第六十五話 固有術をなくしました
【これまでの返却記録|第三章「誰も覚えていない男」】
一本の記憶の瓶から始まった調査は、二十八年前、四十二人が同じ男を忘れた事件へとつながった。
男の名はユレン・カレル。かつて王立遺失物管理局第七係に所属し、自らに関する記憶を人々から消した人物だった。
調査の途中、ティセラは奪われた六年間の記憶と向き合い、セインたちも記憶を管理する組織の存在を知る。
やがてユレンの記録が見つかり、妻イリナと息子トーマには、保管されていた彼の記憶が返された。
しかし、残る四十人の記憶は一律には返さない。それぞれの意思が尊重された。
さらに、ユレンが十七年前に病死していたことも判明する。
そして古い資料に残されていた、不可解な記載。
『固有術:搬出済』
名前も、場所も、記憶も失われる世界で、今度は人が持つ才能さえ、持ち去られていた。
王立遺失物管理局第七係の扉を開けた時、俺は思わず足を止めた。
窓際には水をやり忘れた鉢植えがあり、壁際の棚には返却待ちの品物が並んでいる。自分の机に積まれた書類も、出張前に置いたままだった。
ラヴェルから王都へ戻ってきたのだから、ようやく仕事場へ帰ってこられたと安心してもよさそうなものだ。
でも、そんな気持ちにはなれなかった。
「……静かですね」
後ろから入ってきたリゼが言った。
「朝だからな」
「前から朝は静かでしたっけ?」
「どうだろう。大体、俺が係長に文句言ってた気がする」
そこまで言って、二人とも黙った。
事務室の奥には、係長の机があった。
書類の山も、飲みかけの茶器も、俺たちが出発した時のままだ。あの人は以前から何日も局へ帰ってこないことがあったので、椅子に誰も座っていないこと自体は珍しくない。
それなのに、今日は妙に気になった。
青鐘通りから戻ってきた時は、あの人がいつもの眠そうな顔で「おかえり」と言ってくれた。
俺は昨日も会っただろと文句を言ったけれど、今ならもう少し普通に返事をしておけばよかったと思う。
「セイン、鞄」
「え?」
「ずっと持ってますよ」
リゼに言われて、ようやく気づいた。
机の前まで来たのに、俺はまだ鞄を肩に掛けたままだった。
「……忘れてた」
「珍しいですね」
「そんなことないだろ」
「ありますよ。いつもは帰ってきた途端、書類を見て嫌な顔をするのに」
「それは今日もしてる」
「そうですか? 今日は書類じゃないものを見てた気がしますけど」
リゼはそれ以上聞かなかった。
俺も何も言わず、鞄を机へ置いた。
あの人が王立保全院の副院長だったことは、もう知っている。
ティセラの六年間を奪い、リオルの右腕を折り、エルセを倒し、セヴァンを連れていったことも忘れていない。
今だって腹が立っているし、次に会ったら聞きたいことはいくらでもある。
それでも、あの机を見ると、仕事を教えてくれた係長の顔が浮かんでしまう。
変な上司だった。
よく仕事を押しつけてきたし、面倒なことを聞くと大抵は適当な返事しかくれなかった。
でも、俺が初めて〈返却〉を失敗した時、どうして間違えたのかを考えろと教えてくれたのも、あの人だった。
「……セイン」
リゼが小さく呼んだ。
「何?」
「今、何を考えてました?」
少し迷った。
「係長に、報告書を見せなきゃと思ってた」
リゼは一瞬驚いた顔をしたあと、困ったように笑った。
「私もさっき、係長さんのお茶を入れようとしました」
「……そうなんだ」
「習慣って、なかなか変わらないですね」
「本当にな」
少しだけ笑えた。
笑ってから、また奥の机を見た。
今は、あの人が戻ってきたらどうなるのかさえ分からない。
何もなかったように椅子へ座って、仕事だと言われたら。
俺は以前と同じように、その言葉を聞けるだろうか。
「セイン、ここに座っていいですか?」
リゼが俺の隣にある椅子を指した。
「いつも座ってるだろ」
「そうですけど、久しぶりなので」
「……別に、確認しなくていいよ」
「じゃあ、遠慮なく」
リゼは椅子を引き寄せ、いつものように俺の隣へ座った。
最初に第七係へ来た頃は、名前さえ分からなかった女の子だ。
その子が今では当然のように隣の席を使い、俺の仕事に口を出し、時には俺より先に事件の違和感へ気づくようになっている。
失ったものばかりではなかった。
ただ、それに安心すると、今度は何かを忘れてしまうような気もした。
◇
「……この資料、私が書いたのよね」
ティセラがそう言ったのは、俺たちが報告書の整理を始めて間もなくだった。
机にはラヴェルから持ち帰った写しが広がっている。
その中の一冊を手に取り、彼女は何度も同じところを読み返していた。
「そうだと思うけど」
「思うけど、って何よ」
「字はティセラのだろ?」
「ええ。間違いなく私の字ね」
ティセラは手帳を閉じかけ、また開いた。
「でも、書いた覚えがないの」
その声は、思ったより静かだった。
六年間。
ラヴェルで失った彼女の記憶は、まだ戻っていない。
今のティセラは二十八歳の身体で、二十二歳だった頃から急に現在へ来たような状態だ。六年間に何を研究し、誰と出会い、どんなことを考えてきたのか、本人には分からない。
もちろん、ラヴェルで俺たちと過ごした最近の出来事は覚えている。
それでも、その前の六年間に何があったのかという空白は埋まっていなかった。
「昨日も思ったんだけど」
ティセラが言った。
「自分の字なのに、知らない人の研究を読んでるみたいで嫌なのよね」
「……うん」
「しかも、書いてあることは結構まともなの。腹が立つわ」
思わず笑ってしまった。
「自分に?」
「そうよ。六年後の私って、意外と仕事ができるのね」
「意外でも何でもないと思うけど」
「あなた、そういうことはもう少し早く言いなさいよ」
「今言っただろ」
「遅いの」
相変わらずだった。
少し安心したところで、ティセラがまた手帳へ目を落とす。
「でも、これを調べていた理由が思い出せないのは不便ね。資料だけ残っていても、何に疑問を持って、どう考えたのかが分からない」
「……焦らなくていいと思う」
「焦ってないわよ」
「昨日も寝てなかっただろ」
「少しは寝たわ」
「何時間?」
ティセラは黙った。
「……研究に関係ある?」
「あると思う」
そのやり取りを聞いていたリゼが笑う。
ティセラは眼鏡を押し上げ、少し不満そうに手帳を閉じた。
「六年後の私も、あなたたちにこんなこと言われてたの?」
「結構」
「……大変だったでしょうね」
「どっちが?」
「私が」
俺とリゼは顔を見合わせた。
やっぱり、こういうところは変わらない。
でも、それで全部元どおりになったわけではなかった。
ティセラは手帳を膝へ置き、少しだけ表情を和らげた。
「……セイン」
「何?」
「六年間のこと、これからも調べるんでしょう?」
「うん。もちろん」
「だったら、前に話したことを忘れないでね」
俺は頷いた。
ティセラの記憶は、本人が望む方法で取り戻す。
一度に全部を返すのではなく、安全を確かめながら少しずつ進め、途中で本人がやめたくなったら止める。
ラヴェルで、そう決めた。
「勝手に〈返却〉を使わない。全部分かったつもりで、昔のことを教え込んだりもしない」
「そう。それでいいわ」
「……何か、俺の方が試験されてるみたいだな」
「実際、かなり心配なのよ」
「信用ないな」
「信用してるから言ってるの」
ティセラは当たり前のように答えた。
その顔を見て、俺は少しだけ嬉しくなった。
以前だったら、何とかして全部返そうと考えていたかもしれない。
でも今は、ティセラが自分で決められることの方が大事だと思う。
ユレン・カレルの記憶を調べて、四十二人の人たちと向き合って、ようやく分かったことだった。
イリナとトーマには、本人たちが望んだ記憶を返すことができた。
その一方で、返してほしくないと答えた人もいた。
返すかどうか、まだ決められない人もいる。
俺たちは結局、全員に同じ答えを出すことはしなかった。
返せるものを見つけたからといって、何でも返せばいいわけじゃない。
当たり前のことなのに、俺は随分遠くまで行って、ようやくそれを覚えたらしい。
「……何よ」
ティセラが俺を見た。
「いや、ちゃんと待つよ」
「そうして」
彼女は少し笑った。
それから、今度こそ手帳を閉じた。
◇
「セイン、これをどこへ提出すればいいか分かりますか?」
エルセが声をかけてきた。
いつものように背筋を伸ばしていたが、ラヴェルで受けた傷はまだ完全には治っていないらしく、椅子から立ち上がる時の動きが少し慎重だった。
「何の書類?」
「保全物の現状報告です。ラヴェルに残した記憶の保管状態と、返却を希望していない人たちの扱いについて、確認したことをまとめました」
「ああ、それなら……」
係長へ、と言いかけて口を閉じた。
エルセも何も言わない。
「……別の担当者を確認するしかないか」
「そうですね」
彼女は報告書を見下ろした。
「以前なら、私も副院長へ確認していたと思います」
「……そうだよな」
「でも、今はそれでいいのか分かりません」
エルセは少し考えてから続けた。
「保全院の仕事まで、すべて間違っていたとは思いません。返してほしくないと望む人の記憶を、安全に預かることも必要ですから」
「うん」
「ただ、誰かの意思を確かめずに移送する命令には、もう簡単に従いたくありません」
俺はエルセを見た。
最初に出会った頃は、こんな話をする人だとは思わなかった。
回収係として保全物を持ち帰る。
中身を聞かず、由来を問わず、戻す先を決めない。
それが仕事だと言っていた人が、今は持ち主の意思を確かめるために、報告書を書いている。
「エルセも変わったな」
俺が言うと、彼女は少し驚いた顔をした。
「そうでしょうか」
「前だったら、まず回収してただろ」
「……否定はできません」
エルセは小さく笑った。
「でも、セインも変わりましたよ」
「俺が?」
「以前なら、保全院が預かると言っただけで、もっと怒っていたと思います」
「……そんなに?」
「かなり」
リゼまで横で頷いていた。
「二人とも、よく覚えてるな」
「付き合いが長いので」
リゼが得意そうに答える。
少し前までは、こんなふうにエルセと笑い合うこともなかった。
係長の正体を知ったことで、俺たちは確かに色々なものを失った。
でも、そこで見つけたものもある。
エルセが俺たちを信じてくれたことも、その一つだった。
だから今は、あの人をどう思うべきかについても、無理に答えを出さなくていいのかもしれない。
そう考えながら書類を受け取ったところで、事務室の扉が勢いよく開いた。
「セイン、いる?」
「いるけど、もう少し静かに開けられないのか?」
「悪い。急いでて」
リオルだった。
右腕はまだ包帯で固定されている。
医師から当分剣を持つなと言われているのに、今日も普段どおりの勢いで入ってきたので、見ているこちらが少し心配になった。
「腕、大丈夫?」
「大丈夫だよ。昨日も医者に診てもらった」
「何て?」
「まだ治ってないって」
「そりゃそうだろ」
「俺もそう思ったんだけどさ。言ったら怒られた」
「何で?」
「分かってるなら大人しくしてろって」
ティセラが顔を上げた。
「いいお医者さんね」
「……味方がいない」
リオルは少し肩を落とした。
その様子がおかしくて、俺は笑ってしまった。
笑ったあとで、やっぱり腕が気になった。
あれほど剣を使うのが好きなやつが、今は右手で剣を握ることさえできない。
それをやったのが係長だということを、俺はまだうまく受け止められずにいる。
「ところで、今日は何の用?」
俺が尋ねると、リオルの顔が変わった。
「セイン、ちょっと相談があるんだ」
そう言って、後ろへ振り返る。
そこには、見知らぬ男が立っていた。
◇
「ダグ・ハーランといいます。リオルとは警護隊の同期です」
男はそう言って、軽く頭を下げた。
短い茶色の髪に、日に焼けた顔。警護隊の制服を着ているが、少し寝不足らしく、目の下には薄い隈ができている。
「セイン・アルケットです。よろしくお願いします」
「こちらこそ。リオルからお話は聞いています」
「どんな話ですか?」
「何かと面倒な事件に巻き込まれる返却士だと」
「……否定しづらいですね」
「最近は自分から巻き込まれに行ってますけどね」
リゼが横から言った。
「リゼ、それ余計だから」
「事実ですから」
ダグが少し笑った。
「随分賑やかなところですね」
「普段はもっと静かなんですけど」
俺が言うと、リオルがすぐに口を挟んだ。
「嘘つけ。お前ら、いつも騒いでるじゃん」
「お前が来る時だけだろ」
「そんなことないって」
いつもの調子で言い返してくるかと思ったが、リオルはそこで真面目な顔になった。
「セイン、実はダグのことで相談があるんだ」
「うん」
「こいつ、固有術をなくしたんだよ」
意味が分からなかった。
「……なくした?」
俺が聞き返すと、ダグは頷いた。
「はい。昨日の夜から、〈追跡〉が使えなくなったんです」
ラヴェルで見た古い記録が、頭をよぎった。
『固有術:搬出済』
あの文字を見た時は、何かの比喩ではないかと思った。
でも、目の前にいる男は冗談を言っているようには見えなかった。
「……詳しく聞かせてもらえますか?」
「もちろんです」
ダグは椅子へ腰を下ろし、少し考えてから話し始めた。
◇
ダグが固有術を使えなくなったのは、昨日の夜のことだった。
王都東側の倉庫街で行方不明者の捜索要請があり、警護隊の詰所から現場へ向かったという。
「荷車だけが残されて、運んでいた人間が戻ってこないという話でした。俺……いえ、私は人捜しの仕事を任されることが多いので、特に不思議には思いませんでした」
「〈追跡〉があるからですか?」
「はい。こういう時に役立つ術なんです」
ダグは制服の襟元を少し緩めた。
首の後ろに、小さな赤い痕が二つ並んでいる。
「現場へ着いて調べようとしたところで、誰かに襲われました。後ろから何かを当てられたような気がしたんですが、そこから先はよく覚えていません」
「気づいた時には?」
「路地に倒れていました。財布も剣も残っていたので、最初は何かの間違いだと思ったんです」
「怪我は?」
「首の痕くらいです。医者にも診てもらいましたが、身体には大きな異常はないそうです」
ダグは少し苦笑した。
「ただ、襲った相手を捜そうとして〈追跡〉を使ったら、何も起きなかったんです」
「全く?」
「はい。何度試しても駄目でした」
俺は少し考えた。
「疲れて発動できない時とは、違う感じですか?」
「違います。使い方を忘れたわけではないんです。今までどうやって使っていたかも覚えています。でも、術を使おうとしても何も起きなくて」
ダグは自分の右手を見た。
「うまく説明できないんですが、今まで当たり前にあったものが、急になくなったような感じなんです」
その言葉を聞いて、俺も自分の左手を見た。
〈返却〉。
子供の頃から、当たり前のように使ってきた固有術だ。
昔は地味な力だと思っていたし、もっと格好いい術だったらよかったのにと考えたこともある。
でも、もし明日の朝、突然使えなくなっていたらどうなるだろう。
仕事へ来て、返却待ちの品物を手に取り、持ち主のところへ返そうとしても、何も起きない。
そう考えただけで、妙に落ち着かなくなった。
「医者には何て言われたんですか?」
「固有術の専門検査を受けるようにと。それまでは勤務も外れることになりました」
「何でだよ」
リオルが口を挟んだ。
「ダグは術がなくても剣を使えるだろ。巡回だってできるじゃん」
「それは俺も言ったよ。でも原因が分からないし、昨日襲われた時のことも思い出せてないんだ。隊長が心配してくれてるのは分かる」
「でもさ」
「リオル」
ダグが静かに呼んだ。
「心配してくれてるのはありがたい。でも、少し落ち着けよ」
リオルは口を閉じた。
右腕の包帯へ左手を添える。
本人は気づいていないかもしれないが、さっきから何度も同じ仕草をしていた。
「……悪い」
「いいよ。俺だって腹は立ってるから」
ダグは少し笑った。
そのあと、俺へ向き直る。
「実は、まだ行方不明者が見つかっていないんです」
「昨日の依頼ですか?」
「はい。俺が担当した仕事なのに、結局何もできませんでした」
「そんなことないだろ」
またリオルが言った。
「お前、今まで何人見つけてきたと思ってるんだよ」
「それは今までの話だろ」
「昨日だって、お前が倒れなきゃ」
「だから、その昨日の話をしてるんだよ」
ダグの声が少し強くなった。
リオルが黙る。
ダグは自分でも驚いたように顔を上げた。
「……悪い」
「いや」
リオルは首を振った。
少しの間、誰も喋らなかった。
やがてダグが小さく息を吐いた。
「俺、自分の術が結構好きだったんです」
俺は顔を上げた。
「〈追跡〉が、ですか?」
「はい。別に戦いに強い術ではありませんし、リオルみたいに剣で活躍できるわけでもありません。でも、人を捜す仕事なら役に立てたんです」
リオルが隣で頷いた。
「こいつ、昔、冬の夜に行方不明になった子供を見つけたことがあるんだよ。雪が降ってて、警護隊総出で捜してたんだけど、最後に見つけたのはダグだった」
「お前も一緒だっただろ」
「俺は途中で転んだ」
「そうだったな。あれは結構ひどかった」
「そこは忘れろよ」
ダグが笑った。
今度は少しだけ自然な笑い方だった。
「でも、あの時は嬉しかったな。母親が泣きながら礼を言ってくれてさ。俺は人を捜しただけなのに、何度も頭を下げるんだよ」
それから、俺へ視線を戻した。
「セインさん、誰かがいなくなって困っている時に、自分なら何とかできると思えるのは、結構いいものなんです」
「……そうですね」
「だから昨日も、見つけるつもりで行きました。でも、今はその力も使えなくなってしまって」
ダグは少しだけ俯いた。
「また誰かがいなくなった時、俺には何ができるんでしょうね」
俺はすぐには答えられなかった。
そんなことないと言うのは簡単だ。
でも、ダグが今まで積み重ねてきた仕事を、俺は知らない。
なくなったものがどれほど大きいのか、勝手に決めることもできなかった。
「ダグさん」
俺は声をかけた。
「返せるとは、まだ言えません」
「……はい」
「でも、どうして使えなくなったのかは調べたいです。昨日の事件と関係しているかどうかも、まだ分かっていませんし」
ダグは少しだけ顔を上げた。
「調べてもらえるんですか?」
「もちろんです。ただ、一つだけ先に聞かせてください」
「何でしょう?」
「ダグさんは、〈追跡〉を取り戻したいですか?」
ダグは驚いたように俺を見た。
「……当たり前じゃないですか」
「そうですよね」
「どうしてそんなことを?」
「確認したかったんです」
俺は少し考えてから続けた。
「ラヴェルで、記憶をなくした人たちと会いました。返してほしいという人もいれば、今は返さなくていいという人もいたんです」
ダグは黙って聞いていた。
「俺は最初、返せるものなら返した方がいいと思っていました。でも、そうじゃない場合もあったんです」
「……なるほど」
「だから、ダグさんがどうしたいのか、先に聞いておきたくて」
ダグはしばらく俺を見つめていた。
それから、少し笑った。
「返してほしいです。できることなら、今すぐにでも」
「分かりました」
「それに、まだ人を捜したいんです」
その声には、さっきより少し力があった。
俺は頷いた。
「じゃあ、まずそこからですね」
◇
「ただ、気になることがあるのよね」
ティセラが口を開いた。
いつの間にか隣へ来ていて、ダグの首の痕を見ている。
「その傷、昨日できたものなんでしょう?」
「はい。そうだと思います」
「固有術が使えなくなったのも、そのあと?」
「そうです」
ティセラは少し考えた。
「普通の発動不良とは違う可能性があるわ。でも、それだけで固有術そのものがなくなったと決めつけるのは早いわね」
「やっぱりそうですか」
「今のところ、私にも分からないことが多いもの」
ダグは少しだけ安心したような、困ったような顔をした。
俺はティセラを見る。
「ラヴェルの記録は?」
「まだ調べてるわ。古い書式だから、言葉の意味を一つずつ確かめないといけないし」
ティセラは机の上から写しを一枚取り出した。
『固有術:搬出済』
ラヴェルで見つけた金属板に刻まれていた言葉だ。
今見ても、何だか不気味だった。
「昔、固有術を身体の外へ取り出したように読める記録があるの。ただし、本当に何をしたのかはまだ分かっていないわ」
ダグが眉を寄せた。
「固有術を取り出す……ですか?」
「ええ。今の常識では、そんなことはできないはずなんだけど」
ティセラは写しを机へ置いた。
「だからこそ、あなたの状態も詳しく調べたいの。身体にどんな変化があったのか、覚えていることを記録させてもらえる?」
「もちろんです」
「ありがとう。それと、昨日の通報書はある?」
ダグが鞄を開いた。
「控えなら持ってきました」
取り出した紙を、机へ広げる。
『王都東地区 行方不明者捜索要請』
発生場所と時刻、残された荷車の特徴、それに捜索対象者についての情報が書かれていた。
俺は一通り読んでみたが、すぐにはおかしなところを見つけられなかった。
「普通の捜索依頼に見えるな」
リオルが言う。
「そうなんだ。俺も渡された時は何も思わなかった」
ダグが頷く。
その時、リゼが紙へ顔を近づけた。
「……あれ?」
「どうした?」
「ここ、少し変じゃないですか?」
リゼが指差したのは、通報者の欄だった。
名前が書かれていない。
「急いでたから書き忘れたんじゃない?」
リオルが言った。
「それなら分かります。でも、こっちは?」
リゼが少し下を指す。
『指定対応:追跡能力保有隊員』
俺はその文字を読み直した。
「……固有術を指定してる?」
「はい」
リオルが紙を覗き込む。
「珍しいな。特殊な捜索なら術を指定することもあるけど、普通は警護隊の方で担当を決めるんだよ」
「だったら、この依頼を出した人は、最初から〈追跡〉を持つ警護隊員に来てほしかったんですね」
リゼが言った。
ダグの表情が変わった。
「……そういうことになりますね」
俺も嫌な感じがした。
人がいなくなったから捜してほしいというのは、自然な依頼だ。
でも、どんな固有術を持った人間が来るかまで指定する必要があったのだろうか。
「この通報、誰が受け付けたんですか?」
俺が尋ねると、ダグは首を傾げた。
「夜間の連絡係だと思います。俺は詰所で渡されただけなので」
「だったら、元の依頼書を確認したいですね」
「俺もそう思う」
リオルが頷いた。
「どこから来た依頼なのか、詰所なら調べられるはずだよ」
その時だった。
「あ」
ダグが小さく声を出した。
「どうしました?」
「……少し待ってください」
ダグは鞄を開き、中を探し始めた。
「これ、関係あるかもしれません」
取り出したのは、薄い封筒だった。
「何ですか、それ?」
俺が聞く。
「三日くらい前に渡されたんです。昨日の事件とは関係ないと思っていたので、言わなかったんですが」
「誰から?」
「商人みたいな男です。詰所から帰る途中で声をかけられました」
ダグは封筒を机へ置いた。
「俺の固有術を買いたいって言うんですよ」
今度こそ、何を言っているのか分からなかった。
「……買う?」
「はい。〈追跡〉を譲ってほしいと」
「そんなことできるんですか?」
「俺も同じことを聞きました。そしたら、できる方法があるって言うんです」
リオルが眉を寄せる。
「何だよ、それ。怪しすぎるだろ」
「だから断ったんだ。そもそも、どうやって渡すのかも分からないしな」
「で、相手は?」
「意外とあっさり引き下がったよ。ただ、気が変わったら連絡してくれって紙を渡されて」
ダグが封筒を開いた。
中から出てきたのは、見慣れない書式の一枚だった。
『固有術査定書』
俺は思わず声に出して読んだ。
「……査定?」
紙にはダグの名前と、固有術〈追跡〉が記されていた。
その下には、金額まで書かれている。
『査定額:八十万ルク』
リオルが目を丸くした。
「八十万ルク?本気で言ってるのか?俺らの給料10年分ぐらいになるだろ!」
「俺も冗談だと思ったよ。そんな大金を出すと言われても、逆に怪しいだろ」
ダグは少し呆れたように笑った。
でも、俺は笑えなかった。
八十万ルク。
それが高いのか安いのか、俺には判断できない。
そもそも、固有術に値段をつけること自体、今まで考えたこともなかった。
「これ、誰が金額を決めたんですか?」
俺が聞くと、ダグは首を振った。
「分かりません。男は商会の名前も教えてくれませんでしたし、詳しい説明は契約してからだと言っていました」
「じゃあ、何を基準にしたのかも分からない?」
「はい」
ティセラが査定書を手に取った。
「……変ね」
「何が?」
「固有術の種類だけじゃなくて、本人の勤務先まで書いてある。少なくとも、この人のことを事前に調べているわ」
ダグが紙を覗き込んだ。
「本当だ。そんなことまで話していませんよ」
リゼも隣から見ていたが、やがて一箇所で指を止めた。
「セイン」
「何?」
「ここ、見てください」
紙の下部には連絡先を書く欄があった。
でも、何も記されていない。
「空欄?」
「そう見えますよね」
リゼは少し眉を寄せた。
「でも、何かあった感じがするんです」
「消えてる?」
「そこまでは分かりません。ただ、最初から何もなかったところとは違う気がします」
〈空白視〉で見えているものらしい。
リゼにも、何が書かれていたのかは分からない。
それでも何かが失われた痕跡があるのなら、調べる価値はあった。
「ティセラ、これも見てもらえる?」
「もちろん。紙とインクなら調べられるわ。ただ、消えたものを復元できるとは約束しないでよ」
「分かってる」
ティセラは頷き、査定書を自分の資料の横へ置いた。
その時、ダグがもう一つ封筒を取り出した。
「……実は、こっちもあるんです」
さっきとは違い、真新しい封筒だった。
「何ですか?」
俺が聞く。
「今朝、家の扉に挟まっていました」
ダグの声が少し低くなった。
「最初は誰かが間違えて届けたのかと思いました。でも、俺の名前が書いてあったので」
そう言って、俺へ差し出す。
中には同じ書式の紙が入っていた。
『査定対象者:ダグ・ハーラン』
『固有術:追跡』
そこまでは同じだった。
ただし、金額が書かれていた場所には、別の言葉が並んでいる。
『搬出処理:完了』
『受領確認:済』
読み終えて、俺は思わずティセラを見た。
ティセラもこちらを見ていた。
「……これ」
「ええ」
ラヴェルの古い記録にあった言葉だ。
固有術の搬出。
四十年以上前の試験に関係するらしい記録と、昨日襲われた警護隊員に届いた書類。
どちらにも同じ言葉が使われている。
「誰かが古い記録の書式を真似た可能性もあるわ」
ティセラが言った。
「でも、偶然と考えるには気になるわね」
俺もそう思った。
ダグは三日前、固有術を売ってほしいと頼まれた。
断ったあと、昨夜の捜索要請で倉庫街へ呼び出された。
そして固有術を使えなくなり、翌朝には搬出処理が完了したと書かれた紙が届いた。
これで全部が同じ事件だと決まったわけじゃない。
でも、放っておける話ではなかった。
「ダグさん」
俺は顔を上げた。
「その男に、固有術を売るって一度でも言いましたか?」
「言っていません」
ダグはすぐに答えた。
「断りました。俺には必要なものだから、いくら積まれても売るつもりはないって」
「そうですか」
紙を机へ戻す。
八十万ルク。
誰が決めたのかも分からない金額だ。
それがダグの固有術につけられた値段らしい。
「……何か、腹立つな」
思わず言った。
リオルがこちらを見る。
「何が?」
「これ」
俺は二枚の紙を並べた。
「ダグさんが売らないって言ったこと、どこにも書いてない」
査定額も、搬出処理も、受領確認もある。
でも、肝心の本人が何を望んでいたのかは書かれていない。
「本人は断ったんだろ?」
ダグが頷いた。
「はい」
「だったら、そこで終わる話のはずなのに」
リゼが二枚の紙を見比べた。
「買えないなら、勝手に持っていけばいいってことでしょうか」
「まだそうと決まったわけじゃないけど」
俺は首を振った。
「もしそうなら、最悪だな」
ダグは何も言わなかった。
しばらくしてから、小さく口を開く。
「……セインさん」
「はい」
「もし本当に取られたんだとしたら、俺の〈追跡〉は今どこにあるんでしょうね」
答えられなかった。
「誰かが使っていたりするんでしょうか」
その言葉を聞いて、背中が少し冷たくなった。
固有術を身体から取り出せるのなら、その先で何ができるのか。
俺には分からない。
だからこそ、軽々しく答えるわけにはいかなかった。
「……そこも調べましょう」
俺は言った。
ダグは頷いたが、まだ何か言いたそうだった。
やがて、自分の右手を握りしめる。
「俺、取り戻したいです」
さっきよりはっきりした声だった。
「もちろん、使えなくなったままでも警護隊を辞めるつもりはありません。でも、誰かが勝手に持っていったんなら、そんなの納得できないでしょう」
「そうですね」
「それに、まだ人を捜したいんです」
俺はダグを見た。
「だったら、まずそこからですね」
◇
ダグが席を外している間に、リオルが俺の机へ寄ってきた。
「セイン」
「何?」
「……本当に、固有術を返せると思う?」
声が小さかった。
「分からない」
「そっか」
「ラヴェルの記録も、まだ詳しいことは分かってないし。〈返却〉で何とかできるかどうかも、実際に調べないと」
「そうだよな」
リオルは右腕の包帯を見た。
「俺さ、ダグとは警護隊に入ってからずっと一緒なんだ」
「うん」
「あいつ、普段は結構ふざけてるけど、人捜しの仕事だけは本当に真面目でさ。見つからなかった時なんか、勤務が終わっても帰ろうとしないんだよ」
「そうなんだ」
「俺が先に帰ろうとすると怒るんだ。まだ捜してる人がいるのに帰るのかって」
リオルは少し笑った。
「だから今日も、本当は自分で調べに行きたいんだと思う」
「だろうな」
「でも、今はできない。俺もこんな腕だし」
包帯を左手で押さえる。
その仕草を見て、また係長のことを思い出した。
リオルの腕を折った時、あの人はほとんど表情を変えなかった。
俺たちのことが好きだと言ったあの人の声を、今も覚えている。
あれが嘘だったとは思いたくない。
けれど、だからといって許せるわけでもなかった。
「……係長なら、何か知ってたかな」
俺が呟くと、リオルは少し黙った。
「知ってたかもな」
「だよな」
「あの人、変なことばっかり知ってたし」
「普段は何も教えてくれなかったけど」
「聞いたら大体、仕事だって言うんだよな」
思わず笑ってしまった。
「本当に、そればっかりだった」
笑い終わると、少し静かになった。
奥の机には、今日も書類が積まれている。
係長が帰ってくるのを待っているわけじゃない。
ただ、どう扱えばいいのか決められず、そのままになっているだけだ。
「俺、まだあの人のこと嫌いになれないんだよ」
リオルが言った。
少し意外だった。
「腕、折られたのに?」
「だから腹立ってるんだろ」
「それもそうか」
「でも、今まで一緒に仕事してたことまで嘘にはならないしさ」
リオルは奥の机を見た。
「次会ったら、文句くらいは言いたいけど」
「俺も」
「お前はもっと言った方がいいよ」
「何で?」
「今まで散々、面倒な仕事押しつけられてたじゃん」
「それは今さらだろ」
二人で少し笑った。
係長に聞きたいことはいくらでもある。
どうしてティセラの記憶を奪ったのか。
なぜセヴァンを連れていったのか。
俺たちに何を隠していたのか。
それに、あの時最後まで答えてくれなかったことも。
でも、今すぐあの人に会えるわけじゃない。
会えたとしても、素直に答えてくれるかどうか分からない。
「……仕事しようか」
俺が言うと、リオルが頷いた。
「そうだな」
「腕は無理しないでよ」
「分かってるって」
「昨日もそう言ってた」
「セイン、お前最近リゼに似てきたな」
「それ褒めてる?」
「半分くらい」
残り半分が気になるところだった。
◇
ダグが戻ってきたところで、俺は机の引き出しから一枚の用紙を取り出した。
遺失物の届出書だ。
「ダグさん、これを書いてもらっていいですか?」
「何でしょう?」
ダグは用紙を見た。
「……遺失物?」
「はい」
「いや、俺がなくしたのは固有術ですよ?」
「分かっています」
「財布とか鍵じゃないんですが」
「それも分かっていますよ」
ダグは困った顔をした。
「じゃあ、どう書けばいいんでしょう?」
「俺もこんな届出は初めてなので、正直よく分かりません」
「……大丈夫なんですか?」
「正式な扱いは確認します。でも、まずは記録を残しておきたいんです」
ダグは少し考えたあと、用紙を受け取った。
「名前からですか?」
「はい」
ダグ・ハーラン。
警護隊員。
紛失したもの。
そこまで書いて、手が止まった。
「……本当に、これでいいんですか?」
「書いてみてください」
ダグは少し笑い、ゆっくり文字を書いた。
『固有術〈追跡〉』
その文字を見ていると、妙な気持ちになった。
今まで何度も、人からなくしたものを聞いてきた。
大切な指輪だったり、家族からもらった財布だったり、仕事で使う道具だったり。
それぞれに事情があって、返せた時には大抵、持ち主が喜んでくれた。
でも、固有術をなくした人間がどれほど困るのか、俺にはまだ想像しきれない。
ダグにとって〈追跡〉は、ただ便利な力だったわけじゃない。
仕事に使い、誰かを助け、そのたびに少しずつ自信をつけてきたものなのだろう。
それを、知らない誰かが勝手に値段をつけていた。
「最後、ここもお願いします」
俺は用紙の下を指した。
返却を希望するかどうかを確認する欄だ。
ダグが笑う。
「もちろんです。返してほしいですよ」
「はい」
「返せるか分からないんですよね?」
「まだ、何とも言えません」
「それでも、頼んでいいですか?」
俺は頷いた。
「もちろんです」
ダグは少しだけ表情を緩め、最後の欄へ文字を書き込んだ。
『返却希望』
俺は用紙を受け取り、内容を確認した。
記入漏れがないか確かめてから、いつものように立ち上がる。
そのまま係長の机へ向かいかけたところで、足が止まった。
「セイン?」
リゼが呼んだ。
「……何でもない」
俺は椅子へ戻った。
今までは、判断に迷う届出があると係長へ相談していた。
受け付けていいものなのか。
保管方法はどうするのか。
そもそも第七係の仕事なのか。
あの人は大抵、面倒そうな顔をしながら答えてくれた。
時々、もっと自分で考えろとも言われた。
今なら、少しだけその意味が分かる気がする。
だからといって、何でも勝手に決めていいわけじゃない。
正式な手続きは確認するし、調べられることも調べる。
ただ、ダグがここへ来て、返してほしいと言ったことだけは、誰かの許可がなくても覚えていられる。
俺は届出書を自分の机へ置いた。
「じゃあ、まず警護隊の詰所へ行きましょう」
リオルが頷く。
「昨日の通報記録だな」
「うん。誰が依頼したのか確認したい。そのあと現場も見てみよう」
「俺も行きます」
ダグが立ち上がる。
「もちろんです。一緒に来てもらえた方が助かります」
「私も行きます」
リゼも椅子から立った。
「うん。頼む」
「珍しいですね。今日は止めないんですか?」
「止めたら残る?」
「残りません」
「だろ?」
リゼが笑った。
いつもの笑い方だった。
俺もつられて少し笑う。
ティセラは査定書を手に取り、もう一度印を確かめていた。
「私はこっちを調べるわ。古い記録と関係があるなら、何か共通点が見つかるかもしれない」
「よろしく」
「あと、セイン」
「何?」
「固有術そのものに、いきなり〈返却〉を使おうとしないでよ」
「まだ使わないって」
「あなたの『まだ』は信用できないの」
「それ、みんな言うんだけど」
「言われる理由を考えなさい」
相変わらず厳しい。
ただ、今はその方がありがたかった。
俺たちは第七係を出る支度を始めた。
机の上には、ダグの届出書が残っている。
固有術〈追跡〉。
返却希望。
たったそれだけの文字だったが、ダグが今朝ここへ来た理由は十分伝わってきた。
係長の机は、まだ空いたままだ。
あの人のことは、これからも何度だって考えると思う。尊敬していたことも、裏切られたと思ったことも、簡単には消えない。
でも今日は、俺たちを頼って来た人間がいる。
だったら、まずその人のために動こう。
「セイン、行くぞ!」
廊下からリオルが呼んだ。
「今行く!」
鞄を持ち、扉へ向かう。
ちょうどその時、廊下の向こうから慌ただしい足音が聞こえてきた。
「リオル!」
駆け込んできたのは、警護隊の制服を着た若い男だった。
「探したぞ。昨日の倉庫街の件で、詰所に連絡が入ってる」
「何があった?」
「現場が封鎖された。王宮からの命令だそうだ」
リオルが眉を寄せた。
「王宮? 何で?」
「知らない。ただ、俺たちの隊には手を出すなって指示が来てる」
「捜査を引き継ぐってこと?」
「それだけじゃないらしい」
男は少し声を落とした。
「王宮から、特別に人が派遣されたんだ」
「誰?」
「ムラサメ・カナタ」
リオルの表情が変わった。
「……嘘だろ」
「知ってる人?」
俺が聞くと、リオルは驚いたようにこちらを見た。
「知ってるも何も、王国最強の剣士だぞ。俺らが子供の頃からそう呼ばれてる人だよ」
「そんな人が、どうして倉庫街に?」
「それが分からないから驚いてるんだろ」
ダグも困惑した顔をしていた。
「俺の事件と関係あるのか?」
「分からない。でも、王宮がわざわざ最強の剣士を動かしたんなら、何かあるんだと思う」
リオルはそう言ってから、俺を見た。
「セイン、どうする?」
俺は少し考えた。
王宮が動いた理由も、ムラサメという剣士が何を調べに来たのかも分からない。
でも、こちらには確かめたいことがある。
「まずは詰所だな」
「王宮に止められるかもしれないぞ?」
「それなら、どうして止めるのか聞こう」
リオルが笑った。
「やっぱり面倒なことになるな」
「もうなってるだろ」
そう答えて歩き出すと、リゼが隣へ並んだ。
「セイン」
「何?」
「王国最強の剣士って、どのくらい強いんでしょうね」
「さあ。俺も会ったことないし」
「リオルさんより?」
「多分」
「係長さんより?」
「当たり前だろ」
リゼは少し考えたあと、俺の方を見る。
「じゃあ、確かめに行きますか?」
「戦いに行くみたいな言い方やめて」
「見るだけですよ」
「それならいいけど」
隣でリオルが笑っている。
ダグも少しだけ笑った。
俺は鞄の中にある二枚の査定書を思い出した。
八十万ルク。
誰かがダグの才能につけた値段だ。
でも、その金額で売ることにした覚えは本人にはない。
それなのに、搬出は終わったと書かれている。
もし本当に、そんな商売をしている人間がいるのなら。
そいつには一度、聞いてみたいことがあった。
八十万ルクを払えば、誰かが積み重ねてきた人生まで、自分のものにしていいと思っているのか。
少なくとも、俺はそうは思わない。
ダグがあの紙に書いたのは、値段じゃなかった。
『返却希望』
俺にとっては、そっちの方がずっと大事だった。




