第六十七話 売った人、買った人
「……〈追跡〉です」
青年がそう答えた瞬間、隣にいたダグが息を呑んだ。
俺も、思わず青年の右手を見てしまった。
「今、何と?」
ダグが聞き返す。
「〈追跡〉という固有術を買いました。そう説明されたんです」
青年の声は震えていた。
右手の指先も、相変わらず細かく震えている。
リオルが一歩前へ出た。
「それ、ダグの術じゃないのか?」
「待って、リオル」
俺は慌てて止めた。
「同じ名前だからって、同じ固有術とは限らないだろ」
「でも、こんな偶然あるか?」
「だから確かめるんだよ」
リオルは何か言いかけたが、ダグの顔を見て口を閉じた。
ダグは青年を見つめたまま、何も言わなかった。
今朝、第七係で自分の固有術を返してほしいと頼んできた男が、その固有術を買ったという人間と向き合っている。
何を言えばいいのか、俺にも分からなかった。
「まずは座らせてやれ」
ムラサメが言った。
青年は先ほど荷車から助け出されたばかりだ。顔色はまだ悪く、立っているだけでもつらそうだった。
兵士が椅子を運び、近くの倉庫から水を持ってくる。
「医師が来るまで無理はさせるな。それから、この男は今のところ犯罪者と決まったわけではない」
ムラサメは兵士たちに指示を出した。
俺は少し意外だった。
さっきまで四人の男をあっという間に倒していた人とは思えないくらい、声が穏やかだったからだ。
「セイン・アルケット」
「はい」
「この男の話を聞く。お前たちも事情を知っているなら、一緒にいてくれ」
「いいんですか?」
「関係者を何度も呼び直すより早い」
随分合理的な人らしい。
もっとも、王国最強の剣士に呼ばれて断れる人間も、そうはいないと思う。
◇
「お名前を聞いてもいいですか?」
俺が尋ねると、青年は少し迷った。
「……名前を言ったら、捕まりますか?」
「それは俺には決められません。でも、何があったのかを知りたいんです」
青年は俯いた。
ムラサメが隣から口を開く。
「名前はあとでいい。まず、なぜ固有術を買ったのか聞かせろ」
青年はしばらく黙っていた。
それから、小さく答えた。
「兄を捜したかったんです」
「お兄さん?」
リゼが聞く。
青年は頷いた。
「半年前、仕事で王都を出たまま帰ってこなくなりました。警護隊にも相談したんですが、手がかりがなくて」
俺はダグを見た。
人を捜すための固有術。
それを持っていた本人が、今は使えなくなっている。
「捜索は続いているんですか?」
「いえ。今は新しい情報がない限り、これ以上は難しいと言われています」
青年は膝の上で手を握った。
「だから、自分で捜そうと思ったんです。でも、俺には人を見つける力なんてありません。何を調べればいいのかも分からなくて」
その時、固有術を売るという話を聞いたらしい。
最初は信じなかった。
しかし、説明を聞くうちに、もしかしたら兄を見つけられるかもしれないと思ったという。
「本当に固有術を買えるんですか?」
俺が尋ねた。
「そう言われました。すでに使わなくなった人から、正式に譲ってもらうんだって」
「正式に?」
「はい。売る人もお金を受け取れるし、買う人も必要な能力を手に入れられるから、誰も損をしない取引だと説明されました」
ダグが小さく息を吐いた。
俺も嫌な感じがした。
誰も損をしない。
確かに、本人が納得しているなら、そういう考え方もあるのかもしれない。
でも、今ここにいるダグは、自分の固有術を売らないと答えたはずだった。
「その売り手とは会ったんですか?」
俺が聞く。
「いいえ」
「名前は?」
「教えてもらっていません」
「それで、本人が納得していると思ったんですか?」
青年は答えなかった。
しばらくしてから、ぽつりと言った。
「……思おうとしました」
俺は顔を上げた。
「本当は、少し気になったんです。でも、相手がきちんとした商人みたいだったし、契約書もありました。それに、これを逃したら兄を見つけられない気がして」
青年は自分の手を見た。
「だから、詳しく聞かなかったんです」
リゼも何も言わなかった。
青年は嘘をついているようには見えない。
でも、知らなかったから何も悪くないと、簡単に言っていい話でもなかった。
「いくら払ったんですか?」
俺が聞くと、青年は少しだけ顔を上げた。
「二百四十万ルクです」
「……え?」
思わず聞き返した。
ダグに渡された査定書には、八十万ルクと書かれていた。
その三倍だ。
「そんな大金、よく払えましたね」
リゼが驚いたように言う。
「父が残したお金と、俺が今まで貯めてきた分を全部使いました。それでも足りなくて、借金もしました」
青年は少し笑おうとした。
「兄が帰ってくるなら、安いと思ったんです」
その言葉を聞いて、俺は何も言えなくなった。
誰かを取り戻したいという気持ちは、分かる。
でも、そのために別の誰かから大切なものを奪っていいわけじゃない。
青年自身も、そのことに気づき始めているようだった。
◇
「固有術を受け取った時のことを聞かせてもらえますか?」
俺が尋ねると、青年は頷いた。
契約を終えたあと、指定された建物へ案内されたという。
そこで何らかの処置を受けたらしいが、青年には詳しい方法が分からなかった。
「気づいた時には、この手が震えていました」
右手を持ち上げる。
「固有術は使えたんですか?」
「……分かりません」
「分からない?」
「何度も試したんです。でも、うまくいかなくて。説明では、受け取った直後は慣れるまで時間がかかることもあると言われました」
青年は唇を噛んだ。
「ただ、それから身体の調子が悪くなってしまって」
今朝になって別の施設へ移すと言われ、荷車へ乗せられた。
最初は検査のためだと思っていたが、途中で荷台の内側から扉を開けられなくなっていることに気づいたという。
「外から鍵を掛けられていたんです。何度呼んでも、誰も答えてくれなくて」
だから、荷車が止まった時に助けを求めた。
そういうことらしい。
「それで、あの音がしたんですね」
俺がダグを見ると、ダグは頷いた。
「はい。荷台から叩くような音が聞こえたので」
「よく気づきましたね」
「警護隊の仕事をしていれば、ああいう音は気になりますよ」
ダグはそう答えたあと、少し困った顔をした。
「……固有術がなくても、気づくことはあるんですね」
俺は何と答えようか迷った。
でも、リオルの方が先だった。
「当たり前だろ。お前、今まで何年警護隊やってきたと思ってるんだよ」
「それはそうだけど」
「術がなくなったくらいで、今まで覚えたことまで忘れるなよ」
ダグは少し驚いた顔をした。
それから、苦笑する。
「……お前に言われるとは思わなかった」
「何でだよ」
「昔から、頭使うのは俺の役目だったから」
「失礼だな。俺だって結構考えてるぞ」
「考える前に走るだろ」
「……否定できない」
俺とリゼは顔を見合わせた。
こんな状況でも、二人は昔からの調子で話せるらしい。
ただ、ダグの表情が少しだけ柔らかくなったのを見て、俺は安心した。
◇
「契約書は残っているか?」
ムラサメが青年へ尋ねた。
「はい。鞄に入っています」
兵士が荷車から回収した荷物を持ってきた。
中から取り出されたのは、細い罫線の入った書類だった。
俺はそれを見て、すぐに気づいた。
「……同じだ」
「何がです?」
リゼが覗き込む。
「ダグさんに渡された査定書と、書式が似てる」
鞄から二枚の紙を取り出し、机へ並べる。
文字の並べ方も、紙の端にある細い飾りも、ほとんど同じだった。
青年の書類には、購入した固有術の名前が記されている。
『固有術:追跡』
その下には、支払額が書かれていた。
『購入額:二百四十万ルク』
そして、もう一つ。
『原保持者同意:確認済』
俺はその文字で手を止めた。
「……確認済?」
リゼが読み上げる。
「でも、誰が確認したんでしょう」
俺も同じことを考えていた。
「ダグさん」
「はい」
「固有術を譲るための書類に、署名した覚えはありますか?」
「ありません」
返事は早かった。
「そもそも、売らないと答えましたから」
「ですよね」
俺は書類を見直した。
確認済と書かれているだけで、元の持ち主の署名はなかった。
誰が本人へ説明し、どうやって承諾を得たのかも分からない。
「これで正式な取引って言えるんでしょうか」
リゼが小さく呟いた。
「少なくとも、ダグさんが納得していないことは確かだな」
俺が答えると、青年が顔を伏せた。
「……すみません」
ダグは何も言わなかった。
「俺、本当に知らなくて」
「知らなかったのは分かりました」
ダグが静かに言った。
青年が顔を上げる。
「でも、俺は売らないと言ったんです。そこだけは、分かってください」
「……はい」
「あなたがお兄さんを捜したかったのも、分かります。でも、俺だってこれからも人を捜したかったんですよ」
青年の表情が歪んだ。
しばらく何も言わなかったが、やがて小さく頷いた。
「……本当に、すみませんでした」
ダグは返事をしなかった。
俺も、それでよかったと思う。
謝られたからといって、今すぐ許せるわけじゃない。
それに、ダグが失ったものは、まだ戻っていないのだから。
「一つ、確認させてください」
俺は青年へ向き直った。
「買った固有術が、ダグさんのものだと説明されたんですか?」
「いいえ。名前も教えてもらえませんでした」
「じゃあ、まだ同じ術だと決まったわけじゃないですね」
「……そうなります」
俺は二枚の書類を見る。
同じ名前の固有術。
似た書式。
そして、ダグが襲われた夜に行われたという処置。
偶然だとは思いにくい。
でも、決めつけるにはまだ足りなかった。
「セイン・アルケット」
ムラサメが呼んだ。
「はい」
「その考え方は悪くない。疑わしいものと、証明できたものは分けておけ」
俺は少し驚いた。
「……ありがとうございます」
「ただし、疑っている間に逃げられることもある」
ムラサメは兵士たちへ目を向けた。
「荷車の荷物をすべて調べろ。書類は一枚も捨てるな」
兵士たちが一斉に動き始めた。
俺はその様子を見ながら、少しだけ係長のことを思い出した。
あの人も時々、似たようなことを言っていた。
分からないなら、分からないまま調べろ。
勝手に答えを作るな。
嫌になるくらい、正しいことを教わっていたらしい。
だから余計に、あの人のやったことが腹立たしかった。
◇
青年が医師の診察を受けるために運ばれていったあと、ダグが俺へ近づいてきた。
「セインさん」
「はい」
「さっきは、ありがとうございました」
「俺、何かしました?」
「話を最後まで聞いてくれたので」
ダグは少し笑った。
「正直、あの人が〈追跡〉を買ったと聞いた時は、殴ってやりたくなりました」
「……そうですよね」
「でも、あの人にも事情があったんですね」
ダグは青年が運ばれていった方を見る。
「だからって、納得できるわけじゃないですけど」
「無理に納得する必要はないと思います」
俺がそう言うと、ダグは少し驚いた顔をした。
「……返却士なのに?」
「返す仕事をしてるからこそ、そう思います」
俺は答えた。
「ラヴェルで、そういうことをたくさん考えたんです」
ユレン・カレルのことを思い出した。
四十二人の記憶をどうするか、一人ずつ話を聞いて決めた。
返してほしいと望む人もいれば、今のままでいいと答える人もいた。
ティセラの六年間だって、まだ返せていない。
でも、今は本人が望む方法を一緒に探すことになっている。
「だから、ダグさんがどうしたいかを一番大事にしたいんです」
ダグはしばらく黙っていた。
それから、小さく頷いた。
「……俺は取り戻したいです」
「はい」
「それだけは、変わりません」
「分かりました」
ダグは少し笑った。
「あと、あの人のお兄さんも見つかるといいですね」
俺は思わず顔を上げた。
「ダグさんがそれを言うんですか?」
「警護隊員ですから」
ダグは当たり前のように答えた。
「許したわけじゃありません。でも、あの人のお兄さんがいなくなったことと、俺の術がなくなったことは別の話でしょう」
俺は少しだけ笑ってしまった。
「……リオルが自慢するわけですね」
「何か言ってました?」
「結構すごいやつだって」
ダグは驚いた顔をした。
それから少し照れたように笑う。
「あいつ、余計なことばっかり言うんですよ」
少し離れたところで兵士と話していたリオルが、こちらを振り返った。
「何? 俺の話?」
「何でもないよ」
ダグが答える。
「絶対何か言っただろ」
「気にするなって」
リオルは不満そうだったが、俺たちは笑ってしまった。
固有術をなくしても、ダグはダグのままだ。
もちろん、だから失ってもいいということにはならない。
ただ、そのことを本人にも少しずつ思い出してほしかった。
◇
「セイン!」
リゼが呼んだ。
荷車のそばで、兵士たちが何かを見つけたらしい。
近づくと、小さな木箱が開けられていた。
中には帳簿が何冊も収められている。
「これ、さっきの契約書と同じ印がついてます」
リゼが一冊を指した。
確かに、表紙の端に同じ紋様が押されていた。
ムラサメが兵士から帳簿を受け取る。
「取引の記録か」
「そのようです」
兵士が答えた。
開かれたページには、日付と金額が並んでいた。
名前が書かれている欄もある。
俺はその中の一つを見つけた。
『ダグ・ハーラン』
隣には、固有術の名前。
『追跡』
その下に八十万ルクと記されていた。
「……これ」
俺が指差すと、ダグが顔を近づけた。
「俺の名前ですね」
「うん」
さらに別の欄には、二百四十万ルクという金額があった。
青年の契約書と同じだ。
ムラサメが眉を寄せる。
「仕入れと販売を分けて記録しているのか」
「……仕入れ?」
俺は思わず聞き返した。
「少なくとも、帳簿の上ではそう扱っているらしい」
ムラサメは別のページをめくった。
俺は言葉を失った。
ダグの名前が、普通の商品のように書かれていたからだ。
しかも、買った金額と売った金額まで分けられている。
ダグがこれまで何人を捜してきたのかも、どれほど自分の術を大事にしていたのかも、そこには書かれていない。
ただ、八十万ルクで仕入れ、二百四十万ルクで売ったという記録だけが残されていた。
「……随分、ひどい商売ですね」
リゼが言った。
「そうだな」
俺は頷いた。
ムラサメは帳簿を閉じかけたが、途中で手を止めた。
「まだ続きがある」
ページをめくる。
今度は、取引が終わっていないものをまとめた欄らしい。
『査定予定』
その下に、いくつかの名前と固有術が並んでいる。
「……何だよ、これ」
リオルが呟いた。
俺も同じところを見ていた。
そこには、見覚えのある名前があった。
『リオル』
その横。
『固有術:均衡』
俺は思わず顔を上げた。
リオルも、帳簿を見つめたまま動かなかった。
「……俺?」
声が少し上ずっていた。
「何で俺の名前があるんだよ」
ムラサメが帳簿を手元へ引き寄せる。
「お前の固有術か?」
「……はい」
リオルは頷いた。
「でも、俺はこんな査定なんか頼んでません」
「そうか」
ムラサメは静かに答えた。
それから、兵士へ指示を出す。
「この帳簿は王宮へ運べ。他の記録もすべて押さえろ」
兵士たちが動き始める。
俺はリオルを見た。
右腕には、まだ包帯が巻かれている。
係長との戦いで負った傷だ。
ようやく王都へ戻ってきたばかりなのに、今度は固有術まで狙われているかもしれない。
「……セイン」
リオルが呼んだ。
「何?」
「俺、何かしたっけ」
「してないだろ」
「だよな」
リオルは少し困ったように笑った。
「最近、ろくなことないな」
俺も笑おうとした。
でも、うまくいかなかった。
ダグの〈追跡〉を買おうとした人間がいる。
本人が断ったあと、固有術を使えなくなる事件が起きた。
そして今度は、リオルの〈均衡〉にまで値段をつけようとしている人間がいるらしい。
俺は帳簿を見た。
査定予定。
たった四文字で、人間の固有術が並べられている。
その中には、リオルの名前まであった。
でも、俺は知っている。
こいつがどれだけ仲間を大事にするか。
怪我をしても友達のために走ってくることも、困っている人間を見つければ放っておけないことも。
〈均衡〉が便利な術なのは確かだ。
でも、リオルの価値がそれだけで決まるわけじゃない。
「リオル」
「何?」
「しばらく、一人で動くなよ」
俺が言うと、リオルは少し驚いた顔をした。
「お前、俺のこと心配してる?」
「当たり前だろ」
「……そっか」
リオルは小さく笑った。
「ありがとな」
その顔を見て、俺は少しだけ安心した。
でも、帳簿に書かれた文字は消えない。
ダグに起きたことが、次はリオルに起きるかもしれない。
その可能性を考えた途端、昨日まで他人事だった固有術の売買が、急に目の前の問題になった気がした。
俺はもう一度、帳簿を見た。
誰がこんなものを作ったのか。
どんなつもりで人間の才能に値段をつけているのか。
そして、どこまで売り買いするつもりなのか。
分からないことはいくらでもある。
ただ、少なくとも一つだけは決めた。
ダグの〈追跡〉も。
リオルの〈均衡〉も。
本人が望まない限り、誰かの商品にさせるつもりはなかった。




