第六十話 忘れられたかったわけじゃない
石扉が開ききるまで、誰も声を出さなかった。
古い石が擦れ合う音が収まると、その向こうには静かな部屋が現れた。
俺はてっきり、巨大な倉庫でもあるのだと思っていた。
最初の記憶庫。
二十八年前、一人の男が自分の存在を人々の記憶から切り離し、その痕跡を隠そうとした場所だ。そんな秘密を収めているのだから、何百もの保全槽や、見上げるほど高い棚が並んでいてもおかしくない。
けれど、目の前にあるのは、十人も入れば窮屈になりそうな円形の部屋だった。
壁には棚も窓もなく、中央へ腰ほどの高さの石台が一つ置かれている。その周囲には床を這うように細い溝が刻まれ、壁際から伸びる無数の線が、石台の根元へ集まっていた。
「……思ってたのと違いますね」
リゼが小さく言った。
「俺も」
「もっと大きなところかと」
「うん。俺も、棚がたくさんあるような場所を想像してた」
「セインは本当に棚が好きですね」
「記憶庫って名前だからな」
「でも、何を棚に並べるんです?」
「……そこまでは考えてなかった」
リゼが笑った。
何でもない会話なのに、少しだけ肩の力が抜ける。
ただ、係長だけは扉の前で立ち止まったままだった。
いつもなら面倒そうに先へ進み、危ないものがあれば触るなと俺たちを止める人だ。
その係長が、今は室内を慎重に眺めている。
「……ここ、初めてなんですか」
俺が尋ねると、係長は頷いた。
「実物はな。記録には残ってたが、内部まで確認した報告は見つかってない」
「保全院にも?」
「ああ」
「……本当に知らないことがあるんですね」
「何だ、その言い方」
「何でも知ってる人みたいだったから、ちょっと腹が立ってたんです」
係長が苦笑した。
「ずいぶん正直になったな」
「前からです」
「そうだったか?」
いつもの調子で言い返しかけて、俺は口を閉じた。
昔と同じように話せてしまうことが、今は少し苦しい。
保全院副院長だと知ったからといって、第七係で過ごした時間が消えるわけではないのだ。
「……先に安全を確認します」
エルセが静かに言った。
彼女は灯具を掲げ、一人で入口を越えた。
石床の継ぎ目を見ながら二歩ほど進み、壁の印を確認する。
「今のところ、侵入に反応する設備は動いていません」
「今のところ、か」
「安全だと断言する方がいいですか?」
「……いや、それでいい」
「でしょうね」
エルセが少し笑う。
俺たちも慎重に部屋へ入った。
リオルは怪我をした右肩をかばい、リゼはティセラの隣を歩いている。ティセラはすでに手帳を開き、床に刻まれた線を確かめていた。
「……四十二本」
彼女が呟く。
「何が?」
「壁から中央へ伸びてる線。数えたら四十二本あるわ」
俺は石台の周りを見た。
細い溝は途中で重なっているが、壁際ではそれぞれ別の位置から始まっている。
四十二。
聞き覚えのある数字だった。
「……記憶を抜かれた人数と同じだ」
俺が言うと、ティセラは頷いた。
「そう考えるのが自然ね。ただ、一本が一人に対応してるかどうかは、まだ分からない」
彼女はそう言いながら、刻印の読める部分だけを〈転写〉で写した。
記憶をなくしても、研究者としての慎重さは変わっていない。
その姿を見ていると、少し安心する。
けれど、彼女が自分の生きた六年間をまだ思い出せないことも、忘れてはいけなかった。
◇
最後尾のリオルが扉を越えたところで、床の線に光が走った。
四十二本が同時に輝いたわけではない。
一本ずつ、壁際から中央へ向かって淡い白が流れ、やがて石台を囲むように光の輪が生まれた。
俺たちはすぐに足を止めた。
「……誰か、何か触った?」
俺が尋ねる。
「誰も触ってません」
エルセが答えた。
ティセラが石台へ灯りを向ける。
その上に、古い文字が浮かび上がった。
『記憶群:四十二』
『道標:一』
『保全者:第四十四号』
そして最後に、
『自己記録:保存』
「……自己記録?」
リゼが首を傾げた。
エルセは慎重に文字を読んでいる。
「本人が残した記録かもしれません。四十二人から保全した記憶とは、別のもののようです」
「……四十四号の男が?」
「その可能性が高いです」
俺は石台を見た。
以前、イリナの家で見つけた古い現場札。
四十四という数字。
誰のものだったか分からないまま、何度も奪われそうになった。
その持ち主が、ここに何かを残している。
「……見られる?」
俺が尋ねると、エルセは一度係長を見た。
「閲覧だけなら、試せるかもしれません。ただ、今の保全院の権限が使えるかどうかは……」
言い終わる前に、石台の上へ白い光が立ち上がった。
俺は思わず一歩下がった。
部屋の壁が淡く霞み、中央の石台の向こうに、見覚えのない景色が浮かび始める。
誰かの目を借りている時とは違った。
俺たちは自分の身体を動かせる。
周囲の声も聞こえる。
そのうえで、目の前に別の時間の出来事が映し出されているらしい。
「……記録映像みたいなものか」
リオルが呟いた。
「たぶんね」
ティセラが答える。
光が少しずつ形を結ぶ。
古い机が現れ、その向こうには二人の男が座っていた。
一人はローディス・フェン。
もう一人は、俺たちがこれまで四十四号と呼んできた男だった。
◇
男の顔には疲れが見えた。
ローディスの記憶で見た時よりも、頬が少しこけている。暗い髪は乱れ、制服の袖にも汚れが残っていた。
それでも、腰の真鍮札は変わらない。
動くたびに小さく揺れ、灯りを受けて四十四という数字を光らせている。
「……この人」
リゼが息を呑んだ。
「ああ」
俺も頷いた。
間違いない。
ずっと探していた男だった。
その姿の横に、新しい文字が浮かび上がる。
『自己記録者:ユレン・カレル』
俺は一度、声に出さず文字を読んだ。
それから、もう一度確かめる。
「……ユレン・カレル」
その名前を口にした瞬間、ラヴェルの小さな家が頭に浮かんだ。
イリナ・カレル。
トーマ・カレル。
二人の家で見つかった真鍮札。
そして、家族の誰も思い出せなかった、二十八年前に姿を消した一人の男。
同じ姓だった。
だからといって、それだけで家族だとは決められない。
けれど、もう偶然だとは思えなかった。
リゼも小さな声で名前を繰り返した。
「……ユレンさん」
記憶の中の男は振り返らない。
当然だ。
俺たちが見ているのは、二十八年前に残された記録なのだから。
それでも、俺はもう一度、心の中でその名前を呼んだ。
四十四号。
そう呼んでいた時には、どこか遠い存在だった。
番号なら、書類の中にもいくらでもある。
だが、ユレンという名前には、誰かがその人を呼んだ声や、一緒に過ごした時間があったはずだ。
俺は、そのことをようやく実感していた。
◇
「……まだ引き返せるぞ」
ローディスが言った。
ユレンは椅子の背へ身体を預けた。
「お前、さっきから何回言うんだよ」
「お前が考え直すまで」
「それだと朝になるぞ」
「朝になったら潮が戻る。処置はできなくなる」
「……それが狙いか?」
ローディスは答えなかった。
代わりに、机の上へ広げられた図面を見つめる。
ユレンも、しばらく黙っていた。
さっきまで軽く言い合っていた二人の間へ、重い沈黙が落ちる。
「……なあ」
ユレンが口を開いた。
「家族だけは、残せないのか」
ローディスの表情が変わった。
「……何度も確認しただろ」
「分かってる。でも、最後にもう一回聞きたい」
ユレンは机へ肘をつき、額を押さえた。
「イリナだけでも、無理か?」
「難しい」
「トーマは?」
ローディスが首を振った。
ユレンはしばらくその顔を見つめていた。
「……あいつ、まだ八つだぞ」
その言葉に、俺はトーマの顔を思い出した。
今は三十六歳。
俺たちを家へ迎え入れてくれた、大柄で落ち着いた男だった。
けれど、二十八年前には八歳だった。
父親が仕事から帰るのを待ち、絵を描いたり、食卓でふざけたりするような年頃だ。
「……あいつは、俺がいなくなったら何て言うかな」
ユレンが尋ねた。
ローディスはすぐに答えなかった。
その沈黙が、返事よりも先に何かを伝えているようだった。
「……何も言わないだろうな」
ようやく、ローディスが答えた。
「忘れてしまうなら、探すこともできない」
ユレンは目を伏せた。
今の俺には、その意味が分かる。
イリナもトーマも、ユレンがいなくなったことを悲しんでいなかった。
少なくとも、悲しんだ記憶がない。
自分たちの人生に、その人がいたことさえ分からなくなっていたからだ。
父親が帰ってこないと泣くことも、何かあったのかと探し回ることもできない。
それは悲しまなくて済むという意味では、優しいことなのだろうか。
俺には、そうは思えなかった。
悲しい理由まで取り上げられれば、人は苦しまないかもしれない。
けれど、幸せだった理由も一緒に失われてしまう。
そのことを、誰が決めていいのだろう。
◇
「……ほかに道はないんだな」
ユレンが尋ねた。
ローディスは図面の中央を指した。
「今のところ、見つかっていない」
古い線が何本も交差した図面だった。
そこには、人の名前らしい文字と、地図に似た記号が複雑につながっている。
ローディスはその一部を示した。
「普通の道なら、地図から消せば見つからなくなるかもしれない。でも、この施設はそうじゃない」
「……人の記憶からも辿れるんだろ」
「ああ。誰かがお前を覚えていれば、その人が覚えている場所へつながる」
ローディスは慎重に説明した。
「イリナが、お前の帰り道を知っているとする。たとえその道の記録を消しても、イリナの記憶から場所を探せる可能性がある」
「トーマが俺と歩いた道も?」
「そうだ」
「……じゃあ、あいつらに昔の話を覚えていてもらうことも危険なのか」
ローディスは頷いた。
ユレンは図面を見つめる。
「俺のことを知っている人間がいるだけで、ここへ近づける」
「少なくとも、この装置の仕組みが俺たちの理解どおりならな」
「……本当に嫌な話だ」
「俺もそう思う」
ローディスが答えた。
俺は少しだけ、床の四十二本の線へ目を向けた。
今まで、四十二人という数字の意味を深く考えられていなかった。
四十二人からユレンの記憶を取り除く。
そう聞けば、大勢の人から一人を忘れさせたのだと分かる。
だが、その理由は単にユレンという人間を隠すことではなかったらしい。
ユレンを覚えている誰かが、彼と一緒に歩いた道を思い出す。
そこから、別の誰かの記憶へつながる。
そして、いつかこの施設へ辿り着く。
それを防ぐために、ユレンへつながる記憶を切り離そうとしていた。
人間一人が、地図の代わりになってしまう。
俺は改めて、ユレンの顔を見た。
彼自身には、どこにでもいそうな一人の男という印象しかなかった。
少し疲れていて、口が悪く、仕事仲間と軽口を言い合う。
家に帰れば妻がいて、息子がいる。
それだけの人だったはずなのに。
この施設では、その人が存在したという事実まで、誰かが通る道として扱われていた。
◇
ユレンは胸元から、小さな紙を取り出した。
何度も折ったらしく、角が柔らかくなっている。
広げると、そこには子供の描いた絵があった。
船らしいものが真ん中にあり、その周囲へ短い線がいくつも伸びている。水面なのか、波なのか、少し分かりにくい。
「……トーマが描いたのか?」
ローディスが尋ねた。
「そう。大きい船だってさ」
「……魚じゃないのか」
「本人の前では言うなよ。怒るから」
ユレンが笑った。
その笑顔だけで、今までとは違う人のように見えた。
施設の秘密を調べている第七係職員ではない。
息子が描いた絵を、大切そうに持ち歩いている父親だった。
「この間、港で大きい船を見たんだよ」
ユレンは絵を指でなぞった。
「帰ってからずっと船の話をしててさ。寝る前に急に紙を持ってきたと思ったら、これをくれた」
「……いい絵じゃないか」
「さっき魚って言っただろ」
「船だと言われれば船に見える」
「適当だな」
ユレンはもう一度笑った。
それから、折り目の部分をそっと押さえる。
「……いつか、あいつと船に乗ろうって約束してたんだ」
ローディスは何も言わなかった。
「大きい船じゃなくていいんだ。港を少し回るだけでも、喜ぶと思う」
「……そうだな」
「イリナは船酔いするから、たぶん岸で待ってる。トーマが戻ってきたら、また騒ぐんだろうな」
目の前で、ほんの短い未来が語られていた。
きっと、ユレンにとっては珍しくもない休日だった。
港で船を見る。
息子とふざける。
帰り道に何か食べて、家へ戻る。
その程度のことを、これからもずっと繰り返せると思っていたのだろう。
けれど、彼はその未来を捨てなければならない。
ユレンが紙を折ろうとした時、ローディスが静かに言った。
「……その絵も、向こうには残せない」
男の手が止まる。
「分かってる」
「家族へつながる物は、保全の対象になる」
「……分かってるよ」
ユレンの声が少し強くなった。
ローディスは口を閉じた。
ユレンは絵を握ったまま、しばらく動かなかった。
やがて、自分から息を吐く。
「……悪い」
「いや」
「お前も、嫌な役回りだな」
「そうだな」
今度は二人とも笑わなかった。
ユレンは絵を机へ置いた。
その指が離れるまでに、少し時間がかかった。
俺は、あの絵のことを覚えておこうと思った。
トーマが昔、船の絵を描いたこと。
その絵を、父親が大事そうに持っていたこと。
今のトーマは、その約束を覚えていないのだろう。
それでも、確かにあった時間なのだから。
◇
「……なあ、ローディス」
ユレンが口を開いた。
「俺がこの処置を受けるって記録、どう書くんだ?」
「本人の承認があったと残す」
「……俺が希望したことになる?」
ローディスは少し考えた。
「手続き上は、そういう扱いに近い」
ユレンは椅子の背へ寄りかかった。
天井を見つめ、しばらく黙る。
「……嫌だな」
思いがけないほど小さな声だった。
ローディスが顔を上げた。
「何が」
「俺、忘れてほしいわけじゃないんだよ」
ユレンは、もう笑っていなかった。
「イリナには覚えていてほしい。トーマにも、俺が父親だったことを忘れてほしくない」
少しだけ、声が掠れた。
「明日だって、普通に家へ帰りたい。三人で飯を食って、仕事の愚痴を言って、トーマが残したパンの端を俺が食べる。それだけでいいんだ」
俺は、思わず息を止めた。
イリナの家で、トーマはパンの端を残していた。
昔からそうする癖があるのだと言っていた。
それを見た時、何かの手がかりかもしれないと思った。
けれど、今になって分かった。
あれは最初から秘密を示す暗号だったわけではない。
ただ、父親が息子の残したパンを食べていた。
そういう何でもない食卓が、かつてあの家にあったのだ。
ユレンは机の上の絵を見つめた。
「俺が忘れられれば、ここを守れるかもしれない。それは分かってる。だから、やる」
「……ああ」
「でも、俺が望んだって記録にするのは、違う気がするんだ」
ローディスは何も言わなかった。
「ほかに選べる道がないから、これを選ぶんだよ。好きで家族を捨てるわけじゃない」
ユレンは、ゆっくり顔を上げた。
「……それだけは、残してくれ」
ローディスは長い間、男の顔を見つめていた。
やがて、手元の紙へ何かを書き加える。
「……分かった」
ユレンが少しだけ笑った。
ほっとしたようにも見えた。
俺は、ずっと考えていたことを思い出した。
セヴァンは言った。
四十四号の男は、自分で忘れられることを選んだのだと。
それは間違いではなかったのかもしれない。
だが、本人が選んだことと、本人が望んでいたことは、同じではなかった。
あの男は、忘れられたかったわけじゃない。
むしろ、覚えていてほしかったのだ。
それでも、ほかに守る方法が見つからなかったから、自分で最後の決断をした。
俺はその選択を簡単に美しいものだと言いたくなかった。
立派だと褒めてしまえば、ユレンが本当は嫌だったと言ったことまで、なかったことにしてしまいそうだったからだ。
◇
ローディスが、新しい記録紙を机へ置いた。
「……自己記録を残そう」
「俺の?」
「ああ。ほかの記憶からお前へのつながりを外しても、ここへ辿り着いた人間が確かめられるように」
ユレンは少し驚いた顔をした。
「……誰が来るんだよ」
「それは分からん。十年後かもしれないし、もっと先かもしれない」
「ずいぶん気の長い話だな」
「記録ってのは、そういうものだ」
ローディスは淡々と答えた。
ユレンはその顔を見て、少し笑った。
「……お前、本当に記録官向きだよ」
「今さらか」
「褒めてるんだぞ」
「分かってる」
ローディスが紙を整える。
「まず名前から」
ユレンは少し姿勢を正した。
「ユレン・カレル。三十四歳。王立遺失物管理局、第七係所属」
自分の名前を口にすると、ほんの少しだけ背筋が伸びた。
「妻はイリナ。息子はトーマで、八歳」
ローディスが書き留める。
「ほかには?」
「トーマは、パンの端を残す」
ローディスの手が止まった。
「……必要か、それ」
「必要だろ」
「何の記録に?」
「俺のだよ」
ユレンが答える。
「イリナは朝が強くて、俺は弱い。俺が寝坊すると怒るけど、夜遅く帰った日には飯を温め直してくれる」
ローディスは少し困った顔をした。
それでも、書くのをやめなかった。
「トーマは寝たふりが下手なんだ。俺が帰ると目を閉じたまま笑うから、すぐ分かる」
「……ほかには?」
「この間、船の絵をくれた」
ユレンは机の上の紙を見た。
「港へ行ったら、船に乗せてやるって約束した」
書き留めるペンの音が続く。
ユレンは、少しずつ話した。
妻が作る料理のこと。
息子が何度も同じ話をすること。
仕事で失敗して落ち込んだ日に、家へ帰ったら二人が普段どおり接してくれて、かえって救われたこと。
俺はその話を聞きながら、不思議な気持ちになった。
大きな事件の真相を探して、ここまで来た。
神の名前が空白になった石壁を見て、世界所有者などという不気味な言葉まで追っている。
なのに今、一番胸を打たれているのは、家族の寝癖や食卓の話だった。
ローディスが顔を上げた。
「……仕事の記録より、家のことばっかりだな」
「仕事は書類に残るだろ」
ユレンが答えた。
「でも、俺が家へ帰るのを楽しみにしてたことなんて、わざわざ書類に残さないじゃないか」
ローディスは何も言わなかった。
ユレンは少し恥ずかしそうに笑う。
「そういうのが消えたら、俺がどんな人間だったか分からなくなる気がするんだよ」
その言葉を聞いて、俺はティセラを見た。
彼女は静かに記録を見つめていた。
六年間の中で、たくさんの研究をしてきた。
でも、その時間には仕事だけがあったわけではない。
祖母と喧嘩をしたことも、何度も手紙を書いて出せなかったことも、ようやく一通を封じたこともあった。
そういう日々を切り捨てて研究の成果だけ残したら、きっと本人の六年間とは違うものになる。
係長はそれを、危険な情報に付随した記憶だと言った。
けれど、今の俺には、それらを単なる付属品だとは思えなかった。
◇
「……最後に、何か残すか?」
ローディスが尋ねた。
「誰へ?」
「これを読む人間へだ。未来の誰かが、ここまで来るかもしれない」
ユレンはしばらく考えていた。
机の上の紙へ指を伸ばしかけては、途中で手を止める。
「……俺を元に戻してくれって書こうと思った」
静かな声だった。
「でも、今は違うのか」
ローディスが尋ねる。
「戻りたいよ」
ユレンは迷わず答えた。
「本当は今すぐ帰りたい。イリナにもトーマにも、明日の朝まで俺のことを覚えていてほしい」
少しだけ、笑う。
「でも、これを見つける人間が、何年も後の奴だったらどうなる?」
ローディスは黙って聞いていた。
「トーマは大人になってるだろ。イリナも、その間にいろんなことを経験してる」
「ああ」
「俺がいなくなっても、二人は生きていくんだよな」
ユレンはそう言うと、目を伏せた。
その言葉を口にするのがつらかったのかもしれない。
「俺を覚えていなくても、二人が過ごす時間は本物だろ。知らない人と出会って、何かを好きになって、また別の生活を作るかもしれない」
ローディスが小さく頷いた。
「そうだな」
「……だったら、俺が戻りたいからって、全部を元に戻していいのか分からない」
ユレンはゆっくり顔を上げた。
記録を見ている誰かへ、自分の言葉が届くことを願うように。
「もし俺の名前を見つけたら、先にイリナとトーマへ会ってほしい」
俺は息を止めた。
「俺のことを覚えていてほしかった。それは本当だ。でも、何年も後の二人がどう思うかまでは、俺には決められない」
少し困ったように笑う。
「だから、俺を戻すかどうかは、二人にも聞いてくれ」
その言葉を聞いた時、俺はラヴェルの食卓を思い出した。
イリナは、二十八年間を生きてきた。
トーマも、父親がいたことを知らないまま、大人になった。
二人がどんな時間を過ごしたのか、その全部を俺は知らない。
けれど、ユレンも知らなかった。
自分が消えた後の家族が何を望むのか、未来のことは分からない。
そのことを認めたうえで、二人へ聞いてほしいと残したのだ。
「……いい人ですね」
リゼが隣で呟いた。
俺は頷いた。
「……うん」
昔の第七係にも、こんな人がいたのだ。
仕事の途中でひどい選択を迫られ、それでも最後には、残される人間の気持ちを考えようとした人が。
俺はそのことが、少し誇らしかった。
係長の方を見る。
あの人も記録を見つめていた。
いつもの眠そうな顔ではあるが、何を考えているのか、今は分からない。
◇
記録の景色が変わった。
今度は、ローディスとユレンが古い石壁の前に立っている。
壁には、俺たちがこれまで見てきたものと似た文字が刻まれていた。
『名称』
『記憶』
『帰属』
ローディスが灯具を高く持ち上げる。
その奥に、別の大きな欄が現れた。
『世界所有者』
俺は眉を寄せた。
初めて見る言葉だった。
世界の、所有者。
世界には持ち主がいるという意味なのだろうか。
その下には、名前を書くためらしい長い窪みがあった。
しかし、文字はない。
光を当てても、何も浮かび上がらなかった。
「……ここにも、ないな」
ユレンが言った。
「神の名前か?」
ローディスが尋ねる。
ユレンは首を振った。
「……いや。前の壁と違う」
「何が」
「前は、神という分類の横に名前を書く欄があった。でも、こっちは神の名前を聞いてるわけじゃない」
ユレンは灯具を近づけた。
「世界を誰が所有しているか、確かめるための欄なんだ」
ローディスの顔から、少しずつ表情が消えていく。
「……教会は、神が世界に名前を与えたと教えている」
「ああ。でも、名前を与えることと、世界を所有していることは同じなのか?」
「……分からん」
「俺も分からない」
ユレンは空欄を見つめた。
「この施設を作った奴らは、誰のものか確かめようとしてた。それなのに、持ち主の欄には何もない」
「削られた跡は?」
「見当たらない」
ローディスも石壁へ手を近づけ、表面を確かめた。
そこには古い傷や摩耗の跡こそあったが、特定の名前だけを削り取ったような形跡はなかった。
「……所有者が失われたのかもしれないな」
ローディスが言う。
「そうかもしれない」
「記録そのものが空白になった?」
「それもあり得る」
ユレンは少し間を置いた。
「……ただ、別の可能性もある」
「何だ」
彼は長い空欄を見つめ続けた。
「そもそも、最初から誰のものでもなかったのかもしれない」
その言葉のあと、記録は静かに途切れた。
◇
円形の部屋へ戻った時、俺はしばらく動けなかった。
中央の石台は変わらずそこにあり、四十二本の細い線も、床へ淡い光を残している。
黒い硝子筒は石台の少し上に浮いたままだった。
先ほどまで見ていた光景が幻のように感じられるほど、部屋は静かだった。
「……ユレン・カレル」
リゼが、もう一度その名前を呼んだ。
俺は彼女を見る。
「これでもう、四十四号の人って呼ばなくていいですね」
「……そうだな」
リゼは少し微笑んだ。
「名前が分かって、よかったです」
ただ、その笑顔には寂しさも混ざっていた。
名前が分かったからといって、二十八年間が戻るわけではない。
トーマが父親と船に乗れなかった時間も、イリナが夫の顔を思い出せなかった日々も、そのまま残っている。
それでも、名前が分かることには意味があった。
俺たちはようやく、失われていた一人の男を、ただの番号ではなく人間として考えられるようになったのだから。
「……本人が望んだわけではなかったんだな」
リオルが呟いた。
負傷した肩をかばいながら、壁へ身体を預けている。
「……うん」
俺は頷く。
「でも、最後には自分で選んだ」
「難しいな」
「かなり」
リオルは少し考えた。
「俺だったら、家族に忘れられるなんて嫌だと思う」
「……俺も」
「でも、そいつらを守るにはそれしかないと言われたら、どうするだろうな」
俺は返事ができなかった。
分からないことを、無理に答える必要はないのだと思った。
リオルもそれ以上聞かなかった。
ただ、ユレンが置いた絵のあった場所を、少しの間見つめていた。
◇
「……この四十二本の線、まだ使えるのかしら」
ティセラが言った。
俺たちは彼女を見る。
今のティセラは、ユレンのことを覚えていない人々がいるという話を、ついさっき知ったばかりだ。
六年間を失った本人だからこそ、その記憶がどこにあるのか気になるのかもしれなかった。
エルセが床を確かめる。
「保全状態の記録は残っています。すぐに取り出せるかどうかは分かりませんが、消去されたとは表示されていません」
「……なら、返せる可能性はあるのね」
「ええ」
ティセラが俺へ目を向けた。
「あなたの〈返却〉なら、何かできる?」
俺はしばらく考えた。
今朝、彼女の六年間を返そうとして何が起きたか、まだはっきり覚えている。
返す先が分かっていても、安全に返せるとは限らない。
まして、四十二人分の記憶だ。
「……今は、やらない」
俺が答えると、ティセラは少し意外そうな顔をした。
「どうして?」
「本人たちに聞いてからにしたい」
「……四十二人に?」
「できるだけ」
ティセラは眼鏡を押し上げた。
「かなり大変よ」
「……そうだろうな」
「時間もかかるし、そもそも全員が今も会える場所にいるとは限らないでしょう」
「うん」
「それに、一人ずつ希望が違ったら?」
俺は考えた。
確かに、その可能性はある。
思い出したい人もいれば、今のままがいい人もいるかもしれない。
記憶を戻すことで、今まで築いた生活が大きく変わる人だっているだろう。
「……それでも、聞いてみたい」
俺が答える。
ティセラはしばらく黙った。
「……六年後の私、あなたのそういう仕事に付き合ってたの?」
俺は少し笑った。
「よく付き合ってくれたよ」
「変わってるわね、その人」
「……本人だけど」
「今の私は知らないもの」
真面目な顔で言うので、思わず笑ってしまった。
ティセラも少しだけ笑う。
俺はその顔を見て、少し安心した。
六年間は、まだ返ってきていない。
でも、彼女はここにいる。
それだけは、今も変わらない。
◇
係長は、部屋の奥に浮かんだ古い文字を見ていた。
ユレンの記録が終わってから、ほとんど口を開いていない。
「……係長」
俺が声をかける。
「何だ」
「『世界所有者』って、知っていたんですか」
係長はゆっくり首を振った。
「その表現は初めて見た」
「……神の名前がないことは?」
「古い記録に同じような空欄があることは知っていた」
「でも、それが何なのかは分からない?」
「ああ」
係長は石台へ近づいた。
指先で古い文字を確かめる。
「保全院は、昔から世界で失われたものを調べてきた。名前も、記憶も、場所もな」
「……何のために?」
俺が尋ねる。
「それが失われたままでいいものなのか、確かめるためだ」
係長はそう答えた。
俺は一度、ユレンの記録を思い返す。
本人は忘れられたくなかった。
それでも、残された人々を守るために、自分で忘れられることを選んだ。
その処置を正しいと決めるには、何を知っていればよかったのだろう。
「……確かめた後は?」
俺が尋ねる。
「戻すものは戻す。残すものは残す」
「……それを決めるのは誰ですか」
係長は少しだけ目を細めた。
「難しい質問だな」
「そうですか?」
「お前はもう、誰が決めたかによって答えが変わることを知ってるからな」
俺は黙った。
係長は少し考えてから続けた。
「本人の希望だけでは決められないこともある。家族の希望だけでもな。国や組織が勝手に決めていいわけでもない」
「……じゃあ、誰ならいいんですか」
答えは来なかった。
係長は石台の上に浮かぶ文字を見た。
「その答えを探すのも、俺たちの仕事だった」
過去形だった。
俺は少し気になった。
「……だった?」
係長は俺を見た。
「今も、そういうつもりでいる」
言い直しただけなのか。
それとも、何か意味があったのか。
俺には分からなかった。
ただ、聞きたいことはまだ残っている。
「……係長は、ユレンさんの処置をどう思いますか」
その質問には、少しだけ間があった。
「……重い選択だったと思うよ」
珍しく、軽口のない返事だった。
「本人が望んでいないことを、本人の承認があるというだけで進めたんですか」
「当時の事情を、俺が全部知っているわけじゃない」
「……でも、今ならどうします?」
係長は俺を見た。
それから、小さく息を吐いた。
「状況次第だな」
「……そう言うと思いました」
「そうだろうな」
昔なら、もう少し食い下がったかもしれない。
今も納得しているわけではない。
でも、ここで言い争っても、ユレンの記録が変わるわけではなかった。
俺は一度、話を切り上げた。
その時だった。
「……係長さん」
リゼが呼んだ。
◇
リゼは首元の赤い封蝋に手を添えていた。
「一つ、教えてください」
係長が彼女を見る。
「何だ」
「私も、誰かに記憶を変えられたんですか」
部屋が静かになった。
俺は思わず口を開きかけたが、すぐに止めた。
それは、リゼ自身が聞きたいことだ。
俺が先に答えを求める必要はない。
「……君の過去について、何を知ってる?」
係長が尋ねる。
リゼは少し考えた。
「ほとんど何も。名前も分からなかったし、前の家族のことも、どうして首に封があるのかも分かりません」
「ああ」
「でも、セインたちと一緒にいて、何かがなくなった跡みたいなものは分かるんです」
リゼは自分の手を見た。
「最初は、みんなにも見えていると思っていました」
係長の目が、少しだけ変わった。
「……そうか」
「私が見ているものって、何なんですか」
係長はしばらく彼女を見ていた。
それから、静かに答える。
「君の固有術だ」
リゼの表情が止まった。
「……固有術?」
「ああ」
俺も驚いた。
今までリゼが見ているものについて、何度も話してきた。
名前が消えた跡。
誰かがいたはずの場所に残る、説明しづらい輪郭。
それが彼女の固有術なのだとしたら、ずっと昔から使っていたことになる。
「……名前は?」
リゼが尋ねる。
「〈空白視〉」
係長が答えた。
「何かが失われた後に、そこへ残る欠損を見る術だ」
リゼは少し考えた。
「……でも、私、使おうと思って使ってません」
「そういう術なんだよ。目の前のものを見る時、いちいち目を使おうとは考えないだろ」
「……はい」
「それと似てる。君には、最初からそう見えている」
分かりやすい説明だった。
係長は昔から、難しいことを普段の言葉へ置き換えるのが上手かった。
俺が何度も教わった説明の仕方だ。
今になって、それをまた思い出してしまう。
「……じゃあ」
リゼが続ける。
「昔の私は、その術で何をしていたんですか」
係長はすぐには答えなかった。
「……名前や記憶を処置した後、本当に欠損が残っているか確かめていた」
「保全院の仕事で?」
「関わっていた」
リゼは首元へ触れた。
「……私、自分で望んでやっていたんですか」
係長は彼女を見つめた。
ここだけは、簡単な答えを出したくないようだった。
「少なくとも、俺の知っている君は、その仕事を必要だと思っていた」
「……そうですか」
リゼは目を伏せた。
「昔の君は、名前には正しい帰属があると信じていた。本人の望みより、その秩序を守ることの方が大切だと考えることもあった」
俺は彼女を見た。
今のリゼは、まるで逆のことを言っている。
名前を失っても、自分で新しい名前を選んだ。
昔の自分が何者だったとしても、今の気持ちは自分で決めたいと言った。
その人が、以前は誰かの判断で帰属を定める側にいた。
俺には、すぐには結びつかなかった。
リゼも長い間、何も言わなかった。
けれど、ようやく顔を上げる。
「……じゃあ、今の私が知ったら怒りそうなことを、昔の私は平気でしていたのかもしれませんね」
係長は否定しなかった。
俺も、何を言えばいいか分からなかった。
ただ、リゼがこちらを見たので、正直に答えた。
「……昔のリゼは、俺も知らないから」
「慰めてくれないんですか」
「嘘を言っても仕方ないだろ」
リゼは少しだけ眉を寄せた。
それから、小さく笑う。
「本当に、そういうところですよね」
「……何が?」
「分からない時に、分からないって言うところ」
俺は少し考えた。
「……褒められてる?」
「かなり」
彼女はそう答えた。
笑顔はいつもより弱かったが、それでも確かにリゼらしかった。
◇
「……ただ、一つ気になります」
リゼは係長へ向き直った。
「もし昔の私が、誰かの名前を失わせるような仕事を必要だと思っていたなら、どうして私は自分の名前を失ったんでしょう」
係長の表情が変わった。
ほんの少しだけだった。
けれど、今までのどんな質問よりも、はっきり動揺したように見えた。
「……ずっと同じ考えだったなら、自分から名前をなくそうとは思わない気がします」
リゼは続ける。
「何か、変わるきっかけがあったんじゃないですか」
係長は口を閉じた。
「……何があったんですか」
俺は黙って見ていた。
聞きたい。
今すぐ答えてほしい。
けれど、これはリゼの過去だ。
俺が無理に聞き出すより、本人の言葉を待ちたかった。
係長は長い間、彼女を見つめていた。
「……それは」
ようやく口を開く。
その瞬間だった。
中央の黒い硝子筒が、大きく震えた。
◇
「下がれ!」
係長の声が響いた。
俺は反射的にリゼの腕を引く。
リオルも負傷した身体を動かし、ティセラとエルセの前へ出ようとした。
黒い硝子筒は石台の上から浮き上がり、部屋の奥へ向かって滑るように動いた。
壁の一部が開く。
その向こうには、また暗い通路があった。
「……まだ続いてるのか」
俺が呟く。
エルセが認証の文字を確認する。
「奥へ向かっています。追いましょう!」
俺たちは走り出した。
黒い硝子筒は、床へ刻まれた古い線をなぞるように進んでいく。
通路の灯具が、その少し先から順番に点いた。
「……リオル、走れる?」
俺が振り返る。
「足は動く!」
「肩は?」
「かなり痛い!」
「……正直になったな」
「お前らには隠しても無駄だろ!」
そう言いながら、リオルは無理のない速度を保っている。
俺もそれに合わせようとしたが、先頭を走る係長が思ったより速い。
「……係長!」
思わず呼ぶ。
「何だ!」
「普段からそんなに動けたんですか!」
「仕事中に走りたくないんだよ!」
「今も仕事でしょう!」
「だから仕方なく走ってる!」
昔なら笑っていた。
今もちょっと笑いそうになって、慌てて口を閉じる。
こんな時にまで、変わらない部分がある。
それが、腹立たしくもあった。
通路の先で、黒い硝子筒が止まった。
そこには、もう一つ石扉があった。
先ほどの円形の記憶庫とは違い、扉の表面には分類印がほとんど見当たらない。
ただ、中央の丸い窪みへ向かって、細い線が何本も集まっている。
「……待ってください」
エルセが速度を落とした。
俺たちも立ち止まる。
「この扉、通常の保全区画の印がありません」
ティセラが顔を上げた。
急に苦しそうな顔になり、片手で額を押さえる。
「……ここ」
「どうした?」
俺が尋ねると、彼女は石扉を見つめた。
「……知ってる気がする」
「思い出した?」
「分からない。でも、この場所……」
ティセラは係長を見た。
「私、ここへ来たことがありますか」
係長は答えなかった。
俺はその沈黙を見て、胸が冷たくなった。
「……係長。知ってるんですね」
「今は、それより先にやることがある」
「……その言い方、本当に便利ですね」
「今回は本当に急ぐ」
言い返そうとした時、黒い硝子筒から最後の光が伸びた。
石扉の中央へ吸い込まれていく。
古い文字が浮かび上がった。
『記憶群:四十二』
『道標:一』
『保全者:第四十四号』
俺は、もう一度その表示を見つめた。
四十四号ではない。
名前は分かっている。
「……ユレン」
小さく呟く。
あの人は、ただ自分の存在を隠そうとしただけではなかった。
自分を覚えている人々の記憶を使って、この場所へ続く道そのものを閉じようとしていた。
そのために、家族の記憶からも自分を消した。
それでも、いつか誰かが辿り着くことを願って、自分の言葉だけは残していた。
「……係長」
俺は扉から目を離さずに尋ねた。
「ユレンさんは、自分自身もここへ保全したんですか」
係長が答えかけた。
その前に、遠くで重い音が響いた。
別の石扉が開く音だった。
一つではない。
複数の金具が動き、通路の奥から足音が近づいてくる。
エルセの表情が変わった。
「……保全院の認証です」
「回収係?」
俺が尋ねる。
「違います」
「保存?」
「それも違います」
彼女は認証札を握り直した。
「……移送の権限が複数入ってきています」
俺は係長を見た。
彼はもう白い紙を指の間へ挟んでいた。
いつものように少し眠そうな顔をしているのに、目だけが先ほどまでと違っていた。
リオルも剣の柄へ手をかける。
俺はリゼとティセラの位置を確かめた。
黒い硝子筒は、まだ俺たちの前にある。
中には、ティセラの六年間が残されている。
その後ろには、俺たちが今ようやく名前を知ったユレンの記録と、四十二人の記憶へ続く施設があった。
どれも、誰かの大切なものだ。
俺は左手を握った。
「……誰が来るんですか」
係長が短く答える。
「ここを開けさせたくなかった連中だよ」
その時、暗い通路の奥から声が聞こえた。
「その言い方だと、僕まで敵みたいに聞こえますね」
柔らかな声だった。
俺は顔を上げる。
灰色の上着に、短い暗褐色の髪。
こちらを見て、少し困ったように笑っている。
「……セヴァン」
「また会いましたね、セイン」
セヴァンは静かに答えた。
ただ、今度は一人ではなかった。
その後ろから、複数の足音が近づいてきた。
係長は動かない。
俺たちも、まだ動けなかった。
薄暗い通路の中で、金属の触れ合う音がした。
俺は、セヴァンの背後へ目を凝らした。
そこには、灰色の長衣を着た男たちが並んでいた。
全員が、細長い箱を抱えている。
その箱が何のためのものなのか、俺には分からなかった。
けれど、隣にいるエルセが、すでに笑顔を消している。
彼女は小さく息を吐き、低い声で言った。
「……移送係です」
俺はもう一度、セヴァンを見た。
彼はまだ、いつものように穏やかに笑っていた。




