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王都の返却士 ~その落とし物、世界のものです~  作者: 紙森 灯
第三章 誰も覚えていない男

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第五十一話 忘れられることを選んだ男


 セヴァン・ロークの背中を見ながら歩くというのは、思っていた以上に落ち着かないことだった。


 王都で初めて会った時、この男は第七係へ乗り込んできて、記憶瓶を持ち去ろうとした。笑顔のまま仕事の話をして、断られると当然のように強硬手段へ切り替えた。


 そんな相手が今は、俺たちの少し前を歩き、通りの角でわざわざ立ち止まっている。


「こちらです」


「……分かってる」


「先ほどから、ずいぶん警戒されていますね」


「警戒される理由に心当たりは?」


「いくつか」


「じゃあ聞くなよ」


 セヴァンは肩越しに笑った。


 その態度も腹立たしい。


 もっとも、いつまでも文句を言っている場合ではなかった。俺たちは、イリナの家から真鍮札を盗んだ人間を追っていたところで、セヴァンと遭遇したのだ。


 札は現地の警備隊が証拠品として預かっている。


 盗んだ人物も引き渡した。


 けれど、肝心の依頼主はまだ分かっていない。


 そしてセヴァンは、あの札が何なのかを知っていた。


『二十八年前、四十二人から自分を消した男』


 彼はそう言った。


 自分から消えたのだ、とも。


 イリナとトーマの顔を見たばかりの俺には、その言葉がどうにも受け入れがたかった。


「……セイン」


 リゼが隣から小声で呼ぶ。


「何?」


「眉間、すごいですよ」


「そんなに?」


「今なら、指一本挟めそうです」


「挟まないでくれ」


「やってません」


 そう言いながら、少し笑っている。


 俺も何とか表情を緩めた。


 前を歩くセヴァンが振り返る。


「何か面白いことでも?」


「教えない」


「残念です」


 まったく残念そうではなかった。


     ◇


 案内されたのは、市場から二本ほど路地を入った、運河沿いの茶店だった。


 一階には小さな食堂があり、焼いた魚と香草の匂いが通りへ流れ出している。窓の下には細い水路が通り、小舟が時折、石橋の向こうから姿を現した。


 船着き場へも路地へも出られる。


 目立たず話すにも、逃げるにも都合がよさそうな場所だった。


「……いい店を知ってるな」


 リオルが言った。


「ありがとうございます」


「褒めてない」


「そうですか?」


「運河と裏口の両方へ逃げられるだろ」


 セヴァンは少しだけ店を振り返った。


「お茶もおいしいんですよ」


「俺は逃げ道の話をしてる」


「食事の前から物騒ですね」


 リオルが黙った。


 怒ったのかと思ったが、どうやらこれ以上相手をしても無駄だと判断したらしい。


 その方が賢い。


 俺はリオルの横を通り、店へ入ろうとした。


「セイン」


 今度はリオルに呼び止められた。


「何?」


「俺が先に入る」


「……分かった」


「素直だな」


「今日はな」


 リオルが扉を開け、店の中を一度確かめる。


 それから俺たちを手招きした。


 セヴァンはその様子を眺めていたが、何も言わなかった。


 俺たちは二階の窓際へ案内された。


 古い木の卓を挟み、セヴァンが向かいに座る。俺の右にはリオル、左にはリゼ。


 リオルの剣は椅子の横へ置かれているが、柄にすぐ手が届く位置だった。


 セヴァンはそれを見ても、気にする様子がない。


「お茶を四つ。それから焼き菓子を一皿お願いします」


 店員へそう告げた。


「……誰が払うんだ?」


 俺が尋ねる。


「もちろん私です」


「情報料込み?」


「お茶くらい、普通にご馳走させてください」


「普通の関係じゃないだろ、俺たち」


「それは確かに」


 セヴァンは笑った。


 リゼが向かいの男をじっと見ている。


「……何ですか?」


 セヴァンが尋ねる。


「焼き菓子も頼みましたよね」


「はい」


「それ、私たちに食べさせるつもりですか?」


「そうですが」


「先に自分で食べてください」


 セヴァンは少し目を丸くした。


 それから、静かに笑い始める。


「私が何か混ぜると思っています?」


「思っていません。でも、まだ信用していないので」


「正直ですね」


「セインに教わりました」


「お前、俺を何だと思ってるんだよ」


 俺が言うと、リゼは真面目に答えた。


「信用していいか分からない人へ、つい話しかけてしまう人です」


「……否定できない」


 リオルが横で頷いた。


「それは俺も思う」


「お前まで」


 向かいでセヴァンが笑っている。


 敵かもしれない男に笑われるのも、なかなか複雑な気分だった。


     ◇


 お茶が運ばれてくると、セヴァンは本当に焼き菓子を一つ食べた。


 それを見届けてから、リゼも自分の分へ手を伸ばす。


「……おいしいです」


「でしょう?」


「そこは、ありがとうございます」


「どういたしまして」


 ごく普通の会話だった。


 相手が相手でなければ、少し和んでしまいそうだった。


 俺は卓へ肘をつかず、セヴァンを見た。


「……そろそろ話して」


 彼は茶器を置いた。


 笑みが少し薄くなる。


「何から聞きたいですか」


「四十四」


 俺は即答した。


「イリナさんの家にあった、古い真鍮札。あれは何?」


「第七係が使っていた現場札です」


「現場札?」


「特殊調査に出る職員へ、一時的に発行される識別札です。四十四はその発行番号で、人物の番号ではありません」


「誰に発行された?」


「二十八年前、ラヴェルへ来た第七係職員です」


 俺は息を整えた。


「……ローディス・フェンと一緒に?」


「ええ」


 すぐに返事があった。


 係長が渡してくれた出張記録には、ローディスと、名前のない第七係職員が一人記されていた。


 旧西税関第四保管庫へ向かう記録だ。


 その同行者が、四十四号の札を持っていたという。


 俺はその情報を頭の中で並べた。


「……その人が、イリナさんたちの家族だった?」


 セヴァンはしばらく俺を見ていた。


「何か、見つけたんですね」


「こっちが聞いてる」


「そうですね」


 彼は頷いた。


「当時の記録に、家族の存在は残っています。ですが、私はまだその人の氏名をお伝えするつもりはありません」


「……どうして?」


「あなたがその名前を知れば、何をしようとするのか確かめたいからです」


「返すかどうか?」


「はい」


 腹が立った。


 ただ、今すぐ返してやると答えられないのも事実だった。


 イリナは、誰かを待っていた感覚を覚えている。


 トーマは、パンの端を残す癖を今も持っている。


 二人とも、忘れた人のことを知りたいと言っていた。


 だから調べる。


 しかし、何が起きたのか分からないまま、その人の記憶を押し戻すつもりはなかった。


「……まず、そっちの話を聞くよ」


 俺が答えると、セヴァンは少しだけ頷いた。


「その方がいいと思います」


 初めて、意見が合った気がした。


 だからといって、信用するわけではないけれど。


「……で」


 リオルが口を開いた。


「四十四号の職員は、自分から消えたって言ったよな」


「そうです」


「何を根拠に?」


 セヴァンは少し間を置いた。


「残っている申請記録では、本人が手続きを承認したことになっています」


「申請記録?」


「ええ」


「その記録は、誰が作った」


 リオルの声は静かだった。


 セヴァンは答えない。


「誰が承認したことを確認して、誰が保管してる?」


「……鋭い質問ですね」


「褒めなくていい。答えて」


 珍しく、俺と同じことを言った。


 セヴァンは窓の外へ一度目を向けた。


 細い運河を、荷物を積んだ小舟が通っていく。


「当時の記録は完全ではありません。現場にいた人間の証言も、ほとんど残っていない」


「じゃあ、本人が望んだかどうかは分からないじゃないか」


 俺が言った。


「記録上では、本人による選択として扱われています」


「……扱われている?」


「はい」


 俺はその言い方に引っかかった。


 自分から消えた。


 本人が選んだ。


 最初は、もっとはっきりした言葉だった。


 ところが問い直すと、記録上の扱いという説明になる。


「……お前は、本人に会ったの?」


「二十八年前の人ですよ」


「だから聞いてる」


 セヴァンは小さく首を振った。


「会っていません」


「じゃあ、本人の言葉は聞いてないんだな」


「……ええ」


 俺はカップへ手を伸ばした。


 少し冷めた茶を飲む。


 思っていたより苦かった。


「……じゃあ、まだ決められないな」


 俺が言うと、セヴァンは目を細めた。


「何をです?」


「自分から消えたってこと」


 リゼが静かに頷いた。


 セヴァンは何も言わなかった。


     ◇


「……それでも、理由はあったんですよね」


 リゼが尋ねた。


「どうして四十二人から、その人のことを消す必要があったんですか」


 セヴァンは焼き菓子の皿へ目を落とした。


 そのまま、しばらく考えていた。


「……ある場所を隠すためです」


「場所?」


 俺が聞き返す。


「最初の記憶庫」


 聞いたことのない名前だった。


 ティセラがこの場にいたら、すぐ手帳を開いていたと思う。


 俺は代わりに、頭の中で言葉を繰り返した。


 最初の記憶庫。


 第四保全区よりも古い場所なのだろうか。


「……記憶を保管する場所?」


 尋ねると、セヴァンは少し首を傾げた。


「そう言ってしまうと、正確ではないかもしれません」


「じゃあ何なの?」


「古い施設です。現在の保全区が使っている仕組みとは、設計思想も違う。少なくとも、私たちが確認している記録ではそうなっています」


「行ったことは?」


「ありません」


「場所は?」


「分かりません」


「……何にも知らないじゃないか」


 言うと、セヴァンは苦笑した。


「知らないから探しているんです」


 その答えは、少しだけ納得できた。


 もっとも、どこまで本当なのかは分からない。


「……四十四号の人は、そこを知っていた?」


 リゼが尋ねる。


「そういう記録があります」


「誰かに追われていたんですか?」


「ええ。少なくとも、複数の集団が彼の持っていた情報を求めていました」


「どういう人たち?」


 リオルが聞く。


「保全院の前身に関わる人間もいましたし、それ以外にも」


「保全院って、二十八年前からあったのか」


「今と同じ名前、同じ制度ではありません。ただ、仕事の一部を引き継いでいます」


「……都合の悪いことを全部昔の組織のせいにできそうだな」


 リオルの言葉に、セヴァンは笑わなかった。


「そう考えられても仕方ありません」


 意外な返事だった。


 俺も少し驚いた。


「……否定しないの?」


「過去の組織が行ったことだから、今は関係ないとは言えません」


 セヴァンは静かに答えた。


「少なくとも、引き継いだ側には調べる責任があると思っています」


 初めて聞く言葉だった。


 王都で会った時の彼は、仕事の決まりを盾にして、ほとんど何も話さなかった。


 今も秘密は多い。


 それでも、責任という言葉を使ったことが少し気になった。


「……じゃあ、四十二人は?」


 俺は尋ねた。


「その人が消えることに、全員が同意したの?」


 セヴァンは一拍置いた。


「いいえ」


「……そうか」


 イリナの顔が浮かんだ。


 誰かを待っていたことだけ覚えている女性。


 トーマの皿に残った、パンの端。


 あの二人は、失うことを望んでいなかったのかもしれない。


「本人が手続きを承認したとしても」


 俺は続けた。


「四十二人の記憶は、その人一人の持ち物じゃないだろ」


 セヴァンは俺を見た。


「……その通りです」


「お前、分かってて話してるんだな」


「ええ」


「なのに、必要だったって?」


「必要だったと判断した人間がいたんです」


 それは、ずいぶん慎重な言い方だった。


 まるで自分をそこから少し離そうとしているようにも聞こえる。


「……お前自身は?」


 リオルが尋ねた。


「同じ状況なら、同じことをするのか?」


 セヴァンはすぐには答えなかった。


 初めて、笑顔のない沈黙が続いた。


「……条件によります」


 やがて、そう言った。


「守るためにほかの手段がないなら、選ばざるを得ないこともあるでしょう」


「それ、選んだことになるんですか?」


 リゼが尋ねた。


 セヴァンが彼女を見る。


「……どういう意味です?」


「ほかに道がないなら、それを望んでいたとは限りませんよね」


 リゼは少しだけカップを持ち上げた。


 けれど、飲まずに戻す。


「自分が大切にしている人たちに、忘れてほしくないと思っていても、そうするしかなかったかもしれない」


 その声には、怒りよりも疑問があった。


「それを、本人が望んだことにしていいんでしょうか」


 セヴァンは答えなかった。


 リゼも、それ以上は言わない。


 俺は彼女の横顔を見た。


 自分の元の名前を失った人間だからこそ、思うところがあるのかもしれない。


 ただ、彼女の考えを俺が勝手に説明するのは違う気がした。


「……確かめる必要がありますね」


 しばらくして、セヴァンが言った。


「何を?」


 俺が聞く。


「本人が、何を承認したのか。何を知らされていたのか」


 彼は自分のカップを見た。


「そして、何を望んでいたのか」


 俺は頷いた。


 今の返事だけなら、悪くないと思った。


     ◇


「……でも、まだ分からないことがあります」


 リゼが口を開いた。


「その男の人が、どうして四十二人から忘れられたら、記憶庫を隠せるんですか」


 セヴァンは少しだけ表情を和らげた。


「いい質問ですね」


「褒めるより答えてください」


「あなたも、だいぶ言うようになりましたね」


「セインの隣にいるので」


「全部俺のせいにするなよ」


 思わず口を挟む。


 リゼは笑ったが、すぐにセヴァンへ向き直った。


 彼は卓の上に指を置いた。


「人は、場所を道順だけで覚えているわけではありません」


「……どういうこと?」


 俺が尋ねる。


「例えば、昔通っていた靴屋の場所を思い出す時、道の名前だけを考えますか?」


「……いや」


 父の工房を思い出す。


 店の前の少し欠けた敷石。


 隣の店から聞こえる朝の鋸(のこぎり)の音。


 革を干していた裏庭の匂い。


 あの場所へ帰る道順を、俺は建物の番号だけで覚えているわけではなかった。


「……店の隣に何があったかとか、誰と行ったかとか、そういうのも思い出すな」


「そうでしょう」


 セヴァンが頷く。


「人と人の記憶も同じです。誰かを思い出す時、顔や名前だけではなく、一緒にいた場所、見たもの、話したことまでつながってくる」


 彼は人差し指で卓の上へ細い線を描いた。


「古い保全施設には、そのつながりを辿って情報へ近づく仕組みがあったとされています」


「……記憶が道になる?」


「乱暴に言えば」


 リゼが少し考えた。


「じゃあ、四十四号の人を覚えている人がいれば、そこから記憶庫まで見つかってしまうかもしれない」


「そういうことです」


「だから、全員から消した?」


「記録には、そのようにあります」


 俺は思わず眉を寄せた。


 理屈は分かる。


 分かるけれど、納得したわけではない。


「……例えば、イリナさんがあの人と歩いた道を覚えていたら」


 俺は尋ねた。


「それが手がかりになる?」


「可能性があります」


「トーマが覚えていた、父親と遊んだ場所も?」


「ええ」


 俺は黙った。


 トーマは八歳だった。


 父親と歩いた道も、父親に手を引かれた感触も、もし本当に忘れさせられたのなら、選びようがなかったはずだ。


 セヴァンは俺の表情を見て、少し声を落とした。


「……もちろん、この説明も残された記録に基づくものです。施設が本当にそのように働いたかどうかは、実物を確かめなければ分かりません」


「じゃあ、確かめに行く」


 俺が言うと、セヴァンは顔を上げた。


「……どこへ?」


「その記憶庫へ」


「場所をご存じなんですか?」


「知らない」


「では」


「でも、第四保全区は見つけた。あそこが手がかりになるなら、調べてみる」


 セヴァンは少しだけ笑った。


「……あなたは、思っていたより慎重なのか、大胆なのか分かりませんね」


「自分でも分からない」


 俺は答えた。


「ただ、何を返すべきなのかは、自分で確かめたい」


 リゼが小さく頷いた。


 リオルは窓の外へ目を向けている。


 話を聞いていないわけではない。


 こいつは、考える時ほど周囲もよく見ている。


 そういう奴だった。


     ◇


 セヴァンはしばらくして、俺へ尋ねた。


「……一つ伺ってもいいですか」


「何?」


「もし、その男の名前が分かって、あなたの〈返却〉が使えるとしたら」


 彼は言葉を切った。


「すぐに返しますか?」


 俺は即答できなかった。


 以前なら、どう答えていただろう。


 落とし物を探し、持ち主が分かれば返す。


 それが仕事だった。


 今も間違っているとは思わない。


 けれど、名前や記憶の場合は、持ち主が一人ではないことがある。


 あの家で過ごした時間は、イリナとトーマのものでもあった。


「……本人たちに聞く」


 俺は答えた。


「名前が分からない男だけじゃなく、忘れた人たちにも」


「すでに聞いたんですか?」


「二人には、知りたいかどうか聞いたよ」


「……そうですか」


 セヴァンは俺を見つめた。


「では、もしそれが危険なことだったら?」


「危険って、何が?」


「記憶を返すことで、隠されていた場所への道が開くかもしれません」


「……それなら、なおさら調べる」


「返却士が言うことではないような気もしますね」


「お前、俺の仕事をどう思ってるんだよ」


「返す人でしょう?」


「そうだよ」


 俺は頷いた。


「でも、どこへ返せばいいのか分からないものを、適当に投げる仕事じゃない」


 セヴァンが少し目を細めた。


 何かを言いかけたようだった。


 しかし、その言葉は続かなかった。


 横からリオルが声をかけたからだ。


「……セイン」


 いつもと違う、低い声だった。


「何?」


「立て」


 理由を聞かなかった。


 椅子を引き、リゼの腕を取る。


 その瞬間、窓ガラスが割れた。


     ◇


 細い金属の矢が、俺のいた場所を通り過ぎた。


 背後の柱へ深く突き刺さる。


 一拍遅れて、割れたガラスが卓の上へ降ってきた。


「……伏せろ!」


 リオルが叫ぶ。


 俺はリゼを引き寄せ、卓の陰へしゃがんだ。


 セヴァンも椅子を倒し、窓から離れている。


 外では人が叫び、荷車が急停止する音がした。


「……何が起きたんですか!」


 リゼが尋ねる。


「分からない。でも、窓から離れて」


「分かってます!」


 返事はいつも通りだが、声が少し震えている。


 俺は彼女の肩へ手を置いた。


 リオルは壁際から窓の外を確かめていた。


「向かいの屋根に二人。運河に小舟が一隻」


「……三人?」


「今見えたのはな」


 彼は短く答えた。


 また金属の音がする。


 今度は窓枠へ当たり、木片が飛び散った。


 リオルが剣を抜いた。


「……セヴァン」


 俺が呼ぶと、彼はすでに上着の内側から細い紙札を取り出していた。


「見ています」


「お前を狙ってる?」


「まだ分かりません」


「今のは、完全にこっちへ飛んできたけど」


「だから、対象が私なのかあなたなのか分からないんです」


 相変わらず冷静だった。


 少し腹が立つほどに。


「……その紙は?」


 俺が尋ねる。


「拘束用の術式札です」


「止められる?」


「動いている矢を正面から止めるものではありません。進路を変える程度なら」


 言いながら、彼は札へ指を滑らせた。


 紙の表面に淡い線が走る。


 向かいの屋根から、次の矢が放たれた。


 セヴァンが札を投げる。


 宙で開いた紙が矢の軸へ絡み、横から引っ張った。


 矢はわずかに軌道を変え、柱の外側へ突き刺さった。


「……なるほど」


 俺が呟くと、セヴァンは少し肩をすくめた。


「便利でしょう」


「一回成功したからって、余裕だな」


「余裕があるように見せているだけです」


「……正直だな」


「こういう時は」


 そう言いながらも、彼は扉の方へ目を向けている。


 逃げ道を探しているのだろう。


 それは俺も同じだった。


「……リオル、下の客は?」


 俺が尋ねる。


「まだ店内にいる」


「裏口があったよな」


「ああ。お前、リゼと一緒に誘導してくれ」


「分かった」


 俺は立ち上がりかけた。


 その時、もう一度、金属音がした。


 ただし今度は、窓からではない。


 店の一階の庇(ひさし)へ、何かが突き刺さったようだった。


 セヴァンの顔色が変わる。


「……まずい」


「何?」


「爆裂式です!」


 声が鋭かった。


「全員、床へ!」


 俺はリゼの肩を抱え、倒れた卓の陰へ身体を沈めた。


 直後、下から重い衝撃が突き上げてきた。


     ◇


 耳の奥で、しばらく音が鳴っていた。


 建物全体が揺れ、天井から細かな木屑が落ちてくる。茶器が割れ、床へ滑った卓が壁へぶつかった。


 火は見えなかった。


 だが、一階の庇と窓枠の一部が壊れたらしく、外から白い粉塵が流れ込んでくる。


「……リゼ!」


 俺が呼ぶと、すぐ近くから返事があった。


「います!」


「怪我は?」


「肘を少しぶつけました。でも動けます!」


「……よかった」


「セインは?」


「俺も動ける」


 そう答えながら、自分の腕や膝を確かめた。


 昨日まで痛んでいた右膝も、今のところ問題ない。


 リオルはすでに扉の方へ移動していた。


「下の人を出す! セイン、リゼを頼む!」


「分かった!」


 俺も立ち上がろうとした。


 その時、壁際に人が倒れているのが見えた。


 セヴァンだった。


「……おい!」


 駆け寄る。


 意識はある。


 ただ、右肩の上着が破れ、木片が一本刺さっていた。


 爆発で飛ばされた窓枠の一部らしい。


 血が滲んでいる。


「……大丈夫?」


 思わず尋ねると、セヴァンは顔をしかめた。


「今、その質問はあまり好きではありません」


「……喋れるな」


「それで判断しないでください」


 いつもの口調だった。


 少し安心する。


 だが、傷は浅くなさそうだった。


「……木片、抜かない方がいいよな」


「たぶん、その方が」


「たぶんじゃ困る」


「私も医者ではありませんから」


 俺は傷の周囲へ清潔な布を当てた。


 木片には触れず、動かないように上着ごと支える。


「医者を呼ぶ。動ける?」


「歩く程度なら」


「無理するなよ」


「あなたに言われると、妙な気分ですね」


「俺もそう思う」


 セヴァンは短く笑った。


 その時、運河の方から小舟の櫂が水を叩く音が聞こえた。


 リゼが窓から離れた位置で耳を澄ませる。


「……船、動いてます」


 セヴァンが顔を上げた。


「逃げるつもりでしょう」


「追わないと?」


 俺が尋ねる。


「可能なら」


「今のお前を置いて?」


 セヴァンは一瞬、答えに詰まった。


「……そう言われると、困りますね」


「だろ」


 俺は布を押さえ直した。


「まず怪我人だよ」


 彼は黙った。


 俺はリゼを見た。


「下の人たち、確認してきてくれる? 医者を呼んでもらいたい」


「はい!」


 リゼはすぐに扉へ向かった。


 その背中を見送りながら、俺は窓の外の音を聞いた。


 運河の小舟が、少しずつ遠ざかっていく。


 逃がすかもしれない。


 けれど、ここで帰属先も分からない矢に〈返却〉を使うつもりはなかった。


 何より、目の前に怪我人がいる。


 今できる仕事は、そちらだった。


     ◇


 階下では、店主が客を裏口から避難させていた。


 幸い、歩けないほどの怪我をした者はいなかったらしい。


 リゼは店主と一緒に人数を確かめ、通りへ出ていた港湾警備隊の巡回員を呼んできた。


 その頃にはリオルも戻ってきていた。


「……屋根の二人は?」


 俺が尋ねる。


「一人は下りて逃げようとしたところを捕まえた。もう一人も、巡回員に引き渡した」


「早いな」


「もう一人は運河だな」


 リオルは壊れた窓を見た。


「船はまだ見える?」


「さっき動き始めた」


「……了解」


 彼はすぐに階段へ向かった。


「待って、お前一人で?」


「応援も呼んでる。運河の出口側から回れば、まだ間に合う」


 俺は頷いた。


「……気をつけろよ」


「お前もな」


 リオルが少し笑った。


「セヴァンを頼む」


「分かった」


 リオルはそのまま階段を駆け下りていった。


 俺はセヴァンへ目を戻した。


 彼は壁へ寄りかかったまま、傷の近くを押さえている。


「……リオルさんは、いつもあんなに速いんですか」


「昔から」


「大変そうですね、幼なじみも」


「慣れるよ」


「……慣れるものですか」


「ある程度は」


 セヴァンは少し笑った。


 けれど、笑うと肩に響くらしく、すぐに顔をしかめた。


「……あまり喋らない方がいいぞ」


「それは、あなたにも言いたいですね」


「俺は怪我してないから」


「そういう問題ではありません」


 確かに、今も誰かから狙われている可能性はある。


 俺は店の奥の壁へ背を向け、窓と入口の両方が見える位置へ座った。


 セヴァンはそれを見て、少しだけ目を細めた。


「……第七係の方々は、随分変わった仕事の仕方をしますね」


「普通だと思うけど」


「敵かもしれない相手の手当てをして、逃げる人間は別の仲間へ任せる」


「……まず怪我人を見ただけだよ」


「そうですか」


 彼はそれ以上言わなかった。


 俺も黙った。


 肩を押さえた布へ、少しずつ血が滲んでいる。


 早く医者が来てくれればいいと思った。


     ◇


 運河から大きな水音がしたのは、それから少ししてだった。


 何か重いものが落ちたような音だ。


 続いて、男の怒鳴り声が聞こえる。


 俺は壊れた窓へ直接近づかず、柱の陰から外を覗いた。


 小舟が、運河の中央で大きく傾いていた。


 その縁に、見覚えのある人影がある。


「……リオル!」


 思わず声が出た。


 あいつは石壁から小舟へ飛び移ったらしい。


 狭い船縁へ足をつき、相手が振り回した棒を避けている。


 普通なら、船ごとひっくり返りそうな動きだった。


 だが、リオルは〈均衡〉で身体の傾きを保ち、片手で船の縁を押さえながら、相手の腕を取った。


 小舟がもう一度揺れる。


 男が踏ん張りを失い、船底へ倒れた。


 リオルはその上から腕を押さえ、拘束具を掛ける。


 周囲の石橋から、港湾警備隊の巡回員が駆け寄ってくるのが見えた。


「……捕まえた」


 俺が呟く。


 セヴァンも少しだけ身体を起こした。


「……何が起きたんです?」


「リオルが船へ飛び移った」


「船へ?」


「うん」


 セヴァンは窓の外を見る。


 ちょうど、リオルが相手を押さえたまま手を上げたところだった。


「……あの人、本当に王都警備隊なんですか」


「そうだよ」


「もっと、こう……普通に捕まえるものでは?」


「俺もたまにそう思う」


 セヴァンは少しだけ笑った。


 その直後、痛みでまた顔をしかめる。


「……もう笑うなよ」


「あなたが変なことを言うので」


「事実しか言ってないけど」


「それが困るんです」


 俺は笑いながら、もう一度傷の状態を確かめた。


 リゼと医者が階段を上がってくる足音が聞こえたのは、そのすぐ後だった。


     ◇


 襲撃者は三人とも捕まった。


 全員がラヴェルの人間で、仕事仲介を通さず直接金を受け取っていたらしい。


 指示内容も、ほとんど同じだった。


『第七係四十四号の札を回収』


『セヴァン・ロークとの接触を阻止』


 リオルが現地警備隊から聞いた情報を持って戻ってきたのは、セヴァンの応急処置が終わった頃だった。


「……お前も狙われてたんだな」


 俺が言うと、セヴァンは書類を見て苦笑した。


「そのようですね」


「心当たりは?」


「ありすぎて、まだ絞れません」


「……自慢?」


「まったく」


 セヴァンは珍しく疲れた顔をしていた。


 右肩には医者が処置した厚い布が巻かれている。


 木片はすでに適切に取り除かれ、傷の状態も確認されたらしい。しばらく無理に腕を動かさないよう言われていた。


「……四十四号の札は、今、警備隊が預かってる」


 俺が言うと、セヴァンは頷いた。


「知っています」


「さっきの連中、どこへ取りに行くつもりだったんだろう」


「少なくとも、あなたたちが札のことを調べていると知っていたのでしょう」


「……それだけじゃない気がする」


 リオルが口を挟んだ。


「俺たちがセヴァンと会うことまで、知ってたんじゃないか?」


 セヴァンの表情が少し変わった。


「……可能性はあります」


「だとしたら、誰が漏らした?」


 リオルは俺を見る。


 俺も考えた。


 市場で、灰色の人物を捕まえた。


 そこへセヴァンが現れた。


 俺たちは警備隊へ相手を引き渡し、ここまで歩いてきた。


 見張ろうと思えば、見張れたのかもしれない。


 けれど、三人も雇って襲撃するには、ある程度の準備が必要だ。


「……初めから、お前を見てた人間がいたんじゃないか」


 俺が言うと、セヴァンは黙った。


 そして、少ししてから頷いた。


「そう考える方が自然かもしれませんね」


 リゼがセヴァンを見た。


「……セヴァンさんは、保全院の人ですよね」


「ええ」


「保全院の中でも、仕事が違う人がいるんですか?」


 セヴァンは少し考えた。


「あります」


「例えば?」


「回収、保存、記録、移送、編集。大きく分ければ、そういう仕事です」


 俺は指を折って数えた。


「……五つ?」


「ええ。ただし、現場では複数の仕事を兼ねることもあります」


「エルセは回収係だろ」


「本人からそう聞いたなら、その通りです」


「お前は?」


 リオルが尋ねる。


 セヴァンは少し笑った。


「そこはまだ、秘密にしておきたいですね」


「……便利だな」


「たまには秘密も必要です」


 リゼが、ふと思いついたように言った。


「編集係ですか?」


 セヴァンの指が止まった。


 ほんの一瞬だった。


 すぐに笑顔へ戻ったが、俺にも分かるくらいには間があった。


「……どうしてそう思うんです?」


「名前や記憶の話を、詳しく知ってるからです」


 リゼは答えた。


「回収する人より、記録を変えたり、つながりを扱ったりする人の方が知っていそうだなと思って」


「……なるほど」


 セヴァンは短く頷いた。


 否定はしない。


 肯定もしない。


 相変わらず、都合の悪いところだけ上手に隠す男だ。


「……その顔、答えに近いんじゃないか」


 俺が言うと、彼は少しだけ眉を上げた。


「どんな顔です?」


「聞かれたくないことを聞かれた顔」


「……あなたも、人の顔を見るんですね」


「見てるよ」


「靴以外も?」


「……何で知ってるんだよ」


 セヴァンが笑った。


 リゼも笑っている。


「セイン、靴ばかり見てると思われてますね」


「ちゃんと人も見てるって」


「どちらの方が得意ですか?」


「……今、それ聞く?」


 リオルまで笑っていた。


 さっきまで命を狙われていた人間が、どうしてこんな会話をしているのだろう。


 ただ、セヴァンの顔から一瞬だけ仕事の余裕が消えたことは、忘れずに覚えておこうと思った。


     ◇


「……一つ、聞いておきたい」


 俺は話を戻した。


「四十四号の男が、記憶庫への道を隠した時、誰かが手を貸したんだろ」


 セヴァンは顔を上げた。


「どうしてそう思うんです?」


「第四保全区の認証を見たから。あの施設は、誰か一人の思いつきで簡単に動かせるものじゃない」


 ティセラがいれば、もっと詳しい説明ができただろう。


 けれど、俺だって見ていた。


 認証札を持っていたエルセでさえ、待機状態へ戻すのに苦労していたのだ。


「……協力した人はいたはずだ」


 リオルも頷いた。


「そうでなければ、四十二人分の記憶を扱う手続きなんてできないんじゃないか」


 セヴァンはしばらく黙った。


「……記録に、複数の認証が残っています」


 やがて、そう答えた。


「誰の?」


「すべては分かっていません」


「ローディスも?」


 俺が尋ねる。


 セヴァンは目を伏せた。


「その名前は、調査記録にあります」


「……やっぱり」


「ただし、どの作業を担当したのかまでは不明です」


 俺は頷いた。


 ローディス・フェン。


 記憶瓶の中にも現れた名前だ。


 彼は何を知っていたのだろう。


 四十四号の男と、一緒に何を決めたのか。


 そして、二十八年後の俺たちへ、何を残そうとしたのか。


「……その男を、今も誰かが探してる?」


 俺が聞くと、セヴァンは頷いた。


「ええ。少なくとも、彼の持っていた情報を探している人間がいます」


「さっきの連中?」


「雇われた人間でしょう。ですが、札を回収しようとした理由は、そこにあると思います」


 リオルが腕を組んだ。


「……お前を黙らせたかったのも?」


「それも同じ依頼主の目的かもしれません」


「じゃあ、なおさら話せよ」


「話せるところまでは話しています」


「信用しづらいな」


「それは承知しています」


 セヴァンの返事は早かった。


 俺は窓の外へ目を向けた。


 さっきまで暴れていた運河は、何事もなかったように船が行き交っている。


 壊れた窓は応急的に板で塞がれ、店主は一階で被害を確かめていた。


 もちろん、被害がなかったことになったわけではない。


 俺たちも、あとで事情を説明し、修理費の扱いを確認する必要がある。


 それでも街は、少しずついつもの仕事へ戻ろうとしていた。


「……次はどこを調べればいい?」


 俺が尋ねた。


 セヴァンは少し考えた。


「第四保全区の先です」


「……また地下か」


「ええ。ただし、昨日あなたたちが見た場所から先へ進むには、潮の変化を待つ必要があります」


 リゼが顔を上げた。


「潮?」


「海とつながっている区画があるんです。水位が下がる時間だけ、通れる場所が現れる」


「……じゃあ、今行っても駄目?」


「危険でしょうね」


 俺は昨日見た地下の光景を思い出した。


 何段にも並んだ円筒の装置。


 水に沈んだ通路。


 暗闇の向こうへ続く、古い構造物。


 あの先にまだ道があるのなら、少しは納得できる。


「……いつなら?」


 尋ねると、セヴァンは外の運河へ目を向けた。


「明け方です。明日は特に水位が低くなる見込みがあります」


「明日?」


「ええ」


 リオルが俺を見る。


 俺も頷いた。


 行きたい。


 ただし、今すぐ走り出すわけにはいかない。


「……まずティセラと合流する」


 俺は答えた。


「古い施設のことは、あいつにも見てもらいたい」


 リオルが頷く。


「当然だな。それに、現地警備隊へも話を通しておく。今日の襲撃を考えると、出入りする場所を知らせずに入るのは危ない」


「……マーロさんは?」


 リゼが尋ねた。


「名前のこと、まだ何も解決していません」


「うん。そこも調べよう」


 俺は頷いた。


「それから、イリナさんとトーマさんにも話しておきたい」


「……何を伝える?」


 リオルが尋ねる。


「今日分かったこと。全部じゃなくて、確かめられたことを」


 セヴァンの話を、そのまま真実として伝えるつもりはなかった。


 本人が選んだという記録があること。


 しかし、本人が何を望んでいたかは、まだ分からないこと。


 そして、今もその人に関する情報を求めている者がいること。


 その辺りなら、伝えられると思った。


「……勝手に決めていいことじゃないから」


 俺が言うと、リゼは小さく頷いた。


「はい」


 セヴァンはそのやり取りを黙って見ていた。


 やがて、少しだけ笑う。


「……ずいぶん相談するようになりましたね」


「前からしてるよ」


「そうですか?」


「……その顔やめて」


「何も言っていません」


 言わなくても分かる。


 それが、少し悔しかった。


     ◇


 茶店を出る頃には、夕方の光が運河へ伸びていた。


 セヴァンは医者の指示に従い、別の場所で休むと言った。


 もちろん、行き先は教えなかった。


「……明日の明け方、来るの?」


 俺が尋ねる。


「まだ分かりません。右肩の具合もありますから」


「……そうだな」


「ただ、行くなら気をつけてください」


「何に?」


「古い施設は、こちらが何を返してほしいと思っているかまでは考えてくれません」


 俺は少し眉を寄せた。


「……お前、そういうの好きだな」


「何がです?」


「意味ありげなこと言って、説明しないやつ」


 セヴァンは少し笑った。


「では、一つだけはっきり言いましょう」


「……何?」


「第四保全区より先へ進むと、今までの知識だけでは判断できないものが出てくるかもしれません」


「……例えば?」


「人間の名前や記憶が、物品と同じ手続きで扱われることです」


 俺は黙った。


 第47話で、俺自身を『未返却』と分類した石扉。


 リゼの名前を『不一致』と表示した装置。


 あれだけでも十分に気分の悪い体験だった。


「……分かった」


 俺は答えた。


「でも、分類されたからって、その通りにするつもりはない」


 セヴァンは少しだけ目を細めた。


「そうでしょうね」


 それだけ言って、頭を下げた。


「では、また」


 彼は人混みの中へ歩いていった。


 右肩をかばっているせいで、いつもより歩幅が小さい。


 それでも背筋は伸びていて、振り返ることもなかった。


「……セイン」


 リゼが呼んだ。


「何?」


「あの人、嘘をついていたと思います?」


 俺は少し考えた。


「……全部が嘘ではないと思う」


「はい」


「でも、全部話したとも思わない」


 リゼは頷いた。


 リオルも遠くへ消えていくセヴァンの背中を見ていた。


「……俺は、もう少し信用できないな」


 リオルが言う。


「だろうな」


「ただ、今日あいつが狙われたのは本当だ。敵が一つとは限らないってことは分かった」


「……そうだな」


 俺は運河の水を見た。


 細い流れが、夕方の光を受けて揺れている。


 この水は、やがて海へ続いていく。


 その下には、まだ俺たちの知らない古い通路があるのかもしれない。


 明日の明け方、そこへ向かう。


 名前をなくしたマーロがいる。


 誰かを待っていたことだけを覚えているイリナがいる。


 父親のことを思い出せないトーマがいる。


 その人たちが失ったものと、二十八年前の第七係職員が守ろうとしたもの。


 両方を、ちゃんと知りたかった。


 セヴァンは、あの男が忘れられることを選んだと言った。


 だが、それは誰かが残した記録を読んだ人間の言葉だ。


 本人が同じことを言うのか。


 その時、ほかに選べる道はあったのか。


 俺はまだ知らない。


「……戻ろうか」


 リゼへ声をかけた。


「はい」


「ティセラにも話さないとな」


「きっと質問がたくさん出てきますね」


「……そうだな」


「セイン、答えられます?」


「半分くらいは」


「……たぶん?」


「それは言うなよ」


 リゼが笑った。


 リオルも笑いながら、先に歩き出す。


 俺たちはその後を追った。


 明日になれば、今日より少しは分かることが増えるだろう。


 それを確かめに行くためにも、まずは無事に帰らなければならない。


 俺は夕方の運河を一度だけ振り返り、足元の石畳を確かめてから歩き始めた。

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