第四十八話 三秒だけ
石扉の奥で、最後の鍵が外れる音がした。
それまで響いていた乾いた金属音とは違い、今度の音は腹の底へ重く沈んだ。足元に溜まった水が細かく震え、石扉の中央にある円形の窪みから、白い光が床へ流れ出す。
「〈返却〉が必要です」
そう言ったばかりのエルセが、俺の方へ手を伸ばした。
「ただし、まだ使わないでください」
「必要なのに?」
「返すものを確かめる前に使われたら、もっと困ります」
「……それはそうだな」
言い返すつもりだったが、正論だった。
王都で会った時のエルセは、どんな状況でも落ち着いていて、自分の仕事以外のことには興味がないように見えた。今も話し方は変わらないが、金属札を握った左手には力が入っている。
彼女は扉と俺たちの位置を交互に見た。
「まず、全員壁際へ。床の光っている線は踏まないでください」
言われて足元を見た。
水の中に、細い白い線が走っている。さっきまでは扉へ向かって伸びているだけだったのに、今は何本にも分かれ、それぞれが俺たちの足元を囲もうとしていた。
「……これ、何の線?」
リゼが尋ねる。
「認証用の区画線です。人と持ち物を照合するためのものですが、ここでは正しい認証が済んでいません」
「踏むと?」
「何をされるか分かりません」
「知らないのかよ」
「知らないことまで知っているふりはしません」
昨日も似たようなことを言われた気がする。
もっとも、知ったふりをして全員を危険へ連れていかれるよりは、ずっといい。
「……分かった。下がろう」
俺たちが壁際へ移動すると、エルセはようやく少しだけ肩の力を抜いた。
その直後だった。
石扉に、古い文字が浮かび上がる。
『帰属照合を開始』
リオルの腰で金属音がした。
見ると、剣が鞘から半分抜けかかっている。
「……何だ?」
リオルが柄を押さえる。
だが、剣は見えない何かに引かれているように、ゆっくり外へ動き続けた。
次に、ティセラの資料鞄が床を滑った。
「ちょっと!」
彼女が取っ手をつかむ。
すると今度は俺の腰に下げていた小さな作業用ナイフが、鞘ごと扉へ向かって引っ張られ始めた。
「……持ち物だけ?」
俺が言うと、エルセがすぐに頷いた。
「現段階では。保全区が登録されていない物品を回収しているんです」
「勝手に?」
「だから止めようとしているんでしょう!」
少し怒られた。
ティセラが鞄を抱え直す。
「中に古地図と資料の写しが全部入ってるんだけど」
「離してください」
「嫌よ」
「腕ごと持っていかれます」
「……それも嫌ね」
ティセラは一瞬だけ迷い、鞄を床へ置いた。
途端に鞄が滑り、扉の脇に開いた細い溝へ吸い込まれていく。石の内側で鈍い音がして、見えなくなった。
リオルも剣を鞘ごと外した。
手を離すと、それは壁際へ引かれ、古い金具へぴたりと収まった。
「……俺の剣、あそこに置かれるのか」
「取り出せるの?」
俺が聞く。
「今は難しいな。近づいたら、あの線を踏むことになる」
確かに、剣のある場所へ行くには光の線を越えなければならない。
「エルセ、止められる?」
ティセラが尋ねた。
「この札が使えれば、待機状態へ戻せる可能性があります」
エルセは左手の金属札を示した。
古い文字が刻まれた薄い札だ。
第47話の終わりに見せられた時は、ただの通行証のように思えたが、近くで見ると端に細かな刻みがある。
「管理者の札なの?」
「違います。回収係へ発行された、古い搬入許可札です」
「それで管理者認証を偽装するって?」
「完全な権限はありません。ただ、装置が札を確認している間だけ、点検用の手続きへ割り込めるはずです」
「……はず?」
「実際にやったことはありません」
俺は顔をしかめた。
「随分危ないことをしようとしてるな」
「何もせずにいる方が危険です」
エルセは扉へ向き直る。
「でも、札を入れる場所がまだ閉じています。先にそちらを開かないと」
彼女は円形の窪みの下にある細い切れ目を指した。
そこへ手を伸ばしかけた時、床の光が急に強くなった。
『帰属外対象を検出』
『退去処理を実行』
「……退去?」
リゼが呟いた。
次の瞬間、足元の石板が動いた。
◇
通路の床が、入口側へ向かって傾いた。
俺は反射的に壁へ手をついたが、濡れた石の上では靴底が滑る。膝を痛めたばかりの足に体重がかかり、思わず息を詰めた。
「セイン!」
リゼが手を伸ばしてくる。
「大丈夫、壁につかまって!」
俺は彼女の手を握り、壁の継ぎ目へ指を掛けた。
リオルは少し離れた場所で片膝をつき、〈均衡〉を使って身体を支えている。傾く床の上でも姿勢が崩れないのは、相変わらず頼もしかった。
ただ、それでも進むことは難しいらしい。
「……これ、床が動いてるんだな」
リオルが言った。
「そうみたいだ」
「足場そのものを動かされたら、釣り合いを保てても歩きにくい」
「じゃあ、どうする?」
「壁を使う。お前はリゼを離すなよ」
俺は頷いた。
床はじわじわと傾き続けていたが、やがて動きが止まった。
その代わり、壁の奥から細長い金属製の灯具が飛び出してきた。
最初は外れた部品かと思った。
だが、こちらへ向かってまっすぐ飛んでくる。
「……危ない!」
俺が叫ぶより早く、エルセの声が響いた。
「〈保留〉」
灯具が空中で止まった。
俺の顔から、腕一本分も離れていない位置だった。
金属の縁に残った錆まで見える。
「……助かった」
「動いてください」
エルセが言った。
「今?」
「三秒しか止められません」
俺はリゼの手を引き、横の壁へ身を寄せた。
直後、灯具が再び動き出す。
金属が石へぶつかり、派手な音が響いた。
「……三秒って、思ったより短いな」
「あなたが長く考えすぎなんです」
「もう少し親切に言ってくれても」
「『三秒』以上に親切な説明が必要ですか?」
必要ではなかった。
腹は立つけど。
エルセは落ちた灯具を一瞥し、すぐに周囲を確かめた。
「私が止められるのは物の動きだけです。床が傾くことや、装置全体の作動を止められるわけではありません」
「知ってる。王都で見た」
「なら、私に何でも任せようとしないでください」
「……分かったよ」
彼女はそこで初めて、小さく笑いかけた。
しかし、その笑顔はすぐに消えた。
今度は別の壁から、細い白い帯が何本も伸びてきたからだ。
「……あれは?」
俺が尋ねる。
ティセラが目を凝らした。
「物品を固定するための封帯だと思う」
「人間にも使えるの?」
「人に使う前提で作られたものじゃなさそうね」
「それ、当たったらどうなるんだよ」
「分からないわ。できれば確かめたくない」
俺も確かめたくない。
白い帯の一本が、ティセラの肩へ向かって伸びた。
彼女が身を引くと、帯はそのまま床へ落ちていた資料筒へ巻きついた。
中身を抱えていた手から資料筒が引かれ、扉の方へ滑っていく。
「……また取られる!」
ティセラが叫んだ。
だが、先ほどの鞄と違って、今度はまだこちらの手が届く。
「待って!」
俺は帯へ左手を向けた。
石壁の奥から伸びてきたものだ。
俺たちの持ち物ではない。
この施設の部品で、元から取りつけられていた場所も見えている。
なら、帰属先を間違える可能性は低い。
「〈返却〉!」
白い光が走った。
資料筒を引いていた帯が、ぐっと震える。
一瞬、こちらの力を拒むような抵抗があったが、やがて固定が緩み、帯は石壁の内側へ戻っていった。
資料筒が床へ落ちる。
リオルが腕を伸ばし、拾い上げた。
「……よし!」
俺は息を吐いた。
戻せた。
ただし、それだけだった。
石扉の光は消えていないし、床の傾きも元へ戻らない。
施設の部品を一つ返しても、装置そのものを止められるわけではないらしい。
「今の、できるんですね」
エルセがこちらを見ていた。
「うん。元の場所が分かれば」
「……なるほど」
彼女は短く答えた。
感心しているようにも見えたが、すぐに表情を引き締める。
「では、本当にお願いすることができそうです」
「何を返すの?」
俺が尋ねた時だった。
エルセの左手から、薄い金属札が跳ね上がった。
◇
「……っ!」
彼女が慌てて手を伸ばした。
しかし、札は指先をすり抜け、石扉へ向かって飛んでいった。
細い溝が開き、札を吸い込む。
その直後、溝の奥に赤い文字が浮かび上がった。
『搬入許可証を検出』
『権限不一致』
『証票を一時保管』
金属音とともに、溝が閉じた。
エルセが動きを止めた。
「……まずい」
初めて聞く声だった。
それまでの、落ち着いた回収係の声ではない。
心底困った時、人が思わず漏らす声だった。
「……今の、札?」
俺が尋ねる。
「はい」
「取られた?」
「見れば分かります」
「怒るなよ」
「怒っていません」
明らかに怒っていた。
ティセラが石扉へ近づきかけ、すぐに足を止めた。
「待って。これ、まだ中で動いてる」
彼女は携帯灯を溝へ向けた。
赤い文字が細かく入れ替わっている。
「札の情報を照合してるのね」
「ええ。私の札では管理者権限が足りないので、保全区が一時保管したんです」
エルセは唇を噛んだ。
「このままでは、待機状態へ戻すための操作ができません」
「……つまり、あの札を返せばいい?」
俺が尋ねる。
「そうです」
「それが〈返却〉の仕事か」
エルセが頷いた。
「札は私に発行されたものです。登録されている名前も、私の名前になっています」
「……確認できる?」
「控えがあります」
エルセは外套の内側から、折り畳んだ小さな紙を取り出した。
そこには札の形と刻印番号、それから彼女の名前が書かれていた。
『エルセ・ヴァンデル』
ティセラが横から覗き込む。
「同じ番号ね」
「……読めるの?」
「札が飛んでいく時に端の番号が見えたもの。書式も一致しているわ」
彼女はそれ以上、何も言わなかった。
俺はエルセを見る。
「……本当に、あなたのものなんだな」
「はい。私に発行され、今も私が管理しています」
「なら、返せるかもしれない」
ただし、それで施設が止まるとは限らない。
札を返したところで、エルセが認証の操作に失敗すれば、俺たちはまた同じ場所へ戻るだけだ。
「……リオル」
俺が呼ぶ。
「何?」
「札を返した後、どうするか先に決めたい」
リオルは頷いた。
「同感。今のまま突っ込んでも、また何か取られるだけだろ」
「ティセラ、仕組みは分かる?」
彼女は石扉を見た。
「少し待って。残っている文字を写してみる」
ティセラが手帳を開き、石扉へ掌を向けた。
「〈転写〉」
古い文字が淡く光る。
その光が紙の上へ移り、石扉に刻まれたものと同じ形の文字が現れた。
見たことのない文字を勝手に翻訳したわけではない。
彼女は紙へ写した形を一つずつ確かめ、知っている古式文字と照らし合わせている。
「……『認証不一致』」
ティセラが呟く。
「それはさっき読めた」
「黙って」
「はい」
少し怖かった。
ティセラは気にした様子もなく、さらに文字を追った。
「『搬入許可証、返還待ち』……それから、『点検待機への移行は、証票の再提示を要する』」
「札を戻して、もう一回見せればいいってこと?」
リゼが尋ねる。
「そうみたい。でも、続きがある」
ティセラは紙の下を指した。
「『認証錠の閉鎖前に操作を完了すること』」
エルセがすぐに頷いた。
「そこです」
「……どこ?」
俺が尋ねる。
「札を入れる細い溝の内側に、認証錠があります。通常は札が入ると短い時間だけ開いて、その後すぐに閉じる仕組みです」
「閉じたら?」
「私の札では、もう一度開けられません。ここにいる人間全員を、改めて照合しようとするはずです」
俺は石扉を見た。
赤い光が、まだ細い溝の周りで点滅している。
「……その短い時間って、どれくらい?」
「五秒ほど」
「お前の術は三秒だろ」
「はい」
「足りなくない?」
エルセは俺を見た。
「最初から五秒間止める必要はありません」
「……どういうこと?」
「錠が閉じ始めたところで、その動きだけを三秒保留します。開いた瞬間から操作を始めれば、全部で数秒の余裕が生まれます」
なるほど。
時間を止めるわけではない。
閉じようとする金属の動きを、途中で三秒止めるだけだ。
その間に、エルセが札を操作する。
「……できそう?」
俺が聞くと、彼女は少し考えた。
「やってみる価値はあります」
「成功するとは言わないんだな」
「保証できることだけ言います」
いつものエルセらしい答えだった。
俺は少し笑った。
「……じゃあ、俺が札を返す。ティセラは認証の変化を読む。リオルは周りの危険を見てくれ」
「了解」
リオルが頷く。
ティセラも手帳を抱え直した。
「私は文字を追うわ。変な反応が出たらすぐ止める」
最後にリゼを見た。
「……お前は?」
「私も、見てます」
「何を?」
「セインを」
真面目な顔だった。
「無理をしそうになったら止めます。あと、何か落ちてきたら拾います」
「……後半だけ、いつも通りだな」
「いつも通りなのが大事です」
彼女は少し笑った。
俺も頷く。
ここまで話したからといって、安全になるわけではない。
ただ、少なくとも、誰が何をしようとしているのかは分かった。
それだけで、さっきよりずっと落ち着いていた。
◇
「……いくぞ」
俺は石扉へ左手を向けた。
返す対象は、エルセの金属札。
元の持ち主は、目の前にいるエルセ・ヴァンデル。
札の番号も、発行された名前も確かめた。
帰属先を想像で決めているわけではない。
「〈返却〉」
白い光が指先へ集まった。
石扉の溝の奥で、かすかな金属音がする。
一度。
二度。
何かが内側から引っかかっているような抵抗があった。
「……重いな」
俺が呟く。
「札そのものは軽いはずです」
エルセが言った。
「分かってる。でも、向こうが離さない」
「無理なら止めてください」
意外だった。
てっきり、何が何でも取り戻せと言われると思っていた。
「……止めていいの?」
「帰属先が明確でも、施設の固定を破れない可能性はあります。その時は別の手段を考えます」
「別の手段、あるのか?」
「考えます」
「……そういうことか」
俺は少し笑った。
ただ、術の感覚はまだ消えていない。
強い抵抗はあるものの、何も反応しない時とは違っていた。
札は、確かにエルセのものとして認識されている。
少なくとも、〈返却〉はその方向を拒んでいなかった。
俺は呼吸を整え、もう一度だけ意識を向けた。
金属札の形。
刻印番号。
発行された名前。
そして、札を失った持ち主。
誰のものかを確かめる。
それ以上のことは、しない。
次の瞬間、石扉の内側で小さな音がした。
赤く光っていた溝が開く。
薄い金属札が飛び出し、白い光に包まれながらエルセの手へ戻ってきた。
「……っ!」
彼女が反射的に受け取る。
俺はその場で膝をついた。
思っていたより、力を使ったらしい。
「セイン!」
リゼが駆け寄る。
「平気。ちょっと疲れただけ」
「ちょっと、ですか?」
「……そこそこ」
「正直でよろしいです」
こんな状況で何を褒められているのだろう。
それでも、リゼが笑ったので、俺も少し安心した。
エルセは札の表面を確かめている。
角に新しい傷はあったが、刻印は残っていた。
「……ありがとうございます」
彼女が言った。
思わず顔を上げる。
「今、何て?」
「ありがとうございます」
「……もう一回」
「聞こえていたでしょう」
「一応、確認を」
エルセが少しだけ眉を寄せた。
「あなた、本当にこういう時でも変わりませんね」
「お前もな」
彼女は呆れたように息を吐いた。
けれど、口元には少し笑みがあった。
「……では、続けます」
そう言って金属札を握り直す。
俺は立ち上がろうとした。
その時、床の奥からまた低い音が響いた。
『搬入許可証を再検出』
『権限照合を開始』
赤い光が、再び扉の周りへ走り始めた。
「……早いな」
俺が呟く。
「施設が札を追跡しているのね」
ティセラが言った。
「もう一度、回収しようとしてる」
エルセの表情が引き締まる。
「始めます。全員、扉の正面から外れてください」
俺たちは左右へ分かれた。
エルセだけが、中央の溝の前へ立つ。
彼女は札を右手へ持ち替え、左手を扉の縁へ添えた。
いつでも〈保留〉を使える姿勢だ。
だが、その直前。
壁の内側から、十本近い封帯が一斉に伸びてきた。
◇
「……来る!」
リオルが叫んだ。
彼は剣を失っている。
それでも、近くの柱を蹴って身体を滑り込ませ、伸びてきた帯の一本を腕で弾いた。
〈均衡〉が働いているのだろう。傾いた床の上でも、無理な姿勢から転ばずに立ち直っている。
「リゼ、そっち!」
俺が声をかけた。
リゼはすでに壁際へ下がっていた。
封帯は彼女の身体ではなく、腰に提げた真鍮札の束へ向かって伸びている。
金属の小さな音がした。
一本の帯が、札をつないだ紐へ巻きついたのだ。
「……取られる!」
リゼが声を上げる。
俺は左手を向けかけた。
だが、その瞬間、全身が少し重くなった。
さっきの〈返却〉の反動だ。
今また術を使って、確かな判断ができるだろうか。
迷ったのは一瞬だった。
「リゼ、紐を離して!」
俺が叫ぶ。
彼女はすぐに頷いた。
真鍮札が帯に引かれ、床を滑り始める。
そのうちの一枚には、俺の名前が刻まれているはずだ。
以前なら、反射的に追いかけていたかもしれない。
けれど、リゼはその場へ踏みとどまった。
俺も彼女のそばへ走る。
すると、エルセの声がした。
「〈保留〉!」
白い帯の動きが止まった。
札は床から少し浮いたまま、ぴたりと静止している。
「……三秒です!」
エルセが叫ぶ。
リオルがすぐに反応した。
柱へ片手を掛け、身体を大きく傾けながら、帯と床の間へ腕を差し込む。
リゼも動いた。
紐を無理に引くのではなく、固定された札の束を両手で抱え、帯が動き始めた時に身体を取られない位置へ下がる。
「二!」
俺も壁へ手をつき、リゼの肩を支えた。
帯が再び動けば、札を取られるかもしれない。
だが、リゼごと引っ張られるよりはいい。
「一!」
エルセの声と同時に、リオルが帯を壁へ押さえつけた。
止まっていた動きが戻る。
金属の輪が床を擦り、白い帯が一気に巻き戻ろうとした。
しかし、リオルが押さえたことで、帯は真鍮札の束から滑り外れた。
札が床へ落ちる。
リゼがすぐに抱き上げた。
「……あります!」
息の上がった声だった。
「全部?」
俺が尋ねる。
「たぶん!」
「たぶん禁止って、いつも言ってるだろ!」
「今は確認できません!」
リオルが笑いそうになりながら、帯を避けた。
「二人とも、後にして!」
もっともだった。
俺たちは札を抱えたリゼを壁際へ下がらせた。
エルセはまだ札を扉へ差し込んでいない。
こちらを見て、何か言いかけた。
俺は先に口を開いた。
「……悪い。今ので一回使わせた」
「必要な時に使うための術です」
「でも、あとで」
「あとで考えましょう」
そう言って、彼女は扉へ向き直った。
その横顔を見て、少しだけ考えが変わった。
王都で会った時のエルセは、術を使う時も規則に従って動いているように見えた。
今も冷静だが、ただ命令通りに動いているわけではない。
リゼの札を守るために、認証の操作を遅らせてまで術を使った。
少なくとも、あの瞬間の判断は彼女自身のものだった。
◇
「……もう一度やります」
エルセが言った。
俺は頷いた。
「分かった」
「今度は認証錠だけを止めます。私が合図したら、誰も扉へ近づかないでください」
「俺たちは?」
リオルが尋ねる。
「周囲の封帯を警戒してください。認証中に私がほかの物を止めると、錠の方が間に合いません」
つまり、彼女の三秒は一度きりの切り札になる。
しかも、ただ物を止めるだけでは意味がない。
その間に、札を正しく差し込み、待機状態への操作を完了しなければならない。
「……ティセラ」
俺が呼ぶ。
「分かってる。認証文を読むわ」
彼女は写した文字を手帳へ残したまま、扉の横に立った。
リゼは札を鞄へしまい、俺の隣へ来る。
「セイン」
「何?」
「もう無理に〈返却〉を使わないでくださいね」
「ああ」
「本当に?」
「必要な時には相談する」
彼女は少し考えてから頷いた。
「それなら、いいです」
以前の俺なら、今できることを全部やらなければならないと思っていたかもしれない。
だが、今は五人いる。
それぞれが、できることとできないことを知っている。
なら、使える力を一人へ集める必要はないのだろう。
エルセが金属札を持ち上げた。
「……いきます」
薄い札が、石扉の細い溝へ差し込まれた。
赤い光が白へ変わる。
『搬入許可証を確認』
『管理者権限を照合』
扉の内側で小さな歯車が回り始めた。
エルセが素早く札を押し込み、左手で細い金具を動かす。
「……点検待機を申請」
古い文字が現れた。
『権限不足』
エルセは動きを止めなかった。
「……まだです」
ティセラが手帳を見ながら叫ぶ。
「次、確認項目が出るはず!」
その通りになった。
『搬入対象の再照合を実行』
『未登録物品を回収』
壁から白い帯が伸びてくる。
リオルが俺たちの前へ出た。
「来た!」
一本が彼の肩をかすめ、別の一本がティセラの資料筒へ向かう。
リオルは柱へ片足を掛け、〈均衡〉で身体を支えたまま、帯の進路へ腕を差し込んだ。
資料筒は無事だった。
だが、今度は床に置かれていた携帯灯が引かれ始めた。
「ティセラ、離せ!」
俺が叫ぶ。
「分かってる!」
彼女は携帯灯を手放した。
金属製の灯具が滑り、壁の窪みへ吸い込まれていく。
暗くなった。
ただし、石扉の白い光が周囲を照らしている。
その光で、エルセの顔が見えた。
彼女はまだ、札から手を離していない。
認証錠が閉じ始める。
細い金属の板が、左右からゆっくり近づいてきた。
「……今です!」
エルセが叫んだ。
「〈保留〉!」
金属板の動きが止まった。
扉の内側で回っていた歯車も、連動して動きを鈍らせる。
けれど、床の光までは消えない。
装置全体が止まったわけではないのだ。
エルセはすぐに札を押し込み、左手で内側の小さな金具を動かした。
『点検待機申請』
ティセラが文字を読んだ。
「次、承認!」
エルセが別の刻印へ指を滑らせる。
古い金属が軋んだ。
「……承認操作!」
彼女の声が少し震えた。
札が動かない。
内側の金具に引っかかっているらしい。
「……エルセ!」
俺が叫ぶ。
「分かっています!」
彼女は札を無理に押さなかった。
一度だけ角度を変える。
そのまま、細い金具へ沿わせるように動かした。
小さな音がした。
札が奥へ入る。
『承認を受理』
ティセラが叫んだ。
「……通った!」
だが、まだ終わらない。
石扉の中央に、最後の文字が浮かび上がった。
『現在の照合を終了しますか』
エルセが一瞬、俺たちを振り返った。
何かを確かめるような目だった。
俺は頷いた。
「……終わらせよう」
彼女は小さく頷き返し、最後の金具を押した。
『再照合を中断』
『待機状態へ移行』
その直後、止まっていた認証錠が再び動き始めた。
金属板が閉じる。
けれど、今度はエルセの手を挟まなかった。
札が自動的に押し出され、彼女の掌へ戻ってくる。
石扉の光がゆっくり弱くなり、床の傾きも少しずつ元へ戻り始めた。
白い封帯が壁の中へ引っ込んでいく。
最後に、重い金属音が一つ響いた。
それきり、地下は静かになった。
◇
誰も、すぐには口を開かなかった。
聞こえてくるのは、石の隙間を流れる水の音と、俺たち自身の呼吸だけだった。
さっきまであれほど激しく動いていた施設が、嘘のように静まっている。
「……止まった?」
俺が尋ねると、エルセは扉を見つめたまま答えた。
「少なくとも、今の認証処理は中断できました」
「……よかった」
口にした途端、足から力が抜けた。
俺はその場へしゃがみ込んだ。
術を使った反動なのか、緊張が切れたせいなのか、腕が少し重い。
リゼがすぐ隣へ来た。
「セイン」
「うん」
「大丈夫ですか?」
「疲れた。でも意識ははっきりしてる」
「……よかったです」
彼女は膝をつき、俺の顔を確かめた。
その真剣な表情を見て、少し笑ってしまう。
「何です?」
「いや。最近、お前に体調を聞かれるのが普通になってきたなと思って」
「聞かれるようなことばかりするからですよ」
「……そうだった」
リゼは満足そうに頷いた。
その向こうでは、リオルが壁へ寄りかかっている。
剣がないせいで、いつもより少し落ち着かなさそうだ。
ティセラは手帳へ何かを書き込んでいたが、しばらくして大きく息を吐いた。
「……疲れた」
「珍しいな」
俺が言うと、彼女はこちらを向いた。
「研究者だって疲れるのよ」
「そうだけど」
「今のは、さすがに」
それには全員が頷いた。
そして、エルセだけが何も言わなかった。
彼女は石扉の前で、握った認証札を見つめている。
その手が少し震えていた。
「……エルセ」
俺が呼ぶと、彼女は顔を上げた。
「何ですか?」
「お前は大丈夫?」
「問題ありません」
いつもの返事だった。
ただ、少しだけ顔色が悪い。
俺は何も言わずに見ていた。
すると彼女は、小さく息を吐いた。
「……頭が少し痛いです」
「……そっか」
「それと、手が疲れました」
「ずっと札を押してたからな」
「ええ」
彼女は少し困ったように笑った。
「術を使った後も、ああいう細かい作業が続くのは苦手なんです」
「意外だな」
「何が?」
「何でも器用にできそうだから」
エルセがこちらを見た。
「……買いかぶりです」
短い返事だった。
けれど、その後に小さく付け加える。
「仕事で失敗しないようにしているだけです」
俺は何となく、その言葉が気になった。
失敗しないようにしている。
それは、失敗したことのない人間の言葉ではないように聞こえた。
けれど、ここで詳しく聞くのはやめた。
今は全員、無事に地上へ戻ることを考える方が先だった。
「……助かったよ」
俺が言うと、エルセが少し目を見開いた。
「何がですか?」
「三秒」
「……ああ」
「王都でも助けられたけど、今日も結構助かった」
エルセはしばらく黙っていた。
それから、少しだけ笑った。
「三秒でも、使い方次第です」
「そうだな」
「ただし、何でも止められるわけではありません」
「もう分かったよ」
「あなたには何度でも言った方がよさそうなので」
俺は顔をしかめた。
リゼが笑う。
リオルも何か言いたそうだったが、俺が見ると黙った。
「……何?」
「いや、何でもない」
「絶対何か言おうとしただろ」
「今は休めよ」
そう言って、リオルは楽しそうに笑った。
俺だけが、少し納得できなかった。
◇
静かになった後で、石扉が完全には閉じていないことに気づいた。
中央に、指二本分ほどの隙間がある。
どうやら、認証処理を中断した時に開きかけたまま止まったらしい。
「……これ、閉めなくていいの?」
俺が尋ねると、ティセラがすぐに顔を上げた。
「待って」
「何?」
「向こうが見える」
彼女は床へ落ちた別の携帯灯を拾い、隙間へ光を向けた。
俺たちも順番に覗き込む。
その向こうは、倉庫という言葉で片づけられるほど小さな場所ではなかった。
石壁に沿って、円筒形の装置が何段にも並んでいる。
どの装置も人の背丈より大きく、古い金属の枠で固定されていた。奥へ向かって細い橋が何本も伸び、そのさらに向こうには、別の通路が重なっている。
下の方は水に沈んでいた。
灯りの届く範囲だけでも相当な広さがあり、暗闇の向こうにどこまで続いているのかは分からない。
「……何だよ、これ」
声が漏れた。
ティセラは返事をしなかった。
隙間の向こうを見つめたまま、手帳を握っている。
少しして、ようやく口を開いた。
「……古い保全槽かもしれない」
「保全槽?」
「王都で見つけた記録に、第三保全槽って書かれていたでしょう。形の特徴が似ているの」
俺は暗闇へ目を凝らした。
何十もの円筒。
水へ沈んだ通路。
そして、何かを保管するために作られたらしい巨大な空間。
王都で見た地下施設も十分に奇妙だった。
だが、ここは規模が違う。
「……全部、同じものを保管してたの?」
リゼが尋ねる。
「まだ分からないわ」
ティセラは首を振った。
「ただ、入口の近くに分類がある」
彼女が示した場所へ灯りを向けると、壁に古い文字が見えた。
『名称』
その下に、別の文字。
『帰属』
そして、もう一つ。
『記憶』
俺はしばらく、その三つを見つめた。
名前。
誰のものかというつながり。
そして、覚えていること。
第七係へ持ち込まれたガラス瓶は、記憶を保存しているらしかった。
マーロは名前を思い出せなくなっている。
青鐘通りでは、王都との帰属が切り離されていた。
これまで別々に起きていた出来事と、似た言葉が並んでいる。
ただ、それらがすべてこの施設で起きたと考えるには、まだ証拠が足りなかった。
「……ここ、何のための場所なんだ?」
俺が尋ねると、エルセが隣へ来た。
「保全のためです」
「それは名前で分かる」
「では、何を保全するのか、でしょうか」
「……そう」
エルセは隙間の向こうを見た。
「名称や帰属、記憶のように、失えば元へ戻すことが難しいものです」
「何でそんなものを保管する必要がある?」
「場合によっては、保管しなければならないからです」
「……誰が決める?」
俺が聞くと、エルセはすぐには答えなかった。
その沈黙が、少し気になった。
「……回収と保全は、違う仕事なのか?」
尋ね直すと、彼女は頷いた。
「回収は、指定されたものを集める仕事です。保全は、それを戻さずに保持するための仕組みです」
「戻さないため?」
「ええ」
俺は石扉を見た。
「でも、戻してほしい人がいたら?」
エルセは俺の方へ顔を向けた。
「……それを、誰が決めるべきなんでしょうね」
意外な答えだった。
「自分たちで決めるんじゃないの?」
「決めている人たちはいます」
「お前も?」
「私は、その決定を受けて動く側です」
「じゃあ、決めた人の言うことが正しいと思ってるのか?」
少し強く聞こえたかもしれない。
けれど、エルセは怒らなかった。
ただ、少しだけ考えてから答えた。
「……正しいと思えない判断もあります」
静かな声だった。
俺は続きを待った。
しかし、彼女はそれ以上言わなかった。
今の言葉を、言い過ぎたと思っているようにも見えた。
「……そうか」
俺もそれだけ答えた。
エルセが何を知っているのか、まだ分からない。
ただ、保全という仕事をしているからといって、そこで決められるすべてを信じているわけではないらしい。
少なくとも、そう聞こえた。
◇
「……それで、どうする?」
リオルが言った。
俺たちは石扉の前へ集まった。
「奥へ入るか、戻るか。決めるなら今だと思う」
俺は隙間の向こうを見た。
水に沈んだ通路。
何段にも並ぶ円筒。
古い分類文字。
そして、さっき俺とリゼを認識した装置。
調べたいものは山ほどある。
マーロの名前がどこへ行ったのかも知りたい。
二十八年前、ローディスが何を見たのかも確かめたい。
それでも、今ここで進む気にはなれなかった。
「……戻ろう」
俺が言うと、リオルが頷いた。
「俺もそう思う」
ティセラは少し残念そうだったが、反対しなかった。
「仕方ないわね。まず、現地の地図と古い記録を照合したい」
「それに、マーロのこともある」
俺が言う。
「港湾警備隊へ説明しなきゃいけないし、本人が無事に戻れたか確認したい」
リゼも頷いた。
「はい。あの人、ちゃんと休めているといいですね」
俺は鞄を確認した。
記憶瓶は宿舎で封印した革箱に入れたままにしてある。だから今ここで奪われる心配はない。
けれど、持ってきた道具はほとんど取られてしまった。
リオルの剣も、ティセラの資料鞄も、まだ石壁の内側にある。
「……ところで、それ返してもらえる?」
俺が尋ねると、エルセは頷いた。
「待機状態なら、物品返却の操作はできるはずです」
「……やっぱり便利だな、札」
「何でもできるわけではありません」
「分かってるって」
彼女は扉の脇にある小さな金具へ札を当てた。
しばらくして、石壁の窪みが開き、リオルの剣とティセラの資料鞄、それから俺たちの小物が順番に戻ってきた。
リオルは剣を受け取り、鞘から少し抜いて確かめる。
「……壊れてないな」
「保全施設ですから」
エルセが言った。
「壊すための場所ではありません」
その言葉が、妙に耳に残った。
壊さずに取っておく。
大切なものを守るためなら、それは確かに必要なことだ。
けれど、本人が返してほしいと思っているものまで、戻さずに保管するなら。
それは守っているのだろうか。
それとも、別の形で奪っているのだろうか。
今はまだ、答えが出なかった。
◇
地上へ戻る前に、エルセが認証札を外套へしまった。
「……あなたたちは、明日もここへ来るつもりですか?」
彼女が尋ねる。
「調べたいことはある」
俺は答えた。
「でも、今日みたいに準備なしで入るつもりはないよ」
「賢明です」
「……何か、少し馬鹿にしてない?」
「褒めています」
「そう聞こえないんだけど」
エルセは少し笑った。
思えば、王都で初めて会った時より、随分と表情が変わるようになった。
敵として向かい合っていた時は、何を考えているのか分からない女の人だった。
今も分からないことだらけではある。
それでも、腹が立ったり、困ったり、ちょっとだけ笑ったりするところを見ると、ようやく一人の人間として話せている気がした。
「……エルセ」
「何です?」
「明日も来る?」
尋ねると、彼女は少し意外そうな顔をした。
「私を信用するんですか?」
「全部はしてない」
「……正直ですね」
「でも、今日助けてくれたことは本当だから」
俺は続けた。
「そこは信用する」
エルセは少し黙った。
それから、目を伏せて笑った。
「変な人ですね」
「お前もだろ」
「私は普通です」
「普通の人は、第七係へ乗り込んで瓶を奪おうとしないよ」
「まだ言います?」
「結構根に持ってるから」
彼女は呆れたように息を吐いた。
その様子を見て、リゼが小さく笑っている。
俺はそちらを向いた。
「何?」
「いえ。楽しそうだなと思って」
「今の会話が?」
「はい」
「どこが?」
リゼは答えなかった。
代わりに、少し楽しそうな顔をしただけだった。
エルセまでこちらを見ている。
「……何の話ですか?」
「何でもないです」
リゼが答えた。
俺は何となく嫌な予感がしたが、それ以上聞かないことにした。
今は、知りたいことが多すぎる。
全部聞いていたら、本当に地上へ戻れなくなりそうだった。
「……明日は来ません」
エルセが言った。
「何で?」
「別の仕事があります」
「回収?」
「……ええ」
「何を?」
彼女は少しだけ眉を寄せた。
「それは言えません」
「聞いた俺が悪かった」
俺は素直に頷いた。
すると、エルセは少し迷うような顔をした。
「……ただ、一つだけ」
「何?」
「今夜は、この旧西倉庫区へ近づかない方がいいです」
俺は顔を上げた。
「理由は?」
「詳しくは話せません」
「……またそれか」
「仕事上、話せないこともあります」
リオルが一歩前へ出た。
「危険があるなら、港湾警備隊にも知らせるべきだろ」
「それは理解しています」
「じゃあ」
「確かな情報がないうちに、警備隊を動かしていいとも思えません」
エルセは静かに答えた。
その言い方からすると、何かを知っているのは確かだろう。
けれど、まだ全部を話すつもりはないらしい。
「……分かった。今夜は戻るよ」
俺が言うと、エルセは小さく頷いた。
それから、少しだけ言いにくそうに続けた。
「もう一つ、気になることがあります」
「何?」
「さっきの『未返却』です」
俺は身体を止めた。
石扉に表示された文字。
あれが、まだ頭から離れていない。
「……知ってるの?」
「意味までは分かりません」
「じゃあ、何が気になるんだ?」
エルセは俺の左手へ目を向けた。
「その分類が、必ずしもあなた自身を指しているとは限らないことです」
「……俺自身じゃない?」
「古い保全施設は、人間と固有術を同じ方法で扱っていません。あなたの名前で照合された記録に、別の対象が結びついている可能性もあります」
俺は少し考えた。
「……〈返却〉のこと?」
「可能性はあります」
「分からないんだな」
「ええ。だから、今は断定しないでください」
少しだけ安心したような、余計に不安になったような気分だった。
俺自身が何かの落とし物だと言われるのも嫌だが、自分の固有術が何かの返却対象として記録されているという話も、十分に奇妙だ。
エルセはそこまで言うと、もう何も付け加えなかった。
俺も、今ここで答えを出そうとは思わなかった。
◇
仕立屋の地下から地上へ戻ると、思っていたより時間が経っていた。
窓の外には夕方の光が差し込み、布の山が柔らかい色に見える。
店の女性が俺たちを見つけ、驚いたように立ち上がった。
「……戻ってきたのかい」
「はい。ご心配をおかけしました」
リオルが答えた。
女性は俺たちを順番に見た。
泥のついた服。
濡れた靴。
疲れ切った顔。
どう見ても、ただの地下見物から帰ってきた人間には見えないだろう。
「……大丈夫だったの?」
「大丈夫です」
俺が答えかけると、リゼが横から口を挟んだ。
「全員、少し疲れています」
「……正確だな」
「そう言うように教わったので」
「誰に?」
「セインです」
そんなことまで教えた覚えはない。
けれど、女性が少し安心した顔になったので、訂正するのはやめた。
リオルは地下で見たものを、すぐに港湾警備隊へ報告すると言った。
ティセラは資料の写しを整理し、明日以降に何を調べるべきか考えるらしい。
俺はといえば、今すぐ何かを調べるより、少し休みたかった。
さっきの〈返却〉の反動が、まだ腕に残っている。
「……じゃあ、俺たちは宿へ戻る」
そう言うと、リゼが頷いた。
「はい」
「お前も疲れただろ」
「少しだけ」
「……その割には元気そうだけど」
「お腹が空いたので」
「……やっぱり」
リゼは笑った。
「昨日、帰り道でいい匂いのしたお店、覚えてます?」
「お前、まだ覚えてたの?」
「もちろんです」
リゼは胸を張った。
「赤い布の看板で、角に魚の形の飾りがありました」
「……そこまで覚えてるのか」
「大事な情報なので」
俺は笑ってしまった。
俺たちは記憶や名前を調べるためにラヴェルへ来た。
その途中で、恐ろしい施設を見つけた。
誰かの名前が保全されているかもしれないし、俺たち自身も何かの分類に入れられているらしい。
調べなければならないことは、昨日より増えている。
それでも、腹は減る。
疲れれば休みたくなる。
そして、昨日いい匂いがした店で何か食べたいと思うこともある。
そんな当たり前のことが、今は少しありがたかった。
「……じゃあ、そこ寄って帰るか」
俺が言うと、リゼの顔が明るくなった。
「本当ですか?」
「ああ。ただし、今日は早めに寝るぞ」
「分かりました!」
返事が早い。
きっと食べ物のことだけ考えているのだろう。
そう思いながら、俺は一度だけ後ろを振り返った。
古い仕立屋の奥には、地下へ続く入口がある。
その先には、名前や帰属や記憶を保管するための巨大な施設が広がっていた。
あれほど多くのものを、いったい誰が、何のために預けたのだろう。
そして、そこにあるものを、本当に戻さないままでいいのだろうか。
今は答えが出ない。
無理に答えを出すつもりもなかった。
ただ、次にあの場所へ行く時は、誰かが決めた分類を見るだけでは終わらせたくなかった。
そこに残されているものが、本当は誰のものなのか。
その人は、返してほしいと思っているのか。
まずは、それを確かめたい。
「……セイン!」
少し先で、リゼが手を振っていた。
「置いていきますよ!」
「……またそれか」
「気持ちの話です!」
王都を出る時と同じことを言っている。
俺は笑いながら歩き出した。
港の方から、夕方の鐘が聞こえてくる。
明日になれば、マーロが自分の名前を取り戻せるかもしれない。
そのためにも、今日はちゃんと休んでおこう。
三秒しか止められないものがある。
けれど、その三秒で誰かを助けられることもある。
それを知っただけでも、今日の調査には意味があった。
少なくとも、俺はそう思った。




