第四十七話 名前の残った靴
人間の名前は、靴の内側に書いておくものではない。
少なくとも、普通はそうだ。
仕事の書類や身分証明書ならともかく、履いている本人にしか見えない場所へ名前を書いたところで、日々の暮らしに役立つ場面はほとんどないだろう。
けれど今、俺たちが探している人間の名前は、そこにしか残っていなかった。
『マーロ・ディン』
古い革靴の履き口には、少し滲んだ文字がある。
仕事場で履き違えないように書いたのか、修理に出す時の目印だったのか。理由は分からないが、特別な意味を込めたものには見えなかった。
だからこそ、奇妙だった。
職員名簿にも、給与台帳にも名前がない。昨日まで一緒に働いていた青年も、その名を思い出せない。
そんな人間の名前が、革の内側には何事もなかったように残っている。
「……何度見ても、ありますね」
隣でリゼが言った。
「ああ。薄くなってるけど、ちゃんと読める」
「書いた人、こんなに大事なものになると思ってたんでしょうか」
「どうだろうな。少なくとも、靴の持ち主を区別したかったんだと思う」
俺は靴を裏返した。
底には雨の日に滑りにくくするための溝があり、踵には何度も補修した跡がある。
右と左で、革の減り方が少し違っていた。
「……左足」
「何です?」
「この人、左足をかばって歩いてるかもしれない」
リゼが靴を覗き込む。
「どうして分かるんですか?」
「左の踵だけ、外側が余計に減ってる。歩く時の重心が少しずれてるんだと思う」
「本人もそうなんでしょうか」
「そこは会ってみないと分からない。でも、探す時の手がかりにはなる」
リゼはしばらく靴を眺め、それから俺の顔を見た。
「セイン、靴の話をしている時は説明が分かりやすいですね」
「普段も分かりやすいだろ」
「……そうでしたっけ?」
「少しは迷ってくれよ」
彼女が笑った。
俺もつられて口元を緩めたが、すぐに靴へ目を戻した。
これだけでは、名前の持ち主が今どこにいるのかまでは分からない。
ただ、この靴を履いていた人がいる。
その人の足には、歩き方の癖があるかもしれない。
革靴は、ちゃんと使われた年月を残してくれる。
そういう仕事をしてきた父のことを、久しぶりに少し誇らしく思った。
◇
俺たちがまだ港湾術師組合の事務室にいたのには、理由があった。
リオルがマーロの失踪について聞き取りを続けていたからだ。
名前を思い出せないという青年職員は、机の横で落ち着かなさそうに立っている。
「昨日、その人は何を調べていた?」
リオルが尋ねた。
「……古い建物の記録だったと思います」
「建物?」
「はい。受付の仕事で、昔の登録先を照合することがあるので」
青年は机の引き出しを開き、薄い紙束を取り出した。
「これを見ていた気がします」
紙には、ラヴェルの旧市街にある建物の番号が並んでいた。
大半は用途変更や取り壊しの記録だったが、一枚だけ、古い税関施設の欄に印がついている。
『旧西倉庫区 二十一番』
『旧西税関第四保管庫 旧搬入口』
「……ここだ」
俺は顔を上げた。
係長から渡された二十八年前の出張記録にも、同じ保管庫の名前があった。
ローディス・フェンが、氏名の記されていない第七係職員を一人連れて訪れた場所だ。
しかも、正式な集団記憶欠損の報告が出される十一日前のことだった。
「その職員は、どうしてこの資料を見ていたんだろう」
ティセラが尋ねた。
「分かりません。普段の業務でも古い施設番号は調べますし……」
青年はそこで口を閉じた。
少し考えてから、申し訳なさそうに続ける。
「でも、昨日は何度も確認していた気がします。何か気になっていたのかもしれません」
リオルは頷いた。
「覚えている範囲で十分だよ。無理に思い出そうとしなくていい」
青年は小さく息を吐いた。
「……僕、あの人と毎日話してたはずなんです」
独り言のような声だった。
「昼食を一緒に食べたり、仕事のことで文句を言ったりして。昨日だって、きっと普通に話したと思うのに」
俺たちは黙って聞いていた。
「名前を聞かれた途端、その全部が曖昧になってしまって。今は、顔までうまく思い出せません」
青年は空いた机を見た。
「……僕、本当にあの人と働いてたんでしょうか」
そう言ってから、自分の言葉に驚いたようだった。
リゼが一歩前へ出た。
「働いていたと思います」
青年が顔を上げる。
「どうして?」
「その机、今朝もちゃんと空けてありましたよね」
「……はい」
「誰かがそこを使っていたことは、覚えているんです。どんな人だったか、全部分からなくなっても」
彼女は少しだけ考えた。
「覚えていないからって、なかったことにしなくてもいいと思います」
青年は何も言わなかった。
ただ、空いた机を見つめる表情が少し変わった。
俺は靴を布へ包み直した。
「……探してきます」
青年がこちらを向く。
「見つかるでしょうか」
「分からない。でも、今は行き先の手がかりがある」
俺は古い建物台帳を示した。
「その人が気にしていた場所へ行ってみます」
リオルが立ち上がった。
「港湾警備隊には、俺から連絡を入れる。行方不明者の可能性があるから、現地でも捜索の協力を頼んでおくよ」
「……お願いします」
青年は深く頭を下げた。
俺はその姿を見ながら、鞄の口を閉じた。
探す相手はマーロ・ディンかもしれない。
だが、まずは名前より先に、今どこかで困っている人間を見つけたいと思った。
◇
旧西倉庫区は、第七埠頭とはまた違った古さを持つ街だった。
港沿いの大きな倉庫が並ぶ場所を抜けると、建物の高さが急に不揃いになる。石造りの倉庫へ木の階段が後から取りつけられていたり、昔の税関らしい建物が住居として使われていたりする。
通りの一角には洗濯物が干され、そのすぐ隣では船具を修理する職人が働いていた。
何十年も前の建物を、今の暮らしへ無理なく組み込んでいる。
そんな印象だった。
「……面白いわね」
ティセラが呟いた。
「何が?」
「あの壁、途中から積み方が違うでしょう」
指された建物を見る。
確かに、一階の下半分だけ大きな石が使われている。
その上には小ぶりな煉瓦が積まれ、さらに二階は木造だった。
「昔の建物へ、後から継ぎ足したんだと思う」
「どれくらい昔?」
「一番下は百年以上前かもしれないわ。もっと古い可能性もあるけど」
「……水底街の頃?」
「そこまでは分からない。ただ、この一帯は古い街を壊して建て直したというより、残っているものの上へ新しい街を重ねている感じね」
リゼが足元を見た。
「じゃあ、私たちが歩いている下にも、道があるんですか?」
「場所によってはあるでしょうね」
「人も住んでます?」
ティセラが考え込む。
「今も使っている地下室くらいなら、ありそうだけど……」
「……そういう話じゃないと思うぞ」
俺が言うと、リゼがこちらを向いた。
「どういう話です?」
「怖い話にしたかったんだろ」
「少しだけ」
「地下へ行くかもしれない日にやめてくれ」
リゼは笑った。
俺も笑いかけたが、すぐ足元の石畳へ目を戻した。
港に近いせいか、ここも道の一部が濡れている。
古い石の継ぎ目には砂が溜まり、荷車の通る場所だけが滑らかに磨かれていた。
靴底の減り方を見るなら、こういう道の方が王都より難しそうだった。
「……セイン」
リオルに呼ばれた。
「何?」
「道、合ってる?」
「合ってるよ」
「さっきから同じ魚屋を二回見た気がするんだけど」
「……気のせいじゃない?」
リゼが横から口を挟んだ。
「三回目です」
「気づいてたなら言ってくれよ」
「地図を持って先頭を歩いていたので、自信があるのかと」
「なかったよ」
リオルが笑った。
「そういうのは先に言え」
「お前がついてきてくれると思った」
「人任せじゃん」
「警護の仕事だろ」
「道案内は別料金」
最近、誰も俺に優しくない。
結局、次の角からはリオルが地図を見ることになった。
俺は少し後ろへ下がり、代わりに建物の番号を確かめながら歩いた。
十七番。
十八番。
古い運河に架かる石橋を渡ると、番号が一つ飛んでいた。
「……十九番、ないな」
俺が言うと、ティセラが橋の下を見た。
「昔、あの水路沿いにあったのかもしれないわね。改築で区画が変わることもあるから」
その答えを聞きながら先へ進む。
二十番は小さな倉庫だった。
その隣に、細長い三階建ての建物がある。
入口には布地と糸巻きを描いた古びた看板が掛かっていた。
「……ここ?」
リゼが尋ねる。
俺は壁の番号を確かめた。
『二十一』
住所は合っている。
けれど、どう見ても仕立屋だった。
◇
店へ入ると、扉の上で小さな鐘が鳴った。
中には色とりどりの布が積まれ、壁には上着や礼服が掛けられている。窓際では白髪の女性が針仕事をしていた。
「いらっしゃい」
少し港の訛りがある共通語だった。
女性は俺たちの服装を見て、まずリオルの剣へ目を向けた。
「……服を直しに来たわけじゃなさそうだね」
「すみません。少しお話を聞きたくて」
俺は王立遺失物管理局の身分証を見せた。
リオルも港湾警備隊の照会書を取り出す。
女性は二つの書類を見比べ、手に持っていた針を布へ刺した。
「王都から? 珍しいお客さんだこと」
「ここへ、昨日、一人の男の人が来ませんでしたか」
俺はマーロの外見と、左足をかばって歩いている可能性を伝えた。
女性は最初、分からないという顔をしていたが、足の話をしたところで思い当たったらしい。
「ああ、いたね。昨日の夕方」
「……本当ですか?」
「三十そこそこくらいの、事務仕事をしていそうな男だろ。左足を少し引きずってたよ」
俺はリオルを見た。
靴から考えた特徴と一致する。
「その人、何をしに来たんです?」
「それが、変だったんだよ」
女性は椅子の背へ手を置いた。
「店へ入ってきたのに、服は見もしない。何か探しているのかと聞いたら、ここへ来るように言われたって」
「誰に?」
「本人も分からないらしい」
リゼの表情が変わった。
女性は続けた。
「名前も聞いたけど、うまく答えられないみたいでね。疲れてるのかと思ったよ」
「その人、今は?」
「裏から出ていった」
「裏口ですか?」
「ああ。昔の地下道へ降りる入口があるんだ」
ティセラがすぐ顔を上げた。
「地下道?」
「昔は税関の荷物を運ぶために使っていたらしいね。今は途中まで水が入っているし、危ないから鍵を掛けてる」
「昨日も鍵は掛かっていたんですか?」
リオルが尋ねる。
「それが、外れていたんだよ。私は開けていないのに」
女性は少し嫌そうな顔をした。
「誰かが勝手に開けたんだろうね」
「その男の人は、地下へ?」
「ああ。止めたんだけどね」
「何て言ってました?」
女性はしばらく考えた。
「……呼ばれてる、とか何とか」
嫌な感じがした。
名前も分からない。
自分を呼んでいる相手も分からない。
それでも地下へ向かったのなら、誰かが誘い込んだ可能性がある。
ティセラも同じことを考えているらしい。
「術式の影響かもしれないわね」
「分かるの?」
俺が尋ねる。
「普通の暗示術式なら痕跡を探せる。でも、本人を見ないことには」
その時、女性が何かを思い出したように手を打った。
「そういえば、少し前にも女の人が来たよ」
「どんな人です?」
「短い灰色の髪で、薄い色の外套を着ていたね」
俺は息を呑んだ。
エルセ。
少なくとも、特徴は一致している。
「その人も地下へ?」
尋ねると、女性は首を振った。
「入口だけ見て、入らずに帰ったよ」
「何か言っていましたか?」
「『まだ開けない方がいい』って。それだけ」
俺はリオルを見た。
エルセは灰鴎亭でも、記憶瓶の受け取りを拒んだらしい。
そして、こちらでも地下へ入らないよう警告していた。
その二つに関係があるのかは分からない。
けれど、少なくとも彼女はこの場所に何か危険があると知っているようだった。
「……案内してもらえますか」
俺が尋ねると、女性は少し渋い顔をした。
「中へ入るつもり?」
「行方不明の人がいるかもしれないんです」
女性は俺たちを順番に見た。
最後にリオルの照会書をもう一度確かめ、ため息をつく。
「分かった。ただし、入口までだよ。私は下へ行かない」
「それで十分です」
リオルが答えた。
店を出る前に、彼は港湾警備隊へ連絡を頼む短い書面を用意した。
地下で人を見つけた場合、すぐ応援を呼べるようにするためだ。
俺たちだけですべてを解決しようとする必要はない。
それは、青鐘通りで学んだことの一つだった。
◇
地下への入口は、仕立屋の奥にある作業場の床へ隠されていた。
布棚を動かすと、古い鉄扉が現れた。表面には錆が浮き、縁には今の王都ではあまり見かけない形の文字が刻まれている。
ティセラはすぐにしゃがみ込んだ。
「……これ」
「読める?」
「待って」
彼女は指で触れず、携帯灯を近づけた。
「『第四』……『搬入』……それから、保全に関する字ね」
「第四保管庫?」
「そうかもしれない。少なくとも、古い搬入口だったのは確かそうよ」
係長から預かった出張記録が頭に浮かぶ。
旧西税関第四保管庫。
ローディス・フェンと、名前のない同行者。
二十八年前の二人も、ここへ来たのだろうか。
「……開けるぞ」
俺が言うと、リオルが手を出した。
「俺が先」
「……そうだな」
素直に任せた。
リオルがこちらを見る。
「珍しく抵抗しないな」
「お前の仕事だろ」
「やっと分かった?」
「最初から分かってるよ」
「本当かな」
そう言って、リオルは鉄扉を開いた。
古い金具が軋み、湿った空気が上がってくる。
その奥には、石の階段が続いていた。
壁に並ぶ灯具は消えており、どこまで降りるのかは見えない。
俺たちは携帯灯を点け、一人ずつ階段へ足を掛けた。
先頭はリオル。
その後ろに俺とリゼ、最後尾がティセラだ。
数段降りたところで、リゼが俺の袖を軽くつかんだ。
「……怖い?」
尋ねると、彼女は少し考えて頷いた。
「はい」
「俺も」
「セインもですか?」
「ああ。地下は苦手になりそうだ」
青鐘通りでのことを思い出す。
暗い通路。
古い装置。
世界の一部分が、誰にも知られないまま切り取られていた場所。
あんなものを見た後で、知らない地下施設へ平気な顔で入れる人間の方が珍しいと思う。
「……じゃあ、一緒ですね」
リゼが言った。
「ああ」
「無理そうなら戻りましょうね」
「そうしよう」
彼女は少し安心したようだった。
俺も、口にしてみると少し気が楽になった。
◇
階段を降り切ると、低い石造りの通路へ出た。
床には浅く水が溜まっている。
携帯灯の光が細かく揺れ、壁の下半分には、何度も水位が変わったらしい色の跡が残っていた。
「……水底街の一部なのかな」
俺が呟く。
「断定できないけど、地上の建物よりずっと古いわね」
ティセラが答えた。
通路の石組みは、王都で見た地下施設に少し似ていた。
ただ、同じ設計だと言えるほど俺には詳しくない。
ティセラも今は、周囲の文字を一つずつ確かめるだけに留めている。
「奥から何か感じます?」
俺がリゼへ尋ねた。
彼女は壁に目を向け、それから通路の先を見た。
「……あります」
「なくなった跡?」
「はい。でも、何がなくなったのかは分からないです」
リゼは少し困った顔をした。
「奥へ続いているような感じがします。ただ、それが人なのか、記録なのか、ほかのものなのかまでは……」
「十分だよ。ありがとう」
俺は頷いた。
今のところ、リゼの感覚だけで進路を決めるつもりはない。
そもそも、彼女が感じているものがマーロと関係している保証もなかった。
リオルが先頭で足を止めた。
「……二つに分かれてる」
通路の左側は、水が少し深くなっている。
右側は比較的乾いていて、泥のついた足跡がいくつか残っていた。
リオルがしゃがむ。
「新しいな」
俺も隣へ座り、灯りを近づけた。
革靴の跡だ。
左右の歩幅が少し違う。
右足はまっすぐ進んでいるが、左足だけ外側へ流れていた。
「……マーロかもしれない」
「靴で分かるのか?」
「職場に残ってた靴と、足の使い方が似てる。もちろん、別人の可能性もあるけど」
リオルが小さく頷いた。
「なら、こっちを確認しよう」
俺たちは右側の通路へ進んだ。
途中、壁際に擦ったような跡が残っている。
さらに先には、小さな金属のボタンが落ちていた。
誰かの上着から外れたものらしい。
「……誰か通ってるな」
リオルが呟く。
「ああ」
その時だった。
奥から、微かな声が聞こえた。
「……誰か」
男の声だった。
俺たちは顔を見合わせる。
もう一度声がする。
「……助けてくれ」
今度ははっきり聞こえた。
「ここにいる!」
俺が答えると、少し間が空いた。
「……誰だ?」
「王立遺失物管理局だ。あなたを探しに来た!」
リオルが剣の柄へ手を添える。
俺はその横を、足元に気をつけながら進んだ。
曲がり角を一つ越えると、壁際に男が座り込んでいた。
三十代前半くらいだろうか。
事務職らしい服を着ている。
片方の靴は脱げ、左足を伸ばしたまま動かそうとしていない。
頬は青白く、唇も乾いていた。
長い時間、ここにいたらしい。
「……大丈夫か?」
俺が声をかけると、男は反射的に身を引いた。
「来るな」
「怪我してる?」
「……足を痛めた」
「いつからここに?」
「昨日の……夕方だったと思う」
一晩、この暗い場所にいたのか。
俺は近づきたい気持ちを抑え、その場へしゃがんだ。
「助けに来た。怪しい者じゃないよ」
男は俺たちの服装を見回した。
リオルの剣。
ティセラの資料鞄。
リゼの真鍮札。
それから、俺の顔へ視線が戻る。
「……俺を、知ってるのか」
その聞き方に、胸が痛んだ。
「知ってるかもしれない」
俺は答えた。
「港湾術師組合で働いてる?」
男は頷いた。
「じゃあ、そこで働いてる人が探してたんだ」
「……誰が?」
「同僚だよ。名前を思い出せないって言ってたけど、あなたがいたことは覚えてた」
男は口を閉じた。
少しして、ゆっくりと尋ねる。
「……俺の名前も?」
俺は鞄を開いた。
布に包んだ革靴を取り出す。
「これ、職場に残ってた」
男の目が靴へ向く。
「……俺の」
「分かる?」
「雨の日に履いてた。左が少し硬くて、履く時にいつも……」
そこで言葉が途切れた。
男は革靴を見つめている。
履き心地を覚えている。
使っていたことも覚えている。
なのに、今その靴を見ている自分の名前が分からない。
「内側を見て」
俺は靴を少し回した。
履き口に残された文字が、灯りの下へ現れる。
『マーロ・ディン』
男が息を止めた。
手を伸ばしかける。
だが、途中でその指が止まった。
「……誰の名前だ」
「そこに書いてある」
「俺が書いたのか?」
「分からない。でも、あなたの仕事場にあった靴だ」
男は文字を見たまま動かない。
俺は靴を持つ手を、少しだけ前へ出した。
「……触ってみる?」
男が頷いた。
俺はゆっくり差し出した。
受け取った男は、まず革の表面を撫でた。
次に靴底へ指を走らせる。
何度も履いた人間が、自分の道具の傷を確かめるような触り方だった。
「……これ、知ってる」
小さな声だった。
「左の踵、いつも先に減るんだ。前に足を痛めてから、こうなって……」
俺は頷いた。
「うん。靴にもその跡が残ってる」
「……そうか」
男はもう一度、内側の文字を見た。
「マーロ・ディン」
自分で読み上げる。
それから、少し怯えたように顔を上げた。
「……これが、俺なのか?」
すぐには答えられなかった。
靴の内側に名前がある。
職員名簿には名前がない。
同僚は誰かがいたことだけを覚えている。
目の前の男は、自分の靴を覚えている。
どれも手がかりにはなる。
けれど、俺がここで名前を断定してしまっていいのだろうか。
「……その可能性は高いと思う」
俺は答えた。
「でも、今ここで俺が決めるつもりはない」
男は眉を寄せた。
「じゃあ、どうすればいい」
「調べるよ。あなたが覚えていることも聞かせてほしい」
そこでリゼが近づいた。
俺の隣へしゃがみ、腰から真鍮札を一枚外す。
昨日、マーロの名前を書き留めた札だ。
「……これもあります」
男が顔を向けた。
リゼは札を両手で差し出した。
『マーロ・ディン』
「私たちが見つけた名前です。もしあなたの名前なら、なくさないように持っていてください」
男は札を見つめた。
「……君たちは、俺を知ってたのか」
「いいえ」
リゼは首を振った。
「でも、あなたを探している人がいました。だから、私たちも探しに来たんです」
「……名前が分からないのに?」
「はい」
リゼは少し笑った。
「名前が分からなくても、あなたがここにいることは変わりませんから」
男はしばらく黙っていた。
それから、震える手で真鍮札を受け取った。
「……マーロ」
もう一度、名前を口にする。
「変な感じがする」
「無理に慣れなくてもいいと思います」
リゼが答えた。
「あなたがどう呼ばれたいかは、あなたが決めていいので」
男はリゼを見た。
「君も、名前をなくしたことがあるのか?」
彼女は少しだけ考えた。
「……私はリゼです」
それだけ答えた。
男は何か聞きたそうだったが、やめたらしい。
真鍮札を握り、ゆっくりと頷いた。
「……ありがとう」
リゼも頷いた。
俺は二人を見ながら、少しだけ肩の力を抜いた。
まだ何も解決していない。
けれど、名前をなくした一人の人間が、今は自分の手で札を持っている。
そのことが、妙に大切に思えた。
◇
男は、名前以外のことなら意外なほど覚えていた。
港湾術師組合で事務の仕事をしていること。
自分の家が港から少し離れた場所にあること。
昔、左足を痛めたこと。
亡くなった父親がよく靴を修理してくれたこと。
そして、昨日の夕方、ここへ来たこと。
「……仕事中に、紙を一枚見つけたんだ」
男は真鍮札を握ったまま話した。
「どんな紙?」
俺が尋ねる。
「住所が書いてあった。旧西倉庫区二十一番。そこへ来れば、大事なものが見つかるって」
「誰が渡したの?」
「分からない。机に置いてあった気がする」
ティセラが少し身を乗り出した。
「読んだ時、何か変わった感じはした?」
「……変わった?」
「急に、行かなきゃいけないと思ったとか」
男は困ったような顔をした。
「そうかもしれない。行くのが当然だと思ったんだ。でも、何でかは説明できない」
「術式の影響かな」
俺が呟くと、ティセラは首を振った。
「可能性はある。でも、本人に分かる痕跡が残っているとは限らないし、今は決めつけられない」
彼女は男の手首や首元を確かめたが、特別な術式を見つけた様子はなかった。
「……それで、ここへ来たの?」
リオルが尋ねる。
「うん。店の人に止められたのは覚えてる。でも、どうしても下りなきゃいけない気がした」
「地下では?」
「誰もいなかった」
男は通路の奥へ目を向けた。
「ただ、少し先に大きな扉があった」
「扉?」
「そこへ立つと、声が聞こえたんだ」
俺たちは顔を見合わせた。
「誰の?」
「分からない。人の声みたいだったけど、誰もいなかった」
男は唇を噛んだ。
「『名称を確認します』って」
嫌な言葉だった。
古い施設。
失われた名前。
名称の確認。
別々に見つかったものが、一つの場所へ集まろうとしているように感じられた。
「……答えたの?」
俺が尋ねる。
「答えようとした。でも、言えなかった」
男は俯いた。
「そこで初めて気づいたんだ。自分の名前が分からないって」
俺は黙って聞いた。
「それまでは何もおかしくなかった。仕事もしてたし、人と話してた。名前を聞かれても、いつも通り答えられるつもりだったんだ」
男は真鍮札へ目を落とした。
「……なのに、何も出てこなかった」
その声には、まだ強い戸惑いが残っていた。
俺は青鐘通りを思い出した。
人は、名前を失った瞬間に必ず気づけるわけではないのかもしれない。
自分を呼ぶ言葉なんて、普段は意識せずに使っている。
誰かに呼ばれれば振り返るし、書類を出せば名前が書いてあると思っている。
その当たり前がなくなった時、初めて何を失ったのか分かる。
「……それから?」
リオルが尋ねた。
「逃げようとした。けど、戻る道が分からなくなって、足を痛めたんだ」
男は伸ばしていた左足を見た。
「さっきまでずっと、ここで座ってた」
俺は周囲を見回した。
暗い通路。
濡れた石壁。
冷たい水。
ここで一晩、自分の名前さえ分からないまま過ごしたのかと思うと、胸が苦しくなった。
「……もう大丈夫。上へ戻ろう」
俺が言うと、男は頷いた。
リオルが手を貸し、ゆっくり立ち上がらせる。
左足へ体重を掛けた瞬間、男の顔が歪んだ。
「……痛むな」
「無理しないで」
俺は鞄から替えの布を取り出した。
「足を固定するほどじゃなさそうだけど、上でちゃんと見てもらおう」
男は少し笑った。
「……王都の役人って、靴まで見るのか」
「俺だけだと思う」
「そうなのか」
リゼが横から口を挟んだ。
「この人、靴のことになると急に詳しくなるんです」
「普段も一応、仕事してるんだけど」
「知ってます」
リゼは笑った。
男も少しだけ笑った。
ほんの短い笑いだったが、さっきより顔色がよく見えた。
「……セイン」
男が俺の名を呼んだ。
「何?」
「さっきの、俺の名前」
真鍮札を持ち上げる。
「これが本当の名前なら、返してもらえるのか?」
俺は少し考えた。
「返してほしい?」
「……ああ」
男ははっきり頷いた。
「自分が誰なのか分からないまま、暮らしたくない」
「分かった」
俺は答えた。
「でも、今すぐ〈返却〉を使うのはやめておく。名前がどこへ行ったのか、まだ分からないから」
男は少し残念そうな顔をした。
けれど、やがて静かに頷いた。
「……そうか」
「ちゃんと調べる。見つけたら、その時に返せるか確かめたい」
それは、今の俺ができる約束だった。
目の前にいる人が困っているからといって、知らないものへ術を使うわけにはいかない。
そのせいで、もっと大切なものまで失わせたくはなかった。
「……頼むよ」
男が言った。
俺は頷いた。
「ああ」
◇
リオルは男を連れて、先に地上へ戻ることになった。
仕立屋の女性に事情を説明し、港湾警備隊の人間を呼んでもらうためだ。
「俺も一緒に戻った方がいい?」
尋ねると、リオルは首を振った。
「お前らはここで待ってて。先に奥を見に行くなよ」
「……信用ないな」
「ある程度は信用してる」
「ある程度?」
「ちゃんと戻ってくる程度には」
リオルは笑った。
俺も少し笑い、頷いた。
「分かった。待ってる」
「ティセラも」
リオルが言う。
「分かってるわよ」
「先に行かないで」
「分かったって言ってるでしょう」
リオルはまだ少し疑っている顔だったが、男へ肩を貸して通路を戻っていった。
俺たちは、その背中が角の向こうへ消えるまで見送った。
静かになる。
地下に溜まった水の音だけが、足元で小さく響いていた。
「……さて」
ティセラが言った。
「待つんだぞ」
俺がすぐに言うと、彼女は呆れた顔をした。
「分かってるわ。でも、ここから見える範囲の文字くらい調べてもいいでしょう?」
「触らないなら」
「触らないわ」
そう答えて、彼女は携帯灯を持ち上げた。
少し先の通路には、古い石扉が見えている。
さっき男が話していたものだろう。
高さは人の倍近くあり、中央に大きな円形の窪みがある。その周囲には、小さな枠が四つ刻まれていた。
王都の地下施設でも古い扉を見たことがある。
けれど、こちらの方がさらに重々しかった。
何かを守るためというより、長い時間、誰にも開けさせないために作られたように見えた。
ティセラは扉から少し離れたところへ立ち、灯りを当てた。
「……文字がある」
「読める?」
「少しだけ」
彼女は石に刻まれた古い文字を目で追った。
しばらくして、ゆっくり読み上げる。
「第四保全区」
「……第四保管庫じゃないの?」
「地上の建物を保管庫と呼んでいたのかもしれないわね。こっちは、もっと広い区画の名前みたい」
俺は石扉を見た。
第四保管庫。
第四保全区。
似ているが、同じ意味ではない。
地上では荷物を保管する場所として記録されていても、その地下に何があったのかは分からない。
「……ほかには?」
俺が尋ねる。
ティセラがさらに下の文字を見た。
「『搬入対象』……」
そこで声が止まった。
「どうした?」
「……記憶」
俺は一瞬、聞き間違えたのかと思った。
「今、何て?」
「『搬入対象:記憶』とあるわ」
ティセラははっきり答えた。
俺とリゼが顔を見合わせる。
ここまでの調査では、記憶瓶の仕組みも、古い保全施設の本来の目的も分かっていなかった。
だが、この扉には確かに記憶という文字がある。
「……続きを読める?」
「途中が削れてる。でも、その下は残ってるわ」
ティセラは手帳を開き、三つの項目を書き写した。
『名称確認』
『帰属確認』
『預託可否』
俺は並んだ文字を見た。
名称。
帰属。
預けるかどうか。
どれも、このところ嫌というほど聞いてきた言葉だった。
「……リゼ」
俺が呼ぶと、彼女はすでに扉の方を見ていた。
「はい」
「何か感じる?」
「……あります」
彼女の声が少し小さくなった。
「この向こうに、なくなったものの跡がある気がします」
「何がなくなってる?」
「分かりません」
リゼは首を振った。
「でも、青鐘通りの時とは違います。あそこは、もともとあったものを切り取られたような感じでした」
「ここは?」
彼女は言葉を探すように、少し間を置いた。
「……なくなったものの跡が、いくつも重なっているように感じます。あっちからも、こっちからも、何かがここへ続いているみたいで」
「場所が分かるの?」
「いいえ。向こう側に何があるかまでは見えません。ただ、輪郭がたくさんあるんです」
俺は頷いた。
リゼの感覚は、何でも見通せる力ではない。
分からないものは分からない。
そのことを彼女自身が一番よく理解しているのだろう。
「……開けないで待とう」
俺が言うと、ティセラがすぐに頷いた。
「賛成」
「……意外だな」
「何が?」
「もう少し調べたいって言うと思った」
「もちろん調べたいわよ」
ティセラは扉を見た。
「でも、記憶を搬入する保全区なんて、資料でしか見たことがない。今も動いているなら、なおさら勝手に開けるわけにはいかないでしょう」
「……怖い?」
俺が尋ねると、彼女は少しだけ眉を寄せた。
「怖いわよ」
「そうなんだ」
「研究者にも怖いものくらいあるの。知らないものを見たいのと、無事に帰りたいのは別の話でしょう?」
もっともだった。
俺も少し笑った。
「じゃあ、リオルを待とう」
リゼも頷く。
「はい。私も、その方がいいです」
俺たちは石扉から距離を取り、通路の壁際へ下がった。
少なくとも、誰も扉には触れていない。
それなのに。
中央の円形の窪みが、突然淡く光った。
◇
「……何?」
俺が呟く。
ティセラが反射的に手帳を閉じた。
「誰か、何かした?」
「してない」
「私もです」
リゼが答える。
円の周囲へ、古い文字がゆっくり浮かび上がった。
壁の奥から、低い声が聞こえる。
『名称を確認します』
男とも女ともつかない声だった。
人間が話しているようで、どこか抑揚が不自然だ。
さっきマーロが聞いたという声も、これだったのだろうか。
「……答えない方がいいよな」
俺が尋ねると、ティセラが頷いた。
「少なくとも、今は何も言わないで」
俺たちは黙った。
ところが、声は返事を待たずに続いた。
『セイン・アルケット』
背中が冷たくなった。
俺は名乗っていない。
扉にも触れていない。
なのに、ここは俺の名前を知っている。
『二十一歳。ヴェルナ王国王立遺失物管理局、第七係』
「……どうして」
声が漏れた。
年齢も職場も合っている。
ただ古い名前を読み上げているのではない。
今、ここに立っている俺の情報を確かめている。
『固有術:返却』
ティセラが息を呑んだ。
「……参照してる」
「何を?」
「今いる人間と、施設が持っている何かの情報を照合してるのかもしれない」
「何の情報?」
「それが分からないのよ」
石扉に、新しい文字が現れる。
『登録記録:該当なし』
『参照記録:存在』
俺はその二つを読み返した。
登録されていないのに、参照する記録はある。
意味は分からない。
ただ、次に現れた一行を見た瞬間、思考が止まった。
『分類:未返却』
「……未返却?」
思わず声に出した。
俺は返す側の人間だ。
落とし物を持ち主へ返し、なくしたものがどこへ帰るべきかを調べる。
そういう仕事をしている。
なのに、目の前の施設は俺自身を未返却と呼んでいる。
「……俺、何かの落とし物なの?」
口にしてから、自分でも笑えない冗談だと思った。
リゼも笑わなかった。
「……セイン」
彼女が呼ぶ。
「何?」
「こっちにも、出てます」
リゼが指した場所に、今度は赤い文字が浮かび上がっていた。
『名称:リゼ』
『登録名称:不一致』
『預託状態:継続中』
彼女の顔から血の気が引いた。
俺は思わず一歩近づいた。
「……リゼ?」
返事がない。
その視線は、石扉から離れなかった。
『登録名称:不一致』
リゼが自分で選んだ名前を、この施設は正しいものとして認めていないらしい。
だが、だからといって何だというのだろう。
彼女はリゼだ。
王都で自分でその名前を選び、俺たちがそう呼んでいる。
昨日だって、宿の帳簿へきちんと記録された。
知らない町へ来ても、自分の名前で暮らせることを、あんなに喜んでいたのに。
「……勝手だな」
思わず呟いた。
ティセラがこちらを見る。
「セイン?」
「知らない施設が、俺たちの名前を勝手に分類してる」
扉を見た。
「こっちの事情なんて、何も聞かないで」
言ってから、少しだけ自分のことも考えた。
昔の俺なら、〈返却〉で何かを元へ戻すことが正しいと、疑わなかったかもしれない。
でも、今は違う。
返す先が分かることと、返していいことは同じではない。
誰かの名前がそこに記録されているからといって、その人の生き方まで決められるわけではない。
「……大丈夫」
リゼへ言いかけた。
しかし、彼女はすぐにこちらを見た。
「今、大丈夫じゃないです」
「……そうだな」
「まだ、何も分かってないので」
俺は頷いた。
「じゃあ、一緒に調べよう」
リゼはしばらく俺を見た。
それから、いつものように俺の袖を少しだけつかんだ。
「……はい」
小さな返事だった。
その声を聞いて、俺も少し落ち着いた。
ティセラはまだ扉の文字を追っていたが、手を伸ばそうとはしていない。
俺も〈返却〉を使うつもりはなかった。
今ここで自分自身を返そうとするほど、俺はもう無茶をしたくなかった。
それでも、施設は止まらなかった。
赤い文字が消え、最後に一行だけが残る。
『管理者認証を待機しています』
「……管理者?」
俺が呟いた。
その瞬間、背後から水を踏む足音が聞こえた。
◇
リオルが戻ってきたのだと思った。
けれど、最初に曲がり角から姿を現したのは、薄い色の外套だった。
短い灰色の髪。
見覚えのある、落ち着いた顔。
エルセ・ヴァンデル。
彼女は通路へ入ったところで足を止め、俺たちと石扉を順番に見た。
その表情から、わずかに余裕が消える。
「……やっぱり、起動した」
その後ろから、リオルが現れた。
「上で会ったんだ。ここへ来るって言うから、勝手に行かせるより俺が見てた方がいいと思って」
「……そうか」
俺はエルセへ目を戻した。
「また会ったな」
「ええ」
「今度は瓶を取りに来たの?」
エルセは少し嫌そうな顔をした。
「挨拶の次がそれですか」
「前に会った時は、取りに来たから」
「覚えています」
「俺も」
「でしょうね」
短いやり取りだった。
その間も、エルセの視線は石扉へ向いている。
俺たちより、あの文字を気にしているようだった。
「……灰鴎亭に行っただろ」
俺が尋ねると、エルセは少し眉を動かした。
「行きました」
「そこで誰かに、箱を受け取れって言われた?」
「……話を聞いたんですね」
「少し」
エルセはしばらく黙っていた。
それから、静かに答えた。
「私は、あの方法での回収を認めていません」
「ガディを雇ったこと?」
「少なくとも、私が依頼した仕事ではありません」
リオルが腕を組む。
「じゃあ、誰が?」
「それは今、ここで話すことではないと思います」
「便利だな、その答え」
俺が言うと、エルセはこちらを向いた。
「便利にしているつもりはありません」
声は落ち着いていた。
けれど、少しだけ鋭さがあった。
「回収係は、指定されたものを保管先へ戻す仕事です。でも、誰かを危険にさらしてまで奪うことを、私は同じ仕事だとは思っていません」
昨日、船の甲板で起きた騒ぎが頭へ浮かんだ。
小さな少女が川へ落ちかけたこと。
ガディが、ただ金が必要だったと言っていたこと。
「……じゃあ、俺たちの職場で戦ったのは?」
尋ねると、エルセはすぐに目を逸らさなかった。
「私が同行し、術を使ったことは事実です」
言い訳をするのかと思った。
だが、彼女は続けた。
「その判断が正しかったとは言いません。ただ、あの時と今回の件を、同じものとして扱うつもりもありません」
「……区別するんだな」
「仕事ですから」
少しだけ苦い表情だった。
俺は何も言わなかった。
都合のいい人間だと考えることはできる。
自分がやったことと、他人がやったことを別のものだと言っているのだから。
それでも、彼女は自分がしたことを否定しなかった。
少なくとも、そこはセヴァンとは違っていた。
「……で、今回は何しに来たんだ?」
リオルが尋ねた。
エルセは答えるより先に、石扉を見た。
『管理者認証を待機しています』
その文字が、まだ消えずに残っている。
エルセの表情が変わった。
俺たちを見た時より、ずっとはっきりと。
「……離れてください」
「何で?」
俺が聞く。
「今すぐ、その扉から離れて」
声が低くなった。
さっきまでの落ち着いた話し方とは違う。
彼女は明らかに焦っていた。
「説明してくれないと」
「説明します。ですが、まず離れてください」
エルセは一歩前へ出た。
俺はリゼと顔を見合わせる。
彼女の手が、まだ俺の袖をつかんでいる。
俺たちはそのまま数歩下がった。
ティセラも手帳を抱え、扉から離れる。
その直後、石の奥から低い振動が響いた。
足元に溜まっていた水へ、細かな波紋が広がる。
「……何だ?」
リオルが剣の柄へ手を置いた。
エルセは一度だけ深く息を吐いた。
「施設が、あなたたちを認識したんです」
「……俺たち?」
俺が聞き返す。
エルセは俺とリゼを見た。
「少なくとも、その二人です」
嫌な予感がした。
扉に出た文字が頭をよぎる。
『未返却』
『預託状態:継続中』
「……それで、何が起きる?」
尋ねると、エルセはすぐに答えなかった。
彼女が言葉を選んでいる間にも、石扉の内側で何かが動く音がする。
重い金属が擦れ合うような音だった。
「この区画は、今の王国の仕組みでは動いていません」
ようやく、エルセが口を開いた。
「古い分類規則がそのまま残っています。今ここにいる人間と、記録に残っているものを、私たちが考えるようには区別しない可能性がある」
「……分かりやすく言って」
リゼが言った。
少しだけ苛立った声だった。
エルセは彼女の首元へ目を向けた。
赤い封蝋が残っている場所だ。
「その封は、何かを預かった時の印に似ています」
リゼの表情が固くなる。
「……それが?」
「今のあなたを、この施設が利用者として認識するとは限らないということです」
俺は思わず口を開いた。
「リゼは物じゃない」
「私もそう思います」
エルセは即答した。
意外だった。
もっと説明や反論が返ってくると思っていた。
彼女は続けた。
「ですが、ここが何をどう分類するかは別問題です。古い規則に従う装置へ、私たちの常識は通用しません」
俺は石扉を見た。
王都の第七係では、人間を物として返すことはできなかった。
それは、俺の〈返却〉が持っている制限でもある。
けれど、昔の誰かが作った施設まで同じ考えで動く保証はない。
「……俺の『未返却』は?」
尋ねると、エルセは首を振った。
「その分類は、私も見たことがありません」
「回収係なのに?」
「回収係だからといって、すべての古い施設を知っているわけではありません」
「……そうか」
「知らないことを知っているふりはしません」
少し強い言い方だった。
俺は思わず笑いそうになった。
「……そこは信用できそうだな」
エルセは少しだけ眉を寄せた。
「今さらですか」
「まだ会って三回目くらいだし」
「そのうち二回は、あなたに敵だと言われています」
「……数えてるの?」
「事実を記録しているだけです」
リゼが小さく笑った。
こんな場所で何を話しているのだろうと、自分でも思う。
けれど、エルセの表情に少しだけいつもの余裕が戻ったのを見て、俺も息を吐いた。
「……止められる?」
今度は真面目に尋ねた。
エルセは石扉を見た。
「管理者認証が終わる前なら、可能性があります」
「終わったら?」
「施設が今のあなたたちをどう分類するかによります」
「……嫌な答えだな」
「私も、気に入ってはいません」
エルセは外套の内側へ手を入れた。
薄い金属札を一枚取り出す。
その表面には、古い文字が幾重にも刻まれていた。
「……それは?」
ティセラが尋ねる。
「回収係の認証札です」
「これを使えば開けられるの?」
「開けたくないんです」
エルセは静かに答えた。
「少なくとも、今の状態では」
石扉の奥で、金属音が一つ響いた。
続いて、少し間を置いてもう一つ。
古い鍵が、順番に外れていくような音だった。
「……まずいな」
リオルが呟く。
エルセは金属札を握り、俺たちへ向き直った。
「今だけ、協力してください」
「……俺たちが?」
「はい」
「敵じゃないのか?」
俺が尋ねると、彼女は小さく息を吐いた。
「私は、あなたたちを敵だとは言っていません」
「第七係で戦っただろ」
「それは事実です」
「じゃあ、何なんだよ」
エルセは少し考えた。
「……仕事の邪魔をする人たちです」
「ほとんど敵じゃないか」
「違います」
「どこが?」
「今は、同じものを止めようとしているところです」
リゼが俺の袖を軽く引いた。
「セイン」
「何?」
「今は、それでよくないですか?」
俺は石扉を見た。
金属音はまだ続いている。
確かに、言い合っている場合ではなかった。
「……分かった」
俺は頷いた。
「何をすればいい?」
エルセは金属札を石扉へ向けた。
「管理者認証を一時的に偽装して、この区画を待機状態へ戻します。ただし、私の札だけでは足りません」
「何が必要なんだ?」
彼女は俺の左手を見た。
俺も、その視線を追う。
嫌な予感がした。
「……俺?」
「あなたの固有術です」
エルセははっきり答えた。
「〈返却〉が必要です」
その言葉を聞いた直後、扉の奥で、また一つ鍵が外れる音がした。




