↓ ↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
王都の返却士 ~その落とし物、世界のものです~  作者: 紙森 灯
第三章 誰も覚えていない男

この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

57/100

第五十四話 隣にいない声

 

 エルセは、保全槽から手を離した。


「……忘れさせるために、預けられた記憶もあります」


 その言葉が、湿った廊下へ静かに落ちた。


 俺は目の前に並ぶ円筒形の装置を見た。古い金属の枠に収められた槽は、どれも曇った硝子で覆われ、中に何があるのかは見えない。壁の奥から低い振動が伝わり、時折、どこかで水が流れる音がした。


「忘れたものを預かるのと、忘れさせるのは違うだろ」


「ええ」


「じゃあ、ここにあるのはどっちなんだ?」


「それを確かめるための記録も残っているはずです。ただ、槽だけを見ても分かりません」


 エルセは灯りを少し高く持ち上げた。


「自分の意思で預けた人もいるでしょう。何かを守るために預けた人も。けれど、本人が望んだかどうか、記録を読まなければ分からないものもあります」


「……それ、保全院ではどう扱うの?」


「手続き上の承認があれば、保全済みの記録として扱います」


「本人の気持ちは?」


 彼女はすぐに答えなかった。


 代わりに、すぐそばの槽へ灯りを向ける。その表面には古い番号と、いくつかの細かな記号が残っていた。


「……それが、必ずしも記録と同じとは限らないんです」


 小さな声だった。


 俺はイリナの顔を思い出した。


 誰かの帰りを待っていたことだけ覚えている女性。パンの端を残す息子を見て、何でもない昔話のように笑っていた人。


 彼女は、忘れたいと言ったのだろうか。


 あるいは、忘れたくなかったのに、そうするしかなかったのだろうか。


 それを知っている人間は、まだ見つかっていない。


「……行きましょう」


 エルセが言った。


「この区画には通路が続いています。別の保全区画へつながる経路があるかもしれません」


「リゼたちのところへも?」


「保証はできません。でも、ここで立ち止まっているよりは」


 俺は頷いた。


 何かを返すために来たはずなのに、今は仲間のところへ戻る道さえ分からない。


 俺たちは互いの灯りを確かめ、保全槽の間へ歩き出した。


     ◇


 リゼがいない。


 そのことを最初に実感したのは、何か大きな出来事があった時ではなかった。


 通路の左側に、靴底の形によく似た古い印を見つけた時だ。


「……なあ、これって」


 何気なく隣へ声をかけ、顔を向ける。


 そこにいたのは、灰色の髪の女性だった。


「何ですか?」


 エルセが尋ねた。


「……いや」


「何か見つけたんですか?」


「壁の印が靴底みたいだなと思って」


 彼女は灯りを近づけた。


「搬入台車の車輪跡を示す印でしょうね」


「そうか」


「それで?」


「いや、それだけ」


 エルセは俺を見た。


 少し考えてから、妙に納得した顔になる。


「……リゼさんへ話しかけるつもりだったんですね」


「……分かる?」


「今ので二度目です」


「二度?」


「私へ話しかけてから、少し困った顔をするのが」


 そんなに分かりやすかっただろうか。


「別に、エルセが嫌なわけじゃないぞ」


「分かっています」


「だったらいいけど」


「ただ、あまり残念そうにされると、私も反応に困ります」


「……ごめん」


 エルセは少し笑った。


「謝ることでもありません。いつも隣にいる人がいなければ、調子が狂うでしょう」


 俺は返事をしなかった。


 何度も一緒に仕事をしてきた。


 王都からラヴェルへ向かう旅の間も、リゼはずっと隣にいた。


 靴を見れば俺より先に穴を見つけることもあるし、食べ物の匂いがすれば必ず振り返る。分からないことがあればすぐに聞いてくるし、俺が何かをごまかそうとすると、妙に鋭い。


 そういう声が、今は聞こえない。


 どれだけ静かな廊下でも、普段ならもう少し賑やかだったのだろうと思う。


「……リゼは、リオルと一緒にいるんだよな」


 俺が尋ねると、エルセは頷いた。


「分離するところを見ました」


「ティセラは一人」


「ええ」


 俺は少し歩調を落とした。


 それを見て、エルセも足を緩める。


「……心配ですか」


「そりゃな」


「リオルさんは、相当強い方でしょう」


「うん」


「なら、彼を信用したらどうですか」


「信用はしてるよ」


「では?」


「信用してるのと、心配しないのは別だろ」


 エルセはしばらく黙った。


 そのまま何歩か進んでから、静かに答える。


「……そうですね」


 少し意外な返事だった。


 いつもの彼女なら、もっと理屈で返してきそうな気がした。


「何?」


 エルセが尋ねる。


「いや、今日は簡単に納得するんだなって」


「私だって、納得することくらいあります」


「そうだった」


「ただ、リゼさんが無事かどうかは、ここからでは確かめられません」


 彼女は正面を見た。


「だったら、確かめられる場所へ行きましょう」


 俺も前を向いた。


 安心するための言葉をもらったわけではない。


 でも、何をすればいいかは分かった。


     ◇


 保全槽の列は、通路の奥へ行くほど密になっていた。


 大小さまざまな円筒が並び、壁には細い管と古い術式が走っている。装置のいくつかは完全に沈黙していたが、淡い光を残しているものもあった。


 俺はなるべく触れずに歩いた。


 それでも、表面の文字には目が向く。


『預託期間:七日』


 隣には、


『預託期間:二年』


 さらにその向こうには、数字が傷んで読めないものがあった。


「……こんなに違うんだな」


 俺が呟くと、エルセが頷いた。


「預かる記憶の量や目的によって、手続きも変わります」


「一人の記憶を、丸ごと?」


「それも理論上は可能でしょう。でも、いつもそうするわけではありません」


「数日だけ、とか?」


「数秒の場合もあります。ただ、ここに使われている古い仕組みは、細かく切り分けるのが苦手だったようです」


 俺は足を止めた。


「……苦手?」


「例えば、朝食を食べたことだけを忘れさせるつもりでも、食べていた相手や、その日の会話まで一緒に失われるかもしれない」


「それ、随分雑じゃないか」


「記憶は、物のように一つずつ仕切られていませんから」


 彼女は槽に触れないまま、表面の文字を指した。


「この時代の術式は、境界を細かく指定するより、広い範囲をまとめて保全する方が容易だったようです」


 俺は少し考えた。


 ティセラの顔が浮かぶ。


 あの人は、今まで調べてきたことを細かく覚えている。


 青鐘通りの地図も、古い記録の書式も、ほとんど読むだけで頭へ入れてしまう。


 もし、そのうち何か一つを取り出そうとして。


 関係のないことまで、一緒に消えてしまったら。


「……エルセ」


「はい」


「ここに来た人が、知らない間に余計なものまで失うこともあるのか?」


 彼女は少し間を置いた。


「あります」


「……それも保全済み?」


「記録の上では、そう扱われたものもあるでしょう」


「ひどいな」


「ええ」


 エルセの声には、いつもの硬さがなかった。


 俺は彼女を見た。


「……お前、それを嫌だと思ってるんだな」


「嫌ですよ」


「回収係なのに?」


「仕事と、好き嫌いは別です」


 彼女は灯りを持ち直した。


「失うと危険な記憶もあります。人を傷つける情報も、誰かを追い詰める情報も。だから私は、何もかも返せばいいとは思っていません」


「……うん」


「でも、だからといって、全部を取り上げていいとも思いません」


 その言葉を聞いて、少しだけ彼女の仕事が分かった気がした。


 理解できたわけではない。


 まして、王都で瓶を奪おうとしたことを許したわけでもない。


 それでも、エルセは命令だから何も考えずに働いているわけではないらしかった。


「……お前さ」


「何ですか?」


「そういう話、最初からしてくれればよかったのに」


 エルセは俺を見た。


「最初から信用してくれました?」


「……しなかったかも」


「でしょうね」


 彼女は少しだけ笑った。


 悔しいが、言い返せなかった。


     ◇


 通路の先に、分岐が現れた。


 右側には保全槽がさらに続き、左側は細い石橋になっている。


 橋の下は真っ暗で、灯りを向けても底が見えない。


 どこかで水が流れる音だけが聞こえていた。


「……どっち?」


 俺が尋ねる。


「左です」


 エルセはすぐに答えた。


「分かるの?」


「点検用の記号が、こちらに続いています」


 彼女は橋の手前へしゃがみ、石床に刻まれた印を確かめた。


「『搬入優先』『回収者通行可』……古い通行区画ですね」


「俺は通れる?」


「外部対象の扱いになっています」


「……扱いが雑だな」


「施設へ言ってください」


 俺も隣へしゃがむ。


 橋は幅が狭いものの、石の継ぎ目に大きな亀裂は見えない。湿り気はあるが、中央には滑り止めの細い溝が刻まれていた。


 向こう岸までは、十数歩ほどだろう。


「……足場は悪くなさそう」


 俺が言うと、エルセが顔を上げた。


「靴を見ているんですか」


「橋も見てるよ」


「なら安心しました」


「最近、俺が靴しか見ないことになってない?」


「違うんですか?」


「違うよ」


 エルセが少し笑った。


 俺は立ち上がり、もう一度橋を見た。


 横へ逃げる場所はない。


 万が一途中で何かが動けば、かなり危険だろう。


「……渡れる?」


「慎重に試しましょう」


 エルセが先に一歩乗った。


 床は動かない。


 二歩目。


 まだ何も起きなかった。


「……今のところ問題ありません」


 彼女が言う。


 俺も後へ続いた。


 橋は見た目よりしっかりしている。


 ただ、中央に近づいたところで、足元から小さな音がした。


 かちり。


 靴底の下で、何かがはまる感触。


 俺は動きを止めた。


「……エルセ」


「私も聞きました」


 橋の表面に文字が浮かび上がる。


『回収権限:一名』


『外部対象:一名』


『通行優先順位を確認』


「……これ、よくないやつ?」


 俺が尋ねる。


「かなり」


 エルセが答えた。


 その直後、俺の立っている側の石床が、わずかに下がった。


「……おい」


「動かないでください」


「落ちる?」


「このままなら、可能性があります」


「他人事みたいに言うなよ」


「私もここにいます!」


 床がもう一度沈んだ。


 橋の中央から、低い音が響く。


 エルセは金具の位置を見ながら、素早く外套の内側を探った。


「……一つ、試します」


「何を?」


「回収係が搬送に使う仮札です」


 彼女が取り出したのは、薄い金属の縁がついた小さな札だった。


 正式な認証札とは違う。


 表面はほとんど無地で、端に小さな回収印がある。


「……それ、鍵?」


「違います。荷物を運ぶ時に、回収者と搬送対象を紐づけるためのものです」


「……嫌な予感しかしないんだけど」


 エルセが俺を見た。


「先に説明します。あなたを、一時的に回収対象として登録するつもりです」


「……人間を?」


「施設が区別できないなら、その仕組みを利用します」


 俺は少し眉を寄せた。


「俺、物じゃないぞ」


「知っています」


「知っててやるの?」


「この札で人間の性質が変わるわけではありません。古い装置の通行判定をごまかすだけです」


 彼女はそこで、珍しく言葉を選んだ。


「……嫌なら、別の方法を考えます」


 床がまた沈んだ。


 向こう岸へ続く橋の一部が、ゆっくり引っ込んでいく。


 別の方法を考える時間は、あまりなさそうだった。


「……仮札をつけるだけ?」


「ええ。少なくとも、この手続きでは」


「俺の名前とか、勝手に預けたりしない?」


「しません。そんな権限もありません」


「……分かった。やって」


 俺が答えると、エルセは頷いた。


 すぐに札を胸元へ当てようとして、今度は一度手を止める。


「ここにつけます」


「……どうぞ」


「さっきから何です、その顔」


「急に人の胸へ手を伸ばすから、ちょっと驚いただけ」


「今度は説明しました」


「うん。助かった」


「……いちいち面倒ですね」


 文句を言いながらも、彼女は丁寧に札を取りつけた。


 冷たい金属が服へ触れる。


 エルセはもう一枚、自分の正式な認証札を取り出して橋へ当てた。


 淡い光が走る。


『回収者:一名』


『回収対象:一件』


『同行搬送を許可』


 橋の傾きが止まった。


「……通った?」


「判定は通りました。でも、まだ動かないで」


 エルセは文字を追った。


 次の行が浮かぶ。


『回収者による保持を確認』


「……保持?」


 俺が聞く。


「対象を離さずに運ぶ必要があるようです」


「……どうやって?」


 エルセは俺を見た。


 それから、手を差し出した。


「つかまってください」


「……手?」


「腕でも構いません。転ばない方を選んでください」


 俺は一瞬だけ考えた。


 手を取る方が、歩きやすそうだった。


「……じゃあ、手で」


「どうぞ」


 エルセの指は思っていたより冷たかった。


 細いのに、握る力はしっかりしている。


 何かを引っ張るためではなく、転ばないよう支えるための握り方だった。


「……行きますよ」


「うん」


 二人で歩き始める。


 橋がゆっくり水平へ戻り、向こう岸へ続く部分が伸びていった。


 足元はまだ揺れている。


 俺は歩幅を合わせながら、時々、橋の継ぎ目を確かめた。


「……セイン」


「何?」


「足元は見てくださいね」


「見てる」


「今、少し考え事をしていたでしょう」


「……何で分かるの」


「手に力が入りました」


 確かに、少し握り返していた。


 理由は分かっている。


 リゼがいないことを、また思い出したからだ。


 いつもなら、こんな危ない橋を渡る時、あいつは真っ先に何か言っただろう。


 怖いと素直に言ったかもしれないし、意外と楽しそうに渡ったかもしれない。


 どちらにしても、声が聞こえていたはずだ。


「……リゼさんのこと?」


 エルセが尋ねた。


 俺は頷いた。


「……うん」


「大事なんですね」


「ああ」


 思ったより、簡単に返事が出た。


 エルセは少しだけ微笑んだ。


「そういう人がいるのは、いいことだと思います」


「……お前にもいる?」


「家族も友人もいますよ」


「何か意外」


「失礼ですね」


「いや、仕事が忙しそうだから」


「忙しくても、仕事以外の生活くらいあります」


「……そうだよな。ごめん」


 エルセは小さく息を吐いた。


「謝るんですね」


「悪かったから」


「……そういうところは、嫌いじゃありません」


 言ってから、彼女はほんの少しだけ目を逸らした。


 俺も返事に迷う。


「……それ、どう受け取ればいい?」


「人として、です」


「分かってるよ」


「なら、普通に受け取ってください」


「……ありがとう」


 エルセは、ようやくいつもの顔に戻った。


「どういたしまして」


 会話をしている間に、橋の向こう岸が近づいていた。


 気がつけば、さっきほど足元へ力を入れずに歩けている。


 もちろん、安全になったわけではない。


 ただ、一人で足場を確かめながら渡るより、ずっと落ち着いていた。


     ◇


 向こう岸へ着くと、俺の胸元に取りつけた仮札から光が消えた。


 エルセが手を離す。


 少し遅れて、仮札も外れた。


「……終わりです」


「もう外していい?」


「はい。こちらで回収します」


 彼女は札を受け取り、傷がないか確かめてからしまった。


「……それ、俺の名前とか残ってない?」


「残っていません。回収対象を一件運んだ記録だけです」


「ならいいけど」


 俺は胸元を見下ろした。


 何も残っていない。


 ただ、さっきの橋が俺を『対象』として数えていたことだけが、少し気になった。


「……今度は、普通に歩ける道がいいな」


 俺が言うと、エルセが頷いた。


「私もそう思います」


「お前でも怖かった?」


「足場が落ちるのは、普通に怖いですよ」


「〈保留〉で止められない?」


「動いている金具を止めることはできます。でも、橋全体が落ちれば、どうにもなりません」


「……そうだった」


「三秒は長くないので」


 俺は小さく笑った。


「もう覚えたよ」


「今のところ、怪しいですね」


 そう言いながら、エルセも笑った。


 敵だと思っていた人と、同じことを笑っている。


 少し前なら、想像もしなかっただろう。


 だからといって、全部信用したわけではない。


 彼女にはまだ、話してくれないことが山ほどある。


 それでも、今のところは、同じ道を歩けていた。


     ◇


 橋の先には、いくつもの小部屋が並んでいた。


 それまでの保全槽とは違い、扉は人が出入りするための大きさだ。


 どの扉にも古い印が刻まれ、いくつかには細い覗き窓が残っている。


「……ここは?」


 俺が尋ねる。


「記憶を預ける前の確認室でしょう」


 エルセが答えた。


「本人が来て、何を預けるか確認する場所です」


「……本人が来る?」


「自分で手続きをする人もいたはずです」


「ほかには?」


 エルセは少し間を置いた。


「……連れてこられた人もいたかもしれません」


 俺は最初の扉を見た。


 中には古い椅子が一脚あり、机のようなものが固定されている。


 壁に刻まれた文字は、ほとんど読めない。


「……ここで、忘れるものを決めたんだな」


「おそらくは」


「帰る時には、もう忘れてる?」


「手続きによります」


 エルセは少し考えた。


「ただ、預託の記録が残っていれば、いつか返すための手がかりにはなります」


「……それが残っていない人もいるんだろ」


「ええ」


 俺はマーロの顔を思い出した。


 革靴に残った名前を読んでも、自分では思い出せなかった男。


 返却票には、確かに『マーロ・ディン』と書かれていた。


 けれど、最後の行は『保全中』だった。


 あの人の名前は、どこへ行ったのだろう。


 そして、返すための記録は残っているのだろうか。


「……セイン」


 エルセが呼んだ。


「何?」


「また難しい顔をしています」


「考えてただけ」


「分かっています」


「……毎回言う必要ある?」


「今は前も見てほしいので」


 彼女が灯りを向けた先に、別の扉があった。


 その前の石床には、最近ついたような靴跡が残っている。


 俺はすぐにしゃがみ込んだ。


「……誰か通ってる」


「分かりますか?」


「うん。古い埃が崩れてない。何日も前じゃないと思う」


 細い靴跡だった。


 踵の形からすると、俺たちより少し前に通った人物は、それほど体格が大きくないのかもしれない。


 ただ、誰のものかまでは分からない。


「……一人?」


 エルセが尋ねる。


「見える範囲では。でも、ほかに通ってないとは言い切れない」


「分かりました」


 彼女は灯りを少し下げた。


 俺も音を立てないよう立ち上がる。


 その時、通路の奥から金属が擦れる音がした。


 短く、鋭い音だった。


 続いて、何かがはまるような小さな衝撃。


 俺とエルセは、同時に足を止めた。


「……人?」


 俺が小声で聞く。


「分かりません。ただ、何かを操作している音です」


 彼女は一度、周囲を確かめた。


「近くの扉へ身を寄せましょう。通路の中央は危険です」


 俺は頷いた。


 二人で壁際へ移動し、角の向こうへ灯りを向ける。


 そこに、人影が見えた。


     ◇


 顔を布で隠した細身の男だった。


 手には小型の投射器を持っている。


 俺たちに気づいたらしい。


 男は躊躇なく投射器を構えた。


「……伏せて!」


 エルセが叫ぶ。


 俺は身を引いた。


 細い金属棒が、さっきまで顔のあった場所を通り抜ける。


 背後の扉へ突き刺さった。


 硬い音が響く。


「……危なっ!」


「顔を出さないでください!」


「出してない!」


「今は!」


 エルセは壁へ背を預け、相手の投射器を見た。


「装填式です。連続で撃てます」


「……よく分かるな」


「回収の現場で見ますから」


 次の金属音がした。


 男が投射器へ短い棒を装填している。


 俺はその動きを確かめた。


 金属棒が細い溝へ差し込まれ、固定される。


 次の瞬間、投射器がこちらへ向いた。


「……来る!」


 二本目が放たれた。


 エルセが手を上げる。


「〈保留〉!」


 棒が空中で止まる。


 俺たちの一歩先だ。


「三秒です。右へ!」


 俺は言われた通り、反対側の壁へ走った。


 エルセも同じ方向へ動く。


 次の瞬間、止まっていた棒が再び飛び、さっき俺たちのいた場所を通り抜けた。


「……助かった!」


「今のうちに距離を詰めます」


「投射器がまだあるぞ」


「だから、次の装填を見てください」


 エルセは相手の手元を指した。


「何をどこから撃つか分かれば、あなたの術も使えるでしょう」


 俺は一瞬だけ考えた。


 〈返却〉は、物を本来の持ち主や場所へ戻す術だ。


 撃たれた金属棒の持ち主までは分からない。


 けれど、どの溝に収まっていたかは、さっき見えた。


 完全に覚えているわけではないが、構造は単純だ。


「……試してみる」


 俺が答えると、エルセは頷いた。


「無理なら避けてください。今は私が一緒にいます」


 その言い方が、少しだけ意外だった。


 命令するのではなく、失敗してもいいと言っている。


 俺は息を整えた。


 男が三本目を装填する。


 今度は、はっきり見た。


 小さな金属棒が、投射器の溝へ入る。


 細い留め金が閉じる。


 男がこちらへ向けた。


「……今!」


 エルセの声が響く。


 金属棒が飛び出した。


 俺は左手を上げる。


 元の位置は、さっき見た装填溝。


 戻すのは、あの金属棒だけ。


「〈返却〉!」


 白い光が走った。


 棒が空中でわずかに揺れた。


 一瞬、前へ進もうとする力と、戻ろうとする力がぶつかる。


 その後、金属棒は勢いを失い、投射器の方へ逆戻りした。


 男が驚いて手を引く。


 棒は装填溝へぶつかり、留め金の横で引っかかった。


 小さな金属音。


 投射器の先端が傾き、男が舌打ちした。


「……今です!」


 エルセが飛び出す。


 俺も後へ続いた。


     ◇


 エルセは想像していたより、ずっと速かった。


 細い通路を一気に駆け抜け、投射器を直そうとしていた男の腕へ手を伸ばす。


 しかし、相手も慣れている。


 男は投射器を捨て、身体をひねってエルセの手を避けた。


 そのまま短い刃を抜く。


「……エルセ!」


 俺が叫ぶ。


「見えています!」


 彼女は刃の進路から身体を外した。


 男がもう一度腕を振る。


 エルセはその手首をつかもうとしたが、相手に振り払われた。


 刃が石壁へ当たり、火花が散る。


 俺は相手の横へ回り込んだ。


 男の注意がエルセへ向いている間に、落ちた投射器へ近づく。


 ただし、拾ったところで俺に使えるわけではない。


 むしろ、相手に取り戻させない方がいい。


 俺は足で投射器を壁際へ押しやった。


 男が気づき、こちらへ手を伸ばす。


 その隙に、エルセが腕を取った。


「……動かないで!」


 男は身体をひねり、強引に逃れようとした。


 エルセがよろめく。


 俺は反射的に相手の上着へ手を掛けた。


「……こっちもいる!」


 男がこちらへ向き直る。


 肩がぶつかった。


 想像より重い衝撃だった。


 俺は石壁へ背中を打ち、思わず息を詰める。


「……っ!」


 男が俺へ近づこうとした時、エルセが足元へ滑り込んだ。


 男は避けようとして、何かを落とした。


 小さな紙札だった。


 床へ滑った札を、エルセが見た。


 その表情が変わる。


「……待って」


 低い声だった。


 俺は足元へ目を向ける。


 紙札には、見覚えのない古い印があった。


「……それ、何?」


「移送係の印です」


 エルセが答えた。


 俺は顔を上げた。


「保全院の?」


「ええ」


「……仲間なのか?」


 エルセは即答しなかった。


 男はその隙に紙札へ手を伸ばしたが、俺が先に踏み押さえる。


「取らせない」


 男は初めて声を出した。


「……どけ」


 若い男の声だった。


 エルセがその前へ立った。


「あなた、移送係ですね」


 男は答えない。


「私たちを襲うよう、誰に指示されたんですか」


 相手の目が動く。


 けれど、口は開かなかった。


「……エルセ」


 俺が呼ぶ。


 彼女は男から目を離さない。


「何です?」


「知ってる人?」


「いいえ。でも、印は本物です」


「なら、何で同じ保全院の人間を襲うんだ?」


「私が聞きたいです」


 エルセの声は、さっきまでと違っていた。


 いつもの落ち着いた調子の奥に、はっきりした怒りがある。


「移送と回収は仕事が違います。権限を越えて現場へ干渉するなら、命令元を示す必要があります」


「……答えないつもりだと思うぞ」


「分かっています」


 エルセが短く返した。


 男は彼女の言葉を聞きながら、ゆっくり左手を下げていた。


 その動きに気づいた時には、もう遅かった。


 別の紙札が、床へ貼りついていた。


「……下がって!」


 エルセが俺の腕を引いた。


 直後、男の足元の石床が開いた。


 細い隙間ではない。


 人一人が通れるほどの穴だった。


 男は迷わずそこへ飛び込み、下の通路へ落ちていく。


「……逃げた!」


 俺が叫ぶ。


 エルセは開いた穴を覗いた。


 その向こうから、何かが閉じる音がする。


 次の瞬間、床は元の位置へ戻った。


「……追う?」


 俺が聞く。


 エルセは一度だけ、床に残された印を見た。


 すぐには答えない。


 相手を追いたいのだろう。


 その気持ちは俺にも分かった。


 誰が指示したのか。


 なぜ俺たちを襲ったのか。


 少なくとも、捕まえれば何か聞けるかもしれない。


 だが、俺たちはまだ、この地下がどういう造りなのかさえ知らなかった。


「……追いません」


 エルセが答えた。


「いいの?」


「今、あなたと離れるわけにはいきません」


「……俺?」


「施設があなたを未返却対象として参照しているんです。単独にしたら、何が起きるか分かりません」


「……保護対象?」


「その言い方も嫌ですが、今はそう考えてください」


「お前も嫌なのかよ」


「嫌ですよ。説明のつかない認証は」


 エルセは床の紙札を拾い、破れていない部分を確かめた。


 それから、もう一度男の消えた場所を見た。


 少し悔しそうな表情だった。


「……追いたかった?」


 俺が尋ねる。


「ええ」


「なら、俺のことは」


「置いていけと?」


 彼女が顔を上げた。


「……いや」


「だったら、そういうことです」


 声は静かだった。


 それでも、さっきまでの軽口とは違う重さがあった。


 俺は少しだけ迷った。


「……ありがとう」


 言うと、エルセは目を丸くした。


「何がです?」


「置いていかなかったこと」


 エルセはしばらく俺を見ていた。


 それから、視線を逸らす。


「……仕事です」


「そっか」


「ええ」


 少し間があった。


「……それだけでもありませんけど」


 聞き返そうと思った時には、彼女はもう歩き始めていた。


 俺はその背中を見た。


 今は、それ以上聞かなくてもいい気がした。


     ◇


 拾った紙札には、移送係の印のほかに、古い施設番号が残っていた。


『第五確認室』


 俺はそれを読み上げた。


「……近い?」


「この通路の先です」


 エルセが答える。


「知ってる場所?」


「配置図では見たことがあります。でも、実物は初めてです」


「何があると思う?」


「確認室ですから、記録を調べる設備があるはずです」


「……さっきの男は、そこへ行こうとしてた?」


「その可能性はあります」


 エルセは紙札を一度裏返した。


 印の周囲を確かめ、外套の内側へしまう。


「少なくとも、あの男がこの部屋を気にしていたことは確かでしょう」


 俺は頷いた。


 さっきの攻撃を考えると、安心して進める場所ではない。


 それでも、第五確認室を調べる意味はあった。


 ただし、相手が誘導するつもりで札を落とした可能性もある。


「……罠かもしれないな」


 俺が言うと、エルセは少しだけ笑った。


「今度は先に言いましたね」


「何が?」


「確認せずに突っ込まない、という話です」


「……成長しただろ」


「少しだけ」


「もうちょっと褒めてもよくない?」


「では、偉いです」


「……子供扱い?」


「希望に合わせました」


 俺はため息をついた。


 けれど、少しだけ肩の力が抜けていた。


 どうやらこの人は、俺が真面目にしすぎても、ふざけすぎても困るらしい。


 ちょうどいいところを探すのは、思ったより難しかった。


     ◇


 第五確認室は、ほかの部屋より大きかった。


 扉は半分ほど開いている。


 エルセが先に床の継ぎ目を調べ、俺は蝶番と足元の傷を確かめた。


 つい最近、何か重いものを引きずった跡がある。


「……誰かが開けたのかもしれない」


 俺が言うと、エルセが頷いた。


「でしょうね。あの移送係かもしれません」


 俺たちは灯りを低く向けたまま、中へ入った。


 室内には、古い机と椅子が残っていた。


 壁際には、いくつもの術式板が並んでいる。床には細い溝が刻まれ、中央の石台へ向かって集まっていた。


 部屋の奥には、ほかの槽より一回り小さな円筒が一つ置かれている。


「……あれ」


 俺が呟く。


 エルセも目を向けた。


 表面は曇った硝子で、中身は見えない。


 金属の枠には、古い第七係の印に似たものが刻まれていた。


「……第七係?」


 俺は一歩近づいた。


 エルセがすぐに腕を伸ばす。


「触らないでください」


「触らないって」


「確認です」


「……それ、多いな」


「あなたが何度も近づくからです」


 言い返そうとしたが、今のところ事実だった。


 俺は素直に足を止め、灯りを向けた。


 金属の表面には、細かな文字が刻まれている。


 最初の行を、エルセが読み上げた。


「……『預託者記憶』」


「記憶?」


「ええ。特定の人間に関する記録を保全した槽のようです」


「誰の?」


 彼女は文字を追った。


 次の行で、手が止まる。


「……セイン」


「何?」


「あなたも、見た方がいいです」


 俺は灯りを近づけた。


 そこにあった名前を、一度では理解できなかった。


『ローディス・フェン』


 喉の奥が、少し詰まる。


 二十八年前。


 ラヴェルへ来た第七係職員。


 四十四号の札を持つ男と一緒に、旧西税関第四保管庫へ向かった人物。


 その名前が、ここにある。


「……ローディス」


 俺は小さく読み上げた。


 エルセは答えず、文字を確かめ続けている。


「……この人の記憶?」


「少なくとも、その名前で登録されています」


「何が残ってるのか、分かる?」


「中の記録を閲覧すれば」


 俺は保全槽を見た。


 曇った硝子。


 古い金属。


 その向こうに、二十八年前の何かが残されているかもしれない。


 誰かが何を見たのか。


 何を隠そうとしたのか。


 あるいは、どうして四十四号の男が忘れられることになったのか。


 その手がかりが、ここにある。


「……見られる?」


 尋ねると、エルセは少し考えた。


「設備が正常なら、閲覧はできます。ただし、槽そのものを開けて中身を取り出す必要はありません」


「……安全?」


「分かりません」


 正直な答えだった。


 俺は少し笑った。


「……そこは変わらないな」


「保証できないものを、安全とは言いません」


 エルセは石台の方へ向かった。


 そこには、手のひらほどの窪みが二つある。


 中央から伸びた細い線は、ローディスの保全槽へつながっていた。


「……この部屋は閲覧用に作られています。少なくとも、記録を見るための設備は残っている」


 彼女が言う。


「じゃあ、何でまだ動かさないの?」


「外の区画が不安定だからです。それに、ここには別の問題もあります」


「何?」


「戻る道が分かっていません」


 俺は黙った。


 そうだった。


 俺たちは調べに来た。


 でも、それ以上に、仲間のところへ戻らなければならない。


「……この部屋に、経路の記録はある?」


 俺が尋ねると、エルセは壁の術式板へ目を向けた。


「可能性はあります。確認室なら、ほかの区画との移送記録も残っているはずです」


「……じゃあ、そこも調べよう」


「ええ」


 俺はローディスの保全槽へ目を戻した。


 この記録を見れば、二十八年前の事件へ近づけるかもしれない。


 そして、この部屋の記録を調べれば、リゼたちへ戻る道も見つかるかもしれない。


 どちらも、今の俺にとって大事だった。


     ◇


 その時、遠くで低い音が響いた。


 大きな石が動くような音だった。


 俺は反射的に振り返る。


「……リゼたち?」


 口から出た。


 エルセも音の方向を確かめた。


「別の区画からの振動かもしれません」


「……分かる?」


「断定はできません」


 俺は扉を見た。


 走り出したところで、どこへ行けばいいか分からない。


 それでも、胸の奥が落ち着かなかった。


 リオルがいる。


 リゼも、自分で考えて動ける。


 ティセラだって、あれだけ危険な施設を読み解いてきた人だ。


 分かっている。


 それでも、声が聞きたい。


 無事なのか、一度だけでも確かめたい。


「……セイン」


 エルセが呼んだ。


 俺は振り返る。


「何?」


「戻りたいですか」


 思っていなかった質問だった。


「……戻れるの?」


「今すぐは、分かりません。でも、戻ることを優先するなら、できるだけその方法を探します」


「……お前の仕事は?」


「あります」


「だったら、ここへ来た目的もあるんだろ」


「ええ」


 エルセは頷いた。


 俺は少し考えた。


「……正直に言うと、戻りたい」


 彼女は何も言わずに聞いている。


「でも、どの道を通ればいいか分からない。それに、ここまで来てローディスの名前まで見つけたんだ」


 俺は保全槽を見た。


「この記録も、調べたい」


 エルセは少しだけ微笑んだ。


「では、両方やりましょう」


「……そんなに簡単?」


「簡単ではありません」


「だよな」


「でも、一つを選んだら、もう一つを捨てなければならないとは限らないでしょう」


 俺は顔を上げた。


 エルセは室内の術式板を指した。


「私は、この施設を調べます。あなたは、ローディスの記録を確認する。それから、移送経路を探す」


「……協力してくれる?」


「ここまで来て、一人で帰すつもりはありません」


 声はいつも通りだった。


 それなのに、妙に安心した。


「……ありがとう」


 俺が言うと、エルセは小さく肩をすくめた。


「今日、何回目ですか」


「数えてない」


「今度は数えておきます」


「……そこまでしなくていいよ」


 彼女は笑った。


 俺も少しだけ笑い返した。


 そうして、気がついた。


 さっきから俺は、リゼのいない方へ何度も振り返っていた。


 今も、隣にいないことは寂しい。


 心配だし、早く会いたい。


 けれど、ここで誰かへ相談したいことができた時、もう何も考えずに左を向いているわけではなかった。


 エルセがどこにいるのか、自分で確かめている。


 その人が、今は隣にいる。


「……エルセ」


「はい」


「記録を見る時、そばにいてくれる?」


 彼女は一度、俺を見た。


 それから、静かに頷いた。


「もちろんです」


 短い返事だった。


 余計な冗談も、説明もなかった。


 俺は保全槽へ向き直る。


 古い第七係の印。


 その下に刻まれた、ローディス・フェンの名前。


 二十八年前の男が何を見て、何を残したのか。


 次に確かめるべきことは、もう決まっていた。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。