第五十話 三人分の食卓
住所の書かれた紙を手に、俺たちは港から少し離れた住宅街を歩いていた。
ラヴェルは不思議な街だ。
大通りでは外国の言葉が飛び交い、巨大な荷車が休みなく行き交っているのに、港から二、三本路地を入るだけで、驚くほど静かになる。
石造りの小さな家が並び、二階の窓から洗濯物が下がっている。道端では猫が日向を探して歩き、開け放たれた窓から、誰かが皿を洗う音が聞こえてきた。
王都にも似たような住宅街はある。
けれど、ここではどの家も少しずつ海の方を向いているように見えた。
窓の数や建物の向きのせいなのかもしれない。
あるいは、単に俺が初めて海を見たばかりで、何でもそちらへ結びつけているだけなのかもしれなかった。
「……セイン」
隣を歩くリゼが呼んだ。
「何?」
「緊張してます?」
「……少し」
「私もです」
あっさり言われた。
俺は少し笑った。
「お前も?」
「はい。知らない人のお家へ行くんですから」
「いつも知らない人と話してるだろ」
「それとこれとは違います」
リゼは住所の紙を見た。
「今日は、昔のことを聞きに行くんですよね」
「ああ」
「相手の人が、覚えていないかもしれないことを」
その言葉に、俺も少し考えた。
二十八年前。
旧西税関の近くに、三人分の居住記録があった。
そのうち二人の名前は残り、もう一人だけが空白になっている。
職業欄には、王立遺失物管理局第七係。
記憶瓶の中では、黒髪の女性と小さな男の子が、誰かの帰りを待っていた。
男の子が、相手を父さんと呼んだ声まで聞いた。
ただし、俺が見たのは誰かの記憶だ。
あの家族の記録と完全に一致すると、まだ証明されたわけではない。
まして、二十八年の間に何が起きたのかは分からない。
「……まず、本人たちの話を聞こう」
俺は答えた。
「こっちが知ってることを、いきなり全部話すのはやめたい」
「はい」
「もし本当に誰かを忘れているとしても、その人のことを知りたいかどうかは、本人たちに決めてもらいたいから」
リゼは静かに頷いた。
「そうですね」
俺たちはしばらく黙って歩いた。
少し先で、リオルが振り返る。
「……住所、そろそろだぞ」
彼はドルクの引き渡しと報告を終え、途中から合流していた。
手には港湾記録所から写してきた住所の控えを持っている。
ティセラは相変わらず古い記録を読みながら歩いていたので、俺は一度だけ声をかけた。
「……前見ろよ」
「見てるわよ」
「資料を?」
「道も」
その直後、石段につまずきかけた。
「……ほら」
「今のはたまたまよ」
リオルが笑う。
ティセラは少し不満そうだったが、素直に資料を閉じた。
その向こうに、古い石造りの家が見えてきた。
◇
玄関の横には、小さな黄色い花が植えられていた。
潮風に揺れ、細い茎が何度も石壁へ触れている。
家は二階建てで、窓枠には白い塗料が残っていた。新しい家ではないが、扉の蝶番には油が差されているらしく、手入れの行き届いた印象だった。
俺は番地を確認した。
「……ここだ」
リゼも紙を覗き込む。
「合ってますね」
リオルが低い声で尋ねた。
「何から聞く?」
「昔の住所の確認から。記録に空白があることは伝えても、誰のものかは決めつけない」
「了解」
ティセラも頷いた。
「記録は、頼まれるまでは見せない方がいいわね」
「そうしよう」
俺は扉の前へ立ち、一度だけ息を整えた。
落とし物を届けるために、知らない人の家を訪ねたことは何度もある。
だが、今日は何を届けに来たのか、自分でもよく分かっていなかった。
それでも、呼び鈴を鳴らした。
しばらくして、家の奥から足音が近づいてくる。
扉が開いた。
「はい?」
出てきたのは、三十代半ばくらいの男だった。
茶色がかった黒髪を短く切り、袖を肘までまくったシャツを着ている。
背丈は俺より少し低い。
手には、小さな木片が握られていた。
何かを修理していたところなのかもしれない。
「突然すみません。王立遺失物管理局から来ました」
俺は身分証を見せた。
男の表情が変わる。
「王都から?」
「はい。二十八年前、この辺りで暮らしていた方について確認したいことがありまして」
「……二十八年前?」
男は少し考えた。
「俺が子供の頃だな」
「当時、旧西税関の近くに住んでいた女性と、八歳くらいの男の子を探しています」
男が顔を上げた。
「それなら、たぶん俺たちだ」
俺は息を止めかけた。
「……あなたが?」
「ああ。トーマ・カレルです」
彼はそう名乗った。
トーマ・カレル。
港湾記録所の台帳にあった名前だ。
二十八年前は八歳。
今は三十六歳。
当然、その頃とは顔も背丈も違うだろう。
それでも、俺は記憶瓶の中で見た男の子のことを思い出していた。
まだ小さな手。
食卓の上に残したパンの端。
父さん、と呼ぶ声。
「……セイン・アルケットです」
俺は名乗り直した。
「こちらはリゼ、リオル、ティセラです」
トーマは四人を順番に見た。
少し驚いたように笑う。
「随分大勢で来たんだな」
「すみません」
「いや、いいけど。……母さん!」
彼が家の奥へ声をかけた。
「王都からお客さん!」
少し間を置いて、女性の声が返ってきた。
「あなた、また何かしたの?」
「俺じゃないよ!」
「そう言って前も船着き場で揉めてたでしょう」
「それ、十年以上前の話だろ!」
俺は思わずリゼを見た。
彼女も笑いをこらえている。
妙に親しみやすいやり取りだった。
そして、家の奥から一人の女性が現れた。
◇
黒髪には白いものが混ざり、後ろでゆるくまとめられていた。
年齢は六十歳前後だろう。
少し細い肩に、淡い色の上着を着ている。
彼女は俺たちを見て、少し驚いた顔をした。
「まあ、本当に大勢ね」
「母のイリナです」
トーマが紹介する。
「イリナ・カレルよ」
女性は小さく頭を下げた。
俺も礼を返そうとした。
だが、その途中で目が止まった。
左の目元に、小さなほくろがあった。
胸の奥が、急に静かになった気がした。
知っている。
いや、俺が知っているわけではない。
瓶の中で、見たことがある。
黒い髪の女性。
少し笑うと、目元のほくろが動いたように見えた人。
台所の窓から港の明かりが入る部屋で、子供と一緒に誰かの帰りを待っていた人。
目の前にいるのは、その女性かもしれない。
二十八年が経っている。
顔には年齢相応の変化があり、当時と同じかどうかを見た目だけで決めることはできない。
それでも、あのほくろを見た瞬間、身体が先に反応してしまった。
「……セイン?」
リゼが小声で呼んだ。
俺は一度頷いた。
そして、イリナへ向き直った。
「すみません。昔の住民記録を調べていて、こちらのお名前が出てきたんです」
「昔の記録?」
「はい。もしよろしければ、当時の暮らしについて少しお話を聞かせてもらえませんか」
イリナは少し考えた。
それから、トーマへ目を向けた。
「……何か、悪いことでも?」
「いえ。事件の調査で、当時の記録を確認しています」
リオルが現地警備隊の照会書も見せた。
イリナはそれを一度確かめてから、静かに頷いた。
「……立ち話も何ですから、中へどうぞ」
俺たちは礼を言い、家へ入った。
◇
居間には、海辺の家らしい匂いがした。
塩を含んだ風と、乾かした布。それから、少し古い木の家具の匂い。
窓際には小さな棚があり、飾り皿や木彫りの魚が並べられている。
壁には、何枚か家族の肖像画が掛かっていた。
トーマが子供だった頃の絵もある。
小さな男の子が、母親らしい女性の隣で妙に真面目な顔をしている。
「……これ、トーマさんですか?」
リゼが尋ねた。
「ああ。子供の頃の」
「かわいいですね」
「そうかな。俺はあんまり好きじゃないんだけど」
「どうしてです?」
「この日、無理やりきれいな服を着せられてさ。早く遊びに行きたかったんだよ」
イリナが横から笑った。
「じっとしていられなかったのよ、この子」
「今はちゃんとしてるだろ」
「そうね。少しは」
母親らしい返事だった。
俺はその会話を聞きながら、壁の絵を見た。
少年の隣に立っているのは、イリナだけだ。
もう一人がいた形跡は見えない。
それでも、なぜか少し引っかかった。
絵の右側に、余白が広く残っていたからだ。
ただ、描き手がそういう構図を選んだだけかもしれない。
何でも空白へ結びつけるのは、今の俺の悪い癖だ。
「……どうぞ」
イリナが茶を運んできた。
俺たちは卓を囲んだ。
用意された椅子は四つだったが、部屋の隅には古い椅子がもう一脚置いてある。
背もたれには補修の跡があり、ほかのものより少し年季が入っていた。
それが誰の椅子なのか、今のところ聞く理由はない。
「……それで、二十八年前のお話でしたね」
イリナが言った。
「はい。旧西税関の近くに住んでいらっしゃいましたよね」
「ええ。あそこは長く住んだわ。トーマが生まれる前からだったかしら」
「どんな暮らしでした?」
俺は尋ねた。
イリナは茶を注ぎながら考えた。
「そうね。私は仕立ての仕事をしていたの。港から来るお客さんが多くて、外国の服を直すこともあったわ」
「お仕事は家で?」
「ええ。小さな部屋を作業場にしていたのよ。トーマはそこでよく昼寝をしていたわね」
「母さん、そんなことまで覚えてるのか」
トーマが笑った。
「覚えているわよ。あなたが針箱をひっくり返した日なんて、今でも忘れられない」
「それは忘れてよ」
「無理ね」
リゼが小さく笑った。
俺もつられそうになったが、質問を続けた。
「……当時、お二人で暮らしていたんですか?」
イリナの手が止まった。
ほんの一瞬だった。
「……ええ」
彼女は頷いた。
「そうだったと思うけど」
「ずっと?」
聞き方が少し強かったかもしれない。
イリナは眉を寄せた。
「ずっと……」
しばらく考える。
その後、困ったように笑った。
「……変ね。ずっと二人だったはずなのに、そう聞かれると少し自信がないわ」
トーマが母親を見る。
「どうして?」
「分からないのよ。ただ……」
イリナは窓の方へ目を向けた。
「昔、誰かの帰りを待っていたような気がするの」
部屋が静かになった。
俺は何も言わなかった。
「夕方になると、玄関の方が気になって。食事を温め直したり、外の足音を聞いたりしていたことがあったの」
「……誰を?」
トーマが尋ねる。
イリナは首を振った。
「それが、分からないのよ」
彼女は少し恥ずかしそうに笑った。
「おかしいでしょう。待っていたことだけ覚えていて、誰だったか分からないなんて」
おかしくない。
そう言いたかった。
青鐘通りで、俺も似たようなことを経験したからだ。
誰かと約束した感覚が残っているのに、相手の顔が思い出せない。
それでも、約束がなかったことにはならない。
俺はカップを持ったまま、静かに答えた。
「……そういうことも、あると思います」
イリナがこちらを見た。
「本当に?」
「はい。誰と話したか忘れても、その時に嬉しかったとか、待ち遠しかったとか、そういう気持ちは残ることがあると思うので」
彼女は少しだけ目を細めた。
「……そうね」
それ以上は何も言わなかった。
◇
話がひと区切りついた頃、トーマが台所からパンを持ってきた。
「朝焼いたものが残ってるんだけど、食べる?」
最初に顔を上げたのは、当然リゼだった。
「いいんですか?」
「ああ。母さんが焼いたやつだよ」
「いただきます!」
俺は思わず笑った。
「……お前、さっきパン屋へ寄りたいって言ってなかった?」
「言いました」
「まだ食べるの?」
「こちらはお呼ばれです」
「そういう分類なのか」
リゼは楽しそうだった。
イリナも笑いながらパンを皿へ分けてくれる。
俺も一つ受け取った。
少し硬めの丸パンだった。
表面は香ばしく、中心はまだ柔らかい。
トーマは自分の分を取ると、何気ない手つきで端をちぎった。
その小さな欠片を、皿の隅へ置く。
俺の指が止まった。
知っている。
この手の動きを。
瓶の中で、あの小さな男の子がやっていたことだった。
硬いパンの端を嫌がり、そこだけを残す。
誰かが、それを見て笑っていた。
「……トーマさん」
俺が呼ぶと、彼は顔を上げた。
「何?」
「そのパンの端、食べないんですか?」
「……ああ、これ?」
彼は少し照れくさそうに笑った。
「昔からの癖なんだ。硬いところがあんまり好きじゃなくて」
イリナがすぐに口を挟んだ。
「子供の頃からよ。何度言っても端だけ残して」
「今のパンは別に硬くないだろ」
「じゃあ食べなさい」
「もう癖になってるんだよ」
トーマは笑った。
その笑い方を見ていると、瓶の中で見た男の子が、少しだけ近くなったように感じられた。
「……昔、変なことも言ってたわね」
イリナが思い出したように続ける。
「何て?」
「そのパンの端、誰かが食べてくれる気がするって」
トーマが眉を寄せた。
「俺が?」
「ええ。小さい頃、何度か言ってたわ」
「……変な子供だな」
「今も少し変よ」
「母さん」
イリナが笑う。
俺はその会話を聞きながら、皿の端を見つめた。
二十八年前の記憶の中で、誰かがいた。
その人は、パンの端を残す少年を見ていた。
今、同じ癖が目の前にある。
記憶がなくても、身体に残ることがあるのだろうか。
あるいは、理由を忘れた習慣だけが残ったのか。
今は分からない。
ただ、この親子にとっては何でもない会話が、俺にはひどく大切なものに思えた。
「……セイン」
リゼが小声で呼んだ。
俺は一度だけ頷いた。
彼女は意味を尋ねなかった。
それでよかった。
◇
「……昔の物って、残っていますか?」
話題を変えたのはティセラだった。
イリナが彼女を見る。
「昔の物?」
「以前のお住まいから持ってきたもので、今は何に使っていたか分からない物とか」
「……あるわよ」
ティセラの目が輝いた。
「本当ですか?」
「ええ。物置に木箱が一つあるの。何で取ってあるのか、自分でもよく分からないんだけど」
イリナは少し考えた。
「捨てようとすると、何だか嫌な気持ちになるのよ」
「……見せていただけますか?」
ティセラの声が少し弾んだ。
俺は横から小声で言った。
「普通の顔で聞いて」
「普通だけど」
「目が違う」
リゼが笑いをこらえた。
イリナまで少し笑った。
「研究者さん?」
「はい」
「分かりやすいわね」
ティセラは少し不満そうだったが、否定しなかった。
イリナは二階の物置へ案内してくれた。
古い衣類や道具が積まれた棚の奥から、傷の多い木箱を一つ取り出す。
蓋には、細かな引っかき傷がついていた。
鍵はない。
「……開けていい?」
俺が尋ねる。
「ええ。どうぞ」
ティセラがすぐに手を伸ばしかけたので、俺は止めた。
「待って。まず術式が残ってないか調べよう」
「……そうね」
彼女は一瞬だけ黙り、箱の表面を確かめた。
俺も見たが、少なくとも目で分かるような封印はない。
ティセラが慎重に確認してから、イリナの許可を得て蓋を開いた。
中には古い布、小さな手帳、錆びた鍵、それから使い込まれた筆記具が入っていた。
どれも、長く保管されていた物らしい。
イリナは一つずつ取り上げ、首を傾げる。
「……これ、私が使っていたのかしら」
「覚えていないんですか?」
俺が尋ねる。
「ええ。昔は物を捨てるのが苦手だったから、何でも取っておいたのかもしれないけど」
その時、箱の底に小さな金属片が見えた。
リゼが息を吸う。
「……真鍮札」
俺もすぐに気づいた。
第七係で使われているものと、形が似ている。
ただし、古い。
縁には細かな傷が残り、紐を通す穴も今の形式とは少し違っていた。
「……これ、見せてもらっていいですか?」
俺が尋ねると、イリナは頷いた。
俺は札を持ち上げた。
表には、王立遺失物管理局第七係の古い印。
裏には数字が刻まれていた。
『四十四』
誰もすぐには口を開かなかった。
「……四十四号」
ティセラが呟く。
先ほどドルクの依頼書で見た番号。
今朝、マーロの業務記録に残っていた照会番号。
その二つと、同じ数字だ。
もちろん、数字が同じというだけで同一の記録だとは限らない。
それでも、偶然で済ませるには近すぎるように思えた。
「……これ、誰のものだったんでしょう」
リゼが尋ねる。
イリナは首を振った。
「分からないわ」
「いつから?」
「前の家から持ってきたはずだから、二十八年以上になるのかしら」
トーマが札を覗き込む。
「第七係って書いてあるな」
「ああ」
俺は頷いた。
「昔の王立遺失物管理局の札だと思います」
「……どうしてうちに?」
「それを調べたいんです」
トーマは少し考えた。
「……母さん、誰かが忘れていったのかもな」
その言葉に、イリナは小さく笑った。
「そうかもしれないわね」
俺は札を見つめた。
忘れていった。
そういうことなのだろうか。
誰かが落としたのか。
意図して預けたのか。
帰ってこられなくなったのか。
まだ分からない。
ただ、この家族が二十八年間、捨てずに持っていたことは確かだった。
◇
「……触ってみてもいいですか?」
リゼがイリナへ尋ねた。
彼女は頷いた。
リゼは真鍮札を受け取り、しばらく両手で包むように持っていた。
それから、小さく首を傾げる。
「……何か分かる?」
俺が聞く。
「少し、変な感じがします」
「なくなった跡?」
「はい。でも、ここに何があったかまでは分からないです」
リゼは無理に説明しようとしなかった。
今の彼女には、記憶の映像が見えるわけではない。
どこに誰がいたのかも、具体的な名前も分からない。
ただ、何かが欠けているという感覚だけが残るらしい。
「……イリナさん」
リゼが呼んだ。
「何?」
「これを持っていたこと、何か覚えていますか?」
イリナは少し考えた。
「……いいえ」
「何でもいいんです。触った時に、少し懐かしい気がするとか」
イリナは札を受け取った。
指で縁をなぞる。
そのまま、数秒間動かなかった。
「……変ね」
小さな声だった。
「どうしました?」
俺が尋ねる。
「知ってる物みたいなの」
イリナは札を裏返した。
「見覚えがあるわけじゃないのよ。でも、こういう金属の音を……」
彼女は一度口を閉じた。
それから、札を指先で軽く揺らしてみせた。
ちりん、と小さな音がした。
俺はその音を聞いた。
リゼの腰に提げられた札と、よく似た音だった。
「……誰かが、これをつけて帰ってきた気がする」
イリナが言った。
トーマが母親を見る。
「誰が?」
「分からない」
イリナは少し困った顔をした。
「玄関が開く前に、この音が聞こえて。それを聞くと、帰ってきたんだなって思った気がするの」
その言葉を聞いた時、胸の奥が強く締めつけられた。
俺は瓶の中で見た記憶を思い出した。
港の明かり。
帰りを待つ女と子供。
そして、男が歩くたびに聞こえていた、小さな金属音。
あの時は何の音か分からなかった。
けれど、今は目の前に似た札がある。
偶然かもしれない。
ただ、イリナが覚えているという音が、あまりにも具体的だった。
「……私、誰を待っていたのかしら」
イリナが呟いた。
誰もすぐには答えられなかった。
トーマは母親の隣へ座った。
リゼは少し離れたところで黙っている。
俺は何度か口を開きかけ、結局やめた。
瓶の中で見たものを、この家族へ話すべきだろうか。
まだ相手の意思を確かめていない。
それでも、イリナは今、自分が待っていた人を知りたがっている。
少なくとも、その気持ちは目の前にある。
「……一つ、話してもいいですか」
俺は尋ねた。
イリナが顔を上げた。
「何を?」
「調査の途中で、古い記憶の一部分を見ることがありました。その中に、あなたたちに似た人がいたんです」
トーマが身を乗り出す。
「……俺たちに?」
「はい」
俺は頷いた。
「ただ、俺が見たのは誰かが覚えていた光景です。本当にあなたたちのことなのか、まだ確かめられていません」
「……聞かせて」
イリナが答えた。
声は小さかったが、はっきりしていた。
俺は少しだけ息を整えた。
「港の近くに、女の人と小さな男の子がいました」
イリナは静かに聞いている。
「男の子はパンの端を残していました。誰かへ向かって、今日は帰れるのかと聞いていました」
トーマの表情が変わった。
俺は続けた。
「その人は、今日は帰ると答えていました」
イリナの指が、真鍮札を強く握った。
「……誰?」
彼女が尋ねる。
「名前は、分かりません」
「……でも、誰かいたのね」
「はい」
俺は答えた。
「その記憶には、もう一人いました」
部屋が静かになった。
トーマは、自分の皿を見ている。
パンの端が、まだそこに残っていた。
「……父親?」
しばらくして、彼が言った。
俺はすぐには頷かなかった。
記憶の中で、男の子は相手を父さんと呼んだ。
けれど、その記憶の主が誰だったのかは、まだ確認できていない。
「……そう呼ばれていました」
俺は答えた。
「でも、その人が誰だったのか、今はまだ分からないんです」
トーマは黙った。
イリナも、真鍮札を見つめている。
「……俺、父親がいたことも覚えてないんですよ」
トーマが言った。
不思議なほど静かな声だった。
「母さんと二人で暮らしてきたと思ってた。小さい頃のことを聞かれても、母さんが働いてたこととか、一人で港へ遊びに行ったことくらいしか」
彼は少し笑おうとした。
けれど、うまくできなかった。
「……でも、いなかったって証拠もないんだな」
俺は頷いた。
「そうですね」
トーマはイリナを見た。
「母さんは、誰かを待ってたんだろ」
「……そうかもしれないわ」
「だったら、その人が誰だったのか知りたい」
イリナはしばらく息子を見ていた。
それから、ゆっくり頷いた。
「……私も」
俺はその言葉を聞いた。
本人たちは、知りたいと言っている。
だからといって、すぐに記憶を返せるわけではない。
まだ、記憶の本当の持ち主さえ分かっていない。
それでも、何も知らせずに立ち去る理由は、もうなかった。
「……分かりました」
俺は答えた。
「調べます。誰がいたのか、その人に何が起きたのか」
イリナは小さく頷いた。
「ありがとう」
その声には、まだ戸惑いがあった。
でも、少しだけ安心したようにも聞こえた。
◇
イリナが真鍮札を箱へ戻そうとした時だった。
窓の外で、硬いものが擦れる音がした。
リオルが顔を上げる。
「……待って」
次の瞬間、窓ガラスが割れた。
細い鉤付きの紐が飛び込み、卓の端にあった真鍮札へ絡みつく。
「……四十四!」
ティセラが叫んだ。
紐が一気に引かれる。
真鍮札は窓の外へ飛び、割れたガラスの向こうへ消えた。
「伏せろ!」
リオルが叫ぶ。
俺はイリナの肩を抱え、床へ身を低くした。
リゼはトーマの腕をつかみ、窓から離れるよう引いている。
もう一度、外で足音がした。
「……逃げる!」
リオルは窓へ近づき、一瞬だけ外を確かめた。
すぐに入口へ向かう。
「追う!」
「リオル!」
俺が呼ぶと、彼は振り返った。
「大丈夫。先に行く!」
それだけ言って階段を駆け下りる。
俺はイリナとトーマの無事を確かめた。
幸い、割れたガラスで怪我をした人はいなかった。
「……すみません」
思わず謝る。
「何が?」
イリナが顔を上げた。
「俺たちが調べに来たせいで、狙われたのかもしれません」
彼女はしばらく俺を見た。
それから、ゆっくり首を振る。
「……まだ分からないんでしょう」
俺は頷いた。
「はい」
「だったら、今は謝るより、あれを取り戻してほしいわ」
彼女は割れた窓を見た。
「大切な物かどうかも分からないけど、二十八年持っていたものなの」
俺は頷いた。
「……分かりました」
「セイン」
リゼが隣へ来た。
「私も行きます」
「危ないぞ」
「分かってます」
彼女は真面目な顔だった。
「でも、知らない街でセイン一人を走らせる方が心配です」
「……そこは俺の信用の問題?」
「半分くらいです」
少しだけ笑ってしまった。
リゼも、小さく笑った。
「……分かった。俺から離れないで」
「はい」
ティセラがすぐに口を開いた。
「私はここに残るわ。箱の中にまだ調べるものがあるし、イリナさんたちを一人にはできない」
「頼む」
俺は頷いた。
トーマが立ち上がる。
「俺も行く」
「今はここにいてください」
「でも、あれはうちの物だろ」
「だからこそ、取り戻してきます。相手が何者か分からないので」
トーマはまだ言いかけた。
しかし、イリナがその腕をそっとつかんだ。
「……行かないで」
トーマは母親を見た。
少しして、ゆっくり座り直した。
俺は二人へ頭を下げ、リゼと一緒に家を飛び出した。
◇
リオルの姿が見えたのは、二本目の路地を曲がったところだった。
その先を、灰色の外套を着た細身の人物が走っている。
低い屋根から石塀へ飛び移り、身軽に路地を抜けていく。
「……エルセ?」
思わず口にした。
だが、すぐに違うと分かった。
体格が違う。
それに、動き方も違っていた。
エルセは相手の動きを見て、必要な時だけ〈保留〉を使う。
目の前の人物は、追手の視線を外すことばかり考えているようだった。
「……右へ行く!」
リゼが叫んだ。
俺は屋根を見上げた。
灰色の外套が一瞬見えなくなる。
続いて、右側の路地へ布が翻った。
「……見えた!」
俺たちは追いかけた。
その時、前方で小さな袋が落とされた。
石畳へ、金属の破片のようなものがばらばらと散る。
違う。
破片ではない。
どの向きに落ちても先端が上を向くように作られた、撒菱だった。
「……踏むな!」
リオルが叫ぶ。
俺は急いで足を止めた。
厚い靴底なら多少は耐えられるかもしれないが、わざわざ踏む理由はない。
リゼの靴底は、俺のものより薄い。
「……ちょっと待って」
俺が言うと、彼女はこちらを向いた。
「何です?」
「こっちへ」
俺は道端に置かれた低い木箱を指した。
その上なら、撒菱の多い場所を避けられる。
リゼはすぐに箱へ乗った。
俺は周囲の安全な石畳を選び、反対側へ手を伸ばした。
「……手、貸すよ」
彼女が少し笑う。
「背負ってくれるのかと思いました」
「怪我人だからな、俺も」
「膝、まだ痛いんですか?」
「走れるけど、無茶はしたくない」
リゼは素直に手を取った。
俺たちは撒菱の少ない場所を選び、路地を抜けた。
少し先で、リオルが振り返る。
「早く!」
「お前が速すぎるんだよ!」
「それは知ってる!」
リオルは笑いながら、また走り出した。
俺は息を整え、リゼと一緒に後を追った。
◇
追跡は、昼の市場へ入ったところで難しくなった。
魚を運ぶ荷車。
香辛料を売る商人。
布を広げた露店。
その間を、多くの人が行き交っている。
灰色の外套など、少し目を離せばすぐに紛れてしまうだろう。
「……どこ?」
俺が尋ねると、リゼが人混みを見渡した。
「さっき、あの果物屋さんの横を通りました!」
指された方を見る。
低い木箱の上に、まだ揺れている布があった。
誰かが急いで通った跡らしい。
「……あっちか!」
俺たちは走った。
リオルはすでにその先にいる。
「止まれ! 王都警備隊だ!」
声が響き、人々が道を空ける。
その向こうで、灰色の人物が一度振り返った。
顔の下半分を布で隠している。
右手には、真鍮札が握られていた。
俺は反射的に左手を上げかけた。
だが、途中で止める。
札の本当の持ち主は誰だろう。
二十八年間イリナの家にあった。
しかし、元は第七係の職員が持っていたものかもしれない。
今の俺には、どこが本来の帰属先なのか確かめられない。
「……〈返却〉は使えない!」
俺が叫ぶ。
リオルが振り返りもせず答えた。
「じゃあ、走れ!」
「そうする!」
万能ではない。
けれど、今はそれでいい。
俺たちには足がある。
リオルの速さも、リゼの観察もある。
全部を俺の術で解決する必要はなかった。
灰色の人物が屋台の脇へ手を伸ばした。
頭上に張られていた布が外れ、一斉に落ちてくる。
「……うわっ!」
視界が遮られた。
俺は反射的に腕を上げたが、顔へ布がかかり、足元が分からなくなる。
「リゼ!」
「います!」
すぐ近くから声がした。
「動かないで!」
「はい!」
俺は手を伸ばした。
指先に何かが触れる。
そのまま握ると、リゼの手だった。
「……大丈夫?」
「はい」
「じゃあ、行くぞ」
俺たちは布の下から抜け出した。
先に走ったリオルの姿は、もう見えない。
「……早すぎるだろ」
俺が呟くと、リゼが笑った。
「リオルさんですから」
妙に納得できてしまった。
俺たちも走った。
◇
市場の外へ出たところで、金属音がした。
角を曲がると、灰色の人物が壁際へ追い込まれていた。
リオルが剣を構え、逃げ道を塞いでいる。
「……札を置け」
声が低かった。
普段の軽口を言う時とは、まるで違う。
「それ以上動いたら、今度は本気で止める」
灰色の人物は左右を見た。
まだ逃げ道を探しているらしい。
俺は少し距離を取り、息を整えた。
「……諦めた方がいいと思うよ」
声をかける。
「リオル、足速いから」
「今それ言う?」
リオルが呆れた声で返す。
「事実だろ」
灰色の人物の目が、俺へ向いた。
その直後だった。
足元から白い煙が噴き上がった。
「……下がれ!」
リオルが叫ぶ。
煙が一気に路地を満たし、何も見えなくなる。
俺は口元を袖で覆った。
目が痛い。
咳が出る。
「……リゼ!」
「います!」
今度は右側から声がした。
「動かないで!」
「セインもですよ!」
その返事を聞いて、俺は足を止めた。
ここで闇雲に動けば、また誰かとぶつかるだけだ。
煙の中で、足音が一つ近づいた。
続いて、重いものが壁へぶつかる音がする。
「……っ!」
短いうめき声。
それから、男の声がした。
「そっちではありません」
聞き覚えがあった。
嫌になるほど落ち着いた声だった。
煙が少しずつ薄れる。
最初に見えたのは、壁へ押さえつけられた灰色の人物だった。
その腕をつかんでいる男は、整った上着を着ている。
顔には、いつもの穏やかな笑み。
「……セヴァン」
俺が呼ぶと、彼はこちらを見た。
「こんにちは」
「何でいるんだよ」
「随分な挨拶ですね」
リオルの剣先が、すぐにセヴァンへ向いた。
「……そいつから離れろ」
「ご安心を。これは私たちの人間ではありません」
「信じると思う?」
「思いません。でも、事実です」
セヴァンはそう言って、灰色の人物の手首を捻った。
真鍮札が石畳へ落ちる。
『第七係 四十四』
俺は目を離せなかった。
セヴァンも同じ札を見ている。
その表情が、一瞬だけ変わった。
「……まだ残っていたんですね」
「知ってるのか」
俺が尋ねる。
セヴァンはすぐには答えなかった。
代わりに、拘束した人物をリオルの方へ押し出す。
「捕まえるならどうぞ。私は止めません」
「……お前は?」
リオルが尋ねる。
「話をしに来ました」
「誰と?」
セヴァンの視線が、俺へ向いた。
「返却士と」
俺は地面の真鍮札を見た。
それから、セヴァンへ目を戻す。
「……何の話?」
彼は少しだけ笑った。
「二十八年前、四十二人から自分を消した男の話です」
胸の奥が冷たくなった。
自分を消した。
そう言った。
忘れられたのではなく、自分から消えたという意味だろうか。
けれど、それはまだセヴァンの言葉にすぎない。
「……自分で?」
俺が聞く。
「ええ」
「そう言い切れる証拠は?」
セヴァンは少しだけ目を細めた。
「その話をするために来たんです」
「……名前は?」
「まだ教えません」
「どうして?」
「あなたが名前を知った瞬間に、すべて返そうとする人ではないか確かめたいので」
俺は顔をしかめた。
「……試してるのか?」
「少し」
「趣味悪いな」
「よく言われます」
リオルが剣を下ろさないまま口を挟んだ。
「話すなら場所を変えろ。煙で市場まで騒ぎになってる」
「それには賛成です」
「お前が言うと腹立つな」
セヴァンは少し笑った。
俺はイリナの顔を思い出していた。
真鍮札を握り、誰を待っていたのかと尋ねた女性。
パンの端を残したトーマ。
記憶の中で、その二人のところへ帰ろうとしていた男。
二十八年間、その家には誰か一人の場所が空いていたのかもしれない。
それを、本人が望んだのだとセヴァンは言っている。
もし本当なら、どういう理由があったのだろう。
そして、本当ではないなら。
誰が、そんな話を広めようとしているのだろう。
「……話は聞く」
俺は言った。
リオルがこちらを見る。
「一人で?」
「いや」
俺は首を振った。
「一人じゃ聞かない」
リオルが少し笑った。
「ならいい」
リゼも俺の隣へ来た。
「私も行きます」
「分かってる」
「止めないんですか?」
「止めても来るだろ」
リゼは満足そうに頷いた。
セヴァンは三人を順番に見た。
「……返却士一人のつもりだったんですが」
「諦めて」
俺が答える。
リオルは剣を鞘へ戻したが、警戒を解いたわけではない。
捕まえた灰色の人物は、駆けつけた現地警備隊へ引き渡すことになった。
真鍮札も、イリナの家で盗まれた物として、持ち主の申告と照合するまで証拠品として預かってもらう。
今ここで、俺が〈返却〉を使うことはできない。
誰のものか、まだ確かめられないからだ。
それでも、札は戻ってきた。
少なくとも、二十八年間大切に保管してきた家族の手が届く場所へ、戻せる可能性は残った。
俺はセヴァンを見た。
「……案内して」
彼は小さく頷いた。
「こちらです」
その横顔には、何かを知っている人間の余裕があった。
けれど、俺はその言葉を簡単に信じるつもりはなかった。
セヴァンは、忘れられた男が自分から消えたと言った。
ならば、まず聞きたい。
誰が、その男の意思を確かめたのか。
そして、残されたイリナとトーマの意思は、どう扱われたのか。
俺たちはまだ、何も返していない。
だからこそ、今度はきちんと話を聞かなければならなかった。




