第四十三話 川は海まで続いている
王都の城壁が見えなくなってから、俺は思っていた以上に長い時間、馬車の窓から外を眺めていた。
畑が続く。たまに森が現れ、その間を抜けると、また別の畑が広がっている。街道の脇には石を積んだ低い塀があり、牛を連れた農夫や、荷車を押す商人とすれ違った。
珍しいものばかり、というわけではない。
王都の周辺にも畑はあるし、こういう景色なら絵や地図で見たことがある。それでも、いつもの仕事場へ戻る道ではなく、見知らぬ港町へ向かう道なのだと思うと、窓の外が少し違って見えた。
「……セイン」
向かいに座るリゼが、俺を呼んだ。
「何?」
「あの人、何してるんでしょう」
窓の外では、畑の脇に立った男が用水路へ手を向けていた。
細い水の流れが不自然に曲がり、別の畑へ注がれていく。男の傍らには木札が立てられていた。
『〈誘水〉 一区画につき三銅貨』
「……水を動かしてるのか」
「みたいですね。あれ、お仕事なんでしょうか」
「料金が書いてあるからな」
俺はもう一度、木札を見た。
王都でも、固有術を仕事へ使う人間は珍しくない。俺だって、〈返却〉を使って給料をもらっている。
ただ、俺の場合はまず第七係の職員という仕事があり、その仕事に固有術を使っている。
あの男は少し違うらしい。
水を動かすという能力そのものを、必要としている農家へ売っているのだ。
「ティセラが言ってた通りだな」
俺が呟くと、本人が資料から顔を上げた。
「何が?」
「街道沿いじゃ、固有術だけで商売してる人が多いって話」
「ええ。毎日同じ場所で働く必要がないなら、依頼に応じて移動する人もいるでしょうね」
ティセラは馬車の揺れにも構わず、膝の上で古い記録を読んでいた。
俺なら数分で気分が悪くなりそうだ。
「酔わないの?」
「何に?」
「馬車に」
「慣れてるから」
「研究者って、そんなに馬車へ乗るのか?」
「資料を取りに行くこともあるもの。王都の中だけで研究していたら、見つからないものは多いわ」
そう言って、また紙へ目を落とした。
リゼは窓の外へ視線を戻している。
「じゃあ、セインも個人で〈返却〉のお店を出せますね」
「出さないよ」
「まだ何も言ってません」
「顔に書いてある」
「……最近、私の真似をしません?」
そう言って笑う。
「でも、落とし物一件につきいくら、って書いておけば、お客さんが来るかもしれませんよ」
「第七係でやってることと変わらないだろ」
「自分でお値段を決められます」
「俺の給料を増やす話?」
「私もお手伝いできますし」
「……取り分は?」
「相談しましょう」
「商売する気満々じゃないか」
リオルが隣で笑った。
「お前ら、いつの間に共同経営の話になってるんだよ」
「なってない」
「まだ相談中です」
「リゼも否定してくれよ」
馬車の中に笑い声が広がった。
窓の外では、用水路の男が農夫から銅貨を受け取り、次の畑へ歩いていく。
その背中を見ながら、ふと思った。
同じ固有術でも、誰のために、どんな条件で使うかによって仕事の形は変わる。
エルセは、回収係は中身を聞かないと言っていた。
あれも彼女にとっては、仕事の決まりなのだろう。
俺には理解できないが、あの場所を離れた今でも、時々その言葉が気になっていた。
仕事の規則と、自分が正しいと思うこと。
その二つが違った時、あの人はどうするのだろう。
「……セイン?」
リゼがこちらを見ていた。
「何?」
「また難しい顔です」
「そう?」
「はい。お仕事のことを考えてました?」
「ああ、少し」
リゼは納得したように頷いた。
「大丈夫ですよ」
「何が?」
「ラヴェルに着くまで、まだ時間がありますから」
そう言って、窓の外へ向き直る。
「今は外を見ましょう。私、まだ全然見足りません」
俺は少し笑った。
確かにそうだ。
分からないことを、馬車の中で考え続けても答えは出ない。
それなら今は、まだ知らない景色を見ておけばいい。
◇
午後の早い時間に、馬車は街道沿いの宿場へ入った。
大きな井戸を中心に食堂や馬屋、道具屋が並び、旅人と荷車が絶えず行き交っている。王都の市場に比べれば小さな場所だが、どの店にも人が集まっていて、妙に活気があった。
「少し休憩するそうだ」
御者が馬を降りるのを見て、リオルが言った。
「昼飯もここで済ませよう」
「賛成です」
リゼの返事が早かった。
俺は彼女の鞄を見た。
「食べ物、いっぱい持ってきただろ」
「持ってきたものと、ここでしか食べられないものは別です」
「……それはそうか」
そう言われると、俺まで少し興味が湧いてくる。
宿場の中央では、串に刺した川魚を焼いていた。
魚の腹には香草が詰められ、表面に振った粗い塩が火の熱で白く浮いている。脂が落ちるたび、炭の上で小さく音がした。
匂いにつられて近づくと、店の主人が顔を上げた。
「四人かい?」
「はい」
「ちょうど焼けたところだよ。川を下る船の連中にも人気なんだ」
リゼが魚を見つめた。
俺はその横顔を見てから、主人へ言った。
「四本ください」
「セイン」
「何?」
「私、まだ何も言ってません」
「言う前に分かった」
リゼは少し驚いた顔をした後、嬉しそうに笑った。
「ありがとうございます」
「昼飯代から引いとくからな」
「……おごりじゃないんですか?」
「今の感謝、返してくれる?」
「もう言ったので返せません」
「都合いいな」
主人が笑いながら魚を包んでくれた。
俺たちは井戸のそばにある長椅子へ座り、熱いうちに食べることにした。
皮は香ばしく、身は柔らかい。
王都でも川魚は食べられるが、ここのものは香草の匂いが強かった。少し癖があるものの、食べ進めるうちに気にならなくなる。
「……おいしいな」
俺が言うと、リゼは大きく頷いた。
「はい!」
それから、俺の魚をじっと見た。
「……何?」
「セインも気に入りました?」
「うん」
「よかったです」
「……どうして俺の方を見るんだよ」
「もう一本買おうかなと思って」
「自分の分にしろよ」
「分かってます」
どうだか。
結局、リゼはもう一本買ってきた。
今度は自分で払ったらしい。
少しだけ感心した。
一方、ティセラは魚を片手に持ったまま、道具屋の壁に貼られていた紙を見ている。
「……ティセラ」
「何?」
「食べないの?」
「食べてるわよ」
まだ一口も減っていない。
近づいてみると、壁には仕事の募集が何枚も並んでいた。
『河港荷役 〈浮上〉〈軽量〉歓迎』
『街道補修 土石系固有術優遇』
『船荷乾燥 短期契約可』
どれも能力の種類が先に書かれている。
「本当に、術そのものが仕事になるんだな」
俺が呟くと、ティセラが頷いた。
「ええ。河港へ近づくほど増えるわよ。船会社や商人が、必要な時だけ術師と契約するの」
「便利そうだな」
「便利でしょうね。ただ、珍しい術ほど条件が細かくなることもあるわ」
「条件?」
「どれくらいの重さまで動かせるかとか、一日に何回使えるかとか。仕事に使うなら、限界を知らないと危ないもの」
確かにそうだ。
重い荷物を持ち上げる術を頼んで、途中で力が切れたら困る。
けれど、俺は自分の〈返却〉について同じことを聞かれた場面を想像し、少し嫌な気分になった。
何を返せるか。
何を返せないか。
どんな時に反動があるか。
見ず知らずの人間へ、全部を紙に書いて渡すのだろうか。
「……能力を隠してる人もいるのかな」
「もちろん。登録は義務じゃないし、仕事に使わない人だっているわ」
「じゃあ、みんなが自分の術を公開してるわけじゃないんだな」
「ええ。特に、条件を知られたくない人もいるでしょうね」
ティセラは言い終えてから、ようやく魚を一口食べた。
少し驚いた顔をする。
「……おいしい」
「だろ」
「もう一本買おうかしら」
俺は思わず笑った。
「研究の話してないで、先に食べればよかったのに」
「研究の話も大事なの」
「魚は冷めるぞ」
「分かったわよ」
彼女はそう言って、残りを食べ始めた。
リオルは少し離れた場所で、御者と次の道程を確認している。
リゼは井戸のそばで、子供たちが遊んでいる様子を眺めていた。
誰かが何かを落とすと、別の子供が拾って渡している。
王都でも見慣れた光景だ。
俺はそれを見ながら、妙なことを考えた。
なくしたものを返す仕事は、場所が変わってもなくならない。
ただ、そこに暮らす人々の事情は、きっと一つひとつ違う。
ラヴェルで見つけることになるものも、俺たちが思っているような形をしているとは限らなかった。
◇
宿場を出てから、馬車はしばらく低い丘の間を走った。
道の左右には畑が広がり、時々、水を運ぶ細い用水路が街道を横切っていく。
日が傾き始めた頃だった。
「……あれ、何ですか?」
リゼが窓の外を指した。
最初は、遠くに青い平原でも広がっているのかと思った。
しかし、馬車が丘を越えると、それが水面だと分かった。
大きな川だった。
王都を流れる川とは、幅がまるで違う。
向こう岸が夕方の霞で薄くなり、大小の船が何隻も行き交っている。岸辺には長い桟橋が続き、その後ろには背の高い倉庫が立ち並んでいた。
「……あれ、本当に川なのか?」
俺が聞くと、リオルが窓へ身を寄せた。
「ああ。王国西部を流れる大河だ。ここから河船へ乗り換える」
「海じゃないんですよね?」
リゼが尋ねる。
「海はもっと先だよ」
「……これより大きいんですか?」
「ずっとな」
リオルは当然のように答えた。
俺はその顔を見た。
「お前、海を見たことあるの?」
「あるよ」
「……いつ?」
「警備隊の仕事で。一度だけだけど」
「裏切り者」
「何の話だよ」
「俺たちと初めて見るんじゃなかったのか」
「そんな約束した覚えないぞ」
リゼが横から笑った。
「セイン、初めて組は私たちだけですね」
「そうらしいな」
「じゃあ、二人で驚きましょう」
「驚くのは決定なんだな」
「だって、この川より大きいんですよ」
彼女は窓の向こうへ顔を向けた。
確かに、今見えている水面だけでも十分に大きい。
この先に、それより遥かに広い水がある。
頭では分かっているつもりでも、実感は湧かなかった。
馬車が坂を下りると、河港の騒がしさが少しずつ近づいてくる。
荷車の車輪が石畳を鳴らし、船員たちが大きな声で何かを伝え合っている。水辺には魚を干した匂いと、濡れた木材の匂いが混ざっていた。
知らない言葉も聞こえてくる。
「……今の、何語だ?」
俺が尋ねた。
「サレーン語じゃないかな」
リオルが答える。
「分かるの?」
「警備隊で少し聞いたことがあるだけ。意味は分からない」
「じゃあ俺と同じじゃないか」
「お前が聞いたんだろ」
もっともだった。
馬車を降りると、聞き慣れない言葉はさらに増えた。
船員たちが二つか三つの言葉を交ぜて会話していたり、商人らしい女が途中から別の言葉へ切り替えたりしている。
服装も王都とは少し違った。
長い上着の裾に鮮やかな模様が入っている者もいれば、幅広の布を頭に巻いている者もいる。近くの荷役人は、その違いを気にする様子もなく、次々に木箱を運んでいた。
ここでは、いろいろな土地から人が来ることが当たり前なのだろう。
俺たちの方が、少し場違いな顔をしているのかもしれなかった。
「……セイン」
リゼが隣へ来た。
「何?」
「さっきから、知らない言葉ばかりです」
「ああ」
「でも、みんなちゃんと話せてますね」
「慣れてるんだろうな」
「羨ましいです」
そう言って、彼女は少し離れた船員たちを見た。
「私も覚えたいです」
「何を?」
「言葉です。せっかく知らない町へ行くんですから」
俺は少し意外だった。
リゼが食べ物以外のことにも興味を持つのは、もちろん知っている。
ただ、彼女は自分の過去について何も覚えていない。
それでも、知らないことを一つずつ覚えようとする姿は、妙に楽しそうだった。
「……いいんじゃないか」
俺が言うと、リゼは笑った。
「じゃあ、何か教えてもらいましょう」
「誰に?」
「話せる人にです」
随分簡単に言ってくれる。
俺たちがその相手の言葉を知らないのに、どうやって教えてもらうのだろう。
そう考えていた時だった。
「すみません」
背後から、少したどたどしい王都語が聞こえた。
◇
振り返ると、髭を生やした男が立っていた。
俺よりずっと大柄で、日に焼けた腕には太い縄の跡が残っている。男は何か言いかけてから、足元を指した。
「これ、見た?」
「……これ?」
そこには、掌に収まるほどの小さな木彫りの船が落ちていた。
木目の粗い、手作りらしい玩具だ。
帆の部分は薄い板を差し込んだだけで、船底には何度も削り直した跡がある。
俺は拾い上げた。
「これ、あなたの?」
尋ねると、男は少し困った顔をした。
それから、後ろにいた小さな少女へ手招きした。
「娘。落とした。大事」
少女は十歳くらいだろうか。
濃い色の髪を編み込み、少し大きめの上着を着ている。俺の手元を見て、目を大きく開いた。
「ああ、そういうことか」
俺はしゃがみ、木彫りの船を差し出した。
「はい。落としたの、これだろ?」
王都語が通じるかは分からなかった。
けれど、少女はすぐに頷き、両手で受け取った。
それから、胸の前へ大事そうに抱える。
「サーヴァ」
少女が言った。
「……何?」
俺が聞き返すと、少女は少し考えてから、もう一度言った。
「サーヴァ」
俺は困って、後ろの父親を見た。
父親も何とか説明しようとしてくれたが、言葉がうまく出てこないらしい。
そこへ、荷物を運んでいた船員が通りかかった。
「ありがとう、だよ」
俺たちの様子を見ていたらしい。
「サレーン語の『ありがとう』」
「……サーヴァ?」
「そう。覚えやすいだろ」
「確かに」
俺は少女を見た。
「どういたしまして、は何て言うの?」
船員が何やら長い言葉を教えてくれた。
聞き終える前に忘れそうだった。
「……もう一回」
もう一度教えてもらう。
今度も途中で分からなくなった。
「難しいな」
船員が笑った。
少女も笑っている。
意味は通じていないかもしれない。
でも、木彫りの船が戻ってきて嬉しいことは、表情を見れば分かった。
「……セイン」
リゼに呼ばれた。
振り向くと、彼女が楽しそうに笑っている。
「何?」
「さっそく落とし物を返しましたね」
「ああ。まあ、拾ったからな」
「〈返却〉も使ってないのに」
「手で渡せるなら、手でいいだろ」
言うと、リゼは小さく頷いた。
「そうですね」
その言い方が、妙に嬉しそうだった。
俺は改めて少女を見る。
大切に抱えられた木彫りの船。
たった今まで失われかけていたものが、持ち主の手へ戻っている。
こういう仕事なら、分かりやすい。
何を落としたのかも、誰が困っているのかも、返すことで喜ぶ人がいることも。
記憶や名前を扱うようになってから、こんな単純な返却が少し懐かしく感じられた。
「サーヴァ」
今度はリゼが言った。
少女が顔を上げる。
少し驚いた後、笑顔になった。
「サーヴァ」
「……合ってます?」
リゼが船員へ尋ねた。
「通じてるよ」
その答えに、彼女は満足そうに頷いた。
「一つ覚えました」
「早いな」
「セインも覚えたでしょう?」
「ああ」
「じゃあ二人とも、今日一つ賢くなりましたね」
「そんなに大げさな話か?」
「大事なことです」
リゼは真面目だった。
俺は少し笑った。
たった一つ、知らない言葉を覚えただけ。
けれど、昨日まで知らなかった人間と少しだけ話が通じたのだから、確かに小さな変化ではある。
「……もう一つくらい覚えて帰るか」
俺が言うと、リゼの顔が明るくなった。
「はい!」
父親は少女の肩へ手を置き、俺たちに何度も頭を下げた。
やがて、二人は船員に呼ばれ、大きな食材の籠を運び始める。
船員が教えてくれた。
「あの人たち、これから出る河船の食堂を手伝ってるんだ。次の港まで乗るらしい」
「そうなんだ」
どうやら、別れたわけではないらしい。
少女は少し離れたところから振り返り、木彫りの船を持ち上げて見せた。
リゼが手を振る。
俺も片手を上げた。
知らない町で、名前も知らない親子と知り合った。
それだけの出来事だった。
けれど、少なくとも今日のことは、しばらく覚えていられそうだった。
◇
河港の窓口では、ラヴェル行きの最終便にまだ空きがあった。
「……乗れるって」
切符を受け取ったリオルが言った。
「本当?」
「ああ。予定より早く着いたから、明日の朝を待たなくて済む」
「やった!」
リゼが思わず声を上げた。
周囲の人間が少し振り向く。
彼女は慌てて口を押さえた。
「……すみません」
「嬉しいのは分かるけどな」
俺が笑うと、リゼは小さく頷いた。
「だって、船ですよ」
「分かってる」
「初めてかもしれないんですよ」
「それも分かってる」
「セインもでしょう?」
「ああ」
リゼは楽しそうに笑った。
俺も少し胸が高鳴っていた。
船なんて、河港で見るまで荷物を運ぶための大きな木箱みたいなものだと思っていた。
ところが実際に乗る船は、思っていたよりずっと立派だった。
二階建ての宿屋を水へ浮かべたような形をしている。
下層には貨物室があり、その上に客室と食堂、さらに上には広い甲板が設けられていた。船尾には大きな外輪がついていて、回るたびに水を押し出す仕組みらしい。
「……これ、動くのか」
思わず呟く。
「動きますよ」
リゼが答えた。
「まだ聞いてない」
「動かなかったら困ります」
「そうだな」
リオルが笑いながら荷物を持ち上げた。
「二人とも、船に乗る前から驚きすぎ」
「お前は見たことあるからいいよな」
「河船は久しぶりだぞ」
「それでも一回はあるんだろ」
「またその話?」
リオルは呆れた顔をした。
俺たちは乗船用の板を渡り、客室へ荷物を運び込んだ。
ティセラは最初に、持ち込んだ茶色い革箱を確認した。
中には例のガラス瓶が入っている。
瓶自体には封蝋と銀線が施され、箱の内側にも、勝手に開けられた時に分かるよう簡易封印が組み込まれていた。
「……ずいぶん厳重だな」
俺が言うと、ティセラは頷いた。
「昨日のことがあるもの。開けられても分からないなんて、二度と嫌よ」
「そうだな」
「航行中は、私たちの誰かが必ず箱の場所を把握しておきましょう」
リオルも頷いた。
「客室の鍵と合わせて管理する。甲板へ上がる時は、全員で一度に離れない方がいい」
「分かった」
俺たちは荷物の置き場所を決め、必要な物だけを手元へ残した。
旅に出る前は、もっと自由に動き回れると思っていた。
けれど、セヴァンたちに一度狙われた以上、警戒が必要なのは当然だった。
それでも、窓の外で外輪がゆっくり動き始めるのを見ると、どうしても落ち着かなくなる。
怖いからではない。
今から本当に船が川へ出ていくのだと思うと、座っていられなかった。
「……俺、ちょっと甲板へ行ってくる」
そう言うと、リゼがすぐに立ち上がった。
「私も!」
「分かってたよ」
「何がですか?」
「お前も行きたいって言うと思った」
リゼは笑った。
「当然です」
◇
甲板へ上がると、さっきまで岸から見ていた景色が、まったく違うものに見えた。
高い位置から見下ろす川は驚くほど広い。水面には夕陽が長く伸び、遠くの船がゆっくりと動いている。
港の建物は少しずつ小さくなり、乗ってきた馬車を降ろした岸辺も、やがて見分けがつかなくなった。
船が進んでいる。
目の前の水が動いているのではなく、俺たちの乗っている大きな船そのものが動いている。
頭では分かっていたが、実際に身体で感じると妙な気分だった。
「……すごいですね」
リゼが手すりへ両手を置いた。
「ああ」
「これ、まだ川なんですよね」
「そうらしいな」
「海って、もっと広いんでしょう?」
「俺に聞かれてもな」
「セインも知らないんでした」
彼女は少し笑った。
それから、川の向こうへ顔を向けた。
夕陽が水面へ溶けていく。
遠くの船から鐘の音が聞こえ、すぐ近くでは外輪が一定の間隔で水を叩いている。
リゼはしばらく黙っていた。
いつもなら、気になるものを見つけるたびに質問が飛んでくる。
けれど今は、ただ景色を眺めていた。
「……どうした?」
俺が尋ねた。
リゼは少し考えてから答えた。
「こんな景色、前にも見たことがあるのかなと思って」
俺は何も言わなかった。
「王都の外へ出たことがあるのかも、船に乗ったことがあるのかも、分からないんですよね」
「……うん」
「でも、今は楽しいです」
彼女はそう言って笑った。
「それだけは、ちゃんと分かります」
その返事が、少し意外だった。
リゼは自分が失ったものについて考えることがある。
当然だろう。
名前も過去も分からないまま、知らない場所を歩いているのだから。
けれど、彼女は何でも過去へ結びつけようとしているわけではないらしい。
覚えていないことを残念に思いながらも、今目の前にあるものを楽しんでいる。
その二つを、どちらか一方に決める必要はないのだろう。
「……俺も楽しいよ」
言うと、リゼがこちらを向いた。
「本当ですか?」
「ああ。知らない場所へ行くの、結構好きかもしれない」
「まだ着いてませんよ」
「だから今のところは、って話」
リゼが笑った。
俺も笑い返し、手すりへ肘を置いた。
風が冷たかった。
川の水は夕陽を映しているのに、岸辺の草はもう暗い色へ変わり始めている。
少しずつ、夜が近づいていた。
「……セイン」
「何?」
「王都に戻ったら、誰かに話せますかね」
「今日のこと?」
「はい。知らない言葉を覚えたこととか、あんなに大きな川を見たこととか」
「話せるだろ」
「じゃあ、誰に話しましょう」
少し考えた。
「係長とか」
「また仕事を増やされそうですね」
「それは嫌だな」
「ニコにも?」
「ああ。あいつなら船の話、喜ぶかもな」
「じゃあ、ニコには絵を描いてあげます」
「前より似るといいな」
「船は人の顔じゃありません」
「そういう問題なのか」
リゼは少し得意そうだった。
俺は彼女の横顔を見ながら、何となく安心していた。
こうして新しい話が増えていく。
なくした記憶を探す旅の途中でも、別の思い出を作ることはできるのだ。
あの瓶の持ち主にとっても、同じだったのだろうか。
黒い髪の女と、パンの端を残す男の子。
家へ帰ると約束していた男は、あんな時間をもう一度過ごしたいと思っていたのだろうか。
分からない。
ただ、思い出の中で交わされた何でもない会話が、今になっても妙に頭から離れなかった。
「……セイン?」
リゼが俺を見ていた。
「何?」
「また考えてました?」
「ああ、少し」
「じゃあ、今は休憩です」
「何から?」
「お仕事から」
彼女はそう言って、川の向こうを指した。
「見てください。あそこ、鳥がいます」
何羽もの鳥が水面の上を飛び、遠くの岸へ消えていった。
俺はその後を目で追った。
確かに今は、仕事を忘れてもいい時間なのかもしれない。
◇
船内の夕食は、王都で食べ慣れているものとは少し違っていた。
魚を香辛料と一緒に煮込んだ料理に、酸味のある野菜の漬物。それから、丸く焼かれた少し硬いパンがついてくる。
リゼは当然のように、すべて気に入った。
「……二杯目?」
俺が聞くと、彼女は頷いた。
「はい」
「さっき魚、二本食べなかった?」
「それは昼ご飯です」
「そうだったな」
「今は夕ご飯なので」
何も間違っていない。
ただ、こいつの胃袋はどうなっているのだろう。
食堂では、先ほど河港で会ったサレーンの少女が父親と一緒に働いていた。
少女は食器を運び、父親は船員と話しながら食材の籠を片づけている。
俺たちに気づくと、少女は嬉しそうに手を振った。
「サーヴァ!」
リゼがすぐに返した。
少女は笑って頷いた。
「……覚えてたんだな」
俺が言うと、リゼは少し胸を張った。
「今日習ったばかりですから」
「発音、合ってる?」
「たぶん」
「……たぶんか」
「通じてるから大丈夫です」
確かに、少女は嬉しそうだった。
父親もこちらへ会釈している。
言葉が完璧でなくても、伝わることはあるらしい。
一方、ティセラは隣の席にいた商人の荷箱を見て、食事の途中から質問を始めていた。
古い印が押されているらしく、研究者として気になったのだろう。
「……ティセラ、食事中だぞ」
俺が言うと、彼女は一度だけこちらを向いた。
「分かってるわ。食べ終えたら見せてもらう約束をしてるの」
「ちゃんと許可取ったんだな」
「当然でしょう」
それならいい。
少し安心した。
研究熱心なのは結構だが、知らない人の荷物を勝手に調べ始めたら大変なことになる。
俺たちは食事を終え、それぞれの時間を過ごすことにした。
ティセラは商人のところへ。
リゼはさっきの少女に、別の言葉を教わろうとしている。
リオルは甲板へ上がると言った。
俺はしばらく客室で荷物を確かめ、それから少し風に当たることにした。
◇
夜の甲板は、昼間とまるで違う場所になっていた。
頭上には星が広がり、船の左右で砕ける水だけが、月明かりを受けて白く浮かんでいる。
川岸には時々、小さな明かりが見えた。
村か、船着き場か。
それすら分からないまま、明かりはゆっくり後ろへ流れていく。
手すりの近くでは、先にリオルが立っていた。
「……珍しいな」
俺が言うと、彼は振り返った。
「何が?」
「一人で静かにしてる」
「お前、俺のこと何だと思ってる?」
「人が多いところにいる奴」
「それは否定しないけど」
リオルは笑った。
俺は隣へ立ち、暗い水面を眺めた。
「……王都の外、久しぶり?」
「ああ。警備隊の仕事で隣の州へ行って以来だから、一年ぶりくらいかな」
「ラヴェルも行ったことある?」
「一回だけ。港の警備隊へ書類を届けただけだけどな」
「どんな町だった?」
リオルは少し考えた。
「うるさい」
「係長と似たような感想だな」
「あの人は臭いって言ってたんだろ?」
「ああ」
「両方合ってるよ」
俺は笑った。
ただ、リオルはまだ何か考えているようだった。
「……あと、王都が思ってたより普通の町に見えるようになった」
「どういう意味?」
「王都にいると、何でも王都が基準になるだろ。国王もいるし、王立機関もある。地方から人が集まってくるし、みんなが王都のことを知ってるような気になる」
「……そうだな」
「でも、外へ出ると、王都に行ったことがない人間なんて普通にいるんだよ。その人たちは、それぞれ自分の町で仕事をして、家族と暮らしてる」
リオルは川の向こうを見た。
「俺たちにとっての王都が、世界中の人間にとっても特別なわけじゃないんだ」
それは、今日の道中で俺も少し感じていたことだった。
街道の農夫にとって大切なのは、王都の役所より畑へ引く水なのかもしれない。
河港の少女にとっては、王立機関の名前より、小さな木彫りの船の方がずっと重要だろう。
別に、それが悪いわけではない。
誰にだって、自分の生活がある。
「……じゃあ、お前にとって王都は普通の町になったのか?」
俺が尋ねると、リオルは首を振った。
「違うよ」
「何で?」
「帰る場所だから」
思っていたより早い返事だった。
「知ってる店があるし、歩き慣れた道がある。子供の頃に遊んだ場所だって残ってる。俺がどんな人間か知ってる奴もいる」
リオルは少し笑った。
「世界の中心だから大事なんじゃない。俺が帰りたいから、大事なんだよ」
俺は黙って聞いていた。
青鐘通りのことが頭に浮かんだ。
地図から消えたあの通りには、ずっと暮らしてきた人々がいた。
王都の一部であることを忘れられても、そこには毎日の生活があった。
朝になれば店が開き、夕方には食事の匂いがして、子供たちが道を走っていた。
誰のものでもない道なのに、そこを帰る場所にしている人たちがいる。
「……帰属って、そういうものなのかな」
思わず呟いた。
「何?」
「いや。自分が帰りたいと思える場所があるって、結構大事なんだなと思って」
リオルは少し考えた。
「そうだな」
「俺、青鐘通りでそれをずっと考えてたんだ」
「ああ」
「〈返却〉で戻せる場所があることと、本人がそこへ戻りたいことは、違うかもしれない」
俺は暗い川を見た。
「だから、何でも返せばいいわけじゃないんだろうな」
言葉にしてみると、以前より自然に感じられた。
あの瓶の持ち主が誰なのか、まだ分からない。
もし見つかったとしても、失ったものを返してほしいと思うかどうかは、その人に聞かなければならない。
「……お前、少し変わったな」
リオルが言った。
「何が?」
「前なら、返せるかどうかを先に考えてた気がする」
「そうかな」
「うん。今は、その後のことまで考えてる」
俺は少し気恥ずかしくなった。
「……お前がそんなこと言うの、珍しいな」
「また『たまに』って言ったら殴るぞ」
「学習してるよ」
「ならいい」
リオルは笑った。
俺も笑い、手すりへ肘を置いた。
船は静かに川を下り続けている。
この水は、やがてラヴェルへ着き、そこから海へ流れていくのだろう。
王都にいた頃には、川がそんなに遠くまで続いていることを意識したことがなかった。
自分の知っている景色が、そこで終わっているわけではない。
その向こうにも、誰かの生活が続いている。
そんな当たり前のことが、今日は少し新鮮だった。
◇
「……セイン」
リオルの声が低くなった。
「何?」
「あいつ、さっきからこっちを見てる」
リオルが目だけで示した先に、男が一人立っていた。
貨物を積んだ場所の近くで、縄の具合を確かめている。
年齢は三十代くらいだろうか。
短く切った黒髪に、使い込まれた作業着。片手には手袋をはめ、もう片方の手で荷物の留め具を触っていた。
いかにも船の仕事をしている人間に見える。
「……知り合い?」
俺が尋ねると、リオルは首を振った。
「いや。さっき食堂へ入る時にも目が合った」
「俺たちが王都から来たって分かったんじゃない?」
「そうかもしれない」
男は俺たちの視線に気づいたのか、顔をそらして荷物を確認し始めた。
それだけなら、特に怪しいところはない。
ただ、少し気になることがあった。
「……リオル」
「何?」
「あの人の靴」
「また靴か」
「仕事だからな」
「お前の仕事は落とし物だろ」
「靴屋の息子でもある」
リオルは呆れたように笑ったが、すぐ男の足元へ目を向けた。
「……変なのか?」
「何とも言えないけど」
俺はもう少しよく見た。
靴の表面には泥がつき、爪先にも細かい傷がある。
長く使われているものだ。
しかし、靴底の外側だけが妙に滑らかだった。
重い荷物を運ぶ人間なら、床や石畳を踏みしめる時に、もう少し不規則な傷がつく。
ところが男の靴には、何度も同じ方向へ擦れたような跡があった。
歩いてすり減ったというより、何かの上を繰り返し滑ったような減り方だ。
「……底の減り方が少し変なんだ」
「新しい靴じゃないの?」
「違う。古いけど、普通の歩き方でつく傷じゃない気がする」
リオルの表情が変わった。
「確か?」
「いや。遠くから見ただけだから」
俺は首を振った。
「職業病かもしれない」
「……そうか」
リオルは男を見ていた。
警備隊員として何か気になることがあるのかもしれない。
けれど、俺たちはその人が誰なのかも知らない。
靴底が変わっているだけで犯罪者扱いするわけにはいかなかった。
「……今は様子を見よう」
俺が言うと、リオルが頷いた。
「そうだな。ただ、夜は少し気をつけたい」
「交代で見る?」
「ああ。お前は先に休め。俺が最初に見ておく」
「お前だけに任せるのも悪いだろ」
「後で起こすよ」
リオルはそう言って笑った。
「……分かった」
俺は頷いた。
以前なら、自分で男のところへ行って話しかけていたかもしれない。
何か分かるまで帰ってこない。
たぶん、そんな行動を取っていた。
今はリオルと相談して決められる。
その方がずっといいのだと、ようやく分かってきた。
男はしばらく貨物を確認した後、船内へ入っていった。
その背中を見送りながら、俺は少しだけ落ち着かない気分になった。
何も起きなければいい。
ただ、それだけだった。
夜風が吹く。
遠くの岸では、家々の明かりが小さく灯っている。
その向こうに、俺たちの知らない町が続いているのだろう。
「……この川、どこまで続くんだろうな」
俺が呟くと、リオルが答えた。
「ラヴェルまで。そこから先は海だ」
「そうだったな」
「明日には、もっと広くなるぞ」
「楽しみだな」
「お前、さっきまで警戒してたのに」
「警戒してても、楽しみなものは楽しみだよ」
リオルは少し笑った。
「それでいいんじゃない?」
俺も笑った。
明日になれば、また知らない景色を見るだろう。
王都では聞いたことのない言葉も、知らない料理も、まだ見たことのない固有術もあるかもしれない。
その中には、危険なものだってあるはずだ。
けれど、だからといって、知らない場所へ行く楽しさまで失いたくはなかった。
俺はもう一度、川の向こうを眺めた。
暗い水面には船の灯りが揺れている。
その流れは、今も絶えず西へ向かっていた。
王都から続いてきた道が、いつの間にか川へ変わり、やがて海へつながっていく。
この先に、記憶の中で見た家族の手がかりがあるのかもしれない。
そのために俺たちはラヴェルへ向かっている。
今はまだ分からないことの方が多いが、少なくとも、調べるべき場所は決まっている。
旧西税関第四保管庫。
二十八年前、ローディス・フェンが名前の残らない同行者とともに訪れた場所だ。
俺はそこへ行き、残された記録を確かめたい。
あの男が誰だったのか。
誰が記憶を失い、誰がそれを保存したのか。
そして、今もその記憶を返してほしいと思う人がいるのか。
答えは、まだこの川の先にある。
「……そろそろ戻るか」
リオルが言った。
「ああ」
「お前、ちゃんと寝ろよ」
「分かってる。交代する時は起こして」
「了解」
俺たちは甲板を離れた。
船室へ戻る途中、貨物区画へ続く階段が目に入った。
さっきの男が、あの先にいるのだろうか。
少しだけ足を止めたが、結局そのまま歩き出した。
今は、気になることを一つ残しておくくらいでいい。
何もかも、その場で確かめる必要はないのだから。
船は夜の川を下り続けていた。
そして俺は、明日もまた新しいことを一つくらい覚えられたらいいと思いながら、客室の扉を開けた。




