第七十三話 消された訴え
舞台の上では、次の固有術について司会者が熱心に説明していた。客たちが冊子をめくる音に紛れて、前の席から何かが床へ落ちる乾いた音がした。
さっきから手を震わせていた男が、番号札を拾おうと屈んでいる。ところが指先がうまく動かないらしく、何度掴み直しても札は滑り落ちてしまった。隣にいた客は最初こそ笑っていたが、男が顔を上げた途端、その笑顔を消した。
「すみません。少し、席を……」
男は立ち上がりかけ、そのまま前の座席へ倒れ込んだ。
「リオル!」
「まかせろ!」
俺たちが通路へ出た時には、リオルがすでに客たちへ下がるよう声をかけていた。怪我をした右腕には触れず、左手で近くの椅子を支えながら、人が一箇所に集まらないよう誘導している。
「セイン、医者を呼んで。リゼは周りの人に少し離れてもらってくれ!」
「分かった!」
係員を探そうとしたところへ、蜂蜜色の髪が人垣の間から飛び出してきた。
「お医者さんなら、入口の受付に呼んでもらう! さっき救護室の案内を見たから!」
「コレット!」
「私、行ってくるね!」
返事を待たずに走り出したので、俺は追いかけかけて足を止めた。今ここには倒れた人がいるし、リオルも片腕が使えない。何でも自分でやろうとするより、頼めることを頼んだ方が早い。
リゼは通路に集まった客へ声をかけ、男が息をできるよう周囲に場所を作っていた。おかげで俺もそばへ膝をつき、男の様子を確かめられた。
「聞こえますか? 医者を呼んでいますから、無理に立たなくて大丈夫ですよ」
男は薄く目を開けた。意識はあるようだが、唇が青白く、返事をするにも苦労している。
「……手が、動かなくて」
「今は話さなくていいです。すぐ人が来ます」
俺がそう言うと、男は何かを言いたそうに口を動かしたが、やがて目を閉じた。
舞台の上では、いつの間にか競売が中断されていた。
◇
「ご心配をおかけいたしました。こちらで対応いたしますので」
商会の従業員が数人やってきて、男を奥へ運ぼうとした。けれど、医者が到着する前に無理に動かしていいものなのか、俺には判断できない。
「少し待ってください。今、医者を呼んでもらっています」
「当商会にも救護を担当する者がおります。お客様を人目にさらしておくわけにはまいりませんので」
「だったら、その人をここへ呼べませんか?」
リオルが尋ねた。声は落ち着いていたが、従業員と男の間に立ったまま動こうとしなかった。
「具合の悪い人を運ぶなら、まず状態を見てもらう方がいいでしょう。俺も警護隊で救護に立ち会うことはありますが、こういう時に勝手な判断はしないよう教わっています」
従業員は困ったように顔を見合わせた。そこへコレットが戻ってきた。額にはうっすら汗をかいているのに、息を整えるより先に俺へ親指を立ててみせる。
「呼んできたよ! もうすぐ来てくれるって。あと、これ!」
小さな水差しと清潔な布を抱えていた。俺が受け取ろうとすると、リゼが先に布を広げ、男の額の汗をそっと拭う。
「助かります。コレットさん、ありがとうございます」
「コレットでいいよ。リゼもそう呼んで!」
「じゃあ、私のこともリゼで」
「もちろん!」
二人はこんな時にも自然に笑い合えるらしい。少し前なら、俺も無理に明るいことを言っていたかもしれないが、今はそれでいいと思った。倒れた男も、周囲に緊張した顔ばかり並んでいるよりは落ち着けるだろう。
やがて来た医者は男の状態を確かめ、安静にできる場所で診察すると告げた。そこでようやく、近くの小部屋へ移すことになった。リオルは移動する通路を確認してから、俺たちに付き添うよう目で合図した。
商会の従業員は少し渋い顔をしたが、男自身が俺たちにいてほしいと言ったので、それ以上は何も言わなかった。
◇
診察が終わり、男が休んでいる部屋へ入れたのは、しばらくしてからだった。
「ご迷惑をおかけしました」
寝台に腰掛けた男は、最初にそう言って頭を下げた。医者から当面は休むよう言われたらしく、足元には水の入った杯が置かれている。
「迷惑なんかじゃないですよ。少しは楽になりましたか?」
「はい。でも、指はまだ思うように動きません」
差し出された手は、さっきより震えが小さくなっていた。それでも杯を持ち上げる時、両手を使わなければならないようだった。
「以前から、こういうことが?」
リゼが尋ねると、男は頷いた。
「固有術を買ってからです。最初は疲れているだけだと思ったんですが、日に日にひどくなって……。今日は購入者向けの説明があると案内されて、何か分かるかもしれないと思って来たんです」
また、買った人間の不調だ。
倉庫街で助けた青年も、〈追跡〉を買ってから手が震えると言っていた。二人が受けた処置まで同じだとは分からないが、偶然と片づけるには気になる。
「商会の人には相談したんですか?」
「ええ。三日前にも、身体がおかしいと伝えました。でも、今日になれば担当の人から説明があるかもしれないと言われて」
男は膝の上に置いた上着を探り、小さな紙を取り出した。
「これが、その時の受付票です。なくすと困るから、ずっと持っていました」
紙には相談の日付と、震えや息苦しさを訴えたことが男自身の文字で書かれている。下には商会の受領印も押されていた。
その時、扉が叩かれた。
「お客様、お加減はいかがでしょうか」
入ってきたのは、商会の担当者らしい男だった。胸に飾りをつけ、笑顔も口調も申し分ない。ただ、俺たちがいるのを見ると、一瞬だけ足を止めた。
「こちらの方々は?」
「倒れた時に助けてくださった方です」
「さようでございましたか。ありがとうございます。あとは当方でお引き受けいたします」
「その前に、一つ聞いてもいいですか?」
俺は受付票を示した。
「この方、三日前にも身体の不調を相談したそうなんです。商会では、どんな対応をされたんでしょう」
担当者は紙を見て、少し眉を動かした。
「お客様からのお申し出は記録しております。ただ、当商会の確認では、購入された固有術の作動に問題は見つかっておりません」
「身体の調子が悪いことについては?」
「それも含め、専門の担当者が確認しております。詳細は個人情報ですので、第三者へはお答えできません」
それは確かにそうだと思った。俺だって第七係へ来た人の事情を、知らない人間に勝手に話したりはしない。
でも、その答えを聞いた男の顔が曇った。
「……確認してもらっていません」
「お客様?」
「紙を渡しただけです。診てもらったことなんてないし、今日も担当の人が誰なのか教えてもらえませんでした」
担当者の笑顔が消えかけた。
「行き違いがあったようですね。社内の記録では、問題なしと報告を受けておりますが」
「その記録を、本人に見せてもらえませんか?」
俺が聞くと、担当者は少し迷ってから頷いた。本人からの要望であることを確かめると、持っていた書類入れから一枚の紙を抜き出す。
そこには男の名前ではなく、購入契約の受付番号が書かれていた。今朝までの経過について、いくつかの項目に印がつけられている。
『発動状況:正常』
『身体状態:異常なし』
「……これ、誰が書いたんですか?」
男は紙を見つめた。
「俺、こんなこと言ってません」
「担当者の所見でございますので、ご本人のお言葉をそのまま記したものではありません」
「でも、俺の身体はずっと変なんです。何度も伝えたのに、どうして異常なしになってるんですか?」
男の声が大きくなる。俺は少し慌てて、寝台のそばに置かれた水を勧めた。せっかく落ち着いたところなのだから、今また無理をしてほしくなかった。
「まず、これを飲んでください。書類のことは、ゆっくり確かめましょう」
男は杯を受け取り、何度かに分けて水を飲んだ。
その間、リゼが担当者の持つ記録を見つめていた。
「……セイン」
「何?」
「この紙、少し変です」
リゼは『身体状態』の欄のすぐ下を指した。そこは何も書かれていない余白で、俺には特におかしなところが見えない。
「何か消えてる?」
「分かりません。ただ、ここだけ空き方が不自然なんです。ほかの余白と違って、何かを抜き取ったように見えて」
〈空白視〉だ。
何があったのかまでは分からなくても、そこに欠けたものがあると気づける。俺にはただの余白にしか見えないので、リゼが指を離したあとも、つい同じ場所を睨んでしまった。
「こちらの紙も見せてもらえますか?」
リゼは男が持つ受付票を借り、二枚を横に並べた。
「受付番号が同じですね。それなのに、こちらには身体の不調を訴えたことが書いてあって、商会の記録には異常なしとあります」
コレットが身を乗り出した。
「じゃあ、相談したことが伝わってなかったのかな?」
「その可能性もあります。でも、受付票には受領印があるんです」
「……本当だ」
コレットは紙に顔を近づけ、少し考えてから担当者を見た。
「この人、三日前から困ってたんだよね? 記録が間違ってるなら、今からでも直してあげられないの?」
まっすぐな問い方だった。責めるというより、困っている人のために当然必要なことを聞いているように見える。
担当者は小さく息を吐いた。
「確認が必要です。原本は別の場所で保管しておりますので」
「それなら、確認が終わるまでこの受付票を預かる必要はないですよね」
リオルが言った。
いつの間にか扉の近くに立っていた。俺たちの話を聞きながら、廊下の様子も気にしていたらしい。
「これは本人の持ち物です。商会の記録と食い違っているんだから、本人が持っておいた方がいいと思います」
「もちろん、取り上げるつもりなどございません」
担当者は笑顔を作ったが、先ほどより声が硬かった。
◇
男は少し迷ったあと、自分から俺たちへ頭を下げた。
「お願いがあります。もしよければ、この書類のことを一緒に調べてもらえませんか」
「俺たちでいいんですか?」
「はい。さっき倒れた時も、助けてくれましたから」
男は受付票を両手で握った。
「買ったことをなかったことにしてほしいわけじゃないんです。自分で欲しいと思って、お金を払いました。でも、今のまま仕事もできなくなったら、何のために買ったのか分からない」
その言葉を聞いて、昨日商会で会った女性の顔が浮かんだ。
彼女も、自分で固有術を売ったこと自体を取り消したいとは言わなかった。ただ、身体に何が起きたのかを知りたいと望んでいた。
買う人も、売る人も、欲しかったものを手に入れようとしただけなのかもしれない。それなのに、取引が終わったあとで困った時には、誰へ相談すればいいのか分からなくなっている。
「分かりました。ただ、俺たちだけでは身体のことは判断できません。医者にも相談を続けてください」
「もちろんです。それで……」
男は受付票を差し出しかけた。
俺は受け取らず、少し考えてから言った。
「原本は持っていてください。必要なら写しを取らせてもらいますし、王宮へ相談する時も、あなたの意思を確かめてからにします」
男は驚いたように瞬きをした。
「俺が持っていて、いいんですか?」
「もちろん。あなたの紙でしょう」
後ろで、コレットが小さく笑った。
「……そうだよね。自分のことが書いてあるんだもんね」
その声が思ったより静かだったので、俺は少し振り返った。コレットはいつもの明るい顔へ戻っていたが、受付票を見る目だけは真剣だった。
リゼが紙を丁寧に重ね、男へ返す。
「一人で抱えなくて大丈夫ですよ。私たちも、できることを探しますから」
「ありがとう……ございます」
男はやっと、少しだけ肩の力を抜いた。
その時、廊下で何か硬いものが床に当たる音がした。
リオルが扉へ目を向ける。
「どうした?」
「いや、今、誰かが走っていったみたいだ」
ほどなくして、先ほどの担当者が別の従業員を連れて戻ってきた。
「お客様。より設備の整った場所で、改めて検査を受けていただくことになりました」
「……今からですか?」
「はい。移送の手配も済んでおります。裏門に馬車が来ておりますので」
男は不安そうに俺を見た。
リオルが一歩前へ出る。
「すみません。誰の判断で移すことになったんですか?」
「商会の医療担当からの指示です」
「さっき診てくれた医者には確認しましたか?」
「……それは」
「本人が行くと言っているなら止めません。ただ、今すぐ移す理由と、行き先は確認させてください」
従業員は答えず、廊下にいる誰かへ目を向けた。
俺もそちらを見る。
扉の向こうに、荷運び人にしては随分がっしりした男たちが立っていた。全員が同じ色の上着を着ているが、誰も荷物を持っていない。
リオルが俺へ目配せする。
さっきまでなら、ただの迎えだと思っていたかもしれない。けれど、リオルの顔を見た途端、何かが違うと分かった。
「……セイン」
「うん」
「コレットとリゼを、奥の扉のそばへ」
小さな声だった。俺は返事をせず頷き、二人へ視線を送った。
競売会場の華やかな音楽が、壁の向こうからかすかに聞こえてくる。大勢の客は、ここで何が起きているか知らないままだろう。
俺は寝台に座る男の手元を見た。
三日前、困っていると訴えたことを証明する一枚の受付票を、男はまだ握っていた。
どうやら、それを持ったまま帰らせたくない人間がいるらしい。




