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王都の返却士 ~その落とし物、世界のものです~  作者: 紙森 灯
第三章 誰も覚えていない男

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第五十七話 尊敬


「六年で済んだか」


 暗い通路の向こうから聞こえた声に、俺は顔を上げた。


 聞き間違えるはずがなかった。少し低く、どこか眠そうで、急いでいる時にも半分ほど面倒くさそうに聞こえる声だ。


 王都にいる間、毎日のように聞いていた。


 最初の頃は、名前を呼ばれるたびに何か失敗したのではないかと身構えていたが、今では声を聞いただけで、仕事の相談なのか、昼飯に誘われるのか、だいたい見当がつくようになっていた。


 だから、その声が水底街の地下から聞こえたことを、すぐには理解できなかった。


 通路の奥で、靴音が響く。


 やがて灯りの届く場所へ、一人の男が現れた。


 黒い髪は少し伸びていて、制服の襟が片方だけ曲がっている。こんな古い施設へ来るなら、もう少し装備を整えてもよさそうなのに、上着も靴も王都で見慣れたままだった。


 俺たちの前で立ち止まった男は、部屋をひととおり見回した。


 倒れかけた椅子と開いたままの手帳に目を向け、それから肩を負傷したリオル、首元の封蝋を押さえるリゼ、六年間の記憶を失ったティセラへと順に視線を移した。


「……みんな揃ったんだな」


 男はいつもの声で言った。


「思ったより早かった」


「係長」


 気づけば、そう呼んでいた。


 第七係の係長は、俺を見て軽く顎を上げた。


「よお、セイン。ひどい顔だな」


「……何でここにいるんだよ」


「仕事だよ」


 あまりにも聞き慣れた返事だった。


 難しい依頼を抱えてどこかへ出かける時も、何日か第七係へ顔を出さなかった時も、詳しく尋ねれば大抵そう答えた。


 仕事。


 便利な言葉だと思う。


 少なくとも今までは、その一言で納得してきた。


「……ティセラに何が起きたか、知ってる?」


 俺が尋ねると、係長は彼女へ目を向けた。


「見れば分かる」


「そうじゃなくて」


 言いかけたところで、隣から小さな音がした。


 エルセが、一歩退いていた。


 いつも姿勢のいい人だが、今は背筋が強張っている。握った携帯灯の光が、わずかに揺れていた。


「……副院長」


 彼女が言った。


 聞き慣れない呼び方だった。


 係長がエルセを見る。


「ヴァンデルか。久しぶりだな」


「なぜ、副院長が直接こちらへ」


「それも仕事」


 エルセは笑わなかった。


「回収局には、この区画への出動命令が出ていません」


「今日は回収局の案件じゃない」


「では、編集局の?」


 係長は少しだけ目を細めた。


「察しがいいな」


 俺は、二人の顔を見比べた。


 エルセは保全院の回収係だ。


 係長は王立遺失物管理局第七係の責任者で、俺たちの上司だ。


 それは、ずっと知っている。


 なのに今、エルセは係長へ、まるで自分よりはるかに上の人間と話すような態度を取っている。


「……待って」


 声が少し掠れた。


「副院長って、何の?」


 答えは想像できた。


 それでも本人に聞きたかった。


 俺が見知った顔で、いつもの制服を着て立っている、この人の口から。


「保全院だよ」


 係長はあっさり答えた。


「保全院副院長。まあ、第七係の係長も本当だぞ。給料もちゃんと王国から出てる」


 いつもの、少しだけふざけた言い方だった。


 普段なら、そんなことを言っても笑うところじゃないだろ、と返したかもしれない。


 けれど、今は口が動かなかった。


     ◇


 俺が初めて係長に叱られたのは、入局して間もない頃だった。


 落とし物の持ち主を見つけたつもりで、〈返却〉を使った。


 ところが術はうまく働かず、俺は強い反動を受けて床へ座り込んでしまった。


 後で調べると、その品は持ち主のところから盗まれ、別の人間の手へ渡っていた。俺が返そうとしたのは、最後に持っていた人物だったのだ。


 正しい持ち主を確かめずに使ったせいだった。


 吐き気が治まらず、床にしゃがみ込んでいた俺の前へ、係長は水の入ったカップを置いた。


『間違えたことより、何で間違えたか覚えとけ。術ってのは、使った本人より賢くないからな』


 説教はそれだけだった。


 俺が飲み終わるまで近くの机で書類を読んでいて、帰り際には、明日も同じ時間に来いと言った。


 別の日には、拾得物の処理が終わらず夜まで残っていた俺の机へ勝手に茶を置き、『仕事が遅いのは真面目とは言わない』と追い出されたこともある。


 最初は、変な上司だと思っていた。


 けれど、あの人は難しい案件ほど自分から動いたし、俺たちが失敗しても、どうしてそうなったのかを一緒に考えてくれた。


 危険なものを扱う時には、口で止めるだけでなく、本当に危ない場所へ自分が先に立つこともあった。


 俺はその仕事の仕方が好きだった。


 自分が四十歳を過ぎてもこの仕事を続けていたら、こういう大人になれたらいいと思ったことさえある。


 本人には一度も言わなかった。


 言えば面倒くさそうな顔をするだろうし、俺だって照れくさい。


 でも、尊敬していた。


 思っていた以上に、ずっと。


 その係長が、今は俺たちの前で保全院副院長を名乗っている。


「……係長」


「何だ」


「ティセラの記憶がなくなったこと、知ってるんだよね」


「ああ」


「誰がやったの」


「こちらだ」


 係長は迷わず答えた。


 俺は一度、その言葉を頭の中で繰り返した。


 こちら。


 つまり、保全院。


「……命令したのは?」


「俺だ」


 今度こそ、何も言えなくなった。


 隣でティセラが息を呑む。


 今の彼女は、この男を知らない。自分が知らない間に六年間が過ぎたことを聞かされ、その六年間を奪うよう命じた人物が目の前に現れたのだ。


 怖いだろう。


 怒っていてもおかしくない。


 なのに俺は、まず係長の顔を見ていた。


 いつもの表情のどこかに、冗談だと言い出す気配がないか探していた。


「……返してよ」


 俺が言う。


 係長は首を振った。


「それはできない」


「どうして」


「必要だから取った」


 言葉の意味は分かった。


 ただ、納得するための何かが、一つも見つからなかった。


 俺は一度、息を吸った。


「……では、質問を変えます」


 自分の声が、少し遠くから聞こえるようだった。


 係長が眉を上げる。


「急に敬語か」


「最初に、使わなくていいって言われましたから」


 入局した日、確かにそう言われた。


『第七係でいちいち敬語を使ってたら仕事が遅くなる。報告書だけ丁寧に書け』


 それ以来、俺はかなり年上の係長に対しても、ほとんど普段の言葉で話してきた。


 ほかの部署の職員から変な顔をされたこともあったけれど、係長本人が気にしなかったから、俺も気にしなかった。


 今まで、それが嬉しかった。


 上司と部下ではあっても、必要以上に距離を置かずに話せることが。


「でも、今は違います」


 俺は係長を見た。


「俺が話しているのは、第七係の係長じゃないんでしょう」


「……そうか」


「保全院副院長なら、俺もそれなりの話し方をします」


 係長はしばらく黙っていた。


 笑ってごまかすことも、怒ることもしなかった。


 やがて、短く頷く。


「分かった」


 その返事まで、いつもと同じだった。


 だから余計に、胸が痛んだ。


 敬語を使いたいわけじゃなかった。


 ただ、さっきまでと同じ距離に立っているのが、耐えられなかったのだと思う。


     ◇


「……ここへ来た目的は何ですか」


 俺が尋ねると、係長は中央の石台へ目を向けた。


「ローヴェンから回収した六年間の記憶と、ローディスの閲覧記録だ」


「……俺たちが見たことも、知ってるんですか」


「管理側へ通知が来た」


 俺は思わずエルセを見た。


 第五確認室で現れた、『管理権限へ通知』という文字。


 あれは、どこかで動いている古い装置が記録を保存するだけのものではなかった。


 少なくとも、係長には届いたのだ。


「……神の名前がなかったことも?」


 俺が聞くと、係長の目が一瞬だけ変わった。


「そこまで見たのか」


 今度は俺が頷いた。


「古い石壁の記録です。『神』の名称欄が、空白だった」


 係長は少し考えた。


「そうか」


「知っていたんですね」


「知っていることと、話せることは別だ」


 聞き慣れた言い方だった。


 昔なら、仕方がないかと思っていたかもしれない。


 でも、今日は違った。


「……その言葉で、今まで何回ごまかしてきたんですか」


「かなり」


 係長は隠しもしなかった。


 その正直ささえ、今は腹立たしい。


「……六年間も、必要だったんですか」


 俺はティセラを見た。


 彼女はまだ、手帳を胸へ抱えていた。


 自分が書いたはずの記録を、自分では理解できなくなっている。


「もっと短くできなかったんですか」


 係長はすぐに答えた。


「一部分だけを抜く方が危険だった」


「……どういう意味ですか」


「彼女は古式術と王家旧式封を調べていた。第四保全区の記録も、リゼの封も、お前の〈返却〉も、互いに関係づけて考え始めていたんだ」


 係長はティセラの手帳へ目を向けた。


「ある情報を隠そうとして、その情報だけを取り除けば済む状態じゃなかった。本人の経験や日常の記憶の中に、いくつもつながっていた」


 俺は、エルセが話してくれたことを思い出した。


 古い保全術式では、記憶を細かく切り分けるのが難しい。


 何か一つを取り出そうとすると、それと一緒にあった時間まで失われることがある。


「……それで、六年?」


「ああ」


「仕事をしていない日もあったでしょう」


「もちろん」


「ご飯を食べたり、買い物へ行ったり、誰かと喧嘩したりもしたでしょう」


「そうだな」


「……そういう時間まで?」


 係長は少しだけ間を置いた。


「付随していた」


 腹の奥が冷えた。


 付随。


 その一言で片づけられるのか。


 昨日、ティセラは祖母の話をしていた。


『今日帰ったら、おばあちゃんに聞いてみる』


 何でもない顔でそう言った。


 今の彼女には、六年間に何があったのか分からない。


 祖母に会っていたのか、手紙を書いていたのか、喧嘩をしたのか、仲直りしたのか。


 俺たちも知らない。


 その時間を、係長は付随していたものだと言った。


「……ティセラが生きていた六年間ですよ」


「分かってる」


「本当に?」


 係長は俺を見た。


「分かってるから、六年で済んだと言った」


 あの言葉の意味を、初めて考えた。


 もっと長い時間を奪う可能性もあった。


 あるいは、別のもっと深刻な処置をするつもりだったのかもしれない。


 どちらなのかは、まだ分からない。


 ただ、係長は六年間という結果を、何かと比べている。


 俺にとっては十分ひどいことなのに。


「……何と比べているんですか」


 俺が尋ねると、係長は答えなかった。


 それが、今の答えなのだろうと思った。


     ◇


 リゼが、一歩前へ出た。


「……ティセラさんの記憶を返してください」


 係長の視線が彼女へ移る。


 その目を見て、俺は違和感を覚えた。


 初めて会った相手を見る目ではない。


 見覚えのある人間が、予想外の姿で現れた時のような、奇妙な間があった。


「……リゼ、か」


 係長が呟いた。


「その名前、気に入ったのか」


 リゼの表情が止まる。


「……私を知っているんですか」


「知ってるよ」


「いつから?」


「君がリゼになる前から」


 彼女の手が、首元の赤い封蝋へ伸びた。


 俺も思わず係長を見た。


 名前を失う前のリゼを知っている。


 そんな人間に、こんな場所で出会うなんて思わなかった。


「……じゃあ、私の昔の名前も?」


 リゼが尋ねる。


「ああ」


「教えてください」


 彼女は迷わなかった。


 係長も、少しの間は黙っていた。


 だが、返事は短かった。


「今は教えない」


「どうしてですか」


「今の君には、返さない方がいい」


 俺は拳を握った。


 また、その言葉だ。


 本人が求めているものを、本人以外の誰かが返さない方がいいと決める。


 ティセラの記憶も、リゼの名前も。


「……誰にとって、よくないんですか」


 俺が尋ねる。


「君たちだけの問題じゃない」


「では、誰の問題ですか」


「世界の問題だよ」


 係長は、ためらいなく答えた。


 嘘をついているようには見えなかった。


 大げさな言葉で俺たちを脅したいわけでもないらしい。


 この人は本気で、世界のために必要な判断をしていると思っている。


 だからこそ、簡単に否定できなかった。


 俺は、係長が何も考えずに決めるような人ではないと知っている。


 今まで一緒に働いてきたからだ。


 けれど、それと同じくらい、目の前の二人が何を望んでいるのかも知っていた。


「……リゼ」


 係長が彼女の名を呼んだ。


 俺は反射的に口を開きかけたが、その前にリゼが答えた。


「はい」


 俺は隣を見た。


 彼女は背筋を伸ばして、係長の方へ向いている。


「その名前は、私が決めました」


「そうか」


「昔の私が何という名前だったのか、知りたいです。でも、今の名前も気に入っています」


 係長は黙って聞いていた。


 リゼは一度だけ封蝋へ触れ、それから手を下ろした。


「……昔の私は、どんな人だったんですか」


 予想していなかった質問だった。


 俺もリオルも、少しだけ彼女を見る。


 係長はすぐには答えなかった。


「今の君なら、嫌うかもしれないな」


「誰をですか」


「セインを」


 思わず息を呑んだ。


 リゼは係長を見つめたまま、動かない。


「……どうして?」


「昔の君は、世界には正しい名前と帰属があると信じていた。本人がどう思うかよりも、それを守ることの方が大切だと考えていたんだ」


 俺はリゼを見た。


 彼女の昔を、俺は知らない。


 係長の話が本当なのか、どこまで本当なのかも分からない。


 今までの彼女を見ていると、そんなことを考えていた人間だとは思えなかった。


 でも、昔のリゼを知らない俺が、違うと言い切ることもできない。


「……本当なんですか」


 リゼが尋ねた。


「俺が知っている君は、そうだった」


 係長の返事に、彼女は少しだけ目を伏せた。


 そして、ゆっくり顔を上げる。


「……私は、分かりません」


 その声には、さっきまでとは違う強さがあった。


「あなたが本当のことを言っているのかも、昔の私が本当にそうだったのかも、今は確かめられないです」


「ああ」


「でも、今の私は違います」


 リゼは俺の隣へ戻ってきた。


「セインが全部正しいと思っているわけじゃありません。すぐに無茶をするし、道もよく間違えるし」


「……今そこまで言う?」


 思わず口を挟む。


 リゼは少しだけ笑った。


「でも、私はこの人と一緒に考えたいんです」


 係長をまっすぐ見た。


「昔の私がどういう人だったかを知っても、その気持ちは私が決めます。それじゃ駄目ですか」


 係長は、しばらく彼女を見つめていた。


 そして、小さく息を吐く。


「……だから、困るんだよ」


 悲しそうにも、困ったようにも聞こえた。


 その理由を、俺はまだ知らなかった。


     ◇


「副院長」


 エルセが前へ出た。


 声は落ち着いていたが、握った認証札には力が入っている。


「ローヴェン研究員から回収した記憶は、どこに保管されていますか」


「ヴァンデル。今日はお前の案件じゃないと言っただろ」


「だからこそ、確認しています。別の系統で回収したなら、引き渡し記録が必要です」


「編集局の権限だ」


「本人の同意は?」


「取っていない」


 エルセの表情が固くなった。


「……では、私は退けません」


「そうか」


 係長は面倒そうに頭をかいた。


「いい回収係になったな」


「褒めても退きません」


「知ってる」


 そのやり取りを聞いて、俺は少しだけ驚いた。


 エルセは保全院の人間だ。


 目の前にいるのは、その副院長。


 逆らえば、仕事を失うことだってあるかもしれない。


 それでも彼女は、ティセラの隣へ立っている。


 昨日の第五確認室で、保全院の中にいる理由を話してくれた。


 誰かが勝手に決めることを、少なくとも自分の目が届く範囲では見過ごしたくない、と。


 あの言葉は、本当だったのだと思った。


「……エルセ」


 俺が呼ぶと、彼女はこちらを見ずに答えた。


「今は、こっちを見ていないでください」


「……何で?」


「前の人が動きます」


 その瞬間、係長の右手が上がった。


 指先に、小さな白紙が一枚挟まれている。


 俺はその紙に見覚えがあった。


 第七係で何度も見た、王家用の白い紙。


 係長が特別な案件を扱う時に使っていたもので、俺は昔の部署から持ってきた専用の書類くらいに思っていた。


 係長は紙を壁へ貼った。


 そして、指で一本の縦線を引く。


「下がって!」


 エルセの声が響いた。


 俺は反射的に一歩退いた。


 リオルも、リゼとティセラを後ろへ下げる。


「〈境界〉です!」


 エルセが叫んだ。


「線を越えないで!」


 俺は係長と壁の間を見た。


 何もない。


 ただ、白い紙に一本の線が引かれているだけだった。


「……何が起きる?」


 リオルが尋ねる。


「分けられた側から向こうへ進めなくなります!」


 係長が、少し笑った。


「よく覚えてるな、ヴァンデル」


「褒めている場合ですか!」


「説明は大事だろ」


 いつもの口調だった。


 それが、ひどく不気味に聞こえた。


     ◇


 リオルが剣を抜いた。


 肩と足に怪我をしているが、構えは安定している。


 この数日で何度も見てきた姿だった。


 相手がどんな術を使うか分からない時、リオルはまず間合いを確かめる。むやみに斬りかからず、剣先を使って相手の動ける範囲を調べるのだ。


 今も同じだった。


 低い位置から剣を出し、係長の前にある何もない空間へ、刃の平らな部分を近づける。


 かつん、と硬い音がした。


 剣が止まった。


 壁に当たったわけでもないのに、それ以上進まない。


「……なるほど」


 リオルが呟く。


 彼は剣を引き、少し角度を変えてもう一度試した。


 やはり、同じ位置で止まる。


 横へ回ろうとした時には、係長が別の白紙を取り出していた。


「無理に越えるなよ」


 係長が言う。


「怪我を増やす必要はないだろ」


「じゃあ、紙を外してくれ」


 リオルが答えた。


「それはできない」


「だろうな」


 次の動きは速かった。


 リオルは剣を引いたまま、一歩右へ踏み込む。


 係長の視線が動く。


 しかし、リオルが本当に進んだのは左側だった。


 足元の石柱を利用して身体を回し、境界の端へ向かう。


 相手の術の範囲を探り、まだ線が引かれていない場所へ入ろうとしていた。


 俺には、それがいい判断に見えた。


 係長も同じことを思ったらしい。


「速くなったな」


 言いながら、白紙を床へ滑らせた。


 リオルが踏み込もうとした場所に、新しい線が生まれる。


 リオルは即座に足を止めた。


 前へ出せば、身体が境界へぶつかる。


 そう分かった時には、もう剣を引き戻していた。


「……よく知ってるな」


 リオルが言う。


「何を?」


「俺の動き」


 係長は少し首を傾げた。


「セインの近くにいる人間は、一通り見てるからな」


 背中が冷たくなった。


 リオルは俺の幼なじみだ。


 第七係の職員ではない。


 それでも係長は、リオルがどんな動きをするか知っているらしい。


「剣を失った時も、右から入る癖がある」


 係長が続けた。


 リオルの表情が変わる。


「……そこまで?」


「一緒に仕事をした時、何回か見たよ」


 俺も思い出した。


 第七係にリオルが協力してくれたことは何度もある。


 そのたび係長は、必要な指示だけ出して、ほとんど口を挟まなかった。


 よく見てくれている人だと思っていた。


 今は、その記憶が別の意味を持ち始めている。


 リオルは小さく息を吐き、構えを変えた。


「……じゃあ、知ってる動きはやめる」


 そう言って、今度はあえて足を止めた。


 係長も動かない。


 俺は、その隙にエルセを見た。


「……紙がなければ、術は使えない?」


「少なくとも、今見えている〈境界〉は紙が起点です」


「じゃあ、紙を止めれば」


「線が完成する前なら、少し時間を作れるかもしれません」


 エルセは頷いた。


「ただ、三秒だけです」


「……分かってる」


 係長の方を見る。


 彼は俺たちが話していることに気づいているはずだった。


 それなのに止めようとしない。


 余裕があるのか。


 それとも、止める必要がないと思っているのか。


 俺には分からなかった。


     ◇


「……一つ、試す」


 俺が小声で言うと、エルセが頷いた。


 リオルもこちらを見た。


 言葉にする必要はなかった。


 俺たちは、動く順番だけ確かめた。


 まずリオルが左へ回る。


 係長が紙を出したら、エルセが止める。


 その三秒で、俺が内側へ入る。


 単純な作戦だ。


 けれど、相手が係長なら、複雑にしても見抜かれる気がした。


 リオルが動いた。


 負傷した足をかばいながらも、歩幅は乱れていない。


 係長が視線を向け、白紙を一枚取り出す。


「〈保留〉!」


 エルセが手を上げた。


 飛び出した紙が、空中で止まる。


「三秒です!」


 俺は走った。


 白紙の手前を抜け、まだ境界が完成していない隙間へ入る。


 係長までの距離が一気に縮まった。


 届く。


 そう思った。


 拳を握る。


 殴りたいと思った。


 腹が立っていたし、どうしてこんなことをしたのか、目の前で問い詰めたかった。


 けれど、その拳を振り上げた瞬間、係長が俺を見た。


「左肩」


「……え?」


 何のことか分からなかった。


 次の瞬間、身体が止まった。


 左肩が、何もない場所へ押し当てられている。


 いや、違う。


 制服の肩口に、小さな白紙が貼りついていた。


 そこに引かれた線の向こうへ、身体が進めなくなっている。


「……いつ」


「今、横を抜けた時」


 係長は落ち着いて答えた。


 エルセの〈保留〉で止まった紙を避け、俺が係長へ近づいた瞬間。


 俺は係長の右手しか見ていなかった。


 別の紙が左肩へ触れたことに、まったく気づかなかったのだ。


「お前は誰かを守ろうとすると、左側の確認が雑になる」


 係長が言った。


「何回も見た」


 心臓が強く動いた。


 知っていた。


 俺の癖を、この人は知っていた。


 それは今まで、嬉しいことだった。


 俺の仕事を見てくれている。


 失敗を覚えていて、次に同じ間違いをしないよう教えてくれる。


 そう思っていた。


「……ちゃんと見てたんですね」


 気づけば、そんなことを言っていた。


「ああ」


 係長が答える。


「もっと別の時に知りたかったです」


「……俺もだよ」


 その返事が本心なのかは分からない。


 ただ、今までと同じ声だった。


 係長が俺の胸元を軽く押した。


 強い力ではない。


 けれど、身体が押し戻される先にも境界があった。


 急に逃げ場を失った俺は、足を滑らせて後ろへ倒れた。


「セイン!」


 リゼの声がした。


 床へ打ちつけられる直前、リオルが背中を支えてくれた。


「……大丈夫か」


「……ちょっと痛い」


「なら、まだ喋れるな」


 俺は頷いた。


 リオルの肩には、また血が滲み始めている。


 それでも彼は、俺を支えた手を離さなかった。


 係長は追ってこない。


 俺たちが何をするか見届けるように、同じ場所へ立っていた。


 リオルの剣も、エルセの三秒も、俺の不意打ちも通じなかった。


 全員が、それなりに考えて動いている。


 それなのに、一歩も状況を変えられていない。


 そして何より恐ろしかったのは、係長が一度も急いでいないことだった。


     ◇


「……リゼ」


 係長が呼んだ。


 彼女は自分で一歩前へ出た。


「はい」


 セイン、と呼ばれて代わりに返事をする必要もない。


 彼女は彼女自身の言葉で、この男と話すつもりなのだろう。


「昔の私のことを知っているなら、一つだけ教えてください」


「何だ」


「その人は、自分の名前を失ってもよかったんですか」


 係長の表情が、少しだけ変わった。


「……どういう意味だ」


「さっき、昔の私は正しい名前と帰属を大切にしていたと言いましたよね」


「ああ」


「だったら、名前をなくすことは怖かったんじゃないかと思って」


 リゼは静かに言った。


「今の私は、なくなったものの全部を返してほしいわけじゃありません。でも、何をなくしたのかくらい、自分で知りたいです」


 係長は答えなかった。


 リゼはそこで、無理に質問を重ねなかった。


 代わりに俺たちの方へ戻る。


 その途中、係長が小さく言った。


「君は変わったな」


「……そうかもしれません」


「昔なら、そういう聞き方はしなかった」


 リゼは少し考えた。


「だったら、これからも変わると思います」


 その答えに、係長は目を細めた。


 何かを言いかけたようだったが、結局口を閉じた。


 俺はその横顔を見ていた。


 昔のリゼに、いったい何があったのだろう。


 係長は彼女のことを、どこまで知っているのだろう。


 聞きたいことは増えるばかりだった。


 けれど、その疑問へ答えてもらうには、まず目の前の問題を片づけなければならない。


     ◇


「……副院長」


 今度はティセラが声をかけた。


 係長が彼女を見る。


「何だ」


「あなたが、私の記憶を取るよう命令したんですね」


「ああ」


「私たちは、初めて会ったことになりますか」


 思いがけない質問だった。


 係長は少し考えた。


「君にとっては、そうだろうな」


「あなたにとっては?」


「初めてじゃない」


 ティセラは手帳を見下ろした。


「……そうですか」


 彼女は眼鏡を押し上げた。


 さっきまでの怯えた様子は、少し薄れていた。


 代わりに、何かの調査結果を確かめようとする時の表情になっている。


「では、六年間の私が何を調べていたのかも、知っているんですね」


「ある程度は」


「私の手帳だけでは分からないことも?」


「ある」


「……それなのに、返さないんですか」


「今はな」


 ティセラは顔を上げた。


「私の記憶ですよね」


「そうだ」


「ほかの誰かのものではなくて?」


「ああ」


「なら、返してください」


 係長は首を振った。


「できない」


「どうしてですか」


「返せば、危険な情報まで一緒に戻る」


「それを判断したのは誰ですか」


「俺たちだ」


「……私ではないんですね」


 係長は黙った。


 ティセラは手帳を閉じ、胸の前へ抱えた。


「私は、六年間に何をしていたのか知りません。誰と会って、何を研究して、どんな失敗をしたのかも」


 声は少し震えていた。


 それでも、言葉を止めなかった。


「あなたが危険だと言っているものが、本当に危険なのかも分かりません。でも、私が自分で生きた時間なんですよね」


「ああ」


「だったら、返してほしいです」


 係長は目を伏せた。


「……それでも、今は返さない」


 ティセラの指に力が入った。


 それを見て、俺は一歩前へ出た。


 手帳を握る彼女の手が、少し白くなっている。


 昨日は、こんなことになるなんて思っていなかった。


 ティセラは俺たちを知らないけれど、何があったのか自分で調べようとしていた。


 リゼは、そんな彼女の隣へ座っていた。


 リオルは怪我をしながらも、全員を助けようとしていた。


 エルセは、自分の上司にあたる人物へ逆らってまで、ここに立っている。


 俺だけが、まだ係長に何か期待していたのかもしれない。


 この人なら、どこかで納得できる答えをくれるはずだと。


 でも、今の答えはもう聞いた。


「……係長」


 呼びかけると、彼は俺を見た。


「何だ」


「あなたのこと、まだ尊敬してます」


 口にしてから、自分でも少し驚いた。


 全員がこちらを見る。


 係長も。


「……変ですけど」


「そうだな」


 係長が小さく答える。


「でも、あなたに助けてもらったことまで、なかったことにはできません」


 俺は続けた。


「〈返却〉の使い方で失敗した時も、仕事が終わらなくて困っていた時も、ちゃんと見てくれていました」


「ああ」


「……褒められるの、結構好きだったんで」


 係長は、何か言いかけた。


 俺は首を振った。


「今は、褒めないでください」


 少し間があった。


「……分かった」


 その返事を聞いて、胸が痛んだ。


 この人を尊敬していた事実は、変わらない。


 ただ、それは今の判断へ従う理由にはならなかった。


 俺はティセラの隣へ立った。


「本人が返してほしいって言ってます」


「だから?」


「返してもらいます」


 係長はしばらく俺を見ていた。


 それから、少しだけ笑う。


「そう言うと思ったよ」


 知っている笑い方だった。


 難しい拾得物の持ち主をちゃんと見つけた時や、俺が予想より早く答えへ辿り着いた時、係長はたまにそんな顔をした。


 その笑顔を向けられるのが、今も少し嬉しい。


 だから、悔しかった。


     ◇


 係長が部屋の中央へ歩き出した。


 俺たちも動いた。


 彼が向かっているのは、古い収納部のある石台だ。


 おそらく、そこにティセラの記憶が保管されている。


 正面からは近づけない。


 リオルは剣の届く距離を探し、エルセは係長の指先を見ている。


 俺はティセラとリゼを石台から離れた位置に残し、二人の少し後ろへ回った。


 リオルが右側へ移る。


 係長の手元で白紙が動いた。


 エルセがすぐに反応する。


「〈保留〉!」


 飛び出した紙が、宙で止まった。


 三秒。


 それは、今まで何度も俺たちを助けてくれた時間だった。


 だが、係長は止まった紙を見もしなかった。


 もう一枚を床へ置き、別の線を引く。


 リオルが踏み込もうとした場所に、境界が生まれた。


「……こっちもか!」


 リオルが舌打ちする。


 係長は気軽に答えた。


「紙は一枚しか使っちゃいけない決まりじゃないからな」


「何枚持ってるんですか!」


 エルセが叫ぶ。


「数えてない」


「管理してください!」


「備品なんだけどな」


「余計にです!」


 こんな状況なのに、少しだけ第七係の事務室を思い出した。


 あの人は昔から、必要な書類をどこに入れているのか分からなくなることがあった。


 そのたび、俺やネイが探す羽目になっていた。


 今は、その紙が俺たちの行く手を塞いでいる。


 リオルは正面を諦めた。


 左側の壁には、点検用の細い足場が残っている。


 彼はそこへ足をかけ、手すりをつかむと、〈均衡〉で身体を安定させながら一段上へ移った。


 床の境界が越えられないなら、高い位置から回り込むつもりらしい。


 いい判断だと思った。


 負傷した足であれだけ素早く姿勢を変えられるのも、リオルだからだ。


「……上!」


 俺が叫ぶ。


 リオルは足場を蹴り、係長の斜め後方へ跳んだ。


 その瞬間、係長が天井を見た。


「いい判断だ」


 白い紙が、一枚だけ梁の陰に貼られている。


 いつの間に貼ったのか、分からなかった。


 リオルは空中で身体をひねった。


 それでも、勢いを完全には消せない。


 目の前にあった見えない境界へ肩が触れ、身体が横へ弾かれる。


「……っ!」


 彼は壁へ手をつき、どうにか足場へ着地した。


 しかし、すでに痛めていた右肩へ、もう一度負担がかかったらしい。


 顔が歪んだ。


「……リオル!」


 俺が声を上げる。


「平気!」


 返事は早かった。


 平気なはずがない。


 それでも、リオルは立っていた。


 係長は追撃しなかった。


 剣を抜いている相手へ背中を向け、中央の石台へ歩いていく。


 こちらが何かしようとすれば、また止められる。


 その気配だけが、ひどくはっきりしていた。


「……本当に、俺たちを倒す気はないんですね」


 俺が言うと、係長は振り返らずに答えた。


「ないよ」


「じゃあ、止まってください」


「それはできない」


 言い終わる頃には、もう石台へ手を伸ばしていた。


 古い収納部が開く。


 中から、黒い硝子の筒が現れた。


     ◇


 細長い筒だった。


 手のひらに収まるほどの大きさで、表面には古い封印の線が刻まれている。


 中には薄い煙のようなものが見えた。


 それが何なのか、俺には分からなかった。


 けれど、係長がそれを持ち上げた瞬間、ティセラが小さく息を呑んだ。


「……何ですか、それ」


 係長は彼女を見た。


 答えない。


 俺は、筒の表面へ目を向けた。


 金属の細い縁には、古い管理番号と、人の名前が刻まれている。


『ティセラ・ローヴェン』


 その下には、保全された期間を示す文字があった。


『六年』


 自分の名前を見つけたティセラが、ゆっくり立ち上がる。


「……それ、私の?」


 係長が頷いた。


「ああ」


 俺は筒を見た。


 六年間の記憶。


 その中にはきっと、仕事をした日も、失敗した日も、誰かと笑った時間も入っている。


 何でもないと思って過ごした一日だって、数えきれないほどあったはずだ。


 祖母へ会いに行こうと思った日も、あるのかもしれない。


 それが今、係長の片手に収まっている。


「……渡してください」


 俺が言った。


「できない」


 係長が答える。


「……その中身は、ティセラのものですよね」


「ああ」


「封を解いたら、戻る可能性は?」


「ある。ただし、安全とは限らない」


 係長は筒を持ったまま、俺を見た。


「セイン。そこから先は、勝手に判断するな」


 いつもの注意の仕方だった。


 俺は何度も、その声に止められてきた。


 でも、今回は違った。


 筒は物として存在している。


 中身が失われたわけでもない。


 そして、そこに刻まれた名前は、はっきり読める。


 ティセラ・ローヴェン。


 もちろん、俺が今まで返してきた靴や道具とは違う。


 記憶そのものを返せるのかどうか、分からない。


 〈返却〉の仕組みは、自分でもまだ全部理解していない。


 だから、試せば何かが起きると保証できるわけではなかった。


 それでも。


 何も考えずに使うのと、分からないことを分かった上で確かめようとするのは、違うと思った。


「……ティセラ」


 俺が呼ぶと、彼女はこちらを見た。


「何?」


「返してほしい?」


 ティセラは筒を見た。


 少し迷っている。


 それは当然だった。


 自分が何を失ったのか、彼女は知らない。


 何を思い出すのかも、思い出した時にどう感じるのかも。


 それでも、長い間見つめていた後、彼女は頷いた。


「……返して」


 声は小さかった。


 でも、確かに聞こえた。


「私が生きていた時間なら、自分で知りたい」


 俺は頷いた。


 その言葉だけは、聞き間違えようがなかった。


     ◇


「……セイン」


 係長の声が変わった。


 さっきまでより低く、はっきりしている。


「やめろ」


 俺は係長を見た。


「……理由を教えてください」


「返した先で、何が起きるか分からない」


「あなたにも?」


 少し間があった。


「……ああ」


 その答えに驚いた。


 係長は、何でも知っているように見えていた。


 保全院の副院長で、この古い施設のことも、ティセラの六年間のことも、リゼの昔の名前も知っている。


 そんな人が、分からないと言った。


「……だったら、なおさらです」


 俺は答えた。


「何が起きるか分からないからって、本人の時間をこのまま持っていくんですか」


「そういう判断が必要な時もある」


「あると思います」


 自分でも意外なほど、すぐに返事が出た。


 係長の眉が、ほんの少し動いた。


「俺も、何でも返せばいいとは思っていません。でも、本人が返してほしいと言っているのに、何も確かめず持っていくのは違います」


 係長は口を閉じた。


 俺は左手を上げる。


 その瞬間、係長が動いた。


 さっきまでとは違う。


 俺を止めるために、自分から距離を詰めてきた。


 白紙が一枚、空中へ放たれる。


「〈保留〉!」


 エルセが叫んだ。


 紙が止まる。


 係長のもう片方の手が動き、別の紙が床へ向かった。


 リオルが足場から飛び降り、その紙を剣の腹で弾いた。


「……今だ!」


 リオルの声。


 リゼも動いた。


 俺の進路を塞ぐように伸びかけていた別の境界線を見つけ、すぐに叫ぶ。


「セイン、左です!」


 俺は一歩だけ位置を変えた。


 白い紙の端が、すぐ横の石床へ触れる。


 その場所にはもう進めない。


 けれど、黒い硝子筒は見えている。


 係長の手の中にある。


 俺はその筒へ意識を向けた。


 返したいのは硝子ではない。


 中に保全された、ティセラの六年間だ。


 そんな使い方ができるとは、これまで考えたこともなかった。


 でも、思い出した。


 係長に教わったこと。


 間違えたら、どうして間違えたのか覚えておけ。


 術は、使う本人より賢くない。


 だったら、今の自分が知っていることを、きちんと確かめるしかない。


 失われた時間は、あの筒の中に保管されている。


 誰のものだったのかも分かっている。


 そして、本人は返してほしいと言った。


「……〈返却〉」


 左手の先へ、白い光が集まった。


 係長が俺を見る。


 その表情が、初めて大きく変わった。


「セイン!」


 強い声だった。


 俺は手を下ろさなかった。


 目の前に、白い紙が現れる。


 見慣れた返却票に似ていた。


 けれど、そこへ浮かび上がった文字は、今まで見たことのないものだった。


『返却対象:記憶』


 息が止まる。


 次の行が現れる。


『記憶期間:六年』


 そして、最後に。


『帰属先:ティセラ・ローヴェン』


 俺は文字を見つめた。


 間違っていない。


 ただ、これが何を意味するのかまでは、まだ分からなかった。


 係長の顔から、いつもの余裕が消えている。


「それはまだ返すな、セイン」


 今まで聞いたことのないほど、真剣な声だった。


 昔の俺なら、その一言で止まっていたと思う。


 係長がここまで強く言うなら、きっと理由があるはずだと考えただろう。


 今だって、理由がないとは思っていない。


 この人は馬鹿じゃない。


 残酷なことを楽しんでいる人でもない。


 それは、今まで一緒に働いてきた俺が知っている。


 でも。


 ティセラは、自分で言った。


 返して、と。


「……すみません」


 俺は敬語のまま答えた。


 係長をまっすぐ見る。


「今回は、あなたより本人を信じます」


 白い返却票が、強く光った。

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