第七十話 グレゴール・ザント
「……思ってたのと違うな」
グレゴール・ザントが率いる商会の王都支店を前に、俺は思わずそう呟いた。
もっと怪しげな場所を想像していたのだ。薄暗い路地の奥にある建物で、入口には怖そうな男が立っていて、入ったら最後、何をされるか分からないような場所を。
ところが、実際に目の前にあるのは、王都でも一等地と呼ばれる大通りに面した、立派な石造りの建物だった。
磨き上げられた窓には高そうな商品が並び、入口では身なりのいい従業員が客を迎えている。荷物を運ぶ人間も、商談をする商人たちも、特に変わった様子はなかった。
「普通の商会ですね」
隣でリゼが言った。
「そうなんだよ。もっとこう、いかにも悪いことしてますって建物かと思った」
「そんな建物、逆に見つけやすいでしょう」
「それもそうか」
リゼは少し呆れたように笑った。
昨日、王宮の調査室でグレゴール・ザントという名前を聞いたあと、俺たちは商会について調べることにした。
もっとも、ムラサメからは勝手な捜査をするなと釘を刺されているので、今日は一般客も出入りできる相談窓口を見に来ただけだ。
リオルも一緒だった。
「……それにしても、随分儲かってるんだな」
リオルが建物を見上げる。
「こんなところに店を構えられるなんて、相当な商人だよ」
「知ってたの?」
「名前くらいはな。王都でも大きな取引をしてるって聞いたことあるし、商人の護衛を頼まれる時にも時々名前が出るんだ」
「だったら昨日教えてくれればよかったのに」
「俺だって、あの商会が固有術を売ってるなんて知らなかったんだよ」
リオルはそう答え、入口を見た。
右腕はまだ包帯で固定されているが、今日はいつもの軽口が少ない。
昨夜、商会がリオルの〈均衡〉について購入予約まで受け付けていたことを、俺たちはもう一度話し合った。本人の拒否は正式な調査記録に残したものの、それで絶対に安全になるわけではない。
リオルも、そのことは十分分かっているらしかった。
「セイン、入る前に一つだけ」
「何?」
「中で何か変なことがあっても、すぐに動くなよ」
少し意外だった。
「それ、俺が言おうと思ってたんだけど」
「お前、困ってる人を見ると先に口が出るだろ。今日は何を調べに来たのか忘れないようにしよう」
リオルは入口にいる従業員へ目を向けた。
「それに、ここは人が多い。揉め事になったら関係ない客まで巻き込むからな」
その声は、普段のリオルよりずっと落ち着いていた。
警護隊員として働いている時のこいつは、きっとこんな顔をしているのだろう。
「……分かった」
俺が頷くと、リオルは少し笑った。
「まあ、お前が何かやらかしたら止めるけど」
「その腕で?」
「口は怪我してないから」
なるほど。それなら十分厄介だ。
◇
商会の中は、外から見るよりさらに立派だった。
床には光沢のある石が敷き詰められ、天井からは細工の施された照明が下がっている。受付では数人の従業員が客の相談に応じており、その奥には商談用らしい部屋がいくつも並んでいた。
俺が驚いたのは、客の種類が思っていたより幅広かったことだ。
高価な服を着た商人もいれば、仕事帰りらしい職人もいる。年老いた夫婦が何やら書類を広げて相談している一方で、若い男が熱心に説明を聞いていた。
「固有術の相談はこちらでよろしいでしょうか?」
受付の女性が、にこやかに声をかけてきた。
「はい。少し話を聞いてみたくて」
「ありがとうございます。ご購入でしょうか、それとも査定をご希望ですか?」
あまりに自然な質問だったので、俺は一瞬返事に困った。
「……査定って、固有術のですか?」
「もちろんです」
女性は不思議そうに首を傾げた。
「お客様がお持ちの固有術を査定し、ご希望であれば売却のご相談も承っております。購入をご希望の場合は、用途に合わせてご案内いたします」
まるで靴でも買いに来た客へ話すような口調だった。
俺の実家でも、客の足の大きさを測ったり、仕事に合った靴を勧めたりしていたが、少なくとも本人の才能を売る相談まではしていなかったと思う。
「売る人も、結構いるんですか?」
「ええ。ご自身では十分に活用できない固有術を、必要とする方へお譲りになるお客様もいらっしゃいます」
「……そうなんですね」
「もちろん、無理にお勧めすることはございません。ご本人の意思を尊重しておりますので」
その言葉を聞いて、俺は少し引っかかった。
ダグは売らないと答えた。
リオルだって、昨日はっきり断っている。
それなのに、二人とも取引の対象になっていた。
ただ、受付の女性にそのことを言っても、すぐに答えが出るとは思えなかった。
「今日は少し見学だけでもいいですか?」
「もちろんです。奥の相談室では、実際の取引についてもご説明しております」
女性は丁寧に頭を下げた。
俺たちは礼を言い、案内された方へ進んだ。
「……本当に普通ですね」
リゼが小声で言う。
「普通だから怖いんだと思う」
俺がそう答えると、リゼは少しだけ真面目な顔になった。
ここに来ている客の全員が、誰かから固有術を奪おうとしているわけではない。
本当に必要な事情がある人もいるのだろう。
ただ、その普通の商売の中に、ダグから〈追跡〉を奪った人間が紛れているのかもしれない。
そう考えると、磨かれた床まで違って見えてきた。
◇
「ですから、もう一度説明してほしいんです!」
奥の廊下へ差しかかった時、少し離れた場所から女性の声が聞こえた。
見ると、質素な服を着た女性が、商会の従業員らしい男と話していた。
年齢は三十歳くらいだろうか。手には使い込まれた革の鞄を持ち、足元の靴は何度も修理を重ねているらしく、踵の革だけ色が違っている。
「お客様、その件につきましては先日もご説明したはずです」
「でも、こんなことになるなんて聞いていません」
「契約時に必要なご説明はしておりますので」
男は丁寧に答えているが、声には少し苛立ちが混じっていた。
女性は鞄から一枚の紙を取り出した。
「売ったことを後悔しているのは分かっています。でも、身体の調子が悪くなるなんて、誰も教えてくれなかったんです」
俺は足を止めた。
リゼも女性を見ている。
「……あの人」
「うん」
女性は何かを言いかけたが、急に身体をふらつかせた。
従業員が慌てて手を伸ばす。
「お客様、困ります。ほかのお客様もいらっしゃいますので」
「すみません。でも、もう一度だけ」
「お話は別室で」
男が女性の腕へ手を伸ばした時だった。
「ちょっと待ってください」
リオルが先に声をかけた。
女性と従業員が振り返る。
「何でしょうか?」
従業員が尋ねた。
「その人、具合が悪そうです。まず座らせてあげてもらえませんか?」
「こちらのお客様には、別室でお話を伺う予定ですので」
「それなら、歩けるかどうかを先に確認した方がいいですよ」
リオルは女性へ向き直った。
「大丈夫ですか? どこか痛みます?」
「……いえ、少し立ちくらみが」
「無理しない方がいいです。そこに椅子がありますから」
従業員が何か言いかけたが、リオルは落ち着いた様子で続けた。
「俺、警護隊員なんです。今は怪我で勤務を外れていますけど、具合の悪い人を無理に歩かせるのはよくないと思います」
男はリオルの制服と、固定された右腕を見た。
少し迷ったあと、近くの椅子を用意する。
女性は礼を言い、そこへ腰を下ろした。
「ありがとうございます」
「いえ。水ももらいましょうか」
「……お願いします」
リオルは従業員へ頼み、女性の様子を確かめていた。
右腕が使えないからといって、何もできないわけじゃない。
昨日ダグが言っていたことを思い出す。
こいつは、困っている人がいると放っておけない。
そのくせ自分が怪我をしていることには、妙に鈍いのだから困ったものだ。
「……リオル、格好いいですね」
リゼが小さく言った。
「そうだな」
「セインも見習った方がいいですよ」
「何を?」
「落ち着いて行動するところです」
「俺だって結構落ち着いてるだろ」
リゼは答えなかった。
せめて否定くらいしてほしかった。
◇
女性が少し落ち着いたところで、俺たちは話を聞かせてもらうことにした。
もちろん、無理に聞き出すつもりはないと伝えたが、女性の方から話してくれた。
「……私、自分の固有術を売ったんです」
女性は水の入った杯を両手で持ちながら、ゆっくり話し始めた。
家族の治療費が必要になり、どうしてもまとまった金が欲しかったという。
知人から固有術を買い取る商会があると聞き、最初は半信半疑で訪ねてきた。
「ちゃんと説明も受けたんです。売ったあとは使えなくなることも、元に戻せるとは限らないことも」
「それでも売ろうと思ったんですか?」
俺が尋ねると、女性は頷いた。
「はい。あの時は、それしか方法がないと思ったので」
女性は自分の手を見下ろした。
「お金は受け取りました。必要だった支払いにも使えましたから、嘘をつかれたわけじゃありません」
「でも、身体の調子が?」
「……ええ」
売った直後から、ひどい倦怠感に襲われるようになったという。
朝起きるのもつらく、仕事へ行っても長くは立っていられない。
医者に診てもらったものの、原因ははっきりしなかった。
「それで、商会に相談しに来たんです。でも、契約時に説明したことだからと」
女性は小さく笑った。
「売ると決めたのは私です。だから、今さらお金を返せとか、固有術を取り戻したいとか、そんなことを言うつもりはありません」
「……じゃあ、どうしたいんですか?」
俺が聞くと、女性は少しだけ顔を上げた。
「この身体が、いつか元気になるのか知りたいんです」
その言葉に、胸の奥が重くなった。
ラヴェルでティセラの六年間を調べていた時も、似たようなことを考えた。
何かを失った人間が、必ずしも元に戻すことだけを望んでいるわけじゃない。
失ったあとで、どうやって生きていけばいいのか。
それを知りたい人だっているのだ。
「……商会は、何て?」
「契約に問題はないと。それから、身体の不調については医者へ相談してほしいと言われました」
女性は少し俯いた。
「それは正しいのかもしれません。でも、売る前にはこんなふうになるなんて思っていなかったから」
リゼが隣で黙って聞いていた。
俺もすぐには答えられなかった。
女性は自分の意思で固有術を売った。
お金も受け取っている。
だから、ダグとは事情が違う。
でも、それで全部終わったことにしていいのだろうか。
「……もしよければ」
俺は声をかけた。
「契約書を見せてもらえませんか?」
女性が顔を上げる。
「契約書?」
「はい。俺たち、固有術の取引について調べているんです。何か分かるかもしれません」
女性は少し迷ったあと、鞄から一枚の紙を取り出した。
俺はそれを受け取り、内容を確認する。
そこには確かに、固有術を売却したことと、本人が同意したことが記されていた。
ただ、身体への影響について書かれているのは、わずかな文章だけだった。
『身体状態の変化については個人差があり、商会はその結果を保証しない』
それを見て、俺は少し眉を寄せた。
女性は嘘をつかれていないと言った。
でも、これだけで本当に、どんなことが起きるか分かったのだろうか。
「……セイン」
リオルが小さく呼んだ。
「何?」
「これ、本人が決めたから終わりって話じゃないよな」
「うん」
「俺たちには治せるか分からないけど、少なくとも何が起きたのかは調べられると思う」
リオルは女性を見た。
「もしよければ、警護隊や専門の研究者にも相談してみませんか? このまま一人で困ってるより、できることがあるかもしれません」
女性は少し驚いた顔をした。
「……いいんですか?」
「もちろんです。ただ、今すぐ何とかできるとは言えませんけど」
「それでも、十分です」
女性は頭を下げた。
俺はその様子を見ながら、リオルが今日ここに来てくれてよかったと思った。
あいつの右腕は、まだ治っていない。
でも、警護隊員として身につけてきたものは、ちゃんと残っている。
ダグにも、今のリオルを見せてやりたかった。
◇
「おや。何かお困りですかな?」
背後から、よく通る声が聞こえた。
振り返ると、立派な服を着た男が数人の従業員を連れて歩いてきていた。
年齢は俺の父親より少し上くらいだろうか。よく手入れされた髪に、指には大きな宝石のついた指輪。服も靴も明らかに上等なもので、近くにいた従業員たちが一斉に背筋を伸ばした。
「これはこれは、お客様」
男は女性へ目を向け、柔らかく微笑んだ。
「何やらご不満があるようですが、当商会の者が失礼をいたしましたかな?」
「……いえ、その」
女性が立ち上がろうとしたが、男は片手で制した。
「どうぞ、そのままで。お身体が優れないのでしょう?」
口調は穏やかだった。
ただ、不思議と周囲の空気が変わった気がした。
従業員たちは誰も喋らず、男が何を言うのか待っている。
「失礼ですが、あなたは?」
俺が尋ねると、男は少し驚いた顔をしたあと、楽しそうに笑った。
「おや、これは申し遅れました」
男は胸元へ手を当てた。
「グレゴール・ザントと申します。この商会を預かっている者です」
俺は思わずリゼと顔を見合わせた。
昨日、王宮で聞いたばかりの名前だった。
まさか、こんなに簡単に本人と会えるとは思っていなかった。
「……セイン・アルケットです。王立遺失物管理局の第七係で働いています」
「ほう、遺失物管理局の」
グレゴールは俺を見た。
「最近は大層ご活躍だと伺っておりますよ」
「俺のことを知ってるんですか?」
「商売をしておりますと、色々な方のお名前を耳にするものでして」
男は楽しそうに笑った。
ただ、どうして俺の名前を知っているのかは教えてくれなかった。
「それで、こちらの方は?」
グレゴールが女性へ目を向ける。
「以前、当商会へ固有術をお譲りいただいたお客様のようですね」
「……はい」
「何かご不満でも?」
女性は少し迷ったあと、身体の不調についてもう一度説明した。
グレゴールは途中で口を挟まず、最後まで話を聞いていた。
そして、ゆっくり頷く。
「なるほど。それはお困りでしょう」
女性の表情が少し明るくなった。
「では、何か調べていただけるのでしょうか?」
「もちろん、契約内容については確認いたしましょう」
グレゴールは従業員へ合図し、女性の契約書を受け取った。
しばらく目を通したあと、満足そうに頷く。
「問題はありませんな」
「……え?」
「必要な説明は行われておりますし、ご本人の署名もある。代金もお支払いしているようです」
グレゴールは女性へ紙を返した。
「商会としては、契約に従って適切に対応しております」
「でも、身体の調子が」
「その点につきましては、医師へご相談いただくのがよろしいでしょう」
先ほどの従業員と、ほとんど同じ答えだった。
女性は何か言おうとしたが、結局言葉を飲み込んだ。
俺は少し腹が立った。
「……一つ、聞いてもいいですか?」
「もちろんです、セインさん」
「この人は、固有術を売ったあとで身体の調子が悪くなったそうです。それは商会では調べないんですか?」
「調べることもございますよ。ただし、すべての体調不良が固有術の売却によるものとは限りませんので」
「でも、売る前には元気だったんですよね」
「それは、ご本人のお話によれば、ということになりますな」
グレゴールは穏やかに答えた。
確かに、言っていることは間違っていないのかもしれない。
ただ、どうにも納得できなかった。
「……じゃあ、売ったあとで困っても、本人が何とかするしかないんですか?」
「困ることもあるでしょう。しかし、どのような取引にも利益と不利益はございます」
グレゴールは指輪を軽く撫でた。
「大切なのは、ご本人が何を望み、何を対価として差し出すかです。我々は、その選択肢をご用意しているにすぎません」
その言葉を聞いて、俺は少し考えた。
本人が決めること。
それ自体は、俺も大切だと思っている。
ラヴェルで四十二人の記憶を調べた時だって、誰に何を返すかを俺だけで決めることはしなかった。
でも、目の前の女性が困っているのに、本人が選んだ結果だから仕方ないと片づけるのは、どうしても違う気がした。
「……俺も、本人が決めることは大事だと思います」
俺は言った。
「ただ、決めたあとで困った時に、何もできないっていうのは少し寂しいですね」
グレゴールが目を細めた。
「ほう」
「この人は、契約をなかったことにしてほしいとは言っていません。今、身体に何が起きているのかを知りたいだけなんです」
「なるほど。実にお優しい」
グレゴールは笑った。
「ですが、セインさん。商売とは、すべての方を幸せにするためのものではありません」
俺は顔を上げた。
「必要なものを必要な方へ届け、その対価をいただく。そこに価値を認めてくださる方がいる限り、商いは成立いたします」
グレゴールは女性を見た。
「この方も、必要なお金を手に入れたのでしょう?」
「……はい」
「そして、そのお金によって助かった方がいる。そうではありませんか?」
女性は小さく頷いた。
「でしたら、取引には十分な意味があったということです」
グレゴールは満足そうに笑った。
俺は何も言えなかった。
女性が必要なお金を手に入れたことは事実だ。
家族のために、自分で固有術を売ると決めたことも。
でも、そのあとで彼女が苦しんでいることも、同じくらい確かなはずだった。
グレゴールはどちらも知っている。
知っていて、何でもないことのように話している。
それが、どうにも嫌だった。
◇
「失礼します」
それまで黙っていたリオルが、一歩前へ出た。
「一つ、確認してもいいですか?」
「もちろん。あなたは?」
「王立警護隊のリオルです」
その名前を聞いた瞬間、グレゴールの目がわずかに動いた。
「……おや」
男はすぐに笑顔へ戻った。
「これは、珍しいお客様だ」
「俺のことを知ってるんですか?」
「ええ。優れた固有術をお持ちだとか」
リオルは笑わなかった。
「俺の〈均衡〉に、購入予約が入っているそうですね」
グレゴールは少しだけ首を傾げた。
「そのようなお話も耳にしております」
「昨日、王宮で売らないと伝えました。商会にも届いているはずです」
「ええ。報告は受けております」
「だったら、俺の固有術を誰かに渡す話は、もう進めないでください」
はっきりした声だった。
リオルは右腕を固定したまま、グレゴールから目を逸らさなかった。
「俺には、まだこの術でやりたい仕事があるんです」
グレゴールはしばらくリオルを見ていた。
「……なるほど」
それから、ゆっくり頷いた。
「ご本人がそうお望みなら、当然その意思は尊重されるべきでしょう」
「ありがとうございます」
「ただし」
グレゴールは指輪を光らせながら続けた。
「あなたの固有術を欲しがっている方がいることも、また事実です。随分と高い評価を受けておられるようですよ」
「そうですか」
「ご興味はありませんかな?」
「ありません」
リオルは即答した。
その返事があまりに早かったので、俺は少し笑いそうになった。
でも、グレゴールは笑わなかった。
「……惜しいことです」
「そうかもしれません。でも、俺はこれでいいんです」
リオルは自分の左手を見た。
「右腕が治ったら、また剣を握ります。警護隊の仕事も続けますし、困っている人がいたら助けたいですから」
それから、グレゴールを見る。
「そのために使う術なんです。俺にとっては」
静かな言い方だった。
でも、俺にはその言葉が妙に格好よく聞こえた。
普段はふざけてばかりいるくせに、こういう時のリオルは自分が何を大事にしているのか、ちゃんと分かっている。
グレゴールは少しだけ黙った。
「……なるほど。実に立派なお考えだ」
そう言って笑ったが、どこか楽しそうでもあった。
まるで、手に入らない商品を前にして、その価値を改めて確かめているような顔だった。
◇
「ところで、皆様」
グレゴールは話題を変えるように、従業員へ手を上げた。
一枚の上等な紙が運ばれてくる。
「もし固有術の取引にご興味がおありなら、近いうちに催される特別な集まりをご覧になってはいかがでしょう?」
「集まり?」
俺が聞く。
「ええ。固有術を必要とする方々が集まり、その価値について話し合う場です。普段は限られたお客様にしかご案内しておりませんが」
グレゴールは紙を差し出した。
「特別に、ご招待いたしましょう」
俺は受け取った。
そこには、日時と場所が記されていた。
そして、中央には大きく一つの言葉が書かれている。
『特別競売会』
「……競売?」
リゼが小さく呟いた。
「固有術を、競売にかけるんですか?」
「もちろん、適切な手続きを経たものだけですよ」
グレゴールはにこやかに答えた。
「才能の価値は、必要とする方によって変わります。同じ固有術でも、ある方には大した意味がなく、別の方にとっては人生を変えるほど重要なものかもしれません」
なるほど。
それ自体は、分かる気がした。
俺の〈返却〉だって、普段は地味な力だと言われることがある。でも、落とし物を本当に必要としている人にとっては、何より役に立つこともある。
ただ、その力を持つ人間の人生まで値段に含めていいのかは、別の話だと思う。
「……これ、俺たちが行ってもいいんですか?」
「ええ。ご興味がおありなら」
グレゴールは笑った。
「実際にご覧になれば、今までとは少し違った考えをお持ちになるかもしれませんよ」
その言葉に、俺は少し引っかかった。
まるで、俺たちがどういう考えを持っているのか、最初から知っているような言い方だったからだ。
でも、今はそれを聞かなかった。
「……ありがとうございます。少し考えてみます」
「ええ、ぜひ」
グレゴールは満足そうに頷いた。
そして、最後にリオルへ目を向ける。
「あなたも、いつか考えが変わるかもしれませんな」
「変わりませんよ」
リオルは笑った。
「俺、結構頑固なんです」
「……それは頼もしい」
グレゴールも笑う。
二人とも穏やかな顔をしていたが、俺には全然違う笑い方に見えた。
◇
商会を出ると、外はすっかり夕方になっていた。
大通りには帰りを急ぐ人々が行き交い、店先では夕食の買い物をする客たちの声が響いている。
俺は手にした招待状を、もう一度見た。
特別競売会。
固有術に値段をつけ、欲しい人間が金を出し合う。
そんなものが本当に開かれるらしい。
「……どうする?」
リオルが尋ねた。
「行ってみたいとは思うけど」
「俺も」
リオルは少し考えた。
「ただ、グレゴールの方から招待してきたのは気になるな」
「そうだよな」
「こっちが何を調べてるか、ある程度知ってるんだと思う」
俺は頷いた。
あの男は、俺の名前もリオルの名前も知っていた。
それに、こちらが取引の問題点を指摘しても、少しも慌てなかった。
きっと、商売のやり方を相当よく考えているのだろう。
「……ムラサメさんに相談しよう」
俺が言うと、リオルが頷いた。
「その方がいいな。勝手に行ったら怒られそうだし」
「それもあるけど」
「何?」
「俺たちだけで行っても、向こうの都合のいいものしか見せてもらえない気がする」
リオルは少し考えたあと、笑った。
「お前も結構分かってきたじゃん」
「何で上から目線なんだよ」
「警護隊の先輩として」
「俺、警護隊員じゃないけど」
「細かいなあ」
リゼが隣で笑った。
「でも、私は少し楽しみです」
「競売会が?」
「はい。もちろん、固有術を売るところを見たいわけじゃありませんよ」
リゼは俺の持つ招待状を指した。
「グレゴールさんが、あそこまで自信たっぷりなのが気になるんです。何を見せれば私たちの考えが変わると思っているんでしょうね」
「……確かに」
俺も同じことを考えていた。
あの男は、固有術を売ることが悪いとは思っていない。
むしろ、自分がしていることは立派な商売だと信じているようだった。
だからこそ、こちらの言葉が届かなかったのかもしれない。
「そういえば、セイン」
リゼが呼んだ。
「何?」
「さっきの女性、ティセラさんにも相談できるといいですね」
「うん。本人が望むなら、紹介してみようと思う」
「治るといいですね」
「……そうだな」
俺は頷いた。
固有術を売った人間と、買った人間。
その間にいる商人。
誰が何を望んでいたのか、どこまで納得していたのか。
ダグの事件を調べ始めてから、俺たちは色々な立場の人間に出会った。
でも、今日会った女性のことは、特に頭から離れなかった。
自分で売ると決めたのに、そのあとで苦しんでいる。
彼女が間違っていたと責めるのは簡単だ。
ただ、必要なお金を手に入れて家族を助けたことまで、間違いだったと言いたくはなかった。
だからこそ、グレゴールの言葉が気になった。
商売は、すべての人を幸せにするものではない。
確かにそうかもしれない。
でも、それを売った人間が困っている時に言うのは、どうなんだろう。
「……セイン?」
リゼが俺を覗き込んだ。
「また難しい顔してますよ」
「そう?」
「はい。今日だけでも三回くらいしてます」
「よく数えてるな」
「隣にいますから」
リゼは当たり前のように答えた。
その顔を見て、少し笑ってしまった。
「……いつもありがとうな」
「え?」
「いや、リゼが一緒にいてくれて助かってるなって」
リゼは一瞬、目を丸くした。
それから、少しだけ視線を逸らす。
「……急にそういうこと言わないでください」
「何で?」
「何でもです」
何だか怒られた。
でも、リゼは口元を隠しながら笑っていたので、本当に怒っているわけではなさそうだった。
俺もつられて笑う。
王都の夕暮れは、少し肌寒かった。
それでも、隣を歩くリゼと、前で何やら言い合っているリオルの姿を見ていると、少しだけ気持ちが軽くなった。
係長がいなくなった第七係へ戻ってきてから、俺はまだ色々なことを考えている。
あの人に聞きたいことも、許せないことも、山ほどある。
でも、今は一緒に仕事をしてくれる仲間がいる。
それが、思っていた以上にありがたかった。
俺は招待状を鞄へしまった。
グレゴール・ザント。
今日会ったあの男は、立派な商人だった。
話し方も丁寧で、客の扱いにも慣れていて、きっと普通の取引なら頼りになる人間なのだろう。
ただ、固有術を売った女性が苦しんでいると聞いた時でさえ、契約に問題はないと笑っていた。
あの笑顔を、俺はしばらく忘れられそうになかった。
そして数日後、その男が用意した競売会へ、俺たちは招かれている。
そこでは一体、誰の才能に、どんな値段がつけられているのだろう。
俺は歩きながら、鞄の中の招待状をもう一度確かめた。




