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王都の返却士 ~その落とし物、世界のものです~  作者: 紙森 灯
第三章 誰も覚えていない男

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第五十八話 六年分の帰り道

 

 白い返却票が光った瞬間、係長の手の中で、黒い硝子筒が震えた。


 最初は、封印が外れかけているのかと思った。


 筒の内側に閉じ込められていた淡い煙が、細い糸のようにほどけ始めたのだ。その一本一本が複雑に絡み合いながら硝子の表面へ集まり、白い返却票の光に応えるように揺れている。


「セイン、切れ!」


 係長が叫んだ。


 俺の名前を、あの人がこんな声で呼ぶのを初めて聞いた。


「……何を?」


「術だ! 今すぐ止めろ!」


 左手を下ろそうとする。


 だが、指が動かなかった。


 正確には、動かせないわけではない。自分の腕なのに、どのくらい力を入れれば動くのか、急に分からなくなった。


 白い光が筒へ伸びている。


 その先から、今度は細い糸の束が俺へ向かってきた。


「……っ!」


 避けるより早く、光が左手へ触れた。


 熱くはない。


 痛みもなかった。


 けれど、胸の奥へ冷たい水を流し込まれたような感覚がして、思わず息を詰めた。


「セイン!」


 リゼが叫ぶ。


 俺は返事をしようとしたが、うまく声が出なかった。


 筒からほどけた光が左腕を伝い、胸の内側を通り抜けていく。


 自分の身体のどこにそんな通り道があるのか、俺にも分からない。


 ただ、その光が俺の中へ留まろうとしているのではないことだけは感じられた。


 何かが、俺を通って別の場所へ向かっている。


 行き先はティセラだった。


「……まずいですね」


 エルセが呟いた。


 係長が彼女を見る。


「何が起きてる?」


「返却の経路が、本人への直接接続になっています。保全槽を介さずに流し込んでいるんです!」


「だから止めろと言ってる」


「今、無理に切れば途中の記憶が散るかもしれません!」


「このまま流し続けても危険だろ」


「分かっています!」


 エルセの声が鋭くなった。


 いつもの彼女なら、相手の言葉を遮ってまで言い返すことはほとんどない。けれど今は、係長を相手に一歩も退こうとしなかった。


「……こんな返却の仕方は、私も見たことがありません。切断した場合の危険も、継続した場合の危険も、まだ判断できません!」


 係長は短く舌打ちした。


 白紙が二枚、その手から放たれる。


 狙いは、俺と硝子筒の間だった。


「〈境界〉」


 紙へ細い線が走り始める。


 俺には、それを避ける余裕がない。係長がこちらを守ろうとしているのか、術そのものを止めようとしているのかさえ、もう分からなかった。


「〈保留〉!」


 エルセが手を上げた。


 二枚の紙が空中で止まる。


 彼女の術が止めたのは紙の動きだけだ。係長自身は自由に動けるし、すでに引かれた境界まで消えたわけではない。


 それでも、次の線が完成するまで、わずかな時間ができた。


「三秒です、セイン!」


「……分かってる!」


「息を整えて! 何か見えたら、無理に追わないでください!」


 俺は頷こうとした。


 しかし、その瞬間、足元の石床が遠ざかった。


 リゼが何かを叫んでいる。


 リオルが俺の背中へ手を伸ばしたのも見えた。


 そして、景色が白く滲んだ。


     ◇


 雨が降っていた。


 窓硝子を伝う細い水滴の向こうに、王都の屋根が並んでいる。


 部屋には古い紙と乾いた木の匂いが漂い、机の上には、細かな線を書き込んだ図面が何枚も広げられていた。


 俺は椅子へ座っているようだった。


 いや、違う。


 誰かの視界を借りている。


 視線が下がると、見覚えのある細い指が紙の上を滑った。ペンを握る位置も、眼鏡を押し上げる時の癖も知っている。


 ティセラだ。


 けれど、今の彼女より少し若い。


 髪も短く、肩へ落ちた毛先が、動くたびに揺れていた。


「また一本増えてる」


 向かいから声がした。


 白い髪を後ろへまとめた、年老いた女性が座っている。


 背筋がすっと伸びていて、古い術式の図面を覗き込む目が鋭い。その厳しい表情の中に、どこかティセラとよく似たものがあった。


「増やしてないわよ」


 ティセラが答える。


「ここの補助線は?」


「……必要だから」


「昨日はなかったでしょう」


「昨日より正確になったの」


「正確になったかどうかは、結果を確認してから言いなさい」


 女性は細い金属棒で図面の端を指した。


 ティセラは不満そうに唇を尖らせる。


「おばあちゃん、いちいち細かい」


「その細かいことを確かめるのが術式研究でしょう」


「でも、お腹が空いたら頭が働かないわ」


「さっきお茶菓子を食べたばかりじゃない」


「あれはお茶菓子。夕飯とは別」


「都合のいい分類ね」


「研究者だから」


 女性が呆れたように笑った。


 ティセラも、つられるように口元を緩める。


 それまで厳しい顔をしていた祖母は、少しして立ち上がると、机の端へ温かい茶を置いた。


「冷めないうちに飲みなさい」


「……ありがとう」


「続きはその後」


「結局、終わらせるつもりじゃない」


「当たり前でしょう」


 ティセラは文句を言いながらも、両手でカップを包んだ。


 その温かさが、俺にも伝わってきた。


 カップの重さだけではない。


 言い返しても怒鳴り合いにはならないという安心や、難しいことがあればこの人に聞けばいいという信頼まで、胸の内側へ流れ込んでくる。


 俺は少し戸惑った。


 これまでローディスの記憶を見た時にも、他人の視界を借りたことはあった。


 だが、今回は違う。


 ティセラがこの女性をどう思っているのか、言葉にする前の感情まで伝わってくるのだ。


 心地よさと、少しの窮屈さ。


 追いつきたいという憧れ。


 何歳になっても子供扱いされることへの不満。


 それでも、結局はここへ帰ってきてしまうという気安さ。


 ティセラにとって、祖母はそういう存在だったらしい。


 女性が窓の外を見た。


「雨、強くなってきたわね」


「帰る頃には止むかな」


「止まなかったら泊まっていきなさい」


「研究院に朝一番で戻らないと」


「なら、早く終わらせなさい」


「……結局そこに戻るのね」


 二人が笑った。


 その声を聞いているうちに、雨音が遠ざかっていった。


     ◇


 次に見えたのも、同じ部屋だった。


 ただし、机の上には王宮の印が入った資料が広がっている。


 窓の外は暗い。


 ティセラは椅子に座っていなかった。


 立ったまま、祖母を見つめている。


「……記録を消したの?」


 声が硬かった。


 祖母は机へ手を置いたまま答えた。


「消していないわ」


「じゃあ、どうして名前が残ってないの」


「残さない判断がされたからよ」


「それを消したって言うんでしょう!」


 ティセラの声が部屋へ響いた。


 さっきまでの穏やかな空気は、どこにもない。


 祖母は眉を寄せた。


「書かなかったことと、書かれたものを消したことは違うわ」


「それで、なかったことになるの?」


「ティセラ、落ち着きなさい」


「落ち着いてる!」


 どう聞いても落ち着いてはいなかった。


 けれど、怒りだけではないことは伝わってきた。


 ティセラは怖がっていた。


 尊敬していた祖母が、自分には理解できない判断をしていたかもしれない。


 そのことが、たまらなく怖かったのだと思う。


「……名前がなければ、調べた人間はそこに何もなかったと思うわ」


 ティセラは図面を指した。


「最初から知らされなければ、疑うことさえできない。あなたたちは、それで誰かを守ったつもりなの?」


「守るために残さないものもあるのよ」


「誰を?」


 祖母は口を閉じた。


「教えて」


「……それは言えない」


「どうして!」


「あなたに話せないこともある」


「またそれ!」


 ティセラの指が震えていた。


「私、子供じゃないのよ。もう研究院で働いてるし、自分で調べてここまで来たんだから、理由くらい聞かせてよ」


「あなたがどれだけ調べたかは分かっているわ」


「じゃあ!」


「分かっているからこそ、今は言えないの」


 その返事が、決定的だった。


 ティセラは祖母を見つめたまま動かない。


 祖母の顔には疲れが見えていた。


 何かを隠しているのは確からしい。


 けれど、隠している理由が、俺にはまだ分からなかった。


 ティセラにも分からなかったのだろう。


 だから、もっと強い言葉を選んでしまった。


「……私、あなたみたいにはなりたくない」


 口にした瞬間、胸が強く締めつけられた。


 ティセラ自身が、言いすぎたと気づいたからだ。


 でも、謝る言葉は出てこなかった。


 祖母はしばらく何も言わなかった。


 怒鳴り返してくれたら、まだ言い合えたのかもしれない。


 けれど、黙ったままの祖母を見るのが耐えられず、ティセラは机の横から鞄をつかんだ。


「どこへ行くの」


「帰る」


「外は雨よ」


「知ってる」


「傘くらい持っていきなさい」


 その声にも、ティセラは振り返らなかった。


 部屋の扉を開ける。


 外へ出ようとした時、背後で祖母が何かを言った。


 しかし、扉を閉める音に重なって、言葉までは聞こえなかった。


 俺も知りたかった。


 最後に何と言ったのか。


 謝ったのか、引き止めたのか、それとも別の何かを伝えようとしたのか。


 けれど、この記憶はティセラのものだ。


 彼女が聞かなかった言葉を、俺が知ることはできなかった。


     ◇


 それから、景色は何度も変わった。


 同じ時代を順番に歩いているわけではないらしい。


 資料室で夜を明かすティセラがいたかと思うと、次には研究院の廊下を歩いている。晴れた日の市場で野菜を選び、値段を聞いて眉をしかめたかと思えば、今度は同僚に仕事を頼まれて、嫌そうな顔をしながら引き受けていた。


 〈転写〉で古い碑文を写しても、その文字を理解できるとは限らない。


 結局、写した後に辞書を何冊も積み上げて、一つずつ意味を確かめている。


 研究がうまくいかない日は、机に突っ伏していた。


 成功した日は、誰もいない資料室で小さく拳を握った。


 空腹に負けて夕飯を買いに走った夜もあれば、同僚のくだらない冗談に笑い、別の日には同じ同僚の仕事の遅さに腹を立てている。


 そんな日々が、次々と俺の中を通り過ぎた。


 六年という時間を、俺は数字でしか考えていなかったのかもしれない。


 今のティセラは二十八歳で、自分では二十二歳だと思っている。


 その差が六年だということは、簡単に分かる。


 けれど六年の間に何回朝を迎え、何度同じ道を歩き、どんなことを気にしながら眠ったのかまでは、数字では分からなかった。


 やがて、見覚えのある場所が現れた。


 王立遺失物管理局の資料室だった。


「勝手に使わないでって言ったでしょう!」


 ティセラの声が響く。


 俺は驚いて顔を上げた。


 目の前にいるのは、俺だった。


 何かの実験で失敗したらしく、片手に白い紙を握っている。


 記憶が途切れ途切れなので、何をしたのかまでは分からない。


 ただ、ティセラは腹を立てていた。


 その一方で、怒鳴りながらも俺の左手を確かめている。


 怪我はないか。


 術の反動で具合を悪くしていないか。


 そんなことを気にしていたらしい。


 俺は、その時の自分が何と答えたか思い出そうとした。


 どうせ、適当な言い訳をしたのだろう。


 それにしても、あれほど怒られていたのに、ティセラが俺のことを心配していたとは知らなかった。


 次の景色では、リゼがいた。


 ティセラが首元の赤い封蝋を調べ、手帳へ細かな線を書き写している。


 しばらく考えた後、文字を書き加えた。


『本人を対象物として扱わないこと』


 さらにその下へ、筆圧を強くして追記する。


『絶対に』


 俺は息を呑んだ。


 ティセラはいつも、正確に調べようとする。


 だから、記憶を失った少女を単なる研究材料として見ているのではないかと、最初の頃は心配したこともあった。


 その人が、誰にも見せない手帳の中で、こんなことを書いていた。


 次に見えたのは、リオルが持っている古い護符だった。


 ティセラはそれを何度も裏返し、帰属を示す線が二重に見えることを不思議がっている。近くには詳しい記録もあったらしいが、景色が変わるのが早く、内容までは読めなかった。


 その次には、俺の返却票が机いっぱいに広げられていた。


 彼女は〈返却〉の仕組みについて、何度も仮説を書いている。


『元の位置へ移動させているだけではない』


『帰属先の照合を先に行っている可能性』


 そして、最後の行をしばらく見つめていた。


『誰が「帰るべき場所」を決めているのか』


 俺も、同じような疑問を抱いていた。


 けれど、こんなふうに何度も調べ、考え続けていたとは知らなかった。


 ティセラはいつも、俺が使った術について質問してきた。


 何となく使えた、と答えると怒った。


 もう少し考えてから使いなさい、と言われた。


 今になって、その言葉の意味が少し変わった。


 分からないからこそ、危険なのだ。


 本人でさえ全貌を知らない術なのだから。


 ティセラは、そのことをずっと考えていてくれたらしい。


     ◇


 それから、見知らぬ夜になった。


 小さな机に、ティセラが一人で座っている。


 灯具の光が紙の上だけを照らし、窓の向こうには雨上がりの街灯が見えた。


 彼女は手紙を書いていた。


 最初の行には、祖母への呼びかけがあった。


 しばらく先を書いたところで、ペンが止まる。


 読み返す。


 考える。


 そして、紙を丸めて捨てた。


 別の日には、古い封印術式について尋ねようとしていた。


 祖母なら知っているかもしれないことを、いくつも書き並べている。


 けれど、最後まで書き終えると、今度は紙を二つに折り、そのまま机の引き出しへしまった。


 送らなかった。


 また別の日には、最初の挨拶だけを書いていた。


 元気にしていますか。


 研究院では相変わらず忙しくしています。


 そこまで書いて、手が止まった。


 書きたいことはいくらでもあったのだと思う。


 仕事の話も、街で見つけたものの話も、昔一緒に調べた術式の続きを見つけたことも。


 きっと、何でもないことまで話したかったのだろう。


 それでも、最初の一通が出せない。


 あの日、祖母が最後に何と言ったのか聞かなかったことが、まだ胸のどこかに引っかかっている。


 だからなのか、意地を張っているからなのか、ティセラ自身にも整理できないらしかった。


 俺はその姿を見て、中央確認室での彼女の言葉を思い出した。


『今日帰ったら、おばあちゃんに聞いてみる』


 ついさっき、そう言っていた。


 六年間を忘れたティセラにとって、祖母の家はまだ気軽に帰れる場所なのだ。


 分からないことがあれば聞きに行き、顔を合わせれば文句を言い合う。


 それが、あの頃の当たり前だった。


 けれど、失われた六年間の中で、二人の距離は変わっていた。


 会いたくないと考える日もあった。


 もう許せないと思ったこともある。


 それなのに、調べ物をしていると祖母の名前が浮かぶ。


 何か面白いものを見つければ、最初に聞かせたい相手が思い浮かぶ。


 ティセラは手紙を何度も書いた。


 最後まで書けたものもあった。


 でも、どれも出さなかった。


 そのことが、俺にはひどく悲しかった。


     ◇


 次の景色で、ティセラは鏡の前に立っていた。


 何度か髪をまとめ直し、服の襟を確かめている。


 普段ならあまり気にしないところまで直そうとして、結局、途中で面倒になったらしい。


「……別に、ちょっと会いに行くだけだし」


 誰に向かってでもなく、そう呟いた。


 机の上には、手紙が一通あった。


 今までのものと違い、封がしてある。


 宛名も書かれている。


 ティセラはその手紙を持ち上げ、しばらく見つめた。


 それから、鞄の内側へ丁寧にしまった。


「明日、持っていこう」


 小さな声だった。


 その隣には、研究資料が広がっている。


 リゼの封蝋を写した図面。


 古い保全区画の認証線。


 俺の〈返却〉についての覚え書き。


 さらに、聖名教会の古い教義と術式の名称体系を比較した記録まであった。


 俺は紙の端に書かれた短い一文を読んだ。


『祖母なら何か知っている』


 その字は、いつものティセラらしく、細くて正確だった。


 俺は続きを見たかった。


 本当に翌日、会いに行ったのだろうか。


 長い間出せなかった手紙を、今度こそ渡せたのだろうか。


 祖母はどんな顔をしたのだろう。


 けれど、景色はその先へ続かなかった。


 硝子が割れるような音がして、視界が大きく揺れた。


 何かに引かれる。


 細い光の束が、俺の胸を通り抜けていく。


 さっきまで確かに感じていたティセラの感情が、急に幾つもの方向へ広がり始めた。


 記憶が、まだ流れ込んでいる。


 俺はその時ようやく、自分が見ていたのは彼女の六年間のほんの一部でしかないと気づいた。


 今見た出来事の間にも、数えきれない日々がある。


 その全部が、今も黒い硝子筒の中に残っているのだ。


     ◇


「セイン!」


 リゼの声が近くで聞こえた。


 次の瞬間、俺は地下施設の床へ片膝をついていた。


 左手から白い光が伸びている。


 係長は少し離れた場所に立ち、黒い硝子筒を握っていた。


 エルセが俺の隣にしゃがみ、何かを確かめている。


「……聞こえますか?」


 彼女が尋ねた。


「……うん」


「自分の名前は?」


「セイン」


「ここがどこかは?」


「水底街の地下」


「隣にいるのは?」


 俺は顔を上げた。


「……エルセ」


 彼女がようやく息を吐いた。


「よかった」


「……そんなに?」


「ずっと呼んでいたんです」


 その言葉を聞いて、初めて自分がどれほど長い間、意識を失っていたのか分からなくなった。


 実際には、ほんの短い時間だったのかもしれない。


 けれど、俺の中では何年も過ぎたような気がしていた。


「セイン、こっち見てください」


 リゼが目の前へしゃがむ。


 俺は顔を上げた。


「見えるよ」


「本当に?」


「月白色の髪で、今にも怒りそうな顔をしてる」


「怒ってません」


「……ちょっと怒ってない?」


「心配してるんです」


 リゼは少し眉を寄せた。


「何か、怖いものでも見ました?」


 俺はティセラを見た。


 彼女は石台のそばへ座り、片手で額を押さえていた。


 表情は苦しそうだが、意識はある。


「……いろいろ」


「話せます?」


「……今は、まだ」


 リゼは一度だけ頷いた。


「分かりました」


 それ以上聞かなかった。


 その気遣いが、今はありがたかった。


 俺は自分の胸へ手を当てた。


 祖母と笑っていた時の安心も、喧嘩をして扉を閉めた時の後悔も、まだそこに残っている気がする。


 けれど、それは俺が生きた時間ではない。


 ティセラが知っていたことを、俺が一時的に見てしまったのだ。


 勝手に覗こうと思ったわけではない。


 それでも、彼女の許可を取らずに知ってしまったことは変わらなかった。


「……セイン」


 今度は係長が呼んだ。


 顔を上げる。


「もうやめろ」


 低い声だった。


「これ以上続ければ、お前も彼女も危ない」


「……どういうことですか」


「六年間の記憶を、一度に本人へ戻した例はほとんどない。今の認識と一気に重なれば、混乱だけで済む保証がない」


 俺はティセラを見た。


 彼女は両手でこめかみを押さえている。


 今までの自分にはなかった何かが、突然流れ込んできているのだろう。


「……何で最初に言わなかったんですか」


 思ったより強い声が出た。


 係長は俺を見た。


「言ったら止まったか?」


 俺は答えられなかった。


「さっきのお前は、返せると分かったら最後まで返すつもりだっただろ」


「……それは」


「分からないことが多すぎると、自分でも言ってたはずだ」


 腹が立った。


 けれど、その言葉をすべて否定できなかった。


 俺はティセラの名前を確かめた。


 硝子筒の中身が彼女のものだと分かった。


 だから返そうとした。


 それは、間違っていないと思う。


 ただ、どう返せばいいのかまでは確かめていなかった。


「……ティセラ」


 俺は声をかけた。


 彼女が顔を上げる。


「何?」


「何か、思い出した?」


 ティセラは少し考えた。


「……雨の音」


「雨?」


「知らない部屋が見えたの。机があって、女の人がいて……」


 彼女は目を閉じた。


「その人の顔、知ってる気がする」


 俺は息を呑んだ。


「……それから?」


「分からない。でも、何だか胸が苦しい」


 ティセラは困ったように笑おうとした。


 笑えなかった。


 俺は左手を見た。


 光はまだ、途切れずにつながっている。


 もっと返したかった。


 祖母のことを思い出してほしかった。


 出せなかった手紙も、ようやく封をした一通も、彼女自身の時間なのだから。


 けれど、今の彼女は苦しそうだった。


 俺が全部を見たからといって、全部を一度に受け止められるとは限らない。


 それなのに、返せるという理由だけで続けてしまえば、俺も自分の判断を押しつけていることになる。


「……止めます」


 自分で言った。


 係長の眉がわずかに動いた。


「本当に?」


「はい。全部を今すぐ返すのは、やめます」


 口にすると悔しかった。


 返せるかもしれないのに、止める。


 今までの俺なら、仕事を途中で放り出すように感じたかもしれない。


 けれど、今回は違う。


 終わらせるために止めるのではなかった。


 きちんと返す方法を探すために、いったん止めるのだ。


 エルセが俺の左手を見た。


「……私が補助します。急に引き剥がすのは危険ですから、術への力を少しずつ緩めてください」


「分かった」


 言われた通りに、光を引こうとする力を弱める。


 硝子筒から伸びた細い糸が、少しずつ細くなっていく。


 途中で強く引かれたが、エルセが保全状態を見ながら声をかけてくれた。


「……そのまま。急がないで」


 俺は何度か息を整えた。


 そして、最後の一本がほどけるように消えた。


 白い返却票の光が薄くなる。


 指先に戻ってきた感覚が、少し痛かった。


     ◇


「……ティセラ」


 俺は彼女の前へしゃがんだ。


「ごめん」


 ティセラは額から手を離し、俺を見た。


「何が?」


「さっき、君の記憶が俺を通った。その時、少しだけ見えたんだ」


 彼女の眉が寄った。


「……私の?」


「うん」


「勝手に?」


「見るつもりはなかった。でも、見たことには変わらない」


 しばらく、返事がなかった。


 ティセラは自分の手帳を見下ろし、それから俺へ視線を戻した。


「……何を見たの?」


 すぐに答えかけた。


 祖母のこと。


 出せなかった手紙のこと。


 何度も研究に行き詰まり、それでも諦めずに調べ続けていたこと。


 話せることなら、いくらでもあった。


 けれど、俺がここで全部を説明してしまえば、彼女は自分の過去を俺の言葉で知らされることになる。


「……話せることはある」


 俺は答えた。


「でも、今すぐ全部は話さない方がいいと思う。俺自身、見たものをまだ整理できてないから」


「……そう」


「それと、さっきも言ったけど、勝手に見たのはごめん」


 ティセラはしばらく俺を見ていた。


「……変な人ね」


「よく言われる」


「私の記憶なんでしょう」


「うん」


「なのに、あなたの方が困った顔をしてる」


 その言い方に、少しだけ笑ってしまった。


「……そうかな」


「そうよ」


 ティセラは手帳を閉じた。


「でも、勝手に話されるよりはいいわ」


 少し考えてから、続ける。


「あとで聞くから、その時はごまかさないで」


「分かった」


「私が聞いたことには答えて」


「うん」


「分からなかったら、分からないって言って」


 俺は顔を上げた。


 どこかで、同じことを言われた気がした。


 六年間の記憶の中にも。


 王都の第七係でも。


 目の前のティセラは、俺をまだよく知らない。


 それでも、今までと変わらず、曖昧な説明が嫌いらしい。


「……分かったよ」


 俺が笑うと、彼女は眉を寄せた。


「何で笑うの」


「ちょっと嬉しかったから」


「……本当に変な人」


 そう言いながらも、彼女の口元が少し緩んだ。


 リゼが隣へしゃがんでくる。


「ティセラさん」


「何?」


「私、あなたに聞きたいことが一つ増えました」


「……何を?」


「六年後のあなたも、セインにたくさん怒ってましたか?」


 ティセラが俺を見る。


 それから、少し考えた。


「……多分、怒ってたと思う」


「でしょうね」


「何で分かるの?」


「私もよく怒るので」


 リゼが笑った。


 ティセラもつられるように笑った。


 俺は二人を見て、小さく息を吐いた。


 六年間はまだ戻っていない。


 ティセラの中には、知らない時間が残ったままだ。


 それでも、こうして笑えることは、確かに嬉しかった。


     ◇


 係長が、黒い硝子筒を持ったまま俺たちを見ていた。


 俺は立ち上がり、向き直る。


「……係長」


「何だ」


「さっき、少し分かりました」


「何を?」


「あなたが、一度に返すなと言った理由です」


 係長は黙っていた。


 俺は続ける。


「記憶は、ただの情報じゃない。ティセラが何を調べたかだけじゃなくて、誰と会って、何に腹を立てて、どう過ごしたかまでつながっている」


「ああ」


「それを一気に戻せば、本人が混乱するかもしれない」


「そうだ」


 係長は短く頷いた。


 俺は硝子筒を見た。


 中に残っているものは、俺が見た場面よりずっと多い。


 研究院で過ごした時間も、何でもない食事も、祖母へ書いた手紙も。


 その一つ一つが、ティセラ自身のものだ。


「……でも、だから取っていいことにはなりません」


 係長は俺を見る。


「まだ言うか」


「言います」


 俺は頷いた。


「危険な情報があったのかもしれない。それを取り除こうとして、ほかの記憶まで巻き込んだのかもしれない。説明を聞けば、手続きの理由は少し分かります」


 言葉を選ぶ。


「でも、その六年間を『付随』って呼ばないでください」


 係長の表情が、わずかに変わった。


「ティセラは、ずっと研究だけしていたわけじゃありません。普通に暮らして、笑って、怒って、後悔したこともあった」


 祖母へ宛てた手紙のことを言いかけて、止めた。


 それは、俺がここで話していいことではない。


「……そういう時間も全部、本人が生きたものです」


 係長は何も言わなかった。


「あなたは危険を避けるために必要だったと言う。でも、本人に何も聞かずに取ったことまで、正しくなるとは思えません」


「聞く時間がなかったとしたら?」


「その事情は、まだ知りません」


「聞いても理解できなかったら?」


「説明できるところまでは説明します」


「間に合わなければ?」


 俺は少し考えた。


 すぐに正しい答えを出せるような質問ではない。


 実際、俺が今ここにいる間にも、危険なことは起きている。


 ティセラの記憶を返そうとして、彼女も俺も傷つくところだった。


 自分の判断が、いつでも正しいわけではない。


「……その時は、間違えるかもしれません」


 俺は答えた。


 係長が少し眉を上げる。


「でも、誰かが危険だと言っただけで、本人のことを全部決めていいとも思えないんです」


 係長はしばらく俺を見ていた。


「甘いな」


「……そうかもしれません」


「その甘さじゃ守れないものもある」


「はい」


 それでも、答えは変わらなかった。


 俺はティセラを見た。


「……残りも返したいです」


 係長の視線が左手へ落ちる。


 俺は首を振った。


「今すぐじゃありません」


 係長が、少し意外そうな顔をした。


「ティセラが受け止められる方法を探します。少しずつ戻せるなら、その方がいい」


 俺はエルセを見た。


「……そういう方法、ある?」


 彼女は頷いた。


「編集局には、保全された記憶を分けて戻すための手続きがあります。ただし、通常の回収係には扱えません」


「お前にも?」


「ええ。私の権限では、返却方法を決めることはできません」


「……じゃあ、どこへ行けばいい?」


「編集局です」


 答えたのは係長だった。


 俺は顔を上げた。


「保全院の?」


「ああ」


「……そこなら、できるんですね」


「できる者はいる」


「じゃあ、行きます」


 係長が小さく笑った。


「簡単に言うな」


「簡単じゃないのは分かってます」


「敵の中へ入るつもりか」


 その言葉に、隣からエルセが口を開いた。


「保全院の全員が敵というわけではありません」


「……そうですね」


 俺が答えると、彼女はこちらを見た。


「ただし、私を勝手に味方として数えないでください」


「……まだ駄目?」


「私は回収係です。あなたに協力していても、保全院を辞めたわけではありません」


「……じゃあ、同行者?」


 エルセは少しだけ考えた。


「それなら、まあ」


 リゼが笑った。


「エルセさん、そういうところ好きです」


「……ありがとうございます」


 エルセは少し困った顔をしていた。


 係長も、俺たちを見て小さく息を吐いた。


 その顔を見た途端、胸が痛んだ。


 第七係で俺が面倒な案件を持ち込んだ時、いつもそんな顔をしていたからだ。


 今は敵対しているのに、知っている仕草だけが変わらない。


 この人を簡単に嫌いになれたら、もう少し楽だったかもしれない。


     ◇


 黒い硝子筒から、小さな音がした。


 全員が振り返る。


 係長の手の中で、筒の表面に細い亀裂が走っていた。


「……まずいな」


 係長が呟く。


「何がですか」


 俺が尋ねると、彼は筒を持ち上げた。


「返却が途中で止まったせいで、保全の均衡が崩れてる」


「……記憶が壊れる?」


 リゼが尋ねた。


「すぐに消えるわけじゃない。ただ、このままだと筒の中へ収まりきらなくなる」


 エルセが一歩近づく。


「補助封を追加しますか」


「今の規格じゃ合わない。古すぎる」


「……そんなに?」


「ああ」


 係長は筒を慎重に持ち直した。


 その瞬間、硝子の内側に残っていた光が、細く伸びた。


 今度は俺へ向かっていない。


 ティセラへも。


 光は、中央確認室から続く暗い通路の奥へ向かっていた。


「……何でそっち?」


 俺が呟く。


 エルセは床へ目を向けた。


 古い術式線が、一つずつ光り始めている。


「……施設が反応しています」


「何に?」


「記憶の保全記録に、だと思います。でも、こんな反応は見たことがありません」


 係長も床を見ていた。


 白紙を一枚取り出し、筒と通路の間へ掲げる。


 俺は一瞬、〈境界〉で止めるつもりなのだと思った。


 けれど、係長は紙に線を引かなかった。


「……係長?」


 呼びかける。


「下手に遮断すると、行き先を失った中身が散る」


 係長は静かに答えた。


 それから、筒の周囲へ浮かんだ古い文字を確かめる。


「これは、こっちが知ってる搬出の仕組みじゃないな」


「……保全院のものでは?」


 エルセが尋ねた。


「少なくとも、今の保全院の管理下にはない」


 係長の声は落ち着いていた。


 しかし、そこにはいつものような、すべてを分かっている人間の余裕がなかった。


 床の光が強くなる。


 黒い硝子筒が、彼の手の中でわずかに浮いた。


 係長が指を離すと、筒は落ちずにその場へ留まった。


 誰も触れていない。


 なのに、ゆっくりと通路の方へ動き始める。


「……止めなくていいんですか」


 俺が尋ねた。


「記憶を壊さずに止める方法が、今は分からない」


 係長はそう言って、筒から目を離さなかった。


「追うしかないな」


 その言葉と同時に、床へ古い文字が浮かび上がった。


『記憶』


 少し離れた位置へ、次の文字が現れる。


『名称』


 そして、その先に。


『帰属』


 三つの文字から伸びた光は、通路の奥へ続いていた。


 古い灯具が一つ点く。


 続いて、さらに奥の灯具にも明かりが入った。


 暗闇の向こうに、今まで見えていなかった道が浮かび上がっていく。


「……係長」


 俺は光の続く先を見た。


「これも、あなたの知っている施設なんですか」


 係長は、しばらく答えなかった。


 その沈黙が、妙に長く感じられた。


 俺はあの人のことを、何でも知っている人間だと思っていた。


 第七係の仕事なら大抵の答えを持っていて、答えられないことがあっても、少なくとも次に何を調べるべきかは分かっている。


 今も保全院副院長だと分かったばかりで、ますます手の届かない人間になった気がしていた。


 けれど、係長は筒の向こうに広がる暗闇を見つめたまま、首を振った。


「……いや」


 その声は、いつもより少し低かった。


「俺も知らない」


 俺は思わず、係長の横顔を見た。


 嘘をついているようには思えなかった。


 リゼも、リオルも、ティセラも、そしてエルセも、誰もすぐには口を開かなかった。


 俺たちは今、互いに違うものを求めている。


 ティセラは自分の時間を取り戻したい。


 俺たちは、それを安全に返す方法を見つけたい。


 係長は、危険な情報が戻ることを止めようとしている。


 それぞれの考えは、まだ重なっていない。


 それでも、今は全員が同じ方向を見ていた。


 黒い硝子筒が、淡い光を引きながら奥へ進んでいく。


 その先には、水底街よりも古い何かが眠っているのかもしれなかった。


 俺はティセラを振り返った。


 彼女は手帳を胸へ抱えたまま、光の道を見つめている。


「……行けそう?」


 尋ねると、彼女は少しだけ考えた。


「分からない」


 いつものティセラなら、もう少し長い説明が返ってきたかもしれない。


 けれど今の彼女は、六年間を失ったままだ。


 だから俺も、簡単に大丈夫だとは言えなかった。


「……じゃあ、一緒に確かめよう」


 そう言うと、ティセラは俺を見た。


 少し困ったような顔をして、それから小さく頷く。


「そうね」


 俺はリゼとリオルの位置を確かめ、エルセの持つ灯りを見た。


 係長はすでに、進み始めた硝子筒から目を離さずにいる。


 俺たちも、少し遅れて歩き出した。


 ティセラが祖母へ書いた手紙を渡せたのか、俺はまだ知らない。


 けれど、あの人がいつか自分の六年間を取り戻した時、その続きを自分の言葉で話せるようになってほしかった。


 そのためにも、今はこの道を辿るしかなかった。

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