第四十一話 瓶の中で、海が鳴った
翌朝、第七係の中央机には、昨日よりも厳重に封じられたガラス瓶が置かれていた。
銀線は三重から五重に増え、その外側には、細かな古式文字を書き込んだ紙帯が巻かれている。瓶を置いた台座にまで封印が施されていて、最初にネイが持ってきた時、何も考えずに持ち上げた自分が少し怖くなった。
「……昨日より大きくなってない?」
俺が尋ねると、眼鏡の奥でティセラが目を細めた。
「瓶の大きさは変わってないわよ」
「そういう意味じゃなくて」
「封を増やしたの。誰かがまた取りに来ても、簡単には触れないようにね」
「そんなに危ないものなのか?」
「分からないから危ないのよ」
もっともな答えだった。
最近、ティセラの説明には反論できないことが増えている。頭がいい人間と仕事をするのは助かるが、たまには俺の言うことにも間違いがないと言ってほしかった。
「セイン」
隣からリゼに呼ばれた。
「何?」
「朝ご飯、食べました?」
「食べたよ。何で?」
「顔が眠そうなので」
「お前が早く来すぎたんだろ」
彼女は焼きパンを半分ほど食べたところだった。
口元についた粉を払うこともせず、封印された瓶を覗き込んでいる。
「食べながら見るなよ」
「パンは冷めると硬くなります」
「瓶は逃げないぞ」
「だから、今のうちに食べてるんです」
そういう問題だろうか。
リゼは残りを食べ終えると、手についた粉を払ってから瓶へ顔を近づけた。
その横顔から、いつもの気楽さが少しずつ消えていく。
「……どう?」
俺が尋ねると、彼女はすぐには答えなかった。
見る角度を変えたり、少し離れたりしながら、何かを確かめている。
「昨日より、近い気がします」
「近い?」
「はい。何かがなくなった跡が、瓶の奥にあるのは同じなんですけど……」
彼女は眉を寄せた。
「前は遠くに穴が開いているようだったのに、今はこっちまで続いている感じがするんです」
「中身が出てきたってこと?」
「それは分かりません。中に何があるのかも、私には見えないので」
言い終えると、リゼは少し困ったように笑った。
「すみません。変な説明ですよね」
「いや。昨日より何かが変わったのは分かった」
「本当ですか?」
「ああ。だから、そのまま記録しておこう」
リゼが目を丸くした。
「セイン、最近すぐに調べようって言わなくなりましたね」
「それ、褒めてる?」
「かなり」
「……なら、ありがとう」
彼女は嬉しそうに頷いた。
自分でも少し変わったとは思う。
以前なら、瓶の中に何かがあると聞いただけで〈返却〉を使おうとしただろう。今も気にならないわけではないが、知らないものへ手を伸ばすことと、持ち主を探すことは同じではない。
青鐘通りでは、それを嫌というほど思い知らされた。
◇
「今日やるのは、開封じゃないわ」
ティセラが言った。
俺たちは中央机を囲んでいた。
俺とリゼのほかに、リオルも来ている。昨日の襲撃を受けて警備隊が立ち会うことになったらしい。
係長は奥の机で資料を読んでいるが、こちらの話は聞いているようだった。
「じゃあ、何をする?」
俺が尋ねる。
「瓶の外側に残っている術式を調べる。中身に触れずに、分かるところまで確かめたいの」
ティセラは白紙を広げ、封印の一部がよく見えるように台座を回した。
「〈転写〉を使うわ。今ここに残っている文字や線なら、そのまま写せるから」
「中のものまで写せる?」
「見えないものは無理。そこを間違えないで」
「聞いただけだろ」
「念のためよ」
彼女が瓶を見つめ、指先を紙へ置く。
〈転写〉が発動すると、白紙の中央に細い円が現れた。そこから線が枝分かれし、円や古い文字を形作りながら外側へ伸びていく。
見ているだけで目が疲れそうだった。
それなのにティセラは、写し出された線を一つずつ追い、時々小さく頷いている。
「……分かるのか?」
「まだ読んでるところ」
「俺には最初から読めない」
「でしょうね」
「即答しなくてもいいだろ」
リゼが横から紙を覗き込んだ。
「綺麗ですね」
「綺麗?」
「丸い線が何本も重なっていて、細工みたいです」
ティセラは少しだけ顔を上げた。
「実際、似たところはあるかもしれないわね。術式も細工も、形を間違えれば機能しなくなるから」
「じゃあ、私にも少しは分かるかもしれません」
「そうね。今度、簡単な図から見てみる?」
「ぜひ!」
二人の会話が急に楽しそうになった。
俺も参加しようかと思ったが、古式文字が並んだ紙を見てやめた。
「……セインは?」
リゼに尋ねられる。
「俺は完成したのを見せてもらう」
「便利な役割ですね」
「向いてると思う」
「自信だけはありますね」
そんな話をしていた時、ティセラの指が止まった。
「……ここ、おかしい」
声の調子が変わった。
俺たちは一斉に紙を覗き込む。
「どこ?」
「この線よ」
ティセラが、円の外へ伸びる一本の細い線を指した。
ほかの線は何重もの円の内側で閉じているのに、それだけが外へ続き、途中でぷつりと途切れていた。
「切れてるのか?」
「ええ。もともと外側の何かにつながっていた形跡があるわ」
「瓶の中身と?」
「そうかもしれない。でも、そこはまだ断定できない」
ティセラは紙を近づけ、線の根元にある古い文字を読もうとした。
「……帰属」
小さく呟く。
「何?」
「この部分、帰属に関係する術式なの。少なくとも、封じたものと、その帰属先の情報を結びつけるための線に見える」
俺は瓶を見た。
「帰属先って、持ち主のこと?」
「それも候補の一つね。ただ、記憶のようなものを扱っているなら、所有者という言葉が正しいかどうかも考える必要があるわ」
「……難しいな」
「だから調べてるのよ」
ティセラは写し取った紙へ、いくつか注釈を書き込んだ。
瓶に何かを保存しておくだけなら、完全に封じれば済むはずだ。なのに、この容器は外へつながる線を持っていた。
しかも、その線は途中で切れている。
誰かが切ったのだろうか。
それとも、つながっていた先が失われたのだろうか。
今のところ、どちらとも判断できなかった。
「……セイン」
ティセラが顔を上げた。
嫌な予感がした。
「何?」
「一つ、試してほしいことがあるんだけど」
「〈返却〉?」
「よく分かったわね」
「最近、この流れに慣れてきた」
ティセラは少し笑った。
「ただし、瓶を返してほしいわけじゃない。中に保存されているものも、まだ触らない。確かめたいのは、この外側に残っている接続だけ」
「切れた線の帰属先?」
「ええ。あなたの術なら、そこに元の帰属先があるかどうか、反応を確かめられるかもしれない」
「返してしまってもいいのか?」
「そこが難しいところね」
彼女は少し考えてから続けた。
「対象の情報を照合する段階で止めるの。返却先が確定しなかったり、危険な反応が出たりしたら、すぐ中断する。私も外から封を切れるようにしておく」
以前なら、ここまで慎重な説明はしなかったかもしれない。
ティセラも、青鐘通りでの経験を踏まえているのだろう。
「……リゼはどう思う?」
俺が尋ねると、彼女は瓶を見た。
「私には術式のことは分かりません。でも、ティセラさんが危ないと思ったら止められるんですよね?」
「封の接続は切れる。ただ、完全に安全だとは言い切れないわ」
「それなら、セインにも約束してほしいです」
「何を?」
「自分でおかしいと思ったら、ちゃんと止めること」
「ああ。約束する」
「途中で『あと少しだけ』は駄目ですよ」
心当たりが多すぎて、笑えなかった。
「……分かった」
リオルが隣で腕を組んでいる。
「俺は運ぶ準備をしておく」
「何を?」
「お前」
「最初から倒れる前提かよ」
「今までの実績がある」
「そればっかりだな」
奥から係長の声がした。
「壊したら報告書三倍ね」
「……やめようかな」
「そこが一番効くんだ」
係長が笑った。
俺も少しだけ笑い、瓶へ向き直った。
怖くないわけではない。
けれど、今度は一人で何とかしようとしているわけじゃない。
危険なところはティセラが見てくれているし、リオルもいる。リゼは俺が無茶をしないか、たぶん誰より注意深く見ている。
ならば、俺がやるべきことは一つだ。
決めた範囲を守る。
「……始めるぞ」
◇
瓶には触れず、台座の外側へ張られた銀線に左手を添えた。
ティセラが写し取った術式を横へ置き、その中の一本に対象を絞る。
切れた接続。
かつて何かと結ばれていたが、今は途中で途絶えているもの。
俺の〈返却〉は、持ち主のいる品を返す時には分かりやすく働く。
財布なら持ち主へ、道具なら本来の使い手へ。
だが、今回は違う。
何が接続されていたのかも、その先に誰がいるのかも分からない。
無理に返そうとすれば、青鐘通りで起きたことを繰り返しかねなかった。
まずは、帰属先があるかどうかだけを確かめる。
「〈返却〉」
左手の指先が温かくなった。
白い光が銀線に沿って走り、瓶を囲む円の一部が淡く明るくなる。
返却票が現れるかと思ったが、すぐには文字が浮かばなかった。
ただ、銀線の奥で何かが引かれるような感覚がある。
「……ティセラ」
「見えてる。まだ続けていいわ」
俺は頷いた。
もう少しだけ、接続の先を探る。
その時だった。
瓶の中で、小さな音がした。
水滴が落ちたような音だった。
「……今の、聞こえた?」
リオルが言う。
「ああ」
俺も答えた。
もう一度、音がする。
今度は水滴ではない。
もっと低く、遠くから何か大きなものが繰り返し砕けてくるような響きだった。そこへ木材が軋む音と、金属同士が軽く触れ合う音が混ざっていく。
聞いたことのない音のはずだった。
けれど、何の音なのかはなぜか分かった。
波だ。
昨日、地図の上で眺めていた海。
まだ一度も見たことのない、その海の音だった。
「……セイン?」
リゼが俺を呼ぶ。
その声が少し遠い。
「何だ?」
「瓶の周りが変です。なくなった跡が、こっちへ広がってきてるみたいで」
彼女は困惑した顔をしていた。
「何が出てきたのかは分からないんです。でも、さっきまでと違う」
俺が答えようとした時、鼻の奥に奇妙な匂いが入ってきた。
塩気のある湿った風と、濡れた木材の匂い。
そこへ油や魚、それから強い香辛料が混ざる。
王都のどこでも嗅いだことがないはずなのに、係長が昨日話していた港町の匂いを思い出した。
いや、思い出したというのはおかしい。
俺はまだ、港へ行ったことがない。
足元が揺らいだ。
机の板が遠ざかる。
代わりに、石畳の感触が足の裏へ伝わってきた。
俺は反射的に手を離そうとした。
その瞬間、目の前の景色が変わった。
◇
知らない街だった。
両側には高い倉庫が並び、建物と建物の間には木の渡り廊下が架かっている。その向こうには、巨大な帆柱が何本も突き出していた。
道は狭いのに人が多く、荷車を押す男や色鮮やかな服を着た商人たちが、互いに声をかけながら行き交っている。
聞き慣れた王都の言葉に混じって、意味の分からない言葉も飛び交っていた。
俺は少し遅れて、自分がその場へ立っているわけではないことに気づいた。
身体を自由に動かせない。
見たい方向へ振り向こうとしても、視界は勝手には変わらなかった。
誰か別の人間が見た景色を、その人の目の奥から覗いているような感覚だった。
これが瓶に残っていたものなのか。
〈返却〉で接続へ触れたせいで、封じられていた記録の一部が流れ込んできたのかもしれない。
しかし、考えている余裕はなかった。
視界の向こうで、黒い髪の女が笑った。
『遅い』
左の目の下に、小さなほくろがある。
年齢は俺より上だろうか。前髪を片手で直しながら、少し呆れた顔でこちらを見ている。
知らない人だった。
それなのに、彼女を見ると胸の奥が温かくなった。
懐かしいというより、長く歩いた末にようやく家へ着いた時のような安心感が広がる。
もちろん、それは俺の感情ではなかった。
『悪かった』
俺のものではない声が答えた。
低く、少し疲れた男の声だった。
『仕事が長引いた』
『昨日も同じこと言ってた』
『昨日は本当に長引いたんだ』
『じゃあ今日は?』
『今日も本当に長引いた』
女は呆れた顔をしたあと、笑った。
『それ、全然言い訳になってない』
妙に自然なやり取りだった。
大きな事件の話ではなく、遅く帰ってきた家族に交わす、何でもない会話だ。
その時、女の後ろから小さな男の子が走ってきた。
手にはパンを持っている。
途中まで食べてあるのに、硬い端だけが残っていた。
『父さん!』
その声を聞いた瞬間、胸の奥に強い感情が流れ込んできた。
嬉しい。
けれど、それだけではない。
子供が無事でいることに安心しながら、どうしてか、今ここに一緒にいられる時間が惜しくてたまらなかった。
視界が低くなる。
記憶の持ち主が、子供の前へしゃがんだらしい。
小さな手が伸びてきた。
『今日は帰れる?』
『帰るよ』
『昨日も言った』
『今日は本当に帰る』
男の子は少し考えた。
『じゃあ、夕飯も?』
『もちろん』
『約束?』
『約束』
小さな指が差し出された。
視界の端に、大人の手が映る。
その指が、子供の指へ触れた。
たったそれだけの光景なのに、俺は息が詰まりそうになった。
この記憶の持ち主は、子供のことが大切なのだ。
説明されなくても分かる。
ただ、その大切さの奥に、妙な焦りが混ざっていた。
帰ると約束した相手が、帰れなくなる可能性を考えている。
そう感じさせるような、苦しい安心感だった。
『……ローディスには?』
女が尋ねた。
俺の意識が、そこで強く引っかかった。
ローディス。
ローディス・フェン。
二十八年前の集団記憶欠損を調べ、途中から記録に現れなくなった記録官の名前だ。
記憶の持ち主は、答えるまで少し間を置いた。
『話してない』
『また?』
『巻き込みたくないんだ』
『もう巻き込まれてるでしょう。あの人も調べてるんだから』
『だからだよ』
女の笑顔が消えた。
『一人で何とかするつもり?』
返事はなかった。
『あなた一人で消せる話じゃないでしょう』
消せる。
その言葉が耳へ残った。
何を消すのか。
誰を消すのか。
この男は、何をしようとしているのだろう。
聞きたいことはいくつもあったが、俺には口を開くことすらできなかった。
女はしばらく男を見ていた。
それから、言い争うのをやめたように、少しだけ視線を落とす。
『……帰ってきてね』
今度の声は、小さかった。
子供へ返事をする時よりも、ずっと重く聞こえた。
『ああ』
男が答える。
その声には迷いがあった。
俺がそれを確かめようとした時、視界の端に古い印が見えた。
女の後ろにある壁へ、かすれた塗料で描かれている。
波の上を飛ぶ鳥。
その向こうに立つ、細長い塔。
昨日、セヴァンの紙札に残っていたものと同じ形だった。
もっとよく見たい。
そう思った瞬間、景色がぐにゃりと揺れた。
港の騒がしい声が遠ざかる。
代わりに、現実の指先へ鋭い痛みが走った。
「セイン!」
ティセラの声がした。
「接続が深くなってる。もう切るわ!」
まだ見たい。
男の名前も、あの女と子供が誰なのかも分かっていない。
今ここで切ったら、二度と見られないかもしれない。
「……あと」
そこまで言いかけた。
けれど、リゼとの約束を思い出した。
危険だと分かったら、ちゃんと止める。
無茶をして誰かを巻き込まない。
もう一度、あの通りで起きたことを繰り返したくはなかった。
「……分かった! 止めてくれ!」
ティセラが銀線の一本を外した。
白い光が途切れ、港の景色が急速に遠ざかっていった。
◇
気づくと、第七係の椅子に座らされていた。
右腕に鈍い痛みが残り、左手の指先がかすかに震えている。
瓶は台座に置かれたままで、封蝋も銀線も壊れていなかった。
「……戻った?」
俺が尋ねると、リオルが呆れた顔で頷いた。
「戻った。運ぶ準備、無駄になってよかったよ」
「……俺もそう思う」
リゼがすぐ隣にしゃがんでいた。
「セイン、大丈夫ですか?」
「少し気持ち悪い。腕も痛む。でも、意識ははっきりしてる」
彼女は俺の顔をじっと見た。
「……ちゃんと言いましたね」
「何を?」
「気持ち悪いって」
「そこ、褒めるところ?」
「大事なことです」
リゼは小さく笑った。
最近の俺は、無茶をしなかっただけで褒められるところまで評価が下がっているらしい。
ただ、悪い気分ではなかった。
ティセラは瓶の横に置いた紙を確かめ、外した銀線を慎重に戻している。
「封は無事よ。外へ続いていた接続も、元の状態に戻ってる」
「……記憶が出てきたのは?」
「断定はできないけど、残っていた接続へ〈返却〉が働きかけたことで、保存されていた情報の一部が反応した可能性はあるわ」
「じゃあ、〈返却〉で記憶を見られるようになった?」
「そう簡単な話じゃないわよ。今回は瓶の仕組みが反応したのかもしれないし、毎回同じことが起きるとも限らない」
「……そうだよな」
俺は頷いた。
新しい力を手に入れたようには思えなかった。
むしろ、誰かの記憶がこれほど簡単に他人へ触れてしまうことの方が怖かった。
「それで、何が見えたの?」
ティセラが尋ねる。
俺は深く息を吐き、まだ鮮明に残っている景色を順番に話した。
背の高い倉庫と、多くの帆柱が並ぶ港町。
黒い髪で、左の目の下にほくろのある女。
硬いパンの端を残していた男の子。
そして、その子供から『父さん』と呼ばれていた、記憶の持ち主らしい男。
「……家族だったんだな」
話し終えると、リオルが言った。
「たぶん。少なくとも、男の子はそう呼んでた」
「男の顔は?」
「見えなかった。自分の目で見ていた記憶だから」
そこが一番もどかしかった。
知らない男の人生を覗いていたのに、肝心の本人の顔が分からない。
男の名前も、女と子供の名前も聞こえなかった。
けれど、誰の名前も分からなかったわけではない。
「……ローディスって言ってた」
俺がそう言うと、係長が顔を上げた。
「ローディス?」
「ああ。女が『ローディスには?』って聞いて、男が『話してない』『巻き込みたくない』って答えたんだ。女は、もうローディスも調べてるんだから巻き込まれてるって言ってた」
係長の表情が少し変わった。
昨日まで冗談ばかり言っていた人が、今は一言も挟まず聞いている。
「……それなら、この記憶の持ち主はローディスを知っていたことになるわね」
ティセラが言った。
「仕事の関係者でしょうか」
リゼが尋ねる。
「あり得るわ。でも、そこはまだ分からない」
係長も頷いた。
「友人かもしれないし、調査へ協力していた人間かもしれない。本人の名前が出るまでは決めつけない方がいい」
「……ああ」
俺もそう思った。
二十八年前、四十二人が同じ一人を忘れた。
その事件を調べていた記録官がローディス・フェン。
今見た記憶には、そのローディスを知る男が出てくる。
偶然だと片づけるには、少し気になる重なり方だった。
ただし、まだその男が四十二人から忘れられた人物だとは限らない。
その区別だけは、忘れずにおきたかった。
「……あと、印があった」
俺は紙とペンを取った。
記憶が薄れる前に、壁へ描かれていた形をなぞる。
波の上を飛ぶ鳥。
その向こうに立つ、細長い塔。
描き終えたところで、リオルが昨日の紙片を出してきた。
「これだろ」
並べると、ほとんど同じだった。
「……旧税関印」
ティセラが呟いた。
係長が二枚を見比べる。
「間違いなく同系統の印だね。細部まで一致している」
「場所も分かる?」
俺が尋ねた。
「この印を使っていたのは、今の港よりも古い区画だよ。第一港区や旧西倉庫区、それから河口側の税関施設が中心だったはずだ」
「今も残ってる?」
「旧西倉庫区なら、一部の建物は残っている」
ティセラが昨日の地図を広げた。
「水底街とは近いの?」
「隣接している。古い地下水路でつながっている場所もあるらしい」
係長の指が、ラヴェルの旧市街へ向かった。
俺は二枚の紙と地図を見比べた。
セヴァンが持ち込んだ道具の印。
瓶から見えた記憶の中の印。
どちらも、ラヴェルの古い税関に関係している。
その上、記憶の持ち主はローディスを知っていた。
昨日はラヴェルへ行く理由があるかどうかを話し合っていたが、今は少なくとも旧西倉庫区を調べる根拠がある。
「……最初に行く場所、決まりそうだな」
「旧西倉庫区ですね」
リゼが言った。
「ああ。印が残っていた建物や、当時の税関記録を調べる。そこから記憶の中の家族がいた場所を探せるかもしれない」
リゼは静かに頷いた。
「……あの男の子、お父さんが帰ってくるのを待っていたんですよね」
「そう見えた」
「帰ってこられたんでしょうか」
俺は答えられなかった。
記憶の中で交わされた約束が、その後どうなったのかは分からない。
ただ、帰ると言った時の男の声と、女が最後に見せた表情が、まだ胸に残っていた。
◇
「……そういえば」
リゼが小さな声を出した。
「何?」
「さっき、私も少し変な感じがしたんです」
ティセラが顔を上げる。
「瓶のこと?」
「はい。でも、セインが見た記憶とは違うと思います」
「どう違う?」
「私には、女の人や男の子の顔は見えませんでした。声も聞こえません。ただ……」
リゼは言葉を探し、目を閉じた。
「瓶の奥にあった欠けたところが、急に広く感じられたんです。青鐘通りで何かが失われていた時に似ていました。でも、今度はもっと深くて……」
「深い?」
「はい。何かの下に、ずっと大きな空っぽの場所があるような感じです」
彼女は自分の手を見つめた。
「何がなくなっているのかは分かりません。どこなのかも、ちゃんとは」
俺は地図を見た。
ラヴェルの南側。
古い市街地の一部が地盤沈下と水害で沈んだという区域に、薄い色が塗られている。
『水底街』
昨日、係長が教えてくれた名前だった。
「……こういう場所があるらしいけど」
俺は地図をリゼの方へ寄せた。
彼女は水底街を指でなぞった。
「……ここがそうだ、とは言えません」
「うん」
「でも、瓶から感じたものを思い出すと、何だか気になります」
ティセラが地図へ目を落とす。
「地下に古い道が残っている場所だものね。青鐘通りの件もあるし、気にしておく価値はあると思う」
「ただ、いきなり地下へ行くのはやめよう」
俺が言うと、ティセラは少し残念そうな顔をした。
「……分かってるわ」
「本当か?」
「私だって順番くらい考えるわよ」
「ならいいけど」
彼女はまだ地図を見ている。
古式術の研究者としては、すぐにでも地下へ下りたいのだろう。
しかし今回の目的は、古い建物を見学することではない。
瓶の持ち主を探すことだ。
その人がどこにいて、記憶を返してほしいと思っているのかを確かめるために、まず現地で分かることを調べる。
水底街が関係しているなら、その時に考えればいい。
俺は改めて、机の上の瓶を見た。
さっきまで聞こえていた波の音は、もうしない。
透明なガラスの中には、相変わらず何も見えなかった。
けれど、俺はもうそれをただの空瓶だとは思えなかった。
あの男が子供へ向けていた感情まで、本当に中へ保存されているのだとしたら。
その記憶を奪われた本人が、どこかにいるのかもしれない。
あるいは、本人が何らかの理由で預けたのかもしれない。
どちらにしても、誰かが持ち主だと名乗ったからといって、簡単に渡せるものではなかった。
◇
その日の夕方、係長が正式な調査許可を持ってきた。
「西部地方への出張、通ったよ」
そう言って机に書類を置く。
「……もう?」
俺は思わず聞き返した。
「昨日までは証拠が少なかったけど、今日は記憶の反応と旧税関印が重なった。それに第七係が襲撃された事実もある。現地の記録を調べる理由としては十分だと思う」
「なるほど」
「ただし、勝手に保管施設へ押し入ったり、現地の住民を尋問したりはしないこと」
「……俺、そこまでしないよ」
「念のため」
係長が笑った。
俺も苦笑し、書類を手に取った。
ラヴェル。
今朝まで地図の中にあった町が、急に現実の行き先になった。
「出発は?」
「二日後がいいと思う。河港から出る次の定期船に合わせられるから」
リオルが警備隊の書類を持ってきた。
「こっちも同行許可が下りた。警護役は俺だ」
「一人?」
「現地の隊との連絡も取れる。足りなければ向こうで応援を頼むさ」
「そうか」
俺は頷いた。
王都から西へ馬車で進み、途中の河港で船へ乗り換える。そこから大河を下ってラヴェルへ向かえば、天候がよければ四日ほどで着くらしい。
地図の中では指一本の距離だったのに、実際には何日もかかる。
「……船ですか」
リゼが口を開いた。
さっきまで瓶を心配そうに見つめていたのに、今はどこか楽しそうだった。
「そうだな」
「何を持っていけばいいでしょう?」
「着替えとか、仕事道具とか」
「食べ物は?」
「船でも何か出るだろ」
「本当においしいんですか?」
「俺に聞かれても分からないよ。乗ったことないし」
「じゃあ、持っていった方が安全ですね」
リゼは真剣に考え始めた。
俺はその様子を見て、少し笑った。
今日の午前中、俺たちは誰かの記憶らしいものに触れた。
その中には、家へ帰ると約束した父親と、帰りを待つ家族がいた。
そして今、リゼは船の食事が口に合うかどうかを心配している。
随分と切り替えが早い。
でも、それでいいのだと思った。
誰かの苦しさを知ったからといって、毎日の楽しみまで失わなければならないわけではない。
怖いものを見ても腹は減るし、知らない町へ行くなら美味しいものを食べたいと思う。
リゼは、そういう当たり前のことを忘れない。
「焼き菓子なら日持ちするんじゃないか」
俺が言うと、彼女が顔を上げた。
「持っていきます?」
「少しくらいなら」
「セインの分も買いますね」
「俺はいらないよ」
「船酔いしたら食べられなくなるかもしれないですよ」
「それなら買う意味ないだろ」
「元気なうちに食べればいいんです」
「船に乗る前になくなりそうだな」
彼女は笑った。
「セイン、船酔いします?」
「分からない。お前は?」
「私も分かりません」
「ああ、そうだったな」
リゼは、自分が覚えていないことを隠さなかった。
何度もこういう会話をしているのに、俺は時々忘れそうになる。
彼女にとっては、知らないことと、忘れているかもしれないことの境目が曖昧なのだ。
「だから、船酔いも初めてかもしれませんね」
「それまで楽しみにするなよ」
「初めての体験ですから」
「気持ち悪くなってから同じこと言えよ」
「その時はセインに看病してもらいます」
「何で俺?」
尋ねると、彼女は少し考えた。
それから、当たり前のことのように答えた。
「一緒に初めて海を見る人だからです」
理由になっていない。
少なくとも、看病する人間を決める理由ではないだろう。
それなのに、少し嬉しいと思ってしまった自分の方が不思議だった。
「……考えとく」
「断らないんですね」
「具合の悪い人間を放っておけないだろ」
「やっぱり優しいですね」
「意外と、は付けるなよ」
「覚えてたんですね」
「そりゃ覚えてる」
リゼは嬉しそうに笑った。
俺もつられて笑い、それから窓際へ目を向けた。
王都には、いつも通り夕方の鐘が鳴っている。
明日も、ここでは同じ時間に鐘が鳴るのだろう。
けれど二日後、俺たちは西へ向かう。
あの瓶が誰のものなのかを確かめるために。
◇
帰り支度を始める前に、俺はもう一度中央机へ戻った。
ティセラが封を確認し終えた瓶が、静かに置かれている。
さっき見えた港町の景色を思い出した。
黒い髪の女が笑い、男の子がパンを持って走ってくる。
男はしゃがみ、その子の手へ指を触れさせた。
『今日は本当に帰る』
あの約束が守られたのかどうか、俺には分からない。
そもそも、記憶が何年前のものなのかも、あの家族が今どうしているのかも知らない。
ただ一つ分かるのは、あの場面が誰かにとって大切だったということだ。
瓶の中で聞こえた声には、確かに温かさがあった。
もし、それが誰かから奪われた記憶なら。
その人は、今も自分が何を失ったのか知らずに暮らしているかもしれない。
反対に、自分で預けたものなら、俺たちが勝手に返していい理由はない。
セヴァンは、忘れられた当人が自分で選んだのだと言った。
その言葉が本当なのかは、まだ確かめられていない。
俺たちは、知らない誰かの人生について、勝手に正解を決めようとしているのかもしれなかった。
「……セイン」
振り返ると、リゼが立っていた。
「帰りません?」
「もう少しだけ」
「瓶ですか?」
「ああ」
彼女は俺の隣へ来て、台座の上を見た。
「気になりますよね」
「……うん」
「でも、持ち主を見つければ、話せるかもしれません」
「そうだな」
「その人が本当はどうしたかったのか、聞いてみましょう」
俺はリゼを見た。
彼女は自分の名前を選んだ時も、誰かが代わりに答えを決めることを望まなかった。
だからこそ、今こうして他人の意思についても考えられるのかもしれない。
「……行こうか」
「どこへです?」
「まずはラヴェルだよ」
リゼは笑った。
「はい。海も見ましょうね」
「ああ」
俺は瓶から目を離し、机の上の調査書を手に取った。
行き先はラヴェル。
最初に調べるのは、旧西倉庫区に残る税関の記録。
探す相手は、瓶に残された記憶の持ち主。そして、必要なら、その人を知る家族だ。
その先で二十八年前の事件や、水底街の謎につながるものが見つかるかもしれない。
でも、今の段階で全部を解く必要はない。
まずは、あの男が誰なのかを確かめたい。
子供へ帰ると約束した声が、どうして瓶の中に残されているのか。
その理由を、本人に聞けるものなら聞いてみたかった。
俺は調査書を閉じた。
瓶の中では、もう波の音はしなかった。
それでも、あの遠い海の響きは、まだ耳の奥に残っていた。




