第五十三話 区画分離
足元の石板が震え始めた時、最初に聞こえたのは、ずっと下の方で歯車が噛み合う音だった。
水底街の地下に、これほど大きな装置が眠っているとは思わなかった。壁の奥から低い振動が伝わってきて、天井の継ぎ目に積もった細かな砂が、俺たちの肩へ降りかかる。
『区画分離を開始します』
古い声が、もう一度告げた。
床を走る光の線が強くなる。
俺とリゼの間に一本、リオルとティセラの間に一本。そして、少し離れた場所では、エルセの足元を囲むように円形の印が浮かんでいた。
「全員、動かないでください!」
エルセの声が響く。
「動かなかったら、そのまま分けられるんじゃないの?」
俺が聞くと、彼女は顔をしかめた。
「今動けば、移動先を再計算される可能性があります」
「動かなかったら?」
「予定どおり分けられます」
「……どっちも困るな」
「私も困っています!」
珍しく声を荒らげた。
それだけで、事態がよくないことは分かった。
俺たちは水底街の広場から、噴水の下に隠されていた階段を降りてきた。まだ古い施設の入口に着いたばかりで、ここから先へ進むかどうかさえ決めていない。
なのに施設の方が、勝手に俺たちの行き先を決めようとしている。
「ティセラ、何か読める?」
尋ねると、彼女はすでに片膝をつき、床の文字を追っていた。
「分類処理が先に走ってる。まだ移動先は確定していないみたい」
「止め方は?」
「探してるところ!」
ティセラは紙を広げ、〈転写〉で床に現れた文字を写し取った。
次々と表記が変わるため、同じ位置に刻まれた文字を何度も確認している。
「……あまり時間がないわね」
彼女の声が硬くなった。
俺はリゼを見た。
その首元では、赤い封蝋が淡く光っている。
ついさっきまで、リゼは封蝋が少し温かいとしか言っていなかった。今は服の襟の内側からでも、色が変わっているのが分かる。
「……痛い?」
小声で尋ねる。
「まだ。でも、引っ張られる感じがします」
「どこへ?」
リゼは通路の奥を見た。
「……あっちです」
彼女が指した先は、暗闇が続いているだけだった。
その直後、リゼの前へ新しい文字が浮かび上がる。
『預託対象:確認中』
俺は思わず奥歯を噛んだ。
また、その呼び方だ。
「……リゼは預け物じゃないぞ」
声に出してから、こんな装置に言っても仕方がないと思った。
しかし、リゼは俺を見て、小さく笑った。
「ありがとうございます」
「何が?」
「そう言ってくれるの、嬉しいです」
その声が少し震えていたので、俺は笑い返せなかった。
代わりに彼女の隣へ一歩近づこうとしたが、足元の線が明るくなったため、すぐに止まる。
「……動かないで!」
エルセがもう一度言った。
「分かってる!」
「全然分かっているように見えません!」
「お前の顔が怖いからだよ!」
「元からこういう顔です!」
リオルが低い声で口を挟んだ。
「二人とも、後にしろ」
その声で、ようやく周囲へ意識が戻った。
俺の前に浮かんでいた文字も変わり始めている。
最初は『管理者候補』だった。
だが、照合が進むと、別の行がその下へ追加された。
『未返却対象:参照中』
俺はしばらく文字を見つめた。
「……管理者候補で、未返却対象?」
ティセラが顔を上げる。
「両方表示されてるの?」
「ああ」
「……何かの条件に二つ引っかかっているのかもしれない。でも、同じ意味とは限らないわ」
「分かってる。まだ触らない」
「そうして」
俺は左手を下ろした。
以前なら、何かを返せば装置の動きを止められるのではないかと考えたかもしれない。
しかし、俺の術はそこまで便利なものではない。
少なくとも、今の俺が使い方を知っている〈返却〉では、帰属先の分からないものをどうにかすることはできなかった。
ふと、隣で金属音がした。
エルセの認証札が、彼女の手の中で小さく震えている。
『回収権限:確認中』
「……お前は回収係で合ってるんだな」
俺が言うと、エルセは嫌そうな顔をした。
「施設に認めてもらっても、嬉しくありません」
「そういうもの?」
「あなたも『未返却』と呼ばれて喜んでいますか?」
「……ごめん」
返す言葉がなかった。
◇
その時、通路の奥で重い金属音が響いた。
最初は施設がまた動いたのかと思った。
けれど、リオルがすぐに剣の柄へ手を掛けた。
「……誰かいる」
彼の視線を追う。
左側の壁に、いつの間にか細い隙間ができていた。
石壁の一部が横へ滑り、別の通路が現れている。
その向こうから、二つの人影が歩いてきた。
先頭は、赤い布を首へ巻いた大柄な男だった。
厚い作業服に、手首まで覆う革の防具。肩幅が広く、腕は荷役人のように太い。
その一歩後ろには、顔を布で隠した細身の人物がいる。
こちらの人数を数えるように視線を動かし、最後にリゼの首元へ目を止めた。
嫌な感じがした。
「……エルセの知り合い?」
俺が尋ねる。
「違います」
「即答だな」
「少なくとも、顔は知りません」
エルセも警戒している。
どうやら、彼女の仕事仲間が迎えに来たというわけではなさそうだ。
大柄な男が、足元の光を見た。
「……もう認証が始まってるじゃねえか」
港の訛りが強い共通語だった。
男は俺たちを順番に見回し、リオルの制服へ目を向ける。
「王都警備隊までいるとはな。こんな地下まで、ご苦労さん」
「誰だ」
リオルが尋ねた。
声は落ち着いている。
さっきまで俺たちと軽口を言い合っていた時とは、まるで違った。
「名乗るほどの者じゃねえよ」
「なら、何をしに来た?」
「仕事だ」
「誰の?」
男は笑った。
「質問の多い奴だな」
その右手が、そっと壁へ触れた。
同時に、左手が近くの石柱へ伸びる。
何かを確かめているような、妙に慎重な動きだった。
俺はそれを見ていた。
ただ、何が起きたのか分からなかった。
次の瞬間までは。
通路の向こうで動き始めていた可動橋が、大きな音を立てて止まった。
「……え?」
俺は橋を見た。
施設の分離に合わせて横へ滑っていたはずの石橋が、途中で不自然に固定されている。
その一方で、周囲の床はまだ動いていた。
橋だけが、そこに置き去りにされている。
「……固有術か」
リオルが言った。
男が口元を歪める。
「〈係留〉だ」
「……係留?」
俺は聞き返した。
「船を岸へつなぐ時に使う言葉だよな」
「知ってるじゃねえか」
男は壁から手を離した。
橋はまだ止まっている。
「船だけつなぐ術だと思ってるなら、港じゃ長生きできねえぞ」
ティセラが橋を見つめていた。
「……二つの物を、互いに動けないよう固定したのかしら」
「さあな」
男は笑う。
「そこまで教えるほど親切じゃねえよ」
俺はリオルへ目を向けた。
彼は短く頷いた。
固有術の正確な条件はまだ分からない。
けれど、あの男に触られたものが、不自然に固定されることだけは分かった。
「……セイン」
リオルが言った。
「何?」
「リゼたちと下がってろ」
「お前は?」
「少し話を聞く」
そう言って、剣を抜いた。
男は楽しそうに笑った。
「警備隊ってのは、随分血の気が多いんだな」
「そっちが先に橋を止めただろ」
「仕事の準備だよ」
「なら、こっちも仕事だ」
リオルは剣先を下げたまま、静かに一歩前へ出た。
男の笑顔が、少しだけ変わった。
◇
最初に動いたのは、リオルだった。
まっすぐ突っ込むのではなく、男の右側へ回り込む。
剣は振らない。
相手の手元を見ながら距離を詰め、逃げ道を狭めていく。
男は壁へ触れようとした。
その瞬間、リオルが踏み込む。
剣が横から伸び、男の腕を止めた。
刃は当てていない。
手首の前へ剣身を差し込み、壁に届かないよう動きを制限している。
「……器用だな!」
男が笑った。
そのまま、左腕の防具で剣を受ける。
革の下に金属板が入っているらしい。
鈍い音がした。
男の右手が剣の鍔に触れる。
同時に、左手が床へ落ちた。
「……っ!」
リオルが剣を引く。
しかし、動かなかった。
剣先が床からわずかに浮いた位置で、ぴたりと止まっている。
まるで、見えない杭で石床へ打ちつけられたようだった。
「……なるほど」
リオルが呟いた。
焦っている様子はない。
ただ、一度引いても動かないことを確かめると、すぐに握りを変えた。
男は笑った。
「剣がなきゃ、どうする?」
「別に」
リオルは柄から手を離した。
「それが全部じゃない」
次の瞬間、男の懐へ踏み込んだ。
相手の腕を避け、肩を押し込み、足を払う。
男がよろめいた。
体格では向こうが勝っている。
しかし、リオルは無理に力で押し倒そうとしなかった。
相手が踏ん張る方向へ一度身体を合わせ、次の瞬間には反対側へ力を流している。
〈均衡〉。
こいつの固有術は、見た目が地味だ。
けれど、身体の力の釣り合いを変えるというのは、近くで見るほど厄介なものらしい。
相手がどれだけ力を入れても、そのまま押し返せばいいわけではない。
踏ん張った力を使われる。
体勢を立て直そうとした瞬間に、重心を崩される。
男は二歩後退し、ようやく石柱へ肩をつけた。
「……何だ、お前」
「王都警備隊だよ」
リオルが答えた。
「さっき言っただろ」
男の笑顔が消えた。
代わりに、今度はこちらを警戒する目になる。
俺は少しだけ安心した。
リオルは強い。
昔から知っている。
ただ、強さを頼みに無茶をする奴ではない。
それが、今は何より頼もしかった。
「……セイン!」
ティセラに呼ばれた。
「何?」
「剣は戻せそう?」
俺は床へ固定された剣を見た。
リオルが長く使っているものだ。
王都を出る時にも持ってきた。
持ち主は分かる。
ただし、今は相手の術で床へ固定されている。
「……試してみる」
「無理に引っ張らないでね。固定されている場所まで壊れるかもしれない」
「分かってる」
俺は左手を上げた。
返す対象は、剣。
持ち主はリオル。
そこまでは確かだ。
ただ、剣を今ある場所から動かせるかどうかは、まだ分からない。
「〈返却〉」
白い光が剣へ伸びた。
一瞬だけ、柄が震える。
けれど、動かない。
床との間に、強い抵抗がある。
剣が本来の持ち主へ向かおうとしているのは感じる。だが、別の力がその移動を妨げていた。
「……重い」
俺は呟いた。
金属の剣一本が重いわけではない。
何かが、返ることを拒んでいる。
ただ、昨日の認証札の時と違い、無理に動かせば剣そのものを傷めるかもしれなかった。
俺は一度、術を止めた。
「……どう?」
ティセラが聞く。
「持ち主は分かる。でも、今は固定が強い」
「なら、相手の術が緩むまで待って」
「……そうする」
リオルを見た。
あいつはまだ男と戦っている。
剣を失っても、動きは悪くない。
ただ、相手が周囲の物を固定し始めれば、いつまでもこのままでいられるとは限らなかった。
◇
戦いを見ているうちに、男の後ろにいた細身の人物が動いた。
音もなく通路の脇を走り、壁際にいるリゼへ向かっている。
「……リゼ、右!」
俺が叫んだ。
リゼはすぐに振り返った。
細身の人物が袖から紙札を取り出す。
狙いは、彼女の首元。
赤い封蝋だ。
「……下がって!」
俺は走り出しかけたが、距離がある。
その前に、エルセが手を上げた。
「〈保留〉!」
投げられた紙札が、リゼの目の前で止まった。
薄い紙が宙へ浮いたまま、まったく動かない。
「三秒です!」
エルセが叫ぶ。
リゼは身体を低くした。
真正面へ走るのではなく、止まった札の下を抜け、相手の左側へ回る。
俺のところへ逃げてくると思っていた。
けれど、違った。
リゼはティセラの方へ向かった。
「……ティセラさん!」
「見えてる!」
二人が合流する。
次の瞬間、紙札が再び動き、誰もいなくなった壁へ貼りついた。
小さな光が走った。
古い術式らしい。
ただ、リゼはすでにそこにいない。
「……ありがとう!」
リゼが声を上げる。
エルセは短く答えた。
「後で!」
今度は大柄な男が蹴り飛ばした金属片が、俺の方へ飛んできた。
床に落ちていた古い留め具の一部だ。
俺は避けようとしたが、足元の石板が動き、姿勢が崩れかける。
「……っ!」
金属片が目の前へ迫る。
「〈保留〉!」
再び、エルセの声。
金属片が止まった。
俺はすぐに身体を横へ移す。
その直後、止まっていた金属が元の勢いで壁へぶつかった。
大きな音が響く。
「……助かった」
俺が言うと、エルセはこちらを見た。
「三秒ですから!」
「分かってる!」
「分かっているなら、止まった物を眺めないでください!」
「眺めてない!」
「さっき少し眺めていました!」
言い返そうと思ったが、確かに金属片を見ていた気がする。
俺は口を閉じた。
こんな状況で、エルセの言うことが正しいのは少し腹立たしかった。
◇
ティセラは戦いの間も、床の文字を確認し続けていた。
「……まずい」
彼女が呟いた。
俺は顔を上げた。
「何が?」
「区画分離が進んでる。さっきから移動先の計算が止まってない!」
見ると、床の線が少しずつ太くなっていた。
俺たちの足元だけではない。
通路の石壁にも、天井にも、細い光が走っている。
「……どうなる?」
俺が尋ねる。
「通路が、いくつかに分かれるんだと思う」
「……今いる場所が?」
「そう!」
ティセラは床の文字を指した。
「分類ごとに、人を別の区画へ送る仕組みなのかもしれない。まだ完全には読めないけど」
「……じゃあ、止めないと」
「止め方を探してるって言ってるでしょう!」
彼女は叫んだ。
その表情には、普段の研究者らしい好奇心が残っていなかった。
今あるのは、間に合わないかもしれないという焦りだけだった。
俺はそれ以上話しかけなかった。
少し離れたところで、リオルが男を押し返している。
相手は石柱へ片手を置いたまま、もう片方の手を床へ伸ばそうとしていた。
俺はそこで気づいた。
男の〈係留〉は、二つの物を固定する力だ。
なら、手を触れた場所だけでなく、固定された物が動こうとすれば何かが起きる。
さっきの橋がそうだった。
周囲が動いても、橋だけが止まった。
「……リオル!」
俺が叫ぶ。
「何!」
「あいつ、施設を壊すつもりかもしれない!」
リオルの目が動いた。
男の手元を見る。
次の瞬間、大柄な男が床へ掌を押しつけた。
もう片方の手は、近くの可動壁に触れている。
鈍い音が響いた。
横へ動き始めていた壁が、その場で固定される。
けれど、施設の装置は止まらない。
周囲の石板が動き続ける。
固定された壁と、その隣の壁の間に、細い亀裂が走った。
「……本当に壊す気だ!」
俺が叫んだ。
男は笑った。
「壊すつもりはねえよ。勝手に壊れるだけだ」
「同じことだろ!」
石の亀裂が広がる。
そこから、水が噴き上がった。
水底街のさらに下には、海とつながる水路がある。
今いる施設も、完全に水から切り離されているわけではなかったらしい。
冷たい飛沫が床を濡らす。
足元が急に滑りやすくなった。
男はそれを見て、満足そうに笑った。
「……さあ、どうする?」
リオルが剣のない手を握り直す。
「お前を止める」
「できるならな!」
二人が再びぶつかった。
今度はリオルも少し慎重だった。
足元の石板が動き、場所によっては水が流れ始めている。
だが、姿勢は崩れない。
相手の力を利用して身体を回し、腕を取る。
大柄な男が踏ん張ろうとした瞬間、リオルはその力を横へ逃がし、石柱へ背中を打ちつけた。
「……ぐっ!」
男がうめいた。
柱から手が離れる。
その瞬間、床へ固定されていた剣が小さく震えた。
「……今!」
ティセラが叫ぶ。
俺は左手を上げた。
男の術が完全に解けたかどうかは分からない。
しかし、さっきより抵抗が弱くなっている。
返す対象は同じだ。
リオルの剣。
「〈返却〉!」
白い光が走った。
今度は剣が動いた。
床との間で一度強い抵抗があったが、柄が持ち上がり、剣身が石畳から離れていく。
俺は無理に術を強めなかった。
ただ、帰るべき先へ向かう動きを支える。
剣が宙へ浮いた。
「……リオル!」
俺が叫ぶ。
リオルは振り返らなかった。
男の腕を押さえながら、左手だけを後ろへ伸ばした。
剣がその手へ向かう。
そして、柄が掌に収まった。
「……助かった!」
リオルが笑った。
「あとで礼、ちゃんと言えよ!」
俺が言う。
「帰ってからな!」
「約束だからな!」
普段なら、もっとふざけた返事が返ってきたかもしれない。
けれど、今のリオルはすぐに前へ向き直った。
剣を構える。
男の顔から、ようやく余裕が消えた。
「……その術、厄介だな」
男が低く言った。
俺は笑わなかった。
ただ、左手を下ろした。
剣を返せた。
それだけだ。
相手の〈係留〉が消えたわけではないし、施設の分離も止まっていない。
でも、リオルが戦える状態に戻った。
今はそれで十分だった。
◇
その頃、細身の人物はティセラの資料鞄を狙っていた。
床の文字を写した紙と、四十四号の刻印の写し。
今朝から持ち歩いている調査資料が、全部そこに入っている。
相手がそれを知っていたのかは分からない。
ただ、鞄へ伸ばした手に迷いはなかった。
「……離して!」
ティセラが叫ぶ。
リゼが先に取っ手をつかんだ。
細身の人物は鞄を強く引く。
リゼも引き返したが、力では相手の方が上らしい。
「……リゼ!」
俺が呼ぶ。
「大丈夫です!」
返事があった。
その直後、リゼが突然、力を抜いた。
相手は鞄を引いていた勢いのまま、前へよろめく。
その足元へ、リゼが自分の腰帯を滑り込ませた。
「……っ!」
細身の人物が転ぶ。
リゼはすぐに腰帯を引き戻し、鞄を抱えて一歩離れた。
「ティセラさん!」
「分かってる!」
ティセラは手にした資料筒を振り下ろした。
相手の手首へ当たり、紙札が床に落ちる。
「……痛っ!」
初めて声が出た。
ティセラは怒った顔をしている。
「私の資料に触らないで」
「……そこ?」
思わず俺が呟く。
ティセラはこちらを見た。
「人を襲うのも駄目に決まってるでしょう!」
「そうだよな!」
返事をすると、リゼが少し笑った。
「……ティセラさん、強いですね」
「怒ってるだけ!」
そのやり取りの間に、細身の人物が立ち上がった。
袖から別の紙札を抜く。
俺たちではない。
今度は床へ向けていた。
「……ティセラ、下!」
俺が叫ぶ。
紙札が石板へ貼りつく。
その瞬間、床を走っていた光の線が、一斉に明るくなった。
ティセラの顔色が変わる。
「……まずい!」
「何が!」
「分離処理を加速させた!」
紙札に刻まれた文字を、彼女はすぐに読み取ったらしい。
「施設そのものを動かしたんじゃない。すでに始まっていた処理へ、外から命令を足したの!」
「止められる?」
「やってる!」
ティセラがしゃがみ込み、紙札を確かめようとする。
しかし、その直前。
大柄な男がこちらへ顔を向けた。
「……遅い!」
男の片手が床へ触れる。
もう片方が、すぐ横の可動壁へ。
再び〈係留〉が働いた。
施設が動かそうとしていた壁の一部が止まり、周囲の石組みだけが進む。
大きな亀裂が走った。
今度は、天井だった。
◇
「……下がって!」
エルセが叫んだ。
頭上で石が割れる。
大きな天井板が一枚、支えを失った。
続いて二枚目。
重い石板が、俺たちの方へ落ちてくる。
逃げ道はある。
しかし、ティセラは床の紙札を剥がそうとしていて、まだ動いていない。
「……ティセラ!」
俺が叫ぶ。
エルセが両手を上げた。
「〈保留〉!」
二枚の石板が、空中で止まった。
完全に静止している。
ただし、支えているわけではない。
三秒後には、また落ちてくる。
「三秒です!」
エルセの声。
俺はティセラへ走り出した。
その上で、別の石板が割れた。
三枚目。
落ちてくる位置は、ティセラの真上だった。
「……っ!」
俺は反射的に左手を向けた。
今度は、返す先が分かる。
さっきまで天井にあった石板だ。
壁の金具が外れ、落ちようとしている。
元の位置は、見えている。
「〈返却〉!」
白い光が伸びた。
石板が空中で大きく揺れ、天井の方へ押し戻される。
元の場所へ完全にはまったわけではなかった。
外れた金具は壊れたままだ。
それでも、落ちる勢いは一度途切れた。
「……ティセラ、逃げろ!」
彼女が顔を上げる。
ようやく紙札から手を離した。
俺の方へ走ってくる。
その時、エルセが叫んだ。
「二!」
止めていた石板が、小さく震えている。
俺はティセラの腕をつかみ、壁際へ引いた。
「……一!」
直後、二枚の石板が再び落下を始めた。
リオルが大柄な男から離れ、こちらへ走る。
一枚目が落ちる位置には誰もいない。
しかし、二枚目はリゼの方へ向かっていた。
「……リゼ!」
俺が叫んだ。
彼女はすでに石板を見上げていた。
避けようとする。
けれど、身体が思うように動いていない。
首元の赤い封蝋が、通路の奥へ引かれているようだった。
「……動けない!」
リゼの声が揺れた。
俺は走ろうとした。
しかし、間に裂けた床があった。
飛び越えられない。
「……リオル!」
叫んだ。
リオルはもう動いていた。
傾く床を蹴り、リゼの方へ飛び込む。
彼女の肩へ手を回し、身体ごと横へ倒れた。
石板が二人のすぐ後ろへ落ちた。
鈍い衝撃が足元へ伝わり、砕けた石が飛び散る。
「……リゼ!」
俺が叫ぶ。
返事はすぐに来なかった。
胸が冷たくなる。
だが、粉塵の向こうからリオルの声が聞こえた。
「……怪我は?」
「……ありません!」
リゼが答えた。
「立てる?」
「はい!」
「なら、俺の後ろへ」
リオルが剣を構え直した。
リゼは息を整えながら、その隣へ立つ。
決して、ただ守られているだけではなかった。
落ちてきた石板の位置を見て、まだ危険な場所を避け、リオルへ短く声をかけている。
「……左の床、ひびが入ってます!」
「見えた。そっちは使わない」
「分かりました!」
二人のやり取りを聞き、俺は少しだけ息を吐いた。
リオルなら大丈夫だ。
そう思った。
けれど、それで安心して終わりというわけにもいかなかった。
床の光が、最後の形へ変わり始めていたからだ。
◇
『分類結果を確定』
古い声が響いた。
俺たちの足元に、赤い文字が浮かぶ。
『預託対象:確定』
リゼの前。
『未返却対象:参照』
俺の前。
『回収権限:確認』
エルセの足元。
ティセラの周りには、知らない文字が幾つも重なっていた。
リオルの足元には、ほかの者と違って細い枠だけが現れている。
「……ティセラ!」
俺が呼ぶ。
「読んでる!」
「何が起きる!」
「行き先を決めてるみたい!」
「止められる?」
ティセラが顔を上げた。
その目が、ほんの一瞬だけ揺れた。
「……今は、無理」
俺は返事ができなかった。
ティセラはそのまま続けた。
「分類の仕組みは少し分かった。でも、もう確定処理に入ってる。ここから止める方法は見つけられてない!」
悔しそうな声だった。
俺は頷いた。
「……分かった」
この場で、できないことを責めても仕方がない。
それより、どうやって生き残るかだ。
リオルが周囲を見回した。
「セイン!」
「何!」
「全員の位置を確認しろ!」
俺は顔を上げた。
五人の足元へ、違う区画線が走っている。
俺とエルセは左側。
リゼとリオルは右側。
ティセラは中央だ。
さっきまで同じ通路にいたのに、いつの間にか足元の石板が三つの大きな区画へ分かれかけていた。
細身の人物はすでに横の通路へ逃げていた。
大柄な男も、壁の動きを見て後退している。
「……こいつら!」
俺が叫ぶ。
男は笑った。
「悪いな。こっちは仕事が済んだ」
「まだ誰も捕まえてないだろ!」
「分ければ十分なんだよ」
その言葉を聞いた時、胸の奥が冷たくなった。
最初から、俺たちを倒すつもりではなかったのかもしれない。
施設の分類を進め、別々の場所へ送り込む。
それが目的だったのだろうか。
リオルが追おうとした。
だが、男は横の通路へ下がり、すぐに壁の向こうへ消えた。
追いかけられない。
もう、その通路へ渡るための橋が動き始めていた。
「……リオル!」
俺が呼ぶ。
彼は振り返った。
「分かってる!」
それだけで、十分だった。
追うよりも先に、仲間のことを考える。
あいつは、そういう男だ。
◇
最初に動いたのは、中央の区画だった。
ティセラが立っている石床が、ゆっくり下がり始める。
「……ティセラ!」
俺が叫ぶ。
彼女は手帳と資料筒を抱え直した。
「私は大丈夫!」
「絶対、大丈夫じゃない顔してる!」
「だったら後で文句言いに来なさい!」
いつもの声だった。
少しだけ、安心した。
だが、次の瞬間、中央と右側の間に石壁がせり上がり始めた。
ティセラの姿が隠れていく。
「……待って!」
リゼが声を上げる。
「ティセラさん!」
「無事に戻る!」
ティセラの声が返った。
「だから、そっちも無茶しないで!」
「はい!」
その返事を聞いた直後、壁が二人の間を塞いだ。
ティセラの姿が消えた。
俺はしばらく、その場所から目を離せなかった。
真ん中にいた人間が、突然いなくなった。
しかも、どこへ行ったのか分からない。
胸が落ち着かない。
けれど、次に動いたのは俺たちの足元だった。
左側の石床が、横へ滑り始める。
エルセがすぐに腕を伸ばした。
「……こっちへ!」
俺は反射的に彼女の手を取った。
足元の石板が大きく傾く。
エルセに引かれ、一歩だけ横へ移動した。
直後、さっきまで俺が立っていた場所の床が、下へ落ちた。
「……危なっ!」
「足元を見てください!」
「見てた!」
「今は見ていませんでした!」
否定できなかった。
俺は彼女の手を離さず、次の足場へ移った。
その向こうで、リゼが俺を見ていた。
リオルと同じ石床に立っている。
しかし、二つの区画の間はすでに離れ始めていた。
「……セイン!」
リゼが手を伸ばした。
俺も伸ばす。
届きそうだった。
あと少し。
そんな距離だった。
けれど、石床がさらに動く。
指先の間が、少しずつ遠ざかっていった。
「……リゼ!」
俺が叫ぶ。
彼女は手を下ろさなかった。
ただ、無理に飛び移ろうとはしなかった。
「大丈夫です!」
声が返ってくる。
「リオルさんがいます!」
俺はリオルを見た。
あいつもこちらを見ている。
何度も一緒に仕事をしてきた。
こんな時、何を言えばいいかくらい分かっている。
「……リオル!」
「聞こえてる!」
「リゼを頼む!」
「任せろ!」
短い返事だった。
でも、これ以上は必要なかった。
リゼが少し怒った顔をした。
「私も自分で動きますからね!」
「知ってる!」
俺とリオルの声が重なった。
リゼが目を丸くする。
それから、ほんの一瞬だけ笑った。
俺はその笑顔を見た。
次の瞬間、二つの区画の間に大きな石壁がせり上がった。
「……リゼ!」
名前を呼ぶ。
答えはない。
いや、聞こえたのかもしれない。
ただ、壁が動く音にかき消された。
月白色の髪も、赤い封蝋も、濃紺の制服も見えなくなった。
俺はその場所へ手を伸ばしたまま、しばらく動けなかった。
◇
床の揺れが止まった時、俺は膝をついていた。
さっきまでの広い通路ではない。
水のない、細長い石の廊下だった。
壁沿いに古い灯具が並んでいるが、ほとんど消えている。
頭上には低い天井があり、湿った空気が漂っていた。
すぐ隣で、誰かが息を吐いた。
エルセだった。
「……怪我は?」
彼女が尋ねる。
俺はまだ、壁の向こうを見ていた。
「……リゼは?」
自分でも驚くくらい、早く口から出た。
エルセはすぐには答えなかった。
先に周囲の安全を確かめてから、俺の方へ向き直る。
「リオル・ハーゼンと同じ区画へ移るのを見ました」
「……本当に?」
「はい」
「怪我は?」
「分かりません。ただ、分離が始まる直前までは、自分で立っていました」
俺は一度、息を吐いた。
ほっとしたと言いたかったが、そこまで単純な気分でもない。
リゼはリオルと一緒にいる。
ティセラは一人。
俺はエルセと二人。
それぞれ、どこへ行ったのか分からない。
しかも、この施設は俺たちを勝手に分類している。
早く合流しなければならなかった。
「……エルセ」
「はい」
「さっきは助かった」
彼女が少しだけ目を丸くした。
「何がです?」
「床が落ちる前に引っ張ってくれたこと」
「……ああ」
エルセは小さく頷いた。
「足元を見ていなかったので」
「それ、まだ言う?」
「事実ですから」
俺は少し笑った。
彼女も、ほんの少しだけ笑う。
「……それで」
俺は壁へ背を預けた。
「ここ、どこ?」
「正確には分かりません」
「……だろうな」
「ただ、私たちが別の保全区画へ移されたのは確かです」
エルセは外套の内側から薄い携帯灯を取り出し、火を入れた。
淡い光が廊下を照らす。
それから、彼女は俺を見る。
「……まだ私を信用できませんか?」
予想外の質問だった。
俺は少し考えた。
「……全部は、まだ」
「そうでしょうね」
「でも、今日助けてくれたことは本当だから」
俺は立ち上がった。
「そこは信用する」
エルセは黙っていた。
俺は少し迷ってから続けた。
「それに、リゼがリオルと一緒に行ったって話も、今は信じる」
「……今は?」
「一回ずつ増やす」
エルセが眉を寄せた。
「効率が悪くありませんか」
「信用って、そういうものだろ」
彼女は俺の顔を見つめた。
それから、小さく息を吐く。
「……面倒な人ですね」
「よく言われる」
「でしょうね」
今度は、少しだけ笑った。
その笑顔を見て、俺もほんの少し肩の力を抜いた。
◇
廊下の奥へ、エルセが灯りを向けた。
その光が、何かに反射する。
金属だった。
ただし、壁に埋め込まれた小さな装置ではない。
円筒形の大きな設備が、通路の両側へ並んでいた。
一つ、二つ。
その奥にも。
さらに奥へ、何十本も。
どれも人の背丈より高く、古い金属の枠で固定されている。
表面には細かな文字が刻まれ、いくつかの槽には薄い管がつながっていた。
「……何だよ、これ」
俺は思わず呟いた。
エルセも、すぐには答えない。
ゆっくり歩き、一番手前の円筒へ灯りを向けた。
そこには、古い文字が残っていた。
『記憶預託』
俺はその文字を見つめた。
王都へ持ち込まれたガラス瓶。
名前を失ったマーロ。
二十八年間、誰かを待っていたことだけ覚えていたイリナ。
父親のことを思い出せないトーマ。
俺たちは、それぞれ違う場所で起きた出来事を追ってきた。
だが、ここでは同じ言葉の下に、何十もの装置が並んでいる。
「……エルセ」
俺が呼ぶ。
「はい」
「これ、何が入ってる?」
「槽によります」
「開ければ分かる?」
「分かるかもしれません」
俺は一歩近づいた。
「……じゃあ」
「駄目です」
返事が早かった。
しかも、さっきまでの軽い口調ではなかった。
エルセが、俺の前へ立った。
「ここだけは、勝手に開けないでください」
俺は足を止めた。
彼女の顔を見る。
普段は落ち着いていて、多少のことでは動じない人だ。
そのエルセが、今は真剣な表情をしている。
「……何が入ってるんだ?」
俺が尋ねる。
エルセは少しだけ迷った。
そして、目の前の保全槽へ灯りを向けた。
「……忘れた記憶とは限りません」
「……どういうこと?」
俺は聞き返した。
エルセは槽の表面へ手を触れないまま、低い声で答えた。
「忘れさせるために、ここへ預けられた記憶もあります」
俺は何も言えなかった。
通路の奥では、古い保全槽が幾つも並んでいる。
それぞれに、誰かの記憶が入っているのだろうか。
誰かが自分の意思で預けたもの。
誰かに頼まれて預けたもの。
あるいは、本人の知らないうちに、ここへ運ばれてきたもの。
その違いを、俺にはまだ見分けられない。
ただ、イリナの言葉だけが頭に残っていた。
『昔、誰かの帰りを待っていたような気がするの』
彼女は、待っていたことだけ覚えていた。
それなのに、待っていた相手の顔も、名前も、思い出せない。
二十八年もの間。
「……エルセ」
俺はもう一度呼んだ。
「はい」
「もし、ここに誰かの記憶が入っていたとして」
俺は保全槽を見た。
「その人は、自分が何を失ったのか、知ってるのかな」
エルセは答えなかった。
静かな通路に、水の流れる音だけが響いていた。




