第六十四話 搬出済
ユレン・カレルのその後は、意外なほど普通の書類に残されていた。
イリナとトーマの家を訪ねてから二日後の朝、宿の食堂へ降りると、ティセラが窓際の机を占領していた。
古い記録の写しが何枚も広げられ、インク壺の横には冷めた茶が置かれている。窓から差し込む朝日が紙の端を照らしていたが、本人はそんなことにも気づかず、細かな文字を追い続けていた。
「……おはよう」
声をかけると、ティセラは顔を上げずに答えた。
「おはよう。ちょうどよかったわ」
「何が?」
「見つけたの」
その一言で、眠気が消えた。
俺が椅子を引くと、奥からリゼもやってきた。朝食を取りに来たらしいが、机の上を見て足を止める。
「……また随分、増えましたね」
「昨夜から少し整理したのよ」
「少し?」
リゼが紙の山を見る。
俺も見た。
どう考えても、少しではない。
「……二人とも、何よ」
ティセラが顔を上げた。
「いや、よく働くなと思って」
「自分の失った六年間がかかってるんだから、調べるでしょう」
「それはそうだけど、ちゃんと寝た?」
「寝たわよ」
「何時間?」
彼女の手が止まった。
「……仕事に関係ある?」
「あると思う」
「あなた、六年後の私にも同じこと言ってた?」
「結構」
ティセラは面倒そうに息を吐き、紙を一枚引き寄せた。
「だったら、六年間であなたの小言は増えたわけね」
「……俺の方?」
「私が変わったとは思いたくないもの」
リゼが笑った。
俺も笑いながら、ティセラが差し出した紙を受け取る。
その上には、細かな古い文字と、彼女が書き足した注釈が並んでいた。
『保全者第四十四号』
『旧所属:王立遺失物管理局第七係』
『氏名:ユレン・カレル』
俺は指で文字を追った。
四十四号。
今はもう、数字の向こうに一人の男の顔が浮かぶ。
笑う時に少しだけ目を細めることも、息子の絵を大切に持っていたことも知っている。
「……この先も残ってたんだ」
俺が言うと、ティセラは頷いた。
「最初の記憶庫にあった写しを、二日かけて読み直したの。最初は保全処置の記録だと思ってたけど、途中から勤務記録に切り替わってる」
「勤務?」
「そう。あの処置が終わったあと、ユレン・カレルは施設の保全者として登録されてるのよ」
俺は顔を上げた。
「……生きてたんだ」
「少なくとも、あの時点ではね」
ティセラは別の紙を差し出した。
「しかも、その後の記録もある」
そこには年月日と、古い記録所の名称が並んでいた。
年ごとに確認印が押され、時折、担当業務が書き加えられている。
「……十一年」
リゼが呟いた。
ティセラが頷く。
「処置のあと、十一年分の記録があるの。ラヴェルには戻らず、北部の旧記録所で保全業務を続けていたらしいわ」
俺は、しばらく紙から目を離せなかった。
二十八年前、ユレンは自分の存在を家族の記憶から切り離した。
その後、どうなったのか分からなかった。
まるで、その日を境に世界から消えてしまったように思っていた。
でも、違った。
十一年間、生きていた。
どんな朝を迎え、どんな仕事をして、誰と話したのかは分からない。
それでも、保全業務を続けたという記録がある以上、ユレンはあの日の後も毎日を過ごしていたのだ。
「……じゃあ」
リゼが尋ねる。
「今も、どこかにいる可能性は?」
ティセラの指が、最後の紙へ移った。
彼女はすぐには何も言わなかった。
少しだけ口元を引き結び、それから俺たちの前へ紙を置いた。
『第四十四号 保全任務終了』
『死亡確認』
『病没』
日付は十七年前だった。
◇
「……病気だったのか」
自分の声が、思ったより小さく聞こえた。
ティセラは頷いた。
「そのように記録されてるわ。病名までは載ってない」
「事故とか、誰かに殺されたとかじゃなくて?」
「少なくとも、この書類には病没とある。別の事情があったと疑う根拠も、今のところ見つかってない」
俺はもう一度、死亡確認の文字を見た。
ユレンが亡くなったのは四十五歳の時だった。
若い。
今の俺が四十五歳になった時、どんな仕事をしているのかも想像できない。
まだ家族と一緒に食事をしていたいと思うだろうし、昔の友人と馬鹿な話もしたいと思う。
ユレンだって、きっとそうだった。
少なくとも、二十八年前の記録で見た彼は、明日を迎えることを当たり前のように楽しみにしていた。
だからこそ、家族と離れた後の十一年間をどう過ごしたのか、余計に知りたくなった。
「……手紙は?」
俺が尋ねる。
「見つからなかったわ」
「イリナさんやトーマに宛てたものも?」
「今調べた資料にはない。帰還したという記録も残ってない」
俺は紙を見つめた。
十一年。
あれだけ帰りたがっていた人が、十一年間もラヴェルへ戻らなかった。
なぜだろう。
処置の効果を守るために、帰れなかったのかもしれない。
戻ろうとしたことはあっても、途中で何かを恐れたのかもしれない。
それとも、離れた先で別の生き方を見つけたのだろうか。
「……帰りたかったはずなのに」
俺が呟くと、ティセラが顔を上げた。
「そう思う理由は?」
「本人の記録で、何度も言ってたから。家で飯を食べたいとか、息子と船に乗りたいとか」
「それは、処置を受ける前の気持ちでしょう」
すぐに返事ができなかった。
ティセラは静かに続けた。
「その後の十一年間に何を考えていたかは、まだ分からないわ。ずっと帰りたかったのかもしれないし、どこかで考えが変わったのかもしれない」
「……そうだな」
「本人が残した言葉を大切にするのと、本人がその後も同じことを思い続けたと決めるのは、別の話よ」
俺は頷いた。
また、教わってしまった。
今のティセラは、俺と過ごした六年間を覚えていない。
それでも、この人は俺が見落としそうなところを、いつも見つける。
知っていることと、想像していることを分ける。
簡単なようで、俺にはまだ難しい。
「……ありがとう」
俺が言うと、ティセラは少し驚いた顔をした。
「何が?」
「勝手に決めつけるところだったから」
彼女はしばらく俺を見た。
それから、眼鏡を押し上げる。
「……六年後の私、結構いい教育してたのね」
「かなり」
「もっと褒めてもいいわよ」
「そこも変わらないな」
リゼが小さく笑った。
俺もつられて笑う。
だが、机の上の記録へ目を戻すと、胸の奥に重いものが残っていた。
ユレンは確かに十一年間生きた。
そして、十七年前に亡くなっている。
記録が正しければ、もう本人へ聞くことはできない。
俺たちが見つけられるのは、その人が残したものだけなのだ。
◇
イリナとトーマの家を再び訪ねると、二人は食卓で昼食の準備をしていた。
以前来た時と同じ、使い込まれた木の机だった。
ただ、窓際に積んであった籠が片づけられ、古い椅子が食卓の横へ移されている。
俺は思わず、その椅子を見た。
イリナが気づいて、少し笑った。
「……気になる?」
「いえ、前は窓際にあったなと思って」
「ええ。戻してみたの」
彼女は椅子の背へ手を置いた。
「ずっと、何となく邪魔にしながら捨てられなかったでしょう。理由が分かって、ようやく置き場所を決められた気がするわ」
俺は頷いた。
ユレンが本当にこの椅子へ座っていたのか、俺には分からない。
でも、イリナには分かっているのだろう。
戻った記憶の中に、この椅子とともに過ごした日々があるのかもしれない。
トーマが俺たちへ茶を勧めた。
その手つきには、以前より少し落ち着きがあるように見えた。
父親の記憶を取り戻してから、何かが変わったのだろうか。
そう思いかけて、すぐにやめた。
変わったかどうかを決めるのは、俺ではない。
「……それで、見つかったんだな」
トーマが尋ねる。
俺は頷いた。
「ユレンさんの処置後の記録が見つかりました」
イリナの表情が引き締まる。
「……聞かせて」
俺は写しを食卓へ置いた。
「記録によると、処置のあと北部の旧記録所へ移り、十一年間そこで働いていたそうです」
トーマが顔を上げる。
「……十一年も?」
「うん」
「ラヴェルへ戻った記録は?」
「見つかってない」
イリナは紙を受け取り、ゆっくりと文字を追った。
何度か同じ行へ戻る。
そのうち、指が止まった。
「……死亡確認」
小さな声だった。
「十七年前です。記録には病没とあります」
イリナは何も言わなかった。
トーマが母親を見る。
「……母さん」
彼女は返事をしないまま、しばらく紙を見つめていた。
涙は流れなかった。
唇を噛むこともなかった。
ただ、同じ行をもう一度読んでいる。
やがて、紙をそっと食卓へ置いた。
「……十一年もあったのね」
俺は頷いた。
「はい」
「十一年も、生きていたのね」
その声は、ひどく静かだった。
何かを我慢しているというより、まだどんな気持ちになればいいのか分からないように聞こえた。
「……帰ってこなかったのね」
「記録上は、そうです」
イリナが顔を上げる。
「あなた、またちゃんと分けて言うのね」
「……ティセラに怒られたので」
彼女は少しだけ笑った。
「いいことだわ」
そのまま古い椅子へ視線を移す。
「……私、あの人に怒ってたのよ」
「はい」
「記憶が戻ってから、ずっと。どうして一人で決めたのかって」
俺は黙って聞いていた。
「でも、十一年間生きていたって聞くと、今度は別のことを考えちゃうの」
彼女は指で紙の端を押さえた。
「どんな部屋に住んでいたのかしら。ちゃんとご飯を食べていたのかしら。病気になった時、誰かがそばにいたのかしらって」
イリナは少しだけ目を伏せた。
「そんなこと、もう分からないのにね」
俺は返す言葉を探した。
けれど、見つからなかった。
ユレンは忘れられたかったわけではない。
あの人が家族へ残した言葉を、俺たちは知っている。
でも、その後の十一年間をどう生きたのか、俺たちは知らない。
イリナにとっては、失った夫の人生がもう一つ見つかったようなものなのだろう。
しかも、その人生には自分がいない。
それがどんな気持ちなのか、俺には想像することしかできなかった。
◇
「……北部の記録所って、まだある?」
トーマが尋ねた。
「建物は残っているらしい。今も同じ仕事をしているかは分からないけど」
「行けるかな」
「場所は分かってるから、行くことはできると思う」
トーマはしばらく考えた。
それから、母親を見る。
「……俺、いつか行ってみたい」
イリナは息子の顔を見た。
「北部まで?」
「うん」
「遠いわよ」
「分かってる」
トーマは記録の写しへ目を向ける。
「父さんが十一年間いた場所だろ。何が残ってるかは分からないけど、一度見てみたいんだ」
イリナは少しだけ考えた。
「……そう」
「母さんも、よかったら」
「考えておくわ」
トーマが笑った。
「それ、行くって言う時の返事だろ」
「勝手に決めないでちょうだい」
「はいはい」
「一回でいい」
イリナが言うと、トーマはさらに笑った。
俺も少し笑ってしまった。
二人の話し方には、以前から似ているところがある。
でも、今はそのやり取りの中へ、ユレンがいた頃の時間が少しずつ戻ってきているのかもしれない。
「……セイン」
イリナが呼んだ。
「はい」
「あなたは、ユレンを探すのをやめるの?」
俺は少し考えた。
生きているかどうかを探すことは、もうできない。
少なくとも、記録では死亡が確認されている。
けれど、それで調べることがすべて終わったわけではなかった。
「……本人のその後については、まだ分からないことがあります。北部の記録所にも、何か残っているかもしれません」
イリナは頷いた。
「そうね」
「でも、俺たちが先に全部調べるより、二人がどうしたいかも大事だと思ってます」
彼女は少しだけ笑った。
「また、それね」
「……はい」
「いいと思うわ」
俺は肩の力を抜いた。
トーマが写しを丁寧に折る。
「……これ、もらっていいか?」
「もちろん」
「ありがとう」
彼は紙を胸元へしまった。
ユレン本人を連れて帰ることはできなかった。
死んだ人間を生き返らせることも、過ぎた十一年間を取り戻すことも、俺の〈返却〉にはできない。
けれど、今の二人はユレンのことを話せる。
そして、父親と夫が歩いた土地へ、自分たちの意思で向かうこともできる。
それだけで十分なのか、俺には分からない。
ただ、二人がこれから何を選ぶのかを見守ることはできると思った。
◇
帰り際、イリナが俺を呼び止めた。
「……セイン」
「はい」
「ほかの人たちにも、会うんでしょう?」
「そのつもりです」
「四十人もいるのよね」
「……はい。全員にすぐ会えるとは思ってませんけど」
イリナは少し考えた。
「大変ね」
「かなり」
俺が答えると、彼女は笑った。
それから、窓の外へ目を向ける。
「……ユレンなら、喜ぶと思うわ」
俺は返事をしようとした。
けれど、途中で止めた。
ユレンが喜ぶかどうかは、もう本人に聞けない。
彼が生きていた十一年間についても、知らないことがたくさんある。
だから、勝手に答えを決めない方がいい。
「……そうだといいです」
俺が答えると、イリナは頷いた。
「ええ」
その顔は、少しだけ穏やかだった。
◇
残り四十人に会うのは、想像していたよりもずっと難しかった。
二十八年も経っている。
当時ラヴェルに住んでいた人が、今も同じ場所に暮らしているとは限らない。
結婚して姓が変わった人もいれば、仕事のために遠くへ移った人もいた。すでに亡くなっている人もいて、昔の住所が残っていても、今どこへ行けば会えるのか分からないことがあった。
俺たちはまず、本人を確認できそうな人から調べた。
エルセは保全院の記録網で古い保全番号と現在の登録を照合し、ティセラはラヴェルの名簿を一冊ずつ確かめた。リオルも、医師に安静を言い渡されながら、王都警備隊へ必要な照会を出してくれた。
俺とリゼは、その間に会える人を訪ねて歩いた。
最初の頃は、説明するだけで半日が過ぎることもあった。
二十八年前、自分の記憶の一部が切り離されたと突然聞かされても、すぐには信じられないのが普通だろう。
中には、こちらの話を最後まで聞かずに扉を閉める人もいた。
そのたびに、俺は考えた。
本人が知りたくないと思うことまで、無理に伝えるべきなのだろうか。
リゼはそんな俺に、何度も同じことを言った。
「……聞いてもらえるかどうかも、その人が決めることですよ」
だから、無理に押し入ることはしなかった。
必要な連絡先だけ伝え、気が変わった時には話を聞けるようにしておく。
それ以上は、相手の返事を待つことにした。
そんな中で、何人かは俺たちを家へ招いてくれた。
◇
港から少し離れた通りで酒場を営む老人は、話を最後まで聞いた後、長い間黙っていた。
店はまだ開店前で、木の卓には椅子が逆さに載せられている。
老人はそれを一脚だけ下ろし、そこへ腰をかけて俺たちを見た。
「……今はいい」
低い声だった。
「記憶は、返さなくていいんですか」
俺が確かめると、老人は頷いた。
「そのユレンって男を、俺は好きだったのかもしれん。嫌いだったのかもしれん。今はそれすら分からんだろ」
「……はい」
「だったら、今すぐ知る必要はない」
老人は店内を見回した。
「女房はもういないし、この店も息子へ譲るところなんだ。昔の誰かを急に思い出したって、今の俺にどうしろと言うのか分からん」
俺は頷いた。
「……後で気が変わったら、連絡してください」
「いいのか」
「もちろん」
「何年も後でも?」
「保全が続けられる限り、相談できます」
老人は少しだけ笑った。
「……じゃあ、預かっといてくれ」
「分かりました」
俺たちは何も返さずに店を出た。
リゼは少し考えていたが、何も言わなかった。
しばらく歩いたところで、ようやく口を開く。
「……あの人、自分で決めましたね」
「うん」
「何も返さなくても、返却士の仕事になるんですね」
俺は少し考えた。
「……そういうことも、あるんだと思う」
リゼは嬉しそうに頷いた。
◇
別の日に訪ねた女性は、まったく違う答えを出した。
名前を聞いた時には首を傾げていたのに、記憶が保管されていると説明すると、ほとんど迷わず返してほしいと言ったのだ。
俺は危険や不確実な点を説明し、本人の意思を改めて確かめた。
彼女が望んでいることは変わらなかったので、保全番号と帰属先を慎重に照合し、〈返却〉を使った。
返却が終わった後、女性はしばらく目を閉じていた。
やがて、突然笑った。
「……嫌いだったわ」
思っていなかった言葉だった。
「……ユレンさんを?」
「そう。仕事の仕方が、もう本当に嫌いだったの」
彼女は笑いながら目元を拭う。
「細かくて、しつこくて。こっちが確認したって言ってるのに、もう一回見せろって言うのよ」
俺は思わず、ユレンとローディスの会話を思い出した。
二人も、記録を確かめることについて何度も言い合っていた。
四十四号の男は、そういう仕事の仕方をしていたのだろうか。
「……でもね」
女性は少し笑みを緩めた。
「あの人が確認してくれたおかげで、助かった仕事もあったの」
それから、しばらく黙った。
「変ね。ずっと忘れてたのに、思い出した途端、文句が山ほど出てくる」
俺は笑った。
「……そういう人だったのかもしれません」
「そうね」
女性は目を拭った。
「でも、いたわ」
静かな声だった。
「あの人、ちゃんといたのね」
俺は頷いた。
父親としてのユレンを知った。
夫としてのユレンを知った。
そして今、仕事仲間としてのユレンを、初めて知った。
同じ人間でも、誰の記憶の中にいるかによって、少しずつ違う顔をしている。
だからこそ、一人の人間のことを知るには、たくさんの人の話を聞く必要があるのだろう。
◇
すぐに決められない人もいた。
翌日また来てほしいと言う人もいれば、今は忙しいから数か月後にしてほしいと言う人もいた。
俺たちは、その返事を記録した。
遠方へ移った人については、本人の居場所を確かめるところから始めなければならない。
会えた人の中でも、記憶を返した人ばかりではなかった。
すでに亡くなっていた人の記憶は、もっと難しかった。
帰属先は、その人自身だ。
だからといって、子供や配偶者へ代わりに返すことはできない。
記憶の内容を勝手に開いて家族へ見せることも、俺たちはしなかった。
それらは、保全状態を維持することになった。
「……そういうものを残すためにも、保全院は必要なんです」
エルセが、ある日の夕方に言った。
宿の食堂で、俺たちは保全記録の整理をしていた。
彼女は一枚の紙を持ち上げ、丁寧に番号を確認する。
「返せないもの、返す相手がいないもの、本人が今は戻したくないもの。そういう記憶を、安全に残す仕事もあります」
「……うん」
俺が頷くと、エルセは少し意外そうにした。
「反論しないんですか」
「何で?」
「保全院のやり方に、ずっと怒っていたでしょう」
「怒ってることはあるよ」
俺は答えた。
「でも、全部が間違ってるとは思ってない」
エルセは黙って聞いていた。
「今回も、返してほしくないって人がいた。その人の記憶を安全に預かる仕事は、必要だと思う」
「……そうですか」
彼女は少しだけ微笑んだ。
「それなら、よかったです」
俺はその顔を見て、ふと尋ねた。
「……エルセはさ、係長のこと嫌い?」
彼女が顔を上げた。
「なぜ私に聞くんです?」
「保全院の副院長だし、今まで一緒に働いてきたんだろ」
「直接一緒に仕事をした回数は、そんなに多くありません」
「……そうなんだ」
「でも、尊敬している部分はあります」
少し意外だった。
「……まだ?」
俺が尋ねると、エルセは頷いた。
「仕事の判断が速いことも、危険な時に動じないことも、確かですから」
彼女は少し間を置いた。
「ただ、尊敬しているからといって、すべての判断に従う必要はないと思っています」
俺は黙っていた。
その言葉が、胸に残った。
「……セインは?」
今度は彼女が尋ねる。
「副院長のこと、嫌いになりましたか」
俺は少し考えた。
リオルの折れた腕を思い出す。
エルセが倒れた時のことも。
セヴァンを担いで去っていく、係長の背中も。
今でも、思い出すと腹が立つ。
あの人が何かを守ろうとしていたのだとしても、すべてを許せるわけではなかった。
けれど、今まで教わったことまで、嫌いになれなかった。
「……まだ分からない」
俺が答えると、エルセは頷いた。
「それでいいと思います」
「……怒らない?」
「私が何を怒るんです?」
「いつまでも、はっきりしないから」
エルセは少し笑った。
「人の気持ちを、そんなに早く分類する必要はありませんよ」
俺も笑った。
「……保全院の人に言われるとは思わなかった」
「分類する仕事だからこそ、分けられないものがあることも知っているんです」
その返事が、いかにもエルセらしかった。
◇
ティセラの六年間についても、少しずつ方針が決まってきた。
彼女は自分の手帳を読み直しながら、失われた記憶がどのように保全されているのか調べていた。
エルセも、回収係として知っている範囲で協力してくれている。
ただし、二人ともまだ、記憶を安全に分けて戻す方法を確立したわけではなかった。
最初の返却では、六年間が一度に流れ込もうとした。
あんなことは、もう繰り返したくない。
「……まず、一日分だけね」
ティセラが言った。
机には、今後の確認手順を書いた紙が置かれている。
「一日だけ戻せるか、保全の仕組みを調べる。うまくいったら、翌日まで体調と記憶の混乱がないか確認する」
「……それで大丈夫なら?」
俺が尋ねる。
「三日分。それから一週間、一か月。どこまでなら安全に戻せるか、少しずつ試すのよ」
リゼが首を傾げた。
「でも、一日ずつだったら六年かかりますよ?」
「だから、増やす方法も調べるの」
ティセラは当然のように答えた。
「いきなり全部戻すよりは、ずっといいでしょう」
「……そうですね」
リゼが頷く。
俺も同意した。
それから、ティセラは紙の端へ何かを書き加えた。
「……何を書いたの?」
俺が尋ねる。
「私が途中でやめたくなった場合の手順」
「……やめる?」
「そうよ」
ティセラが顔を上げる。
「今は戻したいと思ってる。でも、少し取り戻してみたら、怖くなるかもしれないでしょう。その時は一度止めたい」
俺は頷いた。
当たり前のことだった。
本人が望むから返す。
けれど、一度返すと決めたからといって、最後までやめてはいけないわけではない。
「……分かった」
俺が答えると、ティセラは少し満足そうにした。
「じゃあ、手伝って」
「もちろん」
「ただし、勝手に術を使わないでね」
「……はい」
「それから、私がまだ知らない六年間のことを、必要もないのに先回りして教えないこと」
「……分かってる」
彼女は少しだけ笑った。
「六年後の私も、同じこと言ってた?」
「結構」
「……大変だったでしょうね」
「どっちが?」
「私が」
俺は笑った。
リゼもつられて笑う。
その笑い声を聞きながら、俺は思った。
今のティセラと、六年間を生きたティセラ。
どちらかが本当で、もう片方が偽物というわけではない。
失われた時間を取り戻しても、今ここで新しく過ごした日々が消えていいはずはない。
彼女が全部を自分の時間として受け止められるように、俺たちは慎重に進むしかなかった。
◇
ラヴェルを離れる前日、俺たちはもう一度、最初の記憶庫へ向かった。
リオルは地上に残った。
本人は最後までついてくるつもりだったらしいが、医師に止められ、ティセラにも強く反対されたので、さすがに諦めた。
「……俺、ここまで厳しく監視されるとは思わなかった」
朝、宿を出る前にそう言っていた。
固定された右腕を見れば、当然のことだと思う。
「……まず治せよ」
俺が答えると、リオルは苦笑した。
「分かってる。だから、お前も無茶すんな」
「……はい」
「返事が素直すぎると怖いな」
それが、出発前に交わした最後の会話だった。
今回地下へ入るのは、俺とリゼ、ティセラ、エルセの四人だ。
目的は残された記憶の保全状態を確かめることと、まだ読めていない古い索引を調べることだった。
水底街へ続く階段は、最初に来た時より静かだった。
あの頃は、この地下に何があるのか、ほとんど分かっていなかった。
分断され、襲われ、何度も知らない装置を動かしてしまった。
今も分からないことは多い。
ただ、歩くたびに、ここで見つけた人たちの顔が浮かぶようになっていた。
ユレン・カレル。
ローディス・フェン。
そして、四十二人の記憶。
名前だけではなく、それぞれの人間が生きていた時間のことを、俺は少しずつ考えられるようになっていた。
◇
最初の記憶庫には、まだ淡い光が残っていた。
四十二本あった線のうち、返却を終えたものは消えている。
残りの光は、細い川が中央へ流れ込むように石台へ集まっていた。
その一本一本には、まだ持ち主がいる。
返してほしくないと言った人。
決められずにいる人。
すでに亡くなった人。
そして、俺たちがまだ会えていない人。
理由は、それぞれ違っている。
以前は、四十二本の光がすべて同じものに見えていた。
今は違う。
光の先にいる人たちの暮らしを、少しだけ想像できるようになったからだろう。
「……これでいいんでしょうか」
リゼが隣で尋ねた。
俺はすぐに答えられなかった。
「……分からない」
そう答えると、彼女は少し笑った。
「またそれですね」
「でも、全員に同じことをするよりは、いいと思ってる」
「……私もです」
リゼは頷いた。
俺たちは少しの間、石台を見ていた。
その奥で、ティセラが手帳を開く音がした。
「……二人とも、手伝って」
振り返ると、彼女は部屋の端へ移動していた。
以前は記憶群を調べることで精一杯だったため、まだ詳しく見ていない壁がある。
石板が幾重にも組み合わされ、表面に細かな文字が刻まれていた。
エルセも隣に立っている。
「保全対象の索引だと思います」
彼女が言った。
「索引?」
「この施設が、何を扱っていたのかを示す分類です」
ティセラが灯りを近づけた。
「……古い字ね」
「読めそうですか」
「一部なら。まだ分からないところは、写して後から調べるわ」
彼女は〈転写〉で文字の形を紙へ写した。
消えている部分が現れたわけではない。
読めるところだけを確かめ、古い言葉の意味を一つずつ考えている。
俺はその手元を見て、少し安心した。
ティセラは何が分かって、何が分からないのかを、きちんと分けていた。
係長との戦いも、ユレンの記録も、俺たちにその大切さを何度も教えてくれた。
「……一番上は?」
俺が尋ねる。
ティセラは指で文字を追った。
「名称」
石板の表面に、古い文字が残っている。
『名称』
その下には、別の分類が続いていた。
『帰属』
「……また、この二つか」
俺が呟くと、エルセが頷いた。
「この施設では、何度も見ましたね」
「うん」
名前と、そのものが帰るべき先。
リゼの住民証明書でも、青鐘通りの地下でも、何度も出てきた言葉だった。
ティセラがさらに下へ目を移す。
「……次は、記憶」
『記憶』
俺は中央の石台を見た。
四十二人の失われた記憶が、今もそこへ保全されている。
その下には、さらに細かな文字があった。
「……地点」
ティセラが読む。
『地点』
「場所のこと?」
リゼが尋ねる。
「そう。今の言い方なら、場所に関する情報を扱う分類に近いと思う」
俺は青鐘通りを思い出した。
王都の地図から消え、人々の記憶からも見えなくなっていた通り。
あの場所へ入った時、俺たちは何度も出口を探し、見知らぬ装置に振り回された。
場所を失うというのは、道を歩けなくなることだけではない。
そこに暮らしていた人や、そこへ帰りたかった人の生活まで変えてしまう。
ユレンの話とは別の事件だったはずなのに、今はどこかで同じ仕組みにつながっているように思えた。
「……名前も、場所も、記憶も」
俺が呟くと、ティセラが頷いた。
「この施設では、同じ分類体系に入っているのね」
「……どれも、帰る場所があるものとして?」
「そう考えていたのかもしれない。でも、全部に同じ処置ができたとは限らないわ」
彼女は慎重に答えた。
俺はもう一度、石板を見た。
名前。
帰属。
記憶。
地点。
これまで別々の出来事として追ってきたものが、古い壁では同じ書式に並んでいる。
そのことが、妙に気になった。
◇
「……まだ下があります」
エルセが言った。
石板の下部には泥がこびりついていた。
彼女が布を濡らし、慎重に表面を拭う。リゼも隣へしゃがみ、細かな砂を落としていった。
古い文字が、少しずつ姿を現す。
ティセラは灯りの角度を変え、読めるところを確かめた。
「……時間」
俺は眉を寄せた。
「時間?」
「そう書いてあるわ」
『時間』
その次には、もっと奇妙な文字が並んでいた。
「……生命」
ティセラの声が、少し小さくなった。
「生命って、生き物の命のことですか?」
リゼが尋ねる。
「分類名だけでは、そこまで分からないわ。生命に関する記録を保管したのか、別の情報を扱っていたのかも不明ね」
「……そうか」
俺は壁を見た。
名前と記憶なら、何となく分かる。
場所についても、青鐘通りのことを知っている。
しかし、時間や生命まで同じ壁に並んでいるとなると、何を意味しているのか想像しづらかった。
「……昔の人は、こんなものまで失くすと思ってたのかな」
俺が呟くと、エルセは少し考えた。
「この分類があることと、実際に失われたことは別です。ただ、扱う必要があると考えられていた可能性はあります」
「……必要があったから、ここに書いた?」
「そうかもしれません」
それ以上は、誰にも分からなかった。
ティセラが最後の部分を確かめようと、灯りを下げる。
その時、彼女の手が止まった。
「……どうした?」
俺が尋ねる。
ティセラはすぐには答えなかった。
眼鏡を押し上げ、文字をもう一度確かめる。
それから、写し取った紙と見比べた。
「……おかしいわね」
「何が?」
「これ、読み間違いじゃないと思うんだけど」
ティセラは少しだけ顔を上げた。
「……固有術」
俺は瞬きをした。
「……何?」
「固有術。そう書いてある」
俺は、石板を見た。
古い文字の形は分からない。
けれど、ティセラの顔を見る限り、冗談ではなかった。
「……固有術って、俺たちの?」
「ほかに何を指すのか分からないけど、少なくともこの文脈ではそう読むのが自然ね」
リゼが首を傾げた。
「……固有術を、保全するんですか?」
ティセラは少し考えた。
「今の常識では、そんなことはできないわ」
「……どうして?」
「固有術は、本人が生まれつき持つ力よ。使い方を忘れることはあっても、持ち主から物みたいに取り外すものじゃないでしょう」
俺は左手を見た。
〈返却〉。
落とした物を、本来の持ち主や場所へ戻す術だ。
自分でも全部は分からないが、それでも、子供の頃から俺の中にある力だった。
誰かに渡そうと思ったことはない。
そもそも、渡せるものだとも思っていなかった。
リオルの〈均衡〉も、ティセラの〈転写〉も、エルセの〈保留〉も同じだ。
人によって働き方は違う。
便利な術もあれば、使い道が分からない術もある。
それでも、生まれた時から本人と一緒にあるものだということだけは、誰も疑っていなかった。
「……エルセ」
俺が呼ぶと、彼女も石板を見つめていた。
「何ですか」
「保全院では、固有術を預かったりするの?」
「少なくとも、私の知っている回収業務ではありません」
「……編集局なら?」
「分かりません」
彼女は少しだけ眉を寄せた。
「私は保全院に所属していますが、全部の業務を知っているわけではありません。まして、この施設は今の保全院より古いものです」
俺は頷いた。
記憶を人間から取り出して保存することさえ、初めは信じられなかった。
今では、ティセラの六年間が硝子筒に残されていることを知っている。
四十二人の記憶を、一人ずつ保全できることも確かめた。
だからといって、固有術まで同じように扱えると決まったわけではない。
そう考えながらも、胸の奥へ嫌な感覚が広がっていった。
◇
「……こっちにも、記録があるわ」
ティセラが石板の端を指した。
壁の隙間に、小さな金属板が何枚か差し込まれている。
それまで泥に隠れていたらしく、ほとんど見えていなかった。
ティセラは一枚を慎重に取り出した。
表面は腐食していて、文字の大半が読めない。
二枚目も同じだった。
エルセは別の金属板を確かめる。
「……これも駄目ですね」
「じゃあ、残りは?」
リゼが尋ねる。
ティセラが最後の一枚を手に取った。
ほかのものより薄く、縁には古い管理番号が刻まれていた。
表面の中央だけは、まだ文字が残っている。
「……読める」
ティセラが呟いた。
俺たちは彼女の周りへ集まった。
彼女は灯りを近づけ、指で一行目を追う。
『保全分類:固有術』
俺は小さく息を吸った。
索引に書かれた分類名だけではない。
個別の記録にも、はっきり固有術とある。
「……続きは?」
俺が尋ねると、ティセラは二行目へ目を移した。
少し考えてから、口を開く。
「……搬出」
「搬出?」
リゼが聞き返す。
ティセラは頷いた。
「外へ運び出す時に使う言葉よ。保管していたものを、どこか別の場所へ移すような場合に」
俺は金属板を見た。
「……何を?」
口にした途端、自分でも分からなくなった。
まさか、と思う。
固有術を。
人間から切り離して。
別の場所へ運び出す。
そんなことが、できるのだろうか。
「……待って」
俺はティセラを見た。
「何かの比喩じゃないのか。固有術についての研究記録を運び出したとか」
ティセラはすぐに答えなかった。
金属板を持ち直し、周囲の刻印を確かめる。
「……その可能性はあるわ」
少しして答えた。
「でも、分類欄には固有術としか書かれていない。研究資料や術式記録を示す言葉も、今読める範囲にはない」
エルセが横から言った。
「保全物を扱う書式として見るなら、搬出は中身そのものの移動を意味する場合が多いです」
「……じゃあ」
「ただし、昔も同じ意味で使っていたかは分かりません」
俺は頷いた。
分からない。
今の段階では、まだ分からない。
それでも、この記録が妙に不気味なのは確かだった。
ティセラが最後の行を確かめる。
それまで動いていた指が、ぴたりと止まった。
「……ティセラ?」
俺が尋ねる。
彼女は何も言わず、文字を見つめていた。
やがて、ゆっくりと顔を上げる。
「……搬出済」
その声は、さっきまでより小さかった。
「何が?」
俺が聞き返す。
ティセラは答える代わりに、金属板をこちらへ向けた。
腐食した表面に、短い文字が残っている。
『固有術:搬出済』
俺は、しばらくその言葉を見つめていた。
搬出済。
今も保管中だという意味ではない。
少なくとも、この記録を書いた人間は、何かをすでに外へ運び出したと判断していたらしい。
「……どこへ?」
リゼが呟いた。
誰も答えられなかった。
「……誰の術なんですか」
彼女が続ける。
ティセラは金属板の端を確かめた。
「名前は読めない。記載されていたかどうかも、今は分からないわ」
「……今も、誰かが持ってるんですか?」
俺が尋ねると、エルセは首を振った。
「そこまでは分かりません。この記録から確かめられるのは、固有術を保全対象として扱い、搬出したという記載が残っていることだけです」
俺は自分の左手を見た。
何も変わらない。
〈返却〉がどこかに見えるわけでもなければ、誰かが触れて取り外せそうにも思えない。
それでも、もし。
この記録が、文字どおりの意味だったら。
人間が生まれた時から持つ力さえ、誰かが取り出して運べるのだとしたら。
今まで当然だと思っていたことが、まるで違って見えてくる。
名前を失くしたリゼ。
地図から消えた青鐘通り。
記憶を切り離された四十二人。
どれも、最初はあり得ないと思った。
けれど、実際にあった。
そして、今度は固有術だ。
ティセラが金属板をそっと机代わりの石台へ置いた。
「……まだ、決めつけないで」
彼女が言った。
「この一枚だけでは、本当に何が行われたのか分からない。記録が間違っている可能性だってあるわ」
俺は頷いた。
「……うん」
「でも、調べる必要はあると思う」
「……俺も」
リゼも静かに頷いた。
エルセは金属板を見つめたまま、しばらく動かなかった。
その横顔には、これまで知らなかった何かを見てしまった時の緊張があった。
俺は古い石壁へ目を向けた。
名前。
帰属。
記憶。
地点。
時間と生命。
その下に、固有術が並んでいる。
今まで俺は、失われたものを持ち主へ返す仕事をしてきた。
落とした靴も、消えた名前も、誰かの記憶も。
けれど、その力を使う俺自身が、術を失うことなど一度も考えたことがなかった。
もし固有術にも、持ち主から離れたものがあるのなら。
その力は、今どこにあるのだろう。
そして、失った人間は、自分が何を失くしたのかさえ分かっているのだろうか。
俺は金属板をもう一度見た。
誰が、誰の力を、どこへ運んだのか。
肝心なことは何一つ書かれていない。
ただ、その短い記録だけが、今もはっきり残っていた。
『固有術:搬出済』
第三章までお付き合いいただき、ありがとうございます。
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