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王都の返却士 ~その落とし物、世界のものです~  作者: 紙森 灯
第三章 誰も覚えていない男

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第四十二話 王都を出る日

 

 出発前日の夕方、俺は自室の床に靴を三足並べ、しばらくその前で腕を組んでいた。


 普段履きの革靴は足に馴染んでいるが、底が少し薄い。雨に強い一足は重く、長時間歩くには向いていない。最後の一足は実家で自分用に直したもので、履き心地だけなら一番だった。ただ、縫い目に傷みがあるので、水気の多い港町へ持っていくには少し心配が残る。


「……二足あれば十分だよな」


 誰に言うでもなく呟いた。


 問題は、その二足を決めるために、もう十分以上悩んでいることだった。


 普通の人間なら、適当な靴を選んで終わるのだろう。だが、靴屋の家で育ち、革の状態を確かめることが習慣になっている俺には、それが難しい。


 父なら、どの靴を選ぶだろう。


 そう考えてから、少し笑ってしまった。


 父はたぶん、まず三足とも手に取って縫い目と靴底を確かめる。そして、必要な修理を済ませてから持っていけと言うに違いない。


 結局、俺は普段履きの革靴と雨に強い一足を選び、もう一足は棚へ戻した。


 靴の手入れ道具を鞄へ入れると、荷造りはあっけなく終わった。


 机の上には、ラヴェルへの調査許可証の控えが置かれている。


 二日ほど前まで、あの港町は地図で見ただけの場所だった。それが今では、明日の朝には王都を離れ、何日もかけて向かう行き先になっている。


 目的は、記憶が入っているかもしれないガラス瓶の持ち主を探すことだ。


 その瓶から見えた港町には、黒髪の女と小さな男の子がいた。男の子が父親と呼んでいた人物は、ローディス・フェンを知っていたらしい。


 さらに、瓶を奪おうとしたセヴァンが使っていた道具には、ラヴェルの旧税関印が残っていた。


 別々に見つかった手がかりが、少しずつ同じ場所を指し始めている。


 だから、行く。


 そう決めたはずなのに、俺はもう一度棚へ目を向けた。


 やっぱり、直した靴の方が歩きやすいかもしれない。


「……駄目だな」


 自分に呆れながら、鞄の口を閉じた。


 こんなことで迷っている場合ではない。


 ただ、足が痛くなれば、大抵の決意は少し弱くなる。


 その意味では、靴選びだって立派な旅の準備なのだ。


 少なくとも、俺はそう思うことにした。


     ◇


 翌朝、第七係へ行くと、俺より旅支度の下手な人間が二人いた。


 一人はティセラだった。


「……それ、全部持っていくの?」


 机の横には革鞄が三つと木箱が二つ。その上には、丸められた地図や資料筒が何本も積み上がっている。


「当然よ」


「引っ越すの?」


「調査に行くの」


「そこは知ってる。どうしてこんなに多いんだよ」


 ティセラは手近な鞄を開いた。


「古式封印の記録、王国成立以前の術式分類、港湾施設の建築図。それから、ラヴェルの地質資料と封蝋の照合記録も必要ね」


「……もういい」


「まだ半分も説明してないわよ」


「聞いた俺が悪かった」


 ティセラは不満そうだったが、すぐに資料の整理へ戻った。


 俺は木箱を一つ持ち上げてみた。


 重い。


「誰がこれ運ぶんだ?」


「馬車でしょう」


「船を降りた後は?」


「セイン」


「どうして俺なんだよ」


「若いから」


「リオルの方が一つ年上だろ」


「警備隊員には装備があるもの」


「俺にも荷物あるんだけど」


「あなたの荷物は軽そうね」


 そんな理由で運搬係を決めないでほしい。


 抗議しようとしたが、ティセラはすでに別の箱へ資料を詰め始めていた。


 これ以上話しても無駄だろう。


 俺は木箱を元へ戻し、隣の机へ向かった。


 もう一人の問題児が、そこにいた。


「……リゼ」


「はい」


「その袋は?」


「旅の必要品です」


 椅子の上に、大きな布袋が置かれている。


 衣類を入れた鞄は小さいのに、その袋だけが妙に膨らんでいた。


「何が入ってる?」


「必要なものです」


「だから、それが何か聞いてるんだよ」


 リゼは少し考えた後、袋の口を開いた。


 中には焼き菓子、干した果物、硬いパン、木の実、飴がぎっしり詰められている。


「……食べ物ばっかりじゃないか」


「だから、旅の必要品です」


「着替えは?」


「あっちの鞄です」


「ずいぶん小さいな」


「服は洗えますけど、食べ物は食べたらなくなるでしょう?」


「それはそうだけど」


「だったら多めに必要です」


 反論できそうで、うまくできなかった。


 リゼは真剣に言っている。


「船でも食事は出ると思うぞ」


「出なかったら?」


「宿場でも買えるだろ」


「売り切れていたら?」


「……どれだけ心配なんだよ」


「食べ物については慎重なんです」


 彼女は胸を張った。


 その慎重さを、ほかのことにも少し分けてもらいたい。


「一包みくらいなら俺の鞄に入れてもいいよ」


 何となく言うと、リゼの顔が明るくなった。


「本当ですか?」


「ああ。一つだけな」


「では、これを」


 渡されたのは、袋の中で一番大きな焼き菓子の包みだった。


「……一つって、そういう意味じゃない」


「一包みです」


「ずるくないか?」


「セインがそう言ったんですよ」


 確かに言った。


 俺はしばらく包みを見つめ、結局自分の鞄へ入れた。


 こういう時に断れないのが、最近の俺の悪いところらしい。


「ありがとうございます」


 リゼが満足そうに笑う。


 それから小さな布包みを取り出し、衣類の鞄の内側へしまった。


 真鍮の触れ合う音がした。


「それは?」


「札です」


「お前の名前の?」


「それもあります」


 彼女は少しだけ得意そうな顔をした。


「セインの札も、ちゃんと持っていきます」


「……あれ、完成したのか?」


「はい」


「何を書いたんだよ」


「前にお話ししたことです」


「悪口も?」


「記録です」


 同じことを言っている気がした。


 俺は見せてもらおうかと思ったが、やめた。


 リゼが俺のことを忘れないために作った札だ。自分で読んで、余計な文句をつけるのも違う気がする。


「なくすなよ」


「もちろんです」


 彼女は鞄の口をきちんと閉じた。


「大事なものなので」


 その言い方が妙に真面目で、俺は少し照れくさくなった。


「……なら、いいけど」


 リゼは笑い、それ以上は何も言わなかった。


     ◇


 リオルは小さな革鞄を一つ持ってきただけだった。


「……それで全部?」


 俺が尋ねる。


「ああ」


「着替えは?」


「入ってる」


「予備の道具は?」


「必要なものは身につけてる」


「替えの靴は?」


「持ってない」


 俺は顔をしかめた。


「四日以上移動するんだぞ」


「今の靴で十分だろ」


「途中で雨が降ったら?」


「乾かせばいい」


「底が剥がれたら?」


「お前が直せばいいじゃん」


「俺を何だと思ってるんだよ」


「靴屋の息子」


 間違ってはいない。


 間違ってはいないが、それだけで納得できる話でもなかった。


 リオルは俺の鞄を覗き込んだ。


「お前、靴二足も持っていくの?」


「必要だからな」


「そっちこそ荷物増えるじゃん」


「履き物は別だよ」


「そこだけ急に職人になるな」


 俺はリオルの靴を見た。


 つま先はまだ丈夫だが、踵の外側が少し摩耗している。長く歩けば、体重のかかり方が偏りそうだった。


「……ちょっと足出して」


「何で?」


「確認するから」


「今?」


「今しかないだろ」


 リオルは呆れた顔で片足を差し出した。


 靴底を触り、縫い目を確かめる。


 修理が必要なほどではない。ただ、湿った道では滑りやすくなるかもしれない。


「替えを一足持っていけよ」


「荷物増えるだろ」


「剣が折れたら予備を探すだろ。それと同じだよ」


「靴と剣を同じにするか?」


「どっちも使えなくなったら困る」


 リオルは少し考えた後、笑った。


「……分かった。持ってくよ」


「最初からそうしろよ」


「子供の頃から変わんないな、お前」


「何が?」


「靴のことになると急に真剣になるところ」


 そう言われて、俺も少し笑った。


 リオルとは長い付き合いだ。


 こいつは昔から身体を動かすのが得意で、俺は物を直したり、どうして壊れたのか考えたりする方が好きだった。


 性格は違うのに、こうして並んでいることに違和感がない。


「……向こうでも頼むな」


 俺が言うと、リオルは鞄を肩へ掛け直した。


「おう。仕事だからな」


「友達だから、じゃないのか」


「仕事の方が格好つくだろ」


「そういうもの?」


「そういうもの」


 リオルは笑った。


 俺も笑い返したところで、係長に呼ばれた。


「二人とも、ちょっといい?」


 振り返ると、係長が書類を一束持って立っている。


「何?」


「出発前に見ておいてほしいものがある」


     ◇


 係長の机には、昨日まで見なかった古い資料が並んでいた。


 紙の端は黄ばみ、綴じ糸もところどころほつれている。


 その一番上に、王立遺失物管理局の古い印が押されていた。


『ヴェルナ王国王立遺失物管理局』


『第七係 地方調査記録』


「二十八年前のものだよ」


 係長が言った。


 俺は椅子を引き寄せた。


「見つかったの?」


「ああ。昨日、君が瓶の中で見た旧税関印と、ローディスの名前を手がかりに、古い出張記録を調べ直したんだ」


 係長は一枚の紙を前へ出した。


 日付と出張先が書かれている。


『出張先:ラヴェル港 旧西税関第四保管庫』


 俺はその文字を見つめた。


「……第四保管庫?」


「そう。旧西倉庫区の端にあった施設らしい」


 昨日までの手がかりは、広い旧西倉庫区だった。


 それが今、一つの建物の名前になった。


「何を保管していたの?」


 ティセラが横から尋ねた。


「そこが欠けている」


 係長は次の欄を示した。


『保管品目:――』


 文字の一部が読めなくなっている。


 ただし、どの文字があったのかまでは分からない。


「記憶かもしれない?」


 リゼが尋ねる。


「まだ分からない。でも、今回の瓶と無関係だと決める理由もないね」


 係長はそのまま紙をめくった。


 次の欄には、調査担当者の名前が残されていた。


『調査担当:ローディス・フェン』


 思わず身を乗り出す。


「……本当にローディスだ」


「ああ」


 係長は頷いた。


「そして、その下を見て」


『同行:第七係職員 一名』


 それだけだった。


 俺はしばらく、その行を見つめた。


「……名前がない」


「そうなんだ」


「消された跡は?」


「今のところ確認できない。削った形跡も、読めない文字が残っている様子もないんだ」


 係長は紙を窓の方へ持ち上げ、光へ透かして見せた。


「最初から『一名』とだけ記載されていたように見える」


「そんな出張記録、普通は作らないだろ」


「少なくとも、うちでは作らないね。氏名か職員番号くらいは必要だから」


 リオルが腕を組んだ。


「その一人が、四十二人から忘れられた男なのか?」


 俺も同じことを考えていた。


 けれど、まだ名前のない職員がその人物だとは限らない。


 分かっていることを順番に並べる。


 二十八年前、ローディスは誰か一人を連れてラヴェルへ向かった。


 今回、瓶から見えた港町には、ローディスを知る男がいた。


 そして、四十二人が同じ一人を忘れたという事件がある。


 それぞれがつながっているように思える。


 ただ、その間に何があったのかまでは分からない。


「……日付は?」


 俺が尋ねると、係長が指を滑らせた。


「集団記憶欠損が正式に報告される十一日前」


「十一日前?」


「ああ」


 少し意外だった。


 四十二人の記憶が失われ、その原因を探すためにローディスがラヴェルへ向かったのだと思っていた。


 しかし、この記録が正しければ順序は逆だ。


 ローディスがラヴェルへ出張し、その十一日後に集団記憶欠損が報告されている。


「……ラヴェルで何かあった後に、四十二人が忘れたってことか?」


「そうかもしれない」


 ティセラが答えた。


「ただ、これは事件の発生日じゃなくて、正式な報告日でしょう? 実際に記憶が失われた日時とは違う可能性もあるわ」


「……そうだな」


 俺は頷いた。


 この十一日間のどこかに答えがあるのかもしれない。


 しかし、何が起きたのかを知らないまま、勝手につながりを作ってしまうわけにはいかなかった。


「第四保管庫は今もある?」


 ティセラが尋ねた。


「建物は残っている可能性が高いよ。現行地図では旧西倉庫区の西端に当たる場所だ」


 係長は別の資料を出した。


 今度は比較的新しい建物台帳だった。


『旧西税関第四保管庫』


『地上部所有者:ラヴェル港湾管理局』


『地下部:登録なし』


「……地下部?」


 俺が聞き返す。


「地上の建物は港湾管理局の管理下にある。でも、地下の構造については登録がないんだ」


 ティセラの目が輝いた。


「古い地下区画が残ってる可能性があるのね」


「その可能性はあるよ。ただ、実際に確認した記録は見つからなかった」


「……行ってみたい」


 ティセラが呟いた。


 俺は彼女を見た。


「まず地上の記録からだぞ」


「分かってるわ」


「本当に?」


「セイン、さっきから私に厳しくない?」


「地下の話をすると顔が変わるから」


 ティセラは少しだけ不満そうだったが、反論はしなかった。


 俺は台帳へ視線を戻した。


 ラヴェルには、水底街と呼ばれる古い区域がある。その一部は今の町の下や水の中に残っているらしい。


 ただ、第四保管庫と水底街が直接つながっているかどうかは、まだ分からない。


 少なくとも、今回の調査で最初に訪ねるべき場所ははっきりした。


 旧西税関第四保管庫。


 そこに残る資料を確認し、ローディスが何を調べたのかを辿る。


「……ほかにも何かある?」


 俺が尋ねると、係長は最後の一枚を取り出した。


「帰りの経費記録がないんだ」


 細かい数字が並ぶ紙だった。


 王都からラヴェルへ向かう馬車代、船賃、宿泊費、食費は記載されている。


 だが、帰路の経費は見つからなかった。


「……ローディスは王都へ戻ったんだよな?」


「その後の王都での調査記録は残っている。だから、戻っていたと考えるのが自然だね」


「じゃあ、どうして帰りの分がないんだろう」


「別の経費で戻った可能性もあるし、そちらの帳簿が失われただけかもしれない」


 係長は書類を揃えた。


「現時点では、それ以上のことは言えないね」


 俺は出張記録をもう一度見た。


 ローディスの名前の下に、同行者が一人。


 その人の名前は、どこにも書かれていない。


 帰り道の経費も見つからない。


 どちらも、単独なら事務上の不備で片づけられるかもしれない。


 それでも、二十八年前の集団記憶欠損と同じ時期の記録だと思うと、妙に気になった。


「……この資料、持っていける?」


 俺が尋ねると、係長は首を振った。


「原本は駄目。でも、必要な部分の写しは用意したよ」


「助かる」


「働いてるからね」


「最近、それよく言うな」


「君に覚えてもらおうと思って」


 係長は笑いながら、革の封筒を渡した。


 表には管理局の印が押されている。


『西部地方調査許可』


 その下に、ヴェルナ王国の名があった。


 いつも見ている文字だ。


 けれど、今日は少し違って感じられた。


 王都で暮らしていると、自分が王国のどのあたりにいるのか、あまり意識しない。


 見慣れた通りを歩き、仕事をして、家へ帰る。その繰り返しの中で、王都の外は地図に描かれた場所でしかなかった。


 今から俺たちは、その地図の西側へ向かう。


「……係長は来ないの?」


 何となく尋ねた。


「俺はこっちで調べることがあるからね」


「何を?」


「ほかの出張記録と、青鐘通りの施設の照合。ラヴェル以外にも確認したい場所があるんだ」


「そっか」


「ああ。それに、管理局の仕事も誰かが片づけないと」


 机の上の書類を示す。


 確かに、俺たちがいなくなっても落とし物は届くだろう。


「……留守番、頼んだよ」


「立場が逆じゃない?」


 係長が笑った。


「帰ったら、ちゃんと報告してね」


「ああ。もちろん」


 俺は封筒を鞄へ入れた。


 この人が王都に残ってくれるなら、戻る場所の心配はしなくてよさそうだった。


     ◇


「そういえば、ネイは?」


 リゼが言ったのは、出発の確認が終わりかけた頃だった。


 見回すと、確かに姿がない。


「……今日は来てないな」


「昨日も見ませんでした」


「怪我人なんだから、休んでればいいけど」


 そう言ったところで、入口のベルが鳴った。


「呼んだ?」


 ネイが顔を覗かせた。


 あまりにもいいタイミングだった。


「……お前、いつからそこにいた?」


「今来たところ」


「本当か?」


「疑い深いね」


「お前に関しては理由がある」


 ネイは笑った。


 肩の傷はまだ完全に治っていないはずだが、今日は小さな鞄を持っていた。


 包帯の見える腕をかばうように、荷物は反対側へ掛けている。


「……お前も出かけるの?」


 俺が尋ねると、ネイは頷いた。


「ちょっと別の場所へ」


「ラヴェルじゃなくて?」


「違うよ」


「どこへ?」


「まだ決めてない」


「それ、出かけるって言うのか?」


「探したいものがあるんだ」


 ネイは何でもないことのように言った。


「何を?」


「それが分かったら苦労しないんだけどね」


 相変わらず肝心なところを教えない。


 ただ、昨日までより少し真面目な顔をしているようにも見えた。


「……一人で行くつもり?」


「たぶん」


「その『たぶん』は禁止」


 言うと、ネイは目を丸くした。


「リゼに似てきたね」


「俺も散々言われてるからな。言われる側の気持ちは分かる」


「成長してる」


「お前まで言うなよ」


 ネイは楽しそうに笑い、室内を見回した。


 リオルと目が合う。


 リオルは相変わらず、あまり信用していないような顔だった。


 青鐘通りでネイが俺たちを助けてくれたことは確かだ。


 けれど、何を知っていて、なぜいつも危険な場所にいるのかは分からない。そのことをリオルは気にしているのだろう。


「……ラヴェルへ行ったことある?」


 俺が尋ねると、ネイは少し考えた。


「あるよ」


「いつ?」


「昔」


「どれくらい昔?」


「昔は昔だよ」


「本当に役に立たないな」


「魚は美味しい」


 リゼが素早く顔を上げた。


「どんな魚ですか?」


 ネイは笑って、いくつか料理の名前を挙げた。


 リゼは真剣な顔で覚えようとしている。


「そこだけ会話が成立するの、何なんだよ」


「大事な情報なので」


 リゼは即答した。


 ネイも頷いている。


 俺はもう何も言わなかった。


「……水底街は?」


 ティセラが尋ねた。


 その瞬間、ネイの笑顔がほんの少しだけ薄れた。


「行かない方がいい」


「どうして?」


「古いから」


「それは理由にならないわね」


 ティセラの目が、むしろ輝いている。


「……逆効果だぞ」


 俺が言うと、ネイは苦笑した。


「そうみたいだね」


「何か知ってるの?」


 尋ねると、彼は少しだけ考えてから答えた。


「昔、あの辺では、死んだ人を海へ返すって考える人たちがいたんだ」


「海へ?」


「うん。海から来た命は海へ戻る、という古い考え方。今でも島の方には似た葬送の習慣が残っているらしいよ」


 俺は思わず眉を寄せた。


「……人は返せないぞ」


「知ってるよ」


 ネイは笑った。


「セインの〈返却〉で人を戻すって話じゃない。同じ『返す』でも、場所によって意味が違うんだ」


「……そういうことか」


 少しだけ納得した。


 俺の仕事では、落とし物を持ち主へ返す。


 しかし、ネイの話に出てくる人々にとっては、死んだ人を海へ送ることも『返す』という行為らしい。


 王都を離れれば、同じ言葉でもまったく違う意味で使われることがあるのだろう。


 ネイはまだ何か言いたそうだったが、それ以上は口を開かなかった。


「……とにかく、気をつけろよ」


 俺が言うと、彼は少し驚いたように見えた。


「セインもね」


「俺はリオルたちと一緒だから」


「じゃあ安心だ」


「お前も誰かと行けばいいのに」


「そうできればいいんだけどね」


 その返事は、いつもの軽口とは少し違った。


 俺はネイを見た。


 こいつには、まだ聞きたいことが山ほどある。


 青鐘通りでのことも、誰かに間に合わなかったという話も、どうして旧倉庫街であの瓶を見つけたのかも、結局詳しくは聞けていない。


 だが、今ここで問い詰めても、きっと笑ってかわすだろう。


「……帰ってこいよ」


 だから、別のことを言った。


 ネイが黙った。


 ほんの短い間だったが、その沈黙は普段の彼には似合わなかった。


「第七係に?」


「ここじゃなくてもいいけど。怪我してたら、せめて医者には行けよ」


「……セインって、時々変なこと言うね」


「お前ほどじゃない」


「それはそうかもしれない」


 ネイは笑った。


 けれど、今度の笑顔には少しだけ力が抜けていた。


「じゃあ、お互い帰れたら」


「縁起悪い言い方するなよ」


「そう?」


「普通に、また会おうでいいだろ」


 ネイは俺の顔をしばらく見ていた。


 それから、小さく頷いた。


「……うん。またね」


 ようやく普通の別れ方になった。


 俺は片手を上げた。


 ネイも軽く手を振り、第七係を出ていった。


 その背中が見えなくなるまで、リゼも黙って見送っていた。


「……ちゃんと帰ってきますよね」


 小さな声だった。


「分からない」


 俺は答えた。


「でも、約束はしたからな」


「はい」


 それ以上、二人とも何も言わなかった。


     ◇


 王都の西門へ着いたのは、昼前だった。


 地方調査の公用馬車が用意されており、御者台の後ろにはティセラの木箱が積まれている。


「……やっぱり多くない?」


 俺が言うと、ティセラは鞄を抱え直した。


「必要なの」


「さっき一箱増えてたよな」


「古式文字の対照表を思い出したのよ」


「……それは必要そうだな」


 反論しにくいところを突いてくる。


 一方、リゼは西門の近くにある露店を見つめていた。


 焼き菓子が並んでいる。


 嫌な予感がした。


「リゼ、もう食べ物は十分だぞ」


「分かってます」


「本当に?」


「はい。今日は見るだけです」


 そう言って、彼女は店の方へ歩いていった。


 俺はリオルへ目を向けた。


「……止めた方がいいかな」


「無駄じゃない?」


「だよな」


 諦めて馬車の荷物を確認していると、リゼが戻ってきた。


 両手に紙袋を持っている。


「……買ったのか」


「買ってません」


「じゃあ、それは?」


「いただきました」


「誰に?」


「お店の方に。旅に出るってお話ししたら、売れ残りだからって」


 紙袋から甘い香りがした。


 俺は少し呆れた。


「お前、知らない人と仲良くなるの早すぎない?」


「セインよりは早いかもしれません」


「比べなくていいよ」


「でも、お礼はちゃんと言いましたよ」


「それならいいけど」


 リゼは楽しそうに笑った。


 そのまま馬車へ乗り込み、ティセラにも焼き菓子を分けている。


 俺も後を追おうとして、ふと足を止めた。


 西門は、何度も来たことがある。


 子供の頃、父の仕入れについてきたこともあるし、第七係の仕事で近くまで来たこともあった。


 だが、今日はそこを通り抜ける。


 西門の向こうには街道が延びていて、宿場町や河港を通り、さらに大河を下ればラヴェルと海へつながっている。


 地図で何度も確かめた道だ。


 それなのに、門の前へ立つと、少しだけ足が重くなった。


 怖いからではない。


 慣れ親しんだ場所を離れることに、まだ身体が追いついていないのだと思う。


「……セイン」


 馬車の窓から、リオルが顔を出した。


「どうした?」


「いや、ちょっと」


 俺は一度、王都の方を振り返った。


 石壁の向こうには、見慣れた屋根が幾重にも重なっている。


 王立塔の尖った屋根と市場の鐘楼が見え、少し離れたところには、第七係の建物がある方向も分かった。


 あの街で生まれ、靴屋の工房で革の匂いを嗅ぎながら育った。


 兄と喧嘩をして、リオルと遊んで、やがて王立遺失物管理局へ入った。


 落とし物を返すだけの仕事だと思っていた頃には、自分が王都の外へ調査に行くことになるなんて想像もしなかった。


「セイン、置いていきますよ!」


 今度はリゼが顔を出した。


「まだ馬車止まってるだろ!」


「気持ちの話です!」


「何だよ、それ」


「王都に置いていかれそうな顔をしていたので」


 そんな顔をしていただろうか。


 俺は少し笑って、馬車へ乗り込んだ。


 向かいにはリゼ、その隣にティセラ。横にはリオルが座っている。


 足元には荷物が詰め込まれ、ティセラの資料筒が一本、座席の間へ飛び出していた。


「……これ、足に当たるんだけど」


 俺が言うと、ティセラが答えた。


「折らないでね」


「俺の足は?」


「そっちは曲がるでしょう」


「そういう問題じゃないだろ」


 リオルが笑った。


 リゼは焼き菓子を一つ取り出し、俺へ差し出してくる。


「食べます?」


「出発してからでいい」


「じゃあ、先に食べますね」


「……結局そうなるのか」


 彼女は満足そうに頷いた。


 俺は改めて、馬車の中の三人を見た。


 靴より資料を大切にする研究者と、旅の荷物の半分が食べ物の少女。それに、替えの靴を持ってくるよう俺に説得された警備隊員。


 妙な組み合わせだ。


 しかし、思えば第七係で過ごしたこの数週間も、ずっと妙なことばかりだった。


 名前を失った少女が訪ねてきて、存在しないはずの道が見つかり、王都の地図から消えた通りへ入り込んだ。


 その先で、多くの人たちの帰る場所を探した。


 今度は、誰かの記憶を探しに行く。


 それも、持ち主が返してほしいと思っているかどうかさえ分からない記憶だ。


「……何笑ってるんです?」


 リゼに尋ねられた。


「笑ってた?」


「はい、少し」


「変な四人だなと思って」


「誰がです?」


「全員」


 ティセラは資料を開いていて、こちらの話を聞いていない。


 リオルは今さらだろ、と笑った。


 リゼは少し考えた後、窓の外へ顔を向けた。


「でも、悪くないですね」


「何が?」


「この四人です」


 俺も窓の外を見た。


 ちょうど馬車が動き出したところだった。


 車輪が石畳を越え、西門の大きな影へ入っていく。門番に書類を見せると、御者はそのまま馬を進めた。


 王都の石壁が少しずつ後ろへ流れていく。


「……ああ」


 俺は答えた。


「悪くないな」


     ◇


 門を抜けると、道の両側が急に開けた。


 建物の代わりに畑が広がり、遠くには低い丘が見えている。


 馬車の窓から吹き込む風には、王都の市場で嗅ぐ香辛料や焼いた肉の匂いがなかった。その代わり、湿った土と草の匂いがする。


 何でもない景色のはずなのに、俺はしばらく窓から目を離せなかった。


 王都は大きな街だと思っていた。


 実際、大きい。


 けれど、こうして離れてみると、城壁の向こうには当たり前のように別の土地が続いている。


 あれほど広いと思っていた場所にも、終わりがあるのだ。


「……初めてでしたっけ」


 リゼが隣から尋ねた。


「何が?」


「王都を出るの」


「ああ。ここまで遠くへ行くのは初めてだよ」


「じゃあ、また一緒ですね」


 彼女は嬉しそうに笑った。


 俺も少し笑った。


 昨日まで、ラヴェルのことを考えると、どこか落ち着かなかった。


 セヴァンたちはなぜ瓶を回収しようとしたのか。エルセは何を知っているのか。そして、ローディスとともに二十八年前のラヴェルへ向かった、名前のない第七係職員とは誰なのか。


 どれも、すぐに答えが出る問題ではない。


 ただ、手がかりはある。


 旧西税関第四保管庫。


 ローディスの出張記録。


 そして、瓶の中で見た家族。


 現地へ行けば、あの女と男の子が誰だったのか、調べられるかもしれない。


 俺は鞄の内側へ手を入れ、係長から預かった革封筒を確かめた。


 きちんと収まっている。


「セイン?」


「何?」


「何か忘れ物ですか?」


「いや。ちゃんと持ってきたかなと思って」


 リゼは俺の鞄を覗いた。


「焼き菓子なら入ってますよ」


「そっちじゃない」


「よかったです。なくしてたら大変なので」


「だからそっちじゃないって」


 リゼが笑う。


 俺も笑ってしまった。


 出発して早々、こうして普段と変わらない会話をしている。


 そのことが、少しありがたかった。


 大きな事件を追っているからといって、ずっと難しい顔をしている必要はないのだろう。


 たぶん、この先には怖いこともある。


 何も知らない場所へ向かうのだから、思い通りにいかないことだって多いはずだ。


 それでも、困ったら相談できる人が隣にいる。


 俺はもう一度、窓の外へ目を向けた。


 馬車が丘を越えると、王都の城壁がずいぶん小さくなっていた。


 代わりに、前方へ続く街道が遠くまで見える。


 この道の先には大きな川があり、さらにその先には海がある。


 まだ見たことのない街で、知らない人々が暮らしている。


 俺たちはこれから、その一つへ向かう。


 誰かがなくしたものを探すために。


 ただし、見つけたからといって、勝手に返すつもりはない。


 まずは持ち主を探し、その人がどうしたいのかを確かめたい。


 それが、今の俺にできる仕事だった。


「……セイン」


 リゼが呼んだ。


「何?」


「海、楽しみですね」


 俺は窓の向こうの街道を見た。


 まだ海の気配なんて、どこにもない。


 それでも少しだけ、潮の匂いを想像できるようになっていた。


「ああ。楽しみだな」


 今度は素直に答えた。


 リゼは満足そうに笑い、焼き菓子をもう一つ取り出した。


 リオルは剣の位置を直し、ティセラは揺れる馬車の中で資料を読み始める。


 俺は窓枠へ肘を乗せた。


 帰る場所があるから、知らない場所へ行ける。


 王都の城壁が見えなくなるまで、俺はそのことを考えていた。

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