第六十二話 四十二人分の今
係長が消えた通路を、俺はまだ見ていた。
暗闇の奥から、いつもの声が聞こえてきそうだった。
『セイン、そこで何してる。仕事に戻れ』
たぶん、そんなことを言う。
そして俺が振り返れば、あの人は面倒くさそうな顔で書類を差し出してくるのだろう。
けれど、もう誰もいなかった。
残っているのは、戦いで傷ついた石壁と、床に散らばった白い紙。そして、右腕を抱えて座り込んでいる幼なじみだった。
「……セイン」
リゼに呼ばれて、ようやく振り返った。
「リオルさん、先にどうにかしましょう」
「……ああ」
そうだ。
考えることなら、いくらでもある。
係長の正体も、保全院の命令も、セヴァンが連れていかれた理由も分かっていない。
だが、今は目の前の人間を放っておくわけにはいかなかった。
俺はリオルの前へしゃがんだ。
「……腕、見せて」
「嫌だ」
「何で」
「怖いから」
「お前が?」
「お前の顔が」
リオルは無理に笑おうとした。
けれど、その表情は途中で歪んだ。額には汗が浮き、唇の色も悪い。
右腕は、まだ不自然な角度のままだった。
あの乾いた音を思い出しかけて、俺は奥歯を噛んだ。
「……触るよ」
「優しくして」
「気持ち悪いからやめて」
「怪我人にひどくない?」
「うるさい。じっとして」
いつもなら、もう少し言い返してくる。
だが、リオルはそれ以上何も言わなかった。
代わりに、ゆっくり息を吐いた。
俺は伸ばしかけた手を止めた。
自分で無理に動かしていい怪我ではない。
そのことくらいは分かる。
「……ティセラ」
名前を呼ぶと、彼女はすぐに隣へ来た。
「見せて」
リオルの腕を確かめたティセラは、眉を寄せた。
「骨折してると思う。ここで元の位置に戻そうとしない方がいいわ」
「……固定できる?」
「できる範囲でね。でも、ちゃんと診てもらわないと駄目よ」
彼女はそう言って、周囲を見回した。
床には細い板が何枚か落ちている。壊れた搬送設備の一部らしく、軽いわりにしっかりしていた。
「セイン、その布を取って。リゼは、幅の細い板を二枚探してくれる?」
「はい!」
リゼがすぐに動いた。
ティセラはリオルへ目を戻す。
「指先の感覚はある?」
「ある。動かすと痛いけど」
「動かさないで。今の位置のまま支えるから」
「……了解」
ティセラは手際よく布を当て、板で腕を支えた。俺も指示された場所を押さえるが、少し強く力を入れるとすぐに怒られた。
「痛いでしょう!」
「……ごめん」
「謝る相手は私じゃない!」
「俺は大丈夫」
リオルが言う。
ティセラが睨んだ。
「大丈夫な人の腕は、そんな形にならないわよ」
「……確かに」
リオルは素直に頷いた。
その横で、俺は少しだけ息を吐いた。
ティセラは六年間を失ったままだ。
今の彼女は俺たちのことを覚えていないし、研究院でどれほど経験を積んだのかも分からない。
それでも、危険な時に先に動き、必要なことを考えて指示を出すところは変わらなかった。
知らない六年間の中で、彼女がまったく別の人間になっていたわけではない。
そんな当たり前のことが、今は嬉しかった。
◇
「……こんなものね」
固定を終えると、ティセラは包帯の位置を確かめた。
「帰ったらすぐ診療所へ行って。絶対に剣を振らないこと」
「左手なら?」
「駄目」
「まだ何も言ってないんだけど」
「言ったでしょう」
リオルが俺を見る。
「……厳しいな」
「お前が甘いんだよ」
俺が答えると、ティセラが頷いた。
「そうよ」
「……二人とも敵か」
リオルは苦笑した。
その顔を見て、俺も少し笑えた。
しかし、固定した腕へ視線を戻すと、笑いはすぐに消えた。
あいつは、王都警備隊の中でも腕が立つ。
子供の頃から一緒に育ち、何度も喧嘩して、何度も助けられてきた。
強い奴だと思っていた。
今でもそう思っている。
係長との戦いで、リオルは悪い判断をしたわけではなかった。
相手の術を読み、剣の届く場所を探り、負傷した身体でできる限りの動きをした。
それなのに、右腕を折られた。
あれほどの実力があっても、相手の思いどおりに止められてしまった。
「……セイン」
リオルが俺を呼んだ。
「何?」
「また、係長のこと考えてるだろ」
「……分かる?」
「分かるよ。さっきから同じ顔してる」
俺は苦笑した。
「……何もできなかったな」
小さく言う。
リオルは答えなかった。
俺は続けた。
「お前も、エルセも、セヴァンも、ちゃんと考えて戦ってた。俺だって、自分にできることをやったつもりだった」
「うん」
「でも、全然届かなかった」
リオルは固定された右腕を見た。
少ししてから、静かに答える。
「……そうだな」
慰めるような返事ではなかった。
「俺も、あそこまで違うとは思わなかった」
その言葉に、俺は顔を上げた。
リオルは苦笑している。
「悔しいよ。そりゃ」
「……うん」
「右腕まで折られてさ。しかも、向こうは全然本気で息を切らしてる感じじゃなかった」
彼は左手で前髪をかき上げた。
「強い奴がいるのは知ってた。でも、自分が積み上げてきたものを、あんなふうに越えられるとは思わなかったな」
俺は黙っていた。
リオルがこういう話をするのは珍しい。
普段は負けても笑うし、何かに失敗しても次は上手くやると言う。
だから、今は何も言わずに聞いていた。
「……でもさ」
リオルが俺を見る。
「右腕が折れたからって、今まで練習してきたことまでなくなったわけじゃないだろ」
「……そうだな」
「次に会ったら、どうすればいいか考えるよ。まあ、まずは骨をくっつけるところからだけど」
俺は思わず笑った。
「……そこが最優先だな」
「だろ」
リオルも笑った。
そのあと、少しだけ真面目な顔になる。
「ただ、あの人を甘く見ない方がいい」
「……うん」
「俺たちの動きを読んでたのは確かだけど、それだけじゃない。身体の使い方も、踏み込む速さも、全部違った」
リオルは暗い通路へ目を向けた。
「……まだ、見せてないものがあると思う」
俺は頷いた。
そのことは、俺も感じていた。
係長は、俺たちを短時間で戦えなくするために動いた。
勝つためというより、これ以上邪魔をさせないために必要なことだけをしたように見えた。
もし、あの人が本気で俺たちを殺そうとしていたら。
そこまで考えて、やめた。
今は想像したくなかった。
◇
エルセが目を覚ましたのは、それから少ししてだった。
リゼが彼女のそばにしゃがみ、呼吸を確かめながら何度も名前を呼んでいた。
やがて、エルセの眉が小さく動いた。
「……う」
「エルセさん!」
リゼが身を乗り出す。
エルセはゆっくり目を開いた。
最初は天井を見ていた。
それから、リゼの顔を確かめる。
「……リゼさん?」
「はい!」
「……ここは」
「まだ地下です。動かないでください」
エルセは一度目を閉じた。
何かを思い出すように眉を寄せてから、再び目を開く。
「……セヴァンは?」
その質問に、俺は一瞬だけ言葉を失った。
エルセは自分の身体のことより先に、セヴァンの安否を尋ねた。
「……係長が連れていった」
俺が答える。
エルセはしばらく黙った。
その目が、ほんの少しだけ曇る。
「……そうですか」
「助けられなかった」
「……ええ」
彼女はゆっくり息を吐いた。
「私も、止められませんでした」
その言い方が、少し苦しかった。
エルセは保全院の回収係だ。
係長の術を知っていた。
それでも、止められなかった。
どれほど悔しいのか、俺には全部は分からない。
「……身体は?」
尋ねると、彼女は慎重に首へ手を当てた。
「痛みはあります。少しふらつきますね」
「無理に起きないで」
「……そうします」
意外にも素直だった。
リゼが安心したように微笑む。
エルセは少しだけ身体を起こしかけたが、すぐに動きを止めた。
「……副院長は、まだ近くに?」
「もういない」
俺が答えると、エルセは頷いた。
「……なら、少なくとも今すぐ追うのはやめましょう」
「……追っても勝てないから?」
「それもあります」
彼女は俺を見る。
「でも、今の私たちが追えば、リオルさんの怪我がさらに悪くなるかもしれません。セヴァンを助けるつもりで、ほかの人まで危険にさらしてしまう」
「……分かってる」
「なら、今は戻るべきです」
その声は落ち着いていた。
ただ、悔しくないわけではなかった。
エルセは一度、目を伏せる。
「……あの人、昔からそうなんです」
「何が?」
「相手を止めるために、必要なところまで考え抜くんです。余計な動きをしないし、感情だけで判断を変えることもない」
俺は係長の顔を思い出した。
「……第七係でも、そうだったよ」
「そうでしょうね」
エルセが小さく笑った。
だが、すぐに表情を戻す。
「その判断が正しいとは限りません」
俺は顔を上げた。
「……うん」
「副院長は、守るために誰かの意思を無視することがあります。今回も、きっとそういう判断をしたんでしょう」
「セヴァンを守るため?」
「可能性はあります」
彼女は一度、言葉を選んだ。
「副院長本人が担いで戻る必要なんて、本来はありません。移送係を使えば済むことですから」
「……じゃあ、助けたのかな」
「分かりません」
はっきりした返事だった。
「守ろうとしたのか、確実に連れ帰りたかったのか、それとも別の理由があるのか。今の私には判断できません」
「……そうだよな」
「ただ、本人が拒否していたのに連れていったことは変わりません」
エルセは俺を見た。
「そこは、忘れないでください」
俺は頷いた。
係長には何か理由がある。
そう思いたい気持ちは、今も残っている。
けれど、理由があることと、やったことが正しいかどうかは別だ。
それを教えてくれたのは、今まで係長の言葉を信じてきた俺ではなく、保全院で働くエルセだった。
◇
「……エルセは、どうする?」
俺が尋ねると、彼女は顔を上げた。
「何がです?」
「保全院へ戻るのか、ってこと」
少し考えてから、続ける。
「係長に逆らっただろ。これからもここにいて、大丈夫なのかなと思って」
エルセはしばらく黙っていた。
「……今すぐには戻りません」
「じゃあ、保全院を辞める?」
「それも違います」
「……難しいな」
「あなたが、すぐ二つに分けるからです」
言われてしまった。
エルセは少しだけ笑ったが、すぐに真面目な顔へ戻る。
「私は回収係です。これからも、その仕事を続けるつもりです」
「……うん」
「危険なものを回収し、適切な場所へ保全すること自体が間違いだとは思っていません。でも、何を危険とするか、誰の意思を優先するかは、考え続けなければならないと思っています」
俺は黙って聞いていた。
「副院長がセヴァンを連れ帰った理由も、四十二人分の記憶をここへ残した理由も、まだ分かりません」
エルセは携帯灯へ目を向けた。
「知りたいんです。あの人が何を守ろうとしているのか。そして、そのために何を失わせているのか」
静かな声だった。
「だから、もう少し一緒に調べます」
俺は少しだけ嬉しくなった。
「……味方になってくれる?」
エルセは俺を見る。
「そこまで都合よく考えないでください」
「……やっぱり?」
「私は自分の判断で動きます。あなたと意見が違えば、また止めますよ」
「それは知ってる」
「本当に?」
「……ここまで何回止められたと思ってるんだよ」
エルセは少し笑った。
横からリゼが顔を出す。
「同行者でいいんじゃないですか?」
俺は彼女を見る。
「……同行者?」
「はい。今は同じところへ行きたいんですよね」
エルセが少し考えた。
「……その言い方なら、構いません」
「じゃあ、決まりですね」
リゼが嬉しそうに笑う。
俺も頷いた。
エルセは呆れたように俺たちを見ている。
「……本当に、決めるのが早いですね」
「セインといると慣れます」
「俺のせい?」
「かなり」
エルセまで小さく頷いた。
その顔を見た時、少しだけ笑ってしまった。
これからどうなるかは、まだ分からない。
それでも、今日ここで誰かと一緒に帰れることが、今はありがたかった。
◇
エルセが少し休んだ後、俺たちは中央の石台へ戻った。
最初の記憶庫には、まだ四十二本の光が残っている。
移送係が装置を接続しようとした時も、係長が戦った時も、床を走る線だけは消えなかった。
奥の区画には、ティセラの六年間を収めた黒い硝子筒も残されている。
どちらも、まだ返せていない。
「……今は触らないでください」
エルセが言った。
俺は左手を下ろす。
「……まだ何もしてない」
「あなたの場合、それを聞いてからが心配なんです」
「信用ないな」
「ありますよ」
少し意外な返事だった。
俺が顔を上げると、エルセは石台を見たまま続ける。
「ただ、あなたが返せると思った時に、すぐ試したくなることも知っています」
俺は言い返せなかった。
ティセラの六年間を返そうとして、危うく彼女を傷つけかけた時のことを思い出す。
返す先が分かった。
本人が返してほしいと言った。
だから、返せると思った。
でも、どういう形で戻るのかまでは考えていなかった。
今なら、少し分かる。
返すことを決めるのと、安全に返す方法を知っていることは、同じではない。
「……今日は使わない」
俺が言うと、エルセは頷いた。
「それがいいと思います」
ティセラはすでに手帳を開いていた。
壁の近くへしゃがみ、四十二本の線を一本ずつ確かめている。
「……これ、全部つながってるわけじゃない」
「何が?」
俺が尋ねる。
「保全された記憶よ。中央では一つの記憶群として扱われてるけど、ここを見て」
彼女は線の付け根を指した。
四十二本は中央の石台へ向かって伸びている。
しかし、石台へ入る直前に、それぞれ別の小さな刻印を通っていた。
「……番号?」
「そう。少なくとも、別々に識別するためのものみたい」
エルセも隣へ来た。
腰を落とし、文字を確認する。
「……それぞれ別の保全記録ですね」
「分かる?」
俺が尋ねると、エルセは頷いた。
「一人ずつ取り出せる構造になっています。四十二人の記憶を全部混ぜて、一つにしているわけではありません」
俺は少し考えた。
「……じゃあ、四十二人全員にまとめて返さなくてもいい?」
「仕組みの上では、そうです」
ティセラが答えた。
「一人分だけを取り出せるはず。ただし、どの保全記録が誰のものか、ちゃんと照合する必要があるわ」
「……分かった」
「それに、取り出せることと、安全に返せることも別よ」
彼女は俺を見た。
「そこ、忘れないで」
俺は頷いた。
「……忘れない」
ティセラは少し驚いた顔をした。
「素直ね」
「今日は結構怒られたから」
「良い経験だったじゃない」
「……そうかな」
「そうよ」
彼女は当たり前のように答えた。
俺は少しだけ笑った。
◇
石台の上には、淡い文字が浮かんでいた。
『記憶群:四十二』
その下に、保全状態を示す細かな線が続いている。
俺は文字を眺めた。
二十八年前、ユレン・カレルを知っていた人々から、彼の存在へつながる記憶が取り除かれた。
四十二人。
その中には、妻のイリナと息子のトーマがいる。
残る四十人が誰なのかは、まだ分からない。
家族かもしれない。
仕事仲間かもしれない。
昔一緒に食事をした友人や、近所に住んでいた人かもしれない。
俺は一本の光の前へしゃがんだ。
表面には小さな刻印がある。
ただ、それだけだった。
この先に誰かの記憶があると言われても、顔も名前も見えない。
それでも、確かに誰かのものなのだ。
「……セイン」
リゼが隣へ来た。
「何?」
「返せるかもしれないんですよね」
「……うん」
「じゃあ、どうします?」
俺はすぐには答えられなかった。
少し前までなら、返すと決めていたと思う。
落としたものは、持ち主へ戻す。
それが俺の仕事だった。
靴だって、財布だって、鍵だって。
本来の持ち主が分かれば、なるべく早く返した方がいい。
そう考えてきた。
でも、ユレンの記録を見た。
あの人は、自分が忘れられることを望んでいなかった。
妻と息子に覚えていてほしかった。
もう一度家に帰りたかった。
それなのに、最後には自分を返すかどうか、未来の家族へ聞いてほしいと残した。
二十八年前のユレンが知っていたイリナとトーマは、今とは違う。
トーマはもう八歳の子供ではない。
イリナも、夫のいない二十八年間を生きてきた。
その間に何を考え、何を失い、何を大切にしてきたのか、俺には分からない。
そんな二人へ、突然記憶を返していいのだろうか。
「……聞こう」
俺が言った。
リゼは首を傾げる。
「誰にですか?」
「四十二人に」
彼女が目を丸くした。
「……全員?」
「できるだけ」
後ろからティセラの声がした。
「……本当に効率悪い人ね」
「前にも言われた」
「誰に?」
「ティセラに」
彼女は少し驚いた。
「六年後の私?」
「うん」
ティセラはしばらく考えた。
それから、小さく息を吐く。
「……じゃあ、そこは六年間で変わらなかったのね」
「安心した?」
「全然」
俺は少し笑った。
ティセラも、ほんの少しだけ笑った。
それから彼女は、もう一度石台を見た。
「……一人ずつ聞くつもり?」
「そう」
「今すぐ返してほしいと言う人もいれば、返さないでほしいと言う人もいるでしょうね」
「……うん」
「決められない人もいると思うわ」
「その時は待つよ」
俺は答えた。
「知りたいなら返す。今のままでいたいなら、その人の記憶はここへ残す。決められないなら、決められるまで待つ」
エルセが少し眉を寄せた。
「それは、かなり難しいことですよ」
「……分かってる」
「二十八年前の四十二人です。すでに亡くなっている方もいるでしょうし、所在が分からない方もいるはずです」
彼女は静かに続けた。
「それに、記憶を戻すことで、今まで築いてきた生活が変わる可能性もあります。本人が望んだとしても、周囲の人間が同じように受け止めるとは限りません」
「……うん」
「一人ずつ違う判断になれば、管理も複雑になります」
「そうだろうな」
「それでも?」
エルセは俺を見た。
俺は少し考えた。
「……全員まとめて決めるよりは、いいと思う」
言い切ってから、付け加える。
「たぶん」
リゼが笑った。
「最後に『たぶん』ってつけるんですね」
「だって、絶対に正しいとは言えないだろ」
「……そうですね」
彼女は頷いた。
俺は続ける。
「返してよかったと思う人もいるだろうし、知らない方がよかったって思う人もいるかもしれない。後悔する人だって、いると思う」
ユレンの姿が、頭に浮かんだ。
あの男は、忘れられたかったわけではなかった。
それでも、最後には自分で選んだ。
だからといって、すべての人に同じ選択をさせていいわけではない。
「……でも、選ぶのは俺じゃないと思うんだ」
俺が言うと、リゼは少しだけ微笑んだ。
「私は賛成です」
「……リゼ」
「私も、自分の昔の名前を勝手に返されたら嫌ですから」
彼女は首元の赤い封蝋へ触れた。
「もちろん、知りたい気持ちはあります。でも、昔の私が何という名前だったとしても、今の私はリゼです」
俺は頷いた。
係長は、昔のリゼを知っていると言った。
正しい名前や帰属を大切にし、時には本人の意思よりそれを優先していた人間だったらしい。
その話が本当なら、今のリゼとは考え方が違うところもある。
けれど、目の前の彼女は、自分で考えて答えを出していた。
過去に何があっても、今ここで話しているリゼの言葉を、俺は大切にしたかった。
◇
「……じゃあ、私の六年間は?」
ティセラが言った。
俺たちは彼女を見た。
彼女は手帳を胸へ抱えている。
その中には、本人が覚えていない研究記録が何冊分も残されていた。
そして奥の区画には、六年間の記憶が黒い硝子筒へ保全されている。
「……返してほしい?」
俺が尋ねると、ティセラは眉を寄せた。
「さっきも言ったでしょう」
「……うん」
「返してほしいわよ。自分が何をしていたのか知りたいし、六年後の私だけが知ってることを、今の私が知らないのも気持ち悪い」
彼女は少し間を置いた。
「でも、一気には嫌」
俺は頷いた。
さっきの返却で、何が起きたか覚えている。
彼女自身も、知らない景色が突然流れ込んでくることを怖がっていた。
「……少しずつ、戻す方法を探そう」
俺が答えると、ティセラは頷いた。
「そうする。できれば、私も仕組みを調べたい」
「……自分で?」
「当たり前でしょう」
強い返事だった。
「今の私に分からないことが多いのは認める。でも、分からないからって、またほかの人に全部決められるのは嫌よ」
俺は何も言えなかった。
その気持ちは、よく分かった。
係長は、彼女の六年間を奪った。
危険な情報を取り除くために必要だったと言った。
けれど、ティセラはその理由さえ知らない。
自分が何を調べたのかも、どんなことを経験したのかも、今は分からない。
「……手伝ってもいい?」
俺が尋ねると、彼女は少し考えた。
「条件があるわ」
「何?」
「もしまた私の記憶があなたを通ることになっても、見えたことを勝手にほかの人へ話さないで」
「……分かった」
「本当に?」
「うん」
「リゼにも?」
俺は隣のリゼを見る。
彼女は少し不満そうな顔をした。
「……私にも内緒ですか?」
「ティセラの記憶だから」
俺が答えると、リゼは少し考えた。
それから、すぐに頷く。
「……それなら、そうですね」
ティセラが少し驚いた顔をした。
「あなた、もっと聞きたがるかと思った」
「気になりますよ。でも、私だって自分の昔のことを勝手に話されたら嫌です」
彼女はそう言って、俺を見た。
「セインも、ちゃんと約束守ってくださいね」
「……分かってる」
ティセラは二人を見比べた。
そして、少しだけ笑った。
「……変な人たち」
「よく言われる」
俺が答えると、彼女は肩をすくめる。
「六年後の私が、あなたたちと一緒に仕事してた理由は、少しだけ分かる気がする」
その言葉を聞いて、胸が温かくなった。
ティセラは俺たちを思い出したわけではない。
でも、もう一度ここで関係を作ろうとしている。
失った六年間を返すことだけが、彼女のこれからのすべてではないのだと思った。
◇
「……それで」
ティセラは突然、手帳を開いた。
「四十二人の保全記録を確認するなら、今日はここまでにした方がいいわ」
俺は首を傾げる。
「……どうして?」
「まず怪我人がいるでしょう」
彼女はリオルを指した。
「……はい」
「それから、エルセさんもさっきまで意識がなかった」
「……はい」
「あなたも、かなり疲れてる顔してる」
「……そんなに?」
「ひどいわよ」
リゼが小さく頷いた。
「……セイン、さっきから少し顔色悪いです」
「お前まで?」
「心配してるんです」
ティセラは手帳を閉じた。
「だから今日は戻る。必要な記録だけ取って、あとはちゃんと休んでから考える」
その言い方が、あまりにもいつものティセラだったので、俺は思わず笑ってしまった。
「……何よ」
「いや、懐かしくて」
「初対面の人に言われると変な気分ね」
「……そうだよな」
俺は頷いた。
エルセも、中央の石台を確かめながら言う。
「私も賛成です。この状態で保全物を動かすのは危険です。まず照合に必要な記録だけ残しましょう」
「……どうやって?」
「読める刻印を写し取ります。元の記憶へは触れません」
ティセラが頷く。
「それなら〈転写〉を使えるわ」
二人は石台へ近づき、番号と記録線の対応を確かめ始めた。
俺は少し離れたところで、その作業を見守った。
エルセは保全院の認証方式を知っている。
ティセラは、目の前の文字を正確に写せる。
二人とも得意なことが違うから、同じ資料を見ていても気づく場所が違うらしい。
「……そこ、記録番号じゃないです」
エルセが言った。
「分かってるわよ。これは線の分岐を示してるんでしょう」
「……読めるんですか?」
「少しだけ。でも、あなたが説明してくれた方が早いわ」
「分かりました」
そんな会話が聞こえてきた。
俺は何だか、少し安心した。
さっきまで全員が係長へ向かって戦っていた。
そのうち三人は傷つき、一人は連れていかれた。
それでも、ここで立ち止まって話し合うことはできる。
分からないことを調べ、何をすべきか相談できる。
戦いには負けた。
でも、俺たちが一緒に仕事をする力まで失ったわけではなかった。
◇
記録の確認が終わる頃には、灯具の光が少し弱くなっていた。
ティセラが写し取った紙を束ね、鞄へしまう。
エルセは最後にもう一度、中央の石台を確かめた。
「……保全状態は安定しています」
「しばらく、このまま?」
俺が尋ねる。
「今すぐに崩れる兆候はありません。ただし、誰かが外部の移送式をつなげば、また状況が変わる可能性はあります」
「……係長も来られる?」
「副院長ですから、来ようと思えば来られるでしょうね」
俺は小さく息を吐いた。
「……じゃあ、閉じても意味ない?」
「意味がないわけではありません」
エルセは入口へ目を向けた。
「私たちが通ってきた保全経路は、閉鎖できます。外部から簡単に入れなくすることはできるはずです」
「……でも、係長なら?」
「別の経路や権限を使う可能性があります」
やっぱりそうか。
俺は少しだけ肩を落とした。
エルセはそんな俺を見て、静かに続ける。
「……ただ、あの人は四十二人分の記憶を持っていきませんでした」
俺は顔を上げた。
「……わざと?」
「分かりません」
返事は早かった。
「移送できる状態ではなかったからかもしれませんし、優先する目的が別にあったのかもしれません」
「……そうだよな」
「副院長の行動に、毎回こちらの都合のいい理由をつけるのは危険です」
俺は頷いた。
係長が守ろうとしたのかもしれない。
俺たちへ記憶を残してくれたのかもしれない。
そんなことを、つい考えてしまう。
けれど、あの人はリオルの腕を折った。
エルセとセヴァンを倒し、本人が拒否したのに連れていった。
それも事実だ。
両方を忘れないでおこうと思った。
「……エルセ」
俺が呼ぶと、彼女は顔を上げた。
「何ですか?」
「もし今度、係長がここへ戻ってきたら」
「はい」
「……また止められる?」
エルセは少しだけ考えた。
「分かりません」
正直な答えだった。
「でも、止める必要があると思えば、私は止めようとします」
「……うん」
「ただし、今度はもう少し準備をします」
その声に、少しだけ強さが戻っていた。
俺は小さく笑った。
「……頼りにしてる」
「期待しすぎないでください」
「同行者だろ?」
エルセは俺を見た。
それから、少しだけ笑った。
「……そうでしたね」
◇
記憶庫の扉を閉じる前に、俺は一度だけ振り返った。
中央の石台には、四十二本の光が残っている。
それぞれの先に、誰かの失った記憶がある。
イリナとトーマ。
そして、俺たちがまだ名前を知らない四十人。
今もどこかで暮らしている人もいれば、すでに亡くなった人もいるだろう。
ユレンを忘れたまま、何十年もの時間を過ごしてきた人たちだ。
俺は、その全員を元どおりにできるとは思っていない。
むしろ、元どおりという言葉自体が、少し違うのかもしれなかった。
二十八年の間に生きた時間は、誰にも消せない。
ユレンを思い出したとしても、その間に起きた出来事までやり直せるわけではない。
だから、返却できるのは過去そのものではない。
失われた記憶を、今の持ち主へ返すことだ。
その後をどう生きるかは、返された本人が決める。
俺が代わりに決めることではなかった。
「……セイン」
リゼが呼んだ。
「行きますよ」
「……うん」
俺は石台から目を離した。
エルセが認証札を使って保全経路の扉を閉じる。
重い石が動き、光の差し込む隙間が少しずつ細くなっていった。
最後まで残っていた一本の光が、扉の向こうへ消える。
俺はそれを見届けてから、仲間たちの後を追った。
◇
水底街から地上へ戻る頃には、空が夕方の色へ変わっていた。
朝、まだ冷たい空気の中で船へ乗ったはずなのに、もう海風は昼間の温かさを失っている。
ラヴェルの港では荷車が行き交い、船から積み下ろされた荷物を運ぶ声が響いていた。どこかの家から夕飯の匂いが漂い、通りの向こうでは子供たちが走っている。
何でもない街の風景だった。
俺たちが地下で何を見つけ、誰と戦ったのか、この街の人々はまだ知らない。
そのことが、少しだけ不思議だった。
「……眩しいですね」
リゼが言った。
「夕方なのに?」
「地下が暗すぎたんです」
「……確かに」
彼女は空を見上げた。
「ちゃんと戻ってこられましたね」
俺は頷いた。
「……うん」
少し前では、リオルが固定された腕を抱えながら歩いている。
その隣ではエルセが歩幅を合わせ、何度も足元を確かめていた。
「……もっとゆっくり歩けませんか」
「これでもゆっくりなんだけど」
「では、さらにゆっくり」
「俺、そんなに速い?」
「速いです」
リオルは俺を見た。
「……セイン、何とか言って」
「エルセの言うこと聞けよ」
「お前、完全にあっち側だな」
「怪我人の味方だよ」
「……それが一番厳しい」
俺は笑った。
ティセラは、その少し後ろを歩いている。
自分の手帳を開こうとして、リゼに止められていた。
「ティセラさん、歩きながら読むのは危ないです」
「少しだけ」
「帰ってから読みましょう」
「今、気になるところがあるのよ」
「転んだらもっと大変です」
ティセラは不満そうな顔をした。
「……六年後の私も、こんなに注意されてたの?」
リゼは少し考えた。
「……結構されてました」
「誰に?」
「主に、私とセインに」
ティセラが俺を見る。
「……大変だったでしょうね」
「何が?」
「私が」
「……そっち?」
リゼが笑った。
その声を聞いて、俺も笑ってしまった。
誰も完全な状態ではなかった。
リオルは腕を折り、エルセも身体を痛めている。
ティセラの六年間は、まだ戻っていない。
セヴァンは係長に連れていかれたままだ。
俺自身も、疲れが抜けず、歩くたびに身体のあちこちが重かった。
それでも、今は四人の顔を見られる。
声が聞こえる。
同じ道を歩いている。
係長を追わず、仲間と地上へ戻る方を選んだ。
その選択に後悔がないと言えば、嘘になる。
セヴァンを置いてきたことは、これからも気にかかるだろう。
でも、リオルの怪我を見捨ててまで追いかけることも、俺にはできなかった。
だから今は、選んだ方をきちんとやろうと思った。
◇
「……セイン」
隣を歩くリゼが、少し真面目な顔になった。
「何?」
「四十二人のことです」
「……うん」
「最初は、誰に聞くんですか?」
俺は少し考えた。
いや、本当はもう決まっていた。
「……イリナさんとトーマさん」
リゼが頷く。
「そうですよね」
ユレンの妻と息子。
二十八年前、あの男は家へ帰りたかった。
妻が作った夕飯を食べ、息子が残したパンの端をつまみ、何でもない話をしたかった。
そんな一日を、これからも繰り返せると思っていた。
けれど、ユレンは家族の記憶から消えることを選んだ。
そして、未来の二人がどう思うかは、自分だけでは決められないと残した。
俺たちは、その言葉を聞いた。
だから、今度は二人へ聞きに行こう。
何を望むのか。
何を怖がっているのか。
知らなかった記憶を、もう一度知りたいと思うのか。
「……明日、会いに行こう」
俺が言うと、リゼは頷いた。
「はい」
「でも、その前に」
「リオルさんの診療所ですね」
「……よく分かったな」
「セインの考えること、少し分かるようになってきました」
リゼは少し得意そうに笑った。
その笑顔を見て、俺も笑う。
そして、ふと気づいた。
俺はずっと、何かを返すために歩いてきた。
誰かが落とした物を見つけ、持ち主へ届ける。
今までなら、それで仕事が終わった。
でも、今度の落とし物には、持ち主の知らない二十八年間がある。
返せることが分かったとしても、それだけでは終わらない。
その人が、今どんな暮らしをしているのか。
返した後に、どう生きたいのか。
そこまで聞かなければ、俺には返すかどうか決められなかった。
海から風が吹いた。
リゼの月白色の髪が揺れる。
前を歩いていたリオルが何か冗談を言い、エルセに呆れられている。
ティセラは手帳を閉じ、代わりに港の方へ目を向けた。
俺も、遠くに並ぶ家々を見た。
そのどこかに、イリナとトーマが暮らしている。
二十八年間、誰にも呼ばれなかった名前を、今の二人はどう受け止めるのだろう。
それは、会ってみなければ分からない。
俺はリゼへ顔を向けた。
「……なあ」
「はい」
「もし、二人が返してほしくないって言ったら」
リゼは少し考えた。
「返さないんですよね」
「……うん」
「じゃあ、それでいいと思います」
あっさりした答えだった。
「……簡単に言うな」
「簡単じゃないですよ」
リゼは俺を見た。
「でも、聞きに行くって、そういうことでしょう?」
俺は黙った。
少ししてから、頷く。
「……そうだな」
その返事を聞いて、リゼが笑った。
港の向こうで、夕方の鐘が鳴り始める。
俺たちは、その音を聞きながら歩き続けた。
ユレン・カレル。
その名前を、明日は二人へ伝える。
そして、聞こうと思った。
あなたたちは、この人をもう一度知りたいですか、と。




