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王都の返却士 ~その落とし物、世界のものです~  作者: 紙森 灯
幕間③

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編集係も中身を選べない

 

 セヴァン・ロークは、目を覚ますとまず自分の名前を確かめた。


 セヴァン・ローク。王立保全院、編集局所属。


 続いて、最後に覚えている出来事を辿る。


 ラヴェルの港、水底街の地下、最初の記憶庫。ユレン・カレルの自己記録と、四十二人分の保全された記憶。


 そこで、自分へ向かって歩いてくる副院長の姿が浮かんだ。


 逃げようとしたのは右側だった。


 その直後、首へ衝撃が走り、何も見えなくなった。


「……嫌になりますね」


「起きたか」


 聞き慣れた声がした。


 セヴァンは目を開け、顔を向けた。


 白い壁に囲まれた小さな部屋だった。窓はなく、寝台の横には水差しと薬の入った小瓶が置かれている。天井の灯具も壁際の呼出紐も見覚えがあった。


 保全院の療養室だ。


 そして、その隅に置かれた椅子には、今まさに思い出した男が座っていた。


 副院長は書類を片手に、いつもの眠そうな顔をしている。制服の襟は少し曲がっていて、椅子の背へ預けた身体にも緊張がない。


 ラヴェルの地下で、三人を立て続けに戦闘不能にした男には見えなかった。


「……気分はどうだ」


「あなたに殴られたところが痛いです」


「それだけなら大丈夫そうだな」


「謝罪は?」


「加減したぞ」


「褒めてほしいんですか」


「別に」


 副院長は再び書類へ視線を落とした。


 セヴァンは身体を起こそうとして、首の後ろへ手を当てた。鈍い痛みが残っている。


 十年以上前、編集局へ配属されたばかりの頃にも、似た痛みを経験したことがあった。


 訓練中、正面から仕掛けられると右へ逃げる癖が抜けず、何度も同じ相手に捕まった。


 正面を見るなとは言わない。ただし、正面以外も見ろ。


 そう教えてくれたのが、目の前の男だった。


「……まだ、覚えていたんですね」


「何を?」


「僕が右へ逃げることです」


「ああ」


 副院長は少し笑った。


「十年経っても直らなかったのか」


「直したつもりだったんですが」


「危なくなると戻るんだよ、癖ってのは」


 セヴァンは苦笑した。


 この男が、自分を殺すつもりではなかったことは分かる。殺そうと思えば、もっと簡単にできただろう。


 だが、その事実に安心していいのかは別の話だった。


 本人が拒否しているにもかかわらず、意識を奪って連れ帰ったのだから。


「……拘束しないんですか」


 セヴァンが両手を見る。


 手首には何も付けられていなかった。


「お前を?」


「命令違反をした編集局員ですよ」


「今さら縛ったってな」


「逃げたら?」


「追う」


「でしょうね」


 逃げ切れるとは思えない。


 セヴァンは寝台の端へ腰かけ、足裏を床へ下ろした。少しふらついたが、吐き気はなく、指先の感覚も普段と変わらなかった。


 それから、改めて自分の名前を思い浮かべる。


 セヴァン・ローク。


 編集局所属。


 ラヴェルで見たものも、誰と戦ったのかも覚えている。


「……僕の記憶は、まだそのままですか」


 副院長の紙をめくる手が止まった。


「そう思うなら、そうなんだろ」


「僕がそう思っていることと、実際に処置されていないことは違います」


「編集局員らしい答えだな」


「あなたに教わったことですよ」


 セヴァンは少しだけ笑った。


 記憶を失った人間が、自分の記憶の欠損を必ず自覚できるとは限らない。


 忘れたことそのものを忘れさせる処置も、理屈の上では考えられる。


 今こうして会話できているからといって、何も失っていない証明にはならなかった。


「……消したんですか」


 今度は笑わずに尋ねた。


 副院長が書類を閉じる。


「まだだ」


 セヴァンは、その二文字をしばらく考えた。


「……『消していない』ではないんですね」


「そう聞きたかった?」


「できれば」


「今のところ、お前の記憶へ処置はしてない」


「安心させるのが下手ですね」


「安心させるために連れ帰ったわけじゃないからな」


 副院長は椅子から立ち上がった。


 その動きは相変わらず緩慢に見える。


 だが、ラヴェルで見た戦いを思い出すと、もう気の抜けた動作だとは思えなかった。


     ◇


「……なぜ、僕を連れ帰ったんです?」


 副院長は水差しから杯へ水を注ぎ、それを寝台の脇へ置いた。


「戻れって言ったのに戻らなかったから」


「それだけですか」


「十分だろ」


「十分ではありません」


 セヴァンは杯へ手を伸ばさなかった。


「僕が命令違反をしたのなら、移送係に引き渡せば済んだはずです。あなた自身が僕を担いで戻る必要はない」


「重かったぞ」


「そこは謝りません」


「細いくせに、意外とな」


「話をずらさないでください」


 副院長は面倒そうに頭をかいた。


「お前、昔よりしつこくなったな」


「あなたに教わりました」


「何でも俺のせいにするなよ」


「便利なので」


 少しだけ沈黙が落ちた。


 セヴァンは返事を待った。


 この男を急かしても意味はない。答えられない時と、答えを選んでいる時では、沈黙の長さが違う。


 長年の付き合いで、それくらいは分かるようになっていた。


「……管理権限から命令が来てた」


 副院長がようやく言った。


「記憶群の移送命令ですか」


「それだけじゃない」


「……ほかにも?」


「あの場所で機密情報を知った職員について、必要に応じて保全措置を取れとな」


 セヴァンは息を止めた。


「……僕も?」


「ああ」


「エルセも?」


「対象になり得る」


 セヴァンはしばらく考えた。


 ラヴェルの地下で見た古い施設。


 最初の記憶庫。


 空白のまま残されていた世界所有者の欄。


 それらを知った職員を、保全院の管理権限はどう扱おうとしていたのだろう。


 機密保持の誓約で済むなら、まだいい。


 だが、わざわざ保全措置という言葉を使っている。


「……つまり、必要なら僕たちの記憶を処置するつもりだった」


「可能性はあったな」


「それで、あなたの管理下に置いた?」


「上の連中に直接渡すより、面倒が少ないからな」


「誰にとってですか」


「俺にとって」


 返事は早かった。


 セヴァンは思わず笑ってしまった。


「……本当に、そういう言い方しかしませんね」


「嫌なら別の言い方でもいいぞ」


「例えば?」


「俺が全部うまくやった」


「それは絶対に違います」


「だろ」


 副院長も笑った。


 その笑い方が、ひどく懐かしかった。


 編集局へ配属されたばかりの頃、セヴァンはこの男を苦手だと思っていた。


 何でも知っているくせに、肝心なことは教えない。手順の理由を尋ねると、まず自分で考えろと言う。


 それでも、失敗した時には必ず一緒に記録を見直してくれた。


 その人が今、自分を危険から遠ざけたのかもしれない。


 だが、同時に自分の意思を踏みにじったことも確かだった。


「……先生」


 昔の呼び方が、自然に口から出た。


 副院長が目を向ける。


「何だ」


「僕を守ろうとしたとしても、あのやり方を正しいとは思えません」


「そうだろうな」


「否定しないんですね」


「お前が納得してないのは見れば分かる」


「分かっていてやったんですか」


「ああ」


 セヴァンは、しばらく何も言えなかった。


 この男は時々、あまりに簡単に自分のしたことを認める。


 言い訳をしないのは美点なのかもしれない。


 だが、言い訳をしないことと、傷つけられた相手への責任を果たすことは違う。


「……セインが怒るわけです」


 副院長の目が、わずかに動いた。


「あいつは昔からよく怒る」


「あなたに対しては、随分我慢していたように見えましたけど」


「……そうかもな」


 セヴァンはそれ以上、聞かなかった。


 あの二人が積み重ねてきたものを、すべて知っているわけではない。


 ラヴェルで見たのは、ほんの一部だ。


 編集局にいれば、ほかの人間が残した記憶や記録へ触れる機会は多い。


 けれど、知ることができるからといって、どこまで踏み込んでもいいわけではなかった。


「……エルセは?」


 話を変える。


「残した」


「彼女も命令に逆らったでしょう」


「ああ」


「どうして連れ帰らなかったんです?」


「もう一戦する必要があったからな」


「勝てるでしょう」


「勝てるから毎回殴ってたら、部下がいなくなるぞ」


「それを僕を殴った人が言いますか」


「お前は先に逆らったから」


「エルセも逆らいましたよ」


「そうだったな」


 副院長は少し考えるふりをした。


「じゃあ、贔屓だ」


「最低ですね」


「今さら?」


 セヴァンはため息をついた。


 どうしても、この男の話し方に引きずられてしまう。


 昔からそうだった。


 ただ、今は分かっている。


 冗談で会話を終わらせれば、結局、肝心なことは聞けないままになる。


「……僕は、これからどうなります?」


「しばらく院内待機だ」


「編集局へは?」


「戻す予定はない」


「セインたちへの連絡は?」


「禁止」


「理由は?」


「また地下へ戻る手伝いをするだろ」


「するかもしれませんね」


「だったら駄目だ」


 副院長は扉へ向かった。


 セヴァンはその背中を見る。


「……僕は、このまま従うつもりはありませんよ」


 男の足が止まった。


「知ってる」


 振り返らずに答える。


「だから、ここへ置いたんだ」


 扉が閉まった。


 セヴァンはようやく、水差しから注がれた水を飲んだ。


 ぬるかった。


 どうせなら冷たい水を用意してほしかったが、今さらそんなことを文句にしたところで、あの男は笑うだけだろう。


 それでも、次に会ったら言ってやろうと思った。


     ◇


 その後、セヴァンは院内待機を命じられたまま、いくつもの朝を迎えた。


 外出は禁止。


 編集局の保全資料も、自由には閲覧できない。


 療養室を出る許可は下りたが、担当する仕事はなく、行ける場所も限られていた。


 毎朝、決められた時刻に状態確認を受ける。


 首の痛みは数日でほとんど消えた。


 右肩には以前の負傷が残っていたが、こちらも少しずつ動かしやすくなっている。


 身体が回復していくのに、扱いだけが変わらない。


 そのことが、セヴァンには妙に腹立たしかった。


 廊下の向こうでは、保全院が普段どおり動いている。


 記録係が書類を運び、保存係が保全庫の鍵を確認し、移送係が積み荷の番号を読み上げる。


 人々の記憶から一人の男が消えていたことも、世界の所有者を示す欄が空白だったことも、建物全体を止めるほどの出来事ではないらしい。


 朝になれば、誰かが仕事を始める。


 夕方には記録を締め、翌朝にはまた別の案件が届く。


 セヴァンは昔から、その規則正しさを頼もしいと思っていた。


 今は、少し怖かった。


 自分の記憶が失われる命令が出たとしても、きっと廊下の向こうでは普段どおり仕事が続く。


 記録の中へ適切な処置番号が付けられ、誰かが確認印を押す。


 その翌日にも、職員たちは同じ廊下を歩くのだろう。


 それを考えると、どうしても落ち着かなかった。


     ◇


 副院長の執務室へ呼ばれたのは、そんな日々が続いた後だった。


 セヴァンが扉を開くと、男は机へ向かって書類を読んでいた。


 室内には分類された帳簿が並び、壁際には古い保全箱がいくつも積まれている。


 どれも所定の場所に収まっていた。


「……意外ですね」


 セヴァンが言うと、副院長は顔を上げた。


「何が」


「ここはちゃんと片付けるんですね」


「部下がやるからな」


「最低です」


「お前も偉くなれば分かる」


「ますますなりたくなくなりました」


 副院長が少し笑った。


 セヴァンは向かいの椅子へ座ろうとしたが、男が何も勧めないので立ったままにした。


「……今日は何の用です?」


「お前の処分について、まだ決まってないからな」


「その報告をするためだけに呼んだんですか」


「いや。報告書を確認したくて」


「僕の?」


「ああ」


 副院長は紙の束を差し出した。


 ラヴェルの地下で起きた出来事をまとめた記録だった。


 最初の記憶庫。


 ユレン・カレル。


 四十二人分の保全記憶。


 そして、セヴァン自身の命令違反。


 項目は簡潔に整理されていたが、書類を読んだセヴァンは途中で眉を寄せた。


「……僕が副院長の移送指示を妨害したことになっていますね」


「事実だろ」


「先に移送を止めたのは、あなたです」


「そうだったか?」


「忘れたんですか」


「いや、覚えてる」


「だったら、書き直してください」


 副院長は書類を受け取ると、少し面倒そうに訂正線を引いた。


「……これでいいか」


「あと、記憶群の搬出を危険と判断したのは、エルセです」


「そうだな」


「僕だけが反対したように書かれると、あの場の判断が変わってしまいます」


「……細かいな」


「編集局員ですから」


 副院長は、何も言わずに二か所を書き直した。


 その手元を見て、セヴァンは少しだけ安心した。


 これだ。


 昔から、この人はそうだった。


 記録に間違いがあれば、指摘した者が誰であっても直す。


 そのことと、記録を残す前に本人の記憶を処置しようとすることが、どうして同じ人間の中で矛盾しないのか。


 今も、理解できなかった。


「……一つ聞いても?」


 セヴァンが尋ねた。


「もう随分聞いてるだろ」


「四十二人の記憶は、そのままですか」


 副院長がペンを止めた。


「ああ」


「回収しないんですね」


「今のところはな」


「セインたちが触る可能性もありますよ」


「もう触ってるかもしれん」


「……止めなくて?」


「全部を俺が決めなくてもいいだろ」


 セヴァンは顔を上げた。


 思わず、笑いそうになる。


「……あなたがそれを言いますか」


「言ったら悪いか」


「いえ」


 セヴァンは小さく首を振った。


「ただ、何がきっかけで考えが変わるのかと思いまして」


 副院長は答えなかった。


 代わりに、訂正した報告書をもう一度読み直す。


 その沈黙が何を意味するのか、セヴァンには分からなかった。


 昔なら、ここで何かを聞き出そうとしたかもしれない。


 だが、今回は待つことにした。


 話さないものを無理に引き出せるほど、自分がこの男を理解しているとも思えなかった。


     ◇


 扉が二度叩かれた。


「入れ」


 副院長が言う。


 現れたのは、記録係の若い男だった。


 両手へ薄い封筒を抱えている。


「副院長。管理部より優先文書です」


「そこへ置いといて」


「受領確認が必要です」


「面倒だな」


「規則ですので」


「みんなそれ言うな」


 副院長は受領印を押した。


 若い記録係は、それを確認してから部屋を出ていった。


 残された封筒には、保全院の印のほかに、三本の細い黒線が引かれていた。


 セヴァンは、その印を知っている。


 通常の部署間文書では使われない。


 管理権限から直接下された命令にだけ付く、特別な印だった。


「……見ても?」


「駄目」


「まだ何もしてませんよ」


「顔に書いてある」


「そうですか」


 セヴァンは少し笑った。


 副院長が封を切る。


 中から二枚の書類を取り出し、一枚目を読み始めた。


 最初は、何も変わらなかった。


 いつもの眠そうな目で文字を追い、面倒そうに一度だけ息を吐く。


 しかし、二枚目へ視線を移した時だった。


 その目が、わずかに細くなった。


 セヴァンは、その変化を見逃さなかった。


「……何かありましたか」


「別に」


「今、仕事が増えた時の顔をしましたよ」


「よく分かったな」


「長い付き合いですから」


 副院長はしばらく書類を見つめていた。


 やがて、一枚目を裏返し、机の端へ置く。


 その時、セヴァンの立っている位置から、表題の一部が見えた。


『固有術保全計画』


 思わず、息を止めた。


 副院長は気づいたらしく、書類から目を上げる。


「……見えたか」


「そこまで大きな文字なら」


「昔から目ざといな」


「……再開するんですか」


 副院長は答えなかった。


 セヴァンは机の上の紙を見つめた。


 固有術保全計画。


 その名前は、編集局へ入ったばかりの頃に聞いたことがあった。


 ただし、実際に処置へ関わったことはない。


 古い資料の閲覧申請を出した時にも、管理権限の承認が必要だとして却下された。


 少なくとも、自分が知る限り、計画は長く凍結されたままだった。


「……理由は?」


 セヴァンが尋ねた。


 副院長は二枚目の書類を指で叩いた。


「これだ」


「内容は?」


「お前には見せられん」


「……そこまで言っておいて?」


「一応、今は院内待機中だからな」


 セヴァンはため息をついた。


 副院長はそんな彼を見て、少しだけ考えているようだった。


 やがて、書類の一部を指で押さえたまま、口を開く。


「……搬出済みの固有術の一部が、国外へ流れた可能性があるらしい」


 セヴァンは、すぐには答えられなかった。


 もう一度、頭の中で言葉を並べる。


 固有術。


 搬出済み。


 国外流出。


 それぞれの意味は分かる。


 だが、三つが同じ命令書に載っていることが、すぐには理解できなかった。


「……誤記では?」


 ようやく尋ねた。


「俺もそう思いたい」


「そもそも、搬出されたという事実は確認されているんですか」


「まだ全部は分からん」


「移動先は?」


「不明」


「誰の術かは?」


「それも、この紙からは分からない」


 副院長の答えを聞くたびに、セヴァンの胸の奥へ嫌な感覚が広がっていった。


 ただし、それは今までと種類の違う恐怖だった。


 ラヴェルで見た記憶の保全処置も、十分に異常だった。


 人間から記憶を取り出し、容器へ収める。


 本人の同意がないまま、それを行うことさえできる。


 それだけでも、考えるべきことはいくらでもあった。


 しかし、固有術となれば話が違う。


「……本当に、そんなことが可能なら」


 セヴァンは呟いた。


 副院長が顔を上げる。


「何が起きると思う?」


 セヴァンは少し考えた。


 固有術は生まれつきの力だ。


 本人が何を望んだかとは関係なく、誰にどんな術が宿るかは選べない。


 だから、その力に合わせて仕事を選ぶ人もいれば、使い道を見つけられずに暮らす人もいる。


 それが当たり前だった。


 だが、もし。


 固有術を持ち主から切り離し、別の場所へ運べるとしたら。


 その先で何ができるかは、まだ分からない。


 別の人間へ宿すことができるのか、それとも何かの装置に使われるのか。


 ただ保管されているだけなのか。


 どの可能性も、現時点では確かめられていない。


 それでも、金銭や権力を持つ人間が、その仕組みを欲しがることだけは容易に想像できた。


「……欲しがる人間は、いくらでもいますね」


 セヴァンが答える。


「ああ」


「どんな力があるか分かれば、持ち主を探す者も出るでしょう。本人が手放す気がなくても」


「そうだな」


「保管するだけの技術だったとしても、危険です」


「……理由は?」


 セヴァンは副院長を見た。


「奪ってから保管すれば、それだけで相手は使えなくなるかもしれないからです」


 副院長は何も言わなかった。


 セヴァンは続ける。


「国外へ流れたということは、少なくとも誰かが動かした可能性がある。事故なのか、持ち出しなのか、盗難なのかも分かっていない」


「……ああ」


「もし誰かが意図的に運んだのなら、目的を確かめなければなりません」


 セヴァンはそこで口を閉じた。


 少し前まで、ラヴェルの地下で命令違反をしていた。


 その結果、今は院内待機中だ。


 それなのに、また保全院の仕事について真面目に考えている。


 自分でも、少し嫌になった。


「……僕は本当に編集局員ですね」


 思わず呟く。


 副院長が笑った。


「今さら気づいたか」


「もっと別の仕事を選べばよかった」


「そうか?」


「少なくとも、あなたに殴られずに済んだかもしれません」


「別の仕事でも、殴られる奴は殴られるぞ」


「……慰めるのが下手ですね」


「慰めてないからな」


 セヴァンは苦笑した。


 この男と話していると、時々、自分がどうして怒っていたのか分からなくなる。


 それが一番厄介だった。


     ◇


「……先生」


 セヴァンが呼んだ。


 副院長は顔を上げた。


「何だ」


「この計画に、あなたは賛成なんですか」


 少し長い沈黙があった。


 副院長は机の上の命令書を見つめている。


 窓のない部屋には、廊下から聞こえる足音だけが届いていた。


「……昔はな」


 ようやく、男が答えた。


 セヴァンは眉を寄せる。


「……昔は?」


「ああ」


「今は違うんですか」


 副院長は答えず、書類を揃えた。


 その仕草だけは、いつもと変わらない。


「……今は、仕事が増えたと思ってる」


 セヴァンは小さく息を吐いた。


「答えになってません」


「知ってる」


 副院長はそう答えると、二枚の命令書を封筒へ戻した。


 そのまま机の引き出しへしまおうとして、手を止める。


「……セヴァン」


「はい」


「お前、編集局へ戻りたいんだよな」


「戻りたいですよ」


「なら、余計なことはするな」


 セヴァンは男の顔を見た。


「……それは命令ですか」


「忠告だ」


「あなたの忠告って、大抵あとから意味が変わるんですよね」


「そうだったか?」


「僕が何度、振り回されたと思ってるんです」


 副院長は少しだけ笑った。


 しかし、次に口を開いた時、声から笑みが消えていた。


「……今度は、俺のところへ連れて帰るだけじゃ済まんかもしれないぞ」


 セヴァンは黙った。


 何を指しているのか、詳しく聞くことはできる。


 けれど、答えが返ってくるとも思えなかった。


 それでも、一つだけ確かめておきたかった。


「……僕の記憶を守るために、また殴るつもりですか」


 副院長は目を細めた。


「必要ならな」


「……最悪ですね」


「ああ」


 男は、今度は否定しなかった。


 セヴァンはしばらくその顔を見ていた。


 そして、ゆっくり頷く。


「……分かりました」


 副院長が少し意外そうな顔をした。


「素直だな」


「あなたの言いたいことは、分かりました」


「そうか」


「ただ、従うかどうかは別です」


 副院長が笑った。


「……だろうな」


 セヴァンも、少しだけ笑った。


 それで会話は終わった。


 セヴァンは一礼し、執務室を出た。


 扉が閉まる直前、机の上に置かれた封筒がもう一度目に入った。


 管理権限の印である、三本の黒い線。


 その下には、さっきまでなかった小さな管理札が重ねられている。


『再開』


 たった二文字だった。


 セヴァンは廊下へ出ると、静かに扉を閉めた。


 向こう側では、若い職員たちが普段どおり書類を運んでいる。誰も、今何が決まろうとしているのか知らないようだった。


 編集係の仕事は、記憶や記録を適切な形へ整えることだ。


 不要な部分を見極め、危険な情報を分離し、必要なら閲覧できる者を制限する。


 だからこそ、扱う中身は自分で選べない。


 誰かが生きてきた時間を、都合のいいものだけにして預かることはできないからだ。


 セヴァンは、今朝確認した自分の名前を、もう一度心の中で呼んだ。


 セヴァン・ローク。


 王立保全院、編集局所属。


 少なくとも今は、自分が何を知っているかを覚えている。


 そして、あの命令書が再び机の上へ出された時、自分が何をすべきかについても、まだ決められる。


 セヴァンは廊下の先へ視線を向けた。


 何も知らない職員たちが、次々とすれ違っていく。


 もし本当に、固有術が人間から切り離され、どこかへ運ばれているのなら。


 その記録を見つけた時、自分はどんな判断を下すのだろう。


 答えはまだ出ていなかった。


 ただ、今度こそ見なかったことにするつもりはなかった。

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