第五十五話 神様の名前がない
第五確認室には、俺とエルセの足音だけが響いていた。
部屋の奥に据えられた保全槽は、これまで見てきたものよりずっと小さい。両腕で抱えられそうな円筒形で、曇った硝子の内側には、白い靄のようなものがゆっくり揺れている。
金属の枠には、古い第七係の印が刻まれていた。
その下には、一人の名前がある。
ローディス・フェン。
二十八年前、四十四号の現場札を持つ男とともにラヴェルを訪れた、第七係の記録官だ。
「……この中に、ローディスの記憶が残ってるんだよな」
「記録上はそうです。ただし、本人の記憶がすべて収められているとは限りません」
エルセは保全槽の周囲を調べながら答えた。
「閲覧用に切り出した一部分かもしれませんし、本人が残そうとして保存したものかもしれません」
「……中を見れば分かる?」
「何が記録されているかは。でも、どうして保存されたのかまで分かるとは限りません」
彼女はそう言って、保全槽から伸びる細い線を指で追った。
石床を横切った線は、部屋の中央にある低い台へつながっている。
台には手のひらほどの窪みが二つあった。
「ここで記録を閲覧します。槽の封を解いたり、中身を取り出したりする必要はありません」
「回収係なのに、よく知ってるな」
「回収する仕事だからこそ、開けてはいけないものの扱いは習います」
「……中身は聞かないんじゃなかった?」
「聞きませんし、普段は見ません。でも、知らなければ間違って開けてしまうでしょう」
なるほど。
靴職人だって、扱い方を知らない革には不用意に刃を入れない。どこを切ってはいけないか知っているのも、仕事のうちだ。
「……今、少し納得した顔をしましたね」
エルセが言った。
「理屈は分かったから」
「それはよかったです」
「ただ、安全かどうかは別だろ」
「ええ。二十八年前の記録が、正常に再生される保証はありません」
「……相変わらず、安心させるのが下手だな」
「安心してはいけない時に、安心させる方が困ります」
そう言ってから、エルセは台の前へ立った。
俺も隣へ並ぶ。
「一つ、約束してください」
「何?」
「気分が悪くなったら、すぐ言ってください。途中で何が見えても、無理に最後まで見る必要はありません」
「分かった」
「本当に?」
「……そんなに信用ない?」
彼女は答えず、俺の顔を見た。
「……ある程度は」
「何ですか、その自信のない返事」
「だって、お前に何回も無茶だって怒られたし」
「自覚があるなら、少しは安心できます」
エルセはようやく口元を緩めた。
俺も小さく笑い、右手を石台の窪みへ置く。
反対側へ、彼女が手を乗せた。
「……始めます」
古い線に光が入り、保全槽の底から淡い白が立ち上がる。
耳の奥で、小さな鐘が鳴ったような気がした。
俺はエルセの横顔を見た。
彼女も真剣な表情で、台の文字を追っている。
その姿を最後に、目の前の部屋がゆっくり遠ざかっていった。
◇
最初に見えたのは、見覚えのない手だった。
右手に携帯灯を握り、左手では古い壁を確かめている。袖口に泥がついた制服には、王立遺失物管理局第七係の印が縫いつけられていた。
俺は自分の手を動かそうとしたが、指一本動かなかった。
目の前の景色も、思い通りには変わらない。
誰かが歩けば、その歩幅に合わせて視界が揺れる。顔を上げれば天井が見え、足を止めれば、その人が何を見ようとしているのかだけが伝わってきた。
どうやら、ローディス・フェンの目を借りているらしい。
「フェン、こっちだ」
少し先から男の声がした。
視界がそちらへ向く。
古い第七係の制服を着た、三十歳前後の男が立っていた。
暗い髪に、少し日に焼けた顔。携帯灯を持つ手には細かな傷があり、歩き慣れた人間らしい無駄のない動きをしている。
腰では、小さな真鍮札が揺れていた。
灯りを受けた瞬間、その表面の数字が見える。
四十四。
イリナの家で見つかった札と、同じ番号だった。
「お前、さっきから勝手に先へ行きすぎだぞ」
ローディスの声がした。
「迷ってないだろ」
「迷ったら困るから言ってるんだ」
「だったら、地図を作りながらついてこいよ」
「地図にない場所を歩かせてるのは誰だと思ってる」
男が笑った。
「第七係の仕事って、だいたいそういうものだろ」
その会話を聞いて、少し驚いた。
二十八年前の第七係にも、今の俺たちみたいなやり取りがあったらしい。
記録に残る人物というのは、もっと厳めしい顔で、難しいことばかり話しているものだと思っていた。
けれど、目の前の二人は違う。
ローディスは小言を言いながらも男を追い、四十四号の男も、その小言を聞き慣れているようだった。
ずっと一緒に働いてきたのだろう。
歩く速度も、危険な場所で互いにどこを見るかも、声を掛け合わなくても分かっているらしい。
リオルと俺も、周囲から見ればこんな感じなのかもしれない。
そう思ったところで、四十四号の男が足を止めた。
「……見ろよ、ローディス」
二人の前に、大きな石の壁があった。
◇
壁には、見たことのない文字が幾重にも刻まれていた。
文字だけではない。
波をかたどった線や、鳥の羽に似た模様、炎を囲む円、人の姿を描いた小さな図が、壁の上から下まで続いている。
ここまで来る途中で見た施設とは、明らかに作りが違っていた。
第四保全区や水底街の地下では、物を仕分けるための札や搬入印が使われていた。
けれど、この壁に刻まれているものは、単なる荷物の記録には見えない。
「……教会の壁画みたいだな」
ローディスが言った。
四十四号の男も壁を見上げる。
「俺もそう思った。でも、こっちの方が古いらしい」
「聖名教会より?」
「少なくとも、この区画の年代が正しければな」
ローディスが眉を寄せた。
「……だったら、どうして似てるんだ?」
「それを調べに来たんだろ」
男は携帯灯を高く掲げた。
灯りが壁を照らすと、細かな文字の並びが見えてきた。
俺には読めない古い字だった。
それなのに、不思議と意味の一部が伝わってくる。
ローディスがその文字を理解しているからだろうか。誰かの記憶を通して見ているせいか、彼が読んだ言葉が、翻訳されたように頭へ浮かんだ。
海。
火。
風。
石。
鳥。
人。
生と死。
世界にあるものが、種類ごとに分けられていた。
そして、それぞれの横には、同じ形の欄が二つ並んでいる。
『名称』
『帰属』
俺は息を止めた。
何度も見た言葉だった。
リゼの住民証明書でも、青鐘通りの装置でも、第四保全区の石扉でも。
名前と、そのものが属する先を示す言葉。
しかし、この壁に刻まれた文字は、俺たちが今まで見てきたものより、ずっと古いらしい。
「……これ、教会の教えに似てないか」
ローディスが言った。
四十四号の男も頷く。
「名前を与え、あるべき場所へ結ぶ。聖名教会でも、似た話をするな」
「似てるどころじゃない。ここに書かれた言葉を、そのまま教義へ使ったようにも見えるぞ」
「じゃあ、教会がここから持っていった?」
「分からん。それを決めるには、ほかの記録も必要だ」
ローディスの慎重な答えに、男が笑った。
「相変わらずだな」
「記録官だからな」
「だから一緒に来てもらったんだよ」
その何でもない返事が、妙に耳に残った。
俺が第七係へ入った頃、係長も似たことを言っていた。
得意なことが違う人間を集めた方が、面倒な落とし物は見つかりやすいのだ、と。
昔の第七係も、同じ考えで動いていたのだろうか。
そんなことを思っているうちに、ローディスの視線が壁の一番下へ向いた。
四十四号の男が、そこを指していた。
「……ここ、変じゃないか」
それまでと同じ並びだった。
一つの分類を示す古い文字があり、その横に名称欄と帰属欄が続いている。
ただし、ほかの行とは違う。
分類を示す文字は、ローディスの理解を通して、こう読めた。
『神』
俺はしばらく、その文字を見つめていた。
その横にも、名前があるはずだった。
海や火や人には、きちんと文字が入っている。
だが、神の行だけは違った。
名称欄が空白になっていた。
「……読めないだけじゃないのか?」
ローディスが尋ねる。
四十四号の男は壁へ顔を近づけた。
「違う。ここは名称を書くための欄だ」
「文字が削れたのかもしれない」
「それなら傷が残るだろ」
男は灯りの角度を変えた。
石の表面に影が落ちる。
確かに、そこには文字がない。
削り取った跡も、傷も、ほかの欄に見えるような細い刻みも残っていなかった。
初めから、そこだけ何も書かれなかったようだった。
「……記載し忘れたのか?」
ローディスが呟く。
「こんなに細かく分類を残した人間が?」
「じゃあ、なぜ空白なんだ」
四十四号の男は答えなかった。
彼が灯りを近づけると、腰の真鍮札が小さく鳴った。
さっきまで軽口を叩いていた顔から、笑みが消えている。
「ローディス」
「何だ」
「神の名前がない」
その声を聞いた瞬間、俺は古い石壁から目を離せなくなった。
◇
聖名教会の教えは、王都で暮らしていれば、誰でも一度は耳にする。
この世界にある名前は、神から授けられたものだという。
海が海で、鳥が鳥で、人が人として生まれるのも、最初に神がそれぞれへ名前を与えたからなのだそうだ。
俺の家でも、祭礼の日には教会へ行っていた。
熱心な信者というほどではなかったが、母は俺の名前について、こんなことを言ったことがある。
『セインって名前は、あんたが生まれた時に持ってきたものなのよ。母さんは、それを見つけただけ』
幼い俺には、よく分からなかった。
赤ん坊だった自分が、名前を書いた札でも首から下げていたのかと聞いて、笑われたことを覚えている。
それくらい、名前が与えられるという考え方は身近なものだった。
だからこそ、目の前の空白は奇妙だった。
すべてに名前を与えたとされる神の、名前を書く欄だけが空いている。
たったそれだけのことなのに、子供の頃から当たり前に聞いてきた話が、少し違って見えた。
俺はここで初めて気づいた。
神様に名前を与えたのは、いったい誰なのだろう。
壁に答えはなかった。
ローディスも、四十四号の男も、長い間黙っていた。
◇
景色が揺れた。
石壁の色が薄れ、今度は別の部屋が現れる。
そこには古い机が一つあり、四十四号の男が紙へ何かを書き写していた。
ローディスはその向かいに立ち、背後の扉を何度も確かめている。
さっきまでの余裕が、二人から消えていた。
「……それ、王都へ持って帰るつもりか」
ローディスが尋ねた。
「そのために来たんだろ」
「全部?」
四十四号の男が手を止めた。
紙には、壁の模様が細かく写されている。
「……全部は、まだやめておこう」
「何を隠す気だ」
「隠すと決めたわけじゃない」
男は少し苛立ったように答えた。
「ただ、見つけたものを何も考えず持ち帰って、報告書に書けば済む話じゃないだろ」
「俺たちは調査に来たんだぞ」
「分かってる」
「なら、記録するのが仕事だ」
「記録はしてる。でも、誰へ渡すべきかは別の話だ」
ローディスが黙った。
男は紙を折りたたみ、その端を指で押さえた。
「なあ、フェン。教会は、世界にある名前を神が授けたと教えている」
「それが?」
「じゃあ、神の名前は誰が授けたんだ?」
ローディスはすぐに答えなかった。
俺も答えられない。
「そんなこと、ここで決められるわけがないだろ」
「そうだよ。決められない」
四十四号の男は顔を上げた。
「だから怖いんだ」
いつもの軽い口調ではなかった。
「この壁が何を意味してるのか、俺たちにはまだ分からない。神の名が消えたのか、初めから記されなかったのか、それとも別の理由なのか」
「……ああ」
「なのに、これを見れば勝手に答えを出す奴がいるかもしれない」
ローディスは男の顔を見た。
「教会のことか?」
「教会だけとは限らない」
その返事が妙に重かった。
王国の人間かもしれない。
保全院に連なる誰かかもしれない。
あるいは、俺たちがまだ知らない別の集団なのかもしれない。
今の俺には、誰のことを話しているのか分からなかった。
「……この場所は、ほかにも知られてるのか?」
ローディスが尋ねた。
男は少し迷ってから首を振る。
「少なくとも、俺はそういう記録を見つけてない」
「それなら」
「でも、誰も知らないって保証もない」
ローディスはため息をついた。
それから、机の上へ両手をつく。
「……お前さ」
「何だよ」
「こういう時ばっかり、面倒なことを考えるな」
四十四号の男が少し笑った。
「第七係だからな」
「都合のいい時だけそれを言うな」
ローディスも笑った。
ただ、その笑顔は長く続かなかった。
「……報告しなかったら、お前が責任を取ることになるぞ」
「そうだな」
「俺もだ」
「巻き込んで悪い」
「もう巻き込まれてるよ」
二人は顔を見合わせた。
仕事仲間だからこそ、簡単に責任を押しつけられないのだろう。
俺は何だか、係長と夜遅くまで報告書を直していた時のことを思い出した。
失敗すれば怒られる。
でも、だからといって、分からないことを適当に書いて済ませるわけにはいかない。
四十四号の男も、同じようなことを考えていたのかもしれなかった。
◇
突然、記憶が乱れた。
机が消え、暗い通路が現れる。
さっきまで静かだった施設の奥で、何か大きなものが動いている。
視界が大きく揺れた。
ローディスが走っているらしい。
足元には浅い水が流れ、壁の隙間から赤い光が漏れていた。
「……ローディス!」
四十四号の男が叫ぶ。
「早くしろ! 道が閉じる!」
金属が擦れる音が響く。
ローディスは振り返った。
男が古い扉の前に立ち、何かを操作している。
腰の真鍮札が揺れて、小さな音を立てていた。
「……家族には?」
ローディスの声だった。
四十四号の男は一瞬だけ手を止めた。
「何も言うな」
「それでいいのか!」
男がこちらを振り返る。
さっきまでの笑顔はなかった。
ひどく疲れた顔をしている。
「よくない!」
即答だった。
怒鳴り声というより、自分に言い聞かせるような声に聞こえた。
だが、それ以上は聞き取れなかった。
視界の端で赤い光が弾け、壁の文字が滲んでいく。
水の音が大きくなる。
ローディスの手が何かをつかもうとしたところで、景色が白く途切れた。
◇
「……セイン!」
声がした。
誰かに肩を支えられている。
目を開けると、第五確認室の床が見えた。
自分の手がある。
足も動く。
ただ、頭の奥が重く、すぐには立ち上がれなかった。
「……聞こえますか?」
顔を上げる。
エルセがすぐ近くにしゃがんでいた。
いつもより少し眉を寄せている。
「……聞こえる」
「気分は?」
「頭が、ちょっと重い」
「吐き気は?」
「ないと思う」
「『と思う』は、やめてください」
「……ない」
エルセはようやく息を吐いた。
俺も深呼吸する。
冷たい地下の空気が、胸へ戻ってくる。
「……お前は?」
「少し気分が悪いです。でも、立てます」
「見たんだな」
「ええ」
「……同じもの?」
「たぶん」
エルセは保全槽を見た。
「ローディス・フェンの記憶。四十四号の男。そして、古い石壁」
「……神の名前がなかった」
口にすると、ようやく現実の出来事として感じられた。
エルセは頷いた。
「少なくとも、私たちが見た記録の名称欄は空白でした」
「お前、知ってた?」
「いいえ」
「保全院でも?」
「私は見たことがありません」
彼女は少し間を置いた。
「聖名教会が知っているかどうかも、分かりません」
俺は床へ座り直した。
古い施設の記録に、神の名前がない。
それだけのことなら、昔の誰かが書かなかっただけかもしれない。
でも、もし違ったら。
誰かが消したのだとしたら。
名前や帰属を扱う仕組みが、俺たちの知っているものより古くから存在していたのだとしたら。
考えることが一度に増えすぎて、うまく整理できなかった。
「……なあ」
「はい」
「神様って、名前がなくても神様なのかな」
エルセは俺を見た。
「私に聞きますか?」
「ほかにいないだろ」
「……そうですね」
彼女はしばらく考えた。
「そもそも、あの石壁が本当に何を意味していたのか分かりません。教会の教えと似ているからといって、同じ意味で使われていたとも限りませんし」
「うん」
「それに、名前が書かれていないことと、名前が存在しないことは違います」
俺は顔を上げた。
確かに、そうだった。
「……書かなかっただけかもしれない」
「ええ。逆に、書けなかったのかもしれません」
「誰かに消された?」
「それも一つの可能性です。でも、まだ確かめられていません」
エルセの声は落ち着いていた。
ただ、灯りを持つ指が、いつもより強く柄を握っている。
「……怖い?」
俺が尋ねると、彼女は少し驚いた顔をした。
「怖いですよ」
「……あっさり言うな」
「怖くない方がおかしいでしょう」
エルセは小さく息を吐いた。
「世界中の子供が聞いて育つ話に、知らない続きがあったかもしれないんです。しかも、その続きを知っていた人が、二十八年前に誰からも忘れられている」
彼女は保全槽を見つめた。
「私は、そういうことが平気だと思えるほど、冷静な人間ではありません」
その言葉を聞いて、少し肩の力が抜けた。
エルセも分からないのだ。
知識があるように見えるし、古い施設の扱いにも慣れている。
でも、今見たものは、彼女にとっても初めてだった。
「……なんか安心した」
俺が言うと、エルセが眉を上げた。
「私が怖がっていることに?」
「いや、一人で分からなくなってるわけじゃないってことに」
彼女は少しだけ口元を緩めた。
「……それなら、よかったです」
俺は壁へ背中を預けた。
今は神様のことを考えているのに、頭の片隅では、リゼがここにいたら何と言うだろうと思っていた。
あいつなら、案外簡単に答えるかもしれない。
名前がないなら、つければいいじゃないですか、と。
そんな顔が浮かんで、思わず笑いそうになる。
「……何です?」
エルセが尋ねた。
「リゼなら、どう答えるかなって」
「あの子なら、面白いことを言いそうですね」
「だろ」
「でも、あとでちゃんと聞いてあげてください」
「……もちろん」
俺は頷いた。
早く戻りたい。
けれど、今はもう少し確かめなければならないことがあった。
◇
「……四十四号の男のことも、気になります」
エルセが言った。
俺も頷く。
「最後の会話だろ」
「はい。家族について何か話していました」
あの瞬間の声が、まだ耳に残っている。
よくない。
四十四号の男は、そう答えた。
何がよくなかったのだろう。
家族へ何も知らせないことか。
誰かを危険に巻き込むことか。
それとも、あの時すでに何かが起きていたのか。
「……自分から消えたって、セヴァンは言ってた」
俺が呟く。
「ええ」
「でも、あの記憶を見ただけじゃ、何を選んだのか分からないな」
エルセは静かに頷いた。
「最後の場面は、かなり乱れていました。あの後に何が起きたのかも分かりません」
「……うん」
「家族の話が出たからといって、その家族が誰なのかも、まだ確認できていません」
イリナとトーマの顔が浮かぶ。
真鍮札の音。
家に残っていた古い箱。
パンの端を残す癖。
あの二人と四十四号の男が無関係だとは、もう思いづらい。
それでも、今の俺たちが知っていることと、まだ知らないことは分けておかなければならなかった。
「……イリナさんに、今のことを話すのは早いかな」
尋ねると、エルセは少し考えた。
「何を見たのかは、伝えられるかもしれません。でも、その人がご家族だと決めつけるのは、まだ早いと思います」
「……そうだな」
俺は頷いた。
トーマには、父親のことを知りたい気持ちがある。
イリナも、誰かを待っていたことを覚えている。
だからこそ、確かめていないことを希望として渡すのは怖かった。
「……でも、探すのはやめない」
俺が言うと、エルセは首を傾げた。
「それは、誰のためですか?」
俺は少し考えた。
「……最初は、仕事だった」
「今は?」
「分からないことを、そのままにしたくない。それに、あの家の二人の顔を見たから」
彼女は黙って聞いていた。
「何があったかだけでも知りたいんだ。返せるかどうかは、その後で考える」
「……そうですか」
エルセが小さく頷いた。
俺は彼女を見た。
「お前は、どうして保全院にいるんだ?」
「前にも聞きましたね」
「うん。でも、もう一回聞きたい」
エルセはしばらく保全槽を見ていた。
やがて、静かに口を開く。
「必要な仕事だと思っているからです」
「記憶を預かることが?」
「それもあります。何もかも知られた方がいいとは限りません。誰かを傷つける情報だってありますから」
彼女はそこで一度言葉を切った。
「でも、それだけではありません」
「……何?」
「忘れさせるか、残すか、返すか。その判断を、誰かが勝手に決めてしまうことがあります」
俺は頷いた。
それは、今までの調査でも何度も感じていたことだった。
「……それが嫌なんだ?」
「ええ」
エルセは俺を見た。
「保全院から離れれば、そういう判断を見ずに済むかもしれません。でも、私がいなくなった後も、誰かが決めることには変わりがない」
「だから中にいる?」
「少なくとも、自分の目が届く仕事については、考えることをやめたくないんです」
その言い方が、妙にエルセらしかった。
彼女は何でも正しいと信じて仕事をしているわけではない。
かといって、嫌なことがあるから全部捨ててしまうわけでもない。
組織の中にいる以上、従わなければならないこともあるのだろう。
それでも、自分の判断まで預けるつもりはないらしい。
「……エルセ」
「何ですか?」
「ちょっと好きになった」
口に出してから、言い方がよくなかったかもしれないと思った。
エルセも一瞬だけ目を丸くした。
「……人として、ですか?」
「もちろん」
「今の間は何です?」
「言ってから考えた」
「先に考えてください」
「……ごめん」
エルセは困った顔で俺を見た。
それから、ふっと笑う。
「でも、悪い気はしません」
「……そっか」
「ええ」
俺は少し安心した。
「この前、俺のこと嫌いじゃないって言っただろ」
「言いましたね」
「一応、俺もそうだってことで」
「一応?」
「……かなり」
エルセは笑った。
「分かりました。信用を一回増やしておきます」
「まだ数えてたの?」
「あなたが始めたんでしょう」
そうだった。
俺も笑いながら立ち上がった。
さっきまで重かった頭が、少しだけ楽になっている。
もちろん、神の名称欄が空白だった理由は分かっていないし、四十四号の男についても疑問は増えるばかりだ。
でも、今ここで一緒に考えてくれる人がいることは、ありがたかった。
◇
保全槽との接続を終えようとした時だった。
石台の奥で、小さな音が鳴った。
かちり、と何かが切り替わる。
俺とエルセが同時に振り返った。
先ほどまで暗かった金属板へ、古い文字が現れている。
「……何?」
俺が尋ねる。
エルセはすぐに灯りを近づけた。
「閲覧記録です」
「俺たちが見たこと?」
「そうです。でも……」
彼女の声が止まった。
俺は嫌な予感がした。
「……何かまずい?」
エルセは最後の一行を指した。
そこには、こう書かれていた。
『閲覧記録:管理権限へ通知』
俺は一度、文字を読み直した。
「……通知?」
「ええ」
「誰に?」
「まだ分かりません」
「じゃあ、どこへ?」
「それも、この表示だけでは」
エルセは認証札を取り出し、別の欄を確かめた。
しかし、文字は変わらない。
『管理権限へ通知』
短い一文だった。
なのに、今まで見てきたどんな大きな装置より、不気味に感じられた。
「……誰かが、今もこの施設を管理してるってこと?」
「そうとは限りません。古い仕組みが、決められた宛先へ自動的に報告しているだけかもしれません」
「でも、届く先が残ってたら?」
エルセは顔を上げた。
「……私たちが記録を見たことを、知られる可能性があります」
俺はローディスの保全槽を見た。
二十八年前の記録。
四十四号の男が、誰へ渡せばいいのか分からないと言っていた情報。
その情報を、俺たちは今、見てしまった。
「……取り消せる?」
「少なくとも、今の私の認証では無理です」
エルセは札をしまい、部屋の奥へ灯りを向けた。
「ここを離れましょう」
「……分かった」
俺は頷いた。
急ぎたかった。
でも、ただ走って逃げても、また道を間違えるかもしれない。
エルセは部屋の奥に続く細い線を調べている。
「……こちらです」
「何か見つけた?」
「確認室同士をつなぐ作業通路が、一時的に開いています」
「ほかの区画へ行ける?」
「中央付近までは行けるはずです。閲覧処理が終わったことで、古い認証が短時間だけ有効になっています」
俺は顔を上げた。
「……リゼたちのところへ近づける?」
「可能性はあります」
それだけで、身体が動きかけた。
エルセが俺を見た。
「今度は、道を確かめてから走ってください」
「……そんなに信用ない?」
「ありません」
即答だった。
「さっき増やした一回は?」
「あれは別です」
「厳しいな」
「正しい判断だと思います」
エルセは少し笑った。
俺も頷き、携帯灯を持ち直す。
第五確認室を出る直前、もう一度だけ保全槽を振り返った。
ローディス・フェンの名前は、変わらず金属の枠へ刻まれている。
四十四号の男は、あの場所で神の名前がないことを見つけた。
ただ、その空白が何を意味していたのか、なぜ彼が家族へ何も言うなと答えたのか、まだ何一つ確かめられていない。
そして、今はもう一つ問題が増えた。
俺たちがあの記録を見たことを、施設のどこかが知っている。
俺は無意識に、左手を握っていた。
知らない名前を探して、ここまで来た。
なのに今は、こちらの名前の方が先に知られてしまったような気がした。
「……セイン」
エルセの声がした。
「行きますよ」
「ああ」
俺は保全槽から目を離し、彼女の後を追った。
今は何より、仲間たちの声をもう一度聞きたかった。




