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王都の返却士 ~その落とし物、世界のものです~  作者: 紙森 灯
第三章 誰も覚えていない男

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第四十六話 第七埠頭の受取人

 

 ラヴェルで迎えた最初の朝は、王都よりずっと騒がしかった。


 まだ窓の外が青白い時間だというのに、港の方角から鐘の音が聞こえ、続いて荷車の車輪が石畳を鳴らす。男たちが何かを叫んでいたが、言葉が重なっている上に、俺の知らない言語まで混ざっているらしく、何を話しているのかさっぱり分からなかった。


 それでも、仕事を始める人々の声だということは伝わってくる。


 王都では、朝の鐘が鳴ってから少しずつ街が動き始める。けれど、ここでは鐘が鳴る前から誰かが働いていて、鐘はその途中に聞こえてくるだけらしい。


 俺は寝台の上で身体を起こし、窓を開けた。


 湿った風が入ってくる。


 潮の匂いだった。


 昨日初めて海を見た時のことを思い出す。どこまで眺めても向こう岸がなく、空と水の境目に細い線だけが伸びていた。


 そして、その隣でリゼが何と言ったのかも覚えている。


『魚の匂いもします』


 思い出して、少し笑った。


 あれだけの景色を前にして、最初に口にしたのが魚の匂いなのだから、いかにもリゼらしい。


 もちろん、俺も大したことは言っていない。


 ただ、そのおかげで、初めて海を見た日のことはしばらく忘れそうになかった。


 今日は第七埠頭へ行く。


 ガディが記憶瓶を奪った後、その革箱を渡すはずだった場所だ。


 灰鴎亭という酒場で、誰かが箱を受け取る手はずになっていたらしい。


 もっとも、ガディは捕まり、箱は今も俺たちの手元にある。依頼主がいつまでも同じ場所で待っているとは思えなかった。


 それでも、誰があの仕事を頼んだのか、確かめる必要がある。


 それからもう一人。


 昨日、俺たちの宿を訪ねたという、灰色がかった髪の女。


 エルセかもしれない人物も気になっていた。


 ガディを雇ったのが彼女たちの組織なのか、それともまったく別の誰かなのか。


 考えながら顔を洗い、河船(かせん)でぶつけた膝を確かめる。


 痛みはほとんど残っていなかった。


「……今日は走らずに済むといいな」


 呟いてから、自分で少し嫌になった。


 そんな願い事をしなければならない仕事だっただろうか、返却士というのは。


     ◇


 一階の食堂では、リゼがすでに朝食を食べていた。


 薄く焼いたパンに魚の燻製、卵、それから柑橘の皮を浮かべたスープが並んでいる。


「……早いな」


 俺が言うと、リゼは顔を上げた。


「おはようございます」


「おはよう」


「セイン、髪がすごいことになっていますよ」


「……そう?」


「右側です」


 触ってみると、確かに少し跳ねていた。


 鏡の前では気づかなかったらしい。


「昨日の仕返し?」


「何のことですか?」


「海でお前の髪を笑っただろ」


「私は自然現象をお伝えしただけです」


 随分と便利な言い方を覚えたものだ。


 俺は向かいの席へ座り、朝食を頼んだ。


 リゼはスープを一口飲み、満足そうに頷く。


「これ、おいしいです」


「昨日から何でもおいしいって言ってない?」


「昨日のとは違うおいしさです」


「分類があるのか?」


「ありますよ」


 彼女は真面目に指を折った。


「毎日食べたいおいしさ、たまに食べたいおいしさ、それから旅先だからおいしいものです」


「最後だけ味と関係ないだろ」


「どこで食べるかも大事です」


 そう言われると、少し分かる気がした。


 昨日、防波堤で海を眺めた後に食べた夕食は、料理そのものだけでなく、知らない街へ来たという気分まで含めておいしかった気がする。


「……じゃあ、これはどれ?」


 俺が尋ねると、リゼはスープをもう一口飲んだ。


「毎日でも、たまにでも、旅先でもおいしいです」


「全部じゃないか」


「便利な料理ですね」


「お前の分類が便利なんだよ」


 リゼは笑った。


 その顔を見て、俺も少し気持ちが軽くなる。


 昨日の宿の帳簿には、きちんと『リゼ』と書かれていた。


 彼女が自分で選んだ名前だ。


 王都から何日も離れた場所でも、その名前で呼ばれ、泊まる場所を借り、こうして朝食を食べている。


 当たり前の光景なのに、俺には少し嬉しかった。


「……セイン」


「何?」


「パン、食べないんですか?」


 気づけば、俺の前にも朝食が運ばれていた。


「ああ、食べるよ」


「考え事してました?」


「少し」


「仕事のこと?」


「……半分くらい」


 リゼは不思議そうな顔をしたが、それ以上は聞かなかった。


 代わりに、パンをちぎってスープへ浸し始める。


 俺も同じようにして食べてみた。


 少し苦いスープと、薄く焼いたパンがよく合う。


「……うまいな」


「でしょう?」


「何でお前が得意そうなんだよ」


「先に発見したので」


 リゼが笑った。


 そういうことにしておこう。


     ◇


 食べ終わる頃に、リオルが食堂へ入ってきた。


 手には数枚の書類を持っている。


「おはよう」


「おはよう。早かったな」


「港湾警備隊へ寄ってた。ガディの件、少し分かったよ」


 リオルは椅子を引き寄せ、書類を机へ置いた。


 上には現地の警備隊の印が押されている。


「ガディ・モーンは、正式な荷役人だった。〈滑面(かつめん)〉で港湾術師組合に登録されていて、十五年間、港の仕事をしてる」


「十五年か」


「ああ。これまで大きな違反歴もない」


 俺は先日の光景を思い出した。


 重い木箱を滑らせるため、手袋を外して右手を当てていた男。


 床が滑る仕組みを利用して、本人も器用に移動していた。


 あの能力を荷役へ使うのなら、役に立つ場面は多いだろう。


「……普通に働いてた人なんだな」


「少なくとも、記録上はそうだね」


 リオルは頷いた。


「それから、依頼を仲介した組合にも照会をかけてある」


「そっちは?」


「依頼主の名前までは分からなかった。匿名契約なんだってさ」


「匿名?」


 リゼが聞き返した。


「荷主が自分の名前を出さずに、仕事の内容と報酬だけを登録する制度だよ」


「何のために?」


「商売の事情だな。例えば新しい商品をどこへ運ぶか、競争相手に知られたくない商人もいるだろ」


「……なるほど」


 確かに、名前を出さずに仕事を頼めること自体は不思議ではない。


 問題は、その仕組みを悪用した人間がいることだ。


「依頼書の写しをもらった」


 リオルが一枚の紙を広げた。


『作業区分:回収補助』


『指定物:茶色革箱 一個』


『破損禁止』


『内容確認禁止』


『受渡先:第七埠頭 灰鴎亭裏口』


『依頼者情報:非開示契約』


 俺は最初の行へ目を戻した。


「……回収補助」


「気になるよな」


「うん。エルセも回収係って言ってた」


 リゼが口を挟む。


「同じ組織なんでしょうか?」


「あり得る。でも、回収って言葉は普通の仕事でも使うからな」


 リオルは紙を畳んだ。


「だから確かめに行こう。先に店を見て、その後で組合の方も調べる」


「組合へは話を通してある?」


「ああ。港湾警備隊の照会書を借りられた。契約で守られている情報も、事件に関係する範囲なら確認できるはずだ」


「……頼もしいな」


 俺が言うと、リオルは顔をしかめた。


「何だよ、急に」


「警備隊って感じがする」


「普段は何だと思ってるんだ?」


「剣が強い幼なじみ」


「仕事もしてるからな」


 リゼが笑った。


「セインは荷物を返す担当、ティセラさんは調べる担当、リオルさんは警備と交渉の担当ですね」


「お前は?」


 俺が尋ねる。


「見つける担当です」


「何を?」


「なくなったものです」


 リゼは真面目に答えた。


 そう言われてみれば、確かに彼女らしい役割だった。


「……じゃあ、今日は頼むな」


「はい」


 嬉しそうな返事だった。


 そこへ、ティセラが資料筒を抱えて入ってきた。


「何の話?」


「今日の役割分担」


「私の役割は?」


「調べる担当」


「それ、いつも通りじゃない」


「一番向いてるだろ」


 ティセラは満足そうに頷き、朝食を注文した。


 俺たちの調査は、どうやら問題なく始められそうだった。


     ◇


 第七埠頭(だいななふとう)は、昨日下船した中央港の旅客用桟橋から、かなり南へ離れたところにあった。


 海沿いの道を歩くにつれ、街の雰囲気が少しずつ変わっていく。


 中央港では大きな石造りの倉庫が整然と並び、荷車の通る道も広かった。ところが第七埠頭の周辺は、古い建物の間へ新しい店を押し込んだように、道幅も軒先の高さも不揃いだった。


 煉瓦(れんが)を積み直した倉庫の隣に木造の船具屋があり、その向かいには外国貨幣を扱う両替所がある。


 港に近づくほど、足元の石畳は濡れていた。


 海水と、荷物から落ちた水が混ざっているのだろう。


「……下、気になります?」


 リゼが尋ねた。


「石畳が滑りそうだから」


「船でも滑りましたもんね」


「それは忘れてくれ」


「記憶って、思い通りにならないんでしょう?」


「……最近、その話を便利に使ってない?」


 彼女は笑った。


 俺は靴底で地面を確かめながら歩いた。


 古い港の石畳には、細かな凹凸が残っている。


 すり減っているところと、補修されたところの差も大きい。雨が降れば、何でもない道が急に歩きにくくなりそうだった。


 ガディも、こんな場所で長年働いてきたのだろう。


 あの男の〈滑面〉なら、重い荷物を運ぶ仕事だけでなく、自分自身が狭い通路を素早く移動する時にも役立つ。


 便利な術だと思う。


 だからこそ、それを船の甲板で使われた時の危険さもよく分かった。


「……セイン」


 ティセラが声をかけた。


「何?」


「さっきから靴ばかり見てない?」


「道を見てるんだよ」


「靴屋の息子らしいわね」


「靴屋の息子は道も見ないと駄目なんだ」


 そう答えると、ティセラは少し感心したような顔をした。


「……確かに、靴って履く場所によって減り方が違うものね」


「そうそう」


「古い建物の年代を調べる時にも、床の摩耗を見ることがあるわ」


「……そうなの?」


「ええ。人がどこを多く通っていたか、後から分かる場合があるの」


 今度は俺が少し感心した。


 別々のことを調べているようで、意外なところに共通点があるらしい。


「……今度、靴底の話も聞く?」


 俺が尋ねると、ティセラは少し考えた。


「必要になったらね」


「便利な返事だな」


 リゼが横で笑っている。


 そんな話をしているうちに、第七埠頭の一番奥へ着いた。


 灰色の鳥が魚をくわえた看板が、低い建物の入口に掛かっている。


『灰鴎亭(はいおうてい)』


 酒場というより、食堂と船員宿を一緒にしたような店だった。


 一階の大きな窓からは、すでに人の話し声が聞こえる。


 店の裏には細い荷物用の通路があり、数人の船員が木箱を運び込んでいた。


「……ここか」


 俺が呟くと、リオルが頷いた。


「まず店主に話を聞こう。裏口でいきなり張り込んでも、怪しまれるだけだからな」


「分かった」


 リゼは入口の看板を見上げている。


「灰色の鳥って、あの鳥ですか?」


「たぶん鴎だろ」


「本物もいます?」


「海の方に飛んでたぞ」


「……見逃しました」


「帰りに探すか」


 そう言うと、リゼは満足そうに頷いた。


 調査前から、帰りの予定が一つ増えた。


     ◇


 店内は、外から見るより広かった。


 長い卓が何本も並び、船員や荷役人が早い昼食を取っている。壁には古い航路図が掛けられ、柱には船の名前らしい文字がいくつも刻まれていた。


 魚を煮込んだ匂いと、焼いたパンの香りが混ざっている。


 リゼが小さく息を吸った。


「……いい匂いですね」


「まだ朝飯からそんなに経ってないぞ」


「お昼の下見です」


「調査が先だよ」


「分かっています」


 本当に分かっているのかは、少し怪しかった。


 店主は、太い腕を持つ中年の男だった。


 俺たちを一度見てから、リオルの制服へ視線を移した。


「王都の警備隊が、ここで何の用だ?」


「一昨日、河船で起きた事件の確認に来ました」


 リオルが現地警備隊の照会書を示すと、男の態度が少し変わった。


「……港湾警備隊には話が通ってるのか」


「はい。店にも確認させてもらうよう、許可を受けています」


「それなら構わん」


 店主は手を拭き、卓の端へ寄った。


「何を知りたい?」


「まず、昨日から今朝にかけて、この店で荷物の受け渡しが予定されていませんでしたか」


 リオルはガディの依頼書を見せた。


 店主は目を細める。


「知らんな」


「灰鴎亭の裏口が指定されています」


「裏口は毎日何十人も使う。食材も酒樽も、全部あそこから入れるからな」


「茶色い革箱一個なんですが」


「そりゃますます分からん」


 困ったような顔だった。


 嘘をついているようには見えない。


 少なくとも、店の誰もが荷物の受け渡しを把握しているわけではなさそうだった。


「……灰色がかった髪の女性を見ませんでしたか?」


 俺が尋ねた。


 店主の目がこちらへ向く。


「どんな女だ?」


「二十代後半くらいで、薄い色の外套を着ていると思います。落ち着いた話し方をする人です」


 最後は、俺が知っているエルセの印象だった。


 店主は少し考えた。


「……ああ。いたな」


 リオルが顔を上げる。


「いつです?」


「昨日の夕方と、今朝」


「二回来たのか」


「昨日は中で食事をしていた。今朝は裏口の方で誰かを待っていたようだったな」


「何か受け取っていました?」


「そこまでは見ていない」


 店主は答えてから、リゼへ目を向けた。


「そういえば、その子のことも聞いてた」


「……私ですか?」


 リゼが驚いた顔をする。


「白っぽい短い髪で、首に赤い封蝋のある少女が来たら分かるかってな」


 俺はリゼの首元を見た。


 間違いなく彼女の特徴だ。


「ほかには?」


 俺が尋ねる。


「一緒にいる若い男。王都の役人で、変わった返却の術を使うらしい」


「……俺ですね」


「そうかもしれん」


 店主は俺の手をちらりと見た。


 つい隠したくなったが、そんなことをすれば余計に怪しく見えるだろう。


「その女性、何をしたかったんですか?」


「さあな。ただ、一つ変な頼み事をされた」


「頼み事?」


「お前たちが来ても、物を渡さないでくれって」


 俺は聞き返した。


「……何も?」


「ああ。少なくとも、その少女と返却士には渡さないでくれと言っていた」


「理由は?」


「言わなかった」


 店主はカウンターの下を探り、一枚の紙片を取り出した。


「それと、これを預かった。誰かに見せるつもりだったのかは知らんが、お前たちの探してる相手に関係があるなら持っていけ」


 リオルが紙を受け取る。


 そこにはヴェルナ共通語で、一文だけ書かれていた。


『第七埠頭で受け取る予定の荷は、もう不要です。』


 署名はない。


 右下に、小さな印があった。


 三本の横線。


 その中央に、一つの円。


「……この印、知ってる?」


 俺がティセラへ尋ねる。


 彼女は紙を受け取り、窓から入る光へかざした。


「少なくとも、私が知っている術式の印ではないわね。商会のものかもしれないけど、断定はできない」


「エルセが書いたのかな」


「筆跡を知らないから、そこも分からないわ」


 リゼが紙を覗き込んだ。


「……もう不要って、瓶はいらなくなったんでしょうか?」


「どうだろう」


 俺は考えた。


 ガディが捕まったから、受け渡しの場所を変えたのかもしれない。


 別の誰かへ依頼することにしたのかもしれない。


 あるいは、最初からここで受け取るつもりなどなかったのか。


「……この店へ来させたかっただけ、って可能性もあるな」


 俺が言うと、リオルが頷いた。


「俺たちがガディから受け渡し場所を聞くことまで、計算していたってこと?」


「そこまでは分からない。でも、匿名で依頼を出すのに、わざわざ店名まで指定してるんだろ。見つけられて困る場所なら、もっと違うやり方もあったはずだ」


「なるほど」


 リオルが店内を見回す。


 長い卓。


 航路図。


 出入りする船員たち。


 特別なものは見当たらない。


 俺も同じだった。


 何が手がかりなのか、今のところ分からない。


 その時、窓際から低い声がした。


「その女、受け取りを断っていたぞ」


     ◇


 振り返ると、窓辺の席に老人が一人座っていた。


 日に焼けた顔に、白い顎髭(あごひげ)。


 左腕の袖は、肘より上で畳まれている。


 片腕のない老人だった。


 卓の上には小さな杯と、半分ほど残ったパンが置かれている。


 老人は杯をゆっくり回しながら、俺たちを見ていた。


「……昨日の女性を知ってるんですか?」


 俺が尋ねる。


「知り合いじゃない。だが、話は聞こえた」


 少し訛りのある王都語だった。


 店主が横から言った。


「こいつは昔から港にいる。サレーンの出だが、王都語も話せる」


 老人が軽く手を上げる。


「王都から来た返却士なんだってな」


「はい」


「変わった仕事だ」


「よく言われます」


「この港じゃ、物を返す人間より、運ぶ人間の方が多いからな」


 老人は小さく笑った。


 意味は少し分かる。


 ラヴェルでは、荷物を運ぶことが街の大きな仕事なのだ。


 俺が普段当たり前のようにやっている〈返却〉は、ここでは少し珍しいのだろう。


「それで、昨日の女性は誰と話していたんですか?」


 老人へ尋ねた。


「男だ。四十くらいだったな。左手に銀の指輪を三つつけていた」


「指輪を三つ?」


「ああ。珍しいから覚えている」


 店主が頷いた。


「それなら俺も見たぞ。女の後から入ってきて、しばらく何か話していた」


「何を?」


 リオルが尋ねる。


 老人は少し考えた。


「仕事の話だろうな。男の方は、契約だとか、予定が違うだとか言っていた」


「女性は?」


「最初は黙って聞いていた」


 老人は杯を置いた。


「それから、はっきり言ったんだよ。『私は受け取らない』と」


 俺たちは顔を見合わせた。


 もしそれがエルセなら、彼女は何かを受け取る役目を拒んだことになる。


「……理由は?」


 俺が尋ねる。


「全部は聞こえなかった。ただ、男がもう一度何か言ったら、女が少し怒った」


「怒った?」


「ああ。声は荒げなかったけどな。言い方で分かる」


 老人は一拍置いた。


「『人を使って取るなら、それは回収じゃなくて盗みです』。そう言ってた」


 俺は何も言えなかった。


 船でガディがしたことを思い出す。


 金を受け取った荷役人が、俺たちの箱を奪うために〈滑面〉を使った。


 そのせいで大勢の乗客が転び、サレーンの少女は川へ落ちかけた。


 ガディは、そこまで危険になるとは思っていなかったと言った。


 けれど、実際に危険な目に遭った人間はいる。


 あれを回収の仕事だと言われても、俺には納得できない。


 だからこそ、エルセらしき女性が同じことを言ったのが意外だった。


「……その男、何て答えたんです?」


 俺が尋ねる。


「細かいところまでは分からん。ただ、女に向かって『お前の仕事だろ』とは言ってたな」


「それで?」


「女がこう返した」


 老人は少しだけ目を細めた。


「『仕事だからこそ、区別するんです』」


 今度は、俺の方が先に黙った。


 エルセが第七係へ来た時、彼女は瓶を回収することが仕事だと言っていた。


 中身は聞かない。


 指定された場所へ運ぶ。


 そういう規則に従っている人間だった。


 でも、何でも引き受けるわけではないらしい。


 自分の仕事として認められることと、認められないことが、彼女の中にはある。


 少なくとも、老人の話が本当なら。


「……エルセさん、でしょうか」


 リゼが小声で言った。


「そうかもしれない」


 俺は答えた。


「でも、同じ特徴の人だった可能性もあるからな」


「はい」


 リゼは頷いた。


 その慎重さが、少しありがたかった。


 エルセをすぐ味方だと思うわけにはいかない。


 俺を助けてくれたことも、瓶を奪おうとしたことも、どちらも本当なのだから。


 ただ、次に会った時は、もう少しちゃんと話を聞いてみたいと思った。


「……それで、その二人は?」


 リオルが尋ねる。


「男の方が先に出ていった。女は少し後だ」


「どちらへ?」


 老人は窓の外を指した。


「西だな」


「旧西倉庫区?」


「その方向だ」


 俺はティセラを見た。


 彼女も同じことを考えているらしい。


 旧西倉庫区には、俺たちが最初から調べようとしていた建物がある。


 旧西税関第四保管庫。


 二十八年前、ローディス・フェンが名前の分からない同行者とともに訪れた場所だ。


 そこへ向かったこと自体は偶然かもしれない。


 ただ、手がかりが一つ増えたことは確かだった。


     ◇


 店を出る前に、俺は老人へ頭を下げた。


「ありがとうございました」


 それから、ふと思い出して付け加えた。


「……サーヴァ」


 老人が目を丸くした。


 すぐに、低い声で笑い始める。


「発音が王都だな」


「そんなに違います?」


「かなり」


 恥ずかしい。


 隣では、リゼが楽しそうに笑っている。


「昨日、私も直されました」


「お前だって同じじゃないか」


「でも、今日は少し上手になりました」


「一日で?」


「練習したので」


 老人がサレーン語で何かを言った。


 もちろん、俺には分からなかった。


 店主が笑いながら訳してくれる。


「似た者同士だってさ」


「違います」


 俺とリゼの声が重なった。


 一瞬、店の中が静かになる。


 その後、老人と店主が揃って笑った。


「……やっぱり似てるんじゃないか」


 リオルまで言い始めた。


「お前は黙っててくれ」


「そうですよ」


 今度も声が揃ってしまい、余計に笑われることになった。


 これ以上反論しても無駄らしい。


 俺は礼を言い、店を出た。


 港の風が、酒場の熱気を一気に冷ましてくれる。


 リゼが隣で小さく笑っている。


「……まだ笑う?」


「だって、面白かったので」


「お前も同じこと言っただろ」


「そうでしたね」


 彼女は少しだけ考えた。


「じゃあ、似てるんでしょうか」


「……そこは否定してくれよ」


「似ていて困ります?」


 俺は返事に詰まった。


 困る、というほどでもない。


 むしろ少し嬉しい気もする。


 それを顔に出さないよう、俺は道の先を見た。


「……次、組合だな」


「話を変えましたね」


「仕事だから」


 リゼは笑った。


     ◇


 灰鴎亭を出た俺たちは、そのまま旧西倉庫区へ向かわず、先に港湾術師組合の第七埠頭支所を訪ねることにした。


 これはリオルの提案だった。


「匿名依頼の記録を確かめよう。依頼主の名前が出なくても、金の払い方や受付時間なら残ってるかもしれない」


「……警備隊らしい考え方だな」


 俺が言うと、リオルは呆れた顔をした。


「お前、本当に普段の俺を何だと思ってる?」


「剣が強い奴」


「ほかには?」


「……靴を雑に扱う奴」


「そこは今関係ないだろ」


 俺は笑った。


 だが、リオルの判断は正しいと思う。


 今日の調査では、灰鴎亭にエルセらしき女性が来ていたことと、荷の受け取りを拒んだらしいことが分かった。


 しかし、それがガディへの依頼とどうつながるのかは分からない。


 組合の記録を調べれば、少なくとも仕事がいつ、どんな形で登録されたのか確認できる。


「……ティセラ、どう思う?」


 俺が尋ねる。


「賛成よ。依頼を受け付けた場所と、実際の受け渡し場所が違う可能性もあるもの」


「じゃあ決まりだな」


 リゼも頷いた。


「はい。私も行きます」


「もちろん」


 港湾術師組合の支所は、大きな倉庫の一階にあった。


 入口を入ると、壁一面に木札が掛けられている。


『荷役』


『乾燥』


『計量』


『防水』


『浮上』


『冷却』


『索引』


『清掃』


 その下には、依頼内容と報酬を書いた札が何枚も並んでいた。


 仕事を探す術師が札を手に取ると、受付の職員が帳簿で確認し、契約の手続きを進めている。


 王都の仕事紹介所にも似た場所はある。


 けれど、ここに並んでいるのは職種だけではない。


 人が生まれ持った固有術そのものが、仕事の条件になっている。


「……俺の〈返却〉なら、どこに入るんだろう」


 思わず呟いた。


 リゼが横から札を見上げる。


「特殊案件、でしょうか」


「そんな分類あるのか?」


「今、考えました」


「……そうか」


「でも、いいと思いません?」


「何でも引き受けることになりそうで嫌だな」


「今も似たようなものですよ」


 それは少し否定できなかった。


 ティセラは仕事札を興味深そうに眺めていたが、リオルが照会書を取り出すと、すぐにこちらへ戻ってきた。


 受付にいたのは、二十代半ばくらいの青年だった。


「すみません。一昨日、河船で起きた事件について確認させてください」


 リオルが書類を示す。


 青年は丁寧に受け取り、内容を読んでから頷いた。


「依頼番号をお願いします」


 リオルがガディの依頼書を渡した。


 青年は厚い帳簿をめくり、該当する番号を探し始める。


「ああ、こちらですね」


 指が止まった。


「ただ、依頼主のお名前は非開示契約になっています」


「事件の調査でも確認できませんか?」


「正式な照会なら、開示できる範囲があります。少々お待ちください」


 青年は別の帳簿を取り出した。


 どうやら港湾警備隊の書類が役に立ったらしい。


「……依頼は一昨日の朝、中央支所を通じて登録されていますね」


 俺は日付を確かめた。


 ガディが河船で襲ってきたのは昨日のことではなく、ラヴェルへ着く前の日だ。依頼がその前に登録されたのなら、時系列としては合っている。


「報酬は?」


 リオルが尋ねる。


「前払いが半分。残りは受け渡し完了後です」


「支払い方法は?」


「銀行の保証票を使っています」


 青年は記録を確認した。


「発行元は、ラヴェル商業銀行《ラヴェルしょうぎょうぎんこう》……」


 そこまで読んで、少し眉を寄せた。


「……おかしいですね」


「何がです?」


「この銀行名、古いんです」


 青年が帳簿の一行を指した。


「十二年前に名前が変わって、今はラヴェル中央商業銀行《ラヴェルちゅうおうしょうぎょうぎんこう》になっています。旧名義の保証票は、新しく発行されないはずなんですが」


「昔発行されたものを、ずっと持っていたとか?」


 俺が尋ねると、青年は首を振った。


「それなら有効期限を確認します。契約には保証の期限が必要なので。でも、この記録には受理印が押されています」


「つまり、古い保証票なのに通ってる?」


「そうです。少なくとも、確認すべきところが確認されていない可能性があります」


 リオルが身を乗り出した。


「受理した職員は誰ですか?」


「少々お待ちください」


 青年が帳簿をめくった。


 一枚目。


 二枚目。


 三枚目。


 そこで、指が止まった。


「……あれ?」


「どうしました?」


「担当者欄が、空いています」


 俺たちも帳簿を覗き込んだ。


 受付日時。


 依頼番号。


 報酬。


 保証票の発行元。


 そのすべてが記録されているのに、受付担当者の名前だけがない。


「……記入忘れですか?」


 ティセラが尋ねる。


「そんなはずは……」


 青年は困惑した顔で別の記録を確認した。


「確認印は押されています。だから、誰かが受付をしたはずなんです」


「一昨日の朝、ここには誰がいた?」


 リオルが静かに尋ねた。


「僕と、主任と、それから……」


 青年の声が途切れた。


 何かを思い出そうとするように、視線が宙を泳ぐ。


「……もう一人、いました」


「名前は?」


「……え?」


 青年が顔を上げた。


 今度は質問の意味が分からなかったわけではないらしい。


 自分が答えられないことに、驚いている顔だった。


「一緒に働いていた人ですよね」


 俺が言う。


「はい」


「毎日?」


「……はい。少なくとも、昨日までは」


「名前を覚えていない?」


 青年の顔から、少しずつ血の気が引いていった。


「……そんな」


 かすれた声だった。


「昨日も話したはずなんです。昼の休憩も一緒で、その人が……」


 そこで、また言葉が止まった。


 俺は何も言えなかった。


 知っている。


 こういう顔を、俺は以前にも見た。


 リゼが自分の名前を失った時。


 そして、青鐘通りで誰かの存在が消えた時。


 あるはずのものが、突然思い出せなくなる。


 覚えていたことまで、最初からなかったようになってしまう。


 その混乱を、目の前の青年は今、味わっている。


「……リゼ」


 小さく呼んだ。


 彼女はすでに帳簿を見ていた。


 笑顔は消えている。


「どう?」


 尋ねると、リゼは少しだけ首を傾げた。


「……あります」


「なくなった跡?」


「はい。でも、青鐘通りの時とは少し違います」


 彼女は帳簿の空白を見つめている。


「誰かがいたことは、残っているように感じます。なのに、その人を呼ぶためのところだけ、うまくつながっていないような……」


「名前か?」


「そうかもしれません」


 彼女はすぐには頷かなかった。


「ただ、私にも正確には分からないです。何があったのかも、その人が今どこにいるのかも、見えません」


 その言葉を聞いて、俺は頷いた。


 以前なら、何が失われているのかを確かめようとして、すぐ〈返却〉へ手を伸ばしたかもしれない。


 けれど、まだ本人がどこにいるのかさえ分からない。


 何より、誰の意思で名前が失われたのかも不明だ。


「……その人の机、残ってますか?」


 俺は青年へ尋ねた。


「机?」


「昨日まで一緒に働いていたなら、仕事道具や荷物が残っているかもしれません」


 青年は少し考えた。


 それから、ゆっくり頷いた。


「……あります。こっちです」


     ◇


 青年が案内してくれたのは、支所の奥にある小さな事務室だった。


 窓際に三つの机が並んでいる。


 そのうちの一つを、青年が指した。


「ここです」


 机の上には、筆記具と帳簿が置かれていた。


 印章を入れた木箱があり、椅子の背には薄い上着が掛かっている。


 小さな昼食箱も残っていた。


 蓋には、何度も開け閉めしたらしい傷がついている。


 すぐに戻ってくるつもりで席を立った人間の机に見えた。


「……今日、来てないんですか?」


 リオルが尋ねた。


 青年は首を振った。


「朝から姿を見ていません。でも、昨日までは本当にいたんです」


「無断欠勤?」


「そんなこと、これまで一度も……」


 言いかけて、青年は口を閉じた。


 自分が何を覚えているのか、急に自信を失ったようだった。


「……すみません。僕、変なことを言っていますよね」


「そんなことないですよ」


 俺は答えた。


「一緒に働いていた人がいたことは、覚えているんでしょう?」


「……はい」


「なら、その人がいたことまで間違いだと決めなくていいと思います」


 青年は顔を上げた。


「名前が思い出せないからって、いなかったことにはならないでしょう」


 言ってから、少し胸が痛んだ。


 青鐘通りの広場で、誰かと盤遊びをしていたはずなのに、その相手を思い出せなくなった時のことが頭へ浮かんだ。


 名前も顔も声も覚えていない。


 それでも、誰かがそこにいたという感覚だけは、今も残っている。


「……そう、ですよね」


 青年は小さく頷いた。


 俺は机の上を見た。


「少し調べてもいいですか? 勝手には触らないので」


 青年がリオルの照会書を見てから答える。


「はい。僕も、その人がどこへ行ったのか知りたいです」


 俺たちは、職員の立ち会いのもとで机を確かめることにした。


 ティセラは帳簿を開いている。


 リオルは青年へ、最後に同僚の姿を見た時間を聞いていた。


 リゼは上着の掛かった椅子のそばで、じっと目を閉じている。


「……何か分かる?」


 俺が尋ねる。


「ここにも、なくなった跡があります」


「名前?」


「同じものに近いと思います。でも、文字が読めるわけではないので」


 彼女は椅子の背へ目を向けた。


「ちゃんと人がいた場所なのに、その人を呼ぼうとすると、途中で止まってしまう感じです」


 俺は上着を見た。


 少し古びているが、丁寧に使われていた。


 襟元には小さな補修の跡があり、袖口も擦り切れる前に縫い直されている。


 この上着を着ていた人間がいる。


 その人は仕事へ来て、同僚と話し、昼食を食べ、昨日までここで暮らしていたはずだ。


 なのに、今は名前だけが誰の口からも出てこない。


「……ティセラ」


 俺が呼ぶと、彼女が顔を上げた。


「何?」


「記録には何か残ってる?」


「仕事の内容は残っているわ。担当した依頼番号も、使っていた印章も。ただ、本人の名前が書かれるはずの欄が不自然に空いている」


「ほかの書類も?」


「今見た範囲ではそうね」


 彼女は帳簿を閉じた。


「でも、何かが本当に消されたのか、それとも最初から記入されていなかったのか、見た目だけでは判断できないわ」


「……そうだな」


 俺は頷いた。


 目の前で起きていることを、すぐ二十八年前の事件と同じものだと決めつけたくはなかった。


 ただ、名前のない人間がいる。


 少なくとも今、それは現実に起きている。


 それだけでも、放っておく理由にはならなかった。


     ◇


「……あれ?」


 机の横を通り過ぎようとした時、俺は足を止めた。


 椅子の下に、靴が一足置かれている。


 古い革靴だった。


 濡れた道を歩くためのものだろう。靴底には深めの溝があり、革の表面には水を弾くための手入れが施されている。


 ただ、左足側だけ、踵の外側が少し変わった減り方をしていた。


「……替えの靴かな」


 しゃがみ込んで覗く。


 仕事場の椅子の下へ置いてあるのだから、雨の日や作業で靴が濡れた時に履き替えるものかもしれない。


 靴屋の家で育ったせいか、こういうものを見ると、つい手が止まってしまう。


 俺は青年へ尋ねた。


「この靴、見てもいいですか?」


「……靴ですか?」


「はい」


 青年は少し戸惑った後、頷いた。


「どうぞ」


 俺は革靴を手に取った。


 底の縫い目はまだ丈夫で、革も柔らかい。


 雨用にしては少し重いが、履き心地は悪くなさそうだった。


 それから、何となく履き口を広げた。


 靴屋の工房では、修理へ出された靴がほかの人のものと混ざらないよう、内側に名前や目印を書くことがある。


 この靴にも、何か書かれているかもしれない。


 そう思っただけだった。


 けれど、そこには本当に文字があった。


 小さく、少し滲(にじ)んだ文字。


 何度も履いたせいで薄くなっているが、まだ読める。


「……待って」


 声が出た。


 リゼが隣へ来る。


「何です?」


「ここ」


 俺は靴の内側を見せた。


 彼女が身を屈める。


 そこには、一人の名前が書かれていた。


『マーロ・ディン』


 俺はしばらく、その文字を見つめた。


 もう一度読み返しても、消える気配はない。


「……名前がある」


 小さく呟いた。


 その声を聞いて、リオルが振り返った。


「何?」


「この靴の内側に、名前が書いてあるんだ」


 青年職員が近づいてくる。


 俺は靴を少し持ち上げ、尋ねた。


「マーロ・ディンって人、知っていますか?」


 青年は名前を聞いた瞬間、顔をしかめた。


「……誰です?」


 俺は答えなかった。


 リゼも、言葉を失っている。


 青年は靴に書かれた文字を見つめた。


「その人が、ここの職員なんですか?」


「……まだ分かりません」


 俺は答えた。


「でも、この靴は、昨日までここで働いていた人のものかもしれない」


 青年はもう一度文字を読み、それから自分の机の方へ視線を戻した。


 何かを思い出そうとしているようだった。


 けれど、少なくとも今は、名前を聞いても顔が浮かばないらしい。


「……マーロ・ディン」


 自分でもう一度読んでみる。


 名前は残っている。


 帳簿にはない。


 同僚も思い出せない。


 それなのに、仕事場へ置かれた古い靴の内側には、まだ文字がある。


 消えるものと、消えないものがあるのだろうか。


 それとも、誰かがこの靴だけを見落としたのだろうか。


 今の俺には分からなかった。


 ただ、名前が一つ残っていることは確かだ。


「……リゼ」


「はい」


「札、ある?」


 彼女はすぐに腰へ手を伸ばした。


 いくつもの真鍮札が触れ合い、小さな音を立てる。


「あります」


 空いている札を一枚取り外し、筆記具を取り出した。


「……マーロ・ディン、ですね」


「ああ」


 俺は靴の内側をもう一度確かめる。


 リゼは文字を一つずつ、丁寧に書いていった。


 最後の一文字を書き終えると、札を両手で持ち上げる。


『マーロ・ディン』


 名前が二つになった。


 靴の内側に一つ。


 リゼの真鍮札に一つ。


 それで本人を見つけられる保証はない。


 けれど、少なくとも俺たちは、探す相手の名前を一つ手に入れた。


「……この靴、少し預かってもいいですか?」


 俺は青年へ尋ねた。


「本人を探す手がかりにしたいんです。必ず記録を残しますし、返すつもりです」


 青年は少し考え、リオルの照会書へ目を向けた。


「警備隊の方が預かる形なら、手続きできます」


 リオルが頷く。


「じゃあ、俺の方で預かり記録を作る。見つかったら本人へ返そう」


「……ありがとう」


 俺は靴を両手で持った。


 古い革の感触が、掌に残る。


 靴屋の息子でよかったと思う日が、こんな形で来るとは思わなかった。


 リゼが真鍮札を腰へ戻した。


 小さな金属音がする。


 その音を聞きながら、俺はもう一度、空いたままの机を見た。


 ここには昨日まで、一人の人間がいた。


 仕事をして、昼食を食べて、帰り支度をした。


 その人の名前を、今は誰も思い出せない。


 けれど、世界のすべてから消えたわけではなかった。


 まだ残っている。


 そして、本人もどこかにいるかもしれない。


「……まず、マーロを探そう」


 俺が言うと、リオルが頷いた。


「ああ。ほかの記録を調べるのは、その後でもいい」


 ティセラも同意した。


「この名前が、どうして靴には残っているのかも気になるわ。でも、本人が見つかれば分かることもあるでしょうね」


 リゼは腰の札へ手を添えた。


「はい。ちゃんと、本人に聞きましょう」


 俺は頷いた。


 二十八年前、四十二人が忘れた男。


 ローディスが調べていた事件。


 旧西税関第四保管庫。


 それらを追ってラヴェルへ来たはずなのに、今はもっと近くに探すべき人がいる。


 昨日まで、当たり前にここで働いていた誰か。


 名前を呼んでもらえなくなった、マーロ・ディン。


 俺たちの調査は、もう単なる古い事件の調査ではなくなっていた。


 この街で今、起きていることを確かめなければならない。


 そのために、まず一人を見つけたい。


 リゼの真鍮札が、もう一度小さく鳴った。


 俺はその音を聞きながら、古い革靴をそっと布で包んだ。

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