↓ ↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
王都の返却士 ~その落とし物、世界のものです~  作者: 紙森 灯
第三章 誰も覚えていない男

この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

63/100

第六十話 忘れられたかったわけじゃない

 

 石扉が開ききるまで、誰も声を出さなかった。


 古い石が擦れ合う音が収まると、その向こうには静かな部屋が現れた。


 俺はてっきり、巨大な倉庫でもあるのだと思っていた。


 最初の記憶庫。


 二十八年前、一人の男が自分の存在を人々の記憶から切り離し、その痕跡を隠そうとした場所だ。そんな秘密を収めているのだから、何百もの保全槽や、見上げるほど高い棚が並んでいてもおかしくない。


 けれど、目の前にあるのは、十人も入れば窮屈になりそうな円形の部屋だった。


 壁には棚も窓もなく、中央へ腰ほどの高さの石台が一つ置かれている。その周囲には床を這うように細い溝が刻まれ、壁際から伸びる無数の線が、石台の根元へ集まっていた。


「……思ってたのと違いますね」


 リゼが小さく言った。


「俺も」


「もっと大きなところかと」


「うん。俺も、棚がたくさんあるような場所を想像してた」


「セインは本当に棚が好きですね」


「記憶庫って名前だからな」


「でも、何を棚に並べるんです?」


「……そこまでは考えてなかった」


 リゼが笑った。


 何でもない会話なのに、少しだけ肩の力が抜ける。


 ただ、係長だけは扉の前で立ち止まったままだった。


 いつもなら面倒そうに先へ進み、危ないものがあれば触るなと俺たちを止める人だ。


 その係長が、今は室内を慎重に眺めている。


「……ここ、初めてなんですか」


 俺が尋ねると、係長は頷いた。


「実物はな。記録には残ってたが、内部まで確認した報告は見つかってない」


「保全院にも?」


「ああ」


「……本当に知らないことがあるんですね」


「何だ、その言い方」


「何でも知ってる人みたいだったから、ちょっと腹が立ってたんです」


 係長が苦笑した。


「ずいぶん正直になったな」


「前からです」


「そうだったか?」


 いつもの調子で言い返しかけて、俺は口を閉じた。


 昔と同じように話せてしまうことが、今は少し苦しい。


 保全院副院長だと知ったからといって、第七係で過ごした時間が消えるわけではないのだ。


「……先に安全を確認します」


 エルセが静かに言った。


 彼女は灯具を掲げ、一人で入口を越えた。


 石床の継ぎ目を見ながら二歩ほど進み、壁の印を確認する。


「今のところ、侵入に反応する設備は動いていません」


「今のところ、か」


「安全だと断言する方がいいですか?」


「……いや、それでいい」


「でしょうね」


 エルセが少し笑う。


 俺たちも慎重に部屋へ入った。


 リオルは怪我をした右肩をかばい、リゼはティセラの隣を歩いている。ティセラはすでに手帳を開き、床に刻まれた線を確かめていた。


「……四十二本」


 彼女が呟く。


「何が?」


「壁から中央へ伸びてる線。数えたら四十二本あるわ」


 俺は石台の周りを見た。


 細い溝は途中で重なっているが、壁際ではそれぞれ別の位置から始まっている。


 四十二。


 聞き覚えのある数字だった。


「……記憶を抜かれた人数と同じだ」


 俺が言うと、ティセラは頷いた。


「そう考えるのが自然ね。ただ、一本が一人に対応してるかどうかは、まだ分からない」


 彼女はそう言いながら、刻印の読める部分だけを〈転写〉で写した。


 記憶をなくしても、研究者としての慎重さは変わっていない。


 その姿を見ていると、少し安心する。


 けれど、彼女が自分の生きた六年間をまだ思い出せないことも、忘れてはいけなかった。


     ◇


 最後尾のリオルが扉を越えたところで、床の線に光が走った。


 四十二本が同時に輝いたわけではない。


 一本ずつ、壁際から中央へ向かって淡い白が流れ、やがて石台を囲むように光の輪が生まれた。


 俺たちはすぐに足を止めた。


「……誰か、何か触った?」


 俺が尋ねる。


「誰も触ってません」


 エルセが答えた。


 ティセラが石台へ灯りを向ける。


 その上に、古い文字が浮かび上がった。


『記憶群:四十二』


『道標:一』


『保全者:第四十四号』


 そして最後に、


『自己記録:保存』


「……自己記録?」


 リゼが首を傾げた。


 エルセは慎重に文字を読んでいる。


「本人が残した記録かもしれません。四十二人から保全した記憶とは、別のもののようです」


「……四十四号の男が?」


「その可能性が高いです」


 俺は石台を見た。


 以前、イリナの家で見つけた古い現場札。


 四十四という数字。


 誰のものだったか分からないまま、何度も奪われそうになった。


 その持ち主が、ここに何かを残している。


「……見られる?」


 俺が尋ねると、エルセは一度係長を見た。


「閲覧だけなら、試せるかもしれません。ただ、今の保全院の権限が使えるかどうかは……」


 言い終わる前に、石台の上へ白い光が立ち上がった。


 俺は思わず一歩下がった。


 部屋の壁が淡く霞み、中央の石台の向こうに、見覚えのない景色が浮かび始める。


 誰かの目を借りている時とは違った。


 俺たちは自分の身体を動かせる。


 周囲の声も聞こえる。


 そのうえで、目の前に別の時間の出来事が映し出されているらしい。


「……記録映像みたいなものか」


 リオルが呟いた。


「たぶんね」


 ティセラが答える。


 光が少しずつ形を結ぶ。


 古い机が現れ、その向こうには二人の男が座っていた。


 一人はローディス・フェン。


 もう一人は、俺たちがこれまで四十四号と呼んできた男だった。


     ◇


 男の顔には疲れが見えた。


 ローディスの記憶で見た時よりも、頬が少しこけている。暗い髪は乱れ、制服の袖にも汚れが残っていた。


 それでも、腰の真鍮札は変わらない。


 動くたびに小さく揺れ、灯りを受けて四十四という数字を光らせている。


「……この人」


 リゼが息を呑んだ。


「ああ」


 俺も頷いた。


 間違いない。


 ずっと探していた男だった。


 その姿の横に、新しい文字が浮かび上がる。


『自己記録者:ユレン・カレル』


 俺は一度、声に出さず文字を読んだ。


 それから、もう一度確かめる。


「……ユレン・カレル」


 その名前を口にした瞬間、ラヴェルの小さな家が頭に浮かんだ。


 イリナ・カレル。


 トーマ・カレル。


 二人の家で見つかった真鍮札。


 そして、家族の誰も思い出せなかった、二十八年前に姿を消した一人の男。


 同じ姓だった。


 だからといって、それだけで家族だとは決められない。


 けれど、もう偶然だとは思えなかった。


 リゼも小さな声で名前を繰り返した。


「……ユレンさん」


 記憶の中の男は振り返らない。


 当然だ。


 俺たちが見ているのは、二十八年前に残された記録なのだから。


 それでも、俺はもう一度、心の中でその名前を呼んだ。


 四十四号。


 そう呼んでいた時には、どこか遠い存在だった。


 番号なら、書類の中にもいくらでもある。


 だが、ユレンという名前には、誰かがその人を呼んだ声や、一緒に過ごした時間があったはずだ。


 俺は、そのことをようやく実感していた。


     ◇


「……まだ引き返せるぞ」


 ローディスが言った。


 ユレンは椅子の背へ身体を預けた。


「お前、さっきから何回言うんだよ」


「お前が考え直すまで」


「それだと朝になるぞ」


「朝になったら潮が戻る。処置はできなくなる」


「……それが狙いか?」


 ローディスは答えなかった。


 代わりに、机の上へ広げられた図面を見つめる。


 ユレンも、しばらく黙っていた。


 さっきまで軽く言い合っていた二人の間へ、重い沈黙が落ちる。


「……なあ」


 ユレンが口を開いた。


「家族だけは、残せないのか」


 ローディスの表情が変わった。


「……何度も確認しただろ」


「分かってる。でも、最後にもう一回聞きたい」


 ユレンは机へ肘をつき、額を押さえた。


「イリナだけでも、無理か?」


「難しい」


「トーマは?」


 ローディスが首を振った。


 ユレンはしばらくその顔を見つめていた。


「……あいつ、まだ八つだぞ」


 その言葉に、俺はトーマの顔を思い出した。


 今は三十六歳。


 俺たちを家へ迎え入れてくれた、大柄で落ち着いた男だった。


 けれど、二十八年前には八歳だった。


 父親が仕事から帰るのを待ち、絵を描いたり、食卓でふざけたりするような年頃だ。


「……あいつは、俺がいなくなったら何て言うかな」


 ユレンが尋ねた。


 ローディスはすぐに答えなかった。


 その沈黙が、返事よりも先に何かを伝えているようだった。


「……何も言わないだろうな」


 ようやく、ローディスが答えた。


「忘れてしまうなら、探すこともできない」


 ユレンは目を伏せた。


 今の俺には、その意味が分かる。


 イリナもトーマも、ユレンがいなくなったことを悲しんでいなかった。


 少なくとも、悲しんだ記憶がない。


 自分たちの人生に、その人がいたことさえ分からなくなっていたからだ。


 父親が帰ってこないと泣くことも、何かあったのかと探し回ることもできない。


 それは悲しまなくて済むという意味では、優しいことなのだろうか。


 俺には、そうは思えなかった。


 悲しい理由まで取り上げられれば、人は苦しまないかもしれない。


 けれど、幸せだった理由も一緒に失われてしまう。


 そのことを、誰が決めていいのだろう。


     ◇


「……ほかに道はないんだな」


 ユレンが尋ねた。


 ローディスは図面の中央を指した。


「今のところ、見つかっていない」


 古い線が何本も交差した図面だった。


 そこには、人の名前らしい文字と、地図に似た記号が複雑につながっている。


 ローディスはその一部を示した。


「普通の道なら、地図から消せば見つからなくなるかもしれない。でも、この施設はそうじゃない」


「……人の記憶からも辿れるんだろ」


「ああ。誰かがお前を覚えていれば、その人が覚えている場所へつながる」


 ローディスは慎重に説明した。


「イリナが、お前の帰り道を知っているとする。たとえその道の記録を消しても、イリナの記憶から場所を探せる可能性がある」


「トーマが俺と歩いた道も?」


「そうだ」


「……じゃあ、あいつらに昔の話を覚えていてもらうことも危険なのか」


 ローディスは頷いた。


 ユレンは図面を見つめる。


「俺のことを知っている人間がいるだけで、ここへ近づける」


「少なくとも、この装置の仕組みが俺たちの理解どおりならな」


「……本当に嫌な話だ」


「俺もそう思う」


 ローディスが答えた。


 俺は少しだけ、床の四十二本の線へ目を向けた。


 今まで、四十二人という数字の意味を深く考えられていなかった。


 四十二人からユレンの記憶を取り除く。


 そう聞けば、大勢の人から一人を忘れさせたのだと分かる。


 だが、その理由は単にユレンという人間を隠すことではなかったらしい。


 ユレンを覚えている誰かが、彼と一緒に歩いた道を思い出す。


 そこから、別の誰かの記憶へつながる。


 そして、いつかこの施設へ辿り着く。


 それを防ぐために、ユレンへつながる記憶を切り離そうとしていた。


 人間一人が、地図の代わりになってしまう。


 俺は改めて、ユレンの顔を見た。


 彼自身には、どこにでもいそうな一人の男という印象しかなかった。


 少し疲れていて、口が悪く、仕事仲間と軽口を言い合う。


 家に帰れば妻がいて、息子がいる。


 それだけの人だったはずなのに。


 この施設では、その人が存在したという事実まで、誰かが通る道として扱われていた。


     ◇


 ユレンは胸元から、小さな紙を取り出した。


 何度も折ったらしく、角が柔らかくなっている。


 広げると、そこには子供の描いた絵があった。


 船らしいものが真ん中にあり、その周囲へ短い線がいくつも伸びている。水面なのか、波なのか、少し分かりにくい。


「……トーマが描いたのか?」


 ローディスが尋ねた。


「そう。大きい船だってさ」


「……魚じゃないのか」


「本人の前では言うなよ。怒るから」


 ユレンが笑った。


 その笑顔だけで、今までとは違う人のように見えた。


 施設の秘密を調べている第七係職員ではない。


 息子が描いた絵を、大切そうに持ち歩いている父親だった。


「この間、港で大きい船を見たんだよ」


 ユレンは絵を指でなぞった。


「帰ってからずっと船の話をしててさ。寝る前に急に紙を持ってきたと思ったら、これをくれた」


「……いい絵じゃないか」


「さっき魚って言っただろ」


「船だと言われれば船に見える」


「適当だな」


 ユレンはもう一度笑った。


 それから、折り目の部分をそっと押さえる。


「……いつか、あいつと船に乗ろうって約束してたんだ」


 ローディスは何も言わなかった。


「大きい船じゃなくていいんだ。港を少し回るだけでも、喜ぶと思う」


「……そうだな」


「イリナは船酔いするから、たぶん岸で待ってる。トーマが戻ってきたら、また騒ぐんだろうな」


 目の前で、ほんの短い未来が語られていた。


 きっと、ユレンにとっては珍しくもない休日だった。


 港で船を見る。


 息子とふざける。


 帰り道に何か食べて、家へ戻る。


 その程度のことを、これからもずっと繰り返せると思っていたのだろう。


 けれど、彼はその未来を捨てなければならない。


 ユレンが紙を折ろうとした時、ローディスが静かに言った。


「……その絵も、向こうには残せない」


 男の手が止まる。


「分かってる」


「家族へつながる物は、保全の対象になる」


「……分かってるよ」


 ユレンの声が少し強くなった。


 ローディスは口を閉じた。


 ユレンは絵を握ったまま、しばらく動かなかった。


 やがて、自分から息を吐く。


「……悪い」


「いや」


「お前も、嫌な役回りだな」


「そうだな」


 今度は二人とも笑わなかった。


 ユレンは絵を机へ置いた。


 その指が離れるまでに、少し時間がかかった。


 俺は、あの絵のことを覚えておこうと思った。


 トーマが昔、船の絵を描いたこと。


 その絵を、父親が大事そうに持っていたこと。


 今のトーマは、その約束を覚えていないのだろう。


 それでも、確かにあった時間なのだから。


     ◇


「……なあ、ローディス」


 ユレンが口を開いた。


「俺がこの処置を受けるって記録、どう書くんだ?」


「本人の承認があったと残す」


「……俺が希望したことになる?」


 ローディスは少し考えた。


「手続き上は、そういう扱いに近い」


 ユレンは椅子の背へ寄りかかった。


 天井を見つめ、しばらく黙る。


「……嫌だな」


 思いがけないほど小さな声だった。


 ローディスが顔を上げた。


「何が」


「俺、忘れてほしいわけじゃないんだよ」


 ユレンは、もう笑っていなかった。


「イリナには覚えていてほしい。トーマにも、俺が父親だったことを忘れてほしくない」


 少しだけ、声が掠れた。


「明日だって、普通に家へ帰りたい。三人で飯を食って、仕事の愚痴を言って、トーマが残したパンの端を俺が食べる。それだけでいいんだ」


 俺は、思わず息を止めた。


 イリナの家で、トーマはパンの端を残していた。


 昔からそうする癖があるのだと言っていた。


 それを見た時、何かの手がかりかもしれないと思った。


 けれど、今になって分かった。


 あれは最初から秘密を示す暗号だったわけではない。


 ただ、父親が息子の残したパンを食べていた。


 そういう何でもない食卓が、かつてあの家にあったのだ。


 ユレンは机の上の絵を見つめた。


「俺が忘れられれば、ここを守れるかもしれない。それは分かってる。だから、やる」


「……ああ」


「でも、俺が望んだって記録にするのは、違う気がするんだ」


 ローディスは何も言わなかった。


「ほかに選べる道がないから、これを選ぶんだよ。好きで家族を捨てるわけじゃない」


 ユレンは、ゆっくり顔を上げた。


「……それだけは、残してくれ」


 ローディスは長い間、男の顔を見つめていた。


 やがて、手元の紙へ何かを書き加える。


「……分かった」


 ユレンが少しだけ笑った。


 ほっとしたようにも見えた。


 俺は、ずっと考えていたことを思い出した。


 セヴァンは言った。


 四十四号の男は、自分で忘れられることを選んだのだと。


 それは間違いではなかったのかもしれない。


 だが、本人が選んだことと、本人が望んでいたことは、同じではなかった。


 あの男は、忘れられたかったわけじゃない。


 むしろ、覚えていてほしかったのだ。


 それでも、ほかに守る方法が見つからなかったから、自分で最後の決断をした。


 俺はその選択を簡単に美しいものだと言いたくなかった。


 立派だと褒めてしまえば、ユレンが本当は嫌だったと言ったことまで、なかったことにしてしまいそうだったからだ。


     ◇


 ローディスが、新しい記録紙を机へ置いた。


「……自己記録を残そう」


「俺の?」


「ああ。ほかの記憶からお前へのつながりを外しても、ここへ辿り着いた人間が確かめられるように」


 ユレンは少し驚いた顔をした。


「……誰が来るんだよ」


「それは分からん。十年後かもしれないし、もっと先かもしれない」


「ずいぶん気の長い話だな」


「記録ってのは、そういうものだ」


 ローディスは淡々と答えた。


 ユレンはその顔を見て、少し笑った。


「……お前、本当に記録官向きだよ」


「今さらか」


「褒めてるんだぞ」


「分かってる」


 ローディスが紙を整える。


「まず名前から」


 ユレンは少し姿勢を正した。


「ユレン・カレル。三十四歳。王立遺失物管理局、第七係所属」


 自分の名前を口にすると、ほんの少しだけ背筋が伸びた。


「妻はイリナ。息子はトーマで、八歳」


 ローディスが書き留める。


「ほかには?」


「トーマは、パンの端を残す」


 ローディスの手が止まった。


「……必要か、それ」


「必要だろ」


「何の記録に?」


「俺のだよ」


 ユレンが答える。


「イリナは朝が強くて、俺は弱い。俺が寝坊すると怒るけど、夜遅く帰った日には飯を温め直してくれる」


 ローディスは少し困った顔をした。


 それでも、書くのをやめなかった。


「トーマは寝たふりが下手なんだ。俺が帰ると目を閉じたまま笑うから、すぐ分かる」


「……ほかには?」


「この間、船の絵をくれた」


 ユレンは机の上の紙を見た。


「港へ行ったら、船に乗せてやるって約束した」


 書き留めるペンの音が続く。


 ユレンは、少しずつ話した。


 妻が作る料理のこと。


 息子が何度も同じ話をすること。


 仕事で失敗して落ち込んだ日に、家へ帰ったら二人が普段どおり接してくれて、かえって救われたこと。


 俺はその話を聞きながら、不思議な気持ちになった。


 大きな事件の真相を探して、ここまで来た。


 神の名前が空白になった石壁を見て、世界所有者などという不気味な言葉まで追っている。


 なのに今、一番胸を打たれているのは、家族の寝癖や食卓の話だった。


 ローディスが顔を上げた。


「……仕事の記録より、家のことばっかりだな」


「仕事は書類に残るだろ」


 ユレンが答えた。


「でも、俺が家へ帰るのを楽しみにしてたことなんて、わざわざ書類に残さないじゃないか」


 ローディスは何も言わなかった。


 ユレンは少し恥ずかしそうに笑う。


「そういうのが消えたら、俺がどんな人間だったか分からなくなる気がするんだよ」


 その言葉を聞いて、俺はティセラを見た。


 彼女は静かに記録を見つめていた。


 六年間の中で、たくさんの研究をしてきた。


 でも、その時間には仕事だけがあったわけではない。


 祖母と喧嘩をしたことも、何度も手紙を書いて出せなかったことも、ようやく一通を封じたこともあった。


 そういう日々を切り捨てて研究の成果だけ残したら、きっと本人の六年間とは違うものになる。


 係長はそれを、危険な情報に付随した記憶だと言った。


 けれど、今の俺には、それらを単なる付属品だとは思えなかった。


     ◇


「……最後に、何か残すか?」


 ローディスが尋ねた。


「誰へ?」


「これを読む人間へだ。未来の誰かが、ここまで来るかもしれない」


 ユレンはしばらく考えていた。


 机の上の紙へ指を伸ばしかけては、途中で手を止める。


「……俺を元に戻してくれって書こうと思った」


 静かな声だった。


「でも、今は違うのか」


 ローディスが尋ねる。


「戻りたいよ」


 ユレンは迷わず答えた。


「本当は今すぐ帰りたい。イリナにもトーマにも、明日の朝まで俺のことを覚えていてほしい」


 少しだけ、笑う。


「でも、これを見つける人間が、何年も後の奴だったらどうなる?」


 ローディスは黙って聞いていた。


「トーマは大人になってるだろ。イリナも、その間にいろんなことを経験してる」


「ああ」


「俺がいなくなっても、二人は生きていくんだよな」


 ユレンはそう言うと、目を伏せた。


 その言葉を口にするのがつらかったのかもしれない。


「俺を覚えていなくても、二人が過ごす時間は本物だろ。知らない人と出会って、何かを好きになって、また別の生活を作るかもしれない」


 ローディスが小さく頷いた。


「そうだな」


「……だったら、俺が戻りたいからって、全部を元に戻していいのか分からない」


 ユレンはゆっくり顔を上げた。


 記録を見ている誰かへ、自分の言葉が届くことを願うように。


「もし俺の名前を見つけたら、先にイリナとトーマへ会ってほしい」


 俺は息を止めた。


「俺のことを覚えていてほしかった。それは本当だ。でも、何年も後の二人がどう思うかまでは、俺には決められない」


 少し困ったように笑う。


「だから、俺を戻すかどうかは、二人にも聞いてくれ」


 その言葉を聞いた時、俺はラヴェルの食卓を思い出した。


 イリナは、二十八年間を生きてきた。


 トーマも、父親がいたことを知らないまま、大人になった。


 二人がどんな時間を過ごしたのか、その全部を俺は知らない。


 けれど、ユレンも知らなかった。


 自分が消えた後の家族が何を望むのか、未来のことは分からない。


 そのことを認めたうえで、二人へ聞いてほしいと残したのだ。


「……いい人ですね」


 リゼが隣で呟いた。


 俺は頷いた。


「……うん」


 昔の第七係にも、こんな人がいたのだ。


 仕事の途中でひどい選択を迫られ、それでも最後には、残される人間の気持ちを考えようとした人が。


 俺はそのことが、少し誇らしかった。


 係長の方を見る。


 あの人も記録を見つめていた。


 いつもの眠そうな顔ではあるが、何を考えているのか、今は分からない。


     ◇


 記録の景色が変わった。


 今度は、ローディスとユレンが古い石壁の前に立っている。


 壁には、俺たちがこれまで見てきたものと似た文字が刻まれていた。


『名称』


『記憶』


『帰属』


 ローディスが灯具を高く持ち上げる。


 その奥に、別の大きな欄が現れた。


『世界所有者』


 俺は眉を寄せた。


 初めて見る言葉だった。


 世界の、所有者。


 世界には持ち主がいるという意味なのだろうか。


 その下には、名前を書くためらしい長い窪みがあった。


 しかし、文字はない。


 光を当てても、何も浮かび上がらなかった。


「……ここにも、ないな」


 ユレンが言った。


「神の名前か?」


 ローディスが尋ねる。


 ユレンは首を振った。


「……いや。前の壁と違う」


「何が」


「前は、神という分類の横に名前を書く欄があった。でも、こっちは神の名前を聞いてるわけじゃない」


 ユレンは灯具を近づけた。


「世界を誰が所有しているか、確かめるための欄なんだ」


 ローディスの顔から、少しずつ表情が消えていく。


「……教会は、神が世界に名前を与えたと教えている」


「ああ。でも、名前を与えることと、世界を所有していることは同じなのか?」


「……分からん」


「俺も分からない」


 ユレンは空欄を見つめた。


「この施設を作った奴らは、誰のものか確かめようとしてた。それなのに、持ち主の欄には何もない」


「削られた跡は?」


「見当たらない」


 ローディスも石壁へ手を近づけ、表面を確かめた。


 そこには古い傷や摩耗の跡こそあったが、特定の名前だけを削り取ったような形跡はなかった。


「……所有者が失われたのかもしれないな」


 ローディスが言う。


「そうかもしれない」


「記録そのものが空白になった?」


「それもあり得る」


 ユレンは少し間を置いた。


「……ただ、別の可能性もある」


「何だ」


 彼は長い空欄を見つめ続けた。


「そもそも、最初から誰のものでもなかったのかもしれない」


 その言葉のあと、記録は静かに途切れた。


     ◇


 円形の部屋へ戻った時、俺はしばらく動けなかった。


 中央の石台は変わらずそこにあり、四十二本の細い線も、床へ淡い光を残している。


 黒い硝子筒は石台の少し上に浮いたままだった。


 先ほどまで見ていた光景が幻のように感じられるほど、部屋は静かだった。


「……ユレン・カレル」


 リゼが、もう一度その名前を呼んだ。


 俺は彼女を見る。


「これでもう、四十四号の人って呼ばなくていいですね」


「……そうだな」


 リゼは少し微笑んだ。


「名前が分かって、よかったです」


 ただ、その笑顔には寂しさも混ざっていた。


 名前が分かったからといって、二十八年間が戻るわけではない。


 トーマが父親と船に乗れなかった時間も、イリナが夫の顔を思い出せなかった日々も、そのまま残っている。


 それでも、名前が分かることには意味があった。


 俺たちはようやく、失われていた一人の男を、ただの番号ではなく人間として考えられるようになったのだから。


「……本人が望んだわけではなかったんだな」


 リオルが呟いた。


 負傷した肩をかばいながら、壁へ身体を預けている。


「……うん」


 俺は頷く。


「でも、最後には自分で選んだ」


「難しいな」


「かなり」


 リオルは少し考えた。


「俺だったら、家族に忘れられるなんて嫌だと思う」


「……俺も」


「でも、そいつらを守るにはそれしかないと言われたら、どうするだろうな」


 俺は返事ができなかった。


 分からないことを、無理に答える必要はないのだと思った。


 リオルもそれ以上聞かなかった。


 ただ、ユレンが置いた絵のあった場所を、少しの間見つめていた。


     ◇


「……この四十二本の線、まだ使えるのかしら」


 ティセラが言った。


 俺たちは彼女を見る。


 今のティセラは、ユレンのことを覚えていない人々がいるという話を、ついさっき知ったばかりだ。


 六年間を失った本人だからこそ、その記憶がどこにあるのか気になるのかもしれなかった。


 エルセが床を確かめる。


「保全状態の記録は残っています。すぐに取り出せるかどうかは分かりませんが、消去されたとは表示されていません」


「……なら、返せる可能性はあるのね」


「ええ」


 ティセラが俺へ目を向けた。


「あなたの〈返却〉なら、何かできる?」


 俺はしばらく考えた。


 今朝、彼女の六年間を返そうとして何が起きたか、まだはっきり覚えている。


 返す先が分かっていても、安全に返せるとは限らない。


 まして、四十二人分の記憶だ。


「……今は、やらない」


 俺が答えると、ティセラは少し意外そうな顔をした。


「どうして?」


「本人たちに聞いてからにしたい」


「……四十二人に?」


「できるだけ」


 ティセラは眼鏡を押し上げた。


「かなり大変よ」


「……そうだろうな」


「時間もかかるし、そもそも全員が今も会える場所にいるとは限らないでしょう」


「うん」


「それに、一人ずつ希望が違ったら?」


 俺は考えた。


 確かに、その可能性はある。


 思い出したい人もいれば、今のままがいい人もいるかもしれない。


 記憶を戻すことで、今まで築いた生活が大きく変わる人だっているだろう。


「……それでも、聞いてみたい」


 俺が答える。


 ティセラはしばらく黙った。


「……六年後の私、あなたのそういう仕事に付き合ってたの?」


 俺は少し笑った。


「よく付き合ってくれたよ」


「変わってるわね、その人」


「……本人だけど」


「今の私は知らないもの」


 真面目な顔で言うので、思わず笑ってしまった。


 ティセラも少しだけ笑う。


 俺はその顔を見て、少し安心した。


 六年間は、まだ返ってきていない。


 でも、彼女はここにいる。


 それだけは、今も変わらない。


     ◇


 係長は、部屋の奥に浮かんだ古い文字を見ていた。


 ユレンの記録が終わってから、ほとんど口を開いていない。


「……係長」


 俺が声をかける。


「何だ」


「『世界所有者』って、知っていたんですか」


 係長はゆっくり首を振った。


「その表現は初めて見た」


「……神の名前がないことは?」


「古い記録に同じような空欄があることは知っていた」


「でも、それが何なのかは分からない?」


「ああ」


 係長は石台へ近づいた。


 指先で古い文字を確かめる。


「保全院は、昔から世界で失われたものを調べてきた。名前も、記憶も、場所もな」


「……何のために?」


 俺が尋ねる。


「それが失われたままでいいものなのか、確かめるためだ」


 係長はそう答えた。


 俺は一度、ユレンの記録を思い返す。


 本人は忘れられたくなかった。


 それでも、残された人々を守るために、自分で忘れられることを選んだ。


 その処置を正しいと決めるには、何を知っていればよかったのだろう。


「……確かめた後は?」


 俺が尋ねる。


「戻すものは戻す。残すものは残す」


「……それを決めるのは誰ですか」


 係長は少しだけ目を細めた。


「難しい質問だな」


「そうですか?」


「お前はもう、誰が決めたかによって答えが変わることを知ってるからな」


 俺は黙った。


 係長は少し考えてから続けた。


「本人の希望だけでは決められないこともある。家族の希望だけでもな。国や組織が勝手に決めていいわけでもない」


「……じゃあ、誰ならいいんですか」


 答えは来なかった。


 係長は石台の上に浮かぶ文字を見た。


「その答えを探すのも、俺たちの仕事だった」


 過去形だった。


 俺は少し気になった。


「……だった?」


 係長は俺を見た。


「今も、そういうつもりでいる」


 言い直しただけなのか。


 それとも、何か意味があったのか。


 俺には分からなかった。


 ただ、聞きたいことはまだ残っている。


「……係長は、ユレンさんの処置をどう思いますか」


 その質問には、少しだけ間があった。


「……重い選択だったと思うよ」


 珍しく、軽口のない返事だった。


「本人が望んでいないことを、本人の承認があるというだけで進めたんですか」


「当時の事情を、俺が全部知っているわけじゃない」


「……でも、今ならどうします?」


 係長は俺を見た。


 それから、小さく息を吐いた。


「状況次第だな」


「……そう言うと思いました」


「そうだろうな」


 昔なら、もう少し食い下がったかもしれない。


 今も納得しているわけではない。


 でも、ここで言い争っても、ユレンの記録が変わるわけではなかった。


 俺は一度、話を切り上げた。


 その時だった。


「……係長さん」


 リゼが呼んだ。


     ◇


 リゼは首元の赤い封蝋に手を添えていた。


「一つ、教えてください」


 係長が彼女を見る。


「何だ」


「私も、誰かに記憶を変えられたんですか」


 部屋が静かになった。


 俺は思わず口を開きかけたが、すぐに止めた。


 それは、リゼ自身が聞きたいことだ。


 俺が先に答えを求める必要はない。


「……君の過去について、何を知ってる?」


 係長が尋ねる。


 リゼは少し考えた。


「ほとんど何も。名前も分からなかったし、前の家族のことも、どうして首に封があるのかも分かりません」


「ああ」


「でも、セインたちと一緒にいて、何かがなくなった跡みたいなものは分かるんです」


 リゼは自分の手を見た。


「最初は、みんなにも見えていると思っていました」


 係長の目が、少しだけ変わった。


「……そうか」


「私が見ているものって、何なんですか」


 係長はしばらく彼女を見ていた。


 それから、静かに答える。


「君の固有術だ」


 リゼの表情が止まった。


「……固有術?」


「ああ」


 俺も驚いた。


 今までリゼが見ているものについて、何度も話してきた。


 名前が消えた跡。


 誰かがいたはずの場所に残る、説明しづらい輪郭。


 それが彼女の固有術なのだとしたら、ずっと昔から使っていたことになる。


「……名前は?」


 リゼが尋ねる。


「〈空白視〉」


 係長が答えた。


「何かが失われた後に、そこへ残る欠損を見る術だ」


 リゼは少し考えた。


「……でも、私、使おうと思って使ってません」


「そういう術なんだよ。目の前のものを見る時、いちいち目を使おうとは考えないだろ」


「……はい」


「それと似てる。君には、最初からそう見えている」


 分かりやすい説明だった。


 係長は昔から、難しいことを普段の言葉へ置き換えるのが上手かった。


 俺が何度も教わった説明の仕方だ。


 今になって、それをまた思い出してしまう。


「……じゃあ」


 リゼが続ける。


「昔の私は、その術で何をしていたんですか」


 係長はすぐには答えなかった。


「……名前や記憶を処置した後、本当に欠損が残っているか確かめていた」


「保全院の仕事で?」


「関わっていた」


 リゼは首元へ触れた。


「……私、自分で望んでやっていたんですか」


 係長は彼女を見つめた。


 ここだけは、簡単な答えを出したくないようだった。


「少なくとも、俺の知っている君は、その仕事を必要だと思っていた」


「……そうですか」


 リゼは目を伏せた。


「昔の君は、名前には正しい帰属があると信じていた。本人の望みより、その秩序を守ることの方が大切だと考えることもあった」


 俺は彼女を見た。


 今のリゼは、まるで逆のことを言っている。


 名前を失っても、自分で新しい名前を選んだ。


 昔の自分が何者だったとしても、今の気持ちは自分で決めたいと言った。


 その人が、以前は誰かの判断で帰属を定める側にいた。


 俺には、すぐには結びつかなかった。


 リゼも長い間、何も言わなかった。


 けれど、ようやく顔を上げる。


「……じゃあ、今の私が知ったら怒りそうなことを、昔の私は平気でしていたのかもしれませんね」


 係長は否定しなかった。


 俺も、何を言えばいいか分からなかった。


 ただ、リゼがこちらを見たので、正直に答えた。


「……昔のリゼは、俺も知らないから」


「慰めてくれないんですか」


「嘘を言っても仕方ないだろ」


 リゼは少しだけ眉を寄せた。


 それから、小さく笑う。


「本当に、そういうところですよね」


「……何が?」


「分からない時に、分からないって言うところ」


 俺は少し考えた。


「……褒められてる?」


「かなり」


 彼女はそう答えた。


 笑顔はいつもより弱かったが、それでも確かにリゼらしかった。


     ◇


「……ただ、一つ気になります」


 リゼは係長へ向き直った。


「もし昔の私が、誰かの名前を失わせるような仕事を必要だと思っていたなら、どうして私は自分の名前を失ったんでしょう」


 係長の表情が変わった。


 ほんの少しだけだった。


 けれど、今までのどんな質問よりも、はっきり動揺したように見えた。


「……ずっと同じ考えだったなら、自分から名前をなくそうとは思わない気がします」


 リゼは続ける。


「何か、変わるきっかけがあったんじゃないですか」


 係長は口を閉じた。


「……何があったんですか」


 俺は黙って見ていた。


 聞きたい。


 今すぐ答えてほしい。


 けれど、これはリゼの過去だ。


 俺が無理に聞き出すより、本人の言葉を待ちたかった。


 係長は長い間、彼女を見つめていた。


「……それは」


 ようやく口を開く。


 その瞬間だった。


 中央の黒い硝子筒が、大きく震えた。


     ◇


「下がれ!」


 係長の声が響いた。


 俺は反射的にリゼの腕を引く。


 リオルも負傷した身体を動かし、ティセラとエルセの前へ出ようとした。


 黒い硝子筒は石台の上から浮き上がり、部屋の奥へ向かって滑るように動いた。


 壁の一部が開く。


 その向こうには、また暗い通路があった。


「……まだ続いてるのか」


 俺が呟く。


 エルセが認証の文字を確認する。


「奥へ向かっています。追いましょう!」


 俺たちは走り出した。


 黒い硝子筒は、床へ刻まれた古い線をなぞるように進んでいく。


 通路の灯具が、その少し先から順番に点いた。


「……リオル、走れる?」


 俺が振り返る。


「足は動く!」


「肩は?」


「かなり痛い!」


「……正直になったな」


「お前らには隠しても無駄だろ!」


 そう言いながら、リオルは無理のない速度を保っている。


 俺もそれに合わせようとしたが、先頭を走る係長が思ったより速い。


「……係長!」


 思わず呼ぶ。


「何だ!」


「普段からそんなに動けたんですか!」


「仕事中に走りたくないんだよ!」


「今も仕事でしょう!」


「だから仕方なく走ってる!」


 昔なら笑っていた。


 今もちょっと笑いそうになって、慌てて口を閉じる。


 こんな時にまで、変わらない部分がある。


 それが、腹立たしくもあった。


 通路の先で、黒い硝子筒が止まった。


 そこには、もう一つ石扉があった。


 先ほどの円形の記憶庫とは違い、扉の表面には分類印がほとんど見当たらない。


 ただ、中央の丸い窪みへ向かって、細い線が何本も集まっている。


「……待ってください」


 エルセが速度を落とした。


 俺たちも立ち止まる。


「この扉、通常の保全区画の印がありません」


 ティセラが顔を上げた。


 急に苦しそうな顔になり、片手で額を押さえる。


「……ここ」


「どうした?」


 俺が尋ねると、彼女は石扉を見つめた。


「……知ってる気がする」


「思い出した?」


「分からない。でも、この場所……」


 ティセラは係長を見た。


「私、ここへ来たことがありますか」


 係長は答えなかった。


 俺はその沈黙を見て、胸が冷たくなった。


「……係長。知ってるんですね」


「今は、それより先にやることがある」


「……その言い方、本当に便利ですね」


「今回は本当に急ぐ」


 言い返そうとした時、黒い硝子筒から最後の光が伸びた。


 石扉の中央へ吸い込まれていく。


 古い文字が浮かび上がった。


『記憶群:四十二』


『道標:一』


『保全者:第四十四号』


 俺は、もう一度その表示を見つめた。


 四十四号ではない。


 名前は分かっている。


「……ユレン」


 小さく呟く。


 あの人は、ただ自分の存在を隠そうとしただけではなかった。


 自分を覚えている人々の記憶を使って、この場所へ続く道そのものを閉じようとしていた。


 そのために、家族の記憶からも自分を消した。


 それでも、いつか誰かが辿り着くことを願って、自分の言葉だけは残していた。


「……係長」


 俺は扉から目を離さずに尋ねた。


「ユレンさんは、自分自身もここへ保全したんですか」


 係長が答えかけた。


 その前に、遠くで重い音が響いた。


 別の石扉が開く音だった。


 一つではない。


 複数の金具が動き、通路の奥から足音が近づいてくる。


 エルセの表情が変わった。


「……保全院の認証です」


「回収係?」


 俺が尋ねる。


「違います」


「保存?」


「それも違います」


 彼女は認証札を握り直した。


「……移送の権限が複数入ってきています」


 俺は係長を見た。


 彼はもう白い紙を指の間へ挟んでいた。


 いつものように少し眠そうな顔をしているのに、目だけが先ほどまでと違っていた。


 リオルも剣の柄へ手をかける。


 俺はリゼとティセラの位置を確かめた。


 黒い硝子筒は、まだ俺たちの前にある。


 中には、ティセラの六年間が残されている。


 その後ろには、俺たちが今ようやく名前を知ったユレンの記録と、四十二人の記憶へ続く施設があった。


 どれも、誰かの大切なものだ。


 俺は左手を握った。


「……誰が来るんですか」


 係長が短く答える。


「ここを開けさせたくなかった連中だよ」


 その時、暗い通路の奥から声が聞こえた。


「その言い方だと、僕まで敵みたいに聞こえますね」


 柔らかな声だった。


 俺は顔を上げる。


 灰色の上着に、短い暗褐色の髪。


 こちらを見て、少し困ったように笑っている。


「……セヴァン」


「また会いましたね、セイン」


 セヴァンは静かに答えた。


 ただ、今度は一人ではなかった。


 その後ろから、複数の足音が近づいてきた。


 係長は動かない。


 俺たちも、まだ動けなかった。


 薄暗い通路の中で、金属の触れ合う音がした。


 俺は、セヴァンの背後へ目を凝らした。


 そこには、灰色の長衣を着た男たちが並んでいた。


 全員が、細長い箱を抱えている。


 その箱が何のためのものなのか、俺には分からなかった。


 けれど、隣にいるエルセが、すでに笑顔を消している。


 彼女は小さく息を吐き、低い声で言った。


「……移送係です」


 俺はもう一度、セヴァンを見た。


 彼はまだ、いつものように穏やかに笑っていた。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。