第六十八話 査定
「……俺って、そんなに高く売れるのかな」
リオルがそう言った時、俺は思わず隣を見た。
王国最強の剣士が立ち会う中、押収された帳簿から自分の名前が見つかったというのに、本人は妙に呑気な顔をしている。
ただ、左手だけは違った。
帳簿を押さえている指に力が入り、紙の端が少し曲がっていた。
「何言ってるんだよ」
「いや、ダグの〈追跡〉が八十万ルクだっただろ? 俺の〈均衡〉って、いくらくらいになるのかなって」
「気にするところ、そこ?」
「だって気になるじゃん」
リオルはそう言って笑ったが、すぐに目を伏せた。
「……まあ、笑えない話だけどさ」
ダグも何も言わなかった。
自分の固有術を失った男が、その隣で友人の固有術まで狙われていると知ったのだから、平気でいられるはずがない。
俺は改めて帳簿を覗き込んだ。
『査定予定』
『対象者:リオル』
『固有術:均衡』
そこに名前があること自体、十分気味が悪い。
だが、ムラサメが指したのは、その下にある小さな備考欄だった。
「ここを見ろ」
『右腕負傷。現在治療中』
「……え?」
リオルの表情が変わった。
俺も思わず、固定された右腕を見る。
「怪我のことまで知ってるのか?」
「みたいだね」
リオルは困ったように笑った。
「随分、親切な査定だな」
今度は誰も笑わなかった。
ラヴェルから戻ってきて、まだそれほど時間は経っていない。怪我をした経緯まで知られているかは分からないが、少なくとも誰かが最近のリオルについて調べているらしい。
「警護隊の人間なら、負傷したことくらいは知ってます?」
俺が尋ねると、ダグが頷いた。
「はい。ただ、リオルのように制服姿で街を歩いていれば、外からでも気づくと思います」
「じゃあ、内部の人間が情報を渡したとは限らないですね」
「そうですね」
ムラサメも頷いた。
「まだ決めつけるな。警護隊の記録が流れた可能性もあれば、本人を見張っていた可能性もある」
それからリオルへ向き直った。
「お前はしばらく単独行動を控えろ」
「……俺ですか?」
「ほかに誰がいる」
「いや、でも」
「右腕が折れているんだろう」
「折れてますけど、左腕は使えます」
「なら、左腕は大切にしろ」
あまりに当然のことを言われ、リオルが口を閉じた。
隣でダグが吹き出す。
「お前、王国最強の剣士にまで怒られてるじゃないか」
「怒られてないだろ。心配されてるだけだよ」
「大体同じだろ」
「全然違うって」
リオルは不満そうだったが、その顔には少しだけ普段の調子が戻っていた。
俺はほっとしながらも、帳簿の備考欄が気になって仕方なかった。
何者かが、俺たちの知らないところでリオルを調べている。
そして、本人の意思とは関係なく、その固有術を商品として扱おうとしているのだ。
◇
荷車の調査は、思っていた以上に時間がかかった。
木箱の中には普通の商品も混じっており、何が事件に関係するのか、兵士たちが一つずつ確認している。助け出された青年は医師の診察を受けるために別の建物へ運ばれ、荷車を走らせていた男たちは王宮の兵士に連行されていった。
その様子を見ていると、ふと気になったことがあった。
「ムラサメさん」
「何だ」
「この荷車を使っていた人たちは、どこの商人なんですか?」
「まだ確認中だ」
「帳簿には、何か書いていませんでした?」
「商会の名らしい記載はある。ただし、運んでいた人間の所属まで同じとは限らない」
なるほど。
確かに、商人が荷物を運ぶために別の運送業者を雇うこともある。荷車に乗っていた人間が、そのまま固有術を売買している本人だとは限らなかった。
「……随分大きな商売なんでしょうか」
リゼが言った。
「金額だけ見ても、普通の商売ではないだろうな」
ムラサメは帳簿を閉じた。
「それに、こうした取引を一度きりで終わらせるつもりなら、これほど細かい帳簿を作る必要はない」
その言葉を聞いて、背中が少し冷たくなった。
ダグ以外にも、固有術を奪われた人間がいるかもしれない。
リオル以外にも、これから狙われる人間がいるかもしれない。
帳簿には、まだ何人もの名前が並んでいた。
その全員に話を聞けるわけではないし、実際に固有術を失った人間がどれだけいるのかも分からない。
ただ、商人にとっては名前が一つ増えただけなのだろうと思うと、嫌な気分になった。
その時、通りの向こうで言い争う声が聞こえた。
「ですから、その荷は正式な商取引によるものです!」
振り返ると、立派な上着を着た男が兵士へ食い下がっていた。腰には飾りのついた革鞄を提げ、何枚もの書類を取り出している。
「王宮へも届け出をしています。何の理由もなく差し押さえられては困ります!」
「人が閉じ込められていた荷車です。調査が終わるまで動かせません」
「それは運送業者の問題でしょう! 我々の商会とは関係ありません!」
男はさらに何か言いかけたが、ムラサメが近づいてくるのを見ると、途端に口を閉じた。
「その書類を見せてもらおう」
「……あなたは?」
「ムラサメ・カナタだ」
男の顔色が変わった。
名前を聞いただけで反応が変わるのだから、やはり相当有名な人らしい。
ムラサメは差し出された書類に目を通し、しばらくしてから男へ返した。
「荷物の所有権については確認する。ただし、荷車に人間を閉じ込めて運んでいたことについては調査を続ける」
「で、ですが、我々は」
「ならば、関係がないと分かる資料を提出すればいい」
男は黙った。
ムラサメはそれ以上責めず、兵士へ調査を続けるよう指示を出した。
「……すごいですね」
リゼが小声で言った。
「剣を抜いてないのにな」
「そっちのすごさですか?」
「いや、何となく」
さっきの戦いを見たあとだと、どうしても刀へ目がいってしまう。
でも、あの人の怖さは剣だけではないのかもしれない。
王宮の名前を出して書類を持ち込まれても、慌てずに確認し、必要なことだけを判断している。
係長とはまた違った種類の、逆らいにくい人だった。
◇
「セイン、ちょっといい?」
リオルが俺を呼んだのは、ムラサメが兵士たちと話し始めた頃だった。
人の少ない壁際へ移動すると、リオルは右腕の包帯を見下ろした。
「俺さ、囮になった方が早いんじゃないかな」
「……何の?」
「俺の固有術を欲しがってる人間がいるんだろ? だったら、そいつが来るのを待てばいいじゃん」
思わず顔をしかめた。
「お前、さっきムラサメさんに一人で動くなって言われたばかりだろ」
「一人じゃなければいいんだろ?」
「そういう問題じゃない」
「でも、ダグの術を奪ったやつが捕まるかもしれないし」
リオルは俺を見る。
「俺、何もできないまま待ってるの嫌なんだよ」
その言い方に、ラヴェルでのことを思い出した。
係長の前へ立ったリオルは、あの時も仲間を守ろうとしていた。
結果として右腕を折られ、俺たちは誰一人、係長を止められなかった。
それが今も、リオルの中に残っているのだと思う。
「……気持ちは分かるけど」
俺は少し考えてから言った。
「お前が怪我をしてる今だからこそ、狙ってるのかもしれないだろ」
「そうかな」
「少なくとも、帳簿にはそう書いてあった」
リオルは黙った。
「それに、ダグがどう思うか考えた?」
「……ダグ?」
「自分の術をなくしたばかりなのに、今度は友達まで危険な目に遭ったら、嫌だろ」
リオルはしばらく俺を見ていた。
それから、困ったように笑った。
「……お前、最近そういうこと言うようになったよな」
「どういうこと?」
「前なら、一緒に飛び込んでたと思う」
「今でも必要なら行くけど」
「そこは変わらないんだな」
リオルが笑った。
俺もつられて笑う。
でも、言われたことは少し気になった。
以前の俺なら、失われたものを返す方法があると聞けば、危険でも先へ進もうとしていたかもしれない。
ただ、ラヴェルで四十二人の記憶を調べた時、ようやく分かったことがある。
俺が正しいと思うことと、相手が望むことは、必ずしも同じじゃない。
ダグの〈追跡〉は取り戻したい。
でも、そのためにリオルまで失うようなことはしたくなかった。
「とりあえず、囮になるならムラサメさんに相談してからだな」
「分かったよ」
「勝手に動くなよ」
「お前、本当にリゼみたいになってきたな」
「それ、昨日も言われた」
「じゃあ相当だよ」
全然褒められた気がしなかった。
◇
第七係へ戻る頃には、窓から差し込む光がすっかり傾いていた。
机には朝の報告書がそのまま残っていて、奥にある係長の椅子も、当然ながら空いたままだ。
出発前はその光景を見るたびに落ち着かなくなったが、今は少し違った。
誰かに報告しなければと考えるより先に、まず何を調べるべきかを考えている自分に気づいたからだ。
もちろん、慣れたわけではない。
係長が座っていた机を見ると、今でも腹が立つし、同じくらい懐かしくもなる。
ただ、あの人がいないからといって、仕事を止めるわけにはいかなかった。
「……リオルが査定対象?」
ティセラが声を上げた。
俺たちの話を聞き終えた彼女は、眼鏡を押し上げてからリオルを見る。
「ちょっと、右腕を見せて」
「え? 何で?」
「いいから」
リオルは大人しく包帯を見せた。
ティセラは固定具がずれていないか確かめ、少しだけ安心したように息を吐いた。
「無理してないでしょうね」
「してないよ」
「本当に?」
「……ちょっと走ったくらい」
「リオル」
「走ってない! ほとんど歩いてた!」
ダグが横で笑っている。
「お前、昔から嘘が下手だよな」
「お前まで言うなよ」
ティセラは呆れた顔をしたが、それ以上は責めなかった。
「とにかく、今は身体を治すことが先よ。固有術を狙われているなら、なおさら無理をしないで」
「分かってるって」
リオルが答える。
その隣で、エルセが王宮から持ち帰ることを許された記録の写しを見つめていた。
「……この書式、気になります」
「何か知ってる?」
俺が尋ねると、エルセは首を振った。
「同じものを見たことはありません。ただ、保全物の移送記録に似た項目があるんです」
「保全院の?」
「はい。受領者、移送予定、保管状態。それぞれを分けて記録するところが似ています」
エルセはしばらく紙を見つめた。
「もちろん、それだけで保全院が関わっているとは言えません。でも、人間の固有術をこうして管理すること自体、私には気になるところがあります」
「……そうだな」
「以前の私なら、書類が整っていれば、それを確認するだけで終わっていたかもしれません」
彼女は俺を見る。
「ですが、今は違います。少なくとも、元の持ち主が何を望んでいるのかは確かめたいです」
俺は頷いた。
エルセがそう言ってくれることが、少し嬉しかった。
保全院で働く彼女には、簡単に割り切れない事情もあるはずだ。
係長の正体が明らかになった今なら、なおさらだろう。
「セヴァンのことも、まだ分からないままですしね」
エルセが小さく言った。
その名前を聞いて、俺は顔を上げた。
ラヴェルで係長に連れていかれたセヴァンは、まだ俺たちのところへ戻ってきていない。
無事でいるのか、どんな仕事をさせられているのかさえ分からなかった。
「……あいつも、早く戻ってくるといいな」
俺が言うと、エルセは静かに頷いた。
「はい」
それ以上、誰も喋らなかった。
窓の外から、王都の夕暮れを知らせる鐘が聞こえてくる。
ラヴェルを出発する前には当たり前だった音だ。
でも、あの時とは随分違う場所へ帰ってきたような気がした。
◇
「セイン、ちょっと」
ティセラが呼んだ。
机の上には、ダグの査定書と、購入者の青年が持っていた契約書の写しが並んでいる。
「この二枚、もう一回見て」
「何か見つかった?」
「まだ分からないけど、気になることがあるの」
ティセラは二枚の書類を指差した。
ダグの査定額は八十万ルク。
青年が支払った金額は二百四十万ルク。
同じ固有術の名前が書かれているが、それが実際に同一の力なのかはまだ確認できていない。
「こっちには原保持者の同意を確認したと書いてあるでしょう?」
「うん」
「でも、本人の署名はないのよ」
「……本当だ」
俺は青年の契約書を見直した。
確かに、同意確認済という文字はある。
ただ、それを誰が、どうやって確認したのかは書かれていない。
「こういうのって、普通なんですか?」
リゼが尋ねた。
「少なくとも研究の契約なら、これだけでは本人の意思を確かめたことにならないわ」
ティセラは紙を置いた。
「それに、これを作った人間は、元の持ち主と購入者を別々に管理しているみたいね」
「どういうこと?」
「買う側には、誰から譲ってもらうのか教えていない。売る側にも、誰が買うのかを知らせていないでしょう?」
俺はダグを見る。
ダグも頷いた。
「はい。俺が話した商人も、買い手については何も言いませんでした」
「つまり、間にいる商人だけが両方の情報を持っているのよ」
なるほど。
それなら、青年がダグの名前を知らなかったことにも説明がつく。
青年は、誰かが自分の意思で固有術を売ったのだと思っていた。
一方のダグは、そもそも売ることを拒否していた。
その間にいた商人が、どちらにも本当のことを話していなかったのなら。
「……ひどい話ですね」
リゼが言った。
俺も同感だった。
ただ、それだけではまだ、何をどう証明すればいいのか分からない。
ダグの固有術が本当に身体から取り出されたのか。
青年が受け取ったという〈追跡〉が、それと同じものなのか。
そして、誰が取引を取り仕切っているのか。
どれも、答えを出すには証拠が足りなかった。
「セイン」
ティセラが言った。
「私、こっちの記録も調べたいわ」
「ラヴェルの資料?」
「ええ。あの古い搬出記録と、今回の書類に共通点があるかもしれないから」
「でも、無理しないでよ」
「分かってるわよ」
「ちゃんと寝て」
「……あなた、本当に最近うるさいわね」
ティセラが少し呆れたように笑った。
俺も笑ったが、彼女の手元にある手帳を見ると、六年間のことが気になった。
ティセラはまだ、その時間を取り戻していない。
自分が書いた研究記録を読んでも、書いた当時のことを思い出せないままだ。
それでも、今の彼女は自分の意思で調べることを選んでいる。
だから俺も、できるだけその選択を大切にしたかった。
◇
夕方、王宮から使者が来た。
ムラサメの指示で、押収した帳簿の追加情報を伝えに来たという。
使者は一通の封書を差し出した。
「ムラサメ様からです。至急確認していただきたいとのことでした」
俺は礼を言って受け取った。
封書には王宮の印が押されている。
開くと、中には帳簿から写し取った一枚の記録が入っていた。
「……これ」
俺は思わず声を漏らした。
リオルが隣から覗き込む。
「何?」
「お前の名前だ」
書かれていたのは、昼間に見た査定予定者の一覧とは別のものだった。
『購入予約記録』
『固有術:均衡』
『原保持者:リオル』
リオルの顔から笑みが消えた。
俺も続きを読んだ。
『予約金:受領済』
『引渡状況:未完了』
しばらく、何を意味しているのか分からなかった。
「……予約金?」
リオルが呟いた。
「俺、まだ誰とも話してないんだけど」
その通りだった。
ダグは少なくとも、固有術を売ってほしいという商人からの申し出を受けている。
でも、リオルはそんな話を持ちかけられてさえいない。
それなのに、誰かが〈均衡〉を買うための金を払っているらしい。
「……おかしくない?」
リオルが俺を見る。
「俺、売るなんて一度も言ってないよ」
「うん」
「買いたいって言われてもいないし、契約書だって見たことない」
「分かってる」
リオルは紙を見つめた。
「じゃあ、何で金が払われてるんだよ」
誰も答えられなかった。
リゼがゆっくり口を開く。
「買う人が、もう決まってるってことですよね」
「……そうなるな」
俺は頷いた。
予約という言葉が、急に恐ろしく感じられた。
買い手は、まだ手に入れていない固有術のために金を払っている。
そして売り手とされているリオルは、そんな取引が存在することさえ知らなかった。
「セイン」
リオルが言った。
「俺、ちょっと怖くなってきた」
いつものように笑ってごまかすこともなく、そう言った。
俺はリオルを見た。
右腕には、まだ包帯が巻かれている。
あの人と戦った時、こいつがどれほど無茶をしたかは知っている。
だからこそ、今度は同じような目に遭わせたくなかった。
「……一人で動くなよ」
俺が言うと、リオルは小さく頷いた。
「分かってる」
それから少しだけ笑った。
「でもさ、俺の術を勝手に予約するくらいなら、先に本人へ聞いてほしかったよな」
「聞いたら断るだろ」
「当たり前じゃん」
リオルはそう言って、包帯の巻かれた右腕を見下ろした。
「俺、まだこの術でやりたいことあるし」
その言葉を聞いて、少しだけ安心した。
リオルが何を大切にしているのか、俺は知っている。
剣を握り、仲間を守り、困っている人間がいれば真っ先に走っていく。
〈均衡〉は、そのためにずっと使ってきた力だった。
それを勝手に買おうとしている人間がいる。
しかも、本人が何も知らないうちに金まで受け取っている商人がいるらしい。
俺は手元の紙を見た。
ダグの査定書には八十万ルクと書かれていた。
その〈追跡〉はすでに搬出済とされ、別の人間が買ったという書類まで存在している。
今度はリオルの〈均衡〉だ。
まだ本人は使えているし、売るつもりもない。
それなのに、取引だけが先へ進んでいる。
俺は机の上へ記録を置き、リオルへ向き直った。
「明日、もう一度ムラサメさんに話を聞こう」
「うん」
「買った人間が誰なのか、調べられるかもしれない」
「そうだな」
リオルは頷いた。
その顔には、まだ不安が残っていた。
俺も同じだった。
でも、怖いからといって何もしなければ、相手の思うとおりになってしまう気がした。
俺たちが知らないところで、勝手に値段をつけられている。
しかも、本人が断るより先に売買の話が進んでいるのだ。
誰かがリオルの〈均衡〉を欲しがっている。
それは分かった。
ただ、一つだけ確かなことがある。
リオルはまだ、自分の固有術を売っていない。
なのに帳簿の向こうでは、もう買い手が金を払っていた。




