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王都の返却士 ~その落とし物、世界のものです~  作者: 紙森 灯
幕間③

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出さなかった手紙

 

 オルネラ・ローヴェンは、手紙を書く時だけ、昔の癖が戻った。


 便箋を机の中央へ真っ直ぐ置き、右上の角を指先で押さえる。書き終えたら必ず最初から読み直し、誤字がないことを確かめてから封をする。


 王宮で記録官をしていた頃、封印済みの書類に一文字の間違いが見つかり、上官から半日説教されたことがあった。


 その上官は二十年以上前に亡くなった。


 けれど、オルネラは今も封書を作るたび、あの人の小言を思い出す。


 人間の習慣とは厄介なものだ。


 忘れたいことほど、妙なところへ残っている。


 その夜、机の上には一通の手紙が置かれていた。


『ティセラへ』


 書けたのは、まだそこまでだった。


 窓の外では雨が降っている。


 古い屋根を叩く音は静かで、時折、風が雨粒を窓枠へ吹きつけた。暖炉には小さな火が残り、部屋の隅で乾燥させている薬草から、薄い苦味のある香りが漂っている。


 オルネラは筆を持ち直した。


 孫へ伝えたいことは、いくらでもある。


 きちんと食事をしているのか。


 冬になると、今でも指先を冷やしていないか。


 仕事が忙しい時ほど眠る時間を削る癖は、少しは直っただろうか。


 研究のことなら、聞きたいこともあった。


 どんな古い記録を見つけたのか。どんな術式を調べているのか。


 昔のように、食卓へ資料を広げながら話を聞けたら、どれほど楽しいだろう。


 けれど、そうしたことを書こうとするたび、別の言葉が先に浮かんでしまう。


 あの日、なぜ黙っていたのか。


 どうして引き止めなかったのか。


 そして、六年間も手紙を出さなかったのはなぜなのか。


「……今さらね」


 オルネラは小さく呟き、机の右側に置いた木箱へ手を伸ばした。


 蓋を開くと、何通もの便箋が入っている。


 どれも孫宛てだった。


 一番古いものには、六年前の冬の日付がある。


『あなたが怒っている理由は分かっています』


 そこまで書いて、続けられなくなった。


 三か月後には、別の便箋を使った。


『王宮にいた頃、私はあなたに話せない仕事をしていました』


 これも途中で止まった。


 翌年に書いたものには、


『あなたが言ったことは、全部間違いだったわけではありません』


 とある。


 読み返すたびに、ひどい文章だと思う。


 相手が間違っていなかったと認めながら、何について謝るのかを一つも書いていない。


 孫が読めば、また怒るだろう。


 それからも年に何度か書いたが、手紙は少しずつ短くなった。


 去年の便箋には、たった一行しか残っていない。


『一度、帰ってきませんか』


 その一行を読んで、オルネラは苦笑した。


 帰ってきてほしい。


 ただ、その理由を説明する勇気がない。


 自分から会いに行くこともできないくせに、孫の方から来てくれればいいと願っている。


 身勝手な手紙だった。


 王宮の記録なら、何百枚でも書けた。


 封蝋の配合、古式認証の手順、王家に伝わる封印記録の照合方法。どれほど複雑な内容でも、必要な項目を整理すれば、何を書けばよいか分かった。


 それなのに、孫へ送る一枚の手紙だけは、どう書き始めても途中で止まってしまう。


 書き方を知らないのではない。


 返事を受け取るのが、怖いのだ。


 オルネラは便箋を木箱へ戻そうとして、手を止めた。


 六年前にも、同じような夜があった。


     ◇


 あの日も、雨が降っていた。


 ティセラは二十二歳だった。


 今より髪が少し長く、王立術式研究院の助手として働き始めたばかりだったが、古い記録へ向ける執着はすでに一人前だった。


 子供の頃から、分からないものを放っておけない性格だった。


 なぜ、この文字だけ形が違うのか。


 どうして古い地図には、今は存在しない道が描かれているのか。


 王宮の封蝋は、なぜ家ごとに微妙な配合が違うのか。


 聞かれるたびに、オルネラはできるだけ丁寧に答えた。


 分からなければ、一緒に資料を探した。


 古い文字の読み方も、記録の照合方法も教えた。


 ただし、一つだけ、何度も繰り返したことがある。


 記録に空白があるからといって、必ず誰かが消したとは限らない。


 最初から書かれなかったものもある。


 書こうとした時には、すでに分からなくなっていたものもある。


 そして、本当に消されたものもある。


 その違いを確かめることが、記録を読む人間の仕事だ。


 ティセラはいつも、その説明を真面目に聞いていた。


 だからこそ、あの日、食卓へ大量の紙を広げられた時、オルネラは嫌な予感がした。


「……おばあちゃんは、知ってたの」


 ティセラの声は低かった。


 怒る時ほど静かになるのは、昔からの癖だ。


 小さい頃は、その顔が少しおかしくて笑ってしまったこともある。


 けれど、その日は笑えなかった。


「何を?」


 オルネラは聞き返した。


 本当は、何を聞かれているのか分かっていた。


 それでも、少しだけ時間が欲しかった。


「昔の記録が、おかしな形で残っていることよ」


 ティセラは一枚目を指した。


「ここ。記録番号が飛んでる。こっちは封印責任者の名前だけ空白。その次は処置の記録があるのに、何を処置したのか書いてない」


 紙の上には、古い公文書の写しが並んでいた。


 文字の形も、擦れや欠けの位置も正確だった。


 ティセラの〈転写〉なら、目の前にある文字をそのまま写し取れる。もちろん、元の文書に書かれていないことまで複写できるわけではない。


 研究院の助手がどういう許可を得て資料庫へ入ったのか、オルネラには分からなかった。


 しかし、ここまで調べた以上、孫が簡単に引き下がらないことだけは分かった。


「……番号が飛ぶ理由はいくつもあるわ」


 オルネラが言うと、ティセラは頷いた。


「知ってる」


「担当者の名前も、最初から記載されなかった可能性がある」


「それも考えた」


「だったら」


「でも、処置の承認印まであるのよ」


 ティセラは別の紙を差し出した。


「何かを処置したことは残ってる。なのに対象が書いてない。承認した人の名前もない。これが同じ時期に何件も続いてるの」


 オルネラは、その印を知っていた。


 古い王宮記録官なら、誰でも見覚えがあるわけではない。


 むしろ、見たことのある人間は限られている。


 それでもオルネラは、何も知らないような顔で紙を眺めた。


「……記録が不完全だったのかもしれないわ」


「おばあちゃん」


 ティセラが顔を上げた。


「今、私に嘘をついてる?」


 オルネラは答えられなかった。


 沈黙が長くなる。


 雨の音が、さっきまでより大きく聞こえた。


「……王宮で、古い封印を管理してたんでしょう」


 ティセラが続ける。


「少しだけよ」


「少しじゃないでしょう。おばあちゃんがどれだけ詳しいか、私が知らないと思ってるの?」


 オルネラは目を伏せた。


 その知識を教えたのは、自分だった。


 文字を疑うことも、記録を照らし合わせることも、簡単な答えで納得しないことも。


 孫がそういう人間に育つのを、ずっと喜んできた。


 それなのに、その問いが自分へ向けられた途端、どうにかして止めようとしている。


「……話せないこともあるのよ」


 結局、口から出たのは、その言葉だった。


 ティセラの表情が変わった。


 怒りが強くなったわけではない。


 むしろ、何かを期待するのをやめたような顔だった。


「……そうやって」


 ティセラが言った。


「都合の悪いものは、全部『話せない』にするのね」


「違うわ」


「何が違うの」


「知らない方がいいことだってあるのよ」


「誰にとって?」


 オルネラは口を閉じた。


「王国にとって? 王宮にとって? それとも、おばあちゃんにとって?」


 最後の言葉が、胸へ刺さった。


 ティセラは気づいていない。


 自分がどれほど危険な記録へ近づいているのか。


 それを知れば、きっと調べるのをやめないだろう。


 だから話せない。


 オルネラはそう考えた。


 少なくとも、その時は。


「……あなたには、まだ分からないわ」


 オルネラが言うと、ティセラの顔から表情が消えた。


「じゃあ、いつになったら分かるの?」


「ティセラ」


「私がもっと偉くなったら? 王宮の仕事に就いたら? おばあちゃんと同じ立場になったら?」


 彼女は一度、息を吸った。


「記録を守るって、事実を残すことでしょう」


「……それだけじゃない」


「じゃあ、何なの」


 オルネラは答えられなかった。


 記録を守る。


 その言葉が、ひどく遠いものに聞こえた。


 自分が若い頃、同じことを信じていた。


 必要な情報を残し、危険なものを適切に管理する。


 それが王国のためであり、いつか生まれてくる子供たちのためになる。


 そう思っていた。


 だが、その理屈を孫へ説明するには、どうしても話さなければならないことがあった。


 オルネラ自身が、かつて何をしたのか。


 そのことを考えた途端、言葉が止まった。


「……おばあちゃんは」


 ティセラの声が震えていた。


「記録を守ってるんじゃない。都合のいい形にしてるだけでしょう」


 オルネラは、否定できなかった。


 ティセラはしばらくその顔を見ていた。


 そして、ゆっくり紙を集め始めた。


「……もういい」


 立ち上がり、椅子を元の位置へ戻す。


 その動作が、妙に丁寧だった。


「ティセラ」


 呼び止めると、孫は振り返った。


「私、おばあちゃんみたいにはなりたくない」


 そう言って、上着を取った。


 オルネラは何かを言おうとした。


 最初に浮かんだのは、危ないからやめなさい、という言葉だった。


 次に、すべてがあなたの考えるほど単純ではない、という言葉が浮かんだ。


 けれど、どちらも口にはできなかった。


 ティセラは扉を開け、雨の中へ出ていった。


 最後に何か言った気もする。


 雨音に紛れて、聞き取れなかった。


 オルネラは、追いかけなかった。


 追えば、何もかも話してしまうかもしれない。


 そう思った。


 今になって考えれば、それだけではなかったのだろう。


 孫が自分を嫌う理由を、正面から聞くのが怖かった。


 すでに失望されているのに、さらに軽蔑されるのが怖かったのだ。


 その日の夜、オルネラは長い手紙を書いた。


 けれど、翌朝になっても封をすることができなかった。


     ◇


 雨の音に意識が戻る。


 オルネラは机の前へ座り直した。


 木箱の底に指をかける。


 外から見えないよう細い溝が彫られていて、決まった位置を押すと底板が少し浮くようになっている。


 その下には、一冊の薄い記録帳が隠されていた。


 革張りの表紙は乾燥して硬くなり、角には細かな亀裂が走っている。


 王宮を辞めた時、本来なら返却しなければならなかったものだ。


 持ち出しを後悔した日は何度もある。


 今でも、見つかればただでは済まないだろう。


 それでも、処分できなかった。


 記録を残す仕事をしていた自分が、何を記録し、何を記録しなかったのか。


 その証拠が、ここにしか残っていないかもしれなかったからだ。


 オルネラは革表紙を開いた。


 四十年以上前の文字だった。


 若かった自分の筆跡は、今より少しだけ勢いがある。


 最初の数頁には、古式封蝋の配合や王家の認証方式について、細かな数字が整然と並んでいた。


 その先から、赤い管理印が増えていく。


『古式保全試験』


『帰属分離』


『名称仮置』


『記憶抽出』


 オルネラは一枚ずつ頁をめくった。


 やがて、ある見出しのところで手が止まる。


『固有術搬出試験』


 何十年経っても、その文字を見ると胃の奥が重くなった。


 記録は短かった。


『原帰属者:生存』


『固有術:搬出完了』


『受領者:適合』


『術式安定』


 四つの項目が、整った文字で並んでいる。


 そこだけ読めば、試験は成功したように見える。


 処置後も元の持ち主は生きており、取り出された固有術は受領者へ移った。


 受領者は術を発動できた。


 そして、記録には安定とある。


 当時のオルネラは、それがどれほど重大な成果かを理解していた。


 固有術は、生まれつきのものだ。


 才能でも、努力でも、あとから手に入れられるものではない。


 使い方を学ぶことはできる。


 しかし、持っていない人間が同じ術を使えるようになるとは、誰も考えていなかった。


 それを覆すかもしれない試験だった。


 希少な術を持つ者が亡くなっても、その力を残せるようになる。


 危険な現場で必要な術を、適した人間へ渡せるかもしれない。


 そうすれば、今まで助けられなかった人々を救える。


 当時のオルネラは、本気でそう考えていた。


 しかし、その頁には、肝心なことが書かれていない。


 オルネラは、処置後の原帰属者の顔を覚えていた。


 試験を終えた男は、自分の指を何度も握り直していた。


 術が使えなくなったことを確かめるように、手を開いては閉じる。


 その動作を、繰り返していた。


 身体に目立った損傷はなかった。


 呼吸も脈も安定している。


 意識も明瞭だった。


 だから、医師は大きな異常なしと判断した。


 けれど、男は同じことを何度も訴えた。


「……自分の中に、穴があるんです」


 最初、オルネラには意味が分からなかった。


 固有術がなくなったから、喪失感があるのだろう。


 そう考えた。


 しかし、男は首を振った。


「使えないことは、分かっています。でも、それだけじゃないんです」


 自分の身体が、何かをしようとしている。


 今までなら、ごく自然にできていたことだ。


 考えるより先に働いていたものが、もうない。


 その不在を、身体だけが覚えている。


 男はそんなふうに説明した。


 時折、自分の指先を見つめながら、そこにあるはずのものを探すような仕草をした。


 オルネラは、その様子を記録に加えようと思った。


 ただ、最終報告へ書き込む直前、上官から言われた。


『搬出の成否に直接関係する事項を記録しろ』


 当時の基準では、固有術の搬出は成功していた。


 原帰属者の身体も生存していた。


 受領者は、確かに同じ術を発動した。


 だから、成功と記録する。


 それが当時の規則だった。


 オルネラは、その説明に納得してしまった。


 次の頁へ目を移す。


 受領者についての記録も残っている。


 あの時、術そのものは発動した。


 それは事実だった。


 しかし、受領者は思うように扱えなかった。


 元の持ち主が長年かけて身につけてきた感覚や、身体の使い方まで移るわけではなかったからだ。


 術を使おうとするたび、受領者は動きを確かめ直さなければならなかった。


 慣れない道具を初めて持たされた人間のように、何度も失敗した。


 それでも、最初の数回は動いた。


 だから、記録にはこう残された。


『適合』


 その一文字を書いたのは、オルネラだった。


 あの後、受領者が術を安定して使えた期間は長くなかった。


 処置を受けた二人が、試験についてどう思っていたのか。


 どこまで説明を受け、何を了承していたのか。


 そうしたことも、最終記録にはほとんど残っていない。


 当時のオルネラは、記録が間違っているとは思わなかった。


 決められた項目について、決められた基準どおりに書いたからだ。


 今でも、あの時の報告がすべて虚偽だったとは思わない。


 術は実際に移った。


 受領者が発動したのも確かだ。


 ただし、それで試験が成功したと言えるのかは、別の問題だった。


 あの頁には、試験で何が起きたかの一部しか書かれていない。


 その一部を、誰かがすべてだと思い込むかもしれない。


 しかも、四十年以上経った今、元の記録がどれほど残っているかも分からない。


 オルネラは頁の端へ触れた。


 若い頃の自分が書いた『適合』の二文字は、今でもはっきりと読めた。


 当時、もっと書くことはできたはずだった。


 試験を受けた男の言葉も。


 受領者がその後どうなったかも。


 少なくとも、自分が見たことを補足するよう進言することはできた。


 けれど、しなかった。


 成果を否定したくなかった。


 自分が関わった仕事が、人々の役に立つと信じていたかったのだ。


「……馬鹿だったわね」


 オルネラは呟いた。


 若かったからでは済まない。


 上官に従ったからでも済まない。


 間違っていると最初から分かっていたわけではないことが、むしろ恐ろしかった。


 あの頃の自分は、本気で正しい仕事をしていると思っていたのだから。


     ◇


 玄関の鐘が鳴った。


 オルネラは顔を上げた。


 こんな時間に訪ねてくる相手は少ない。


 近所の者なら裏口を使うし、親しい友人なら訪ねる前に一言知らせてくれる。


 もう一度、鐘が鳴った。


 短く二回。


 間隔まで揃っている。


 公用の訪問を知らせる、王宮独特の鳴らし方だった。


 オルネラは記録帳を閉じ、木箱の底へ戻した。


 それから手紙の束を元どおりに収め、蓋を閉める。


 玄関へ向かう間、膝の奥が少し痛んだ。


 年を取ったものだと思う。


 昔なら階段を駆け下りて、相手が名乗る前に扉を開けられた。


 今は、たった数歩でも急ぐ気にはなれない。


 扉を開けると、濃紺の外套を着た若い男が立っていた。


 胸元には王国官吏の証章があり、手には封書を一通持っている。


「オルネラ・ローヴェン様でいらっしゃいますか」


「もう『様』をつけられるような仕事はしていないわ」


 男は少し困った顔をした。


「王宮記録院より、書状をお預かりしております」


「人違いではないの?」


「旧封印記録官、オルネラ・ローヴェン。間違いございません」


「……嫌なところまで、きちんと調べてくるのね」


 男は返事をしなかった。


 オルネラは差し出された封書を受け取る。


 蝋の色を見た瞬間、指が止まった。


 王宮の正式な封印だった。


 しかも、通常の呼出状では使わない、古式の認証が重ねられている。


 ずいぶん昔に使われなくなったはずの方式だ。


「……返事は、いつまで?」


 オルネラが尋ねる。


「明朝までにお願いいたします」


「急ね」


「緊急の鑑定案件とうかがっております」


「最近の王宮は、年寄りを大事にしないのね」


 若い官吏は困ったように頭を下げた。


 少し悪いことを言ったと思ったが、謝る前に男は一礼して去っていった。


 オルネラは扉を閉じ、食卓へ戻った。


 外套の裾についた雨粒が、床へ落ちる。


 封書を灯りの下へ置き、認証印を確かめた。


 偽物ではない。


 封蝋の配合も、押印位置も正しい。


 ただ、そこへ古式の認証を使う必要があったのかは分からなかった。


 誰かが意図的に、こちらへ知らせようとしたのかもしれない。


 オルネラは慎重に封を切った。


 中には薄い書状が一枚だけ入っていた。


『旧式封印及び古式術式に関する鑑定協力を要請する』


 短い文だった。


 その下に、対象案件が記載されている。


『対象:固有術搬出関連記録』


 オルネラは、しばらく動かなかった。


 雨の音が続いている。


 暖炉の薪が、小さく音を立てて崩れた。


 机の上には、さっきまで読んでいた古い記録帳が隠されている。


 四十年以上前、固有術が人間から切り離され、別の人間へ移された。


 少なくとも、あの試験ではそういう結果が出た。


 その記録が、今になって王宮から呼び出されている。


「……まだ、あれを使おうとしているのね」


 オルネラは呟いた。


 もちろん、古い記録を調べること自体が悪いわけではない。


 事故を防ぐために調査している可能性もある。


 過去の試験を検証し、二度と繰り返さないようにするためかもしれない。


 しかし、鑑定の目的は書かれていなかった。


 誰が何を知りたがっているのかも分からない。


 それなのに、わざわざ古い認証を使って自分を呼んでいる。


 四十年以上も前に記録へ署名した人間を、今になって。


 オルネラは書状を読み直した。


 もう一度、対象案件の文字を確かめる。


 固有術搬出関連記録。


 あの時の試験結果が、どんな目的で使われるのだろう。


 記録を読んだ誰かが、『適合』の二文字だけを根拠に、同じことを繰り返そうとしているとしたら。


 考えたくない想像だった。


 だが、想像したくないからといって、確かめなくていいわけではない。


 オルネラは書状を折り、机の端へ置いた。


     ◇


 木箱の蓋を、もう一度開けた。


 オルネラは隠していた記録帳を取り出し、最初の頁からゆっくりめくった。


 四十年以上前の自分は、整った文字で仕事の成果を残していた。


 そして、六年前の自分は、孫へ何も話さなかった。


 二つは別の出来事だ。


 しかし、まったく無関係でもない。


 若い頃に何をしたのか、きちんと記録へ残さなかった。


 その結果を説明することもできなかった。


 だから孫に問われた時、答えられるはずのことまで曖昧にしてしまった。


 危険な知識から遠ざけたかったという気持ちは、本当にあった。


 けれど、それだけではない。


 自分が何をした人間なのか、ティセラに知られたくなかった。


 尊敬してくれていた孫の目が、失望へ変わるのを見るのが怖かったのだ。


 オルネラは記録帳を閉じた。


 そして、机の中央へ置いてあった便箋を引き寄せる。


『ティセラへ』


 そこまで書かれたままの手紙だった。


 六年間、何度も新しい便箋を使い、何度も途中で止めてきた。


 今度も、すべてを書けるとは思わなかった。


 四十年以上前の試験を、短い手紙だけで説明できるはずがない。


 孫が何を知っているのかも分からない。


 六年間でどんな研究者になり、今どんな毎日を過ごしているのかさえ、よく知らないのだ。


 それでも、何も書かずにいることだけは、もうやめようと思った。


 オルネラは筆を持った。


『六年前、あなたに話せなかったことがあります。』


 そこで一度、手が止まる。


 孫の顔が浮かんだ。


 怒った時ほど声を低くする、あの子の顔だ。


 あなたみたいにはなりたくない。


 そう言って出ていった時、どれほど失望していたのか。


 今も同じ気持ちかもしれない。


 手紙を読まずに捨てられるかもしれない。


 会いたくないと返事が来るかもしれない。


 オルネラはしばらく筆先を見つめていた。


 それから、続きを書いた。


『私は、あなたを危険なものから遠ざけようとしました。でも、それだけが黙っていた理由ではありません。私がしてきた仕事を、あなたに知られるのが怖かったのです。』


 書き終えてから、少しだけ胸が苦しくなった。


 六年前には、どうしても言えなかったことだ。


 それでも、紙の上に残してみると、思っていたほど難しい言葉ではなかった。


 難しかったのは、書くことではない。


 自分で認めることだったのだ。


 オルネラは最後に、もう一つだけ書き加えた。


『もし今も話を聞いてくれるなら、会って説明したいと思っています。許してほしいというより、まず、私が知っていることをきちんと伝えたいのです。』


 そこまで書いて、筆を置いた。


 便箋を最初から読み直す。


 誤字はなかった。


 ただ、気に入らない言い回しが二つほどある。


 昔の自分なら、また新しい紙を用意していただろう。


 もっと正確に。


 誤解されないように。


 誰が読んでも同じ意味に取れるように。


 けれど、今度は書き直さなかった。


 手紙を完璧にするために、また何日も過ぎてしまう気がしたからだ。


 オルネラは便箋を折り、封筒へ入れた。


 角を揃え、封蝋を温める。


 いつもの癖で、封をする前にもう一度宛名を確かめた。


『ティセラ・ローヴェン』


 その名前を書くことが、少し嬉しかった。


 六年間、封筒へ書きながら、最後には毎回木箱へ戻してきた名前だ。


 今度も、孫が受け取ってくれるかは分からない。


 けれど、受け取るかどうかは孫が決めることだ。


 オルネラは、ゆっくり自分の印を押した。


 赤い蝋が固まっていく。


 その間に、王宮から届いた召喚状へ目を向けた。


 明朝までに返事をしなければならない。


 王宮へ行けば、かつての仕事について尋ねられるだろう。


 その時、今度こそ何を記録し、何を隠したのか、自分の言葉で説明できるだろうか。


 自信はなかった。


 それでも、確かめに行く必要がある。


 オルネラは封蝋が冷めたことを確かめ、手紙を持ち上げた。


 木箱はまだ開いている。


 中には、出せなかった手紙が何通も残されていた。


 彼女はしばらくその箱を見ていた。


 それから蓋を閉じる。


 新しく封をした手紙は、箱へ戻さなかった。


 翌朝、王宮へ向かう時に使う鞄の中へ、そっと入れた。

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