第七十四話 一枚の紙
「本人が行くと言うまで、移送は待ってください」
リオルがそう告げても、商会の担当者は笑顔を崩さなかった。部屋の入口には三人の男が立っている。荷運び人だというのに誰も荷物を持たず、代わりにこちらの人数と立ち位置を確かめているようだった。
「ご心配はもっともです。しかし、お客様の安全のため、すでに馬車を用意しておりますので」
「それなら、行き先を教えてください。医者が移していいと言ったかどうかも確認したいです」
リオルの声は落ち着いていた。相手の返事を待ちながら、左足を少しだけ後ろへ引いている。右腕は固定されたままだが、万が一の時に動ける位置を探しているのが分かった。
寝台に腰掛けた男が、俺の服の裾を弱々しく掴んだ。
「……行きたくありません。今は、ここにいさせてください」
「分かりました。無理には連れていかせません」
答えると、男はほっとしたように息を吐いた。三日前に身体の不調を訴えた受付票は、まだ手の中にある。紙一枚に見えるが、今の彼にとっては、自分の言葉が消えていないと確かめられる唯一のものかもしれなかった。
「その書類も、検査に必要ですのでお預かりします」
担当者が手を伸ばす。
「必要なら写しを取ればいいでしょう。原本を渡すかどうかは、本人に決めてもらってください」
俺が言うと、担当者の手が止まった。
「……皆様、少々誤解されているようですね」
その声から、ようやく愛想のよさが消えた。
担当者は鞄から別の紙を取り出し、こちらへ向けた。上部には大きく『緊急移送指示書』とあり、下には『本人承諾済』と記されている。
「正式な指示でございます。これ以上お時間を取らせるわけにはいきません」
「俺、承諾してません!」
寝台の男が声を上げた。その横で、リゼが指示書をじっと見つめている。
「……セイン。下の欄、変です」
「何か見える?」
「移送先のところに、何かが抜け落ちたような空白があります。何があったのかは分かりませんけど、最初からこの形だったとは思えません」
俺が紙を見直すと、確かに移送先には何も書かれていなかった。たとえリゼの〈空白視〉がなくても、行き先のない指示書で人を運ぼうとしていること自体、おかしい。
「その紙、ここに置いてください。行き先も確認できないままでは、誰も乗せられません」
担当者はしばらく俺を見つめていた。
「……では、仕方ありませんね」
諦めたのかと思った。
だが次の瞬間、入口の男たちが一斉に動いた。
◇
「セイン、下がれ!」
リオルの声に反応して身体を引いた途端、男の腕が目の前を横切った。
狙いは俺ではなく、寝台の男が握る受付票だった。
「渡せ!」
男が強引に手を伸ばす。俺は咄嗟に椅子を引き寄せ、二人の間へ押し込んだ。
激しい音とともに椅子が揺れた。
「リゼ、奥の扉! コレットさんと一緒に、その人を連れて出て!」
リオルは左手で椅子の背を押さえながら叫んだ。
「はい!」
「分かった!」
リゼが寝台の男に肩を貸し、コレットが反対側へ回る。男はまだ足元がおぼつかなかったが、二人は歩幅を合わせ、無理に引っ張ることなく奥の扉へ向かった。
「ゆっくりでいいからね。私たちが支えるよ」
コレットの声が聞こえた。
その背中を追おうとした男が、椅子を力任せに押し返した。リオルは足を踏ん張り、押し込まれる力と床へ伝わる反力を〈均衡〉で釣り合わせる。
椅子が軋み、脚が石床を擦った。
それでも、入口を塞ぐ位置からは動かなかった。
「セイン、そっちを頼む!」
言われて振り向いた時には、別の男が上着の下から棍棒を引き抜いていた。
俺は身を屈めた。
頭上を棍棒が通り過ぎ、次の一撃が椅子の背を叩き割る。
折れた木片が頬をかすめた。ほんの少し避けるのが遅ければ、自分の頭に当たっていたと思うと、背中が冷たくなった。
男は棍棒を持ち直し、こちらへ踏み込んでくる。
俺は床に倒れた椅子を足で押し出した。男の足元へ滑り込んだ椅子が進路を塞ぎ、そのわずかな隙に距離を取る。
「セイン、倒そうとしなくていい! あの人たちが逃げるまで時間を稼げ!」
「分かった!」
リオルの言葉で、自分の呼吸が少し落ち着いた。
相手を打ち負かす必要はない。あの受付票を持ったまま、男が無事に逃げられればいい。
だが、入口に残っていた三人目が短い刃物を抜いた。
薄い刃が室内の明かりを反射する。
俺は思わず足を止めた。
棍棒とは違う。あれに一度でもまともに当たれば、立っていられるかどうかも分からない。
「セイン、奥へ!」
リオルが俺の肩を掴んだ。
右腕を庇いながら、俺と刃物を持った男の間へ身体を入れる。そのまま相手が踏み込めない距離を保ち、少しずつ奥の扉へ下がっていく。
俺も足元の椅子を蹴り、追ってくる男たちとの間に障害物を作った。
扉へたどり着いたところで、リオルが左手で俺の背中を押す。
「走れ!」
俺たちは廊下へ飛び出した。
◇
奥へ続く通路には、運搬用の荷車がいくつも置かれていた。
天井の明かり取りから夕方の光が差し込み、その先には競売会場へ通じる広い廊下が見える。
リゼたちは、まだ遠くへ行けていなかった。
「こっちへ来い!」
行く手を塞いでいた男が、客の腕を掴もうとしていた。
コレットがその前へ立つ。
「待って! この人、行きたくないって言ってるよ!」
「邪魔だ!」
男がコレットを突き飛ばした。
彼女の身体が壁際へ傾き、リゼが慌てて腕を掴む。二人は転ばずに踏みとどまったが、その間に男がもう一度、客へ手を伸ばした。
「リゼ、その人を連れて先へ!」
俺は近くに積まれていた空箱を掴み、男の足元へ投げた。
狙いは外れたが、箱は荷車の車輪の前へ転がった。
男が邪魔な荷車を押そうとした瞬間、車輪が箱へ乗り上げる。
荷台が大きく傾いた。
「うわっ!」
男は慌てて取っ手を掴み、倒れかけた荷車を支えた。
その隙に、リオルが俺の横を抜ける。
「リゼ、今だ!」
リゼとコレットが客の身体を支え、傾いた荷車の横をすり抜けた。
男が取っ手を放そうとしたが、荷車はまだ不安定なままだ。リオルは左手を荷台の端へ添え、車体にかかる重みと、男が支える力の釣り合いを〈均衡〉で保った。
荷車が危うい角度で止まる。
相手は追いかけようにも、手を離せば荷台が倒れかねない。苛立った声を上げながらも、取っ手を握り続けるしかなかった。
「セイン、行くぞ!」
リオルが俺の肩を押した。
俺たちは荷車の脇を駆け抜ける。
背後で怒鳴り声と、何かが床へ落ちる激しい音が響いた。だが、振り返る余裕はなかった。
前方の通路はもう少しで広くなる。
そこまで出られれば、人を呼べるかもしれない。
そう思ったところで、別の男がリゼたちの前に飛び出した。
「いい加減にしろ!」
男は客の上着を掴み、乱暴に引き寄せた。
「やめてください!」
客の苦しそうな声が聞こえる。
リゼは男の腕を引き離そうとしたが、相手の力が強く、客の身体が大きくよろめいた。
このままでは、連れていかれる。
俺は走る勢いのまま男へ体当たりした。
相手の身体が一歩よろめく。
その隙に客の腕を掴んで引き戻したが、直後、男の手が俺の襟を捉えた。
「このっ!」
身体が浮くような感覚のあと、肩に激しい衝撃が走った。
背中が石壁へ押しつけられ、息が詰まる。
男の顔がすぐ目の前にあった。
襟を掴む力が強く、振りほどこうとしても身体が動かない。男が拳を振り上げるのが見えた。
避けられない。
「セイン!」
リゼの叫び声が響いた。
その瞬間、男の身体が横へ引かれた。
リオルだった。
左手で男の上着を掴み、相手が俺を押しつけようとしていた勢いに合わせて脚を差し込む。
男の体勢が崩れ、俺の襟を掴んでいた手が離れた。
「下がれ!」
俺は壁から身体を離した。
リオルが男との間に立ち、左手を構える。右腕を使えない以上、いつまでも相手を押さえてはいられない。
男が床へ手をつき、起き上がろうとした。
「リゼ、あの人を頼む!」
「はい!」
俺はコレットへ向き直った。
「コレット、入口に兵士がいたはず! 呼んできて!」
コレットは一瞬だけ俺たちを見た。
何か言いたそうに唇を動かしたが、すぐに頷く。
「分かった! 必ず連れてくる!」
蜂蜜色の髪が揺れ、コレットは通路の先へ駆けていった。
俺はリオルの隣へ戻った。
「肩は?」
「動く。大丈夫だ」
実際には、腕を上げるたびに鈍い痛みが走っていた。
それでも、今は立っていられる。
相手はまだ二人立っていた。
一人は棍棒を持ち、もう一人は短い刃物を握っている。リオルはそれぞれとの距離を測るように立ち位置を変え、背後にいるリゼと客へ近づかせないよう動いていた。
「セイン、あの人たちを下げて」
「分かった」
俺はリゼたちに後退するよう伝え、床へ転がっていた空箱を拾い上げた。
手には汗が滲んでいる。
こんな箱一つで刃物を防げるとは思わない。ただ、相手が通路を一気に抜けてくるなら、一度くらい進路を塞ぐことはできるかもしれなかった。
棍棒の男が一歩踏み込んだ。
リオルも動く。
俺は箱を抱え直し、男たちの足元に目を凝らした。
その時だった。
「そこで何をしている!」
廊下の向こうから鋭い声が響いた。
王宮の兵士たちだった。
コレットに案内された数人が通路へ駆け込み、俺たちと男たちの間へ割って入った。
「武器を捨てろ!」
兵士の一人が剣を抜く。
男たちは一瞬だけ逃げ道を探すように視線を走らせたが、背後の通路からも兵士が近づいてきていた。
やがて棍棒が床へ落ち、続いて刃物も放り出された。
俺はようやく息を吐いた。
張り詰めていた力が抜けた途端、肩の痛みがはっきりと戻ってきた。
壁へぶつかった時の衝撃が、今さら身体の奥まで響いているようだった。
「セイン!」
リゼが駆け寄ってきた。
「大丈夫ですか!」
「うん。肩をぶつけたけど、ちゃんと動くよ」
「……動くから大丈夫とは限りません」
リゼは俺の肩に触れかけ、痛む場所が分からなかったのか、そっと手を引っ込めた。
その顔が本当に心配そうだったので、俺はもう一度、大丈夫だと伝えた。
今度は少しだけ、慎重に。
◇
騒ぎが収まったあと、俺たちは王宮の兵士へ事情を説明することになった。
武器を持っていた男たちは取り押さえられ、商会の担当者も別の場所で話を聞かれている。誰が移送を命じたのかはまだ分からないが、少なくとも俺たちを殴ってまで客を連れ出そうとしたことは、兵士たちも現場で確認していた。
「こちらの方は医者から休むように言われたばかりでした。本人は移送を拒否していて、行き先も分からないまま連れていかれそうになったんです」
リオルが一つずつ説明する。
どの男が何をしたのか、誰が先に手を出したのか。右腕を庇いながら戦っていたはずなのに、こいつは俺よりずっと詳しく状況を覚えていた。
兵士も警護隊員の報告だと分かると、必要なことを手際よく書き留めていく。
「セイン、あの紙は?」
リオルが尋ねた。
「受付票なら、本人が持ってるよ」
助け出した男を見ると、紙はまだ両手で握られていた。少し皺がついてしまったが、破れてはいないようだ。
「ありがとうございます」
男は俺たちへ何度も頭を下げた。
「本当に、どうなるかと思いました」
「無事でよかったです。でも、今は身体を休めてください」
俺がそう言うと、男は小さく頷いた。
「……あの、書類は」
「預けるかどうかは、ご自身で決めていいと思います。王宮の人に見てもらうなら、俺たちも一緒に説明できますから」
男は少し考えたあと、兵士へ受付票を見せることにした。
兵士は内容を確認し、男の同意を得て写しを取ると約束した。
そのやり取りを見届けたところで、リゼが俺の袖を引いた。
「セイン、ちょっと」
「何?」
彼女の手には、さっき担当者が持っていた移送指示書があった。騒ぎの中で床に落ちていたものを、兵士が回収したらしい。
「これ、見てください」
『本人承諾済』
そう書かれた欄の下には、署名も印もなかった。
「本人が承諾したと書いてあるのに、確認した人の名前もありません」
リゼはさらに下を指した。
「移送先のところも、やっぱり何かが抜けたように見えます」
俺には元の文字は分からない。
それでも、何も書かれていない移送先と、本人が否定する『承諾済』の文字が同じ紙に並んでいることは確かだった。
「王宮の人に、これも調べてもらおう」
「はい」
リゼは頷き、兵士へ書類を渡した。
◇
「……ところで、コレットは?」
俺が周囲を見回すと、少し離れたところでコレットが客へ水を渡していた。
さっき突き飛ばされた時に膝をぶつけたらしく、立ち上がろうとした瞬間、顔をしかめたのが見えた。
「コレット、大丈夫?」
声をかけると、彼女はぱっと笑った。
「うん、全然! それより、あの人が無事でよかったよ」
「そうだけど、膝をぶつけてただろ」
「見てたの?」
「見てたよ。結構痛そうだった」
「……ちょっとだけね」
コレットは困ったように笑った。
「でも、本当に大丈夫だから」
その言い方が妙に強かったので、俺は少しだけ気になった。
自分が怪我をしていても、誰かの心配をしてしまう気持ちは分かる。俺だって、さっきは肩の痛みよりも、あの男が無事に逃げられるかどうかの方が気になっていた。
ただ、何でもない顔をしている人間が、本当に何ともないとは限らない。
「じゃあ、一緒に医者に見てもらおう。俺も肩を診てもらいたいし」
「え、セインも怪我したの?」
「さっき壁にぶつけたんだよ」
「それ、先に言ってよ!」
コレットが目を丸くした。
その隣で、リゼも大きく頷いている。
「……さっきから言ってるんですけどね」
「そうだった?」
「そうですよ!」
二人に揃って注意され、俺は苦笑した。
少し離れたところでは、リオルが兵士たちへ最後の確認をしている。
右腕を怪我しているのに、あいつは一度も無理に剣を握ろうとしなかった。状況を見て、人を逃がし、俺が危なくなれば迷わず助けに入ってくれた。
昔から頼りになるやつだったが、今日ほどそれを実感したことはないかもしれない。
「リオル!」
呼びかけると、あいつが振り向いた。
「どうした?」
「さっきは助かった。ありがとう」
「……なら、次は一人で突っ込む前に声をかけてくれよ」
「うん。次はそうする」
リオルは少し驚いた顔をした。
「珍しく素直だな」
「さすがに反省したんだよ」
「だったらいいけど」
そう言って笑う親友を見て、俺もようやく笑うことができた。
今日助けたのは、一人の客だ。
それでも、彼が持っていた受付票を守ったことで、商会の記録と食い違う事実を残せた。騒ぎの最中に見つかった移送指示書も、今は兵士の手にある。
誰が何のためにあんなことをしたのかは、まだ分からない。ただ、ここで起きたことを、何もなかったことにはさせずに済みそうだった。
競売会場の方からは、まだ遠く拍手が聞こえている。
華やかな舞台のすぐ裏で起きたことを、客の大半は知らないのだろう。
俺はその音を聞きながら、受付票を大切そうに抱えている男を見た。
彼が身体の不調を訴えたことも、移送を拒否したことも、もう商会の記録だけに任せる必要はない。
そう思うと、痛む肩にも少しだけ意味があった気がした。
「セイン、行きますよ」
リゼに呼ばれ、俺は顔を上げた。
「うん、今行く」
コレットも一緒に歩き出す。
その足が少しだけぎこちなく見えたので、俺は歩幅を緩めた。
彼女は気づいていないようだったが、リゼは俺の方を見て、ほんの少し笑っていた。




