編集係も中身を選べない
セヴァン・ロークは、目を覚ますとまず自分の名前を確かめた。
セヴァン・ローク。王立保全院、編集局所属。
続いて、最後に覚えている出来事を辿る。
ラヴェルの港、水底街の地下、最初の記憶庫。ユレン・カレルの自己記録と、四十二人分の保全された記憶。
そこで、自分へ向かって歩いてくる副院長の姿が浮かんだ。
逃げようとしたのは右側だった。
その直後、首へ衝撃が走り、何も見えなくなった。
「……嫌になりますね」
「起きたか」
聞き慣れた声がした。
セヴァンは目を開け、顔を向けた。
白い壁に囲まれた小さな部屋だった。窓はなく、寝台の横には水差しと薬の入った小瓶が置かれている。天井の灯具も壁際の呼出紐も見覚えがあった。
保全院の療養室だ。
そして、その隅に置かれた椅子には、今まさに思い出した男が座っていた。
副院長は書類を片手に、いつもの眠そうな顔をしている。制服の襟は少し曲がっていて、椅子の背へ預けた身体にも緊張がない。
ラヴェルの地下で、三人を立て続けに戦闘不能にした男には見えなかった。
「……気分はどうだ」
「あなたに殴られたところが痛いです」
「それだけなら大丈夫そうだな」
「謝罪は?」
「加減したぞ」
「褒めてほしいんですか」
「別に」
副院長は再び書類へ視線を落とした。
セヴァンは身体を起こそうとして、首の後ろへ手を当てた。鈍い痛みが残っている。
十年以上前、編集局へ配属されたばかりの頃にも、似た痛みを経験したことがあった。
訓練中、正面から仕掛けられると右へ逃げる癖が抜けず、何度も同じ相手に捕まった。
正面を見るなとは言わない。ただし、正面以外も見ろ。
そう教えてくれたのが、目の前の男だった。
「……まだ、覚えていたんですね」
「何を?」
「僕が右へ逃げることです」
「ああ」
副院長は少し笑った。
「十年経っても直らなかったのか」
「直したつもりだったんですが」
「危なくなると戻るんだよ、癖ってのは」
セヴァンは苦笑した。
この男が、自分を殺すつもりではなかったことは分かる。殺そうと思えば、もっと簡単にできただろう。
だが、その事実に安心していいのかは別の話だった。
本人が拒否しているにもかかわらず、意識を奪って連れ帰ったのだから。
「……拘束しないんですか」
セヴァンが両手を見る。
手首には何も付けられていなかった。
「お前を?」
「命令違反をした編集局員ですよ」
「今さら縛ったってな」
「逃げたら?」
「追う」
「でしょうね」
逃げ切れるとは思えない。
セヴァンは寝台の端へ腰かけ、足裏を床へ下ろした。少しふらついたが、吐き気はなく、指先の感覚も普段と変わらなかった。
それから、改めて自分の名前を思い浮かべる。
セヴァン・ローク。
編集局所属。
ラヴェルで見たものも、誰と戦ったのかも覚えている。
「……僕の記憶は、まだそのままですか」
副院長の紙をめくる手が止まった。
「そう思うなら、そうなんだろ」
「僕がそう思っていることと、実際に処置されていないことは違います」
「編集局員らしい答えだな」
「あなたに教わったことですよ」
セヴァンは少しだけ笑った。
記憶を失った人間が、自分の記憶の欠損を必ず自覚できるとは限らない。
忘れたことそのものを忘れさせる処置も、理屈の上では考えられる。
今こうして会話できているからといって、何も失っていない証明にはならなかった。
「……消したんですか」
今度は笑わずに尋ねた。
副院長が書類を閉じる。
「まだだ」
セヴァンは、その二文字をしばらく考えた。
「……『消していない』ではないんですね」
「そう聞きたかった?」
「できれば」
「今のところ、お前の記憶へ処置はしてない」
「安心させるのが下手ですね」
「安心させるために連れ帰ったわけじゃないからな」
副院長は椅子から立ち上がった。
その動きは相変わらず緩慢に見える。
だが、ラヴェルで見た戦いを思い出すと、もう気の抜けた動作だとは思えなかった。
◇
「……なぜ、僕を連れ帰ったんです?」
副院長は水差しから杯へ水を注ぎ、それを寝台の脇へ置いた。
「戻れって言ったのに戻らなかったから」
「それだけですか」
「十分だろ」
「十分ではありません」
セヴァンは杯へ手を伸ばさなかった。
「僕が命令違反をしたのなら、移送係に引き渡せば済んだはずです。あなた自身が僕を担いで戻る必要はない」
「重かったぞ」
「そこは謝りません」
「細いくせに、意外とな」
「話をずらさないでください」
副院長は面倒そうに頭をかいた。
「お前、昔よりしつこくなったな」
「あなたに教わりました」
「何でも俺のせいにするなよ」
「便利なので」
少しだけ沈黙が落ちた。
セヴァンは返事を待った。
この男を急かしても意味はない。答えられない時と、答えを選んでいる時では、沈黙の長さが違う。
長年の付き合いで、それくらいは分かるようになっていた。
「……管理権限から命令が来てた」
副院長がようやく言った。
「記憶群の移送命令ですか」
「それだけじゃない」
「……ほかにも?」
「あの場所で機密情報を知った職員について、必要に応じて保全措置を取れとな」
セヴァンは息を止めた。
「……僕も?」
「ああ」
「エルセも?」
「対象になり得る」
セヴァンはしばらく考えた。
ラヴェルの地下で見た古い施設。
最初の記憶庫。
空白のまま残されていた世界所有者の欄。
それらを知った職員を、保全院の管理権限はどう扱おうとしていたのだろう。
機密保持の誓約で済むなら、まだいい。
だが、わざわざ保全措置という言葉を使っている。
「……つまり、必要なら僕たちの記憶を処置するつもりだった」
「可能性はあったな」
「それで、あなたの管理下に置いた?」
「上の連中に直接渡すより、面倒が少ないからな」
「誰にとってですか」
「俺にとって」
返事は早かった。
セヴァンは思わず笑ってしまった。
「……本当に、そういう言い方しかしませんね」
「嫌なら別の言い方でもいいぞ」
「例えば?」
「俺が全部うまくやった」
「それは絶対に違います」
「だろ」
副院長も笑った。
その笑い方が、ひどく懐かしかった。
編集局へ配属されたばかりの頃、セヴァンはこの男を苦手だと思っていた。
何でも知っているくせに、肝心なことは教えない。手順の理由を尋ねると、まず自分で考えろと言う。
それでも、失敗した時には必ず一緒に記録を見直してくれた。
その人が今、自分を危険から遠ざけたのかもしれない。
だが、同時に自分の意思を踏みにじったことも確かだった。
「……先生」
昔の呼び方が、自然に口から出た。
副院長が目を向ける。
「何だ」
「僕を守ろうとしたとしても、あのやり方を正しいとは思えません」
「そうだろうな」
「否定しないんですね」
「お前が納得してないのは見れば分かる」
「分かっていてやったんですか」
「ああ」
セヴァンは、しばらく何も言えなかった。
この男は時々、あまりに簡単に自分のしたことを認める。
言い訳をしないのは美点なのかもしれない。
だが、言い訳をしないことと、傷つけられた相手への責任を果たすことは違う。
「……セインが怒るわけです」
副院長の目が、わずかに動いた。
「あいつは昔からよく怒る」
「あなたに対しては、随分我慢していたように見えましたけど」
「……そうかもな」
セヴァンはそれ以上、聞かなかった。
あの二人が積み重ねてきたものを、すべて知っているわけではない。
ラヴェルで見たのは、ほんの一部だ。
編集局にいれば、ほかの人間が残した記憶や記録へ触れる機会は多い。
けれど、知ることができるからといって、どこまで踏み込んでもいいわけではなかった。
「……エルセは?」
話を変える。
「残した」
「彼女も命令に逆らったでしょう」
「ああ」
「どうして連れ帰らなかったんです?」
「もう一戦する必要があったからな」
「勝てるでしょう」
「勝てるから毎回殴ってたら、部下がいなくなるぞ」
「それを僕を殴った人が言いますか」
「お前は先に逆らったから」
「エルセも逆らいましたよ」
「そうだったな」
副院長は少し考えるふりをした。
「じゃあ、贔屓だ」
「最低ですね」
「今さら?」
セヴァンはため息をついた。
どうしても、この男の話し方に引きずられてしまう。
昔からそうだった。
ただ、今は分かっている。
冗談で会話を終わらせれば、結局、肝心なことは聞けないままになる。
「……僕は、これからどうなります?」
「しばらく院内待機だ」
「編集局へは?」
「戻す予定はない」
「セインたちへの連絡は?」
「禁止」
「理由は?」
「また地下へ戻る手伝いをするだろ」
「するかもしれませんね」
「だったら駄目だ」
副院長は扉へ向かった。
セヴァンはその背中を見る。
「……僕は、このまま従うつもりはありませんよ」
男の足が止まった。
「知ってる」
振り返らずに答える。
「だから、ここへ置いたんだ」
扉が閉まった。
セヴァンはようやく、水差しから注がれた水を飲んだ。
ぬるかった。
どうせなら冷たい水を用意してほしかったが、今さらそんなことを文句にしたところで、あの男は笑うだけだろう。
それでも、次に会ったら言ってやろうと思った。
◇
その後、セヴァンは院内待機を命じられたまま、いくつもの朝を迎えた。
外出は禁止。
編集局の保全資料も、自由には閲覧できない。
療養室を出る許可は下りたが、担当する仕事はなく、行ける場所も限られていた。
毎朝、決められた時刻に状態確認を受ける。
首の痛みは数日でほとんど消えた。
右肩には以前の負傷が残っていたが、こちらも少しずつ動かしやすくなっている。
身体が回復していくのに、扱いだけが変わらない。
そのことが、セヴァンには妙に腹立たしかった。
廊下の向こうでは、保全院が普段どおり動いている。
記録係が書類を運び、保存係が保全庫の鍵を確認し、移送係が積み荷の番号を読み上げる。
人々の記憶から一人の男が消えていたことも、世界の所有者を示す欄が空白だったことも、建物全体を止めるほどの出来事ではないらしい。
朝になれば、誰かが仕事を始める。
夕方には記録を締め、翌朝にはまた別の案件が届く。
セヴァンは昔から、その規則正しさを頼もしいと思っていた。
今は、少し怖かった。
自分の記憶が失われる命令が出たとしても、きっと廊下の向こうでは普段どおり仕事が続く。
記録の中へ適切な処置番号が付けられ、誰かが確認印を押す。
その翌日にも、職員たちは同じ廊下を歩くのだろう。
それを考えると、どうしても落ち着かなかった。
◇
副院長の執務室へ呼ばれたのは、そんな日々が続いた後だった。
セヴァンが扉を開くと、男は机へ向かって書類を読んでいた。
室内には分類された帳簿が並び、壁際には古い保全箱がいくつも積まれている。
どれも所定の場所に収まっていた。
「……意外ですね」
セヴァンが言うと、副院長は顔を上げた。
「何が」
「ここはちゃんと片付けるんですね」
「部下がやるからな」
「最低です」
「お前も偉くなれば分かる」
「ますますなりたくなくなりました」
副院長が少し笑った。
セヴァンは向かいの椅子へ座ろうとしたが、男が何も勧めないので立ったままにした。
「……今日は何の用です?」
「お前の処分について、まだ決まってないからな」
「その報告をするためだけに呼んだんですか」
「いや。報告書を確認したくて」
「僕の?」
「ああ」
副院長は紙の束を差し出した。
ラヴェルの地下で起きた出来事をまとめた記録だった。
最初の記憶庫。
ユレン・カレル。
四十二人分の保全記憶。
そして、セヴァン自身の命令違反。
項目は簡潔に整理されていたが、書類を読んだセヴァンは途中で眉を寄せた。
「……僕が副院長の移送指示を妨害したことになっていますね」
「事実だろ」
「先に移送を止めたのは、あなたです」
「そうだったか?」
「忘れたんですか」
「いや、覚えてる」
「だったら、書き直してください」
副院長は書類を受け取ると、少し面倒そうに訂正線を引いた。
「……これでいいか」
「あと、記憶群の搬出を危険と判断したのは、エルセです」
「そうだな」
「僕だけが反対したように書かれると、あの場の判断が変わってしまいます」
「……細かいな」
「編集局員ですから」
副院長は、何も言わずに二か所を書き直した。
その手元を見て、セヴァンは少しだけ安心した。
これだ。
昔から、この人はそうだった。
記録に間違いがあれば、指摘した者が誰であっても直す。
そのことと、記録を残す前に本人の記憶を処置しようとすることが、どうして同じ人間の中で矛盾しないのか。
今も、理解できなかった。
「……一つ聞いても?」
セヴァンが尋ねた。
「もう随分聞いてるだろ」
「四十二人の記憶は、そのままですか」
副院長がペンを止めた。
「ああ」
「回収しないんですね」
「今のところはな」
「セインたちが触る可能性もありますよ」
「もう触ってるかもしれん」
「……止めなくて?」
「全部を俺が決めなくてもいいだろ」
セヴァンは顔を上げた。
思わず、笑いそうになる。
「……あなたがそれを言いますか」
「言ったら悪いか」
「いえ」
セヴァンは小さく首を振った。
「ただ、何がきっかけで考えが変わるのかと思いまして」
副院長は答えなかった。
代わりに、訂正した報告書をもう一度読み直す。
その沈黙が何を意味するのか、セヴァンには分からなかった。
昔なら、ここで何かを聞き出そうとしたかもしれない。
だが、今回は待つことにした。
話さないものを無理に引き出せるほど、自分がこの男を理解しているとも思えなかった。
◇
扉が二度叩かれた。
「入れ」
副院長が言う。
現れたのは、記録係の若い男だった。
両手へ薄い封筒を抱えている。
「副院長。管理部より優先文書です」
「そこへ置いといて」
「受領確認が必要です」
「面倒だな」
「規則ですので」
「みんなそれ言うな」
副院長は受領印を押した。
若い記録係は、それを確認してから部屋を出ていった。
残された封筒には、保全院の印のほかに、三本の細い黒線が引かれていた。
セヴァンは、その印を知っている。
通常の部署間文書では使われない。
管理権限から直接下された命令にだけ付く、特別な印だった。
「……見ても?」
「駄目」
「まだ何もしてませんよ」
「顔に書いてある」
「そうですか」
セヴァンは少し笑った。
副院長が封を切る。
中から二枚の書類を取り出し、一枚目を読み始めた。
最初は、何も変わらなかった。
いつもの眠そうな目で文字を追い、面倒そうに一度だけ息を吐く。
しかし、二枚目へ視線を移した時だった。
その目が、わずかに細くなった。
セヴァンは、その変化を見逃さなかった。
「……何かありましたか」
「別に」
「今、仕事が増えた時の顔をしましたよ」
「よく分かったな」
「長い付き合いですから」
副院長はしばらく書類を見つめていた。
やがて、一枚目を裏返し、机の端へ置く。
その時、セヴァンの立っている位置から、表題の一部が見えた。
『固有術保全計画』
思わず、息を止めた。
副院長は気づいたらしく、書類から目を上げる。
「……見えたか」
「そこまで大きな文字なら」
「昔から目ざといな」
「……再開するんですか」
副院長は答えなかった。
セヴァンは机の上の紙を見つめた。
固有術保全計画。
その名前は、編集局へ入ったばかりの頃に聞いたことがあった。
ただし、実際に処置へ関わったことはない。
古い資料の閲覧申請を出した時にも、管理権限の承認が必要だとして却下された。
少なくとも、自分が知る限り、計画は長く凍結されたままだった。
「……理由は?」
セヴァンが尋ねた。
副院長は二枚目の書類を指で叩いた。
「これだ」
「内容は?」
「お前には見せられん」
「……そこまで言っておいて?」
「一応、今は院内待機中だからな」
セヴァンはため息をついた。
副院長はそんな彼を見て、少しだけ考えているようだった。
やがて、書類の一部を指で押さえたまま、口を開く。
「……搬出済みの固有術の一部が、国外へ流れた可能性があるらしい」
セヴァンは、すぐには答えられなかった。
もう一度、頭の中で言葉を並べる。
固有術。
搬出済み。
国外流出。
それぞれの意味は分かる。
だが、三つが同じ命令書に載っていることが、すぐには理解できなかった。
「……誤記では?」
ようやく尋ねた。
「俺もそう思いたい」
「そもそも、搬出されたという事実は確認されているんですか」
「まだ全部は分からん」
「移動先は?」
「不明」
「誰の術かは?」
「それも、この紙からは分からない」
副院長の答えを聞くたびに、セヴァンの胸の奥へ嫌な感覚が広がっていった。
ただし、それは今までと種類の違う恐怖だった。
ラヴェルで見た記憶の保全処置も、十分に異常だった。
人間から記憶を取り出し、容器へ収める。
本人の同意がないまま、それを行うことさえできる。
それだけでも、考えるべきことはいくらでもあった。
しかし、固有術となれば話が違う。
「……本当に、そんなことが可能なら」
セヴァンは呟いた。
副院長が顔を上げる。
「何が起きると思う?」
セヴァンは少し考えた。
固有術は生まれつきの力だ。
本人が何を望んだかとは関係なく、誰にどんな術が宿るかは選べない。
だから、その力に合わせて仕事を選ぶ人もいれば、使い道を見つけられずに暮らす人もいる。
それが当たり前だった。
だが、もし。
固有術を持ち主から切り離し、別の場所へ運べるとしたら。
その先で何ができるかは、まだ分からない。
別の人間へ宿すことができるのか、それとも何かの装置に使われるのか。
ただ保管されているだけなのか。
どの可能性も、現時点では確かめられていない。
それでも、金銭や権力を持つ人間が、その仕組みを欲しがることだけは容易に想像できた。
「……欲しがる人間は、いくらでもいますね」
セヴァンが答える。
「ああ」
「どんな力があるか分かれば、持ち主を探す者も出るでしょう。本人が手放す気がなくても」
「そうだな」
「保管するだけの技術だったとしても、危険です」
「……理由は?」
セヴァンは副院長を見た。
「奪ってから保管すれば、それだけで相手は使えなくなるかもしれないからです」
副院長は何も言わなかった。
セヴァンは続ける。
「国外へ流れたということは、少なくとも誰かが動かした可能性がある。事故なのか、持ち出しなのか、盗難なのかも分かっていない」
「……ああ」
「もし誰かが意図的に運んだのなら、目的を確かめなければなりません」
セヴァンはそこで口を閉じた。
少し前まで、ラヴェルの地下で命令違反をしていた。
その結果、今は院内待機中だ。
それなのに、また保全院の仕事について真面目に考えている。
自分でも、少し嫌になった。
「……僕は本当に編集局員ですね」
思わず呟く。
副院長が笑った。
「今さら気づいたか」
「もっと別の仕事を選べばよかった」
「そうか?」
「少なくとも、あなたに殴られずに済んだかもしれません」
「別の仕事でも、殴られる奴は殴られるぞ」
「……慰めるのが下手ですね」
「慰めてないからな」
セヴァンは苦笑した。
この男と話していると、時々、自分がどうして怒っていたのか分からなくなる。
それが一番厄介だった。
◇
「……先生」
セヴァンが呼んだ。
副院長は顔を上げた。
「何だ」
「この計画に、あなたは賛成なんですか」
少し長い沈黙があった。
副院長は机の上の命令書を見つめている。
窓のない部屋には、廊下から聞こえる足音だけが届いていた。
「……昔はな」
ようやく、男が答えた。
セヴァンは眉を寄せる。
「……昔は?」
「ああ」
「今は違うんですか」
副院長は答えず、書類を揃えた。
その仕草だけは、いつもと変わらない。
「……今は、仕事が増えたと思ってる」
セヴァンは小さく息を吐いた。
「答えになってません」
「知ってる」
副院長はそう答えると、二枚の命令書を封筒へ戻した。
そのまま机の引き出しへしまおうとして、手を止める。
「……セヴァン」
「はい」
「お前、編集局へ戻りたいんだよな」
「戻りたいですよ」
「なら、余計なことはするな」
セヴァンは男の顔を見た。
「……それは命令ですか」
「忠告だ」
「あなたの忠告って、大抵あとから意味が変わるんですよね」
「そうだったか?」
「僕が何度、振り回されたと思ってるんです」
副院長は少しだけ笑った。
しかし、次に口を開いた時、声から笑みが消えていた。
「……今度は、俺のところへ連れて帰るだけじゃ済まんかもしれないぞ」
セヴァンは黙った。
何を指しているのか、詳しく聞くことはできる。
けれど、答えが返ってくるとも思えなかった。
それでも、一つだけ確かめておきたかった。
「……僕の記憶を守るために、また殴るつもりですか」
副院長は目を細めた。
「必要ならな」
「……最悪ですね」
「ああ」
男は、今度は否定しなかった。
セヴァンはしばらくその顔を見ていた。
そして、ゆっくり頷く。
「……分かりました」
副院長が少し意外そうな顔をした。
「素直だな」
「あなたの言いたいことは、分かりました」
「そうか」
「ただ、従うかどうかは別です」
副院長が笑った。
「……だろうな」
セヴァンも、少しだけ笑った。
それで会話は終わった。
セヴァンは一礼し、執務室を出た。
扉が閉まる直前、机の上に置かれた封筒がもう一度目に入った。
管理権限の印である、三本の黒い線。
その下には、さっきまでなかった小さな管理札が重ねられている。
『再開』
たった二文字だった。
セヴァンは廊下へ出ると、静かに扉を閉めた。
向こう側では、若い職員たちが普段どおり書類を運んでいる。誰も、今何が決まろうとしているのか知らないようだった。
編集係の仕事は、記憶や記録を適切な形へ整えることだ。
不要な部分を見極め、危険な情報を分離し、必要なら閲覧できる者を制限する。
だからこそ、扱う中身は自分で選べない。
誰かが生きてきた時間を、都合のいいものだけにして預かることはできないからだ。
セヴァンは、今朝確認した自分の名前を、もう一度心の中で呼んだ。
セヴァン・ローク。
王立保全院、編集局所属。
少なくとも今は、自分が何を知っているかを覚えている。
そして、あの命令書が再び机の上へ出された時、自分が何をすべきかについても、まだ決められる。
セヴァンは廊下の先へ視線を向けた。
何も知らない職員たちが、次々とすれ違っていく。
もし本当に、固有術が人間から切り離され、どこかへ運ばれているのなら。
その記録を見つけた時、自分はどんな判断を下すのだろう。
答えはまだ出ていなかった。
ただ、今度こそ見なかったことにするつもりはなかった。




