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王都の返却士 ~その落とし物、世界のものです~  作者: 紙森 灯
第三章 誰も覚えていない男

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第四十九話 名前を引く手

 

 名前を取り戻したい人間に、名前を尋ねるのは残酷なことだと思う。


 けれど、確かめなければならない。


 その人自身がどこまで覚えていて、何を失ったのか。そこを間違えたまま〈返却〉を使えば、何を返したことになるのかさえ分からないからだ。


 ラヴェルで迎えた二度目の朝、俺はそんなことを考えながら、第七埠頭(だいななふとう)に近い港湾警備隊の詰所(つめしょ)へ向かっていた。


 港の朝は早い。通りにはすでに魚を積んだ荷車が行き交い、店先では焼いたパンの匂いが漂っている。昨日までなら、リゼが真っ先にその店へ足を向けていただろう。


 今日の彼女は、珍しく何も言わなかった。


「……どうした?」


 俺が聞くと、リゼはこちらを向いた。


「何がです?」


「パン屋、見てなかったから」


「見てましたよ」


「……見てたのか」


「でも、今日は先にマーロさんです」


 そう言って、少しだけ歩調を速める。


 俺はその横顔を見た。


 リゼは自分で名前を選んだ。


 それができたからといって、マーロも同じようにすればいいとは言わない。


 自分が欲しいものと、ほかの人が欲しいものは違う。そのことを、彼女はよく分かっているのだと思う。


「……終わったら、あのパン屋へ寄るか」


 俺が言うと、リゼが振り返った。


「いいんですか?」


「ああ」


「じゃあ、マーロさんにいい報告ができるよう頑張りましょう」


「仕事の順番、合ってる?」


「合ってます」


 リゼは楽しそうに笑った。


 いつも通りの顔だった。


 俺も少し笑って、詰所の扉を開けた。


     ◇


 マーロ・ディンは、窓際の長椅子に座っていた。


 昨日より顔色は良くなっている。借りたらしい薄い上着を着て、傷めた左足を少し前へ伸ばしていた。


 足元には柔らかい室内履きがある。


 昨日、地下で見つけた革靴は、本人が布袋へ入れて膝の上に置いていた。


「……足、どう?」


 俺が声をかけると、マーロは顔を上げた。


「医者には、しばらく無理して歩くなって言われた」


「だろうな。あんなところで一晩過ごしたんだから」


「それより、あんたの方は?」


「俺?」


「昨日、地下で何かあったんだろ。警備隊の人が、ずいぶん長い報告書を書いてたぞ」


 後ろからリオルが入ってきた。


「長くなったのは誰かさんが石扉を起動させたからだけどな」


「俺が起動させたわけじゃないだろ」


「お前の名前を呼んで動いたんだろ?」


「それはそうだけど」


「なら、報告書には書かないとな」


 マーロが呆れたように笑った。


「……王都の役人って、みんなそんな感じなのか」


「いいえ」


 リゼが即答した。


「この二人だけです」


「お前も結構この感じだぞ」


 俺が言うと、彼女は少し考えた。


「……では、三人です」


 マーロが笑う。


 昨日、暗い地下通路で会った時には、自分の名前を知ることさえ怖がっていた人間だった。


 笑える余裕が戻ってきたことに、少し安心した。


 ただし、肝心の名前はまだ戻っていない。


「……その札、どう?」


 俺が尋ねると、マーロは胸元から一枚の真鍮(しんちゅう)札を取り出した。


 リゼが昨日渡したものだ。


『マーロ・ディン』


 文字はそのまま残っている。


「読めるし、そう呼ばれても嫌な感じはしない。でも、自分の名前を言おうとすると……」


 マーロは目を伏せた。


 しばらくして、首を振る。


「何も出てこない」


「……そっか」


「札を見ていれば言えるんだ。でも、見ないで言おうとすると、そこだけ頭から落ちてるみたいで」


 リゼが隣へ座った。


「昨日より、何か変わった感じはしますか?」


「いや。昨夜も試したんだけどな。自分の名前を書こうとして、手が止まった」


「ほかの文字は書けた?」


 ティセラが尋ねた。


「書けたよ。仕事の書類も、住所も、生年月日も」


「自分の名前だけ?」


「ああ」


 ティセラは手帳を開いた。


 今日は資料を持ってくる量が少ない。


 昨日、地下で鞄を何度も奪われかけたことが、多少は効いたのかもしれなかった。


「組合の書類も確認したわ」


 彼女は数枚の写しを卓へ並べた。


 職員登録。


 給与台帳。


 住居の登録。


 いずれもマーロの職員番号や住所は残っている。


 しかし、氏名欄だけが空白になっていた。


「……全部?」


 俺が聞く。


「確認できた範囲ではね」


 ティセラは頷いた。


「重要なのは、名前の文字そのものが世界中から消えたわけではないこと。あの革靴には残っているし、リゼが昨日書いた札にも残っているでしょう」


「……登録された名前だけが消えた?」


「少なくとも、そういう違いがあるように見えるわ」


 ティセラはマーロの靴を指した。


「この名前は、誰かが革へ直接書いたものよね。公的な登録印も、照合の術式もない」


「うん」


「逆に、職員名簿や給与台帳は、どれも制度上の記録としてつながっている。そこだけに異常が起きているのなら、名前を構成する文字よりも、名前と本人を結びつける仕組みが狙われた可能性がある」


 俺は青鐘通りのことを思い出した。


 道が壊されたわけではなく、王都とのつながりを断たれていた。


 あの時と、どこか似ている。


 ただ、似ているというだけで、同じ術式だとは言えない。


「……それで、返せそうなのか?」


 マーロが尋ねた。


 まっすぐな質問だった。


 俺は革靴を見て、それから本人へ目を向けた。


「試してみたい。でも、条件がある」


「何だ?」


「名前の帰属先を確かめるところまでにする。無理に動かそうとはしないし、変な反応が出たらすぐ止める」


 マーロは少し考えた。


「……それで、何か分かる?」


「分かるかもしれない。保証はできないけど」


「だったら、頼む」


 はっきりした返事だった。


「俺、自分の名前を取り戻したいんだ」


 リゼが顔を上げた。


 俺も頷いた。


「……分かった」


     ◇


 マーロには椅子へ座ってもらい、リオルがすぐ近くへ立った。


 ティセラは記録を取る。


 リゼは俺とマーロの両方を見ている。


「……何か嫌な感じがしたら、言ってください」


 彼女がマーロへ話しかけた。


「頭が痛いとか、気持ちが悪いとか?」


「ああ。それから、名前以外にも分からなくなることがあったら」


「……怖いこと言うな」


「怖いなら、やめてもいい」


 俺が言うと、マーロは首を振った。


「怖いよ。でも、自分の名前が分からない方がもっと嫌だ」


 それ以上、止める理由はなかった。


 俺はゆっくり左手を上げた。


 対象は、マーロ・ディンという名前。


 帰属先は、目の前に座っている男である可能性が高い。


 ただし、それはまだ俺たちの推測にすぎない。


 もし違うなら、術が拒むはずだ。


 俺は革靴の内側に残った文字を見た。


 リゼの札に書かれた文字も同じだ。


 マーロはその靴を使っていたことを覚えている。職員番号と住所も、本人の記憶と記録が一致している。


 確かめた事実を、一つずつ意識へ並べる。


「……〈返却〉」


 指先に白い光が灯った。


 すぐに強い抵抗が来ると思っていた。


 しかし、違った。


 何かにつながる感覚があった。


 細い糸を指先でつかんだような、頼りない感触だ。


 その糸は、確かに目の前の男へ向かっている。


 俺はそこで力を加えるのを止めた。


 帰属先が合っているのか。


 今は、それだけを確かめたい。


 白い光が一度だけ揺れる。


 そして、何もなかった空中に、一枚の紙が現れた。


 返却票だった。


「……出た」


 俺は紙を受け取った。


 ティセラが身を乗り出す。


 そこには、三つの項目が記されていた。


『返却対象:名称』


『帰属先:マーロ・ディン』


『返却状態:保全中』


 俺は最後の一行を、もう一度読んだ。


「……保全中」


 マーロも、同じ文字を見ている。


「返せないってことか?」


「今は、そうみたいだ」


「名前は俺のものなんだよな?」


 俺は紙を見た。


 返却票に記された帰属先は、マーロ・ディン。


 つまり、〈返却〉の側では、名前と本人のつながりを認めている。


 けれど、それだけで名前が戻ったわけではない。


「……帰属先は合ってる」


 俺は言った。


「マーロ・ディンという名前は、あなたのものだと〈返却〉が認めてる」


 マーロは顔を上げた。


「本当に?」


「ああ。でも、今は保全中になってる。どこに、どういう形で保管されているのかまでは分からない」


「……そうか」


 彼は胸元の札を握った。


 昨日とは違う表情だった。


 自分の名前を初めて読んだ時には、それが本当に自分のものなのか疑っていた。


 今は、その疑いが少し薄れたように見えた。


「……じゃあ、俺はマーロなんだな」


「そうだよ」


 俺は答えた。


「少なくとも、名前の帰属先はそうなってる」


 彼は何度か頷いた。


 それから、俺の顔を見て少し笑った。


「……何だか、思ってたより地味だな」


「何が?」


「名前を取り戻す瞬間って、もっとこう……何かあると思ってた」


「取り戻してはないよ。確認しただけ」


「そうだった」


 マーロは笑ったが、その目元は少し赤かった。


 俺は気づかないふりをした。


 返せなかったことは悔しい。


 それでも、今日できたことまで、なかったことにする必要はない。


     ◇


 しばらくして、マーロが口を開いた。


「……その『保全中』って、昨日の地下と関係あるのか?」


「可能性はある」


 ティセラが答えた。


「第四保全区には、名称や記憶を扱う装置があった。でも、あなたの名前があそこで保管されているという記録は、まだ見つかっていないわ」


「そうか」


「だから、もう少し調べさせてほしい」


 マーロは頷いた。


 そして、胸元の札を見た。


「……この札、まだ持ってていいか?」


 リゼがすぐに答えた。


「もちろんです」


「返却が終わったら返すよ」


「返さなくてもいいです」


 彼が驚いた顔をする。


 リゼは少しだけ笑った。


「名前を思い出せるようになっても、持っていてください。その方が安心できるなら」


「……いいのか?」


「はい。私も、忘れたくないものを札に書いているので」


 マーロはリゼの腰を見た。


 そこには、小さな真鍮札がいくつも提げられている。


「……君も、何か忘れたのか」


 リゼは少し考えた。


「はい。でも、これから覚えることもあります」


 それ以上の説明はしなかった。


 マーロも追及しなかった。


 ただ、札を胸元へ戻し、少しだけ背筋を伸ばした。


 俺は二人を見てから、返却票を丁寧に折り畳んだ。


 次にやるべきことは決まっている。


 なぜマーロの名前だけが保全中になっているのか。


 その理由を確かめなければならない。


     ◇


 詰所を出たのは、午前も遅い時間だった。


 マーロには長く歩かないよう医者から言われていたが、本人はどうしても組合へ寄りたいらしい。


「昨日まで自分が何を調べていたのか、確認したいんだ」


 そう言って、布袋を持ち上げた。


 中には名前の残った革靴が入っている。


 今日履いているのは、足に負担の少ない別の靴だ。


 俺は一度断ろうと思ったが、リオルが先に口を開いた。


「歩く距離を減らそう。俺が馬車を手配する。組合までは一緒に行こう」


「……助かる」


 マーロが答える。


 俺は少し感心した。


「お前、いい判断するな」


「毎回そういう感想を言わなくていいよ」


「だって、普段は」


「普段も仕事してるからな」


 いつの間にか、リオルが俺の言いそうなことまで覚えてしまっていた。


 少し悔しい。


 マーロも笑っている。


 馬車を待つ間、俺たちは詰所の前で話していた。


 リゼは昨日の靴を入れた布袋を見ていた。


「……何?」


 マーロが尋ねる。


「大事に持ってるんですね」


「これ?」


「はい」


「俺の名前が残ってるからな。今は、なくすわけにいかない」


 彼は照れくさそうに笑った。


 その時だった。


 すぐ近くで紙束を落とした男がいた。


 港の作業着を着た、三十代後半くらいの男だった。


「ああ、すまねえ。散らかしちまった」


 男は屈(かが)み込み、紙を拾い始めた。


 リオルが一枚拾って渡す。


 男は礼を言い、マーロの前で落ちた紙へ手を伸ばした。


「足元、悪いな」


 そう言って、マーロの布袋を少し持ち上げた。


 紙を拾うため、邪魔になったのだろう。


 俺は特に気にしなかった。


 男は書類を揃え、軽く頭を下げて歩いていった。


 その後ろ姿を、リオルが一度だけ見ていた。


「……知り合い?」


 俺が尋ねる。


「いや」


「じゃあ何?」


「……手、見てた」


「手?」


「妙に慣れた動きだったから」


 俺は男の消えた方向へ目を向けた。


 すでに、荷車の間へ紛れている。


「……港の人なら、荷物を扱うのに慣れてるだろ」


「まあな」


 リオルはそれ以上何も言わなかった。


 馬車が来た。


 俺たちは乗り込み、組合へ向かった。


     ◇


 港湾術師組合では、マーロの職員番号から前日の業務を調べてもらった。


 受付にいた青年は、マーロの顔を見た瞬間、椅子から立ち上がった。


「……よかった!」


 声が少し裏返っていた。


「本当に、昨日からどこへ行ってたんですか!」


 マーロは困ったように笑った。


「ちょっと、変なところへ行ってた」


「変なところって……」


 青年はそこまで言い、言葉を止めた。


 マーロの名前を呼ぼうとしたのだろう。


 しかし、その後が出てこない。


 マーロは胸元の札へ手を添えた。


「……マーロ・ディンだ」


「……あ」


「俺の名前だって、確かめてもらった」


 青年は少し驚いた顔をした。


 それから、ゆっくり笑った。


「……そうでしたか」


「自分ではまだ思い出せない。でも、これから調べるつもりだ」


「……僕も手伝います」


 その言葉に、マーロは小さく頷いた。


 俺は二人を見ていた。


 名前が戻らなくても、関係が全部なくなるわけではない。


 同じ仕事をしてきた時間があり、一緒に昼食を取ったことがあり、無事を喜んでくれる人がいる。


 そのことを、マーロも少しずつ確かめているのかもしれなかった。


「……昨日の依頼記録、もう一度見せてもらえる?」


 俺が尋ねると、青年が頷いた。


 古い建物台帳。


 匿名で受け付けた運搬依頼。


 そして、マーロが昨日の夕方まで何を調べていたのか。


 一つずつ照合する。


 すると、古い保全施設に関する記録が何度も参照されていたことが分かった。


『旧西税関第四保管庫』


『第四保全区』


 そして、その下には、番号だけが記された照会履歴があった。


『旧保全記録 四十四号』


「……四十四」


 ティセラが呟いた。


 俺は紙を覗き込んだ。


「何の番号?」


「今は分からない。ただ、マーロがこの番号を調べようとしていたのは確からしいわ」


 マーロも記録を見ていた。


「……覚えてないな」


「番号に心当たりも?」


「ない」


 ティセラは頷き、写しを取った。


 正体の分からない番号。


 だが、記憶瓶や保全区に関わる調査で出てきたものなら、無視はできない。


「……あとで調べよう」


 俺が言うと、マーロは苦笑した。


「俺が先に調べて、名前をなくしたのかもしれないけどな」


「……それ、笑えないぞ」


「自分でもそう思う」


 彼は少しだけ笑った。


     ◇


 組合を出た頃には、昼の鐘が鳴っていた。


 通りは人で混み合っている。


 荷車が行き交い、魚を売る声と、外国の香辛料を売る商人の声が重なっていた。


「……昼、どうする?」


 リオルが尋ねた。


「近くで食べてから、港の古い記録を見たい」


 俺が答える。


 すると、リゼがすぐ顔を上げた。


「さっきのパン屋、まだ間に合いますか?」


「……よく覚えてるな」


「約束しましたよね」


「そうだった」


 マーロが少し笑う。


「港の東側に、いい店があるぞ」


「本当ですか?」


 リゼの反応が早い。


「ああ。昔からある店で、焼きたてのパンを売ってる」


「そこにしましょう!」


「まだ場所も聞いてないぞ」


「おいしいって言ってました」


 マーロは呆れたように笑った。


 俺たちも、つられて笑いかけた。


 その時。


 路地の奥で、荷車が一台、ゆっくり横へ動いた。


 馬はつながれていない。


 道も、ほとんど平らだった。


 なのに荷車は、誰かに引かれるように方向を変え、こちらへ向かって滑ってくる。


「……下がれ!」


 最初に叫んだのはリオルだった。


 俺たちは建物側へ身を寄せる。


 マーロが足をかばいながら後退した。


 だが、荷車だけではなかった。


 その膝に下げていた布袋が、突然、路地の方へ引っ張られた。


「……何だ!」


 マーロが声を上げる。


 布袋が手から離れ、石畳を滑り始めた。


 中には、名前の残った革靴が入っている。


「リオル!」


「見えてる!」


 俺は布袋へ走った。


 その向こうに、一人の男が立っている。


 朝、詰所の前で紙束を落としていた作業着の男だった。


「……お前!」


 声をかけると、男は口元を歪めた。


「気づくのが遅いな、役人さん」


 右手が、こちらへ向けられている。


 布袋がその手の方へ滑っていった。


     ◇


「〈牽引(けんいん)〉」


 男が低く告げた。


 布袋が石畳の上を跳ね、男の手へ吸い寄せられる。


 俺は反射的に左手を上げた。


 だが、すぐに止めた。


 袋も靴も、俺のものではない。


 靴の名前がマーロのものだと分かったからといって、俺が勝手に自分の手へ引き戻していいわけでもなかった。


「マーロ! 靴は預かっていい!?」


 俺が叫ぶと、マーロが顔を上げた。


「……頼む!」


 その返事を聞いて、俺は男の方へ走った。


 ただ、距離がある。


 それに、男の手元へ届くより早く、別のものが飛んできた。


 木箱だった。


「伏せて!」


 ティセラが叫ぶ。


 俺は頭を下げた。


 木箱が背後の壁へ激突し、蓋が外れて中身が散らばる。


 男の左手は、近くの荷台へ触れていた。


 どうやら、あらかじめ触れた物を引き寄せる術らしい。


「……リオル、右!」


 俺が叫ぶ。


「分かってる!」


 リオルが剣を抜き、男へ向かって走る。


 男は腕を動かした。


 今度は、道端に積まれていた金属の鉤(かぎ)が飛んできた。


 リオルは身体を傾け、〈均衡〉で姿勢を保ったまま避ける。


 鉤はそのすぐ横を通り、別の木箱へ突き刺さった。


「危なっ!」


 俺が言うと、リオルが振り向いた。


「お前、見てないで下がれ!」


「見てるだけじゃない!」


「じゃあ、マーロを頼む!」


 俺は足を止めた。


 男の目的は、俺たちを倒すことではない。


 名前の残った靴を奪うことだ。


 だったら、もう一つ狙われるものがある。


「……リゼ!」


 俺が呼ぶ。


 彼女はすでにマーロのそばへ立っていた。


「札!」


「分かってます!」


 リゼはマーロの胸元を示した。


「中へしまってください!」


 マーロは慌てて真鍮札を上着の内側へ入れた。


 男の視線が、そちらへ向く。


 やはり、札も狙っているらしい。


「……何で名前ばっかり!」


 俺が叫ぶと、男は笑った。


「仕事だからな!」


「そっちは仕事でも、こっちは違う!」


「だろうな!」


 男は布袋を引き寄せ、片手でつかんだ。


 靴が入っている。


 そのまま逃げるつもりなのだろう。


 リオルがすぐに距離を詰めた。


「止まれ!」


 男は横へ転がり、剣を避ける。


 動き慣れている。


 ただの荷役人ではなさそうだった。


 リオルは剣を振り直したが、相手を傷つけないよう刃の向きを変えている。


 その一瞬を狙って、男が足元の木樽へ触れた。


 樽が大きく動く。


 しかし、同時に俺の方へ飛んでいた小箱の勢いが弱まった。


「……あれ?」


 俺は目を凝らした。


 男がさらに別の荷物へ手を伸ばす。


 今度は、布袋を引く力が弱くなる。


 なるほど。


 全部の物を好きなだけ引けるわけではない。


「……同時に二つ!」


 俺が叫ぶと、ティセラが頷いた。


「私もそう思う! 少なくとも、今は三つを同時に動かしていない!」


「……二つか!」


 男の顔が少し変わった。


 リオルが笑う。


「分かったなら話が早い!」


 彼は樽を避け、柱を蹴って身体を前へ投げた。


 〈均衡〉で姿勢を保ち、男の右腕へ飛び込む。


 男は慌てて手を引いた。


 そのせいで、布袋への力も途切れる。


 靴の入った袋が、石畳へ落ちた。


「……今!」


 俺は走った。


 男の手が再び布袋へ向けられる。


 しかし、その前に俺の手が届いた。


 布袋をつかみ、身体の下へ抱え込む。


 男の術が働く。


 今度は、俺ごと引っ張ろうとしてきた。


「……重っ!」


 靴が入っているだけの袋なのに、腕が持っていかれそうになる。


 俺は近くの石段へ足を掛け、踏ん張った。


 滑らない。


 靴底の溝が、石の角をしっかり捉えている。


 さすがに、今この瞬間は靴を二足持ってきてよかったと思った。


「……セイン!」


 リゼの声が飛ぶ。


「無理しないでください!」


「分かってる!」


 でも、今ここで袋を離せば、また名前の残った靴を持っていかれてしまう。


 俺は一度息を整え、左手を布袋へ向けた。


 返す対象は革靴。


 帰属先は、持ち主だと確認できたマーロ。


 目の前にいる本人は、取り戻すことを望んでいる。


 この靴の帰属先について、今なら迷わず指定できる。


「〈返却〉!」


 白い光が走った。


 布袋の口から、革靴が二足、飛び出す。


 俺の手には戻らない。


 マーロの方へ向かって、低い軌道を描いていく。


「……受け取って!」


 叫ぶと、リゼが素早く動いた。


 マーロの肩を支え、靴が飛んでくる方向へ視線を向ける。


 マーロは両手を伸ばした。


 革靴が、彼の腕の中へ収まった。


「……うわっ!」


 少しよろめいたが、リゼが支えたので転ばずに済んだ。


「……戻った!」


 マーロの声が響いた。


 俺は思わず笑った。


 返すべきものが何か分かれば、〈返却〉はきちんと働く。


 少なくとも、靴については。


「……やるじゃん!」


 リオルが叫ぶ。


「今はそっち頼む!」


「了解!」


 男は舌打ちし、リオルの方へもう一度手を向けた。


 近くの金属棒が動く。


 しかし、リオルはそれを待っていた。


 身体を低く傾け、金属棒の下を潜る。


 そのまま男の懐へ入り、剣の柄(つか)で肩を打った。


「……ぐっ!」


 男が膝をつく。


 リオルが腕を取り、背中側へ回した。


 もう片方の手が近くの荷物へ伸びる。


 俺はそこへ走り、手首を押さえた。


「……触るな!」


「離せ!」


「嫌だ!」


 男はまだ抵抗しようとしたが、リオルがすぐに拘束具を掛けた。


 もう術を使える姿勢ではない。


 俺はようやく息を吐いた。


「……終わった?」


 リゼが少し離れたところから尋ねる。


「ひとまず」


 俺が答えると、彼女はマーロの腕にある革靴を見た。


「全部、戻りましたね」


「ああ」


「名前はまだですけど」


「……そうだな」


 マーロは革靴を抱えたまま、小さく笑っていた。


「……まず靴からってことか」


「靴屋の息子なので」


 俺が答えると、リオルが呆れた顔をした。


「そういう問題じゃないだろ」


 自分でもそう思った。


     ◇


 男の名前は、ドルク・ハインと言った。


 港湾術師組合に登録されている固有術は〈牽引〉。


 普段は大型貨物を動かす仕事をしており、能力の性質だけなら、昨日のガディと同じく港で役に立つものだった。


「……誰に頼まれた?」


 リオルが尋ねる。


 ドルクは不機嫌そうに答えた。


「匿名の仕事だよ」


「またか」


 俺は思わず呟いた。


「この街じゃ普通なんだってば。金を出す奴がいて、仕事をする奴がいる。それだけだ」


「人を襲っても?」


 リゼが静かに尋ねた。


 ドルクは少しだけ言葉を詰まらせた。


「……靴と札を取るだけだって聞いてた」


「じゃあ、あの荷車は何ですか?」


 彼女が聞く。


「……邪魔が入ったからな」


「人が怪我をしても?」


 今度は返事がなかった。


 ドルクが悪い人間なのか、追い詰められた人間なのか、俺には分からない。


 ただ、したことは危険だった。


 そこは曖昧にしたくなかった。


「……依頼書は?」


 リオルが尋ねると、ドルクは腰の小さな札を示した。


 現地警備隊の職員が到着するまで、俺たちはその場で待つことになった。


 ティセラはリオルの許可を受けて、仕事札に残った文字を〈転写〉で写し取る。


 紙へ浮かび上がったのは、二つの指定だった。


『回収対象:名称固定物 二点』


『対象一:手書き名称入り革靴』


『対象二:真鍮製仮名札』


 俺は紙を見つめた。


「……本人じゃないんだな」


「そうね」


 ティセラが答える。


「少なくとも、この依頼書で指定されているのは、名前が残った物だけ」


「……じゃあ、なぜそれを集める?」


 リオルが尋ねる。


「登録から外れた名前の証拠を、外に残したくないのかもしれないわ」


 ティセラは慎重な言い方をした。


「ただ、依頼主が保全区と同じ考え方をしているとは限らない。今は目的も不明よ」


 ドルクは不満そうに鼻を鳴らした。


「こっちはそこまで知らねえよ。持っていけば金をもらえると思っただけだ」


 リゼがマーロを見た。


 革靴と札は、今も本人の手元にある。


「……名前を奪って、それが残っているものまで取ろうとしてるんですね」


「そう見えるな」


 俺は答えた。


 マーロはしばらく黙っていた。


 それから、低い声で言った。


「……俺、何かしたのかな」


「何か?」


「誰かに、こんなことされるようなこと」


 俺はすぐには答えられなかった。


 マーロが昨日調べていた施設と、名前を失ったことの間に関係がある可能性は高い。


 だが、だからといって、本人に責任があるとは限らない。


「……何をしたかは、まだ分からない」


 俺は言った。


「でも、知ろうとしたことが悪いとは思わないよ」


 マーロは少しだけ顔を上げた。


「……そうか」


 それ以上は言わなかった。


 俺も無理に励まそうとはしなかった。


 事件の理由も分からないのに、全部大丈夫だとは言えなかったからだ。


     ◇


 ドルクの依頼書には、さらに一つ、気になる指定があった。


『回収不能時:旧保全記録四十四号の参照を阻止』


「……四十四」


 俺が読み上げる。


 今朝、組合で見た照会履歴と同じ番号だった。


 偶然だろうか。


 そう思ったが、今度は簡単に片づける気にはなれなかった。


「その記録は見たことある?」


 俺がドルクへ尋ねる。


「ない。番号が書いてあっただけだ」


「依頼主は?」


「知らねえって言ってるだろ」


 ティセラが写しへ目を落とした。


「……これだけで保全区の記録を開示してもらえるとは思えないわ。でも、二十八年前の周辺記録なら確認できるかもしれない」


「旧住民台帳?」


「ええ。あの施設が使われていた時期に、近くで誰が暮らしていたのか。そこなら王立機関の調査許可で閲覧できるはずよ」


 俺は頷いた。


 地下へもう一度入るのは、まだ早い。


 昨日あれだけ危険な目に遭ったのだから、今度は地上の記録をきちんと調べてから行きたい。


 リオルがドルクの拘束を現地警備隊へ引き継いだ。


「……俺、報告を終えたら追いつくから」


「分かった」


 俺が答えると、リオルは少しだけ笑った。


「今度は地下へ行くなよ」


「行かないよ」


「本当?」


「今日は地上」


「そういう答えが不安なんだけど」


 リゼが横から手を上げた。


「私が見ています」


「……それも少し不安だな」


 ティセラが言った。


「古い資料を閲覧するだけでしょう。そんなに心配しなくても」


「お前が一番危ない」


 リオルの返事が早かった。


 俺も少し同意した。


     ◇


 ラヴェルの港湾記録所(こうわんきろくじょ)は、旧行政区の端にある石造りの建物だった。


 窓が小さく、外から見ると倉庫のようにも見える。


 ただ、中へ入ると、壁一面に整理された書類棚が続いていた。湿気を防ぐためなのか、床から少し高い位置に棚が設けられ、古い台帳は布で包まれている。


 ティセラが目を輝かせた。


「……これは、いいわね」


「まだ何も見てないぞ」


「保存状態がいいの」


「そこから分かるんだ」


「紙の端を見れば、湿気を避けて保管しているかどうかくらい分かるわ」


 少し前に、俺も靴底の減り方で似たようなことを言った気がする。


 仕事が違っても、見るところは案外同じなのかもしれない。


 受付へ調査許可証を示すと、二十八年前の旧西倉庫区周辺の住民台帳を閲覧できた。


 ただし、原本は持ち出せない。


 ティセラは必要な部分だけを写し、俺たちは古い番地と現在の地図を照合していく。


 四十二人の記憶欠損が報告された頃。


 旧西税関第四保管庫。


 ローディス・フェン。


 分かっている手がかりを一つずつ使い、該当する地域を絞っていった。


「……ここ」


 ティセラがある頁で指を止めた。


 俺とリゼが覗き込む。


 二十八年前の住所が記されていた。


 旧西税関から歩いて十分ほどの住宅だ。


 住民欄には三人分の枠がある。


 下の二つには、女性と少年の名前が残っていた。


 だが、一番上の欄だけは、氏名も生年月日も空白になっていた。


 職業欄には文字がある。


『王立遺失物管理局 第七係』


 俺はその一行を見つめた。


 第七係。


 ローディスの出張記録にあった、名前の残らない同行者。


 そして、記憶瓶の中で見た港町の家族。


 別々だった手がかりが、急に近づいたように感じられた。


「……これ、同じ人かもしれない」


 俺が言うと、ティセラが頷く。


「可能性は高いわ。ただ、この欄の人物がローディスの同行者だったという証拠は、まだない」


「うん」


 分かっている。


 それでも、胸の奥が少し速くなった。


 俺は下の二人の記録へ目を向けた。


 女性。


 そして、当時八歳の少年。


 少年の生年を確かめる。


 二十八年経った今なら、三十六歳だ。


 俺は瓶の中で見た光景を思い出した。


 パンの端を残す男の子。


 黒髪の女。


 何度も帰ると約束しながら、まだ家へ戻れずにいる男の声。


「……今、どこにいる?」


 俺が尋ねた。


 ティセラは転居記録を辿っていく。


 一度、住所が変わっている。


 それから、もう一度。


 最後の登録先を確かめたところで、彼女が顔を上げた。


「……まだラヴェルにいる」


「二人とも?」


「ええ。同じ住所に記録があるわ」


 リゼが小さく息を吸った。


 俺も、すぐには言葉が出なかった。


 二十八年前の少年は、もう大人になっている。


 あの女性も、きっと随分年を取っているだろう。


 その間に何があったのか、俺たちは知らない。


 誰を待っていたのかさえ、今は覚えていないかもしれない。


「……会いに行きますか?」


 リゼが尋ねた。


 俺は少し考えた。


 今すぐ行きたい。


 けれど、相手の暮らしへ踏み込むことになる。


 しかも、こちらが持っている情報の方が、本人たちの記憶より多い可能性がある。


 だからこそ、急いで結論を伝えるわけにはいかなかった。


「……行こう」


 俺は答えた。


「でも、最初から誰かを忘れているって言うのはやめよう」


「はい」


「まずは、二十八年前にどう暮らしていたのか聞きたい。覚えていることがあるなら、本人の言葉で聞こう」


 リゼは頷いた。


 ティセラも記録を閉じる。


「住所の写しは取れたわ。リオルへ連絡してから行きましょう」


「ああ」


 俺は窓の外を見た。


 港では、遠くの鐘が鳴っている。


 二十八年前、誰かが帰ろうとしていた家。


 そこに暮らしていた人たちが、今も同じ街にいる。


 名前のない男を探していたはずなのに、俺たちはようやく、その人が帰ろうとしていた場所の近くまで来たのかもしれなかった。


 ただし、まだ何も返していない。


 俺たちはこれから、その家族へ会いに行く。


 なくなったものが何だったのかを、こちらの都合だけで決めないために。

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