出さなかった手紙
オルネラ・ローヴェンは、手紙を書く時だけ、昔の癖が戻った。
便箋を机の中央へ真っ直ぐ置き、右上の角を指先で押さえる。書き終えたら必ず最初から読み直し、誤字がないことを確かめてから封をする。
王宮で記録官をしていた頃、封印済みの書類に一文字の間違いが見つかり、上官から半日説教されたことがあった。
その上官は二十年以上前に亡くなった。
けれど、オルネラは今も封書を作るたび、あの人の小言を思い出す。
人間の習慣とは厄介なものだ。
忘れたいことほど、妙なところへ残っている。
その夜、机の上には一通の手紙が置かれていた。
『ティセラへ』
書けたのは、まだそこまでだった。
窓の外では雨が降っている。
古い屋根を叩く音は静かで、時折、風が雨粒を窓枠へ吹きつけた。暖炉には小さな火が残り、部屋の隅で乾燥させている薬草から、薄い苦味のある香りが漂っている。
オルネラは筆を持ち直した。
孫へ伝えたいことは、いくらでもある。
きちんと食事をしているのか。
冬になると、今でも指先を冷やしていないか。
仕事が忙しい時ほど眠る時間を削る癖は、少しは直っただろうか。
研究のことなら、聞きたいこともあった。
どんな古い記録を見つけたのか。どんな術式を調べているのか。
昔のように、食卓へ資料を広げながら話を聞けたら、どれほど楽しいだろう。
けれど、そうしたことを書こうとするたび、別の言葉が先に浮かんでしまう。
あの日、なぜ黙っていたのか。
どうして引き止めなかったのか。
そして、六年間も手紙を出さなかったのはなぜなのか。
「……今さらね」
オルネラは小さく呟き、机の右側に置いた木箱へ手を伸ばした。
蓋を開くと、何通もの便箋が入っている。
どれも孫宛てだった。
一番古いものには、六年前の冬の日付がある。
『あなたが怒っている理由は分かっています』
そこまで書いて、続けられなくなった。
三か月後には、別の便箋を使った。
『王宮にいた頃、私はあなたに話せない仕事をしていました』
これも途中で止まった。
翌年に書いたものには、
『あなたが言ったことは、全部間違いだったわけではありません』
とある。
読み返すたびに、ひどい文章だと思う。
相手が間違っていなかったと認めながら、何について謝るのかを一つも書いていない。
孫が読めば、また怒るだろう。
それからも年に何度か書いたが、手紙は少しずつ短くなった。
去年の便箋には、たった一行しか残っていない。
『一度、帰ってきませんか』
その一行を読んで、オルネラは苦笑した。
帰ってきてほしい。
ただ、その理由を説明する勇気がない。
自分から会いに行くこともできないくせに、孫の方から来てくれればいいと願っている。
身勝手な手紙だった。
王宮の記録なら、何百枚でも書けた。
封蝋の配合、古式認証の手順、王家に伝わる封印記録の照合方法。どれほど複雑な内容でも、必要な項目を整理すれば、何を書けばよいか分かった。
それなのに、孫へ送る一枚の手紙だけは、どう書き始めても途中で止まってしまう。
書き方を知らないのではない。
返事を受け取るのが、怖いのだ。
オルネラは便箋を木箱へ戻そうとして、手を止めた。
六年前にも、同じような夜があった。
◇
あの日も、雨が降っていた。
ティセラは二十二歳だった。
今より髪が少し長く、王立術式研究院の助手として働き始めたばかりだったが、古い記録へ向ける執着はすでに一人前だった。
子供の頃から、分からないものを放っておけない性格だった。
なぜ、この文字だけ形が違うのか。
どうして古い地図には、今は存在しない道が描かれているのか。
王宮の封蝋は、なぜ家ごとに微妙な配合が違うのか。
聞かれるたびに、オルネラはできるだけ丁寧に答えた。
分からなければ、一緒に資料を探した。
古い文字の読み方も、記録の照合方法も教えた。
ただし、一つだけ、何度も繰り返したことがある。
記録に空白があるからといって、必ず誰かが消したとは限らない。
最初から書かれなかったものもある。
書こうとした時には、すでに分からなくなっていたものもある。
そして、本当に消されたものもある。
その違いを確かめることが、記録を読む人間の仕事だ。
ティセラはいつも、その説明を真面目に聞いていた。
だからこそ、あの日、食卓へ大量の紙を広げられた時、オルネラは嫌な予感がした。
「……おばあちゃんは、知ってたの」
ティセラの声は低かった。
怒る時ほど静かになるのは、昔からの癖だ。
小さい頃は、その顔が少しおかしくて笑ってしまったこともある。
けれど、その日は笑えなかった。
「何を?」
オルネラは聞き返した。
本当は、何を聞かれているのか分かっていた。
それでも、少しだけ時間が欲しかった。
「昔の記録が、おかしな形で残っていることよ」
ティセラは一枚目を指した。
「ここ。記録番号が飛んでる。こっちは封印責任者の名前だけ空白。その次は処置の記録があるのに、何を処置したのか書いてない」
紙の上には、古い公文書の写しが並んでいた。
文字の形も、擦れや欠けの位置も正確だった。
ティセラの〈転写〉なら、目の前にある文字をそのまま写し取れる。もちろん、元の文書に書かれていないことまで複写できるわけではない。
研究院の助手がどういう許可を得て資料庫へ入ったのか、オルネラには分からなかった。
しかし、ここまで調べた以上、孫が簡単に引き下がらないことだけは分かった。
「……番号が飛ぶ理由はいくつもあるわ」
オルネラが言うと、ティセラは頷いた。
「知ってる」
「担当者の名前も、最初から記載されなかった可能性がある」
「それも考えた」
「だったら」
「でも、処置の承認印まであるのよ」
ティセラは別の紙を差し出した。
「何かを処置したことは残ってる。なのに対象が書いてない。承認した人の名前もない。これが同じ時期に何件も続いてるの」
オルネラは、その印を知っていた。
古い王宮記録官なら、誰でも見覚えがあるわけではない。
むしろ、見たことのある人間は限られている。
それでもオルネラは、何も知らないような顔で紙を眺めた。
「……記録が不完全だったのかもしれないわ」
「おばあちゃん」
ティセラが顔を上げた。
「今、私に嘘をついてる?」
オルネラは答えられなかった。
沈黙が長くなる。
雨の音が、さっきまでより大きく聞こえた。
「……王宮で、古い封印を管理してたんでしょう」
ティセラが続ける。
「少しだけよ」
「少しじゃないでしょう。おばあちゃんがどれだけ詳しいか、私が知らないと思ってるの?」
オルネラは目を伏せた。
その知識を教えたのは、自分だった。
文字を疑うことも、記録を照らし合わせることも、簡単な答えで納得しないことも。
孫がそういう人間に育つのを、ずっと喜んできた。
それなのに、その問いが自分へ向けられた途端、どうにかして止めようとしている。
「……話せないこともあるのよ」
結局、口から出たのは、その言葉だった。
ティセラの表情が変わった。
怒りが強くなったわけではない。
むしろ、何かを期待するのをやめたような顔だった。
「……そうやって」
ティセラが言った。
「都合の悪いものは、全部『話せない』にするのね」
「違うわ」
「何が違うの」
「知らない方がいいことだってあるのよ」
「誰にとって?」
オルネラは口を閉じた。
「王国にとって? 王宮にとって? それとも、おばあちゃんにとって?」
最後の言葉が、胸へ刺さった。
ティセラは気づいていない。
自分がどれほど危険な記録へ近づいているのか。
それを知れば、きっと調べるのをやめないだろう。
だから話せない。
オルネラはそう考えた。
少なくとも、その時は。
「……あなたには、まだ分からないわ」
オルネラが言うと、ティセラの顔から表情が消えた。
「じゃあ、いつになったら分かるの?」
「ティセラ」
「私がもっと偉くなったら? 王宮の仕事に就いたら? おばあちゃんと同じ立場になったら?」
彼女は一度、息を吸った。
「記録を守るって、事実を残すことでしょう」
「……それだけじゃない」
「じゃあ、何なの」
オルネラは答えられなかった。
記録を守る。
その言葉が、ひどく遠いものに聞こえた。
自分が若い頃、同じことを信じていた。
必要な情報を残し、危険なものを適切に管理する。
それが王国のためであり、いつか生まれてくる子供たちのためになる。
そう思っていた。
だが、その理屈を孫へ説明するには、どうしても話さなければならないことがあった。
オルネラ自身が、かつて何をしたのか。
そのことを考えた途端、言葉が止まった。
「……おばあちゃんは」
ティセラの声が震えていた。
「記録を守ってるんじゃない。都合のいい形にしてるだけでしょう」
オルネラは、否定できなかった。
ティセラはしばらくその顔を見ていた。
そして、ゆっくり紙を集め始めた。
「……もういい」
立ち上がり、椅子を元の位置へ戻す。
その動作が、妙に丁寧だった。
「ティセラ」
呼び止めると、孫は振り返った。
「私、おばあちゃんみたいにはなりたくない」
そう言って、上着を取った。
オルネラは何かを言おうとした。
最初に浮かんだのは、危ないからやめなさい、という言葉だった。
次に、すべてがあなたの考えるほど単純ではない、という言葉が浮かんだ。
けれど、どちらも口にはできなかった。
ティセラは扉を開け、雨の中へ出ていった。
最後に何か言った気もする。
雨音に紛れて、聞き取れなかった。
オルネラは、追いかけなかった。
追えば、何もかも話してしまうかもしれない。
そう思った。
今になって考えれば、それだけではなかったのだろう。
孫が自分を嫌う理由を、正面から聞くのが怖かった。
すでに失望されているのに、さらに軽蔑されるのが怖かったのだ。
その日の夜、オルネラは長い手紙を書いた。
けれど、翌朝になっても封をすることができなかった。
◇
雨の音に意識が戻る。
オルネラは机の前へ座り直した。
木箱の底に指をかける。
外から見えないよう細い溝が彫られていて、決まった位置を押すと底板が少し浮くようになっている。
その下には、一冊の薄い記録帳が隠されていた。
革張りの表紙は乾燥して硬くなり、角には細かな亀裂が走っている。
王宮を辞めた時、本来なら返却しなければならなかったものだ。
持ち出しを後悔した日は何度もある。
今でも、見つかればただでは済まないだろう。
それでも、処分できなかった。
記録を残す仕事をしていた自分が、何を記録し、何を記録しなかったのか。
その証拠が、ここにしか残っていないかもしれなかったからだ。
オルネラは革表紙を開いた。
四十年以上前の文字だった。
若かった自分の筆跡は、今より少しだけ勢いがある。
最初の数頁には、古式封蝋の配合や王家の認証方式について、細かな数字が整然と並んでいた。
その先から、赤い管理印が増えていく。
『古式保全試験』
『帰属分離』
『名称仮置』
『記憶抽出』
オルネラは一枚ずつ頁をめくった。
やがて、ある見出しのところで手が止まる。
『固有術搬出試験』
何十年経っても、その文字を見ると胃の奥が重くなった。
記録は短かった。
『原帰属者:生存』
『固有術:搬出完了』
『受領者:適合』
『術式安定』
四つの項目が、整った文字で並んでいる。
そこだけ読めば、試験は成功したように見える。
処置後も元の持ち主は生きており、取り出された固有術は受領者へ移った。
受領者は術を発動できた。
そして、記録には安定とある。
当時のオルネラは、それがどれほど重大な成果かを理解していた。
固有術は、生まれつきのものだ。
才能でも、努力でも、あとから手に入れられるものではない。
使い方を学ぶことはできる。
しかし、持っていない人間が同じ術を使えるようになるとは、誰も考えていなかった。
それを覆すかもしれない試験だった。
希少な術を持つ者が亡くなっても、その力を残せるようになる。
危険な現場で必要な術を、適した人間へ渡せるかもしれない。
そうすれば、今まで助けられなかった人々を救える。
当時のオルネラは、本気でそう考えていた。
しかし、その頁には、肝心なことが書かれていない。
オルネラは、処置後の原帰属者の顔を覚えていた。
試験を終えた男は、自分の指を何度も握り直していた。
術が使えなくなったことを確かめるように、手を開いては閉じる。
その動作を、繰り返していた。
身体に目立った損傷はなかった。
呼吸も脈も安定している。
意識も明瞭だった。
だから、医師は大きな異常なしと判断した。
けれど、男は同じことを何度も訴えた。
「……自分の中に、穴があるんです」
最初、オルネラには意味が分からなかった。
固有術がなくなったから、喪失感があるのだろう。
そう考えた。
しかし、男は首を振った。
「使えないことは、分かっています。でも、それだけじゃないんです」
自分の身体が、何かをしようとしている。
今までなら、ごく自然にできていたことだ。
考えるより先に働いていたものが、もうない。
その不在を、身体だけが覚えている。
男はそんなふうに説明した。
時折、自分の指先を見つめながら、そこにあるはずのものを探すような仕草をした。
オルネラは、その様子を記録に加えようと思った。
ただ、最終報告へ書き込む直前、上官から言われた。
『搬出の成否に直接関係する事項を記録しろ』
当時の基準では、固有術の搬出は成功していた。
原帰属者の身体も生存していた。
受領者は、確かに同じ術を発動した。
だから、成功と記録する。
それが当時の規則だった。
オルネラは、その説明に納得してしまった。
次の頁へ目を移す。
受領者についての記録も残っている。
あの時、術そのものは発動した。
それは事実だった。
しかし、受領者は思うように扱えなかった。
元の持ち主が長年かけて身につけてきた感覚や、身体の使い方まで移るわけではなかったからだ。
術を使おうとするたび、受領者は動きを確かめ直さなければならなかった。
慣れない道具を初めて持たされた人間のように、何度も失敗した。
それでも、最初の数回は動いた。
だから、記録にはこう残された。
『適合』
その一文字を書いたのは、オルネラだった。
あの後、受領者が術を安定して使えた期間は長くなかった。
処置を受けた二人が、試験についてどう思っていたのか。
どこまで説明を受け、何を了承していたのか。
そうしたことも、最終記録にはほとんど残っていない。
当時のオルネラは、記録が間違っているとは思わなかった。
決められた項目について、決められた基準どおりに書いたからだ。
今でも、あの時の報告がすべて虚偽だったとは思わない。
術は実際に移った。
受領者が発動したのも確かだ。
ただし、それで試験が成功したと言えるのかは、別の問題だった。
あの頁には、試験で何が起きたかの一部しか書かれていない。
その一部を、誰かがすべてだと思い込むかもしれない。
しかも、四十年以上経った今、元の記録がどれほど残っているかも分からない。
オルネラは頁の端へ触れた。
若い頃の自分が書いた『適合』の二文字は、今でもはっきりと読めた。
当時、もっと書くことはできたはずだった。
試験を受けた男の言葉も。
受領者がその後どうなったかも。
少なくとも、自分が見たことを補足するよう進言することはできた。
けれど、しなかった。
成果を否定したくなかった。
自分が関わった仕事が、人々の役に立つと信じていたかったのだ。
「……馬鹿だったわね」
オルネラは呟いた。
若かったからでは済まない。
上官に従ったからでも済まない。
間違っていると最初から分かっていたわけではないことが、むしろ恐ろしかった。
あの頃の自分は、本気で正しい仕事をしていると思っていたのだから。
◇
玄関の鐘が鳴った。
オルネラは顔を上げた。
こんな時間に訪ねてくる相手は少ない。
近所の者なら裏口を使うし、親しい友人なら訪ねる前に一言知らせてくれる。
もう一度、鐘が鳴った。
短く二回。
間隔まで揃っている。
公用の訪問を知らせる、王宮独特の鳴らし方だった。
オルネラは記録帳を閉じ、木箱の底へ戻した。
それから手紙の束を元どおりに収め、蓋を閉める。
玄関へ向かう間、膝の奥が少し痛んだ。
年を取ったものだと思う。
昔なら階段を駆け下りて、相手が名乗る前に扉を開けられた。
今は、たった数歩でも急ぐ気にはなれない。
扉を開けると、濃紺の外套を着た若い男が立っていた。
胸元には王国官吏の証章があり、手には封書を一通持っている。
「オルネラ・ローヴェン様でいらっしゃいますか」
「もう『様』をつけられるような仕事はしていないわ」
男は少し困った顔をした。
「王宮記録院より、書状をお預かりしております」
「人違いではないの?」
「旧封印記録官、オルネラ・ローヴェン。間違いございません」
「……嫌なところまで、きちんと調べてくるのね」
男は返事をしなかった。
オルネラは差し出された封書を受け取る。
蝋の色を見た瞬間、指が止まった。
王宮の正式な封印だった。
しかも、通常の呼出状では使わない、古式の認証が重ねられている。
ずいぶん昔に使われなくなったはずの方式だ。
「……返事は、いつまで?」
オルネラが尋ねる。
「明朝までにお願いいたします」
「急ね」
「緊急の鑑定案件とうかがっております」
「最近の王宮は、年寄りを大事にしないのね」
若い官吏は困ったように頭を下げた。
少し悪いことを言ったと思ったが、謝る前に男は一礼して去っていった。
オルネラは扉を閉じ、食卓へ戻った。
外套の裾についた雨粒が、床へ落ちる。
封書を灯りの下へ置き、認証印を確かめた。
偽物ではない。
封蝋の配合も、押印位置も正しい。
ただ、そこへ古式の認証を使う必要があったのかは分からなかった。
誰かが意図的に、こちらへ知らせようとしたのかもしれない。
オルネラは慎重に封を切った。
中には薄い書状が一枚だけ入っていた。
『旧式封印及び古式術式に関する鑑定協力を要請する』
短い文だった。
その下に、対象案件が記載されている。
『対象:固有術搬出関連記録』
オルネラは、しばらく動かなかった。
雨の音が続いている。
暖炉の薪が、小さく音を立てて崩れた。
机の上には、さっきまで読んでいた古い記録帳が隠されている。
四十年以上前、固有術が人間から切り離され、別の人間へ移された。
少なくとも、あの試験ではそういう結果が出た。
その記録が、今になって王宮から呼び出されている。
「……まだ、あれを使おうとしているのね」
オルネラは呟いた。
もちろん、古い記録を調べること自体が悪いわけではない。
事故を防ぐために調査している可能性もある。
過去の試験を検証し、二度と繰り返さないようにするためかもしれない。
しかし、鑑定の目的は書かれていなかった。
誰が何を知りたがっているのかも分からない。
それなのに、わざわざ古い認証を使って自分を呼んでいる。
四十年以上も前に記録へ署名した人間を、今になって。
オルネラは書状を読み直した。
もう一度、対象案件の文字を確かめる。
固有術搬出関連記録。
あの時の試験結果が、どんな目的で使われるのだろう。
記録を読んだ誰かが、『適合』の二文字だけを根拠に、同じことを繰り返そうとしているとしたら。
考えたくない想像だった。
だが、想像したくないからといって、確かめなくていいわけではない。
オルネラは書状を折り、机の端へ置いた。
◇
木箱の蓋を、もう一度開けた。
オルネラは隠していた記録帳を取り出し、最初の頁からゆっくりめくった。
四十年以上前の自分は、整った文字で仕事の成果を残していた。
そして、六年前の自分は、孫へ何も話さなかった。
二つは別の出来事だ。
しかし、まったく無関係でもない。
若い頃に何をしたのか、きちんと記録へ残さなかった。
その結果を説明することもできなかった。
だから孫に問われた時、答えられるはずのことまで曖昧にしてしまった。
危険な知識から遠ざけたかったという気持ちは、本当にあった。
けれど、それだけではない。
自分が何をした人間なのか、ティセラに知られたくなかった。
尊敬してくれていた孫の目が、失望へ変わるのを見るのが怖かったのだ。
オルネラは記録帳を閉じた。
そして、机の中央へ置いてあった便箋を引き寄せる。
『ティセラへ』
そこまで書かれたままの手紙だった。
六年間、何度も新しい便箋を使い、何度も途中で止めてきた。
今度も、すべてを書けるとは思わなかった。
四十年以上前の試験を、短い手紙だけで説明できるはずがない。
孫が何を知っているのかも分からない。
六年間でどんな研究者になり、今どんな毎日を過ごしているのかさえ、よく知らないのだ。
それでも、何も書かずにいることだけは、もうやめようと思った。
オルネラは筆を持った。
『六年前、あなたに話せなかったことがあります。』
そこで一度、手が止まる。
孫の顔が浮かんだ。
怒った時ほど声を低くする、あの子の顔だ。
あなたみたいにはなりたくない。
そう言って出ていった時、どれほど失望していたのか。
今も同じ気持ちかもしれない。
手紙を読まずに捨てられるかもしれない。
会いたくないと返事が来るかもしれない。
オルネラはしばらく筆先を見つめていた。
それから、続きを書いた。
『私は、あなたを危険なものから遠ざけようとしました。でも、それだけが黙っていた理由ではありません。私がしてきた仕事を、あなたに知られるのが怖かったのです。』
書き終えてから、少しだけ胸が苦しくなった。
六年前には、どうしても言えなかったことだ。
それでも、紙の上に残してみると、思っていたほど難しい言葉ではなかった。
難しかったのは、書くことではない。
自分で認めることだったのだ。
オルネラは最後に、もう一つだけ書き加えた。
『もし今も話を聞いてくれるなら、会って説明したいと思っています。許してほしいというより、まず、私が知っていることをきちんと伝えたいのです。』
そこまで書いて、筆を置いた。
便箋を最初から読み直す。
誤字はなかった。
ただ、気に入らない言い回しが二つほどある。
昔の自分なら、また新しい紙を用意していただろう。
もっと正確に。
誤解されないように。
誰が読んでも同じ意味に取れるように。
けれど、今度は書き直さなかった。
手紙を完璧にするために、また何日も過ぎてしまう気がしたからだ。
オルネラは便箋を折り、封筒へ入れた。
角を揃え、封蝋を温める。
いつもの癖で、封をする前にもう一度宛名を確かめた。
『ティセラ・ローヴェン』
その名前を書くことが、少し嬉しかった。
六年間、封筒へ書きながら、最後には毎回木箱へ戻してきた名前だ。
今度も、孫が受け取ってくれるかは分からない。
けれど、受け取るかどうかは孫が決めることだ。
オルネラは、ゆっくり自分の印を押した。
赤い蝋が固まっていく。
その間に、王宮から届いた召喚状へ目を向けた。
明朝までに返事をしなければならない。
王宮へ行けば、かつての仕事について尋ねられるだろう。
その時、今度こそ何を記録し、何を隠したのか、自分の言葉で説明できるだろうか。
自信はなかった。
それでも、確かめに行く必要がある。
オルネラは封蝋が冷めたことを確かめ、手紙を持ち上げた。
木箱はまだ開いている。
中には、出せなかった手紙が何通も残されていた。
彼女はしばらくその箱を見ていた。
それから蓋を閉じる。
新しく封をした手紙は、箱へ戻さなかった。
翌朝、王宮へ向かう時に使う鞄の中へ、そっと入れた。




