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王都の返却士 ~その落とし物、世界のものです~  作者: 紙森 灯
第三章 誰も覚えていない男

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第五十九話 最初の記憶庫

 

 黒い硝子筒は、俺たちが追いつこうとするたび、少しだけ先へ進んだ。


 まるで案内しているようにも見えるが、こちらが立ち止まっても待ってくれるわけではない。通路に刻まれた古い線をなぞりながら、一定の速さで暗闇の奥へ向かっている。


 その中には、ティセラの六年間が残されていた。


 筒の表面には細かな亀裂が走っているものの、それ以上広がる様子はない。代わりに、内部の淡い光が細い糸となって伸び、床の術式へ吸い込まれていた。


「……あれ、放っておいて大丈夫なんですか」


 俺が尋ねると、係長は筒を見たまま答えた。


「大丈夫じゃないから追ってるんだろ」


「あなたが持っていたんでしょう」


「持ってた時は、もう少しおとなしかったんだよ」


「……ティセラの記憶です。荷物みたいに言わないでください」


 係長はちらりと俺を見た。


 何か言い返すかと思ったが、意外にも短く頷いた。


「そうだな。悪かった」


 謝られると、それ以上続ける言葉がなくなる。


 昔からそうだった。


 係長は自分が間違っていたと分かれば、驚くほどあっさり謝る。部下の前だからといって意地を張らないところを、俺はずっと尊敬していた。


 今も、その性格は変わっていないらしい。


 だからといって、ティセラの記憶を奪ったことまで許せるわけではないのだが。


「……今度は、返してもらいますからね」


 俺が言うと、係長は肩越しに振り返った。


「安全な方法を見つけたら、だろ」


「そうです」


「だったら、まずはあれを壊さずに確保しないとな」


 正しいことを言われた。


 それが余計に腹立たしかった。


     ◇


 通路は下へ続いていた。


 水底街の地下に降りてから、俺たちは何度も古い施設を通ってきたが、ここまで来ると、建物の造りそのものが違っている。


 今までの壁には、後から補強された金属や、保全院が使うものに似た設備が残っていた。


 しかし、今歩いている場所には、それらがほとんど見当たらない。


 大きな石を隙間なく組み合わせた壁が続き、その表面へ、細い線が幾重にも刻まれていた。線は曲がり角でも途切れず、階段の下をくぐり、さらに奥の暗闇へ伸びている。


 後から建てた施設をつなぎ合わせたというより、最初からこの一帯を一つの仕組みとして作ったように見えた。


「……こんな場所まで、誰が作ったんでしょうね」


 リゼが呟く。


「水底街の人たちかな」


「でも、街より古そうですよ」


 確かにそうだった。


 上にあった家々は、沈んでいても人が暮らした形を残していた。


 ここには窓も、食事をするための部屋もない。


 あるのは何かを分け、運び、保管するための通路だけだった。


「王国の記録にも、この辺りの建設年代はほとんど残っていない」


 係長が前から言った。


「王国より古いんですか」


 俺が尋ねる。


「その可能性がある。少なくとも、今の保全院が建てた場所じゃない」


「……じゃあ、保全院が知らないものもあるんですね」


「そりゃあるさ」


 係長は当然のように答えた。


「古いものを引き継いだからって、作った人間の考えまで全部分かるわけじゃない」


 その言葉を聞いて、俺は少し意外に思った。


 係長なら、何でも知っている。


 そう思っていたからだ。


 けれど今、その係長自身が、誰の作ったものか分からない施設の中を歩いている。


 しかも、ティセラの記憶を収めた筒が、知らない経路を勝手に進んでいる。


 俺は少しだけ前方を見た。


 係長の歩き方は、いつもと変わらない。


 ただ、視線だけは絶えず壁と床を確かめていた。


 何も知らずに歩いているわけではない。


 危険を警戒する必要があると、あの人も分かっているのだろう。


「……セイン」


 後ろからリオルに呼ばれた。


「何?」


「前ばっかり見てると、今度は足元が抜けるぞ」


「……そんなに見てた?」


「かなり」


 リオルは少し笑った。


 ただ、右肩を動かした時に顔をしかめたのを、俺は見逃さなかった。


「……肩、また痛い?」


「痛いけど、動ける」


「無理しなくていいぞ」


「それ、そっくり返す」


 言われてしまった。


 俺が口を閉じると、リオルは少しだけ笑みを深めた。


「大丈夫だよ。危なかったら言う」


「……本当に?」


「本当に」


 それから彼は、リゼとティセラの少し後ろへ位置を変えた。


 前へ出て戦うためではなく、何かあった時に二人を支えられる場所だ。


 負傷しているからこそ、今できる役割を選んでいる。


 俺はその判断に、少し安心した。


     ◇


 曲がり角が現れた時、ティセラが突然足を止めた。


「……右」


 小さな声だった。


 俺は振り返る。


「何が?」


「この先、右だと思う」


 まだ黒い硝子筒は分岐へ到達していない。


 正面の通路は左右に分かれていて、どちらにも似たような古い線が続いている。


「……地図に書いてある?」


 俺が尋ねると、ティセラは手帳を開いた。


 何枚かめくってから、首を振る。


「ないわ」


「じゃあ、どうして?」


「分からない」


 言った本人が、一番不満そうだった。


「何となく、右に曲がる気がするの」


 その直後、黒い硝子筒が分岐へ差しかかった。


 迷わず右へ曲がる。


 ティセラの顔から、すっと血の気が引いた。


「……嫌だ」


 彼女は自分の手を見下ろした。


「私、ここを知ってるの?」


 誰も答えられなかった。


 俺は、さっき見た六年間の記憶を思い出していた。


 ティセラは古い保全施設を調べていた。


 地下へ続く道も、認証を示す線も、何度も資料に書き留めていた。


 ただ、この場所へ来た場面までは見ていない。


「……研究していたのは確かです」


 俺が答えると、彼女は顔を上げた。


「六年後の私が?」


「はい」


 ティセラはしばらく考えた。


「じゃあ、その私がここを知っていても、おかしくはないのね」


「……そうかもしれません」


「でも、今の私は何も知らない」


 声が少し硬くなった。


「自分の頭が、勝手に知らないことを言うのよ。気持ち悪いわ」


 彼女は苛立ったように眼鏡を押し上げた。


「……昔からこうだったの?」


 俺が尋ねると、ティセラはこちらを睨んだ。


「何が?」


「分からないことがあると、すぐ怒るところ」


「分からないものは、気になるでしょう」


「うん」


「気になるのに、自分で確かめられないなら腹が立つわ」


 俺は思わず笑ってしまった。


「……何よ」


「いや、知ってるティセラだなと思って」


 彼女は少し黙った。


 それから、自分の胸へ手を当てた。


「……その六年後の私は、あなたたちと仲がよかった?」


 思っていなかった質問だった。


「……はい」


 俺が答えると、彼女は少しだけ目を伏せた。


「そう」


 それから、顔を上げる。


「だったら、今の私にもちゃんと教えて。知ってることを勝手に決めつけないで」


 俺は頷いた。


「分かりました」


「あと、敬語は変ね」


「……え?」


「さっきまで普通に話してたでしょう」


「でも、今のティセラは俺のこと知らないから」


「あなたが知ってるなら、同じ話し方でいいわよ。変に気を遣われる方が落ち着かない」


 その言葉が、少し嬉しかった。


「……分かった」


「それでいいの」


 ティセラは満足そうに頷いた。


 リゼが隣で笑っている。


「ティセラさん、何も変わってませんね」


「六年も違うって聞いたんだけど?」


「そういうところが、です」


 ティセラは少し首を傾げた。


「……よく分からないわ」


「私も、うまく説明できません」


 リゼはそう言って笑った。


 その笑顔を見たティセラも、少しだけ口元を緩めた。


 思い出したわけではない。


 それでも、こうしてまた会話ができている。


 俺はそれを、素直に嬉しいと思った。


     ◇


 黒い硝子筒は、古い石柱の並ぶ広間で止まった。


 床へ五つの印が刻まれている。


 同じ大きさの円が横一列に並び、その中心には、それぞれ違う形の模様があった。


 ティセラがしゃがみ込み、灯りを近づける。


 エルセもすぐ横へ並んだ。


「……これは」


「知ってる?」


 俺が尋ねると、エルセは一番左の印を指した。


「今の保全院で使われている区分印に似ています」


「保全院の?」


「ええ。ただし、今のものとは少し違います」


 彼女は印を一つずつ確かめていった。


「左から、回収、保存、記録、移送……」


 最後の印で、指が止まる。


「……編集」


「五つ?」


 リゼが聞く。


「はい。保全院の仕事を大きく分けると、今も似た役割が残っています」


「……説明してもらってもいい?」


 俺が尋ねると、エルセは少し考えた。


「例えば、誰かが危険な記録を持っていたとします」


「うん」


「それを集めるのが回収。安全な場所へ保管するのが保存。何を預かったのか残すのが記録で、必要な場所へ運ぶのが移送です」


「……なるほど」


「最後が編集」


 エルセは、まだ指を動かさなかった。


「預かったものの内容や、扱い方そのものへ手を加える仕事です」


 俺はティセラを見た。


「……記憶を抜き取るのも?」


 エルセは頷いた。


「そういう処置も含まれます」


 五つの仕事のうち、四つまでは何となく理解できた。


 拾う。


 しまう。


 記録する。


 運ぶ。


 でも、最後だけは少し違う。


 拾ったものの中身へ手を入れる。


 その権限がある人間は、どこまで変えていいのだろう。


「……係長」


 俺が呼ぶと、少し離れた場所から返事があった。


「何だ」


「あなたは、どの仕事をしていたんですか」


「元は編集だよ」


 あっさりした答えだった。


「……今は?」


「副院長」


「それは知ってます」


「だったら聞くなよ」


「仕事の内容を聞いてるんです」


 係長は少し笑った。


「今は五つ全部の案件を見てる。ただ、全部を自分でやるわけじゃない」


 俺はもう一度、床の印を見た。


 編集の印だけが、妙に目へ残っていた。


「……セヴァンは?」


「あいつも編集側だ」


 初めて聞く、はっきりした答えだった。


 セヴァンは自分の担当を最後まで明言しなかった。


 けれど、二十八年前の処置について妙に詳しかったし、記憶を編集する仕組みも知っていた。


 ようやく少しだけ、話がつながった気がした。


「……じゃあ、セヴァンが話していた四十二人の記録も」


「編集側が関わった処置だ」


「係長も知っていたんですか」


「資料上ではな」


 係長は俺の顔を見た。


「ただ、あの処置を実際に見たわけじゃない。二十八年前の申請に何が書かれていたかと、実際に何が起きたかは分けて考えろ」


 その言い方に、俺は少しだけ驚いた。


 普段の係長なら、そう教えるだろう。


 噂と事実を混ぜるな。


 確認していないことを報告書へ書くな。


 何度も言われた言葉だ。


 今も、その教えは正しいと思っている。


 だから、なおさら困った。


「……そのことは、分かっています」


 俺は答えた。


「だから、記録だけじゃなくて、本人がどう思っていたのかも確かめたいんです」


 係長はしばらく俺を見ていた。


 そして、小さく頷く。


「そうだな」


 反対されなかった。


 だからといって、味方になってくれたわけでもない。


 係長は、ティセラの六年間を取り戻すことには、今も反対している。


 俺たちは同じ場所を調べながら、違うものを守ろうとしていた。


     ◇


 ティセラは五つの印を紙へ写していた。


 〈転写〉で刻印の輪郭を複製し、その隣へ自分で読めた部分だけを書き加えている。


 俺は少し後ろから覗き込んだ。


「……何か分かった?」


「この印、分類のためだけじゃないわね」


「どういうこと?」


「五つとも、中央へ線が伸びているでしょう。役割を並べただけなら、こんな形にしなくてもいいはずよ」


 言われてみれば、確かにそうだった。


 五つの円から細い線が延び、床の中央にある六つ目の窪みへつながっている。


 しかし、その窪みには何の印もない。


「……六つ目の仕事?」


 俺が尋ねると、ティセラは首を振った。


「分からない。ここに何かを置いて、五つの機能をまとめて扱っていたのかもしれないし、ただの接続部かもしれない」


 彼女は手帳を閉じかけて、もう一度印を見た。


「でも、今の保全院が五つの仕事に分かれている理由は、ここにあるのかもしれないわね」


「……作ったのは保全院じゃないんだよな」


「ええ」


 係長が答えた。


「今の保全院は、こういう古い施設に残っていた分類を引き継いでいる」


 リゼが首を傾げる。


「じゃあ、保全院ができる前から、同じことをしていた人がいたんですか」


「そう考えるのが自然だな」


「その人たちも、誰かの記憶を預かったりしたんでしょうか」


 係長は床の印を見た。


「記憶だけじゃなかったかもしれない」


「……ほかにも?」


「まだ分からん」


 リゼは少し不満そうな顔をしたが、それ以上聞かなかった。


 俺も、今は追及しないことにした。


 分からないという係長の言葉を、どこまで信じていいかはまだ迷っている。


 けれど、目の前の印が今の保全院より古いものだという事実は、それだけで十分奇妙だった。


 黒い硝子筒が、再び動き始める。


 五つの印の上をゆっくり通り過ぎ、中央の窪みには触れないまま、広間の奥へ向かっていった。


 その後を追おうとした時、係長が手を上げた。


「待て」


 全員の足が止まった。


 係長は、筒が通った場所を見ている。


「……何ですか」


 俺が聞くと、彼は床を指した。


「ここの継ぎ目、見えるか」


 灯りを向ける。


 床の石板が一枚だけ、周囲と違う方向へわずかに傾いていた。


 黒い硝子筒は宙を進むから、足元の状態には関係がない。


 しかし、俺たちは歩かなければならない。


「……踏んだら?」


 リオルが尋ねる。


「何が動くかは分からない。少なくとも、今は踏まない方がいい」


 リオルは剣の鞘を使って、離れた位置から石板の縁を軽く押した。


 ほんの少し沈んだだけで、床の奥から小さな金属音がした。


「……本当に動くな」


 彼が呟く。


 係長は、継ぎ目をもう一度見た。


「古い設備は、壊れて動かない時より、中途半端に動く時の方が厄介だ」


 俺はその言葉を聞きながら、さっき自分が踏みかけていた位置を見た。


 危なかった。


 誰も気づかなければ、俺が最初に踏んでいただろう。


「……どうして分かったんですか」


 俺が尋ねると、係長は少し首を傾げた。


「石の減り方が違うだろ」


 言われてみれば、周囲の石板より縁の角が丸い。


 何度も動いたか、踏まれた跡なのかもしれない。


「……よく見てますね」


 思わず言うと、係長は俺を見た。


「お前が見てないからだよ」


 懐かしい叱られ方だった。


 腹が立つより先に、胸が痛んだ。


 俺は何も言い返せず、少し離れた安全そうな石床へ足を移した。


     ◇


 広間を抜けると、水の音がほとんど聞こえなくなった。


 それまで薄く漂っていた潮の匂いも消えている。


 代わりに、乾いた石と古い金属の匂いがした。


「……本当に、水底街の下なんでしょうか」


 リゼが言った。


「道は続いてるから、たぶんな」


「上には海があるんですよね」


「そうだと思う」


「なんか、変な感じです」


 リゼは天井を見上げた。


「上には沈んだ家があって、その下に私たちがいて、さらに下にも何かありそうで」


「……そう考えると、随分深く来たな」


「地上へ戻る時、全部登るんですかね」


 俺は少し考えた。


「……考えないようにしよう」


「もう考えちゃいました」


「じゃあ、帰りに考えよう」


 リゼが小さく笑った。


 その横を歩くリオルが、気のない声で言う。


「帰りはまず、俺の足が動くかどうかだな」


「……やっぱり痛いんじゃん」


「だから痛いって言っただろ」


「もっと早く言えよ」


「最初から言ってる!」


 少し離れたところで、エルセが笑った。


 俺は驚いて彼女を見る。


「……何?」


「いえ。こうして話していると、皆さん本当に仲がいいんだなと思って」


「今さら?」


「第七係の人たちが、いつもこんな調子だとは知りませんでしたから」


 エルセは少し前を見た。


 そこには係長がいる。


 彼女の視線が、ほんの一瞬だけその背中へ向いた。


「……副院長も、王都ではあんなふうに働いていたんですね」


 俺はすぐに返事ができなかった。


 エルセは保全院の副院長としての係長しか知らないのかもしれない。


 俺は第七係の係長としての姿を知っている。


 同じ人間なのに、知っている顔が違う。


「……はい」


 少し遅れて答えた。


「いつも、あんな感じでした」


 エルセは頷いた。


「そうですか」


 それ以上、何も言わなかった。


 俺も続けられなかった。


 楽しかった日々が嘘だったとは思いたくない。


 でも、今の係長を見ていると、あの日々のどこまでを信じればいいのか分からなくなる。


 この人は、俺たちをよく見ていた。


 何が得意で、何が苦手なのか。


 どういう時に怒って、どういう時に無茶をするのか。


 それは上司として必要なことだったのだろう。


 けれど、その知識が俺たちを止めるためにも使えると、つい先ほど思い知らされたばかりだった。


「……セイン」


 リゼが隣へ来た。


「何ですか」


「また係長さんのこと、考えてます?」


 俺は頷いた。


「……顔に出てた?」


「結構」


「みんな、よく分かるな」


「ずっと一緒にいますから」


 リゼは簡単に答えた。


 俺はその顔を見た。


「……リゼは、係長のことどう思う?」


 彼女は少し考えた。


「まだ分からないです」


「……そうだよな」


「昔の私を知っている人ですし、聞きたいことはたくさんあります。でも、ティセラさんの記憶を取ったことは嫌です」


 リゼは前方へ目を向ける。


「だから今は、好きか嫌いか決めないでおきます」


「……保留?」


「はい」


 少し後ろからエルセの声がした。


「それ、私の術と同じ名前ですね」


「エルセさんのは三秒ですよね」


「ええ」


「私のは、もっと長くなりそうです」


 エルセが小さく笑った。


「それでいいと思います」


 俺も、少しだけ笑った。


 相手が何をしたかは、忘れない。


 でも、好きだった時間まで無理に消そうとしなくてもいい。


 今は、まだ答えを決めなくていいのかもしれなかった。


     ◇


 通路の先で、黒い硝子筒が止まった。


 今度は、床へ降りようとしない。


 何もない空間に浮いたまま、ゆっくりと同じ場所を回っている。


 その先には、横一列に細い術式線が走っていた。


 壁から壁まで続く線の上には、古い文字が幾つも刻まれている。


 エルセが足を止めた。


「……認証区画です」


「また?」


 俺が尋ねると、彼女は頷いた。


「ただ、これまでのものよりずっと古い形式です」


 係長が一歩前へ出た。


 上着の内側から白紙を取り出し、術式線へ近づける。


 文字が浮かび上がった。


『管理権限:該当なし』


 係長は眉を上げた。


「……なるほど」


「駄目なんですか」


 俺が尋ねる。


「今の保全院の権限を、こっちが認識してないらしい」


「副院長でも?」


「肩書きが古い装置へ通じるとは限らないだろ」


 言われてみればそうだった。


 エルセも認証札を取り出す。


 結果は同じだった。


『回収権限:参照対象外』


「……私も駄目です」


 彼女は札をしまった。


 ティセラが床の文字を見ている。


「……五つの区分すら認識してないのかしら」


「別の基準で動いてるのかもしれません」


 エルセが答える。


「でも、黒い筒は通れてる」


 リオルが指摘した。


 俺も前方を見る。


 硝子筒は術式線の向こうで止まっていた。


 俺たちのことなど、まったく気にしていないようだった。


 係長が俺を見る。


 嫌な予感がした。


「……何ですか」


「いや」


「今、絶対に何か考えたでしょう」


「お前、地下へ入ってから変な認証ばっかりされてるなと思って」


「……それを俺に試せと?」


「無理にとは言わん」


 係長はそう答えた。


 その横で、リゼが俺の袖をつかんだ。


「勝手に進まないでくださいね」


「……分かってる」


「約束です」


「はい」


「何か出たら、すぐ戻ってきてください」


 俺は彼女を見た。


 いつもなら、俺の方から大丈夫だと言って走り出していただろう。


 でも、さっきティセラの記憶を返そうとして何が起きたか、まだ覚えている。


 分からないものへ近づけば、何かが起きる。


 そして、起きてから止めようとしても、間に合わないことがある。


「……先に確かめます」


 俺が言うと、係長が小さく頷いた。


「そうしろ」


 俺は認証線の手前へしゃがんだ。


 幅の広い線が三本。


 その間に、小さな文字が刻まれている。


 読めるところだけを確かめ、足をどこに置くか決めた。


 線を越えた先には、平らな石床が続いている。


「……一歩だけ」


 リゼへ言う。


「はい」


 俺はゆっくり足を出した。


 靴底が術式線へ触れる。


 床に淡い光が走った。


『対象照合を開始』


 俺は立ち止まった。


 次に、壁へ文字が現れる。


『未返却対象:参照』


 また、その呼び方だった。


「……本当に、何なんだろうな」


 思わず呟く。


 後ろでティセラが手帳を開いた。


「記録しておくわ」


「……ありがとう」


 第四保全区では管理者候補と呼ばれた。


 別の区画では、未返却対象。


 同じ人間を見ているはずなのに、施設によって呼び方が違う。


 その理由は、俺にはまだ分からなかった。


 次の文字が浮かんだ。


『原接続:確認』


 胸の奥で、何かが小さく揺れた。


「……原接続?」


 俺が読み上げると、係長が声をかけた。


「セイン、止まれ」


「……止まってます」


「そこから先へ行くな」


 係長の声は、いつもより少し低かった。


 俺は壁の文字を見た。


「……どういう意味ですか」


「分からん」


「本当に?」


「今回は本当にだ」


 係長は俺の足元を確かめている。


「今までの認証とは違う反応だ。これ以上進むな」


 俺は頷いた。


 係長の指示だから従うわけではない。


 自分でも、その先へ進む理由がないと思ったからだ。


「……戻るよ」


 リゼへ声をかける。


 ゆっくり後ろへ一歩下がった。


 術式線の外へ出る。


 光は消えなかったが、それ以上、新しい文字も浮かばなかった。


「……戻れた」


 俺が呟くと、リゼが少し笑った。


「ちゃんと約束守りましたね」


「……そこまで驚く?」


「少し」


「失礼だな」


 リオルが後ろから笑う。


「いや、俺もちょっと驚いた」


「お前まで?」


「この前なら、あと一歩って言いながら進んでたろ」


 否定しづらかった。


 でも、今回は違った。


 止まって確かめることも、仕事のうちだと思えるようになってきた。


「……成長ですね」


 エルセが言った。


「お前に言われると、ちょっと悔しい」


「どうしてです?」


「いつも怒られてるから」


「怒っているのではなく、注意しています」


「……同じじゃない?」


 エルセは答えなかった。


 ただ、少し笑っていた。


     ◇


 その直後、黒い硝子筒が動いた。


 術式線の向こうで浮かんでいた筒が、ゆっくり下降していく。


 床へ触れる寸前、周囲の古い文字が次々と浮かび上がった。


『預託記憶:照合』


『接続記録:一致』


 続いて、俺に現れた文字と同じものが、筒の下へ浮かぶ。


『原接続:確認』


 ティセラが息を呑んだ。


「……私の記憶が、ここを知ってる?」


「それとも、施設側が記憶を知ってるのか……」


 エルセが呟く。


 係長は何も言わなかった。


 筒の下に光の輪ができる。


 それは、黒い硝子を抱え込むように広がった。


 俺は左手を握った。


 さっきの返却が、何かを動かしてしまったのだろうか。


 筒の中には、まだティセラの六年間がある。


 その記憶が、ここへ来たことを覚えているのか。


 あるいは、もっと古い何かにつながっているのか。


 その区別さえつかなかった。


「……ティセラ」


 俺が呼ぶ。


「何?」


「ここへ来たこと、思い出しそう?」


 彼女はしばらく目を閉じた。


 それから、ゆっくり首を振る。


「……分からない」


「うん」


「でも、嫌な感じはしないわ」


 意外な返事だった。


「……どういうこと?」


「ここを知ってるような気がするの。なのに、来たことがあるかどうかは分からない」


 ティセラは自分の胸元へ手を当てた。


「……何かを思い出しかけた時みたい。言葉が喉まで来てるのに、出てこない感じ」


 リゼが静かに頷いた。


「……それ、少し分かります」


 ティセラは彼女を見る。


 二人とも、失くした記憶がある。


 けれど、失った理由も、期間も違う。


 俺には何も言えなかった。


 代わりに、黒い硝子筒を見た。


 光が一度強くなる。


 そして、最後の文字が現れた。


『経路:再開』


 床を横切っていた認証線が、ゆっくり消えていく。


 奥の石壁から、低い振動が伝わってきた。


 俺たちは、誰も動かなかった。


 何が再開されたのか、まだ分からなかったからだ。


     ◇


 開いた道は、細い下り坂になっていた。


 途中には新しい灯具もなく、俺たちは携帯灯を頼りに進んだ。


 さっきまで聞こえていた水音は、もう完全に消えている。


 壁の表面には、文字らしいものが刻まれていたが、ほとんど摩耗して読めなかった。


 ティセラは時折立ち止まり、読める箇所だけを紙へ写している。


 その手つきが、いつもより少し慎重だった。


 六年間を失った自分が何を調べていたのか、少しでも知りたいのだろう。


「……ティセラ」


 俺が呼ぶと、彼女は顔を上げた。


「何?」


「疲れてない?」


「疲れてるわよ」


 即答だった。


「……そうだよな」


「六年も経ったって聞かされて、知らない人たちと地下を歩いてるのよ。疲れないわけないでしょう」


「……確かに」


 俺は少し笑った。


「でも、まだ歩ける?」


 ティセラは自分の靴を見た。


 それから、少しだけ考える。


「……歩ける」


 返事はしっかりしていた。


「ただ、帰ったらしばらく休むわ」


「そうしよう」


「研究も、少し休むかもしれない」


「うん」


「……六年後の私は、休むの下手だった?」


 その質問に、俺は思わず笑ってしまった。


「……かなり」


 ティセラが眉を寄せる。


「そんなに?」


「夜遅くまで調べ物して、翌朝にはまた資料室にいた」


「……効率悪いわね」


「本人に言われるとは思わなかった」


 彼女は少し考えた。


「じゃあ、戻ったら注意しないと」


「誰に?」


「六年後の私に」


 そう言って、少し笑った。


 俺も笑った。


 そして、少し遅れて胸が痛くなった。


 ティセラは今、自分の六年間を知らない。


 でも、その間に生きた自分を、どこかでまだ別の人のように考えている。


 いつか記憶が戻った時、六年後の自分を嫌いにならないでほしいと思った。


 仕事に夢中になって、何度も失敗して、それでも調べ続けていた人だ。


 祖母へ手紙を書いては出せなかった人でもある。


 俺が見たものは、まだほんの一部にすぎない。


 でも、あの六年間を生きたティセラも、確かにこの人だった。


「……セイン」


 彼女が呼んだ。


「何?」


「あなた、また変な顔してる」


「……ごめん」


「謝ることじゃないでしょう」


 ティセラは少し笑った。


「心配なら、そう言いなさいよ」


 俺は頷いた。


「……心配だよ」


「そう」


 彼女は手帳を抱え直した。


「じゃあ、戻るまで付き合って」


「……もちろん」


 返事をすると、ティセラは満足そうに頷いた。


     ◇


 通路の終わりに、石扉が現れた。


 想像していたものより、小さかった。


 これまで見てきた保全区画には、巨大な石門や、複雑な金属の認証装置がいくつもあった。


 けれど、目の前の扉には派手な装飾がない。


 古い石を二枚組み合わせたような造りで、中央に丸い窪みが一つあるだけだった。


 黒い硝子筒は、その窪みの前で止まっていた。


「……ここ?」


 リゼが呟いた。


 エルセが灯りを向ける。


 ティセラも隣へ並び、扉の上部に刻まれた文字を確かめた。


「……かなり古い字ね」


「読めそう?」


 俺が尋ねる。


「少し待って」


 彼女は眼鏡を押し上げ、慎重に文字を追った。


 最初の一文字を読む。


「……第一」


 その次の文字へ指を移した。


「……記憶」


 もう一文字。


「……庫」


 俺は息を止めた。


 エルセが小さく頷く。


「第一記憶庫。古い記録で『最初の記憶庫』と呼ばれている場所でしょう」


 セヴァンの声が、頭の中で蘇った。


 二十八年前、四十二人の記憶から自分の存在を消したとされる男。


 その男が何かを守るために、他人の記憶とのつながりまで切り離したという場所。


 ずっと探していた。


 でも、本当に辿り着くと、何を言えばいいのか分からなかった。


「……ここが」


 リゼが石扉を見た。


「最初の記憶庫なんですね」


「……そうらしい」


 俺は答えた。


 この扉の向こうに、何があるのだろう。


 大量の記憶が保管されているのか。


 二十八年前の記録が残っているのか。


 それとも、これまで俺たちが想像してきたものとは、まったく違う何かがあるのか。


 分からなかった。


「……係長」


 俺は少し前にいる男を呼んだ。


「何だ」


「あなたは、ここを知っていたんですか」


「記録上ではな」


「中は?」


「見てない」


「……副院長でも?」


 係長は少し笑った。


「何度も言わせるな。俺が保全院の全部を知ってるわけじゃない」


 俺は頷いた。


 どこまで本当なのかは、まだ分からない。


 でも、今は追及するより先に、やるべきことがあった。


「……この扉、どうやって開けるんでしょう」


 俺が呟いた直後、黒い硝子筒がゆっくり動いた。


 中央の丸い窪みへ近づいていく。


 エルセが一歩前へ出た。


「触らないでください」


「……まだ何もしてないよ」


「確認です」


 俺は思わず苦笑した。


 そのやり取りを聞いたリゼが、小さく笑う。


「本当に仲よくなりましたね」


「……そういう話じゃないだろ」


「でも、エルセさんがセインを止める時、私と同じこと言うようになりました」


「それは」


 エルセが何かを言いかけた。


 けれど、少し考えてから口を閉じた。


「……否定できませんね」


 俺とリゼが顔を見合わせる。


 二人とも笑ってしまった。


 その後ろで、リオルが静かに剣の柄へ手を置いた。


 怪我をしているのに、表情は落ち着いている。


 ティセラは手帳を閉じ、扉へ目を向けた。


 エルセもすぐに笑顔を消し、認証札を握り直す。


 係長は一番前に立っていた。


 俺たちを止めるつもりなのか、何かあった時に守ろうとしているのか、今の俺には分からなかった。


 黒い硝子筒の内側から、一筋の光が伸びる。


 丸い窪みへ触れた。


 扉の表面に刻まれた古い文字が、順番に浮かび上がっていく。


『預託記憶:確認』


 続いて、もう一つ。


『帰属接続:確認』


 低い振動が石床へ伝わった。


 俺は左手を握り直す。


 ティセラの六年間は、まだこの筒の中にある。


 リゼの失われた名前も、戻っていない。


 四十四号の男が誰だったのかも、家族へ何を伝えたかったのかも、分からないままだ。


 けれど、二十八年前の出来事を知る手がかりが、確かに目の前へ現れている。


 最後の文字が、扉の中央へ浮かんだ。


『第一記憶庫』


 その下に、さらに一行。


『開扉』


 石の奥から、重いものが動く音が聞こえ始めた。


 扉の中央へ細い隙間が現れる。


 最初は、爪の先ほどの幅だった。


 それが少しずつ広がり、暗い空間が見え始める。


 俺は隣にいる仲間たちを見た。


 リゼが頷く。


 リオルも、傷ついた肩をかばいながら、小さく頷いた。


 ティセラは緊張した顔をしていたが、目を逸らさなかった。


 エルセは灯りを高く掲げ、扉の奥を見つめている。


 そして係長も、何も言わずにそこへ立っていた。


 俺はもう一度、開いていく扉へ顔を向けた。


 誰かに忘れられるというのは、どんなことなのだろう。


 自分がそこにいた証拠も、帰りを待つ人の記憶も失われた時、それでも人は、自分が生きたことを残せるのだろうか。


 答えは、まだ分からない。


 ただ、ここまで辿り着いた以上、知らないまま帰ることはできなかった。


 石扉が、ゆっくりと開き始めた。

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