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王都の返却士 ~その落とし物、世界のものです~  作者: 紙森 灯
第三章 誰も覚えていない男

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第六十一話 王立遺失物管理局第七係係長

 

 セヴァンの後ろに並んだ四人は、誰も武器を抜かなかった。


 灰色の長衣に、黒紐で胸元へ下げた四角い認証札。全員が同じ形の細長い箱を抱えていて、こちらを見ても表情を変えない。


 つい先ほどまで、俺たちはユレン・カレルの記録を見ていた。


 息子が描いた船の絵を大切に持ち歩き、妻と交わした何でもない会話まで残そうとした男。その人が、どうして家族の記憶から消える道を選ばなければならなかったのか、ようやく少しだけ分かったところだった。


 なのに今、目の前に現れた男たちは、俺たちが何を見つけたのかにも、ユレンがどんな人間だったのかにも興味がないようだった。


「……また会いましたね、セイン」


 セヴァンが軽く会釈した。


 暗褐色の髪の下で、いつもの穏やかな笑みを浮かべている。茶店で負傷した右肩にはまだ処置の跡があり、上着の肩口も少し不自然に膨らんでいた。


「今回はお茶の用意、ないんだな」


「持ってきたら、飲んでくれます?」


「……状況による」


「でしょうね」


 セヴァンは苦笑した。


 相変わらず、何を考えているのか分かりづらい人だった。


 その背後で、移送係の先頭に立つ男が一歩前へ出た。


「対象物の回収を開始します」


 感情のない声だった。


 男は認証札を掲げ、古い石扉へ向かって読み上げる。


「記憶群四十二件、ユレン・カレルの自己記録、旧施設の起動記録、ローヴェン研究員から保全された記憶。以上を指定移送先へ搬出します」


「……待ってください」


 エルセが前へ出た。


「その移送、誰の承認ですか」


「管理権限による直接指示です」


「副院長の承認を経ていないんですか」


「優先指定が付与されています」


 その返事を聞いて、係長が頭をかいた。


「俺、そんな指示を出した覚えないんだけど」


「副院長の承認は不要とされています」


「……ずいぶん偉い命令だな」


 いつもの気の抜けた声だった。


 だが、係長は笑っていなかった。


 副院長であるこの人を飛び越えて、命令を出せる存在がいる。


 少なくとも、今の保全院にはそういう仕組みがあるらしい。


「……あの筒も持っていくんですか」


 俺が尋ねた。


 黒い硝子筒は、奥の石扉の前に浮かんでいる。内部の淡い光は落ち着いていたが、表面の細い亀裂はまだ残っていた。


「指定された保全物はすべて移送します」


「それには、ティセラの記憶も入ってます」


「承知しています」


「本人は返してほしいと言ってるんですけど」


「移送係には返却の判断権限がありません」


 その言葉を聞いて、ティセラが手帳を閉じた。


「……便利な仕事ね」


 男が彼女を見る。


「何か?」


「持っていくことだけ決められていて、持ち主が嫌だと言っても関係ないんでしょう」


「我々は命令に従っているだけです」


「ええ。そう答えるようにも決まってるのね」


 ティセラは冷たく言い返した。


 六年間の記憶を失い、俺たちの名前すら覚え直している途中なのに、こういう時の気の強さはまったく変わらない。


 俺は少し安心しかけた。


 だが、次に口を開いたのはセヴァンだった。


「移送前に、保全状態の再確認が必要です」


 彼は四人へ向き直った。


「その筒は一度〈返却〉に接続されています。今の状態で外部の移送式へつなげば、記憶が破損する可能性があります」


「確認は移送先で行います」


「破損した後では、確認する意味がありませんよ」


 声は穏やかだった。


 しかし、その笑顔はいつもより薄い。


「……セヴァン」


 係長が呼んだ。


「お前、今日は立会いだろ」


「そのつもりでした」


「だった?」


「編集対象を壊していいとは、聞いていませんから」


 セヴァンは係長を見た。


「ここは止めるべきです」


 係長が小さく息を吐く。


 その横顔を見て、俺は思った。


 セヴァンも、エルセも、係長も、同じ保全院で働いている。


 けれど、目の前のものをどう扱うべきかについて、全員が同じ考えというわけではないらしい。


 その違いが少しだけ、救いに思えた。


     ◇


 移送係の四人が、同時に箱を床へ置いた。


 蓋が開くと、内側から薄い金属帯が伸びてくる。


 帯の先端には、細かな刻印が並んでいた。


 奥の石扉までの床には、最初の記憶庫から続く術式線が通っている。四十二人分の記憶を収めた石台と、この扉をつなぐためのものらしかった。


 金属帯はその線へ向かい、滑るように進んでいく。


「……おい、まだ話が終わってない!」


 俺が声を上げても、誰も止まらなかった。


「作業開始の指示は変更されていません」


「じゃあ変更を聞けよ!」


「我々には権限がありません」


 男は淡々と答えた。


 それを聞いたリオルが、左手で剣の柄へ触れる。右肩の負傷をかばいながらも、視線は四人の足元を追っていた。


「……セイン」


「何?」


「話して止まらないなら、手を出すぞ」


 俺は頷いた。


 リオルが決めたら、もう迷わない。


 そのことを、昔から知っている。


「……分かった。右側、頼む」


「了解」


 その直後、一本の金属帯が記憶線へ触れた。


 淡い光が帯の表面を走る。


『外部移送:接続準備』


 エルセの顔色が変わった。


「いけません! まだ筒の状態が安定していないのに!」


 俺は左手を向けた。


 帯の根元は、開かれた移送箱につながっている。


 どこへ戻るものなのかは、目の前で確かめられる。


「〈返却〉!」


 白い光が帯の先端を包んだ。


 床を這っていた金属が震え、箱の方へ引き戻されていく。


 移送係の男が箱を押さえた。


「……妨害行為を確認」


「当たり前だろ。持ち主が嫌だって言ってるんだ!」


 反対側では、リオルが動いていた。


 右肩を傷めているため、大きく振りかぶることはできない。それでも、剣の使い方を工夫すれば、帯の先端を弾くくらいはできる。


 彼は帯を切ろうとはせず、先端が石台へ触れる直前に剣の腹を差し込み、進路をずらした。


 その反動を利用して隣の一本も押しやる。


 二本の帯が絡まり、床の上で不規則に跳ねた。


「……上手いな」


 係長が呟いた。


 俺は思わずそちらを見た。


 あの人はまだ動いていない。


 リオルの動きを、少し感心したように見ていた。


「見てないで手伝ってください!」


 俺が叫ぶと、係長は肩をすくめた。


「お前らで止められそうだったからな」


 腹が立つ。


 けれど、それは嘘ではなかった。


 今のところ、移送係の帯は石台へ接続できていない。


 俺たちも、この地下へ入った時よりずっと上手く連携できるようになっている。


 リゼが金属帯の進路を見ながら叫んだ。


「セイン、次の一本は私じゃなくて首の封を狙ってます!」


「……何で!?」


「分かりません。でも、そっちを見てます!」


 彼女は自分で身を引き、壁際へ移動した。


 帯が進路を変える。


 その先端が、赤い封蝋へ向かった。


「〈保留〉!」


 エルセの声と同時に、一本の帯が止まった。


 続けて別の一本も静止する。


「二本までです! 三秒以内に!」


 俺は一本へ〈返却〉をかけた。


 金属帯が反転する。


 リオルはもう一本の先端を剣で払って、誰もいない壁際へ逃がした。


 止まっていた帯が動き出した時には、二本とも目標から外れていた。


「……いいぞ!」


 リオルが声を上げる。


 俺も頷いた。


 全員が、相手の得意なことを分かっている。


 エルセの三秒には限りがある。


 リオルは力任せに戦うのではなく、相手の重心や道具の動きを利用する。


 リゼは自分が何を狙われているかを確かめ、必要なら一人でも動ける。


 ティセラは文字を読み、装置が何をしようとしているのか考え続けている。


 俺たちは、以前より強くなっていた。


 少なくとも、この場にいる誰か一人が欠ければ、今の連携はできなかっただろう。


 それが少し、誇らしかった。


     ◇


 足元が震えた。


 最初は移送箱の振動だと思ったが、すぐに違うと分かった。


 壁の奥から、重い石が擦れる音が響く。


「……何?」


 リゼが天井を見上げた。


 ティセラが壁へ灯りを向ける。


「移送式が、施設の防衛機構に引っかかった!」


「どういうこと!?」


 俺が尋ねる。


「外へ持ち出そうとしたから、内部の装置が閉じ込めようとしてるの!」


 説明が終わる前に、左側の壁が動いた。


 巨大な石板が通路へせり出し、中央へ向かって迫ってくる。


 反対側も同じだった。


 通路が、左右から押し潰されようとしている。


「……下がれ!」


 係長の声が響いた。


 一枚の白紙が放たれる。


 石板の進む先へ、細い線が引かれた。


「〈境界〉」


 たった一言だった。


 石板が、線へ触れたところで止まった。


 重いものが止まる時の衝撃も、砕ける音もない。


 ただ、そこから先へ進めなくなったらしい。


 石板の向こうでは、巨大な装置がなおも動こうとしている。床へ振動が伝わり、継ぎ目から細かな砂が落ちてきた。


 それでも、石板は線を越えなかった。


 俺は思わず息を呑んだ。


 リオルも、剣を構えたまま動きを止めている。


 係長がこちらを見た。


「ぼうっとするな。止まってるうちに離れろ」


「……分かってます」


「今のは分かってる顔じゃなかったぞ」


「こんなの見たら驚くでしょう!」


 俺が言い返すと、係長は少し笑った。


 そして、自分が止めている巨大な石板には目も向けず、移送係たちへ顔を向けた。


「これ以上つないだら、保全物ごと区画が閉じるぞ」


「命令は変更されていません」


「壊れた記憶を運ぶのが、お前らの仕事なのか」


 男は一瞬だけ答えに詰まった。


 セヴァンが、その隙に前へ出る。


「右側の接続を切ってください。左の二本は、僕が処理します」


「……大丈夫なの?」


 俺が聞く。


「大丈夫かどうかは、終わってから確認しましょう」


「それ、一番困る答えだな」


「僕もそう思います」


 セヴァンは薄く笑った。


 右肩をかばいながら、左手で紙札を広げる。


 俺は指定された金属帯へ〈返却〉をかけた。


 箱へ戻っていく帯が床から離れたところで、セヴァンの札に文字が走る。


 残る二本の移送指定が変わり、互いの接続先を参照したらしい。帯の先端が石台を離れ、空中で絡まり始めた。


 エルセが移送箱の蓋を一つ〈保留〉で止め、リオルがもう一方を蹴って閉じる。


 最後に、係長が白紙を二枚滑らせた。


 箱の前へ引かれた境界線に阻まれ、移送係の男たちは操作部へ近づけなくなる。


 ほんの短い間に、四つの移送式がすべて止まった。


 係長は男たちへ向き直った。


「今日はここまでだ」


「管理権限への報告が必要です」


「俺が書く。持ち出しが危険だから停止した、ってな」


「……副院長の責任で?」


「ああ」


 移送係の男はしばらく係長を見ていた。


 やがて、一歩下がる。


「承知しました」


 四人が箱を閉じ、床から持ち上げた。


 そして、何事もなかったかのように暗い通路へ戻っていく。


 足音が遠ざかるまで、俺たちは誰も追わなかった。


 石板を止めていた境界も、係長が通路の安全を確認してから解除した。


 ひどく長い時間が過ぎたような気がしたが、振り返ってみれば、ほんの短い出来事だったのだろう。


 移送係は退いた。


 四十二人の記憶も、ティセラの六年間も、まだそこにある。


 俺たちは、守れたのだ。


「……よかった」


 リゼが小さく息を吐く。


 俺も頷いた。


 その時だった。


「セヴァン」


 係長が、静かに名前を呼んだ。


     ◇


 セヴァンは顔を上げた。


「はい」


「お前も戻れ」


 笑顔が少しだけ薄くなった。


「……編集局へ、ですか」


「ああ」


「戻った後は?」


「報告を聞く」


「その報告は、どこまで残ります?」


 係長はすぐには答えなかった。


 セヴァンは一度、肩の傷へ触れた。


 その仕草には、迷いが見えた。


「僕は、ユレン・カレルの自己記録を見ました。四十二人分の保全状態も確認しています。それに、世界所有者の空欄と、ローヴェン研究員の返却接続まで知ってしまった」


「……よく喋るな」


「記録官ですから」


 セヴァンは静かに答えた。


「これだけの情報を持って編集局へ戻れば、僕自身も処置の対象になりますか」


 係長の視線が、わずかに変わる。


「必要なら」


 返事は短かった。


 セヴァンは目を伏せた。


 驚いているようには見えない。


 ただ、予想していた答えを、実際に聞いてしまった人間の顔だった。


「……そうですか」


 少しの間、沈黙が続いた。


 その後、彼はゆっくり顔を上げた。


「では、今回は戻れません」


 係長が眉を寄せる。


「命令だぞ」


「承知しています」


「編集局の人間が、副院長命令に逆らうのか」


「はい」


 セヴァンは言い切った。


 柔らかな話し方は変わらない。


 けれど、これまでで一番はっきりした返事だった。


「僕は、記憶の編集がすべて間違いだとは思いません。どうしても隠しておかなければならない情報もあるし、本人の希望だけで扱えない記録もあります」


「だったら、分かるだろ」


「分かりますよ」


 セヴァンは小さく笑った。


「ただ、自分が何を知ったから消されるのか、それを知ることさえ許されないのは、やっぱりおかしいと思うんです」


 俺は思わず、彼の顔を見た。


 王都で瓶をめぐって争った時も、ラヴェルの茶店で話した時も、この人の考えはよく分からなかった。


 けれど今、初めてはっきりしたことがある。


 セヴァンは保全院を否定しているわけではない。


 それでも、自分の記憶を勝手に編集されることには反対している。


 ティセラが、六年間を返してほしいと言った時と同じだ。


 エルセが、一歩前へ出た。


「副院長。本人が拒否しています」


「ヴァンデル、お前は回収係だろ」


「はい。だから、回収したものがその後どう扱われるかを、何も考えず見送るつもりはありません」


 係長が少し笑った。


「本当に真面目だな」


「仕事ですので」


「……そういうところは嫌いじゃない」


「ありがとうございます。でも、退きません」


 エルセは落ち着いて答えた。


 俺はその横顔を見た。


 怖くないはずがない。


 係長の術がどれほど厄介なのか、彼女は俺よりよく知っている。


 それでも、退かなかった。


 リオルが、俺の隣へ来た。


 右肩の傷は相変わらず痛そうだったが、剣を持つ手は安定している。


「……どうする?」


 小さな声だった。


 俺は係長を見た。


 第七係にいた頃なら、この人がそう決めた以上、何か理由があるのだろうと考えていた。


 今日だって、本当はそう思いたかった。


 けれど、ティセラは六年間を失った。


 リゼは自分の過去を知りたがっている。


 ユレンは、忘れられることを望んでいたわけではなかった。


 そして今、セヴァンがはっきりと拒否している。


「……止める」


 俺が答えた。


 リオルが頷く。


「だよな」


 その返事に、少しだけ安心した。


     ◇


「係長」


 俺は正面へ立った。


 彼は、面倒な書類を渡された時のような顔でこちらを見る。


「何だ」


「セヴァンは、戻りたくないって言ってます」


「聞こえてる」


「だったら、理由だけでも話してください」


「今は話せない」


「本人の記憶を変えるかもしれないのに?」


「ああ」


 俺は拳を握った。


 敬語を使い続けるつもりだった。


 保全院副院長として、距離を置いて話すつもりだったのだ。


 でも、今はもう、その距離を保てそうになかった。


「……係長」


「何だよ」


「俺、セヴァンを連れていかせないから」


 係長は少し困った顔をした。


「そう言うと思った」


 昔、難しい落とし物を持ち帰った時と、まったく同じ言い方だった。


 俺はそれを聞いて、ほんの少しだけ嬉しくなってしまった。


 自分でも嫌だった。


 これから戦う相手なのに、まだこの人の言葉に反応している。


「……だったら、手加減しないでください」


 思わず言った。


 係長は、静かに俺を見た。


「それ、本当にいいのか」


「……どういう意味ですか」


「手加減してるのは、お前らが可愛いからだぞ」


 胸の奥が小さく動いた。


 係長は続けなかった。


 ただ、手元の白紙を整え、いつものように指へ挟み直す。


「やめるなら今だ」


 俺は首を振った。


 係長が小さく息を吐く。


「……そうか」


 その声を合図に、リオルが動いた。


     ◇


 最初の一歩は、正面だった。


 そこから左へ切り返し、〈均衡〉で身体の重さを壁側へ移す。


 リオルの得意な動きだ。


 ただし、以前とは違う。


 係長が右側から入る癖を知っているなら、その読みを逆に利用するつもりなのだろう。


 壁に沿った細い足場へ片足を置く。


 負傷した右肩をかばいながらも、剣先は揺れなかった。


 係長の指から、一枚の白紙が離れる。


「エルセ!」


 俺が呼ぶより早く、彼女は動いていた。


「〈保留〉!」


 紙が宙で止まる。


 続けて放たれた二枚目も、その場で静止した。


「二枚まで! 三秒です!」


 その間に、俺は別の紙へ左手を向けた。


 係長が使う白紙は、持ち主の分かる物だ。


 ただし、すでに床や壁へ引かれた境界を消すことはできない。


 だから狙うのは、まだ線を引かれていない紙だけだった。


「〈返却〉!」


 白い光が伸びる。


 紙が係長の方へ戻り始めた。


 その時、セヴァンが足元へ紙札を滑らせた。


「境界指定を、ずらします」


 床に刻まれていた線へ、別の文字が重なる。


 係長の術が一瞬だけ揺らいだ。


 完全に消えたわけではない。


 けれど、通れなかった場所に細い隙間ができる。


「……今!」


 セヴァンが叫んだ。


 リオルが壁を蹴った。


 剣は峰を向けている。


 殺すためではなく、動きを止めるための一撃だった。


 俺はその間に係長の左側へ回り込み、エルセは別の紙へ手を向ける。


 セヴァンの術式が、境界をわずかに押し広げた。


 リゼはティセラの前へ立ち、動き出しそうな床の継ぎ目を確かめている。


 全員が、自分にできることをしていた。


 それも、今までで一番いい形で。


 リオルの剣先が係長の肩へ迫る。


 係長が半歩だけ下がった。


 俺は、息を呑んだ。


 この人が、自分から距離を取った。


 それだけで、胸の奥が熱くなる。


 届いたのかもしれない。


 いや、まだ届いていない。


 それでも、前に進めている。


「……へえ」


 係長が呟いた。


 わずかに身体をひねり、剣をかわす。


 そして、俺たちを順番に見た。


「よく考えたな」


 たったそれだけだった。


 なのに、俺は一瞬だけ嬉しくなった。


 第七係で働いていた時、この人に褒められることは滅多になかった。


 難しい持ち主を見つけても、危ない仕事を片づけても、返ってくるのは短い言葉だけだ。


 それでも、その一言が嬉しくて、次はもう少し上手くやろうと思った。


 今も。


 敵になった係長に、認められた気がして。


 ほんの一瞬、嬉しかった。


「……セイン!」


 リゼの声で、我に返った。


 係長が白紙を一枚取り出している。


 その動きは、さっきまでと何も変わらなかった。


 けれど、表情だけが少し違った。


「……分かった」


 静かな声だった。


「これ以上、お前らを傷つけずに止める方が難しいな」


 背筋が冷たくなった。


 その言葉の意味を考えるより早く、係長が一歩前へ出た。


     ◇


 リオルはすぐに反応した。


 着地した足を軸に剣の軌道を変え、正面へ踏み込む。


 負傷しているとは思えないほど、速かった。


 俺はその動きを見ていた。


 リオルなら、間に合うと思った。


 だが、係長は後ろへ退かなかった。


 むしろ剣が振られる位置へ、半歩だけ近づいた。


 それが何のための動きなのか、俺には分からなかった。


 係長の指から白紙が落ちる。


 紙にはすでに細い線が引かれていた。


 その線が、リオルの右腕と身体の間へ置かれる。


「……リオル!」


 叫んだ時には、もう遅かった。


 剣を振ろうとした右腕が止まった。


 しかし、踏み込んだ身体の勢いまでは消えない。


 リオルは咄嗟に〈均衡〉で姿勢を立て直そうとした。


 普段なら、それで身体を支えられただろう。


 だが、右腕だけが進むことを許されていない。


 境界を越えられない腕と、まだ前へ動こうとする身体の間へ、逃がしきれない力が集中した。


 乾いた音がした。


 リオルの顔から、血の気が引く。


 剣が床へ落ちた。


 右腕が、明らかにおかしな角度で下がっていた。


 俺は頭の中で、その光景を理解できなかった。


 あいつが剣を落とすところを、ほとんど見たことがない。


 まして、あんなふうに腕を動かせなくなるなんて。


「……リオル!」


 俺は走り出そうとした。


「来るな!」


 リオルが叫ぶ。


 声が震えていた。


 痛いに決まっている。


 さっきまで傷んだ肩で戦っていたのに、そのうえ腕まで折れたのだ。


「セイン、前を見ろ!」


 言われて顔を上げる。


 係長は、すでに次の紙を持っていた。


 その時、ようやく分かった。


 リオルが弱かったのではない。


 あいつは、正しい判断をしていた。


 係長がその判断を読んだうえで、逃げ道を潰したのだ。


 しかも、必要だった動きはわずかだった。


 白紙一枚と、半歩。


 それだけで、リオルは戦えなくなった。


     ◇


「……リオルさん!」


 リゼが駆け寄ろうとした。


 俺はその腕をつかんだ。


「待って。まだ動いてる」


 係長から目を離せなかった。


 リオルが倒れそうになるのを、エルセも見ていた。


 それでも彼女は走らなかった。


 今、誰かが助けに行けば、係長はその人の動きも読む。


 エルセはそれを分かっていたのだと思う。


「……副院長」


 彼女が静かに呼んだ。


「そこまでしなくても」


「まだ続ける気があるなら、止める」


 係長の返事は短かった。


「……分かりました」


 エルセは右手を上げた。


 さっき止めた二枚の紙は、もう動き始めている。


 彼女はその動きを見極め、次に放たれる紙へ備えた。


 係長が三枚の白紙を取り出した。


 一枚目が飛ぶ。


「〈保留〉!」


 止まった。


 二枚目も続けて静止する。


 エルセはすぐに身体をひねり、三枚目の進路から逃れようとした。


 だが、その動きまで係長には見えていた。


 三枚目は、エルセ自身へ向かっていなかった。


 逃げようとした先の石床へ落ち、細い境界線を完成させた。


 エルセの足が止まる。


 彼女はすぐに別の方向へ動こうとした。


 その瞬間、係長が距離を詰めた。


 速い。


 そう思った時には、もう近くにいた。


 係長の拳がエルセの腹へ入る。


 彼女の身体が折れたところへ、もう片方の手が首の横へ伸びた。


 鈍い音がした。


 エルセの膝から力が抜ける。


 倒れると思った。


 けれど、彼女の身体は床へぶつからなかった。


 係長が片腕で支え、そのまま静かに横たえたからだ。


「……エルセ!」


 声をかけても返事はない。


 俺は思わず係長を睨んだ。


「……何で」


「死んじゃいない。しばらく気を失うだけだ」


 あの人は、いつもの声で答えた。


 そのことが、たまらなく怖かった。


 リオルの腕を折った。


 エルセを倒した。


 なのに係長の呼吸は、ほとんど乱れていない。


 動きが派手なわけではなかった。


 身体が何倍も大きくなったわけでも、見たことのない術を使い始めたわけでもない。


 ただ、いつも使っていた白い紙と、今まで見たことのある動きの組み合わせが、まるで違うものになっていた。


 俺たちが考えて動くより先に、次の位置へいる。


 相手の術を破るのではなく、使える場面そのものを奪っている。


 エルセが止められる紙は二枚。


 係長は、それを知っている。


 だから三枚目を、止めるべき紙としてではなく、逃げ道を閉じるために使った。


 三秒という時間さえ、係長には長すぎるのだろうか。


 そんな考えが浮かんだ。


 すぐに、もっと嫌なことに気づいた。


 係長は、エルセが三枚目を避ける方向まで知っていた。


 紙の枚数を増やしただけではない。


 彼女が自分で選ぶはずの動きを、最初から待っていたのだ。


     ◇


「……副院長」


 セヴァンの声が聞こえた。


 彼はまだ、立っていた。


 顔から笑みは消えている。


 十枚近い紙札を両手へ広げ、そのすべてに細かな文字を書き込んでいた。


「僕は、まだ諦めていません」


「知ってる」


 係長が答えた。


「お前はそういう奴だ」


「……その言い方は、ずるいですね」


「何が?」


「よく知ってる相手に言われると、少し嬉しくなるところです」


 俺は息を呑んだ。


 さっき、自分が感じたことと同じだった。


 セヴァンも、この人に何かを教わってきたのだろうか。


「境界の第二条件を解除します」


 セヴァンの札が光った。


 係長の周囲へ残っていた線が薄くなる。


 続いて、別の札が床へ落ちる。


 その上へ新しい文字が走り、残っていた境界の指定を順番にずらしていく。


 俺には全部の意味は分からない。


 けれど、セヴァンが係長の術を正確に理解していることだけは分かった。


 その人が、本気で係長を止めようとしている。


「……セヴァン!」


 俺も左手を上げた。


 係長の手から離れた白紙へ〈返却〉をかける。


 ただし、今はまだ何も引かれていない紙だけだ。


 俺が戻せるのは物であって、すでに完成した境界ではない。


 それでも、使える紙を減らせば、セヴァンが仕組みを崩す時間ができる。


「……ありがとうございます」


 彼が少し笑った。


 係長は二人を見比べた。


「よく考えるようになったな」


 その言葉に、セヴァンが顔を上げる。


「……先生」


 俺は驚いた。


 先生。


 セヴァンは、今そう呼んだ。


 係長が少し眉を上げる。


「懐かしい呼び方だな」


「あなたに教わった術式ですから」


「それで俺を止めようとするのか」


「教わった通りに使っているつもりです」


 セヴァンは静かに答えた。


「自分で考えて、最も適切な処理を選ぶ。それが編集局の仕事だと教わりました」


 係長はわずかに笑った。


「いい教えだな」


「ええ。今でも感謝しています」


 セヴァンの札から、さらに光が伸びる。


 係長の足元に残っていた境界が、一つ消えた。


 俺は思わず前へ出ようとした。


 しかし、セヴァンは小さく首を振った。


 その顔を見た時、分かってしまった。


 彼は、自分が勝てると思っていない。


 それでも止めようとしているのだ。


「……一つだけ、期待したんですよ」


 セヴァンが言った。


「何をだ」


「今なら、少しはあなたに届くかもしれないって」


 係長は答えなかった。


 ただ、一歩だけ前へ出た。


 白紙は使わなかった。


 セヴァンの顔が変わる。


 彼は咄嗟に右へ逃げようとした。


 その瞬間、係長はもう右側にいた。


「……そこまで、覚えてるんですか」


 セヴァンが呟く。


「焦ると右へ逃げるだろ、お前」


 係長は左手でセヴァンの手首を取った。


 紙札が床へ散る。


 セヴァンは身体をひねって逃れようとしたが、その方向にも係長が先に入っていた。


 腹へ一撃。


 息が詰まったところで、もう一度、首の横へ短い打撃。


 セヴァンの身体から力が抜ける。


 係長が、その身体を支えた。


 右肩を負傷しているセヴァンを、痛めた側へ倒さないよう抱え直している。


 そこまで見えて、俺はようやく気づいた。


 リオルの腕が折れてから、エルセとセヴァンが倒れるまで、一分も経っていない。


 俺はその間、何をしていたのだろう。


 紙を返した。


 セヴァンを手伝おうとした。


 それでも、結局は何も変えられなかった。


 係長の前に立っているのは、俺だけになった。


 その事実を理解した途端、喉がひどく乾いた。


     ◇


「……最初から、できたんですよね」


 声を出すまでに時間がかかった。


 係長は意識を失ったセヴァンを支えながら、俺を見る。


「何が」


「今みたいに、俺たちを止めること」


「ああ」


 迷いのない返事だった。


「……だったら、何で」


「必要なかったから」


 俺は拳を握った。


 リオルは壁へ背を預け、折れた右腕を抱えている。


 顔色は悪い。


 あれほど腕の立つ人間が、今は立っているだけでもつらそうだった。


 その少し先で、エルセが倒れている。


 さっきまで俺の隣にいて、一緒に戦い、何度も助けてくれた人だ。


 セヴァンも、もう動かない。


「……リオルの腕、折る必要があったんですか」


「戦えなくするには、あれが早かった」


「エルセは?」


「気絶させた。大きな怪我はしてない」


「セヴァンは?」


「連れて帰る」


「本人が嫌だって言ってました」


「聞いてたよ」


 全部、聞いていた。


 何も聞き逃していない。


 そのうえで、やった。


 胸の中が、少しずつ苦しくなる。


 知らない相手だったら、もっと簡単だったのだと思う。


 こいつはひどい奴だ。


 仲間を傷つけた。


 だから、いつか倒す。


 それだけで済んだだろう。


 でも、相手は係長だった。


 俺が仕事で失敗した時に、怒鳴るより先に理由を聞いてくれた人。


 危険な拾得物を見つけた時に、自分が一番前へ出た人。


 誰かが無茶をしそうになると、面倒そうな顔をしながら止めてくれた人。


 その人が、俺の幼なじみの腕を折った。


 エルセを倒した。


 セヴァンを、本人が拒否しているのに連れて帰ろうとしている。


 係長が人を傷つけるのを楽しむような人間ではないことも、俺は知っている。


 だからこそ、理解できなかった。


「……係長」


 いつの間にか敬語が消えていた。


 距離を置くために、保全院副院長として話すつもりだったのに。


 もう、そんなことを考える余裕がなかった。


「……俺たちのこと、本当に好き?」


 言った後で、ひどく子供っぽい質問だと思った。


 今ここで聞くようなことじゃない。


 リオルは怪我をしているし、エルセは気を失っている。


 セヴァンは連れていかれようとしている。


 なのに俺は、そんなことを尋ねている。


 係長は少し困った顔をした。


 何度も見た表情だった。


「……好きだよ」


 返事は早かった。


「第七係の連中も、お前も、リオルも、ティセラも」


 係長はリゼへ目を向けた。


「その子のことも、今は結構好きだな」


 喉が詰まった。


 嘘だったと言われた方が、よかったのかもしれない。


 全部、仕事のためだった。


 俺が〈返却〉を持っていたから、育てる必要があっただけだ。


 そう言われれば、この人を嫌いになる理由が一つ増えたはずだった。


 けれど、係長は好きだと言った。


 しかも、たぶん本心だった。


 俺が何かをやり遂げた時、少しだけ嬉しそうにしていたことも。


 夜遅くまで残っていた俺の机へ、温かい茶を置いてくれたことも。


 失敗した俺を見て、次はもっと上手くやれと言ってくれたことも。


 全部、なかったことにはならなかった。


「……だったら」


 声が掠れた。


 俺は顔を上げ、係長を見る。


「だったら、何でこんなことするんだよ」


 返事はすぐには来なかった。


 係長は少しの間、俺を見つめていた。


 それから、セヴァンの身体を肩へ担ぎ直す。


「……悪いな、セイン」


 いつもの声だった。


「仕事なんでな」


 その言葉を聞いて、今まで胸の中で踏ん張っていた何かが、急にほどけた気がした。


 王都で係長が出張するたび、同じことを言っていた。


 何日も戻らなかった時も、何を調べているのか尋ねた時も、あの人は大抵そう答えた。


 仕事なんでな。


 俺は、それ以上聞かなかった。


 この人が仕事だと言うなら、きっと必要なことなのだろうと思っていたからだ。


 今は違う。


 俺は初めて、その言葉を聞きたくないと思った。


     ◇


 係長が通路の奥へ歩き始めた。


 リゼが顔を上げる。


「……待ってください!」


 彼女は追いかけようとした。


 俺も一歩前へ出た。


 セヴァンを連れていかせたくない。


 リゼの昔の名前も、係長が何を隠しているのかも、まだ聞けていない。


 保全院の管理権限が誰なのかも分からないままだ。


 あの人を追えば、何か一つくらい聞き出せるかもしれない。


 そう思った。


 けれど、視界の端にリオルが映った。


 右腕を抱えたまま、壁へ身体を預けている。


 足元には落とした剣があり、肩の包帯には新しい血が滲んでいた。


 その少し先で、エルセが倒れている。


 ティセラは手帳を抱え、何が起きたのか理解しようとしている。


 彼女は、自分が失った六年間をまだ取り戻せていない。


 隣にはリゼがいる。


 俺が追いかければ、みんなもついてこようとするかもしれない。


 また戦うことになる。


 そうなれば、今度こそ誰かが取り返しのつかない怪我をするかもしれなかった。


「……リゼ」


 俺は彼女を呼んだ。


 リゼが振り返る。


「セイン?」


「追わない」


「でも、セヴァンさんが」


「……分かってる」


 俺は頷いた。


「でも、今は追わない。リオルの怪我を見ないと」


 リゼは一度、リオルの方を見た。


 それから、係長の背中へ視線を戻す。


 少し迷った後、静かに頷いた。


「……はい」


 係長も、通路の途中で足を止めた。


 振り返らなかった。


 けれど、俺たちが追ってこないことは分かったのだろう。


「……セイン」


 リオルの声がした。


「何?」


「ちょっと、こっち来て」


 俺はすぐに駆け寄った。


「……腕、見せて」


「嫌だ」


「何で」


「痛そうな顔するから」


「もう痛いだろ」


「……そうなんだよ」


 リオルは少し笑おうとして、失敗した。


 額に汗が浮かんでいる。


 俺はその右腕を見て、喉の奥が苦しくなった。


「……ごめん」


 口から出た。


 リオルが眉を寄せる。


「何が?」


「俺が係長を止めるって言ったから」


「俺も止めるって言ったぞ」


「でも」


「セイン」


 少し強い声だった。


 俺は顔を上げる。


 リオルは痛みをこらえながらも、まっすぐこちらを見ていた。


「俺が自分で戦うって決めたんだ。そこまでお前の責任にされたら、俺の立場がないだろ」


「……うん」


「本人が決めることを大事にしたいんだろ」


 俺は頷いた。


「だったら、俺が決めたことまで勝手に引き取るなよ」


 言い返せなかった。


 昔から、こいつは時々こういうことを言う。


 普段は俺と同じくらい馬鹿な冗談を言っているのに、大事な時には、俺が考えたくないところまで先に見つけてしまう。


「……分かった」


 俺が答えると、リオルは少しだけ笑った。


「よろしい」


「でも、手当てはする」


「それは頼む」


 俺はリゼへ目を向けた。


「エルセの様子を見てくれる?」


「はい」


 リゼはすぐに彼女のそばへしゃがんだ。


 ティセラも手帳を置き、近くに残されていた細い板と布を探し始める。


「……骨折なら動かさない方がいいわ。固定できるものを持ってきて」


 彼女の声には、迷いがなかった。


 失った六年間に何を学んだのか、今の本人は覚えていない。


 それでも、少なくとも今ここで必要な判断はできていた。


「……セイン」


 リオルに呼ばれた。


「何?」


「まだ見てるぞ」


 俺は顔を上げた。


 暗い通路の向こうに、係長が立っていた。


 肩へセヴァンを担ぎ、こちらを見ている。


 距離があるせいで、表情までは分からない。


 けれど、その立ち方も、少し曲がった制服の襟も、見覚えがあった。


 王都の第七係で、何度も見送ってきた背中だった。


 出張へ向かう時。


 面倒な案件を抱えて局を出る時。


 俺たちへ仕事を任せ、後は頼んだと手を振る時。


 いつも、あんなふうに歩いていった。


 今、その人は敵として帰っていく。


 俺の幼なじみを傷つけ、仲間を倒し、一人を無理やり連れて帰ろうとしている。


 それでも、背中は同じだった。


 係長が、静かに歩き始める。


 俺はもう追わなかった。


 代わりに、リオルのそばへ膝をつく。


 手当てをするために必要な布を広げ、動かさないよう右腕を支えた。


 奥の石台には、まだ四十二本の光が残っている。


 ユレン・カレルを覚えていた人たちの、失われた記憶だ。


 係長は、それを持っていかなかった。


 持っていけなかったのか、持っていくつもりがなかったのか、それとも俺たちへ残したのか。


 今は分からない。


 分からないから、勝手にいい意味をつけるのはやめようと思った。


「……セイン」


 リゼが呼んだ。


「エルセさん、呼吸は落ち着いてます」


「ありがとう」


「でも、しばらく起きなさそうです」


 俺は頷いた。


 もう一度だけ通路を見る。


 係長の姿は、消えていた。


 今ここでもう一度戦えと言われても、勝つ方法は一つも思い浮かばない。


 リオルの剣も、エルセの三秒も、セヴァンの編集式も、俺の〈返却〉も、あの人には届かなかった。


 それどころか、俺たちが何を考えるかを知ったうえで、傷つける場所まで選んでいた。


 怖かった。


 本当に、怖かった。


 けれど、その強さを知ったからといって、あの人がすべて正しいことにはならない。


 俺はリオルの腕を支え直し、ティセラが差し出してくれた布を受け取った。


 四十二人には、それぞれ二十八年間の生活がある。


 ティセラにも、失った六年間がある。


 ユレンは、家族が今どう生きているかを確かめてほしいと残した。


 係長を追うことはできなかった。


 でも、ここにはまだ、俺たちがやらなければならない仕事が残っている。


 俺は今、それを一つずつ確かめていくしかなかった。

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