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王都の返却士 ~その落とし物、世界のものです~  作者: 紙森 灯
第三章 誰も覚えていない男

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第六十四話 搬出済

 

 ユレン・カレルのその後は、意外なほど普通の書類に残されていた。


 イリナとトーマの家を訪ねてから二日後の朝、宿の食堂へ降りると、ティセラが窓際の机を占領していた。


 古い記録の写しが何枚も広げられ、インク壺の横には冷めた茶が置かれている。窓から差し込む朝日が紙の端を照らしていたが、本人はそんなことにも気づかず、細かな文字を追い続けていた。


「……おはよう」


 声をかけると、ティセラは顔を上げずに答えた。


「おはよう。ちょうどよかったわ」


「何が?」


「見つけたの」


 その一言で、眠気が消えた。


 俺が椅子を引くと、奥からリゼもやってきた。朝食を取りに来たらしいが、机の上を見て足を止める。


「……また随分、増えましたね」


「昨夜から少し整理したのよ」


「少し?」


 リゼが紙の山を見る。


 俺も見た。


 どう考えても、少しではない。


「……二人とも、何よ」


 ティセラが顔を上げた。


「いや、よく働くなと思って」


「自分の失った六年間がかかってるんだから、調べるでしょう」


「それはそうだけど、ちゃんと寝た?」


「寝たわよ」


「何時間?」


 彼女の手が止まった。


「……仕事に関係ある?」


「あると思う」


「あなた、六年後の私にも同じこと言ってた?」


「結構」


 ティセラは面倒そうに息を吐き、紙を一枚引き寄せた。


「だったら、六年間であなたの小言は増えたわけね」


「……俺の方?」


「私が変わったとは思いたくないもの」


 リゼが笑った。


 俺も笑いながら、ティセラが差し出した紙を受け取る。


 その上には、細かな古い文字と、彼女が書き足した注釈が並んでいた。


『保全者第四十四号』


『旧所属:王立遺失物管理局第七係』


『氏名:ユレン・カレル』


 俺は指で文字を追った。


 四十四号。


 今はもう、数字の向こうに一人の男の顔が浮かぶ。


 笑う時に少しだけ目を細めることも、息子の絵を大切に持っていたことも知っている。


「……この先も残ってたんだ」


 俺が言うと、ティセラは頷いた。


「最初の記憶庫にあった写しを、二日かけて読み直したの。最初は保全処置の記録だと思ってたけど、途中から勤務記録に切り替わってる」


「勤務?」


「そう。あの処置が終わったあと、ユレン・カレルは施設の保全者として登録されてるのよ」


 俺は顔を上げた。


「……生きてたんだ」


「少なくとも、あの時点ではね」


 ティセラは別の紙を差し出した。


「しかも、その後の記録もある」


 そこには年月日と、古い記録所の名称が並んでいた。


 年ごとに確認印が押され、時折、担当業務が書き加えられている。


「……十一年」


 リゼが呟いた。


 ティセラが頷く。


「処置のあと、十一年分の記録があるの。ラヴェルには戻らず、北部の旧記録所で保全業務を続けていたらしいわ」


 俺は、しばらく紙から目を離せなかった。


 二十八年前、ユレンは自分の存在を家族の記憶から切り離した。


 その後、どうなったのか分からなかった。


 まるで、その日を境に世界から消えてしまったように思っていた。


 でも、違った。


 十一年間、生きていた。


 どんな朝を迎え、どんな仕事をして、誰と話したのかは分からない。


 それでも、保全業務を続けたという記録がある以上、ユレンはあの日の後も毎日を過ごしていたのだ。


「……じゃあ」


 リゼが尋ねる。


「今も、どこかにいる可能性は?」


 ティセラの指が、最後の紙へ移った。


 彼女はすぐには何も言わなかった。


 少しだけ口元を引き結び、それから俺たちの前へ紙を置いた。


『第四十四号 保全任務終了』


『死亡確認』


『病没』


 日付は十七年前だった。


     ◇


「……病気だったのか」


 自分の声が、思ったより小さく聞こえた。


 ティセラは頷いた。


「そのように記録されてるわ。病名までは載ってない」


「事故とか、誰かに殺されたとかじゃなくて?」


「少なくとも、この書類には病没とある。別の事情があったと疑う根拠も、今のところ見つかってない」


 俺はもう一度、死亡確認の文字を見た。


 ユレンが亡くなったのは四十五歳の時だった。


 若い。


 今の俺が四十五歳になった時、どんな仕事をしているのかも想像できない。


 まだ家族と一緒に食事をしていたいと思うだろうし、昔の友人と馬鹿な話もしたいと思う。


 ユレンだって、きっとそうだった。


 少なくとも、二十八年前の記録で見た彼は、明日を迎えることを当たり前のように楽しみにしていた。


 だからこそ、家族と離れた後の十一年間をどう過ごしたのか、余計に知りたくなった。


「……手紙は?」


 俺が尋ねる。


「見つからなかったわ」


「イリナさんやトーマに宛てたものも?」


「今調べた資料にはない。帰還したという記録も残ってない」


 俺は紙を見つめた。


 十一年。


 あれだけ帰りたがっていた人が、十一年間もラヴェルへ戻らなかった。


 なぜだろう。


 処置の効果を守るために、帰れなかったのかもしれない。


 戻ろうとしたことはあっても、途中で何かを恐れたのかもしれない。


 それとも、離れた先で別の生き方を見つけたのだろうか。


「……帰りたかったはずなのに」


 俺が呟くと、ティセラが顔を上げた。


「そう思う理由は?」


「本人の記録で、何度も言ってたから。家で飯を食べたいとか、息子と船に乗りたいとか」


「それは、処置を受ける前の気持ちでしょう」


 すぐに返事ができなかった。


 ティセラは静かに続けた。


「その後の十一年間に何を考えていたかは、まだ分からないわ。ずっと帰りたかったのかもしれないし、どこかで考えが変わったのかもしれない」


「……そうだな」


「本人が残した言葉を大切にするのと、本人がその後も同じことを思い続けたと決めるのは、別の話よ」


 俺は頷いた。


 また、教わってしまった。


 今のティセラは、俺と過ごした六年間を覚えていない。


 それでも、この人は俺が見落としそうなところを、いつも見つける。


 知っていることと、想像していることを分ける。


 簡単なようで、俺にはまだ難しい。


「……ありがとう」


 俺が言うと、ティセラは少し驚いた顔をした。


「何が?」


「勝手に決めつけるところだったから」


 彼女はしばらく俺を見た。


 それから、眼鏡を押し上げる。


「……六年後の私、結構いい教育してたのね」


「かなり」


「もっと褒めてもいいわよ」


「そこも変わらないな」


 リゼが小さく笑った。


 俺もつられて笑う。


 だが、机の上の記録へ目を戻すと、胸の奥に重いものが残っていた。


 ユレンは確かに十一年間生きた。


 そして、十七年前に亡くなっている。


 記録が正しければ、もう本人へ聞くことはできない。


 俺たちが見つけられるのは、その人が残したものだけなのだ。


     ◇


 イリナとトーマの家を再び訪ねると、二人は食卓で昼食の準備をしていた。


 以前来た時と同じ、使い込まれた木の机だった。


 ただ、窓際に積んであった籠が片づけられ、古い椅子が食卓の横へ移されている。


 俺は思わず、その椅子を見た。


 イリナが気づいて、少し笑った。


「……気になる?」


「いえ、前は窓際にあったなと思って」


「ええ。戻してみたの」


 彼女は椅子の背へ手を置いた。


「ずっと、何となく邪魔にしながら捨てられなかったでしょう。理由が分かって、ようやく置き場所を決められた気がするわ」


 俺は頷いた。


 ユレンが本当にこの椅子へ座っていたのか、俺には分からない。


 でも、イリナには分かっているのだろう。


 戻った記憶の中に、この椅子とともに過ごした日々があるのかもしれない。


 トーマが俺たちへ茶を勧めた。


 その手つきには、以前より少し落ち着きがあるように見えた。


 父親の記憶を取り戻してから、何かが変わったのだろうか。


 そう思いかけて、すぐにやめた。


 変わったかどうかを決めるのは、俺ではない。


「……それで、見つかったんだな」


 トーマが尋ねる。


 俺は頷いた。


「ユレンさんの処置後の記録が見つかりました」


 イリナの表情が引き締まる。


「……聞かせて」


 俺は写しを食卓へ置いた。


「記録によると、処置のあと北部の旧記録所へ移り、十一年間そこで働いていたそうです」


 トーマが顔を上げる。


「……十一年も?」


「うん」


「ラヴェルへ戻った記録は?」


「見つかってない」


 イリナは紙を受け取り、ゆっくりと文字を追った。


 何度か同じ行へ戻る。


 そのうち、指が止まった。


「……死亡確認」


 小さな声だった。


「十七年前です。記録には病没とあります」


 イリナは何も言わなかった。


 トーマが母親を見る。


「……母さん」


 彼女は返事をしないまま、しばらく紙を見つめていた。


 涙は流れなかった。


 唇を噛むこともなかった。


 ただ、同じ行をもう一度読んでいる。


 やがて、紙をそっと食卓へ置いた。


「……十一年もあったのね」


 俺は頷いた。


「はい」


「十一年も、生きていたのね」


 その声は、ひどく静かだった。


 何かを我慢しているというより、まだどんな気持ちになればいいのか分からないように聞こえた。


「……帰ってこなかったのね」


「記録上は、そうです」


 イリナが顔を上げる。


「あなた、またちゃんと分けて言うのね」


「……ティセラに怒られたので」


 彼女は少しだけ笑った。


「いいことだわ」


 そのまま古い椅子へ視線を移す。


「……私、あの人に怒ってたのよ」


「はい」


「記憶が戻ってから、ずっと。どうして一人で決めたのかって」


 俺は黙って聞いていた。


「でも、十一年間生きていたって聞くと、今度は別のことを考えちゃうの」


 彼女は指で紙の端を押さえた。


「どんな部屋に住んでいたのかしら。ちゃんとご飯を食べていたのかしら。病気になった時、誰かがそばにいたのかしらって」


 イリナは少しだけ目を伏せた。


「そんなこと、もう分からないのにね」


 俺は返す言葉を探した。


 けれど、見つからなかった。


 ユレンは忘れられたかったわけではない。


 あの人が家族へ残した言葉を、俺たちは知っている。


 でも、その後の十一年間をどう生きたのか、俺たちは知らない。


 イリナにとっては、失った夫の人生がもう一つ見つかったようなものなのだろう。


 しかも、その人生には自分がいない。


 それがどんな気持ちなのか、俺には想像することしかできなかった。


     ◇


「……北部の記録所って、まだある?」


 トーマが尋ねた。


「建物は残っているらしい。今も同じ仕事をしているかは分からないけど」


「行けるかな」


「場所は分かってるから、行くことはできると思う」


 トーマはしばらく考えた。


 それから、母親を見る。


「……俺、いつか行ってみたい」


 イリナは息子の顔を見た。


「北部まで?」


「うん」


「遠いわよ」


「分かってる」


 トーマは記録の写しへ目を向ける。


「父さんが十一年間いた場所だろ。何が残ってるかは分からないけど、一度見てみたいんだ」


 イリナは少しだけ考えた。


「……そう」


「母さんも、よかったら」


「考えておくわ」


 トーマが笑った。


「それ、行くって言う時の返事だろ」


「勝手に決めないでちょうだい」


「はいはい」


「一回でいい」


 イリナが言うと、トーマはさらに笑った。


 俺も少し笑ってしまった。


 二人の話し方には、以前から似ているところがある。


 でも、今はそのやり取りの中へ、ユレンがいた頃の時間が少しずつ戻ってきているのかもしれない。


「……セイン」


 イリナが呼んだ。


「はい」


「あなたは、ユレンを探すのをやめるの?」


 俺は少し考えた。


 生きているかどうかを探すことは、もうできない。


 少なくとも、記録では死亡が確認されている。


 けれど、それで調べることがすべて終わったわけではなかった。


「……本人のその後については、まだ分からないことがあります。北部の記録所にも、何か残っているかもしれません」


 イリナは頷いた。


「そうね」


「でも、俺たちが先に全部調べるより、二人がどうしたいかも大事だと思ってます」


 彼女は少しだけ笑った。


「また、それね」


「……はい」


「いいと思うわ」


 俺は肩の力を抜いた。


 トーマが写しを丁寧に折る。


「……これ、もらっていいか?」


「もちろん」


「ありがとう」


 彼は紙を胸元へしまった。


 ユレン本人を連れて帰ることはできなかった。


 死んだ人間を生き返らせることも、過ぎた十一年間を取り戻すことも、俺の〈返却〉にはできない。


 けれど、今の二人はユレンのことを話せる。


 そして、父親と夫が歩いた土地へ、自分たちの意思で向かうこともできる。


 それだけで十分なのか、俺には分からない。


 ただ、二人がこれから何を選ぶのかを見守ることはできると思った。


     ◇


 帰り際、イリナが俺を呼び止めた。


「……セイン」


「はい」


「ほかの人たちにも、会うんでしょう?」


「そのつもりです」


「四十人もいるのよね」


「……はい。全員にすぐ会えるとは思ってませんけど」


 イリナは少し考えた。


「大変ね」


「かなり」


 俺が答えると、彼女は笑った。


 それから、窓の外へ目を向ける。


「……ユレンなら、喜ぶと思うわ」


 俺は返事をしようとした。


 けれど、途中で止めた。


 ユレンが喜ぶかどうかは、もう本人に聞けない。


 彼が生きていた十一年間についても、知らないことがたくさんある。


 だから、勝手に答えを決めない方がいい。


「……そうだといいです」


 俺が答えると、イリナは頷いた。


「ええ」


 その顔は、少しだけ穏やかだった。


     ◇


 残り四十人に会うのは、想像していたよりもずっと難しかった。


 二十八年も経っている。


 当時ラヴェルに住んでいた人が、今も同じ場所に暮らしているとは限らない。


 結婚して姓が変わった人もいれば、仕事のために遠くへ移った人もいた。すでに亡くなっている人もいて、昔の住所が残っていても、今どこへ行けば会えるのか分からないことがあった。


 俺たちはまず、本人を確認できそうな人から調べた。


 エルセは保全院の記録網で古い保全番号と現在の登録を照合し、ティセラはラヴェルの名簿を一冊ずつ確かめた。リオルも、医師に安静を言い渡されながら、王都警備隊へ必要な照会を出してくれた。


 俺とリゼは、その間に会える人を訪ねて歩いた。


 最初の頃は、説明するだけで半日が過ぎることもあった。


 二十八年前、自分の記憶の一部が切り離されたと突然聞かされても、すぐには信じられないのが普通だろう。


 中には、こちらの話を最後まで聞かずに扉を閉める人もいた。


 そのたびに、俺は考えた。


 本人が知りたくないと思うことまで、無理に伝えるべきなのだろうか。


 リゼはそんな俺に、何度も同じことを言った。


「……聞いてもらえるかどうかも、その人が決めることですよ」


 だから、無理に押し入ることはしなかった。


 必要な連絡先だけ伝え、気が変わった時には話を聞けるようにしておく。


 それ以上は、相手の返事を待つことにした。


 そんな中で、何人かは俺たちを家へ招いてくれた。


     ◇


 港から少し離れた通りで酒場を営む老人は、話を最後まで聞いた後、長い間黙っていた。


 店はまだ開店前で、木の卓には椅子が逆さに載せられている。


 老人はそれを一脚だけ下ろし、そこへ腰をかけて俺たちを見た。


「……今はいい」


 低い声だった。


「記憶は、返さなくていいんですか」


 俺が確かめると、老人は頷いた。


「そのユレンって男を、俺は好きだったのかもしれん。嫌いだったのかもしれん。今はそれすら分からんだろ」


「……はい」


「だったら、今すぐ知る必要はない」


 老人は店内を見回した。


「女房はもういないし、この店も息子へ譲るところなんだ。昔の誰かを急に思い出したって、今の俺にどうしろと言うのか分からん」


 俺は頷いた。


「……後で気が変わったら、連絡してください」


「いいのか」


「もちろん」


「何年も後でも?」


「保全が続けられる限り、相談できます」


 老人は少しだけ笑った。


「……じゃあ、預かっといてくれ」


「分かりました」


 俺たちは何も返さずに店を出た。


 リゼは少し考えていたが、何も言わなかった。


 しばらく歩いたところで、ようやく口を開く。


「……あの人、自分で決めましたね」


「うん」


「何も返さなくても、返却士の仕事になるんですね」


 俺は少し考えた。


「……そういうことも、あるんだと思う」


 リゼは嬉しそうに頷いた。


     ◇


 別の日に訪ねた女性は、まったく違う答えを出した。


 名前を聞いた時には首を傾げていたのに、記憶が保管されていると説明すると、ほとんど迷わず返してほしいと言ったのだ。


 俺は危険や不確実な点を説明し、本人の意思を改めて確かめた。


 彼女が望んでいることは変わらなかったので、保全番号と帰属先を慎重に照合し、〈返却〉を使った。


 返却が終わった後、女性はしばらく目を閉じていた。


 やがて、突然笑った。


「……嫌いだったわ」


 思っていなかった言葉だった。


「……ユレンさんを?」


「そう。仕事の仕方が、もう本当に嫌いだったの」


 彼女は笑いながら目元を拭う。


「細かくて、しつこくて。こっちが確認したって言ってるのに、もう一回見せろって言うのよ」


 俺は思わず、ユレンとローディスの会話を思い出した。


 二人も、記録を確かめることについて何度も言い合っていた。


 四十四号の男は、そういう仕事の仕方をしていたのだろうか。


「……でもね」


 女性は少し笑みを緩めた。


「あの人が確認してくれたおかげで、助かった仕事もあったの」


 それから、しばらく黙った。


「変ね。ずっと忘れてたのに、思い出した途端、文句が山ほど出てくる」


 俺は笑った。


「……そういう人だったのかもしれません」


「そうね」


 女性は目を拭った。


「でも、いたわ」


 静かな声だった。


「あの人、ちゃんといたのね」


 俺は頷いた。


 父親としてのユレンを知った。


 夫としてのユレンを知った。


 そして今、仕事仲間としてのユレンを、初めて知った。


 同じ人間でも、誰の記憶の中にいるかによって、少しずつ違う顔をしている。


 だからこそ、一人の人間のことを知るには、たくさんの人の話を聞く必要があるのだろう。


     ◇


 すぐに決められない人もいた。


 翌日また来てほしいと言う人もいれば、今は忙しいから数か月後にしてほしいと言う人もいた。


 俺たちは、その返事を記録した。


 遠方へ移った人については、本人の居場所を確かめるところから始めなければならない。


 会えた人の中でも、記憶を返した人ばかりではなかった。


 すでに亡くなっていた人の記憶は、もっと難しかった。


 帰属先は、その人自身だ。


 だからといって、子供や配偶者へ代わりに返すことはできない。


 記憶の内容を勝手に開いて家族へ見せることも、俺たちはしなかった。


 それらは、保全状態を維持することになった。


「……そういうものを残すためにも、保全院は必要なんです」


 エルセが、ある日の夕方に言った。


 宿の食堂で、俺たちは保全記録の整理をしていた。


 彼女は一枚の紙を持ち上げ、丁寧に番号を確認する。


「返せないもの、返す相手がいないもの、本人が今は戻したくないもの。そういう記憶を、安全に残す仕事もあります」


「……うん」


 俺が頷くと、エルセは少し意外そうにした。


「反論しないんですか」


「何で?」


「保全院のやり方に、ずっと怒っていたでしょう」


「怒ってることはあるよ」


 俺は答えた。


「でも、全部が間違ってるとは思ってない」


 エルセは黙って聞いていた。


「今回も、返してほしくないって人がいた。その人の記憶を安全に預かる仕事は、必要だと思う」


「……そうですか」


 彼女は少しだけ微笑んだ。


「それなら、よかったです」


 俺はその顔を見て、ふと尋ねた。


「……エルセはさ、係長のこと嫌い?」


 彼女が顔を上げた。


「なぜ私に聞くんです?」


「保全院の副院長だし、今まで一緒に働いてきたんだろ」


「直接一緒に仕事をした回数は、そんなに多くありません」


「……そうなんだ」


「でも、尊敬している部分はあります」


 少し意外だった。


「……まだ?」


 俺が尋ねると、エルセは頷いた。


「仕事の判断が速いことも、危険な時に動じないことも、確かですから」


 彼女は少し間を置いた。


「ただ、尊敬しているからといって、すべての判断に従う必要はないと思っています」


 俺は黙っていた。


 その言葉が、胸に残った。


「……セインは?」


 今度は彼女が尋ねる。


「副院長のこと、嫌いになりましたか」


 俺は少し考えた。


 リオルの折れた腕を思い出す。


 エルセが倒れた時のことも。


 セヴァンを担いで去っていく、係長の背中も。


 今でも、思い出すと腹が立つ。


 あの人が何かを守ろうとしていたのだとしても、すべてを許せるわけではなかった。


 けれど、今まで教わったことまで、嫌いになれなかった。


「……まだ分からない」


 俺が答えると、エルセは頷いた。


「それでいいと思います」


「……怒らない?」


「私が何を怒るんです?」


「いつまでも、はっきりしないから」


 エルセは少し笑った。


「人の気持ちを、そんなに早く分類する必要はありませんよ」


 俺も笑った。


「……保全院の人に言われるとは思わなかった」


「分類する仕事だからこそ、分けられないものがあることも知っているんです」


 その返事が、いかにもエルセらしかった。


     ◇


 ティセラの六年間についても、少しずつ方針が決まってきた。


 彼女は自分の手帳を読み直しながら、失われた記憶がどのように保全されているのか調べていた。


 エルセも、回収係として知っている範囲で協力してくれている。


 ただし、二人ともまだ、記憶を安全に分けて戻す方法を確立したわけではなかった。


 最初の返却では、六年間が一度に流れ込もうとした。


 あんなことは、もう繰り返したくない。


「……まず、一日分だけね」


 ティセラが言った。


 机には、今後の確認手順を書いた紙が置かれている。


「一日だけ戻せるか、保全の仕組みを調べる。うまくいったら、翌日まで体調と記憶の混乱がないか確認する」


「……それで大丈夫なら?」


 俺が尋ねる。


「三日分。それから一週間、一か月。どこまでなら安全に戻せるか、少しずつ試すのよ」


 リゼが首を傾げた。


「でも、一日ずつだったら六年かかりますよ?」


「だから、増やす方法も調べるの」


 ティセラは当然のように答えた。


「いきなり全部戻すよりは、ずっといいでしょう」


「……そうですね」


 リゼが頷く。


 俺も同意した。


 それから、ティセラは紙の端へ何かを書き加えた。


「……何を書いたの?」


 俺が尋ねる。


「私が途中でやめたくなった場合の手順」


「……やめる?」


「そうよ」


 ティセラが顔を上げる。


「今は戻したいと思ってる。でも、少し取り戻してみたら、怖くなるかもしれないでしょう。その時は一度止めたい」


 俺は頷いた。


 当たり前のことだった。


 本人が望むから返す。


 けれど、一度返すと決めたからといって、最後までやめてはいけないわけではない。


「……分かった」


 俺が答えると、ティセラは少し満足そうにした。


「じゃあ、手伝って」


「もちろん」


「ただし、勝手に術を使わないでね」


「……はい」


「それから、私がまだ知らない六年間のことを、必要もないのに先回りして教えないこと」


「……分かってる」


 彼女は少しだけ笑った。


「六年後の私も、同じこと言ってた?」


「結構」


「……大変だったでしょうね」


「どっちが?」


「私が」


 俺は笑った。


 リゼもつられて笑う。


 その笑い声を聞きながら、俺は思った。


 今のティセラと、六年間を生きたティセラ。


 どちらかが本当で、もう片方が偽物というわけではない。


 失われた時間を取り戻しても、今ここで新しく過ごした日々が消えていいはずはない。


 彼女が全部を自分の時間として受け止められるように、俺たちは慎重に進むしかなかった。


     ◇


 ラヴェルを離れる前日、俺たちはもう一度、最初の記憶庫へ向かった。


 リオルは地上に残った。


 本人は最後までついてくるつもりだったらしいが、医師に止められ、ティセラにも強く反対されたので、さすがに諦めた。


「……俺、ここまで厳しく監視されるとは思わなかった」


 朝、宿を出る前にそう言っていた。


 固定された右腕を見れば、当然のことだと思う。


「……まず治せよ」


 俺が答えると、リオルは苦笑した。


「分かってる。だから、お前も無茶すんな」


「……はい」


「返事が素直すぎると怖いな」


 それが、出発前に交わした最後の会話だった。


 今回地下へ入るのは、俺とリゼ、ティセラ、エルセの四人だ。


 目的は残された記憶の保全状態を確かめることと、まだ読めていない古い索引を調べることだった。


 水底街へ続く階段は、最初に来た時より静かだった。


 あの頃は、この地下に何があるのか、ほとんど分かっていなかった。


 分断され、襲われ、何度も知らない装置を動かしてしまった。


 今も分からないことは多い。


 ただ、歩くたびに、ここで見つけた人たちの顔が浮かぶようになっていた。


 ユレン・カレル。


 ローディス・フェン。


 そして、四十二人の記憶。


 名前だけではなく、それぞれの人間が生きていた時間のことを、俺は少しずつ考えられるようになっていた。


     ◇


 最初の記憶庫には、まだ淡い光が残っていた。


 四十二本あった線のうち、返却を終えたものは消えている。


 残りの光は、細い川が中央へ流れ込むように石台へ集まっていた。


 その一本一本には、まだ持ち主がいる。


 返してほしくないと言った人。


 決められずにいる人。


 すでに亡くなった人。


 そして、俺たちがまだ会えていない人。


 理由は、それぞれ違っている。


 以前は、四十二本の光がすべて同じものに見えていた。


 今は違う。


 光の先にいる人たちの暮らしを、少しだけ想像できるようになったからだろう。


「……これでいいんでしょうか」


 リゼが隣で尋ねた。


 俺はすぐに答えられなかった。


「……分からない」


 そう答えると、彼女は少し笑った。


「またそれですね」


「でも、全員に同じことをするよりは、いいと思ってる」


「……私もです」


 リゼは頷いた。


 俺たちは少しの間、石台を見ていた。


 その奥で、ティセラが手帳を開く音がした。


「……二人とも、手伝って」


 振り返ると、彼女は部屋の端へ移動していた。


 以前は記憶群を調べることで精一杯だったため、まだ詳しく見ていない壁がある。


 石板が幾重にも組み合わされ、表面に細かな文字が刻まれていた。


 エルセも隣に立っている。


「保全対象の索引だと思います」


 彼女が言った。


「索引?」


「この施設が、何を扱っていたのかを示す分類です」


 ティセラが灯りを近づけた。


「……古い字ね」


「読めそうですか」


「一部なら。まだ分からないところは、写して後から調べるわ」


 彼女は〈転写〉で文字の形を紙へ写した。


 消えている部分が現れたわけではない。


 読めるところだけを確かめ、古い言葉の意味を一つずつ考えている。


 俺はその手元を見て、少し安心した。


 ティセラは何が分かって、何が分からないのかを、きちんと分けていた。


 係長との戦いも、ユレンの記録も、俺たちにその大切さを何度も教えてくれた。


「……一番上は?」


 俺が尋ねる。


 ティセラは指で文字を追った。


「名称」


 石板の表面に、古い文字が残っている。


『名称』


 その下には、別の分類が続いていた。


『帰属』


「……また、この二つか」


 俺が呟くと、エルセが頷いた。


「この施設では、何度も見ましたね」


「うん」


 名前と、そのものが帰るべき先。


 リゼの住民証明書でも、青鐘通りの地下でも、何度も出てきた言葉だった。


 ティセラがさらに下へ目を移す。


「……次は、記憶」


『記憶』


 俺は中央の石台を見た。


 四十二人の失われた記憶が、今もそこへ保全されている。


 その下には、さらに細かな文字があった。


「……地点」


 ティセラが読む。


『地点』


「場所のこと?」


 リゼが尋ねる。


「そう。今の言い方なら、場所に関する情報を扱う分類に近いと思う」


 俺は青鐘通りを思い出した。


 王都の地図から消え、人々の記憶からも見えなくなっていた通り。


 あの場所へ入った時、俺たちは何度も出口を探し、見知らぬ装置に振り回された。


 場所を失うというのは、道を歩けなくなることだけではない。


 そこに暮らしていた人や、そこへ帰りたかった人の生活まで変えてしまう。


 ユレンの話とは別の事件だったはずなのに、今はどこかで同じ仕組みにつながっているように思えた。


「……名前も、場所も、記憶も」


 俺が呟くと、ティセラが頷いた。


「この施設では、同じ分類体系に入っているのね」


「……どれも、帰る場所があるものとして?」


「そう考えていたのかもしれない。でも、全部に同じ処置ができたとは限らないわ」


 彼女は慎重に答えた。


 俺はもう一度、石板を見た。


 名前。


 帰属。


 記憶。


 地点。


 これまで別々の出来事として追ってきたものが、古い壁では同じ書式に並んでいる。


 そのことが、妙に気になった。


     ◇


「……まだ下があります」


 エルセが言った。


 石板の下部には泥がこびりついていた。


 彼女が布を濡らし、慎重に表面を拭う。リゼも隣へしゃがみ、細かな砂を落としていった。


 古い文字が、少しずつ姿を現す。


 ティセラは灯りの角度を変え、読めるところを確かめた。


「……時間」


 俺は眉を寄せた。


「時間?」


「そう書いてあるわ」


『時間』


 その次には、もっと奇妙な文字が並んでいた。


「……生命」


 ティセラの声が、少し小さくなった。


「生命って、生き物の命のことですか?」


 リゼが尋ねる。


「分類名だけでは、そこまで分からないわ。生命に関する記録を保管したのか、別の情報を扱っていたのかも不明ね」


「……そうか」


 俺は壁を見た。


 名前と記憶なら、何となく分かる。


 場所についても、青鐘通りのことを知っている。


 しかし、時間や生命まで同じ壁に並んでいるとなると、何を意味しているのか想像しづらかった。


「……昔の人は、こんなものまで失くすと思ってたのかな」


 俺が呟くと、エルセは少し考えた。


「この分類があることと、実際に失われたことは別です。ただ、扱う必要があると考えられていた可能性はあります」


「……必要があったから、ここに書いた?」


「そうかもしれません」


 それ以上は、誰にも分からなかった。


 ティセラが最後の部分を確かめようと、灯りを下げる。


 その時、彼女の手が止まった。


「……どうした?」


 俺が尋ねる。


 ティセラはすぐには答えなかった。


 眼鏡を押し上げ、文字をもう一度確かめる。


 それから、写し取った紙と見比べた。


「……おかしいわね」


「何が?」


「これ、読み間違いじゃないと思うんだけど」


 ティセラは少しだけ顔を上げた。


「……固有術」


 俺は瞬きをした。


「……何?」


「固有術。そう書いてある」


 俺は、石板を見た。


 古い文字の形は分からない。


 けれど、ティセラの顔を見る限り、冗談ではなかった。


「……固有術って、俺たちの?」


「ほかに何を指すのか分からないけど、少なくともこの文脈ではそう読むのが自然ね」


 リゼが首を傾げた。


「……固有術を、保全するんですか?」


 ティセラは少し考えた。


「今の常識では、そんなことはできないわ」


「……どうして?」


「固有術は、本人が生まれつき持つ力よ。使い方を忘れることはあっても、持ち主から物みたいに取り外すものじゃないでしょう」


 俺は左手を見た。


 〈返却〉。


 落とした物を、本来の持ち主や場所へ戻す術だ。


 自分でも全部は分からないが、それでも、子供の頃から俺の中にある力だった。


 誰かに渡そうと思ったことはない。


 そもそも、渡せるものだとも思っていなかった。


 リオルの〈均衡〉も、ティセラの〈転写〉も、エルセの〈保留〉も同じだ。


 人によって働き方は違う。


 便利な術もあれば、使い道が分からない術もある。


 それでも、生まれた時から本人と一緒にあるものだということだけは、誰も疑っていなかった。


「……エルセ」


 俺が呼ぶと、彼女も石板を見つめていた。


「何ですか」


「保全院では、固有術を預かったりするの?」


「少なくとも、私の知っている回収業務ではありません」


「……編集局なら?」


「分かりません」


 彼女は少しだけ眉を寄せた。


「私は保全院に所属していますが、全部の業務を知っているわけではありません。まして、この施設は今の保全院より古いものです」


 俺は頷いた。


 記憶を人間から取り出して保存することさえ、初めは信じられなかった。


 今では、ティセラの六年間が硝子筒に残されていることを知っている。


 四十二人の記憶を、一人ずつ保全できることも確かめた。


 だからといって、固有術まで同じように扱えると決まったわけではない。


 そう考えながらも、胸の奥へ嫌な感覚が広がっていった。


     ◇


「……こっちにも、記録があるわ」


 ティセラが石板の端を指した。


 壁の隙間に、小さな金属板が何枚か差し込まれている。


 それまで泥に隠れていたらしく、ほとんど見えていなかった。


 ティセラは一枚を慎重に取り出した。


 表面は腐食していて、文字の大半が読めない。


 二枚目も同じだった。


 エルセは別の金属板を確かめる。


「……これも駄目ですね」


「じゃあ、残りは?」


 リゼが尋ねる。


 ティセラが最後の一枚を手に取った。


 ほかのものより薄く、縁には古い管理番号が刻まれていた。


 表面の中央だけは、まだ文字が残っている。


「……読める」


 ティセラが呟いた。


 俺たちは彼女の周りへ集まった。


 彼女は灯りを近づけ、指で一行目を追う。


『保全分類:固有術』


 俺は小さく息を吸った。


 索引に書かれた分類名だけではない。


 個別の記録にも、はっきり固有術とある。


「……続きは?」


 俺が尋ねると、ティセラは二行目へ目を移した。


 少し考えてから、口を開く。


「……搬出」


「搬出?」


 リゼが聞き返す。


 ティセラは頷いた。


「外へ運び出す時に使う言葉よ。保管していたものを、どこか別の場所へ移すような場合に」


 俺は金属板を見た。


「……何を?」


 口にした途端、自分でも分からなくなった。


 まさか、と思う。


 固有術を。


 人間から切り離して。


 別の場所へ運び出す。


 そんなことが、できるのだろうか。


「……待って」


 俺はティセラを見た。


「何かの比喩じゃないのか。固有術についての研究記録を運び出したとか」


 ティセラはすぐに答えなかった。


 金属板を持ち直し、周囲の刻印を確かめる。


「……その可能性はあるわ」


 少しして答えた。


「でも、分類欄には固有術としか書かれていない。研究資料や術式記録を示す言葉も、今読める範囲にはない」


 エルセが横から言った。


「保全物を扱う書式として見るなら、搬出は中身そのものの移動を意味する場合が多いです」


「……じゃあ」


「ただし、昔も同じ意味で使っていたかは分かりません」


 俺は頷いた。


 分からない。


 今の段階では、まだ分からない。


 それでも、この記録が妙に不気味なのは確かだった。


 ティセラが最後の行を確かめる。


 それまで動いていた指が、ぴたりと止まった。


「……ティセラ?」


 俺が尋ねる。


 彼女は何も言わず、文字を見つめていた。


 やがて、ゆっくりと顔を上げる。


「……搬出済」


 その声は、さっきまでより小さかった。


「何が?」


 俺が聞き返す。


 ティセラは答える代わりに、金属板をこちらへ向けた。


 腐食した表面に、短い文字が残っている。


『固有術:搬出済』


 俺は、しばらくその言葉を見つめていた。


 搬出済。


 今も保管中だという意味ではない。


 少なくとも、この記録を書いた人間は、何かをすでに外へ運び出したと判断していたらしい。


「……どこへ?」


 リゼが呟いた。


 誰も答えられなかった。


「……誰の術なんですか」


 彼女が続ける。


 ティセラは金属板の端を確かめた。


「名前は読めない。記載されていたかどうかも、今は分からないわ」


「……今も、誰かが持ってるんですか?」


 俺が尋ねると、エルセは首を振った。


「そこまでは分かりません。この記録から確かめられるのは、固有術を保全対象として扱い、搬出したという記載が残っていることだけです」


 俺は自分の左手を見た。


 何も変わらない。


 〈返却〉がどこかに見えるわけでもなければ、誰かが触れて取り外せそうにも思えない。


 それでも、もし。


 この記録が、文字どおりの意味だったら。


 人間が生まれた時から持つ力さえ、誰かが取り出して運べるのだとしたら。


 今まで当然だと思っていたことが、まるで違って見えてくる。


 名前を失くしたリゼ。


 地図から消えた青鐘通り。


 記憶を切り離された四十二人。


 どれも、最初はあり得ないと思った。


 けれど、実際にあった。


 そして、今度は固有術だ。


 ティセラが金属板をそっと机代わりの石台へ置いた。


「……まだ、決めつけないで」


 彼女が言った。


「この一枚だけでは、本当に何が行われたのか分からない。記録が間違っている可能性だってあるわ」


 俺は頷いた。


「……うん」


「でも、調べる必要はあると思う」


「……俺も」


 リゼも静かに頷いた。


 エルセは金属板を見つめたまま、しばらく動かなかった。


 その横顔には、これまで知らなかった何かを見てしまった時の緊張があった。


 俺は古い石壁へ目を向けた。


 名前。


 帰属。


 記憶。


 地点。


 時間と生命。


 その下に、固有術が並んでいる。


 今まで俺は、失われたものを持ち主へ返す仕事をしてきた。


 落とした靴も、消えた名前も、誰かの記憶も。


 けれど、その力を使う俺自身が、術を失うことなど一度も考えたことがなかった。


 もし固有術にも、持ち主から離れたものがあるのなら。


 その力は、今どこにあるのだろう。


 そして、失った人間は、自分が何を失くしたのかさえ分かっているのだろうか。


 俺は金属板をもう一度見た。


 誰が、誰の力を、どこへ運んだのか。


 肝心なことは何一つ書かれていない。


 ただ、その短い記録だけが、今もはっきり残っていた。


『固有術:搬出済』

第三章までお付き合いいただき、ありがとうございます。


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第四章も引き続きお楽しみいただけたら嬉しいです。

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