示を受けていました。私は、その先までは……」


 女性の目から涙が落ちた。


「すみません。私、怖くて。仕事を辞めさせられるだけならまだいいんです。でも、逆らった人たちが、どんどんいなくなって……」


「いなくなる?」


 俺は思わず聞き返した。


 女性は頷いた。


「身体の具合が悪くなったお客様を、別の施設へ運ぶようになったんです。最初は本当に治療するんだと思っていました」


「違ったんですか?」


「分かりません。でも……」


 女性は震える手を押さえた。


「先週だけで、三人の方が運ばれていきました。誰も帰ってこないんです。受付に戻ってきて様子を聞かせてくれる人もいなければ、診察が終わったという連絡もなくて」


 俺は寝台の男性を見た。


 彼がさっき話していたことと、同じだった。


「その施設は、どこにあるんですか」


 俺の声が、自分でも驚くほど強くなった。


 女性は顔を上げた。


「北門の外れです。昔の染物場を改装した建物で……」


 椅子が床を擦る音がした。


 青年が立ち上がっていた。


「……北門?」


 女性が驚いて振り向く。


「はい」


「古い染物場って、裏に細い水路があるところですか?」


「そうです。白く塗り直した建物が奥にあって……」


「そこだ」


 青年の声が掠(かす)れた。


「兄が最後に行った場所です」


 俺は息を呑んだ。


 青年はダグの腕を掴んだ。


「ダグさん。兄は、あそこにいたんじゃないですか? 俺が何度聞いても、誰も知らないって言ってたのに……!」


「落ち着いてください。まだ決まったわけではありません」


「でも、同じ場所なんです!」


 青年の手が震えていた。


 ダグはその手を振りほどかなかった。


「分かっています。だからこそ、確かめましょう」


 青年は荒く息をつき、ようやく椅子へ腰を下ろした。


 俺の胸も激しく鳴っていた。


 偶然かもしれない。


 まだ、青年の兄がそこで何をしていたのかは分からない。


 けれど、商会が隠そうとしている場所と、兄が最後に向かった場所が重なった。


 もう、ただの偶然だと片づけたくはなかった。


「……どうして今、話してくれたんですか?」


 リゼが受付の女性に尋ねた。


 女性は涙を拭った。


「今日、兵士の方が商会の人たちを取り押さえたと聞いたんです。それで、まだ間に合うかもしれないと思って」


「間に合う?」


「今夜、あの施設から人を移すんです」


 誰も声を出さなかった。


「昼前に連絡が来ました。今いる患者を、夜半までに全員別の場所へ運ぶようにって」


「……どこへ?」


「分かりません。私にも教えてもらえなくて。ただ、施設の部屋は全部空けろと言われました」


 女性の声が細くなる。


「昨日、あそこへ書類を届けた時、病室の窓から一人の女の人が声をかけてきたんです」


 俺は彼女の言葉を待った。


「その人、窓に手をついて……家に帰りたいって。助けてほしいって」


 女性の唇が震えた。


「私は何もできませんでした。見張りの人が来たら、その人も窓から離されてしまって……」


 女性は両手で顔を覆った。


「今日も、何も知らないふりをして帰ろうとしたんです。でも、あの人までいなくなったら、もう……」


 最後まで言えず、女性は泣き崩れた。


 俺は立ち上がった。


 肩が痛んだが、今はそれどころではなかった。


「リオル」


「ああ」


 リオルも立っていた。


 さっきまでの軽い表情は消えている。


「北門の旧染物場だな。警護隊に連絡を入れる」


「俺も行く」


「待て、セイン」


 リオルの声が鋭くなった。


「お前、肩を怪我してるだろ。それに、あそこに何人いるかも分からない。さっきの連中みたいなのが待ち構えてたら、また同じことになる」


「でも、今夜なんだろ!」


 思わず声が大きくなった。


「助けてって言った人がいるんだぞ。何もしなかったら、その人までどこかへ連れていかれるかもしれない!」


「分かってる!」


 リオルも言い返した。


 驚いて、俺は口を閉じた。


 親友はしばらく俺を見つめ、それから少しだけ声を落とした。


「分かってるから言ってるんだ。俺だって助けたい。でも、お前が先に突っ込んで捕まったら、助けなきゃいけない人が一人増える」


「……それは」


「さっきのこと、もう忘れたのか?」


 肩がずきりと痛んだ。


 忘れるわけがない。


 あの拳が振り下ろされそうになった瞬間も、リオルが俺の前に立ってくれたことも、全部覚えている。


「……ごめん」


「いや。俺も言い方がきつかった」


 リオルは息を吐いた。


「助けに行くなって言ってるわけじゃない。ちゃんと助けられるように考えようって話だ」


 俺は頷いた。


 怖いのは、間に合わないことだ。


 でも、その焦りに任せて動けば、かえって誰かを危険にさらすかもしれない。


「セインさん」


 ダグが声をかけてきた。


「私も行きます。警護隊には私から事情を伝えます」


「ありがとうございます。でも、ダグさんも……」


「術が使えないことなら、ご心配なく」


 ダグはまっすぐ俺を見た。


「建物に人が出入りしたなら、足跡も、荷車の跡も残ります。誰に何を聞けばいいかだって、多少は分かるつもりです」


 それから青年に向き直る。


「兄さんのことも、必ず調べます。ただし、あなたはここで医者に診てもらっていてください」


「でも、俺も……」


「今の身体では危険です」


 ダグの声には、普段の丁寧さの中に揺るがない強さがあった。


「あなたが倒れたら、兄さんを見つけた時に知らせる相手がいなくなってしまいます」


 青年は唇を噛み、しばらくしてから頷いた。


「……お願いします」


 ダグは深く頭を下げた。


「お任せください」


     ◇


 それからの動きは早かった。


 リオルが警護隊に伝令を出し、王宮の兵士たちも北門方面の警備へ連絡を回した。


 ムラサメ・カナタには武装した男たちの逮捕後に報告が届いていたらしく、しばらくして兵士を連れて救護室へ姿を見せた。


「北門の旧染物場か」


 受付の女性から話を聞いたムラサメは、すぐに部下へ指示を出した。


「先行する者は建物の出入りを確認しろ。独断で踏み込むな。人が運び出されそうになったら、状況を知らせろ」


「はっ!」


 兵士が走っていく。


 ムラサメは俺たちへ向き直った。


「現場の安全はこちらで確保する。商会の施設だからといって、無関係な人間まで傷つけるわけにはいかん」


「分かっています」


 俺が答えると、ムラサメは肩へ目を向けた。


「セイン、お前も無理はするな」


「……はい」


「その返事が一番信用できん顔をしているぞ」


 リオルが隣で吹き出した。


「ほらな。俺だけじゃないだろ」


「お前まで笑うなよ」


 俺は少しだけむっとしたが、ムラサメもリオルも真剣に心配してくれているのは分かっていた。


 リゼが俺の隣へ来た。


「私も行きます」


「リゼ、危険かもしれないよ」


「分かっています。でも、現場に不自然な欠損があれば、私にしか分からないこともあるでしょう?」


 彼女の赤みがかった瞳が、まっすぐ俺を見つめた。


「それに、セイン一人ではまた無茶をしそうですから」


「……そんなに信用ない?」


「さっきの行動を考えてください」


 言い返せなかった。


 その時、コレットも手を上げた。


「じゃあ、私も!」


「コレット、膝は?」


「もう大丈夫!」


「さっきまで痛がってたじゃないか」


「痛かったけど、歩けるもん」


 コレットは立ち上がり、少しだけ足を動かしてみせた。


 確かに歩けそうだったが、俺はまだ心配だった。


「無理しなくていいんだよ」


 そう言うと、彼女は一瞬、不思議そうな顔をした。


「……無理じゃないよ」


 返事は明るかった。


 でも、さっきの受付の女性を見つめるその目には、いつもと違う真剣さがあった。


「助けてって言ってる人がいるんでしょ。それなら、私にもできることがあるかもしれない」


 彼女はそう言って笑った。


「大丈夫。今度はちゃんと、みんなに頼るから」


 リゼが少し驚いたように目を瞬かせ、それから頷いた。


「……約束ですよ」


「うん!」


 俺は二人を見ながら、ようやく少しだけ落ち着いた気がした。


 一人で何とかしようとしなくていい。


 ここには、一緒に考えてくれる仲間がいる。


 その時、北門へ向かった先行の兵士から伝令が届いた。


 ムラサメが短い報告を聞く。


 その顔から、わずかに表情が消えた。


「……どうしました?」


 俺が尋ねると、ムラサメは伝令の兵士を振り返った。


「もう一度、全員にも伝えろ」


 兵士が頷いた。


「北門外れの旧染物場で、大型の幌馬車が準備されています。建物の裏手から、寝台を運び出しているのが確認されました」


 胸がどきりとした。


「……人は?」


「乗せられているようです。ただ、距離があって人数までは分かりません」


 俺は受付の女性を見た。


 彼女は真っ青になっていた。


「もう始まってる……」


 小さく呟く。


「夜半までって聞いていたのに。どうして、もう……」


 ムラサメが兵士たちへ向き直った。


「出発する。北門の警備にも、馬車を見失わないよう伝えろ。中に人がいる以上、乱暴な止め方はするな」


 兵士たちが一斉に動き始めた。


 ダグも青年の肩を一度だけ叩き、俺たちの方へ歩いてくる。


 青年は椅子に座ったまま、こちらを見つめていた。


「……セインさん」


「はい」


「兄が、もしそこにいたら……」


 言葉が続かなかった。


 俺は何も約束できなかった。


 兄がそこにいるかどうかも、無事なのかどうかも、まだ分からない。


 それでも、青年が俺たちを見ている目を、逸らしたくはなかった。


「……確かめてきます」


 ようやくそれだけ言った。


 青年は頷き、震える手を握りしめた。


 救護室を出ると、外はすっかり夕暮れだった。石畳には長い影が伸び、遠くから馬車の車輪が鳴る音が聞こえてくる。


 俺は痛む肩を庇いながら、仲間たちの後を追った。


 帰ってこない人たちがいる。


 その中には、今も家へ帰りたいと願いながら、誰かを待っている人がいるかもしれない。


 北門の向こうでは、もう馬車の準備が始まっている。


 間に合ってくれ。


 俺は何度もそう願いながら、足を速めた。

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