第五十六話 今日帰ったら
第五確認室を出ると、廊下の奥に新しい灯りが点いていた。
さっきまで暗かった壁の一部が開き、人が一人通れるほどの作業通路が現れている。石管が幾重にも走る狭い道で、奥からは水の流れる音が聞こえてきた。
エルセは入口に刻まれた文字を確かめ、携帯灯を向けた。
「中央区画へ続く通路です。少なくとも、途中までは」
「じゃあ、リゼたちのいる方へ行ける?」
「可能性はあります。ただし、区画の移動先までは分かりません」
「……分かった」
そう答えた時には、もう足が動いていた。
ローディスの記憶を見たことで、知りたいことは山ほど増えた。
神の名称欄が空白だった理由も、四十四号の男が最後に何をしようとしていたのかも分からない。おまけに俺たちが記録を閲覧したことは、どこかの管理権限へ通知されてしまった。
それでも、今の俺にはもっと気になることがあった。
リゼたちは無事だろうか。
ティセラは、ちゃんと一人で動けているだろうか。
壁の向こうへ消えた時の三人の姿が、何度も頭へ浮かんでくる。
「……セイン」
後ろからエルセに呼ばれた。
「何?」
「そちらではありません」
振り返ると、彼女は少し手前の分岐を指していた。
「……こっち?」
「ええ。今の道は、第五確認室へ戻ります」
「……本当?」
「入口にそう書いてあります」
俺は壁の文字を見た。
確かに、見覚えのある数字が刻まれている。
「……教えてくれればよかったのに」
「今、教えました」
「もう少し早く」
「歩くのが速いんです」
エルセは呆れた顔をして、俺の横を通り過ぎた。
「しばらく私が先を歩きます」
「方向くらい分かるって」
「たった今、間違えましたよね」
「……一回だけだろ」
「一回で済ませましょう」
反論できずに後を追う。
エルセは足元と壁の記号を交互に確かめながら進んでいった。回収係として古い施設の扱いを習っているとはいえ、実際に来るのは初めてだと言っていた。
それでも、分からない場所では立ち止まり、確かめてから歩き出す。
俺はさっきの廊下で、自分がどれほど急いでいたかを思い知らされた。
「……悪かった」
俺が言うと、エルセは少し振り返った。
「何がです?」
「道を見ずに歩いたこと」
「それなら、次から気をつけてください」
「うん」
彼女は前へ向き直り、少ししてから付け加えた。
「急ぎたい理由は、分かっていますから」
その声がいつもより柔らかく聞こえた。
俺は返事をせず、彼女の後ろを歩いた。
◇
しばらく進んだところで、遠くから誰かの声が聞こえた。
最初は、石管を流れる水の音かと思った。けれど、もう一度聞こえた時には、人が何かを叫んでいるのだと分かった。
「……イン!」
俺は足を止めた。
声がしたのは、右側の壁の向こうだった。
「……リゼ?」
エルセも立ち止まり、携帯灯を上げる。
壁には細い隙間があった。向こう側に別の通路があるらしく、淡い灯りがわずかに漏れている。
「セイン!」
今度は、はっきり聞こえた。
「リゼ!」
思わず大声で返す。
「聞こえる!?」
「聞こえます!」
その声を聞いた途端、胸の奥に詰まっていたものが少しだけほどけた。
「怪我はない!?」
「私は大丈夫です!」
「リオルは?」
一拍、返事が遅れた。
「……生きてます!」
「その答え、嫌なんだけど!」
「俺も聞こえてるぞ!」
少し遠くから、リオルの声が飛んできた。
「生きてるなら自分で返事しろよ!」
「こっちが何か言う前に、お前ら二人で喋り始めただろ!」
いつもの調子だった。
ただ、声の端に少し苦しそうな響きがある。
「……リオル、怪我した?」
「ちょっとな」
「ちょっとって?」
「会ってから見せる!」
絶対に、ちょっとでは済んでいない気がした。
俺がもう一度問いただそうとすると、エルセが肩を叩いた。
「先に合流しましょう。こちらの隔壁は、完全には閉じていません」
彼女は壁の隙間へ灯りを向け、下部に刻まれた横線を確かめていた。
「向こう側にも操作部があるはずです。リオルさん、聞こえますか?」
「聞こえる!」
「壁の下に、三本の横線がありませんか?」
向こうで何かを動かす音がした。
「……ある!」
「一番上だけ押してください。ほかには触らないで」
「分かった。こっちから押すんだな?」
「はい。こちらでも開放操作を行います」
エルセは認証札を取り出し、壁の継ぎ目にある小さな金属板へ当てた。
淡い光が走る。
向こう側から、リオルの声が聞こえた。
「押したぞ!」
「そのまま保持してください!」
壁の奥で、重い金具が外れる音がした。
隙間がゆっくり広がっていく。
古い石の隔壁が、左右へ滑り始めた。
最初に見えたのは、月白色の髪だった。
細い隙間の向こうから、リゼがこちらを覗いている。
「……セイン」
「リゼ」
彼女は少し汚れていた。
上着の袖には石の粉がつき、髪も普段より乱れている。
でも、ちゃんと立っていた。
首元の赤い封蝋も、いつもの位置にある。
「……よかった」
自分でも驚くほど、自然に声が出た。
リゼは一瞬だけ目を丸くした。
それから、少し笑う。
「私もです」
隔壁が人の通れる幅まで開くと、彼女がこちらへ歩いてきた。
俺は何か言おうとしたが、言葉が出てこなかった。
そのまま立っていると、リゼが俺の袖を軽く引いた。
「……心配しました?」
「したよ」
「どのくらい?」
「かなり」
「そうですか」
彼女は少し嬉しそうに頷いた。
「私も、かなり心配しました」
その言い方があまりにも普段どおりだったので、俺はようやく笑えた。
「……お互いさまだな」
「はい」
向こうから、リオルが出てきた。
その姿を見た瞬間、笑っている場合ではなくなった。
「……お前、何した?」
◇
リオルの右肩から、血が滲んでいた。
制服の脇も裂けている。左のこめかみには浅い傷があり、歩く時には右足をわずかにかばっていた。
「……ちょっと転んだ」
「どこで転んだら、そんなことになるんだよ」
「古い施設」
「場所を聞いてるんじゃない」
「……説明が難しいな」
リオルは困ったように笑った。
俺はすぐに肩の傷を確かめた。
上着が裂けているものの、出血はひどくない。ただ、無理に腕を動かせば傷が開きそうだった。
「……リゼ」
「三回です」
突然、彼女が答えた。
「何が?」
「リオルさん、三回も私を助けてくれました」
「……おい」
リオルが振り返る。
「それ、言わなくていいって」
「でも本当です」
「……三回?」
俺が尋ねると、リオルは露骨に嫌そうな顔をした。
「数えるなよ」
「お前、俺の無茶はいつも数えるだろ」
「……それはそうだけど」
リゼが指を折り始めた。
「一回目は、分離した通路で上から落ちてきた金具です。二回目は、床が急に傾いた時。三回目は……」
「三回目は俺の判断だろ」
リオルが遮った。
リゼは彼を見る。
「でも、私を助けようとして怪我をしたんですよね」
「そうだけど」
「なら、ちゃんと言わせてください」
リオルが黙った。
リゼは俺へ向き直った。
「最後は、床が崩れかけた時です。リオルさんが私を先に安全な場所へ押してくれて、自分が少し遅れたんです」
なるほど。
肩の傷も足の痛みも、その時についたのかもしれない。
「……で、お前は何をしてた?」
俺がリゼに尋ねると、彼女は胸を張った。
「リオルさんが落ちないように、近くの鎖を引っ張って支えてました」
「……一人で?」
「はい。少し重かったです」
リオルが苦笑した。
「少しどころじゃなかったと思うけどな。あれを引いてくれなかったら、俺も危なかった」
「じゃあ、私も一回助けてますね」
「……それ、数えるの?」
「数えます」
リゼは真剣だった。
俺は笑いそうになったが、何とかこらえた。
リオルが肩をすくめる。
「……じゃあ、お互い一回ずつ助けたことにするか」
「残りの二回は?」
「……お前、ほんとに数えるの好きだな」
リゼが笑った。
その笑顔を見て、俺も少し安心した。
ただ、肩の傷を放っておくわけにはいかない。
「……リオル、座って」
「歩けるぞ」
「歩けるのと、放っておいていいのは別だろ」
エルセが横から言った。
「セインの言うとおりです。まず傷を確認しましょう」
「……二人して厳しいな」
「俺だけじゃ信用ないからな」
「そんなことは言ってない」
「顔に書いてある」
リオルは観念したように壁際へ腰を下ろした。
俺たちは荷物から布と包帯を取り出し、傷を確かめた。エルセが応急処置を手伝い、足首も無理に動かさないように固定する。
リオルは途中で何度か文句を言ったが、最後にはおとなしくしていた。
その様子を見ていたリゼが、小さく笑う。
「セインが怪我した時と同じですね」
「……何が?」
「大丈夫って言いながら、全然大丈夫じゃないところです」
「俺はそんなことないだろ」
「あります」
リオルも頷いた。
「あるな」
「……二対一?」
俺が言うと、エルセまで口を開いた。
「三対一です」
「お前まで?」
「経験がありますので」
さっきまで、俺たちは互いの生死さえ確かめられなかった。
今は、こうして誰かの怪我について文句を言い合っている。
それがどれほどありがたいことか、少し遅れて実感した。
◇
「……ところで」
リオルが、肩に巻かれた包帯を見ながら言った。
「お前ら、何だか随分息が合うようになったな」
俺とエルセが同時に顔を上げた。
「……そう?」
「そうですか?」
「ほら、それ」
リオルが笑う。
「返事まで揃ってる」
「たまたまだろ」
「偶然です」
また重なった。
リゼが俺を見た。
「……怪しいですね」
「何が?」
「二人で何をしてたんですか?」
「調査だよ」
「それ以外には?」
「橋を渡ったり、襲われたり」
「……その間に、仲良くなったんですか?」
俺はエルセを見た。
彼女も俺を見ている。
「……なってない、よな?」
「そこで私に確認するんですか」
「だって」
「信用を一回ずつ増やしている途中ですから」
エルセは落ち着いて答えた。
リオルが眉を上げる。
「……何の話?」
「長くなる」
「聞きたいな」
「今は駄目」
「何で?」
俺は立ち上がった。
もう一人、探さなければならない人がいる。
「……ティセラは?」
その名前を出すと、三人の表情が変わった。
リゼが首を振る。
「まだ見つかっていません」
リオルも頷いた。
「分離した直後は声が聞こえてた。でも、途中で壁が動いて、それっきりだ」
「……どこへ行った?」
「下の方だと思う」
リオルが通路の奥を指す。
「こっちにも古い配線が続いてた。途中まで追ったんだけど、俺の足で無理に進むのは危ないと思って」
それは正しい判断だった。
ティセラを探しに行って、さらに誰かが動けなくなったら困る。
俺はエルセへ目を向けた。
「……中央区画へ行ける?」
「この作業通路なら、近くまで戻れるはずです」
「よし」
歩き出そうとしたところで、エルセに止められた。
「先頭は私です」
「……また?」
「あなたは先ほど、道を間違えています」
リゼの目が輝いた。
「間違えたんですか?」
「一回だけ」
「私を探しながら?」
「……そうだよ」
リゼが少し黙った。
それから、嬉しそうに笑う。
「じゃあ、今回は見なかったことにします」
「助かる」
「でも、次はちゃんと道を見てくださいね」
「はいはい」
「一回でいいです」
エルセが言った。
「……何が?」
「返事です。二回言うなら、二回とも守ってください」
リオルが笑った。
俺も、ようやく普通に笑えた。
エルセが灯りを持って先頭へ立つ。
その後ろに俺とリゼ、負傷したリオルが続いた。
四人分の足音が、狭い作業通路へ響き始める。
◇
ティセラの痕跡は、思っていたより早く見つかった。
通路の角に、一枚の紙が落ちていたのだ。
リゼが最初に気づいた。
「……これ」
しゃがんで拾い上げると、細かな文字がぎっしり書き込まれていた。
見覚えのある字だった。
「ティセラのだ」
俺が言うと、リオルも覗き込んだ。
「……間違いないな」
紙には、施設内の通路と古い術式の線が描かれている。
端には、小さな字でこう書かれていた。
『分離後も基幹線は中央へ接続』
その下には、途中まで描かれた地図があった。
「……一人になっても、調べてたんだな」
俺が呟いた。
ティセラなら、そうするだろう。
怖がらないわけではない。
ただ、怖い時ほど仕組みを理解しようとする人だった。
初めて青鐘通りへ入った時も、地下の機械が動き始めた時も、あの人は手帳を開いていた。
そして、俺が勝手に何かへ触れようとするたび、必ず怒った。
「……これ、道標かもしれませんね」
リゼが言った。
「自分が通った道を残したかったのかな」
「それもあると思います」
エルセは紙を受け取り、描かれた線と壁の配管を見比べている。
「……中央確認室へ続いています」
「近い?」
「ここからなら、そう遠くありません」
彼女が顔を上げた。
「ただし、この先は水位が少し変わっています。足元に気をつけてください」
「……分かった」
リオルが頷く。
俺は紙を丁寧に折り、手帳へ挟んだ。
ティセラが置いていったものだ。
無事に会えたら、返そう。
そう思いながら、俺たちは奥へ進んだ。
◇
中央確認室の扉は、半分だけ開いていた。
金属の縁へ細い光が走り、その向こうから低い機械音が聞こえる。
エルセが最初に中を覗き、少ししてから首を振った。
「……ほかに動いている人影は見えません」
俺は頷いた。
「ティセラ!」
声が室内へ響く。
返事はなかった。
リゼが俺の袖をつかんだ。
「……います」
「ティセラ?」
「たぶん。でも、何だか……」
彼女は言葉を止めた。
俺は続きを待ったが、リゼ自身もうまく説明できないらしかった。
「……何かが、なくなったような感じがします」
胸の奥が冷たくなった。
その感覚については、今まで何度も聞いている。
けれど、こんな場所で、ティセラを探している時に聞きたい言葉ではなかった。
俺は扉を押した。
室内は円形だった。
中央には低い石台があり、壁には何本もの古い線が走っている。天井から垂れ下がる金属管の先には、小さな筒状の装置が取りつけられていた。
その石台の横に、人が座っていた。
「……ティセラ!」
俺は駆け寄った。
彼女は壁へ背を預け、膝の上に手帳を開いていた。
服は少し汚れているが、破れたところは見えない。眼鏡も無事で、髪がいつもより乱れているくらいだった。
まずは、ほっとした。
「……よかった。無事だったんだな」
声をかける。
ティセラが顔を上げた。
いつものように眉を寄せる。
これから「何よ」とでも言われるのだろうと思った。
俺は少し笑ってしまいそうになった。
でも、彼女は言わなかった。
俺の顔をじっと見つめ、それから背後にいる三人へ視線を動かす。
「……誰?」
足が止まった。
「……え?」
「あなたたち、誰なの?」
ティセラの声は、いつもと同じだった。
少し警戒していて、見知らぬ相手には簡単に気を許さない、普段の彼女の声。
だからこそ、何を言われたのか分かるまで時間がかかった。
「……ティセラ。俺だよ」
「だから、誰?」
「セイン」
俺は自分の胸を指した。
「セイン・アルケット。第七係で一緒に仕事してるだろ」
ティセラは少し考えた。
「……第七係?」
「うん」
「王立遺失物管理局の?」
「そうだよ」
彼女の目に、ほんの少しだけ興味が戻る。
だが、それは俺が知っている興味とは違っていた。
「……そこの職員なのね」
そう言って、また俺の顔を見る。
「でも、あなたの名前は知らない」
俺は何も答えられなかった。
◇
リゼが一歩前へ出た。
「……私、リゼです」
ティセラは彼女を見た。
月白色の髪。
首元の赤い封蝋。
あれだけ調べてきた相手を、見間違えるはずがない。
そう思った。
けれど、ティセラは首を振った。
「ごめんなさい。知らないわ」
リゼの表情が、少しだけ曇った。
それでも、すぐに笑顔を戻す。
「……そうですか」
「悪いけど、会ったことがあるの?」
「はい。何度も」
「……そう」
ティセラは困ったような顔をした。
リゼはそれ以上、無理に説明しようとしなかった。
代わりに、少し距離を取って彼女の隣へしゃがむ。
「今は分からなくても大丈夫です。私たちは、あなたを探しに来たんです」
ティセラは不思議そうに彼女を見た。
「……私を?」
「はい」
「どうして?」
「心配だったからです」
その言葉を聞いても、ティセラはすぐには答えなかった。
知らない人間から心配されたと言われても、戸惑うのは当然なのだろう。
少ししてから、彼女は小さく頷いた。
「……ありがとう」
今度はリオルが前へ出た。
「リオル・ハーゼン。王都警備隊だ」
「警備隊?」
「そう。セインの幼なじみ」
「……そうなの」
ティセラはリオルの怪我へ目を向けた。
「それより、あなた、肩から血が出てるわよ」
「……ああ。さっき処置してもらった」
「足も引きずってる」
「よく見てるな」
「見れば分かるでしょう」
リオルが小さく笑った。
「……そうだな」
俺はそのやり取りを聞いて、少しだけ息を吐いた。
いつものティセラらしさはある。
でも、俺たちを知らない。
その二つが、同時に目の前にあった。
「……エルセ」
俺が呼ぶと、彼女は頷いた。
それから、ティセラと目線を合わせるようにしゃがんだ。
「エルセ・ヴァンデルです。少し確認してもいいですか」
ティセラは彼女を見る。
「……所属は?」
「それは後で説明します」
「怪しいわね」
「そう思うのは当然です」
エルセは落ち着いて答えた。
「まず、あなたが今どこまで覚えているか、確かめたいんです」
「……何のために?」
「何が起きたのか調べるためです」
ティセラは少し迷った。
俺たちの顔を順番に見て、それから自分の手帳へ視線を戻す。
「……分かった。でも、変なことをしたら怒るから」
「承知しています」
エルセは頷いた。
俺は思わず、少し笑ってしまった。
そんな脅し方まで、いつものティセラだった。
◇
「まず、お名前を」
エルセが尋ねた。
「ティセラ・ローヴェン」
返事は早かった。
「年齢は?」
「二十二歳」
俺は息を止めた。
エルセの表情も変わる。
「……お仕事は?」
「王立術式研究院の研究補助員よ」
「最後に覚えているのは、いつですか?」
ティセラは少し考えてから、六年前の年を答えた。
その時、ようやく分かった。
この人は、俺たちだけを忘れたのではない。
今がいつなのかも、知らない。
「……ティセラ」
俺は声をかけた。
「何?」
「今、二十八歳だよ」
彼女はしばらく俺を見ていた。
「……何を言ってるの?」
「本当なんだ」
「そんなわけないでしょう」
ティセラは少し笑いかけた。
でも、俺たちが誰も笑わないので、その笑みは途中で止まった。
「……待って」
彼女は自分の手を見た。
指先を確かめ、袖をまくる。
それから、長く伸びた自分の髪へ触れた。
「……これ」
その声が、少し掠れた。
「……六年?」
俺は頷いた。
ティセラは手帳を見下ろした。
「私、六年も経ったの?」
「……そうだよ」
「何で?」
返事ができなかった。
何で、という問いへの答えを、俺たちはまだ知らなかったからだ。
エルセが慎重に言葉を選んだ。
「何らかの形で、六年間の記憶にアクセスできなくなっている可能性があります。原因はまだ確認できていません」
「……記憶に?」
「はい」
「何かの術式?」
「その可能性があります」
ティセラは部屋を見回した。
さっきまで不安そうだった目に、研究者らしい鋭さが戻ってくる。
「だったら、装置を調べれば分かるじゃない」
彼女が立ち上がろうとしたので、俺は反射的に前へ出た。
「……待って」
「何よ」
「今は触らないで」
「調べないと分からないでしょう」
「それはそうだけど」
「だったらどいて」
「嫌だ」
ティセラは眉を寄せた。
「……あなた、さっきから何なの?」
その言い方があまりにも普段どおりで、俺は一瞬だけ返事に詰まった。
知っているティセラが、そこにいる。
なのに、彼女の中には俺たちがいない。
「……心配してるんだよ」
俺が答えると、彼女は少し驚いた顔をした。
それから、何とも言えない表情で椅子へ座り直した。
「……変な人」
「よく言われる」
「でしょうね」
リゼが小さく笑った。
ティセラはその笑い声を聞き、少しだけ不思議そうにしていた。
◇
「……固有術は使えますか?」
エルセが尋ねた。
ティセラは眼鏡を押し上げる。
「〈転写〉。もちろん使えるわ」
「確認させてもらっても?」
「何を?」
「その手帳の、今読める文字を別の紙へ写してみてください」
エルセは白紙を一枚差し出した。
ティセラは少し警戒しながら受け取り、手帳の一節へ指を滑らせる。
淡い光が走り、白紙へ同じ文字が現れた。
行の間隔も、細かな癖も、正確に写されている。
「……これでいい?」
「ええ。ありがとうございます」
「当たり前のことをさせるのね」
「大切な確認です」
エルセは写された文字を確かめた。
能力そのものは残っている。
少なくとも、術の基本的な使い方を忘れたわけではなさそうだった。
「……研究の方は?」
俺が尋ねる。
「研究?」
「今まで、何を調べてきたか」
ティセラは少し考えた。
「古い封印術式よ。王宮で使われていた旧式の封も気になってる」
「……それから?」
「それからって?」
「六年の間に、研究も進んでるんだ」
彼女は何も言わなかった。
俺は続けた。
「王都の青鐘通りのことも、ラヴェルの施設のことも、リゼの首の封も」
「……待って」
ティセラが顔を上げる。
「青鐘通り?」
「知ってる?」
「王都の通りでしょう。どうしてそれが研究対象になるの?」
俺は頷いた。
「……いろいろあったんだ」
「説明になってない」
「そうだよな」
「それに、あなたの術は?」
「〈返却〉」
ティセラは目を細めた。
「……聞いたことがないわ」
その言葉に、胸が少し詰まった。
俺は何度も彼女の前で術を使っている。
面白がられたこともあれば、危険だからやめろと怒られたこともあった。
どういう仕組みなのか分からず、二人で首を傾げたこともある。
その全部が、今のティセラにはない。
「……珍しい術らしい」
俺が答えると、彼女は興味を示した。
「どんなことができるの?」
「落とし物を元の持ち主や場所へ戻せる」
「……それだけ?」
「俺も、まだ全部は分かってない」
ティセラは少し考えた。
「対象の帰属をどう判定してるの?」
「……それも、よく分からない」
「何で使ってる本人が分からないのよ」
思わず笑ってしまった。
「……何?」
彼女が眉を寄せる。
「いや、同じことを前にも言われたから」
「誰に?」
「お前に」
ティセラは目を丸くした。
しばらく俺を見た後、困ったように言う。
「……私たち、仲よかったの?」
「……結構」
「結構って、何よ」
「一緒に面倒なことを調べた仲間」
彼女は少し考えた。
「私、あなたに怒ってた?」
「よく怒ってた」
「何で?」
「勝手に術を使おうとするから」
ティセラの眉が寄る。
「……それは今も怒ると思うわ」
「だろうな」
俺はまた笑った。
今度は、少し喉の奥が痛かった。
◇
ティセラの資料鞄は、ほとんど無事だった。
手帳も、予備の紙も、古い図面も残っている。
ただ、持ち主だけが中身を理解できなくなっていた。
「……これ、私の字?」
彼女は手帳を開き、細かな記録を見つめた。
「そうだよ」
「ずいぶん細かいわね」
「いつもそうだろ」
「こんなに書いた覚えないもの」
ページをめくる。
青鐘通りの地図。
古い区画線の写し。
第四保全区の認証記録。
そこには、彼女自身が調べ、考え、残してきたものが並んでいる。
「……本当に、私が?」
ティセラが呟いた。
俺は頷いた。
「うん」
「……そう」
彼女はもう一度、文字を追った。
どんな時でも記録を残していた人だった。
分からないことを、分からないままにするのが嫌いだった。
でも今は、自分の手帳に書かれたことが、自分の知らない出来事になっている。
ティセラは一枚のページで手を止めた。
『リゼの封は王家旧式と酷似。ただし本人を対象物として扱わないこと』
彼女は顔を上げた。
「……これ、あなたのこと?」
リゼは頷いた。
「はい。首に封があります」
「……王家旧式?」
「私も、詳しくは分かりません」
ティセラが目を細める。
「何で分からないの?」
リゼは少し迷ってから答えた。
「……私も、自分の昔の名前や記憶がなくて」
ティセラはしばらく彼女を見ていた。
「……そうなの?」
「はい」
「何、この集まり」
思わず、俺とリオルが笑った。
「俺も時々そう思う」
俺が言うと、ティセラはこっちを見る。
「あなたは大丈夫なの?」
「今のところは」
「一番普通そうなのに」
「……褒めてる?」
「別に」
リゼが笑った。
その笑い方につられるように、ティセラもほんの少しだけ笑った。
彼女が俺たちを思い出したわけではない。
でも、会話の間合いは不思議と噛み合っていた。
そのことが、少しだけ救いになった。
◇
さらにページをめくっていたティセラの指が、あるところで止まった。
そこには、今までとは少し違う筆跡で、短い記録が残っていた。
『祖母の旧式封と一致率七割。本人への確認は保留』
「……祖母?」
ティセラが呟く。
俺は手帳を覗き込んだ。
そこに書かれているのが、彼女の祖母のことだと分かるまで、少し時間がかかった。
「……おばあさんのこと?」
俺が尋ねると、ティセラは当然だという顔をした。
「ほかに誰がいるのよ」
「いや、そうだけど」
「王宮で古い術式を扱っていた人なの。昔の封なら、私よりずっと詳しいわ」
ティセラは少し懐かしそうに笑った。
その表情を見て、俺は言葉を失いかけた。
この人が祖母の話をするところを、俺はほとんど聞いたことがない。
以前、何かの資料を見ていた時に、王宮で働いていた親族のことを少しだけ話してくれたことはあった。
けれど、詳しく聞こうとすると、いつも話題を変えられた。
なぜなのか、俺は知らない。
会いたくないのか。
会えない事情があるのか。
それとも、単に忙しくて長く顔を合わせていないだけなのか。
俺は、そこまで踏み込んで聞いたことがなかった。
なのに今のティセラは、そんな距離が初めから存在しなかったかのように、祖母のことを話している。
「……この一致率七割って、どの封のことなのかしら」
ティセラは手帳を顔へ近づけた。
「比較に使った図面もあるはずよね……」
何枚かページをめくる。
見覚えのない記録を読むたびに、眉が寄っていく。
それでも、彼女は諦めなかった。
「自分で書いたんだから、どこかに根拠があるはずでしょう」
そう言って、机の上へ紙を広げ始める。
俺は手伝おうとしたが、すぐに止められた。
「触らないで。順番が分からなくなる」
「……ごめん」
「分かればいいのよ」
いつもと同じだった。
その言い方も、眼鏡を押し上げる仕草も、資料を並べる順番にこだわるところも。
だから、次の言葉には何の準備もできなかった。
「……ま、いいか」
ティセラは手帳を閉じた。
「今日帰ったら、おばあちゃんに聞いてみる」
俺は何も言えなかった。
ティセラは当たり前のように言ったのだ。
今日の仕事が終われば家へ帰れる。
分からないことは、祖母に聞けばいい。
昔からそうしてきたように、また話せばいいのだと。
けれど、彼女が忘れている六年間には、俺たちの知らない出来事がある。
少なくとも、今までのティセラは祖母に会う話をほとんどしなかった。
俺はその理由を知らない。
だから、会えるとも、会えないとも言えなかった。
リゼが静かにティセラを見ている。
リオルも、何も言わない。
エルセは手帳を見つめたまま、わずかに視線を落とした。
「……何よ」
ティセラが俺たちを見回した。
「またその顔」
「……いや」
俺は喉の奥で言葉を探した。
「今日帰ったら、って」
「何?」
「……おばあさんに、ずっと会ってなかったんじゃないかと思って」
ティセラは少し首を傾げた。
「何で?」
俺は答えられなかった。
今の彼女にとって、祖母との時間はまだ途切れていないのだろう。
いつものように質問して、叱られて、言い返して。
そんな日が、これからも続くと思っている。
俺たちの知らない六年間が、そこに挟まっていることさえ、彼女は知らない。
「……変な人ね」
ティセラは言った。
「帰ったら聞くだけでしょう」
そう言って、もう一度手帳を開いた。
俺は返事ができなかった。
何でもない約束だった。
今日、帰ったら。
たったそれだけの言葉が、どうしてこんなに遠く感じるのだろう。
◇
ティセラは、自分の手帳に書かれた文字を一つずつ確かめ始めた。
俺たちはそのそばにいた。
彼女が自分で何かを調べたいと言うなら、今すぐ止める理由はない。
ただ、勝手に装置へ触れないよう注意する必要はあった。
エルセが部屋の操作部を確かめ、リオルは扉の近くへ移動した。
リゼはティセラの隣にしゃがみ、手帳から滑り落ちた紙を拾って渡している。
「……ありがとう」
ティセラが言った。
「どういたしまして」
リゼが笑った。
ティセラはしばらく彼女を見ていた。
「……あなた、本当に私と知り合いだったの?」
「はい」
「仲よかった?」
リゼは少し考えた。
「……私は、仲よくしてもらっていたと思っています」
「変な言い方ね」
「だって、今はティセラさんが覚えていないので」
ティセラは目を伏せた。
それから、小さく息を吐く。
「……悪いことしたみたい」
「そんなことありません」
リゼは首を振った。
「覚えていないのは、ティセラさんが悪いからじゃないと思います」
その言葉を聞いて、ティセラは少し驚いた顔をした。
「……あなたも、忘れたんでしょう」
「はい」
「じゃあ、怖くなかった?」
リゼは少し考えた。
「……怖かったです」
答えは短かった。
「今も、分からないことがたくさんあります。でも、私は自分でリゼって名前を選びました」
ティセラが顔を上げる。
「……自分で?」
「はい」
「どうして?」
「呼んでもらいたかったからです」
リゼは少し笑った。
「誰かに名前を呼んでもらえると、嬉しいでしょう?」
ティセラはしばらく黙っていた。
それから、自分の手帳へ視線を戻す。
「……そうね」
小さな返事だった。
俺はその会話を、少し離れたところから聞いていた。
リゼは自分の昔を忘れている。
ティセラは、自分が生きた六年間を忘れてしまった。
失ったものは違う。
でも、今ここで向き合っている二人には、俺には分からない感覚があるのかもしれない。
そして、それは無理に分かろうとしなくてもいいものなのだと思った。
「……セイン」
エルセが呼んだ。
俺は顔を上げる。
「何?」
「この部屋、誰かが最近操作した形跡があります」
彼女は中央の石台を示した。
表面に浮かんでいた古い文字が、少しずつ消えかけている。
「……誰が?」
「まだ分かりません」
「ティセラが触った可能性は?」
「あります。ただ、本人の今の記憶だけでは確かめられないでしょう」
俺は石台を見た。
ティセラが一人になってから、何が起きたのか。
誰かと会ったのか。
それとも、施設の装置が勝手に動いたのか。
まだ、何一つ分からない。
ただ、彼女の記憶が六年間失われていることだけが、目の前に残っていた。
「……エルセ」
「はい」
「原因、調べられる?」
彼女は少し考えた。
「調べます。ただし、何かが見つかっても、すぐに記憶を戻せるとは限りません」
「……分かってる」
俺は頷いた。
分からないことを、無理に分かったことにはしない。
でも、調べることまで諦めるつもりはなかった。
その時だった。
「六年で済んだか」
暗い通路の向こうから、男の声がした。
少し低く、いつもどこか眠そうで、どんな時でも半分ほど面倒くさそうに聞こえる声だった。
俺はゆっくり顔を上げた。
聞き間違えるはずがない。
王都で毎日のように聞いてきた、その声を。
俺は知っていた。




