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王都の返却士 ~その落とし物、世界のものです~  作者: 紙森 灯
第三章 誰も覚えていない男

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第五十五話 神様の名前がない

 

 第五確認室には、俺とエルセの足音だけが響いていた。


 部屋の奥に据えられた保全槽は、これまで見てきたものよりずっと小さい。両腕で抱えられそうな円筒形で、曇った硝子の内側には、白い靄のようなものがゆっくり揺れている。


 金属の枠には、古い第七係の印が刻まれていた。


 その下には、一人の名前がある。


 ローディス・フェン。


 二十八年前、四十四号の現場札を持つ男とともにラヴェルを訪れた、第七係の記録官だ。


「……この中に、ローディスの記憶が残ってるんだよな」


「記録上はそうです。ただし、本人の記憶がすべて収められているとは限りません」


 エルセは保全槽の周囲を調べながら答えた。


「閲覧用に切り出した一部分かもしれませんし、本人が残そうとして保存したものかもしれません」


「……中を見れば分かる?」


「何が記録されているかは。でも、どうして保存されたのかまで分かるとは限りません」


 彼女はそう言って、保全槽から伸びる細い線を指で追った。


 石床を横切った線は、部屋の中央にある低い台へつながっている。


 台には手のひらほどの窪みが二つあった。


「ここで記録を閲覧します。槽の封を解いたり、中身を取り出したりする必要はありません」


「回収係なのに、よく知ってるな」


「回収する仕事だからこそ、開けてはいけないものの扱いは習います」


「……中身は聞かないんじゃなかった?」


「聞きませんし、普段は見ません。でも、知らなければ間違って開けてしまうでしょう」


 なるほど。


 靴職人だって、扱い方を知らない革には不用意に刃を入れない。どこを切ってはいけないか知っているのも、仕事のうちだ。


「……今、少し納得した顔をしましたね」


 エルセが言った。


「理屈は分かったから」


「それはよかったです」


「ただ、安全かどうかは別だろ」


「ええ。二十八年前の記録が、正常に再生される保証はありません」


「……相変わらず、安心させるのが下手だな」


「安心してはいけない時に、安心させる方が困ります」


 そう言ってから、エルセは台の前へ立った。


 俺も隣へ並ぶ。


「一つ、約束してください」


「何?」


「気分が悪くなったら、すぐ言ってください。途中で何が見えても、無理に最後まで見る必要はありません」


「分かった」


「本当に?」


「……そんなに信用ない?」


 彼女は答えず、俺の顔を見た。


「……ある程度は」


「何ですか、その自信のない返事」


「だって、お前に何回も無茶だって怒られたし」


「自覚があるなら、少しは安心できます」


 エルセはようやく口元を緩めた。


 俺も小さく笑い、右手を石台の窪みへ置く。


 反対側へ、彼女が手を乗せた。


「……始めます」


 古い線に光が入り、保全槽の底から淡い白が立ち上がる。


 耳の奥で、小さな鐘が鳴ったような気がした。


 俺はエルセの横顔を見た。


 彼女も真剣な表情で、台の文字を追っている。


 その姿を最後に、目の前の部屋がゆっくり遠ざかっていった。


     ◇


 最初に見えたのは、見覚えのない手だった。


 右手に携帯灯を握り、左手では古い壁を確かめている。袖口に泥がついた制服には、王立遺失物管理局第七係の印が縫いつけられていた。


 俺は自分の手を動かそうとしたが、指一本動かなかった。


 目の前の景色も、思い通りには変わらない。


 誰かが歩けば、その歩幅に合わせて視界が揺れる。顔を上げれば天井が見え、足を止めれば、その人が何を見ようとしているのかだけが伝わってきた。


 どうやら、ローディス・フェンの目を借りているらしい。


「フェン、こっちだ」


 少し先から男の声がした。


 視界がそちらへ向く。


 古い第七係の制服を着た、三十歳前後の男が立っていた。


 暗い髪に、少し日に焼けた顔。携帯灯を持つ手には細かな傷があり、歩き慣れた人間らしい無駄のない動きをしている。


 腰では、小さな真鍮札が揺れていた。


 灯りを受けた瞬間、その表面の数字が見える。


 四十四。


 イリナの家で見つかった札と、同じ番号だった。


「お前、さっきから勝手に先へ行きすぎだぞ」


 ローディスの声がした。


「迷ってないだろ」


「迷ったら困るから言ってるんだ」


「だったら、地図を作りながらついてこいよ」


「地図にない場所を歩かせてるのは誰だと思ってる」


 男が笑った。


「第七係の仕事って、だいたいそういうものだろ」


 その会話を聞いて、少し驚いた。


 二十八年前の第七係にも、今の俺たちみたいなやり取りがあったらしい。


 記録に残る人物というのは、もっと厳めしい顔で、難しいことばかり話しているものだと思っていた。


 けれど、目の前の二人は違う。


 ローディスは小言を言いながらも男を追い、四十四号の男も、その小言を聞き慣れているようだった。


 ずっと一緒に働いてきたのだろう。


 歩く速度も、危険な場所で互いにどこを見るかも、声を掛け合わなくても分かっているらしい。


 リオルと俺も、周囲から見ればこんな感じなのかもしれない。


 そう思ったところで、四十四号の男が足を止めた。


「……見ろよ、ローディス」


 二人の前に、大きな石の壁があった。


     ◇


 壁には、見たことのない文字が幾重にも刻まれていた。


 文字だけではない。


 波をかたどった線や、鳥の羽に似た模様、炎を囲む円、人の姿を描いた小さな図が、壁の上から下まで続いている。


 ここまで来る途中で見た施設とは、明らかに作りが違っていた。


 第四保全区や水底街の地下では、物を仕分けるための札や搬入印が使われていた。


 けれど、この壁に刻まれているものは、単なる荷物の記録には見えない。


「……教会の壁画みたいだな」


 ローディスが言った。


 四十四号の男も壁を見上げる。


「俺もそう思った。でも、こっちの方が古いらしい」


「聖名教会より?」


「少なくとも、この区画の年代が正しければな」


 ローディスが眉を寄せた。


「……だったら、どうして似てるんだ?」


「それを調べに来たんだろ」


 男は携帯灯を高く掲げた。


 灯りが壁を照らすと、細かな文字の並びが見えてきた。


 俺には読めない古い字だった。


 それなのに、不思議と意味の一部が伝わってくる。


 ローディスがその文字を理解しているからだろうか。誰かの記憶を通して見ているせいか、彼が読んだ言葉が、翻訳されたように頭へ浮かんだ。


 海。


 火。


 風。


 石。


 鳥。


 人。


 生と死。


 世界にあるものが、種類ごとに分けられていた。


 そして、それぞれの横には、同じ形の欄が二つ並んでいる。


『名称』


『帰属』


 俺は息を止めた。


 何度も見た言葉だった。


 リゼの住民証明書でも、青鐘通りの装置でも、第四保全区の石扉でも。


 名前と、そのものが属する先を示す言葉。


 しかし、この壁に刻まれた文字は、俺たちが今まで見てきたものより、ずっと古いらしい。


「……これ、教会の教えに似てないか」


 ローディスが言った。


 四十四号の男も頷く。


「名前を与え、あるべき場所へ結ぶ。聖名教会でも、似た話をするな」


「似てるどころじゃない。ここに書かれた言葉を、そのまま教義へ使ったようにも見えるぞ」


「じゃあ、教会がここから持っていった?」


「分からん。それを決めるには、ほかの記録も必要だ」


 ローディスの慎重な答えに、男が笑った。


「相変わらずだな」


「記録官だからな」


「だから一緒に来てもらったんだよ」


 その何でもない返事が、妙に耳に残った。


 俺が第七係へ入った頃、係長も似たことを言っていた。


 得意なことが違う人間を集めた方が、面倒な落とし物は見つかりやすいのだ、と。


 昔の第七係も、同じ考えで動いていたのだろうか。


 そんなことを思っているうちに、ローディスの視線が壁の一番下へ向いた。


 四十四号の男が、そこを指していた。


「……ここ、変じゃないか」


 それまでと同じ並びだった。


 一つの分類を示す古い文字があり、その横に名称欄と帰属欄が続いている。


 ただし、ほかの行とは違う。


 分類を示す文字は、ローディスの理解を通して、こう読めた。


『神』


 俺はしばらく、その文字を見つめていた。


 その横にも、名前があるはずだった。


 海や火や人には、きちんと文字が入っている。


 だが、神の行だけは違った。


 名称欄が空白になっていた。


「……読めないだけじゃないのか?」


 ローディスが尋ねる。


 四十四号の男は壁へ顔を近づけた。


「違う。ここは名称を書くための欄だ」


「文字が削れたのかもしれない」


「それなら傷が残るだろ」


 男は灯りの角度を変えた。


 石の表面に影が落ちる。


 確かに、そこには文字がない。


 削り取った跡も、傷も、ほかの欄に見えるような細い刻みも残っていなかった。


 初めから、そこだけ何も書かれなかったようだった。


「……記載し忘れたのか?」


 ローディスが呟く。


「こんなに細かく分類を残した人間が?」


「じゃあ、なぜ空白なんだ」


 四十四号の男は答えなかった。


 彼が灯りを近づけると、腰の真鍮札が小さく鳴った。


 さっきまで軽口を叩いていた顔から、笑みが消えている。


「ローディス」


「何だ」


「神の名前がない」


 その声を聞いた瞬間、俺は古い石壁から目を離せなくなった。


     ◇


 聖名教会の教えは、王都で暮らしていれば、誰でも一度は耳にする。


 この世界にある名前は、神から授けられたものだという。


 海が海で、鳥が鳥で、人が人として生まれるのも、最初に神がそれぞれへ名前を与えたからなのだそうだ。


 俺の家でも、祭礼の日には教会へ行っていた。


 熱心な信者というほどではなかったが、母は俺の名前について、こんなことを言ったことがある。


『セインって名前は、あんたが生まれた時に持ってきたものなのよ。母さんは、それを見つけただけ』


 幼い俺には、よく分からなかった。


 赤ん坊だった自分が、名前を書いた札でも首から下げていたのかと聞いて、笑われたことを覚えている。


 それくらい、名前が与えられるという考え方は身近なものだった。


 だからこそ、目の前の空白は奇妙だった。


 すべてに名前を与えたとされる神の、名前を書く欄だけが空いている。


 たったそれだけのことなのに、子供の頃から当たり前に聞いてきた話が、少し違って見えた。


 俺はここで初めて気づいた。


 神様に名前を与えたのは、いったい誰なのだろう。


 壁に答えはなかった。


 ローディスも、四十四号の男も、長い間黙っていた。


     ◇


 景色が揺れた。


 石壁の色が薄れ、今度は別の部屋が現れる。


 そこには古い机が一つあり、四十四号の男が紙へ何かを書き写していた。


 ローディスはその向かいに立ち、背後の扉を何度も確かめている。


 さっきまでの余裕が、二人から消えていた。


「……それ、王都へ持って帰るつもりか」


 ローディスが尋ねた。


「そのために来たんだろ」


「全部?」


 四十四号の男が手を止めた。


 紙には、壁の模様が細かく写されている。


「……全部は、まだやめておこう」


「何を隠す気だ」


「隠すと決めたわけじゃない」


 男は少し苛立ったように答えた。


「ただ、見つけたものを何も考えず持ち帰って、報告書に書けば済む話じゃないだろ」


「俺たちは調査に来たんだぞ」


「分かってる」


「なら、記録するのが仕事だ」


「記録はしてる。でも、誰へ渡すべきかは別の話だ」


 ローディスが黙った。


 男は紙を折りたたみ、その端を指で押さえた。


「なあ、フェン。教会は、世界にある名前を神が授けたと教えている」


「それが?」


「じゃあ、神の名前は誰が授けたんだ?」


 ローディスはすぐに答えなかった。


 俺も答えられない。


「そんなこと、ここで決められるわけがないだろ」


「そうだよ。決められない」


 四十四号の男は顔を上げた。


「だから怖いんだ」


 いつもの軽い口調ではなかった。


「この壁が何を意味してるのか、俺たちにはまだ分からない。神の名が消えたのか、初めから記されなかったのか、それとも別の理由なのか」


「……ああ」


「なのに、これを見れば勝手に答えを出す奴がいるかもしれない」


 ローディスは男の顔を見た。


「教会のことか?」


「教会だけとは限らない」


 その返事が妙に重かった。


 王国の人間かもしれない。


 保全院に連なる誰かかもしれない。


 あるいは、俺たちがまだ知らない別の集団なのかもしれない。


 今の俺には、誰のことを話しているのか分からなかった。


「……この場所は、ほかにも知られてるのか?」


 ローディスが尋ねた。


 男は少し迷ってから首を振る。


「少なくとも、俺はそういう記録を見つけてない」


「それなら」


「でも、誰も知らないって保証もない」


 ローディスはため息をついた。


 それから、机の上へ両手をつく。


「……お前さ」


「何だよ」


「こういう時ばっかり、面倒なことを考えるな」


 四十四号の男が少し笑った。


「第七係だからな」


「都合のいい時だけそれを言うな」


 ローディスも笑った。


 ただ、その笑顔は長く続かなかった。


「……報告しなかったら、お前が責任を取ることになるぞ」


「そうだな」


「俺もだ」


「巻き込んで悪い」


「もう巻き込まれてるよ」


 二人は顔を見合わせた。


 仕事仲間だからこそ、簡単に責任を押しつけられないのだろう。


 俺は何だか、係長と夜遅くまで報告書を直していた時のことを思い出した。


 失敗すれば怒られる。


 でも、だからといって、分からないことを適当に書いて済ませるわけにはいかない。


 四十四号の男も、同じようなことを考えていたのかもしれなかった。


     ◇


 突然、記憶が乱れた。


 机が消え、暗い通路が現れる。


 さっきまで静かだった施設の奥で、何か大きなものが動いている。


 視界が大きく揺れた。


 ローディスが走っているらしい。


 足元には浅い水が流れ、壁の隙間から赤い光が漏れていた。


「……ローディス!」


 四十四号の男が叫ぶ。


「早くしろ! 道が閉じる!」


 金属が擦れる音が響く。


 ローディスは振り返った。


 男が古い扉の前に立ち、何かを操作している。


 腰の真鍮札が揺れて、小さな音を立てていた。


「……家族には?」


 ローディスの声だった。


 四十四号の男は一瞬だけ手を止めた。


「何も言うな」


「それでいいのか!」


 男がこちらを振り返る。


 さっきまでの笑顔はなかった。


 ひどく疲れた顔をしている。


「よくない!」


 即答だった。


 怒鳴り声というより、自分に言い聞かせるような声に聞こえた。


 だが、それ以上は聞き取れなかった。


 視界の端で赤い光が弾け、壁の文字が滲んでいく。


 水の音が大きくなる。


 ローディスの手が何かをつかもうとしたところで、景色が白く途切れた。


     ◇


「……セイン!」


 声がした。


 誰かに肩を支えられている。


 目を開けると、第五確認室の床が見えた。


 自分の手がある。


 足も動く。


 ただ、頭の奥が重く、すぐには立ち上がれなかった。


「……聞こえますか?」


 顔を上げる。


 エルセがすぐ近くにしゃがんでいた。


 いつもより少し眉を寄せている。


「……聞こえる」


「気分は?」


「頭が、ちょっと重い」


「吐き気は?」


「ないと思う」


「『と思う』は、やめてください」


「……ない」


 エルセはようやく息を吐いた。


 俺も深呼吸する。


 冷たい地下の空気が、胸へ戻ってくる。


「……お前は?」


「少し気分が悪いです。でも、立てます」


「見たんだな」


「ええ」


「……同じもの?」


「たぶん」


 エルセは保全槽を見た。


「ローディス・フェンの記憶。四十四号の男。そして、古い石壁」


「……神の名前がなかった」


 口にすると、ようやく現実の出来事として感じられた。


 エルセは頷いた。


「少なくとも、私たちが見た記録の名称欄は空白でした」


「お前、知ってた?」


「いいえ」


「保全院でも?」


「私は見たことがありません」


 彼女は少し間を置いた。


「聖名教会が知っているかどうかも、分かりません」


 俺は床へ座り直した。


 古い施設の記録に、神の名前がない。


 それだけのことなら、昔の誰かが書かなかっただけかもしれない。


 でも、もし違ったら。


 誰かが消したのだとしたら。


 名前や帰属を扱う仕組みが、俺たちの知っているものより古くから存在していたのだとしたら。


 考えることが一度に増えすぎて、うまく整理できなかった。


「……なあ」


「はい」


「神様って、名前がなくても神様なのかな」


 エルセは俺を見た。


「私に聞きますか?」


「ほかにいないだろ」


「……そうですね」


 彼女はしばらく考えた。


「そもそも、あの石壁が本当に何を意味していたのか分かりません。教会の教えと似ているからといって、同じ意味で使われていたとも限りませんし」


「うん」


「それに、名前が書かれていないことと、名前が存在しないことは違います」


 俺は顔を上げた。


 確かに、そうだった。


「……書かなかっただけかもしれない」


「ええ。逆に、書けなかったのかもしれません」


「誰かに消された?」


「それも一つの可能性です。でも、まだ確かめられていません」


 エルセの声は落ち着いていた。


 ただ、灯りを持つ指が、いつもより強く柄を握っている。


「……怖い?」


 俺が尋ねると、彼女は少し驚いた顔をした。


「怖いですよ」


「……あっさり言うな」


「怖くない方がおかしいでしょう」


 エルセは小さく息を吐いた。


「世界中の子供が聞いて育つ話に、知らない続きがあったかもしれないんです。しかも、その続きを知っていた人が、二十八年前に誰からも忘れられている」


 彼女は保全槽を見つめた。


「私は、そういうことが平気だと思えるほど、冷静な人間ではありません」


 その言葉を聞いて、少し肩の力が抜けた。


 エルセも分からないのだ。


 知識があるように見えるし、古い施設の扱いにも慣れている。


 でも、今見たものは、彼女にとっても初めてだった。


「……なんか安心した」


 俺が言うと、エルセが眉を上げた。


「私が怖がっていることに?」


「いや、一人で分からなくなってるわけじゃないってことに」


 彼女は少しだけ口元を緩めた。


「……それなら、よかったです」


 俺は壁へ背中を預けた。


 今は神様のことを考えているのに、頭の片隅では、リゼがここにいたら何と言うだろうと思っていた。


 あいつなら、案外簡単に答えるかもしれない。


 名前がないなら、つければいいじゃないですか、と。


 そんな顔が浮かんで、思わず笑いそうになる。


「……何です?」


 エルセが尋ねた。


「リゼなら、どう答えるかなって」


「あの子なら、面白いことを言いそうですね」


「だろ」


「でも、あとでちゃんと聞いてあげてください」


「……もちろん」


 俺は頷いた。


 早く戻りたい。


 けれど、今はもう少し確かめなければならないことがあった。


     ◇


「……四十四号の男のことも、気になります」


 エルセが言った。


 俺も頷く。


「最後の会話だろ」


「はい。家族について何か話していました」


 あの瞬間の声が、まだ耳に残っている。


 よくない。


 四十四号の男は、そう答えた。


 何がよくなかったのだろう。


 家族へ何も知らせないことか。


 誰かを危険に巻き込むことか。


 それとも、あの時すでに何かが起きていたのか。


「……自分から消えたって、セヴァンは言ってた」


 俺が呟く。


「ええ」


「でも、あの記憶を見ただけじゃ、何を選んだのか分からないな」


 エルセは静かに頷いた。


「最後の場面は、かなり乱れていました。あの後に何が起きたのかも分かりません」


「……うん」


「家族の話が出たからといって、その家族が誰なのかも、まだ確認できていません」


 イリナとトーマの顔が浮かぶ。


 真鍮札の音。


 家に残っていた古い箱。


 パンの端を残す癖。


 あの二人と四十四号の男が無関係だとは、もう思いづらい。


 それでも、今の俺たちが知っていることと、まだ知らないことは分けておかなければならなかった。


「……イリナさんに、今のことを話すのは早いかな」


 尋ねると、エルセは少し考えた。


「何を見たのかは、伝えられるかもしれません。でも、その人がご家族だと決めつけるのは、まだ早いと思います」


「……そうだな」


 俺は頷いた。


 トーマには、父親のことを知りたい気持ちがある。


 イリナも、誰かを待っていたことを覚えている。


 だからこそ、確かめていないことを希望として渡すのは怖かった。


「……でも、探すのはやめない」


 俺が言うと、エルセは首を傾げた。


「それは、誰のためですか?」


 俺は少し考えた。


「……最初は、仕事だった」


「今は?」


「分からないことを、そのままにしたくない。それに、あの家の二人の顔を見たから」


 彼女は黙って聞いていた。


「何があったかだけでも知りたいんだ。返せるかどうかは、その後で考える」


「……そうですか」


 エルセが小さく頷いた。


 俺は彼女を見た。


「お前は、どうして保全院にいるんだ?」


「前にも聞きましたね」


「うん。でも、もう一回聞きたい」


 エルセはしばらく保全槽を見ていた。


 やがて、静かに口を開く。


「必要な仕事だと思っているからです」


「記憶を預かることが?」


「それもあります。何もかも知られた方がいいとは限りません。誰かを傷つける情報だってありますから」


 彼女はそこで一度言葉を切った。


「でも、それだけではありません」


「……何?」


「忘れさせるか、残すか、返すか。その判断を、誰かが勝手に決めてしまうことがあります」


 俺は頷いた。


 それは、今までの調査でも何度も感じていたことだった。


「……それが嫌なんだ?」


「ええ」


 エルセは俺を見た。


「保全院から離れれば、そういう判断を見ずに済むかもしれません。でも、私がいなくなった後も、誰かが決めることには変わりがない」


「だから中にいる?」


「少なくとも、自分の目が届く仕事については、考えることをやめたくないんです」


 その言い方が、妙にエルセらしかった。


 彼女は何でも正しいと信じて仕事をしているわけではない。


 かといって、嫌なことがあるから全部捨ててしまうわけでもない。


 組織の中にいる以上、従わなければならないこともあるのだろう。


 それでも、自分の判断まで預けるつもりはないらしい。


「……エルセ」


「何ですか?」


「ちょっと好きになった」


 口に出してから、言い方がよくなかったかもしれないと思った。


 エルセも一瞬だけ目を丸くした。


「……人として、ですか?」


「もちろん」


「今の間は何です?」


「言ってから考えた」


「先に考えてください」


「……ごめん」


 エルセは困った顔で俺を見た。


 それから、ふっと笑う。


「でも、悪い気はしません」


「……そっか」


「ええ」


 俺は少し安心した。


「この前、俺のこと嫌いじゃないって言っただろ」


「言いましたね」


「一応、俺もそうだってことで」


「一応?」


「……かなり」


 エルセは笑った。


「分かりました。信用を一回増やしておきます」


「まだ数えてたの?」


「あなたが始めたんでしょう」


 そうだった。


 俺も笑いながら立ち上がった。


 さっきまで重かった頭が、少しだけ楽になっている。


 もちろん、神の名称欄が空白だった理由は分かっていないし、四十四号の男についても疑問は増えるばかりだ。


 でも、今ここで一緒に考えてくれる人がいることは、ありがたかった。


     ◇


 保全槽との接続を終えようとした時だった。


 石台の奥で、小さな音が鳴った。


 かちり、と何かが切り替わる。


 俺とエルセが同時に振り返った。


 先ほどまで暗かった金属板へ、古い文字が現れている。


「……何?」


 俺が尋ねる。


 エルセはすぐに灯りを近づけた。


「閲覧記録です」


「俺たちが見たこと?」


「そうです。でも……」


 彼女の声が止まった。


 俺は嫌な予感がした。


「……何かまずい?」


 エルセは最後の一行を指した。


 そこには、こう書かれていた。


『閲覧記録:管理権限へ通知』


 俺は一度、文字を読み直した。


「……通知?」


「ええ」


「誰に?」


「まだ分かりません」


「じゃあ、どこへ?」


「それも、この表示だけでは」


 エルセは認証札を取り出し、別の欄を確かめた。


 しかし、文字は変わらない。


『管理権限へ通知』


 短い一文だった。


 なのに、今まで見てきたどんな大きな装置より、不気味に感じられた。


「……誰かが、今もこの施設を管理してるってこと?」


「そうとは限りません。古い仕組みが、決められた宛先へ自動的に報告しているだけかもしれません」


「でも、届く先が残ってたら?」


 エルセは顔を上げた。


「……私たちが記録を見たことを、知られる可能性があります」


 俺はローディスの保全槽を見た。


 二十八年前の記録。


 四十四号の男が、誰へ渡せばいいのか分からないと言っていた情報。


 その情報を、俺たちは今、見てしまった。


「……取り消せる?」


「少なくとも、今の私の認証では無理です」


 エルセは札をしまい、部屋の奥へ灯りを向けた。


「ここを離れましょう」


「……分かった」


 俺は頷いた。


 急ぎたかった。


 でも、ただ走って逃げても、また道を間違えるかもしれない。


 エルセは部屋の奥に続く細い線を調べている。


「……こちらです」


「何か見つけた?」


「確認室同士をつなぐ作業通路が、一時的に開いています」


「ほかの区画へ行ける?」


「中央付近までは行けるはずです。閲覧処理が終わったことで、古い認証が短時間だけ有効になっています」


 俺は顔を上げた。


「……リゼたちのところへ近づける?」


「可能性はあります」


 それだけで、身体が動きかけた。


 エルセが俺を見た。


「今度は、道を確かめてから走ってください」


「……そんなに信用ない?」


「ありません」


 即答だった。


「さっき増やした一回は?」


「あれは別です」


「厳しいな」


「正しい判断だと思います」


 エルセは少し笑った。


 俺も頷き、携帯灯を持ち直す。


 第五確認室を出る直前、もう一度だけ保全槽を振り返った。


 ローディス・フェンの名前は、変わらず金属の枠へ刻まれている。


 四十四号の男は、あの場所で神の名前がないことを見つけた。


 ただ、その空白が何を意味していたのか、なぜ彼が家族へ何も言うなと答えたのか、まだ何一つ確かめられていない。


 そして、今はもう一つ問題が増えた。


 俺たちがあの記録を見たことを、施設のどこかが知っている。


 俺は無意識に、左手を握っていた。


 知らない名前を探して、ここまで来た。


 なのに今は、こちらの名前の方が先に知られてしまったような気がした。


「……セイン」


 エルセの声がした。


「行きますよ」


「ああ」


 俺は保全槽から目を離し、彼女の後を追った。


 今は何より、仲間たちの声をもう一度聞きたかった。

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