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王都の返却士 ~その落とし物、世界のものです~  作者: 紙森 灯
第三章 誰も覚えていない男

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第四十四話 サーヴァ

 

 何も起きなかった夜ほど、朝になってから自分の警戒心が少し恥ずかしくなる。


 昨夜、甲板(かんぱん)で見かけた荷役人の靴底が気になって、リオルと交代で見張りをした。途中、例の男が船員区画へ戻るところを一度見かけたものの、こちらを気にする様子もなく、船内で騒ぎが起きることもなかった。


 結局、眠る時間を減らしただけだった。


 ただ、青鐘通りでのことや、第七係へセヴァンたちが乗り込んできた一件を思えば、警戒が無駄に終わるのは悪いことではない。


 問題は、そう考えても眠気がなくならないことだった。


「セイン、顔がひどいですよ」


 朝食の席へ着いた途端、リゼに言われた。


「おはようより先にそれ?」


「おはようございます。顔がひどいですよ」


「順番の問題じゃない」


 リゼは笑いながら、パンをちぎった。


「昨夜、あまり眠れなかったんですか?」


「リオルと交代で見張ってたから」


「どうして教えてくれなかったんです?」


「お前、寝てただろ」


「起こしてくれれば代わりましたよ」


「三人揃って眠い顔をしてどうするんだよ。リオルもいるし、俺たちで十分だ」


 そう答えると、リゼは少し不満そうだった。


 けれど、しばらく俺を見つめた後、皿の上にあったパンを一切れ差し出してきた。


「じゃあ、これを」


「何?」


「元気が出るかもしれません」


「……お前が食べる分じゃないの?」


「私にはまだあります」


 確かに、皿にはもう二切れ載っていた。


 昨日あれだけ食べていたのに、朝から食欲が落ちる気配はない。


 パンを受け取ると、リゼは満足そうに頷いた。


「それで、見張りはどうでした?」


「何もなかったよ」


「よかったですね」


「ああ」


「じゃあ、今日は眠れますね」


「そうだといいけど」


 何でもない会話だった。


 それでも、リゼの言う通り、今日こそ何も起きなければいいと思った。


 船の朝食は、魚と豆を香辛料で煮込んだものだった。少し塩気が強く、俺には朝から重かったが、リゼは気に入ったらしく、パンを浸して食べている。


「……船酔いは?」


 俺が聞くと、彼女は顔を上げた。


「今のところ、していません」


「よかったな」


「勝ちました」


「誰に?」


「船にです」


 真剣な返事だったので、笑ってしまった。


 向かいに座るリオルまで肩を震わせている。


「あと一日あるからな。油断するなよ」


「分かっています。最後まで気を抜きません」


「何の勝負なんだよ」


 そんな話をしていたところへ、食堂の奥から小さな足音が近づいてきた。


 昨日、河港で木彫りの船を拾って渡した、サレーンの少女だった。


 両手で皿を抱え、卓の間を慎重に歩いている。


 俺たちに気づくと、少し嬉しそうな顔をした。


「サーヴァ」


 リゼが先に言った。


 少女は笑ったが、すぐに口を少し大きく開き、ゆっくりと言い直した。


「サァーヴァ」


「サァーヴァ?」


「サーヴァ」


「……難しいですね」


 どうやら、伸ばす音の長さが違うらしい。


 俺にはほとんど同じに聞こえたが、少女は楽しそうに何度も発音している。


 リゼも負けじと繰り返した。


「サァーヴァ」


 今度は少女が大きく頷いた。


「通じたみたいだな」


 俺が言うと、リゼは得意そうな顔をした。


「もうサレーン語を話せます」


「一語だけな」


「昨日は一語も話せなかったんですよ」


「そうだけど」


「この調子なら、明日は二語です」


 随分堅実な目標だった。


 俺は笑いながら、少女が持っている皿へ目を向けた。


 その皿は、どうやらリゼへ追加の料理が必要か尋ねるためのものらしい。


 言葉は通じていなかったが、リゼが空いた皿を示すと、少女は頷き、嬉しそうに食堂の奥へ走っていった。


「……また食べるの?」


「はい」


「船酔いとの勝負は?」


「食べられるうちは、私の勝ちです」


 勝敗の基準が分からなかった。


 けれど、昨日まで知らなかった言葉を使って少女と笑い合うリゼを見ていると、何となく嬉しくなる。


 リゼには思い出せないことが多い。


 自分がどこで生まれたのか、誰と暮らしていたのか、何を好きだったのか。


 それでも、今こうして新しいものを覚えていくことはできる。


 失ったものを探すことと、新しいものを増やすこと。


 その二つは、別に相反することではないのだろう。


「……何です?」


 リゼがこちらを見た。


「何が?」


「また、じっと見てました」


「見てないよ」


「見てました」


「魚を見てた」


「私の後ろ、壁ですよ」


「……朝からよく見てるな」


「セインが分かりやすいんです」


 リオルが笑った。


 俺は何も言わず、もらったパンを食べた。


 今日は朝から、二人に勝てる気がしなかった。


     ◇


 昼前には、川の幅がさらに広がっていた。


 岸辺には大小の船着き場が増え、すれ違う船の中には、王都では見たことのない形の帆を持つものもあった。外国の旗を掲げた船も多く、甲板へ出るたび、知らない言葉が聞こえてくる。


 風は昨日より少し強かった。


 リゼは手すりに両手を置き、何度も顔にかかる髪を耳へ掛け直している。


「……髪、邪魔そうだな」


 俺が言うと、彼女は振り向いた。


「そうですか?」


「さっきから、ずっと直してるだろ」


「風が強いので」


「伸ばさないの?」


「短い方が好きなんです」


 そう言ってから、リゼは自分の髪を少しつまんだ。


「セインは、長い方がいいですか?」


「……俺に聞く?」


「先に髪の話をしたのはセインです」


 確かにそうだった。


 今の長さは似合っていると思う。


 ただ、それをそのまま言うのが少し照れくさかった。


「今のでいいんじゃないか」


「適当ですね」


「似合ってるって意味だよ」


 言ってから、余計なことを言ったかもしれないと思った。


 リゼは一瞬だけ目を丸くし、それから口元を緩めた。


「じゃあ、このままにします」


「俺が決めることじゃないだろ」


「私も気に入ってるので、大丈夫です」


 彼女は笑って、また川の方へ向き直った。


 こういう会話の時、リゼは妙に自然だ。


 自分の方が余計なことを考えている気がして、少し悔しくなる。


「セイン」


 今度は後ろからリオルに呼ばれた。


 振り返ると、昨日とは違って笑っていなかった。


「ちょっと来てくれ」


「どうした?」


「昨日の男がいる」


 俺も表情を引き締めた。


「どこ?」


「下の貨物区画。今、船員と一緒に荷物を動かしてる」


「普通に働いてるってこと?」


「そう見える。けど、一つ気になることがあった」


 リオルは周囲を確かめてから、小声で続けた。


「固有術を使ってるんだ」


「何の?」


「見た方が早い」


 俺は頷き、リゼへ声をかけた。


「少し下を見てくる。お前はここにいて」


「何かあったんですか?」


「昨日、気になった人のことを確かめるだけだよ」


「危なくないですか?」


「今のところは。リオルも一緒だから」


 リゼは少し考えてから頷いた。


「分かりました。でも、何かあったら呼んでくださいね」


「ああ」


 俺はリオルと一緒に、貨物区画へ続く階段を下りた。


     ◇


 例の男は、大きな木箱の横へ立っていた。


 短く切った黒髪に、使い込まれた作業着。左の眉の上には、古い傷がある。


 そして、昨日から気になっていた靴。


 表面には泥や細かい傷がついているのに、底の一部だけが不自然なほど滑らかだった。


「重いぞ、これ」


 船員の一人が言った。


「分かってる。まだ押すな」


 男は右手の手袋を外した。


 木箱の側面へ素手を当て、短く術の名を告げる。


「〈滑面(かつめん)〉」


 次の瞬間、三人がかりでもほとんど動かなかった木箱が、するりと動いた。


 船員の一人が軽く押しただけで床の上を滑り、数歩先で待っていた別の男が受け止める。


 作業はあっという間に終わった。


「……便利だな」


 思わず呟く。


「そうだろ」


 リオルが答えた。


「だから困ってる」


「何で?」


「怪しいと思って見に来た相手が、ちゃんと仕事をしてる」


「……それはそうだな」


 俺も少し気が抜けた。


 〈滑面〉。


 触れたものの表面を滑りやすくする術なのだろう。


 重い荷物を運ぶ船員にとっては、かなり役に立つ力だ。


 それなら、あの奇妙な靴底にも説明がつくかもしれない。


 荷物を滑らせるだけでなく、自分の身体も滑らせて作業しているなら、普通とは違う減り方になるだろう。


「……考えすぎだったのかな」


 俺が言うと、リオルは首を振った。


「まだ分からない。能力を持ってることと、仕事をしてることは確認できたけど、それだけだ」


 その慎重さは、警備隊員らしかった。


 男は次の木箱へ移動する。


 右手の手袋を外し、側面へ触れる。


 箱が軽く滑り、船員たちが手際よく位置を変える。


 二度ほど同じ作業を見たところで、俺たちは少しだけ離れた。


「右手だけなのかな」


「少なくとも、右手で触れてから使ってるな」


「靴底にも使えるなら、足で触れるだけでもいいのかも」


「そういう使い方を見たわけじゃないだろ」


「……確かに」


 俺は男の足元をもう一度見た。


 滑らかな靴底。


 その減り方には、まだ少し引っかかるものがあった。


 重い箱を運ぶために使う能力だとしても、どうして靴の側面ではなく、底の一部分だけがあれほど磨かれているのだろう。


 そう考えていた時、船がゆっくり右へ傾いた。


 大きな川の曲がりに入ったらしい。


 積まれていた箱の一つが軋み、船員が慌てて縄を押さえた。


 男も手を伸ばした。


 ただし、箱へではなかった。


 外していた右手の手袋を握ったまま、空いた掌を床板へ押しつけた。


「……リオル」


 俺が呼ぶのと、男が口を開くのは、ほとんど同時だった。


「〈滑面〉」


 足元の感触が変わった。


 さっきまで踏みしめていた板が、急に磨いたガラスのようになった。


 靴底が床を捉えず、身体が横へ流れる。


 俺は反射的に柱をつかんだ。


 そのすぐ横で、船員が二人転んだ。固定の甘かった小箱も滑り始め、隣の木箱へぶつかって鈍い音を立てる。


「何してる!」


 船員が怒鳴った。


 男は答えなかった。


 代わりに、腰へ下げていた短い鉤(かぎ)を外し、柱の金具へ引っかけた。


 そのまま腕の力で身体を引く。


 滑る床を、まるで初めからそのために作られた道であるかのように進んでいった。


「……そういうことか」


 俺は男の靴を見た。


 あの底は、重い荷物を運ぶだけですり減ったわけではない。


 本人も、自分の術で滑ることを前提に動いている。


「止まれ!」


 リオルが叫んだ。


 男は振り返りもせず、貨物区画の出口へ向かう。


 追おうとしたリオルの足元も滑っていた。


 〈均衡〉を使っているらしく、身体は倒れずに保っている。それでも、床を蹴ることができない。


「……面倒な術だな」


 リオルが言った。


「お前でも進めないのか?」


「姿勢は保てる。でも足場が滑るんじゃ、前へ進む力を伝えられない」


 そう言いながら、リオルは近くの柱へ手を伸ばした。


 身体を横へ倒し、腕で引き寄せる。


 〈均衡〉が働いているのだろう。普通なら転ぶ角度でも、身体が崩れない。


 そのまま柱から次の柱へ移り、滑る床を抜けていく。


 俺も真似をしようとした。


 もちろん、同じことはできない。


 だから靴底を床板の継ぎ目へ押し込み、踵を引っかけてから柱へ手を伸ばした。


 滑らかな板の表面でも、継ぎ目の段差まではなくならない。


 旅用の靴を選んでおいてよかった。


 あの時、十分以上悩んだことが、まさかこんな場所で役に立つとは思わなかった。


「セイン、急げ!」


「分かってる!」


 俺たちが階段へたどり着いた時、頭上から何かが倒れる音がした。


 続いて、悲鳴。


 聞き慣れない言葉だった。


 けれど、誰かが助けを求めていることだけは分かった。


     ◇


 甲板へ出ると、船内で起きた混乱が、すでに上まで広がっていた。


 例の男が床へ手をついている。


 その周囲では、人も椅子も荷物も一斉に滑り、船員たちが必死に手すりや柱へしがみついていた。


 船が川の曲がりを進むたび、重さのあるものが同じ方向へ流れていく。


 男は、その中を器用に移動していた。


 短い鉤を金具へ掛け、滑りながら進む。


 向かう先には、客室への入口があった。


 俺たちの荷物。


 ティセラが管理している革箱。


 中には、あの記憶瓶が入っている。


「……最初から、それが狙いか!」


 俺が叫ぶと、リオルも男の行き先に気づいた。


「セイン、瓶は俺が見る!」


「分かった!」


 俺は周囲を見回した。


 転んだ人を起こそうとしている船員たちの間に、リゼの姿があった。


 老女が一人、手すりの近くで座り込んでいる。


 リゼは腰から細い帯を外し、老女の身体と近くの金属環を結ぼうとしていた。


「リゼ!」


「セイン!」


「怪我は?」


「私は大丈夫です! この方を動けないところまで連れていきます!」


 そう言いながら、老女へ何度も手振りで説明している。


 言葉は通じていないようだった。


 けれど、リゼは焦らずに相手の目を見て、ゆっくりと頷いた。


 老女の呼吸が少し落ち着く。


 その姿を見て安心しかけた時、少し離れた場所から男の叫び声が聞こえた。


 昨日、木彫りの船を探していたサレーンの父親だった。


 彼は顔色を変え、船の舷側(げんそく)を指している。


 その先には、横倒しになった荷箱があった。


 箱がぶつかったのだろう。荷役用の開口部に取りつけられた柵が外れ、そこだけ川へ向かって口を開けていた。


 父親が何度も叫ぶ。


 名前なのか、助けを求める言葉なのか、俺には分からなかった。


 けれど、開口部の下に見えた小さな手で、何が起きたのかを理解した。


「……落ちてる!」


 少女が船の外側にいた。


 片手で、船体へ結ばれた予備の係留(けいりゅう)綱につかまっている。


 その下では、灰色の川が流れ続けていた。


 船は今も進んでいる。


 少女の手が離れれば、あっという間に水へ落ちるだろう。


 俺は反射的に左手を上げた。


 その瞬間、青鐘通りで聞いた言葉が頭をよぎる。


 人は返せない。


 少なくとも、俺の〈返却〉は、人間を持ち物のように扱うことを認めない。


 何かを失った人のもとへ、好きな相手を戻せるわけではないのだ。


 今ここで術を使っても、少女を父親の腕へ返すことはできない。


「……くそっ」


 俺は手を下ろした。


 できないことを考えている時間はない。


 ならば、自分の手で引き上げるしかなかった。


「リオル!」


 振り返ると、リオルは客室入口へ向かおうとしていた男の前に立っている。


「こっちは頼む!」


 俺が少女を指すと、リオルは一瞬だけそちらを見た。


「分かった! 先に行け!」


 彼は近くに落ちていた綱を拾い、俺の方へ投げた。


「腰に巻け! こっちで引く!」


「お前は?」


「男も見てる!」


 無理を言っている自覚はあった。


 だが、リオルなら自分の役割を見失わない。


 俺は綱を腰へ回し、できるだけ短く結んでから、低い姿勢で開口部へ近づいた。


 床が滑る。


 金属環へ手を掛け、身体を引き寄せる。


 次の金具までは、靴の踵を板の継ぎ目へ押し当てながら進んだ。


 わずかな距離なのに、ひどく長く感じられた。


 やっと開口部へ着き、下を覗き込む。


 少女は顔を青くしていた。


 小さな手は綱へ食い込み、身体が船の動きに合わせて揺れている。


 そのもう片方の手には、木彫りの船が握られていた。


「……それ、まだ持ってるのかよ」


 思わず声が漏れた。


 昨日なくして、ようやく戻ってきた小さな船。


 今度は自分が川へ落ちかけているのに、手放せないらしい。


 俺は開口部の縁へ膝をつき、片手を伸ばした。


「手を出して!」


 少女は俺を見た。


 けれど、首を振る。


 綱から手を離すのが怖いのだろう。


 それはそうだ。


 俺だって、この高さから流れる川を見下ろしていたら、見知らぬ人間の手へ簡単には飛び移れない。


「大丈夫」


 声をかけた。


 当然、王都語は通じない。


 少女は泣きそうな顔のまま、綱を握り続けている。


 俺は腕を伸ばした姿勢で、少しだけ待った。


 急かせば、逆に手を滑らせるかもしれない。


 少女の父親が、後ろから何かを叫んだ。


 その声に、少女が顔を上げる。


 俺を見る。


 それから、握っていた木彫りの船を口にくわえた。


「……そこまで大事か」


 思わず笑いそうになった。


 少女もほんの少し、表情を緩めた。


 そして、空いた手がこちらへ伸びてくる。


 指先が触れた。


 俺はその手首を握った。


「つかまえた!」


 けれど、引き上げようとして初めて、自分の足場がまだ滑っていることに気づいた。


 少女の体重が腕へかかる。


 靴がずれ、身体が川の方へ引かれた。


「……まずい!」


 片膝を開口部の縁へ押しつける。


 硬い金具が膝に食い込んだ。


 痛い。


 それでも、手は離さなかった。


「リオル!」


 叫ぶと、腰の綱が張った。


 振り向けば、リオルが手すりの柱へ綱を回している。少し離れたところで、船員も一人、綱の端をつかんだ。


「引くぞ!」


「頼む!」


 俺は少女の腕を両手で抱え、身体を後ろへ倒した。


 滑る床が、今度は少しだけ役に立った。


 無理に踏ん張ろうとするより、綱に引かれるまま身体を動かした方がいい。


 少女の肩が開口部の上へ出る。


 次に頭。


 俺は身体を低くし、船員が伸ばした手へ少女の腕を渡した。


 二人がかりで引き上げると、最後に小さな足が甲板へ戻ってきた。


 少女はその場に座り込み、何度も息を吸った。


 口から木彫りの船を取り出す。


 それを確かめてから、ようやく泣き始めた。


「……よかった」


 俺も座り込んだ。


 膝が痛むし、腕には力が入らない。


 それでも、川へ落ちた人間はいなかった。


 父親が滑りながら駆け寄り、少女を抱きしめる。


 何度も何度も、同じ言葉を繰り返していた。


 名前なのか、叱っているのか、安心させようとしているのか。


 意味は分からない。


 けれど、今この親子がどういう気持ちなのかは、もう十分に伝わっていた。


 その時、リオルの声が響いた。


「セイン! まだ終わってない!」


 俺は顔を上げた。


 客室入口に、例の男が立っていた。


 その前にはティセラがいる。


 両腕で、茶色い革箱を抱えていた。


     ◇


「それを渡してください」


 男の声は落ち着いていた。


 まるで、今しがた船の甲板を危険な状態にした本人とは思えない。


「嫌よ」


 ティセラは即答した。


「怪我をするかもしれませんよ」


「それはしたくないわ。でも、渡す理由にはならない」


 ティセラらしい返事だった。


 ただ、彼女が戦闘向きの人間ではないことは、俺にも分かる。


 〈転写〉は、そこにあるものを写す術だ。


 相手の動きを止めたり、近づいてくる人間を吹き飛ばしたりする力ではない。


 男がもう一歩近づけば、革箱へ手が届くかもしれなかった。


「リオル!」


「見てる!」


 リオルは船員へ綱の端を預け、男へ向かっていた。


 しかし、甲板にはまだ滑る部分が残っている。


 男もそれを知っているのだろう。


 右手の手袋を外し、床へ触れようとした。


「〈均衡〉!」


 リオルが柱を蹴った。


 床へ足をつくのではなく、柱から直接身体を押し出す。傾いた姿勢を保ったまま、男の右手へ向かって剣を振り下ろした。


 男は慌てて腕を引く。


 床へ触れることはできなかった。


 俺はその動きを見ていた。


 この男が〈滑面〉を使う時は、必ず右手の手袋を外す。


 そして、術をかけたいものへ掌を触れさせている。


 それが絶対の条件なのかは分からない。


 ただ、今はそこを止めればいい。


「……セイン!」


 リゼが近くへ来ていた。


 老女は別の船員へ任せたらしい。


「怪我してませんか?」


「膝をぶつけた。でも動ける」


「それならよかったです」


 彼女は男とティセラの方を見た。


「私、何かできますか?」


「今は下がってて。危ないから」


「でも、ティセラさんが」


「分かってる」


 その時、金属がぶつかる音がした。


 リオルの剣と、男が持つ短い鉤がぶつかっている。


 男は後ろへ下がりながら、右手を伸ばした。


 剣の柄へ触れる。


「〈滑面〉」


 リオルの手が滑った。


 握っていた剣が抜け、甲板の上を走るように滑っていく。


「……くそ!」


 リオルは剣を追わず、そのまま肩から男へぶつかった。


 男がよろめく。


 俺は滑っていく剣へ左手を向けた。


 あの剣なら、持ち主を知っている。


 リオルが長く使い、自分で手入れをしてきたものだ。


 落とした場所へ戻す必要も、行き先を推測する必要もない。


「〈返却〉!」


 白い光が走った。


 甲板を滑っていた剣が方向を変え、リオルのもとへ戻っていく。


 リオルは一瞬だけ目を見開いたが、すぐに受け取った。


「助かる!」


「どういたしまして!」


 男の表情が変わった。


 初めて、こちらの術を警戒したようだった。


「……返却士か」


 小さく呟く声が聞こえた。


 やはり俺たちのことを、ある程度知っている。


 ただの偶然で、この船に乗り合わせた相手ではなかった。


 リオルが剣を構え直す。


 男は鉤で受けながら、少しずつ客室入口へ近づいていた。


 革箱を持ったティセラが、入口を塞ぐように立っている。


 このままでは、男が強引に箱を奪うかもしれない。


 俺は距離を詰めようとした。


 だが、足元の板が再び滑り、思うように進めなかった。


「リゼ、そこから離れて!」


 俺が叫んだ時、彼女は少し先の金属環を見ていた。


 老女を助けるために使った細い帯を、すでに手に持っている。


「……セイン」


「何?」


「この床、まだ滑りますよね」


「場所によるけど!」


「じゃあ、止まるのも難しいですよね」


 何を考えているのか、すぐには分からなかった。


 リゼは金属環へ帯の端を通し、もう片方を自分の手へ巻きつけた。


 男がティセラの方へ踏み込む。


 その直前、リゼが低い姿勢で帯を引いた。


 男の足首へ、細い布が引っかかる。


 普通の床なら、少しよろめく程度だったかもしれない。


 しかし今は違う。


 滑る床の上では、一歩の乱れを立て直せない。


「……っ!」


 男の足が横へ流れた。


 リゼ自身も引っ張られたが、帯を通した金属環が支えになった。


「リオル!」


 彼女が叫ぶ。


「分かってる!」


 リオルが男の背後へ回った。


 〈均衡〉で自分の姿勢を保ち、男の右腕を取る。


 そのまま手首を背中側へ回し、膝をつかせた。


 俺も急いで近づいた。


 男が自由な左手で床を押そうとする。


 しかし、発動に使っていた右手は、リオルに押さえられたままだった。


「……離せ!」


「断る!」


 リオルが答える。


 俺は男の右手が床へ届かない位置にいることを確かめ、船員へ綱を頼んだ。


 船員が駆け寄り、リオルと二人で男の両手を縛る。


 男はなおも抵抗したが、もう術を使う余裕はなかった。


 周囲の床も、少しずつ元の感触に戻り始めている。


「……終わった?」


 リゼが尋ねた。


 俺は一度、甲板を見回した。


 倒れた荷物。


 折れた柵。


 座り込んでいる乗客たち。


 少女を抱きしめたまま離そうとしない父親。


 誰かを取り押さえたからといって、すぐに全部が元通りになるわけではない。


「……ひとまずな」


 俺は答えた。


 男が顔を上げる。


「お前ら、何なんだよ」


「こっちの台詞だよ」


 俺はしゃがみ、男と目線を合わせた。


「こんなことまでして、あの箱が欲しかったのか?」


 男は答えなかった。


 代わりに、ティセラが箱を抱え直した。


「……瓶は無事よ」


「お前は?」


「腕を少しぶつけたくらい。中身も封印も問題ないわ」


「先にそっちを言ってくれよ」


 そう言った直後、自分もさっきまで膝の痛みを後回しにしていたことを思い出した。


 リゼと目が合う。


「……俺も人のこと言えないな」


「そうですね」


「そこは少しくらい否定してくれない?」


「嘘になります」


 彼女は笑った。


 つられて、俺も笑ってしまった。


     ◇


 船長が来ると、男は船員たちによって別室へ連れていかれた。


 リオルは警備隊員として事情を聞き、船長にも被害の記録を残すよう頼んでいた。


 俺たちも立ち会い、男が何を目的に船へ乗ったのかを尋ねた。


「名前は?」


 リオルが聞いた。


 男はしばらく黙っていたが、やがて諦めたように口を開いた。


「……ガディ・モーン」


「ラヴェルの人間?」


「ああ」


「荷役人として働いてるのか」


「十五年になる」


 ガディは吐き捨てるように答えた。


 俺はその靴を見た。


 普通とは違う、滑らかな靴底。


 あれは仕事のために身につけた工夫でもあるのだろう。


 〈滑面〉は、重い荷物を運ぶためなら便利な能力だった。きっと今まで、あの術を使って助かった船員だって大勢いるはずだ。


「……じゃあ、何でこんなことをした?」


 俺が聞くと、ガディは短く答えた。


「金だよ」


 あまりにもあっさりしていた。


「誰かに雇われたのか?」


「ああ」


「誰に?」


「顔も知らねえ」


 リオルが腕を組む。


「詳しく話せ」


「仕事の仲介を通しただけだ。河港で声がかかった。王都から四人組が乗ってくるから、そいつらの荷物を取れってな」


「どの荷物?」


「茶色い革箱。小さくて、何重にも封をしてあるやつだ」


 ティセラが眉を寄せた。


「中身は?」


「見るなって言われた。開けるな、壊すな、そのまま持ってこい。それだけだ」


 俺はリオルを見た。


 俺たちの人数も、持っている箱の特徴も、依頼主は知っていた。


 ガディが偶然狙ったわけではない。


 誰かが、王都を出てからの俺たちの動きを把握している。


「……どこへ持っていく約束だった?」


 リオルが尋ねる。


 ガディは黙った。


 船長が一歩前へ出た。


「お前のせいで乗客が川へ落ちかけた。船の設備も壊れている。隠して済む話じゃないぞ」


 ガディは顔を歪めた。


「……子供が落ちるなんて、思ってなかった」


 俺はその言葉を聞いて、少し腹が立った。


「誰も怪我しないと思ったのか?」


「騒ぎを起こして、その間に箱を取るだけのつもりだった」


「それで床を滑らせたら、どうなるか分からなかった?」


 ガディは答えなかった。


 俺は続けた。


「お前、自分の術を十五年も使ってきたんだろ。床が滑ったら、どれくらい危ないか知ってたはずじゃないか」


 声が少し強くなった。


 リオルがこちらを見たが、止めなかった。


「……金が必要だったんだよ」


 ガディが言った。


 それが本当なのか、言い訳なのかは分からない。


 ただ、どういう事情があっても、少女が川へ落ちかけた事実は変わらなかった。


 リオルが静かに聞き直した。


「受け渡し場所は?」


 ガディは長く息を吐いた。


 それから、諦めたように答えた。


「……ラヴェルの外港だ」


「外港のどこ?」


「第七埠頭(だいななふとう)」


 俺はその名前を頭へ刻んだ。


 まだ行ったことのない港の一角。


 けれど、誰かが記憶瓶を受け取るために、そこで待っているはずだった。


「建物か、店の名前は?」


 リオルが尋ねる。


「灰鴎亭(はいおうてい)って酒場だ」


「そこへ持っていけばいいのか?」


「裏口で渡す約束だった。残りの金も、そこで受け取れるはずだった」


 ティセラが小さく息を吐いた。


「……組織の人間だけで動いているわけじゃないのね」


 俺も同じことを考えた。


 セヴァンやエルセのように、瓶を回収する仕事をしている人間ばかりを警戒しても意味がない。


 ガディは、自分が何を運ぶのかも知らず、金のために仕事を引き受けたと言っている。


 しかも、そのための技術は、普段の荷役で使っている固有術だった。


「……依頼主の名前も、本当に知らないのか?」


 俺が尋ねると、ガディは首を振った。


「知らねえよ。仲介した奴なら何か知ってるかもしれないけどな」


「その仲介人は?」


「河港の仕事場にいる。名前なら言えるが、そいつだって依頼主の顔を見たとは限らねえ」


 リオルは話を遮らず、確認できる情報を一つずつ記録していった。


 船長も立ち会っている。


 ガディの身柄は、ラヴェルへ到着するまで船側で管理し、港の警備隊へ引き渡すことになった。


 話が一段落すると、ティセラが俺へ声をかけた。


「セイン、少し座った方がいいんじゃない?」


「何で?」


「膝」


 見ると、ズボンの膝が破れていた。


 痛みを忘れていたわけではないが、思っていたより傷が深い。


「……ああ」


「今ごろ気づいたの?」


「いや、さっきから痛かった」


「それを早く言いなさい」


 ティセラは呆れた顔をした。


 リゼも黙って俺を見ている。


「……はい。休みます」


 素直に言うと、二人とも少し驚いた顔をした。


 俺の信用は、どこまで落ちているのだろう。


     ◇


 船員に膝を手当てしてもらった後、俺はしばらく客室で休んだ。


 大きな怪我ではなかった。


 擦り傷と打ち身が少しあるだけで、歩くことにも問題はない。


 ただ、手当てを終えた頃には、ようやく身体が重く感じられてきた。


 朝から寝不足だったのだ。


 無理もない。


 少し横になると、窓の外から聞こえる水の音が心地よかった。


 昨日までは、この船の音を聞くだけで落ち着かなかったのに、今は妙に安心する。


 何かあったら起こしてくれとリオルに頼み、俺はしばらく目を閉じた。


 次に起きた時、船は何事もなかったように川を下っていた。


 窓の外には、午後の光が差している。


 上の甲板へ出ると、倒れていた荷物はほとんど片づけられ、壊れた柵も縄と板で応急的に塞がれていた。


 船員たちは忙しそうだったが、乗客の顔には少しずつ落ち着きが戻っている。


 ただ、その中で一人、こちらを見ている小さな影があった。


 サレーンの少女だった。


 父親も少し離れたところにいる。


 少女は俺の前へ来ると、両手に持った木彫りの船を差し出した。


「……これ?」


 俺が尋ねると、彼女は首を振った。


 船を胸へ抱き、それから俺を指す。


 言葉の意味は分からない。


 ただ、何か伝えたいことがあるらしい。


 少女はしばらく考えていた。


 それから、ゆっくりと口を開いた。


「……サーヴァ」


 昨日、河港で聞いた言葉。


 今朝、リゼが何度も発音を直してもらっていた言葉。


 ありがとう。


 その意味を、今度は迷わず理解できた。


「……どういたしまして」


 俺は王都語で答えた。


 少女は少しだけ首を傾げた。


 やっぱり通じていないらしい。


 でも、今度は困らなかった。


 笑ってみせる。


 少女も笑った。


 後ろにいた父親が近づき、胸に手を当てて頭を下げた。


「サーヴァ」


 俺も何となく、同じように胸へ手を当ててみた。


 正しい作法かどうかは分からない。


 けれど、二人が笑ったので、少なくとも大きく間違ってはいないらしい。


 少女は木彫りの船を抱きしめたまま、父親の隣へ戻っていった。


 その背中を見送りながら、俺は昨日のことを思い出していた。


 河港で少女がなくしたのは、小さな木彫りの船だった。


 あの時は、それを拾って渡すだけで済んだ。


 今日は違う。


 大切なものを握りしめた少女自身が、川へ落ちかけていた。


 俺の〈返却〉では、あの子を父親へ戻せない。


 けれど、術が使えなくても、手を伸ばすことはできた。


 リオルが綱を引いてくれて、船員が協力してくれて、リゼも別の乗客を助けていた。


 誰か一人の力ではない。


 それでも、少女は無事に父親のもとへ戻った。


「……セイン」


 隣から声がした。


 振り向くと、リゼが立っていた。


「また見てました?」


「今度は見てました」


「正直だな」


「いい顔をしていたので」


「……そう?」


「はい」


 リゼは少女の背中を見た。


「言葉が通じなくても、ちゃんと伝わるんですね」


「そうだな」


「さっき、あの子も笑ってました」


「ああ」


「よかったですね」


 その言葉に、俺は素直に頷いた。


「……うん。よかった」


 リゼは少しだけ考え、それから小さく笑った。


「セインの〈返却〉じゃなくても、できることってあるんですね」


「そうみたいだな」


「じゃあ、また一つ増えましたね」


「何が?」


「セインにできることです」


 俺は一瞬、返事に困った。


 さっきまで、自分には人を返す力がないことを考えていた。


 でも、リゼはできないことではなく、今日できたことを数えている。


 何となく、彼女らしいと思った。


「……お前もな」


「私も?」


「老女の人を助けてただろ。それに最後、あの男を転ばせたのもお前だ」


 リゼは少し驚いた顔をした。


 それから、満足そうに頷く。


「では、二人とも一つ増えましたね」


「そうだな」


 船の先に、遠くの岸が見えていた。


 船員の話では、明日の昼前にはラヴェルへ着くという。


 ようやく海が近づいてきた。


 その町には、旧西税関第四保管庫がある。


 二十八年前、ローディス・フェンが誰かを連れて訪れた場所だ。


 そして今日、新しい行き先も増えた。


 第七埠頭の灰鴎亭。


 ガディが記憶瓶を運ぶはずだった、もう一つの場所。


 誰がそこで箱を待っているのかは、まだ分からない。


 セヴァンたちと同じ組織なのか、それとも別の人間なのかも不明だ。


 けれど、少なくとも俺たちを追っている相手は、王都を出た今も手を伸ばしてきている。


 調査は、思っていたより危険になるかもしれなかった。


「……セイン」


 リゼが呼んだ。


「何?」


「サーヴァの次、何を覚えたいですか?」


「サレーン語?」


「はい。せっかくなので」


 俺は少し考えた。


 少女を助けようとして、手を伸ばした時のことが頭へ浮かぶ。


 俺は何度も声をかけた。


 でも、あの子には何一つ伝わっていなかった。


「……『大丈夫』かな」


 リゼがこちらを見た。


「どうして?」


「今日、あの子に何度も言ったけど、通じなかったから」


 答えると、リゼは少しだけ笑った。


「セインらしいですね」


「そう?」


「はい」


「お前は?」


「私は『美味しい』です」


「……やっぱりか」


「だって、これからラヴェルへ行くんですよ」


「そうだけど」


「美味しいものを食べた時、お店の人に伝えたいじゃないですか」


 俺は笑ってしまった。


 確かに、それも誰かに伝えたい大切な言葉なのだろう。


「……じゃあ、二つとも覚えるか」


「はい!」


 リゼは嬉しそうに頷いた。


 川の向こうでは、遠くの空が少し白く霞み始めている。


 あの先には、まだ見たことのない海がある。


 そこで俺たちは、知らない人々と出会う。


 敵だと思っていた人間に助けられることもあれば、普通に働いているように見えた人間から襲われることもあるのだろう。


 それでも、知らないものすべてを怖がっていたくはなかった。


 今日、名前すら知らない少女が俺へ伝えてくれた一言が、少しだけその気持ちを強くしてくれた気がする。


 サーヴァ。


 この船に乗るまで、知らなかった言葉だ。


 明日には、もっと多くの言葉を聞くことになる。


 そのすべてを理解するのは難しい。


 でも、少しずつ覚えていけばいい。


 助けを求める人がいた時、その人の怖さを少しでも理解できるように。


 嬉しいことがあった時、一緒に笑えるように。


 そして、誰かが大切なものをなくした時、何を返してほしいのか、ちゃんと聞けるように。


 船は、夕方の川を静かに下り続けていた。


 俺たちの知らない海へ向かって。

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