第四十五話 海を、忘れない
海を見たことがない人間に、海の大きさを説明するのは難しいらしい。
父が昔、そんなことを言っていた。
俺はその時、少し大げさだと思った。大きな湖なら絵で見たことがあるし、王都を流れる川だって、橋の上から眺めれば向こう岸が遠く感じられる。海はその何倍か広い水なのだろうと、勝手に想像していた。
けれど、その朝、河船の甲板へ出た俺は、父に謝りたくなった。
海の大きさを、俺は何も分かっていなかった。
◇
ラヴェルが近づいていると知ったのは、朝食の少し前だった。
昨夜から続いていた川の流れが穏やかになり、船の周囲に見える船影が増えている。貨物を高く積み上げた船が上流へ向かい、色の違う帆を張った船がその間をすり抜けていった。
遠くには、何十本もの帆柱が立っている。
あまりに数が多くて、最初は岸辺に細い森があるのかと思ったほどだった。
「セイン、見てください」
先に甲板へ出ていたリゼが、俺へ手を振った。
朝から風が強い。
彼女の短い月白色の髪は、右側だけ盛大に跳ね上がっていた。
「おはよう」
「おはようございます。もうすぐ着くそうですよ」
「らしいな」
「楽しみですか?」
「ああ。お前は?」
「もちろんです」
そう答えてから、彼女は俺の右膝へ目を向けた。
「傷、どうですか?」
「昨日よりずっといいよ。歩く分には問題ない」
「本当ですか?」
「本当」
「走るのは?」
「たぶん大丈夫」
「じゃあ、今日は走らないでくださいね」
「……何で走る前提なんだよ」
「昨日、船の中で走っていたので」
「あれは仕方なかっただろ」
「今日は仕方なくならないといいですね」
まったく同感だった。
俺はリゼの隣へ立ち、手すりに片手を置いた。
水の色が昨日と違う。
深い緑だった川面は、ところどころ青灰色へ変わっていた。水の上を渡ってくる風にも、木や土とは違う匂いが混ざっている。
塩気のある、湿った匂いだ。
「……海の匂いって、こんな感じなんだな」
俺が言うと、リゼは鼻を動かした。
「魚の匂いもします」
「確かに」
「あと、焼いた何か」
「まだ朝なのに?」
「港の人は早起きなのかもしれません」
リゼは真面目に答えた。
もっとも、俺も腹が減っていた。朝食はこれからなのだから、焼いた何かの正体が気にならないわけではない。
「……朝飯は食べた?」
尋ねると、リゼは首を振った。
「まだです」
「珍しいな」
「海を先に見たかったので」
その返事は、少し意外だった。
この数日、食事の時間が来ると誰よりも早く席へ着いていたのに、今日は船の外を見ている方が大事らしい。
「じゃあ、あとで一緒に行くか」
「はい」
リゼは頷き、また前方へ顔を向けた。
その先で、船がゆっくり左へ曲がり始めた。
これまで正面を塞いでいた低い丘が、少しずつ右へ流れていく。
その向こうから、まぶしい光が差し込んだ。
そして、川の岸が途切れた。
◇
水面が、どこまでも続いていた。
最初は何が起きたのか分からなかった。
川が急に広がったのだと思ったが、そうではない。進行方向の向こうには、もう対岸がなかった。
遠くの水と空との間に、かすかな線がある。
その線の向こうには何も見えない。
左側にはラヴェルの海岸線が少しずつ現れ、右側には沖へ向かう船がいくつも浮かんでいた。けれど正面の水面だけは、どれだけ目を凝らしても終わる気配がない。
海だった。
俺は手すりを握ったまま、しばらく何も言えなかった。
昨日、大河を見た時も驚いた。
あれほど幅の広い川があるのかと思ったし、船の上から見る景色は、王都で知っていた水辺とはまったく違っていた。
なのに、今目の前にあるものは、その川の大きさまで小さく見せてしまう。
「……セイン」
リゼが呼んだ。
「何?」
「これが、海ですか?」
「ああ」
「本当に?」
「……たぶん」
彼女はこちらを向いた。
「また、たぶんです」
「今度は合ってるだろ」
「私もそう思います」
二人で少し笑った。
けれど、すぐに言葉が途切れた。
船が海とつながった広い湾へ進んでいく。
風が強くなり、波が船体を叩く音も少し変わった。川の上では細かく響いていた水音が、今はもっと低く、大きな呼吸のように聞こえる。
俺は第七係で、あのガラス瓶へ触れた時のことを思い出した。
瓶の中から聞こえた波。
知らない港町の匂い。
黒い髪の女と、木彫りの玩具ではなく、硬いパンの端を握っていた小さな男の子。
あの時、俺は誰かの記憶を通して海の気配を知った。
だが、今目の前にある景色は違う。
誰かの目を借りているわけではない。
俺自身が見て、風を感じている。
「……すごいな」
ようやく言葉が出た。
リゼは頷いた。
「はい」
「思ってたより、ずっと広い」
「私もです」
「それに、何か」
「はい」
彼女がこちらを見る。
「……何か、すごい」
自分でも情けない感想だと思った。
けれど、リゼは笑わなかった。
「分かります」
そう答えて、また海を見る。
「私も、上手に言えません」
それでよかった。
今見ているものを、無理に言葉へ押し込める必要はないのだろう。
しばらくして、リゼがそっと手すりへ額を近づけた。
「……セイン」
「うん」
「これ、忘れたくないです」
声が少し小さくなっていた。
俺は横顔を見た。
風で髪が乱れていることにも気づかず、リゼは海を見つめている。
彼女は、自分の過去を覚えていない。
海を見たことがあったのかもしれないし、なかったのかもしれない。以前の彼女がどんな場所を好きで、どんな景色を見ていたのかも分からない。
それでも、今この瞬間の気持ちだけは確かなのだろう。
「……俺も覚えとくよ」
言うと、リゼがこちらを向いた。
「セインも?」
「ああ」
「何をです?」
「お前が海を見て、魚の匂いがするって言ったこと」
リゼは少し不満そうな顔をした。
「もっといいことも言いました」
「海ですか、って聞いてた」
「それも大したことじゃありませんね」
「俺も大したこと言ってないよ」
「そうですね」
「そこは否定してくれよ」
彼女は笑った。
俺も笑いながら、もう一度海を見る。
「でも、本当に覚えてると思う」
「どうして?」
「こういうの、案外忘れないから」
子供の頃、父が工房で鼻歌を間違えたこと。
兄と昼飯の取り合いをしたこと。
リオルと初めて遠くまで歩いた日に、帰り道で雨が降ったこと。
大事な出来事だから覚えているというより、何でもなかったはずの光景が、ふとした時に戻ってくる。
記憶は、いつも自分にとって重要な順番で残るわけではないらしい。
「……じゃあ、私も覚えます」
リゼが言った。
「何を?」
「セインが初めて海を見て、『何か、すごい』って言ったことです」
「もうちょっと格好よく言えばよかった」
「今さらです」
「忘れてくれてもいいぞ」
「嫌です」
彼女は楽しそうに笑った。
その瞬間、強い風が吹き抜けた。
リゼの髪が片側だけ大きく持ち上がる。
俺は思わず吹き出した。
「……何です?」
「いや、髪が」
「髪?」
「鳥みたいになってる」
「鳥?」
「ああ。今にも飛んでいきそう」
リゼが慌てて両手で髪を押さえる。
だが、風が吹くたびに、別のところが跳ね上がってしまう。
「何で早く言ってくれなかったんですか!」
「海見てたから」
「絶対笑ってましたよね」
「ちょっと」
「ひどい!」
肩を軽く叩かれた。
俺は笑いながら謝った。
大きな海を初めて見た日に、何をしたかと聞かれたら。
きっと俺は、目の前の青い景色だけでなく、風に髪を乱されたリゼが怒っていたことまで思い出すのだろう。
それも悪くないと思った。
◇
ラヴェルの街がはっきり見え始めたのは、それからしばらくしてだった。
最初は海岸に白い建物が帯のように並んでいるだけだったが、近づくにつれて、街がその奥の丘へ向かって広がっていることが分かった。
王都とは違う形の街だ。
王都は城壁の内側に建物が密集している。遠くから見ると、巨大な一つの建造物のようにも見える。
ラヴェルには、少なくとも俺たちの見える範囲に、街を囲む大きな壁がなかった。海岸沿いに倉庫や商館が続き、そこから坂道が何本も丘へ伸びている。
海の方へは、長い防波堤が突き出していた。
その内側には船が何十隻も停泊し、さらに奥では帆柱が森のように重なっている。
「あれ、全部港なんですか?」
リゼが尋ねた。
「そうみたいだな」
「広いですね」
「ああ。……どこからどこまでが港なんだろう」
自分でも少し間抜けな疑問だと思った。
しかし、どの建物にも船や荷物が関わっているように見えるのだから、境目が分からない。
その時、後ろからティセラが声をかけた。
「ラヴェルは、港ごとに役割が違うのよ」
いつの間にか甲板へ上がってきていた。
「外国船を受け入れる場所、漁船が集まる場所、大型貨物を扱う場所。それから河船の発着場もあるわ」
「全部つながってるの?」
「陸ではね。海上では水路が分かれている場所もあるけど」
ティセラは街の南側を示した。
「第七埠頭は、あのあたり。古くから使われていた荷揚げ場が残っている区域よ」
目を凝らしたが、船や倉庫が多すぎて、どれなのか分からなかった。
「昨日ガディが言ってた場所だな」
「ええ。灰鴎亭も、その近くでしょうね」
リゼがすぐに顔を上げた。
「灰鴎亭って、食堂ですか?」
「酒場だって聞いたよ」
俺が答える。
「食べ物は?」
「あるんじゃないか」
「じゃあ、調査しやすいですね」
「どういう意味だよ」
「食事をしながら話を聞けます」
妙に実用的な提案だった。
ティセラまで少し笑っている。
「……でも、今日いきなり行くのはやめよう」
俺が言うと、リゼは首を傾げた。
「どうしてですか?」
「まだ街のことも分からないし、ガディを雇った人間が待っているかもしれないだろ。港の警備隊と話してからにしたい」
昨日、船の上で起きた騒ぎを思い出す。
普通の荷役人が金を受け取り、自分の固有術で大勢の人を危険にさらした。
しかも、依頼主は俺たちの人数や荷物の特徴を知っていた。
見知らぬ土地へ来たからといって、誰にでも話を聞けばいいわけではない。
「……慎重ですね」
リゼが言った。
「悪いか?」
「いいえ」
彼女は笑った。
「少し安心します」
ティセラも頷いた。
「私も、先に原本と現地の記録を照合したいわ。旧西税関第四保管庫が今どうなっているか、確認しないと」
俺は街の西側へ目を向けた。
二十八年前、ローディス・フェンが名前の分からない同行者を連れて訪れた建物。
あの記録がなければ、俺たちはラヴェルのどこから調べればいいのかさえ分からなかった。
今はそこに加え、第七埠頭と灰鴎亭という別の手がかりまである。
調べる場所が増えた分、順番を間違えないようにしたかった。
「……あれを見て」
ティセラが言った。
港の一角で、大きな木箱が二つ、地面からゆっくり浮き上がっている。
そばに立つ荷役人が手を上げると、箱は二階の倉庫へ向かって移動した。
別の場所では、濡れた帆から白い水蒸気のようなものが立ち上り、あっという間に乾いていく。
「……すごいな」
俺は呟いた。
「王都でも固有術を使って働く人はいるけど、こんなに一度には見ない」
「ここでは珍しくないのよ。港の仕事は重くて大きいものを扱うから、能力の使い道も多いの」
ティセラは少し楽しそうだった。
「荷物を浮かせる人も、重さを確かめる人も、湿気を抜く人もいる。能力を持つ本人が、どういう仕事に使うか選べるなら、いろんな働き方ができるでしょうね」
俺は荷物を運ぶ人々を見た。
昨日のガディも、普段はこうして仕事をしていたのだろう。
〈滑面〉は便利な能力だった。
悪いのは、あの力そのものではない。
使う人間が、何のために、どう使うかだ。
そのことを、もう一度考えさせられた。
◇
河船が着いたのは、中央港の旅客用桟橋だった。
船員の案内に従って下りると、足元の石が少し揺れているように感じられた。長く船へ乗っていたせいなのか、膝の怪我のせいなのか、最初はうまく分からなかった。
「……地面が動いてる」
俺が言うと、リオルが笑った。
「船から降りたばかりだからな」
「お前は平気?」
「少し変な感じはするよ」
「じゃあ同じじゃないか」
「俺は立ってられるけど」
「俺も立ってるだろ」
リゼがこちらを見た。
「セイン、船に負けました?」
「勝負してないよ」
「私は勝ちました」
「お前は最後まで元気だったな」
彼女は得意そうに笑った。
一方、ティセラは荷物を運ぶ船員へ何度も礼を言っている。
例の木箱と資料が、ようやく全部下ろされたところだった。
「……本当に持ってきたんだな、全部」
俺が呟くと、ティセラは聞き逃さなかった。
「必要なものばかりよ」
「分かってる。分かってるよ」
そう答えながら、俺は革箱の封を確認した。
記憶瓶は無事だった。
昨日の襲撃を受けて、箱はティセラの管理下に置かれ、誰か一人が離れる時は別の者がそばにいるようにしていた。
船を降りても、警戒を解くつもりはない。
リオルは港の警備隊へ事情を説明し、ガディの身柄を引き渡すため、船長と一緒に詰所へ向かった。
俺たちは荷物をまとめながら、その手続きが終わるのを待った。
周囲には、聞き慣れない言葉が絶えず飛び交っている。
河港で覚えたサレーン語の「サーヴァ」だけが、時々耳に引っかかった。
「……今、言いましたよね」
リゼが小声で言う。
「ああ。俺にも聞こえた」
「サーヴァです」
「そうだな」
「一語しか知らないのに、分かりました」
彼女は嬉しそうだった。
俺も少し分かる。
王都を出るまでは何一つ意味を持たなかった声が、今日はほんの一部分だけ、知っている言葉になっている。
それだけで、知らない街が少し近づいた気がした。
「セイン!」
不意に声がして振り向いた。
船の食堂で働いていた、サレーンの少女だった。
父親と一緒に荷物を持ち、ちょうど船を下りてきたところらしい。
俺たちの姿を見つけると、小さな木彫りの船を持ち上げた。
「サーヴァ!」
昨日、甲板から引き上げた時と同じ笑顔だった。
俺も片手を上げる。
「……元気そうでよかった」
言葉は伝わらなかっただろう。
それでも少女は大きく頷き、父親に促されて歩き始めた。
リゼが隣で手を振っている。
「また会えますかね」
「どうだろうな」
「名前、聞いておけばよかったです」
「そうだな」
大切な人を助けたからといって、その人の名前まで知る必要はない。
ただ、もう一度会うことがあれば、今度は聞いてみたいと思った。
俺たちより少し先を歩く少女の背中には、もう不安そうな様子はなかった。
それだけで十分だった。
◇
港の外へ出ると、今度は街そのものに驚かされた。
大通りの両側には、三階や四階まで続く石造りの商館が並んでいる。建物の一階はほとんど店か倉庫になっていて、軒先には商品や木箱が積まれていた。
店の看板には、ヴェルナの文字だけでなく、見たことのない形の文字が混ざっている。
曲線を重ねたものもあれば、小さな絵をいくつも並べたようなものもあった。
「……読めないな」
俺が呟くと、リゼが隣から看板を覗いた。
「何のお店でしょう」
「分からない」
「いい匂いがします」
「……食べ物の店?」
「たぶん」
中を覗いてみると、大きな鍋で肉らしいものを煮込んでいた。
少し刺激のある香辛料の匂いが、通りまで流れてきている。
「食べます?」
「まだ昼飯には早いだろ」
「場所だけ覚えておきます」
彼女は真面目に看板の形を見つめた。
文字が読めないのに、どうやって覚えるつもりなのだろう。
そう思ったが、聞くのはやめた。
リゼなら、店の色や匂いや、隣の建物の形を手がかりにして、案外もう一度見つけるかもしれない。
その先では、四頭の馬に引かれた大きな荷車とすれ違った。
荷車には布で覆われた木箱が何段も積まれ、揺れるたびに金具が鳴っている。
すぐ横を、肩に巨大な籠を載せた男が歩いていた。
籠には魚が詰まっている。
しかも、まだ動いていた。
「……見てください」
リゼが小声で言った。
「見えてる」
「大きいです」
「触るなよ」
「触りません」
そう答えた直後、魚が一匹、大きく跳ねた。
「わっ!」
リゼが俺の方へ飛び退いた。
俺まで驚き、危うく荷車の方へ足を踏み出しそうになった。
「……危ないな」
俺が言うと、リゼは少し顔を赤くした。
「今の、見なかったことにしてください」
「無理だよ」
「忘れてください」
「記憶の事件を調べに来て、最初に頼むことがそれ?」
リゼは少し考えた。
それから、真面目な顔で答えた。
「じゃあ、忘れるのは禁止にします」
「自分の恥ずかしいところだけ?」
「そこは相談しましょう」
俺は笑った。
リゼも、結局笑ってしまった。
近くを通りかかった二人の女性が、俺たちを見て何か話している。
鮮やかな布を重ねた服に、細い金属飾りを巻いていた。
一人がリゼの腰へ目を向ける。
いくつもの真鍮札が触れ合い、小さな音を立てていた。
女性たちは少し笑い、通り過ぎていった。
「……今、笑われました?」
リゼが尋ねる。
「たぶん」
「何ででしょう」
「札が珍しかったんじゃないか?」
彼女は自分の腰を見た。
名前を刻んだ札や、忘れないために用意した札が、細い紐でいくつも提げられている。
「かわいいのに」
「自分で言う?」
「セインはどう思います?」
俺は改めて見た。
月白色の短い髪。
黒い半外套。
首元に残された赤い封蝋と、腰で小さく鳴る真鍮札。
王都では見慣れた姿だった。
けれど、外国の言葉が飛び交うラヴェルの街に立つリゼは、いつもより少しだけ不思議な存在に見えた。
「……似合ってるよ」
言うと、リゼがこちらを向いた。
「本当ですか?」
「ああ」
「どのあたりが?」
「そこまで聞く?」
「せっかくなので」
俺は少し考えた。
「……何か、お前らしい」
リゼは一瞬黙った。
それから、ふっと笑った。
「それ、好きです」
「何が?」
「お前らしい、ってところ」
彼女は真鍮札へ指を添えた。
「前の私がどんな格好をしていたか、覚えていませんから。でも、今の私には似合ってるんですよね」
「ああ」
「じゃあ、このままでいいです」
そう言って歩き出す。
俺はその横へ並んだ。
自分で選んだ名前を持つことも、好きな服を着ることも、旅先で知らない言葉を覚えることも。
リゼは少しずつ、自分で決められるものを増やしている。
過去が分からないからといって、これから先まで誰かに決めてもらう必要はないのだ。
◇
王立機関の出張者が使える宿舎は、港から少し離れた旧行政区にあった。
石造りの三階建てで、一階には受付と小さな食堂があり、上の階が客室になっている。外観は少し古いが、廊下や窓枠はよく手入れされていた。
受付の女性は、五十代くらいだろうか。
俺たちの出張許可証を受け取ると、慣れた様子で帳簿を開いた。
「王立遺失物管理局、第七係。セイン・アルケット」
「はい」
「王都警備隊、リオル・ハーゼン」
「俺です」
「王立術式院協力研究員、ティセラ・ローヴェン」
「はい」
女性は一人ずつ確認し、帳簿へ名前を書き込んでいく。
その手が、最後に止まった。
「……リゼ」
「はい」
「姓は?」
「ありません」
リゼは落ち着いて答えた。
女性が少し顔を上げる。
「姓がない?」
「今はリゼだけです」
「身分を確認できるものは?」
「これです」
リゼが鞄から、王都で発行された仮証明書を取り出した。
女性は書類を確かめ、出張許可証に記された同行者の欄と照合する。
それから、余計なことは聞かず、帳簿へ一つだけ名前を書いた。
『リゼ』
俺はその文字を見つめた。
最初に第七係へ来た時、彼女の証明書には名前がなかった。
誰かに奪われたのか、世界から失われたのかも分からないまま、本人は自分の名前を探していた。
そして今、王都から何日も離れたラヴェルの宿で、自分で選んだ名前が、当たり前のように記録されている。
それだけのことだった。
けれど、何となく嬉しかった。
「……セイン」
リゼが小声で呼んだ。
「何?」
「今、帳簿を見てました?」
「ああ」
「私の名前ですか?」
「……うん」
リゼは少し笑った。
「ちゃんとありましたね」
「ああ」
「よかったです」
嬉しかったのは、俺だけではなかったらしい。
俺たちはそれ以上、何も言わなかった。
ただ、受付の女性が帳簿を閉じるまで、そこに書かれた名前を二人で眺めていた。
「それで」
女性が鍵を取り出しながら言った。
「あなたたち、王都から来た四人組で間違いないのよね?」
「そうですけど」
答えたのはリオルだった。
女性は少し首を傾げる。
「さっきも、同じことを聞かれたのよ」
俺たちは顔を見合わせた。
「誰に?」
リオルが尋ねる。
「若い女性よ。二十代後半くらいかしら。灰色がかった髪で、薄い色の外套を着ていたわ」
心臓が少し速くなった。
思い当たる人物がいる。
けれど、俺はすぐには名前を出さなかった。
「……何を聞かれたんです?」
「王都から来る四人が、ここへ泊まる予定はないかって」
「それで?」
「まだ着いていないから分からない、と答えたわ」
「その人は何か言ってました?」
「いいえ。お礼を言って帰っただけ。丁寧な人だったわよ」
丁寧な人。
その言葉が妙に引っかかった。
第七係へ来た時のエルセは、確かに落ち着いていた。
しかし、セヴァンの命令に従って瓶を回収しようとし、リオルと戦った相手でもある。
最後には俺を助けたが、それで無害な人間だと決めるわけにはいかない。
「……どっちへ行きました?」
リオルが聞く。
「港の方だったと思うけど、詳しくは分からないわ」
「名前は?」
「聞いていないわね」
女性は少し心配そうな顔をした。
「何か問題でも?」
「まだ分かりません。こちらで確認します」
リオルが答え、丁寧に礼を言った。
鍵を受け取ってから、俺たちは一度、入口の脇へ寄った。
「……エルセか?」
リオルが小声で言う。
「たぶん」
俺も頷いた。
「でも、同じ特徴の別人かもしれない」
「可能性はあるな」
「……追いますか?」
リゼが尋ねる。
俺は少し考えた。
昨日の襲撃の後なら、以前の俺はすぐに走り出していたかもしれない。
どこへ行ったのか聞き、人混みの中を探し、見つかるまで追いかける。
けれど、相手はこちらより先にラヴェルへ来ているらしい。
しかも、宿舎の場所まで調べている。
今から慌てて港へ戻っても、会うつもりのない相手なら見つけられないだろう。
「……まずは荷物を置こう」
俺が言うと、リオルがこちらを見た。
「いいの?」
「ああ。今は瓶を安全な場所に置く方が先だよ」
ティセラも頷いた。
「私もそう思うわ。封印の状態を確かめたいし、古地図も広げたいもの」
「……珍しく、みんな慎重だな」
リオルが言った。
「お前が一番喜びそうなのに」
「喜んでるよ」
そう言いながら、彼は少し笑った。
俺たちは階段を上がり、割り当てられた部屋へ向かった。
その途中、俺はもう一度だけ受付の方を振り返った。
灰色がかった髪の女。
薄い色の外套。
丁寧に礼を言い、誰にも何も求めず帰ったという。
それがエルセなら、彼女は何を確かめに来たのだろう。
俺たちを襲うつもりなら、宿の場所を知ることは意味がある。
けれど、わざわざ自分の容姿を受付へ覚えさせるのは、あまり上手なやり方にも思えなかった。
もしかしたら、別の理由があるのかもしれない。
今はまだ、分からない。
ただ、もう一度話す機会があれば、聞いてみたいと思った。
◇
荷物を置き、ティセラが瓶の封印を確認し終えた頃には、午後もかなり進んでいた。
リオルは港の警備隊へ追加の報告をしに行くと言い、ティセラは机いっぱいにラヴェルの古地図を広げている。
「……今から調べるの?」
俺が尋ねると、彼女は顔を上げた。
「少しだけよ。明日の順番を決めておきたいの」
「夜までかかりそうだな」
「そこまでじゃないわ」
彼女はそう言ったが、すでに何枚も資料を並べている。
俺はこれ以上聞かないことにした。
リゼは窓の外を眺めていた。
宿舎の三階からは、屋根の向こうに細い帆柱が見える。
「……セイン」
「何?」
「少し、外へ行きませんか?」
「どこに?」
「海です」
「さっき見たばかりだろ」
「今度は陸から見たいんです」
そんなに違うものだろうか。
けれど、リゼの気持ちも少し分かった。
船から見た海は、まだ俺たち自身が動いていた。
陸へ下りた後で見ると、違う景色になるのかもしれない。
「……夕食までなら」
俺が言うと、リゼは嬉しそうに頷いた。
「はい!」
「遠くへは行かないぞ。港の中心から外れるのもなし」
「分かってます」
「それと、知らない人についていかないこと」
「子供じゃありません」
「昨日までのことを考えると、一応な」
彼女は少し不満そうだったが、すぐに笑った。
「では、セインも知らない人についていかないでくださいね」
「俺も?」
「セインの方が、よく巻き込まれますから」
返す言葉がなかった。
◇
宿舎から海岸までは、歩いて十五分ほどだった。
大きな港から少し離れると、荷車の数が減り、代わりに小さな漁船が並ぶ場所へ出た。石造りの防波堤が海へ長く伸び、その向こうで波が白く砕けている。
昼間の港とは違って、辺りは静かだった。
遠くから鐘の音が聞こえる。
風が石の隙間を抜け、時々、砂を小さく巻き上げていた。
リゼは防波堤の先まで歩き、そこで足を止めた。
「……やっぱり、違いますね」
「何が?」
「船から見た時と」
俺も隣へ立った。
海は朝より少し暗い青色になっていた。
波は一定の間隔で石へぶつかり、そのたびに細かな飛沫が上がる。
船の上では自分たちも移動していたから、海を景色の一つとして見ていられた。
ところが陸へ立つと、海はその場から動かない。
こっちがどれだけ眺めても、広さが変わるわけではない。
むしろ、見続けているうちに、自分の方が小さくなっていくような気がした。
「……ちょっと怖いです」
リゼが言った。
「海が?」
「はい。広すぎて」
「分かる」
「でも、好きです」
彼女は続けた。
「怖いのに、ずっと見ていたくなります」
俺も海を見た。
まだ好きかどうかは分からない。
ただ、ここを離れて王都へ戻っても、きっと時々思い出すだろうと思った。
「……俺は、もう少し考える」
そう言うと、リゼは笑った。
「海を好きになるかどうかを?」
「ああ」
「そんなに難しく考えなくてもいいのに」
「初日に決めなくてもいいだろ」
「それもそうですね」
彼女は防波堤の端へ腰を下ろした。
俺も隣へ座る。
しばらく、二人とも黙って海を眺めていた。
沈黙が気まずくないことに、少しだけ驚いた。
第七係で会ったばかりの頃は、リゼが黙ると何か困っているのかと思い、つい話しかけていた気がする。
今は、こうして同じ景色を見ているだけでも構わなかった。
「……セイン」
しばらくして、彼女が呼んだ。
「何?」
「さっきの宿のことなんですけど」
「うん」
「名前が書いてありましたね」
俺は頷いた。
「そうだな」
「自分の名前なのに、ああいうのを見ると、まだちょっと変な感じがします」
「どうして?」
「私が覚えている名前は、リゼだけなので」
彼女は腰の真鍮札へ手を添えた。
「でも、私だけが言ってる名前じゃなくなったんですよね。セインも呼んでくれるし、第七係の人たちも知ってるし、今日の受付の人も帳簿に書いてくれました」
「……ああ」
「知らない町へ来ても、ちゃんとリゼでいられるんだなって」
俺は少しだけ驚いた。
当たり前のことだと思っていたからだ。
だが、彼女にとっては違うのだろう。
世界から名前を奪われたことがある。
誰かに説明しなければ、自分が誰なのかさえ認めてもらえなかったことがある。
だから、当たり前に名前を書いてもらえることが、嬉しい。
「……俺も嬉しかったよ」
言うと、リゼがこちらを見た。
「セインも?」
「ああ。最初は、名前の欄が空白だったから」
「覚えてます?」
「もちろん」
そう答えた後、少しだけ考えた。
青鐘通りの広場で、誰かが座っていたはずの椅子。
誰のものだったか思い出せない盤遊びの駒。
約束があったことだけが残っているのに、その相手の顔も名前も思い出せない。
俺は、忘れることがどんなものなのか、少しだけ知ってしまった。
だから、今ここで何でも永遠に覚えていられると、簡単には言いたくなかった。
けれど、リゼは俺を見ている。
俺はその顔を見返した。
「……今日のことも覚えていたいな」
そう言った。
「海を見たこと?」
「ああ。それと、宿でお前の名前が書かれたこと」
リゼは少し黙った。
その後、ゆっくり頷いた。
「私もです」
海から風が吹いてきた。
リゼは髪を押さえながら、笑った。
「じゃあ、お互いに覚えておきましょう」
「ああ」
「セインが忘れたら、私が言います」
「俺も、お前が忘れたら話すよ」
言い終えると、彼女は少しだけ目を細めた。
何かを確かめるような表情だった。
俺は続けた。
「ただ、全部を正確には覚えられないかもしれない」
「そうですね」
「今日の海が何色だったかとか、何時に着いたかとか、そういうのは多分忘れる」
「でも、魚の匂いがしたことは覚えてそうです」
「そこもだな」
リゼが笑う。
「私も、セインが『何か、すごい』しか言えなかったのは覚えてます」
「もっといいところも残してくれよ」
「あと、私の髪を鳥だって言いました」
「それは忘れていい」
「嫌です」
彼女は楽しそうに笑った。
その笑顔を見ていると、難しい約束をしたつもりはないのに、何か大事なことを話したような気がした。
記憶とは、きっとそういうものなのだろう。
全部を記録へ残せるわけではない。
誰かと一緒にいた時の匂いや、意味のない冗談や、少し恥ずかしかった言葉が、不意に心へ残ることもある。
そうやって残ったものを、俺たちは自分の思い出と呼んでいるのかもしれない。
◇
日が傾き始めた頃、俺たちは防波堤から立ち上がった。
「……そろそろ戻ろうか」
俺が言うと、リゼはまだ海を見ていた。
「あと少しだけ」
「腹減ってない?」
「……少し」
「宿の食堂、何かあるかもしれないぞ」
彼女は考えた。
思っていたより真剣だった。
「……戻ります」
「決断早いな」
「海は明日もありますから」
「強い理由だ」
俺たちは笑いながら、来た道を戻り始めた。
途中で振り返ると、海はまだそこにあった。
当然だ。
俺たちが帰るからといって、なくなるわけではない。
けれど、その当たり前のことが、少し不思議だった。
王都では、街の外に何が広がっているのか、ほとんど考えたことがなかった。
それが今は、海の向こうにも別の国があり、別の言葉を話す人々が暮らしていることを知っている。
ラヴェルの港で、固有術を使って働く人間を見た。
船では、言葉の通じない少女を助けた。
今日初めて海を見て、その海を前に、自分で名前を選んだ少女と「覚えていたい」と話した。
たった数日で、知らなかった世界がずいぶん増えた気がする。
その一方で、俺たちが調べなければならないことも残っている。
二十八年前、ローディス・フェンと名前の分からない第七係職員が訪れた旧西税関第四保管庫。
ガディが記憶瓶を運ぶはずだった、第七埠頭の灰鴎亭。
そして、俺たちより先にラヴェルへ来ているかもしれないエルセ。
明日になれば、いよいよ現地の調査が始まる。
怖くないわけではない。
けれど、見知らぬ街の人間すべてを疑って歩くつもりもなかった。
何が起きたのか。
誰が何を失ったのか。
そして、返してほしいと思っているのか。
一つずつ確かめていくしかないのだろう。
「……セイン」
リゼが呼んだ。
「何?」
「明日も海、見られますかね」
「仕事が終わればな」
「じゃあ、頑張りましょう」
「そこが一番の目的じゃないぞ」
「分かってます」
彼女は笑いながら、少し先を歩いた。
腰の真鍮札が小さく鳴る。
俺はその音を聞きながら、もう一度だけ海の方を振り返った。
夕方の光を受けた水面は、朝に見たものとは違う色をしている。
きっと明日も、また違うのだろう。
それを全部覚えるのは難しい。
でも、今日ここへ来たことだけは、忘れたくないと思った。
あの海を初めて見た時、隣でリゼが笑っていたことも。
そして、俺自身が何を感じていたのかも。
できる限り、覚えていたかった。




