第七十二話 落札できないもの
待っていたと言われても、こちらには待ち合わせをした覚えがない。
グレゴール・ザントは大きな机の向こうで立ち上がると、俺たちを客人として迎えるように椅子を勧めた。部屋には茶の香りが漂い、卓上には湯気の立つ茶器まで用意されている。厚い絨毯のおかげで足音はほとんど響かないが、閉じた扉の向こうからは競売会の司会者の声が聞こえてくる。あそこでリオルの名前が読み上げられていると思うと、とても座って茶を飲む気にはなれなかった。
「ちょうどお話ししたいことがあったのですよ。どうぞ、お掛けください」
「その前に、確認させてください」
リオルが一歩進んだ。怪我をした右腕は上着の内側で固定されている。背筋を伸ばした姿は、いつものように俺へ軽口を叩く時とは違って、警護隊の仕事をしている時の顔だった。
「今、俺の〈均衡〉について競売が行われていますよね」
「正確には、将来の優先交渉権でございます。固有術そのものを売却しているわけではありません」
「それは冊子で読みました。でも、俺は売らないと決めています。王宮でもそう伝えました」
「承知しておりますとも」
グレゴールはあっさり頷いた。その返事があまりに自然だったので、かえって驚いてしまった。
「では、どうして競売が続いているんですか?」
俺が尋ねると、グレゴールは机の端に置かれた冊子を手に取った。
「交渉することと、譲渡することは別だからですよ。今はお断りでも、半年後、一年後にはお気持ちが変わるかもしれない。私どもは、その時に優先してお話しできる機会をご案内しているのです」
「でも、俺はその約束をしていません」
「ええ。ですから、譲渡の成立を保証するものではないと説明しております」
リオルは口を閉じた。言い返せないのではなく、相手が何を主張しているのかを確かめているようだった。
俺も冊子を開く。細かい文字で、交渉が実現しなくても支払った金は原則として戻らないと書かれている。買う側がそれを承知で金を出すなら問題ない、という話にしたいのだろう。
でも、どうしても一つ気になることがあった。
「グレゴールさん。これって、誰が持っている権利なんですか?」
「と、おっしゃいますと?」
「リオルと優先的に交渉できる権利です。リオルが誰とも約束していないのなら、今、その権利を持っているのは誰なんでしょう」
グレゴールの笑みが、ほんの少し深くなった。
「なかなか面白いご質問ですね。交渉の場を設けるのは、仲介を務める我々の仕事です」
「それなら、『商会がリオルに話を持ちかける順番』を売っているんですか?」
「近いものではございますな」
「でも、冊子には『原保持者との優先交渉権』って書いてありますよね。会場でも、リオルが今後の活動方針を検討中だから、譲渡の可能性があると説明していました」
隣でリゼが頷いた。
「リオルさんは、怪我が治ったら警護隊の仕事へ戻ると決めています。正式に断ったのに、そのことは説明されていませんでした」
「冊子の作成には時間がかかりますから。最新の情報が間に合わないこともあります」
「だったら、今から訂正できますよね」
俺が言うと、グレゴールは静かに目を細めた。
扉の向こうで、司会者が金額を読み上げた。続けて別の声が上がり、客席にざわめきが広がる。こちらが一つ言葉を選ぶ間にも値段は上がっていくのだから、悠長に考えている時間はなさそうだった。
「訂正してほしいのは、リオルが売るつもりはないってことです。買う人が『まだ迷っているなら、話せば売ってくれるかもしれない』と思ってお金を払うのは、困るでしょう」
「購入者の判断まで、商会が責任を持つことはできませんよ」
「もちろんです。でも、判断するための情報を渡すことはできますよね」
グレゴールは答えず、俺とリオルを交互に見た。
◇
「セイン、ちょっといい?」
リオルが小さな声で呼んだ。俺が振り向くと、あいつは珍しく少し気まずそうな顔をしていた。
「今の話、俺にもさせてくれないか」
「……うん。ごめん、喋りすぎた」
「いや、助かった。ただ、俺のことだからさ」
その言い方に、俺は頷いた。
俺は人のことになると、つい先に口が動いてしまう。けれど、ここへ来たのはリオル自身が売らないと伝えるためだ。俺がどれだけうまく言い返せたところで、肝心の本人を置き去りにしたら意味がない。
リオルはグレゴールへ向き直った。
「断ったのは本気です。今日ここで、改めて誰かと交渉するつもりもありません」
「お考えは理解しております」
「だったら、会場の人たちにもそう伝えてください。俺の知らないところで金を払った人が、あとで俺のところへ来るのは困ります。断るたびに俺が悪いことをしたみたいになるのも嫌ですし」
思わず、リオルを見た。
俺は自分の友達が狙われていることばかり気にしていたが、あいつはまだ顔も知らない買い手のことまで考えていたらしい。警護隊員として何人もの揉め事に立ち会ってきたからこそ、話がこじれた先まで想像できるのだろう。
「それに、困ってる人がいるなら普通に話を聞きます。警護隊員ですから。でも、それと俺の術を売るかどうかは別です」
グレゴールは一度だけ瞬きをした。
「なるほど。お若いのに、立派な心掛けですな」
「ありがとうございます。それで、競売は止めてもらえますか?」
褒め言葉に乗らず、リオルは真っ直ぐに尋ねた。
俺だったら、褒められて少し気分がよくなってしまったかもしれない。あとでこっそり見習おうと思ったが、本人に言ったら絶対に調子に乗るので黙っておいた。
扉の外から、また金額が聞こえた。
「八十万ルク!」
続いて、別の客の声が重なる。
「九十万!」
リオルの口元がこわばった。何の約束もしていないのに、自分と話す順番に大金が積まれていくのだから、気持ちのいいはずがない。
グレゴールはしばらく考えてから、机の上の鈴を鳴らした。
「競売の進行役へ伝えなさい。〈均衡〉の件は、いったん保留と」
入ってきた従業員が頭を下げかけたところで、俺は口を挟んだ。
「すみません。保留じゃなくて、取り下げてもらえませんか?」
従業員の動きが止まる。
「保留なら、また同じものを出せますよね。リオルの返事が変わらないのに、何度も同じ話になるのは困るんです」
グレゴールは俺を見た。それまでの柔らかな表情の奥で、一瞬だけ冷たいものが光った気がした。
「……なかなか譲りませんな、セインさん」
「すみません。こういうの、仕事でよく確認するので」
仕事でも、品物の名前が一文字違うだけで持ち主を間違えそうになることがある。書類の言葉を曖昧にしたまま進めれば、困るのは窓口に来た人だ。今回だって「保留」と書かれれば、明日また同じ競売を始められるのかもしれない。そんな抜け道を残したまま帰るのは、どうにも気持ちが悪かった。
グレゴールは少し間を置いたあと、声を上げて笑った。
「結構。では、取り下げましょう」
「……いいんですか?」
「本人が望まず、皆様にも誤解を与えるおそれがあるのなら、出品を続ける理由はございません。商会の信用は、一度の競売より大切ですからね」
言い終えると、従業員へ新たな指示を出した。〈均衡〉の優先交渉権は正式に取り下げ、入札を無効とすること。さらに、出品取消を記した紙を俺たちにも渡すことになった。
あまりに話が早く進んだので、俺は拍子抜けしてしまった。リオルも同じだったらしく、グレゴールの顔を確かめるように見ている。向こうが一歩も引かないものだと思っていたのに、いざ引かれると、こちらの方が身構えてしまうから不思議だ。
「そんな顔をなさらず。私は、皆様と争うために商売をしているわけではありませんよ」
グレゴールは笑みを崩さなかった。
◇
俺たちが従業員に案内されて会場へ戻ると、舞台ではちょうど司会者が客席へ向かって深く頭を下げていた。
「皆様、ただいまの出品につきまして、ご本人のご意向を改めて確認いたしました。今回は出品を取り下げ、すべての入札を無効とさせていただきます」
客席から不満そうな声が上がった。
「もう金額をつけたんだぞ!」
「説明と違うじゃないか!」
それはそうだろうと思った。俺だって、買うつもりで札を上げたあとに話がなくなれば腹が立つ。こんな騒ぎを起こして、グレゴールは本当に平気なのだろうか。
しかし、司会者は慌てなかった。
「当商会では、原保持者の意思を何より重視しております。今回はその原則に従った判断でございます。皆様にご迷惑をおかけしたことを、深くお詫び申し上げます」
続いて、グレゴール自身が舞台へ姿を現した。
「楽しみにしてくださった皆様には申し訳ありません。ですが、我々が扱うのは、どこまでも人の才能です。持ち主のお気持ちに反して取引することは、私どもの理念に反します」
俺は思わずリゼと顔を見合わせた。
ダグの査定書には『搬出処理:完了』と書かれていた。その商会の主人が、これほど堂々と持ち主の意思を大切にすると言うのだから、笑っていいのか怒っていいのか分からない。
ところが、客席の反応は変わっていった。
「……まあ、本人が嫌だと言うならな」
「無理に売らせる商会じゃないのは安心だ」
誰かが拍手をすると、周囲もつられて手を叩き始めた。ついさっきまで不満を言っていた客の中にも、頷いている人がいる。
「……すごいですね」
リゼが呟いた。
「ああ。取り下げたのに、むしろ褒められてる」
リオルが感心したような、呆れたような顔をした。
「最初から売らなきゃいいだけなのにな」
俺たちは小さく笑ったが、舞台のグレゴールは満足そうだった。あの男は競売を一つ失っても、客からの信頼までは失わなかったらしい。それどころか、さっきまで怒っていた客が拍手しているのを見ると、信頼を増やしたのかもしれなかった。
そう思った時、グレゴールがこちらを見た。
距離があるので表情まではよく分からなかったが、片手を胸元へ当てて軽く会釈したのが見えた。
こちらの勝ちを認めているのか、それとも別の意味があるのかは分からない。少なくとも、悔しそうには見えなかった。
◇
「お待たせしました。こちらが出品取消の確認書です」
会場の外へ出たところで、先ほどの従業員が書類を持ってきた。
俺はリオルと一緒に内容を確かめ、今回の優先交渉権について入札が無効になったことと、取り下げが正式に記録されたことを確認した。ただし、以前の帳簿にあった〈均衡〉の購入予約金については、何も書かれていない。今日取り下げさせたものと別の扱いなのか、そこは王宮にも確認する必要がありそうだった。
「よし。これなら大丈夫そうだな」
「セイン、ありがとう」
リオルがほっとした顔で笑った。右腕のことも、ダグの〈追跡〉のことも解決していないが、自分の知らないところで進んでいた取引を止められたのは確かだった。
「お礼なら自分にも言えよ。ちゃんと自分で断っただろ」
「自分にお礼を言うの?」
「たまにはいいんじゃない?」
「じゃあ、お疲れ、俺」
リオルが左手で自分の肩を叩いたので、俺とリゼは吹き出した。
「……セインもですよ」
ひとしきり笑ったあと、リゼがそう言った。
「何が?」
「お疲れさまです。さっきのグレゴールさん、何を言っても平気そうな顔をしてたのに、セインが『保留じゃなくて取り下げて』って言った時だけ、少し嫌そうでした」
「そうだった?」
「はい。あれは見逃しませんでした」
リゼはなぜか得意そうだった。
「なら、少しは効いたのかな」
「きっと。……でも、あの人は怖いですね」
俺もそう思った。客の前で失敗を認めながら、それさえ信用に変えてしまったのだから、商売の腕前だけなら感心するしかない。
ただ、今日の結果が無意味だったとは思わない。
リオルが売らないと言ったことは、今度こそ客の前でも明らかになった。あいつと交渉する権利へ札を上げた人たちも、取引がなくなったことを知っている。
「それにしても、あの人、俺たちがここまで来るって分かってたみたいだな」
俺が言うと、リオルが頷いた。
「そうだろうな。俺たちに招待状を出したのも、何か理由があるんだと思う。まだ分からないけど、あの人の言うことだけ聞いて帰るのはやめよう」
「うん。見られるところは見ておきたいな」
リゼも頷き、俺たちは再び会場へ向かうことにした。
競売は何事もなかったように続いている。舞台では次の固有術の説明が始まり、客席の人々はもう〈均衡〉のことなど忘れたように冊子を開いていた。俺たちにとってあれほど大切だったことも、会場にいる大勢の客にとっては数ある出品の一つだったのだと思うと、何だか複雑だった。
その中で、一人の客が気になった。
少し前の席に座った男が、手元の札を置こうとして何度も取り落としている。隣の人に笑ってごまかしていたが、紙を拾う指先は細かく震えていた。
俺が視線を向けると、その男は慌てて両手を膝の下へ隠した。
「……セイン?」
リゼが呼んだ。
「うん。ちょっと、気になる人がいる」
男は舞台を見つめたまま、額の汗を拭っていた。
競売会はまだ終わっていない。
それに、俺たちが調べに来たのは、リオルのことだけではなかった。




