第六十六話 剣が届く距離
王国最強の剣士が動いたと聞いても、俺にはいまいち実感が湧かなかった。
そもそも、そんな人間がいるなら最初から難しい事件を全部任せればいいんじゃないかと思う。もちろん、世の中には剣で解決できない問題の方が多いことくらい、俺だって知っている。
ただ、リオルがあそこまで驚いていたのは気になった。
「そんなにすごい人なのか?」
「すごいなんてもんじゃないよ。俺らが子供の頃から、王国で一番強いって言われてるんだから」
「実際に戦ってるところ、見たことある?」
「ない」
「ないのかよ」
「当たり前だろ。そんな簡単に見られる人じゃないんだよ」
リオルは少し不満そうだった。
右腕を固定したまま、器用に左手で制服の襟を直している。
「俺、一度は会ってみたかったんだよな」
「じゃあ、今日は運がいいかもしれないですね」
リゼが言うと、リオルは首を振った。
「いや、そうとも限らないよ。あの人が出てくるような事件って、相当まずいことになってるはずだから」
その言葉を聞いて、俺は隣を歩くダグを見た。
ダグは自分の右手を見つめていたが、視線に気づくと少し笑った。
「俺もまさか、自分の事件でそんな人が動くとは思いませんでした」
「まだ関係があると決まったわけじゃありませんけどね」
「そうですね。でも、何か分かるならありがたいです」
ダグはそう言ってから、少し考え込んだ。
「……俺の〈追跡〉、そんな大事件になるような術だったんですかね」
俺はすぐには答えられなかった。
本人にとって大切なものだったことは、もう分かっている。
ただ、それを欲しがった人間がなぜ八十万ルクという値段をつけたのかは、まだ分からないままだった。
◇
警護隊の詰所へ着くと、リオルの同期が昨日の記録を持ってきてくれた。
「王宮から連絡があってさ。現場には近づくなって言われてる」
「それは聞いたよ。通報した人間については?」
「そこが妙なんだ」
男は記録を机へ広げた。
昨夜の捜索要請には、行方不明者の特徴や荷車の発見場所が記されていた。ところが、通報者の名前は原本にもなく、連絡先の欄まで空白になっている。
「受付の人は覚えてないの?」
リオルが尋ねる。
「直接話したわけじゃないらしい。依頼書が届いて、内容を確認してから隊員を派遣したんだ」
「誰が届けたかは?」
「それも調べてる」
俺は記録を覗き込んだ。
「普通、名前がない依頼でも捜索するんですか?」
「人命に関わるなら、まず確認に動くことはあるよ。ただ、今回は妙に手続きが早かった」
「早かった?」
「ああ。依頼を受けてからダグが出発するまで、ほとんど待ち時間がなかった」
リゼが紙の一箇所を指した。
「しかも、〈追跡〉を使える隊員が指定されていたんですよね」
「そうなんだ」
男が頷く。
「誰が担当を決めたのかも、まだ確認できてない」
ダグは黙って聞いていた。
俺は昨日の査定書を思い出す。
三日前に固有術を売ってほしいと頼まれ、その後、能力を指定した捜索要請で倉庫街へ呼び出されている。
偶然かもしれない。
でも、もし最初からダグを狙っていたのなら、随分手の込んだことをするものだ。
「荷車はどうなったんですか?」
俺が聞いた。
「それが、見つかってないんだ」
「え?」
「昨日、現場に残っていたはずの荷車だよ。朝になって確認しようとしたら、なくなってた」
リオルが眉を寄せた。
「誰かが運んだってこと?」
「そう考えるしかない。でも、警護隊が回収した記録は残ってないんだ」
俺たちは顔を見合わせた。
昨日の事件に関係する荷車が、何者かによって持ち去られている。
その行き先も分からない。
「……ダグさん」
俺が声をかけると、ダグは頷いた。
「はい。俺も現場を見たいです」
リオルが立ち上がった。
「よし、行こう」
「お前はその腕で何するつもりなんだよ」
「歩くって言ってるだろ」
「分かってるけど、無茶するなよ」
ダグがそう言うと、リオルは少し驚いた顔をした。
「お前に言われるの、何か変な感じだな」
「俺だって心配くらいするよ」
そのやり取りを聞いて、少し安心した。
固有術をなくしたことは、ダグにとって間違いなく大きな出来事だ。
でも、だからといって、今まで築いてきた友達との関係までなくなるわけじゃない。
それは、俺たちも同じだった。
◇
倉庫街へ近づくと、普段とは違う空気が漂っていた。
大通りの先には王宮の兵士たちが並び、荷車の通行を止めている。商人らしい男たちが何人も集まっていたが、抗議しても通してもらえないらしく、困った顔で荷物を見つめていた。
「本当に封鎖されてるな」
リオルが呟いた。
「ここから先は立ち入り禁止です」
近づいてきた兵士が言った。
俺は王立遺失物管理局の身分証を見せた。
「昨日の事件を調べているんです。警護隊の関係者も一緒なんですが」
「現在は王宮の管轄です。許可のない方はお通しできません」
「被害者本人でも駄目ですか?」
ダグが尋ねる。
兵士が顔を上げた。
「お名前は?」
「ダグ・ハーランです」
その名前を聞いた途端、兵士の表情が変わった。
「……少々お待ちください」
兵士は奥へ向かった。
リゼが俺の袖を軽く引く。
「セイン、何だか大ごとになってません?」
「なってるな」
「私たち、帰った方がいいんでしょうか」
「帰る?」
「……それは嫌です」
「だろうな」
少し笑ったところで、奥から男が一人歩いてきた。
長い刀を腰へ差し、周囲の兵士たちとは違う、落ち着いた足取りで近づいてくる。
背は高いが、特別大きな身体というわけではない。
ただ、不思議と目を離せなかった。
男がこちらへ顔を向けた時、首元に一本の大きな傷が見えた。
古い刀傷らしい。
喉元から襟の内側へ伸びるその痕は、周囲の皮膚とは明らかに色が違っていた。
「ダグ・ハーランは?」
「俺です」
ダグが一歩前へ出る。
「固有術を失ったと聞いた」
「……はい」
「詳しい事情を聞きたい。ここで少し待っていてくれ」
男はそれだけ言うと、俺たちを順番に見た。
リオルが背筋を伸ばす。
「ムラサメ・カナタさん、ですよね?」
「そうだ」
「俺、昔から名前を知ってます。王国最強の剣士だって」
「そう呼ぶ者もいるな」
ムラサメは特に嬉しそうでもなかった。
俺は少し意外だった。
もっと偉そうな人間を想像していたが、目の前の男は随分落ち着いている。
「セイン・アルケットです。第七係で働いています」
俺も名乗った。
ムラサメがこちらを見る。
「返却士か」
「はい」
「名前は聞いている」
「俺のことを?」
「ああ」
それ以上は答えなかった。
何だか係長を思い出す返事だった。
もう少し詳しく聞こうとした、その時だった。
倉庫街の奥から、大きな物音が響いた。
◇
「逃げたぞ!」
兵士の叫び声が聞こえた。
通りの奥で、荷車が一台飛び出してくる。
荷台には大きな木箱が積まれ、御者台に座った男が必死に馬を走らせていた。
それを追いかけて、兵士たちが駆けてくる。
「止まれ!」
当然、止まらなかった。
むしろ荷車は速度を上げ、通りにいた商人たちが慌てて道を空け始めた。
「まずい!」
リオルが声を上げる。
前方には逃げ遅れた老人がいた。
重い荷物を抱えたまま立ち尽くし、迫ってくる馬から動けないでいる。
俺が走り出そうとした瞬間、ムラサメが動いた。
刀を抜くより先に、老人の前へ出る。
馬の進路へ入り、その手綱を掴んだ。
次の瞬間、馬が大きく首を振る。
ムラサメは無理に引き倒そうとはせず、馬の動きに合わせて手綱を引き、老人のいない方へ進路を変えた。
荷車が石畳を削りながら曲がり、壁際でようやく止まる。
俺たちが駆け寄ろうとすると、荷台から三人の男が飛び降りてきた。
全員、武器を持っていた。
「下がれ!」
ムラサメの声が響く。
俺は反射的に足を止めた。
男の一人が長い槍を構え、もう二人が左右へ広がる。
ただの盗賊という感じではなかった。
誰も慌てていない。
三人とも、お互いの動きを確かめながら距離を取っていた。
「邪魔するな!」
槍を持った男が踏み込む。
鋭い突きだった。
離れて見ていた俺でさえ、避けるのは難しいと思った。
でも、ムラサメはほとんど動かなかった。
槍の穂先が胸元へ迫る。
あと少しで届くというところで、わずかに身体を横へ向けた。
槍が空を切る。
男が慌てて引き戻そうとした時には、ムラサメの刀が動いていた。
乾いた音がした。
槍の柄が切り落とされ、男の手から武器が離れる。
「……え?」
思わず声が出た。
ムラサメはすでに次の男へ向かっていた。
左側から剣を振り下ろそうとした男の懐へ、何でもないように踏み込む。
男が振るうより先に、刀の柄が腹へ入った。
男が崩れ落ちる。
残る一人が背後へ回ろうとしたが、ムラサメは振り返りもしなかった。
ほんの半歩、位置を変える。
そのせいで男の剣が届かなくなり、空振りしたところへ刀の峰が打ち込まれた。
三人目も倒れた。
最初の男が槍を突き出してから、ほとんど時間が経っていない。
「……何だ、あれ」
リオルが呟いた。
俺も同じことを考えていた。
係長が戦った時は、何をされたのか分からないまま相手が倒れていた。
ムラサメは違った。
何をしているのかは見える。
ただ、その動きがあまりに正確で、相手が何をしようとしても最初から通用しないように見えた。
その時、屋根の上で何かが光った。
「セイン、上!」
リゼが叫ぶ。
見上げると、別の男が弩を構えていた。
狙っているのはムラサメではない。
荷車のそばへ集まり始めた兵士たちだった。
「危ない!」
俺が叫ぶより先に、矢が放たれた。
ムラサメが顔を上げる。
刀が一度だけ動いた。
金属音が響き、飛んできた矢が地面へ落ちる。
兵士たちが慌てて身を伏せた。
屋根の男がもう一度弩を構えようとしたが、ムラサメはその位置を見上げ、静かに言った。
「次は届かせない」
男の手が止まる。
その間に兵士たちが建物へ回り込み、屋根へ向かう階段を駆け上がった。
男は逃げようとしたが、間に合わなかった。
俺はようやく息を吐いた。
「……本当に最強なんだな」
「だから言っただろ」
リオルが少し得意そうに答える。
「お前が自慢することじゃないだろ」
「いいじゃん。昔から憧れてたんだから」
そんなことを言いながらも、リオルの目はムラサメから離れなかった。
多分、俺が思っている以上に、あいつには今の戦いがすごいものに見えたのだろう。
◇
「セインさん、ちょっといいですか?」
ダグが俺を呼んだ。
荷車の後ろへ回り込み、地面を見つめている。
「どうしました?」
「ここ、見てください」
石畳の隙間には泥が残っていた。
車輪の跡もついている。
「昨日、俺が倒れていた場所の近くにも、こんな泥があったんです」
「同じ荷車だと思いますか?」
「そこまでは分かりません。でも、少し気になって」
ダグは荷車を見た。
「それに、さっきから荷台の中で何か音がしてるんです」
俺も耳を澄ませた。
確かに、木箱の奥から小さな物音が聞こえる。
何かが内側から叩いているようだった。
「誰かいる?」
俺が言うと、ダグは頷いた。
「多分」
俺たちは兵士へ声をかけ、荷台を調べてもらうことにした。
ムラサメも近づいてくる。
「何を見つけた?」
「荷台の中から音がするんです」
ダグが答えた。
ムラサメは少し耳を澄ませ、兵士へ指示を出した。
「扉を開けろ。ただし、何があるか分からない。慎重にな」
兵士たちが木箱を下ろす。
その奥に、小さな扉があった。
外側から閂が掛けられている。
俺は思わず顔をしかめた。
荷物を運ぶだけなら、こんな場所に扉を作る必要があるのだろうか。
兵士が閂を外す。
扉が開いた。
「……助けて」
中から、かすれた声が聞こえた。
若い男だった。
両手を縛られ、狭い荷台の奥へ座らされている。
顔色は悪く、身体を支えることも難しいらしい。
「大丈夫ですか!」
俺が声をかけると、男はゆっくり顔を上げた。
「……ここは?」
「王都の倉庫街です。もう大丈夫ですよ」
兵士たちが縄を解き、男を外へ運び出す。
リゼが心配そうに近づいた。
「お水、飲めますか?」
男は小さく頷いた。
俺は少し安心したが、次に男の手を見て、妙なことに気づいた。
指先が細かく震えている。
寒いわけではなさそうだった。
男はそれを隠すように、慌てて手を握りしめた。
「……医者を呼んだ方がいいですね」
俺が言うと、ムラサメが頷いた。
「すでに呼ばせた。お前たちは少し離れていろ」
「はい」
俺は立ち上がりかけた。
その時だった。
「違うんです」
若い男が呟いた。
「……何がですか?」
「俺、無理やり連れてこられたわけじゃないんです」
俺たちは顔を見合わせた。
男は震える手を押さえながら、必死に続ける。
「最初は、自分から申し込んだんです。ちゃんとお金も払いました」
「……何のお金ですか?」
俺が尋ねる。
男はしばらく口を閉じていた。
やがて、ダグの方を見る。
「その人……警護隊の人ですよね」
「はい。ダグ・ハーランです」
ダグが答えた。
男の顔が変わった。
「……ダグ?」
「俺をご存じなんですか?」
男は答えなかった。
ただ、ダグの右手をじっと見つめている。
「どうしたんです?」
俺が聞くと、男は小さく首を振った。
「……知らなかった」
「何をですか?」
「そんなこと、聞いてなかったんです」
男の声が震え始めた。
「俺は、ちゃんと売られているものを買うんだと思って……」
その言葉に、背中が冷たくなった。
「……買う?」
俺が聞き返す。
若い男は顔を伏せた。
そして、絞り出すように言った。
「固有術です。俺は、固有術を買ったんです」
誰もすぐには喋らなかった。
ダグは自分の手を見た。
今朝、第七係で何度も見せていた仕草だった。
俺はその横顔を見つめながら、ようやく気づいた。
固有術を売りたいと言う人間がいる。
ならば当然、それを買いたい人間もいるのだ。
ダグは売らないと答えた。
それでも、あの査定書には搬出完了と書かれていた。
そして今、目の前には固有術を買ったという男がいる。
「……セイン」
リオルが小さく呼んだ。
「うん」
俺は頷いた。
ムラサメも、黙って男を見ていた。
この事件は、俺たちが考えていたよりずっと厄介なものらしい。
誰かがなくしたものを、別の誰かが欲しがっている。
しかも、それに値段までつけている。
俺はダグの方を見た。
彼はしばらく黙っていたが、やがてゆっくり口を開いた。
「……一つ、聞いてもいいですか」
若い男が顔を上げる。
「あなたが買った固有術は、何という名前なんですか?」
その質問に、男は答えなかった。
代わりに、握りしめていた右手を見下ろした。
指の震えは、まだ止まっていない。
俺たちは、その返事を待った。




