第四十話 海のない王都で、潮の匂いがした
翌朝、第七係の床には、まだ赤黒い線が残っていた。
セヴァンが仕掛けた拘束式の跡だ。昨日のうちに術式そのものは止まったものの、焼けた板は交換しなければならないし、散らかった書類も完全には片づいていない。
俺は机の下から、三枚目の報告書を見つけた。
「……これ、昨日書き直したやつだ」
端が少し破れ、靴跡までついている。
事件の報告書を書いている最中に事件が起き、その報告書まで被害を受けたのだから、何とも効率の悪い仕事だった。
「セイン、それ取ってください」
机の向こうからリゼが手を伸ばした。
「何?」
「その下にある紙です」
言われた通り、二枚重なっていた紙を持ち上げる。
下から現れたのは、ニコの似顔絵だった。
「……これ、まだ持ってたのか」
「大事なものなので」
「俺の報告書より?」
「そっちはまた書けます」
「ひどいな」
「でも、ニコの顔をもう一回同じように描ける気がしません」
「最初からあんまり似てなかっただろ」
「だからです」
どういう理屈だ。
リゼは少し折れた紙を両手で伸ばし、満足そうに自分の鞄へしまった。
俺も報告書を拾い集める。
その途中で、机の中央に置かれたガラス瓶が目に入った。
昨日、セヴァンとエルセが回収しようとしたものだ。
透明な瓶は、相変わらず空っぽに見える。ティセラが張り直した銀線の向こうで、何事もなかったように静かに置かれていた。
持ち主も分からない、小さな拾得物。
それを狙って、わざわざ王立機関の中で術式を使う人間がいる。
何がそこまで重要なのか。
今の俺たちは、まだ答えを持っていなかった。
「セイン」
リオルに呼ばれて振り向いた。
窓際で、昨日の戦闘で欠けた剣を確かめている。
「これ、修理代は誰に請求すればいいんだ?」
「セヴァンじゃない?」
「住所が分かればな」
「じゃあ警備隊」
「俺のせいにされそうだな」
リオルは剣を鞘へ戻し、俺が持っている報告書を覗き込んだ。
「ところで、昨日の女のこと、どう書いた?」
「エルセ?」
「ああ。〈保留〉の方」
俺は机の上へ紙を置いた。
「動いている物を、一時的に止める。見ている限りだと、止めていられるのは三秒前後。何かを止めたら、別のものが動き始めることもあった」
「同時に二つまで、ってやつか」
「そう見えた。でも、本当に二つが限界なのかは分からない」
リオルが頷いた。
「そこは俺も気になってた。あいつ、全部の攻撃を止めたわけじゃないからな」
「……止められなかったんじゃなくて?」
「止めなかった可能性もある」
リオルは窓辺の木片を一つ持ち上げた。
「例えば、俺の剣を止めた時は、次に俺がどっちへ動くかまで考えていた感じがした。ただ目の前のものを止めるんじゃなくて、止めた後の位置を使ってくるんだよ」
「そうなのか」
「お前も見ただろ。金属片を投げて、途中で止めて、相手が動いたところへ時間差で飛ばす。あれは結構厄介だぞ」
俺は昨日の光景を思い出した。
エルセが投げた金属片は、俺の進路で一度止まった。
その後、彼女自身が俺の腕を引き、金属片の軌道から外してくれた。
最初から助けるつもりだったのか、それとも途中で危険だと判断したのか。
今となっては分からない。
「……でも、俺を助けたんだよな」
呟くと、リオルがこちらを見た。
「何が?」
「エルセ。最後の方、わざわざ俺を引っ張っただろ」
「ああ」
「自分が投げたものだったのに」
「だから引っ張ったのかもしれないな」
リオルは剣の鍔を指で押さえた。
「ただ、傷つけるつもりがないなら、最初からあんなものを投げなきゃいい」
「それもそうか」
「仕事だろうと何だろうと、あそこまでやったのは本人の判断だ。そこは忘れない方がいい」
正論だった。
それでも、エルセの表情を思い出す。
彼女はセヴァンの判断に戸惑っていたし、戦っている最中も、できるだけ怪我をさせたくないと言っていた。
その言葉が本当なのか、聞こえのいい言い訳なのかは分からない。
ただ、セヴァンとエルセを同じ人間として扱うのは違う気がした。
「……もう一度会えば、分かるかな」
「次に会うなら、まず武器を置いてもらいたいね」
リオルは笑った。
「お前、あの女を甘く見ない方がいいぞ。術が強いだけじゃない。使う側の判断が速い」
「お前がそこまで言うの、珍しいな」
「戦った相手だから分かるんだよ」
そう答える顔には、妙な悔しさも、相手を嫌う様子もなかった。
リオルは昔から剣の腕がいい。
けれど、強い相手に出会った時、負け惜しみを言うより先に相手の動きを研究するところがある。
その性格は、子供の頃から変わっていないらしい。
「お前って、結構頭使って戦ってるんだな」
感心して言うと、リオルは嫌そうな顔をした。
「それ、褒めてる?」
「もちろん」
「普段は馬鹿だと思ってたってこと?」
「そこまでは言ってない」
「思ってはいた?」
「……少し」
「正直すぎるだろ」
リオルは呆れたように笑い、窓の外へ目を向けた。
◇
「持ってきたわよ」
昼前になると、ティセラが資料を抱えて戻ってきた。
紙束のほかに、薄い木箱もある。
「何が入ってるんだ?」
「昨日の術式の残骸。踏まないように回収しておいたものよ」
「……踏んだら駄目なのか」
「もう何度か踏んでるでしょうけどね」
その通りだったので、黙っておいた。
ティセラは中央机へ木箱を置き、中から焼け残った紙札の切れ端や、封術の図形が残る板片を取り出した。
セヴァンが使った紙札そのものは、一枚が〈返却〉によってどこかへ戻っている。
ここにあるのは、戦闘中に破れたり、落とされたりした別の道具の残りだ。
箱の隅には、瓶を守っていた銀線に使われているものと同じ形式の留め具も入っていた。
「まず、昨日拾ったこれ」
ティセラが一枚の紙片を机へ置く。
波の上を飛ぶ鳥と、その奥に立つ塔が描かれている。
セヴァンの道具に残されていた印だ。
「ラヴェル港の旧税関印に似ているって、係長が言ってたやつだな」
「ええ。古い印章の資料と照合してみたの」
彼女は別の紙を並べた。
そこにも似た印があった。
塔の形と波の数、鳥が向いている方向まで一致している。
「……同じだ」
「ほぼ同じね。少なくとも、同じ系統の印章と考えていいと思う」
「じゃあ、セヴァンたちはラヴェルから来たのか」
「まだ断定できない。古い道具が別の町へ流通することもあるし、印だけを複製することもできるから」
ティセラはもう一枚、紙を置いた。
「ただ、重要なのはここからよ」
その紙には、セヴァンの紙札に残っていた術式の一部が写されている。
「この線の組み方、今の王都で一般的な拘束式とは違うの」
「どう違う?」
「ずっと古い形式に近いわ。王国軍で昔使われていた記録があるけど、現在の標準式より作るのに手間がかかる」
「古いから性能が悪いってこと?」
「逆よ。条件が合えば精密に働く。ただ、一枚ずつ作るのが面倒で、材料も高い。大量に配る道具には向かなかったのね」
俺は板片に残る線を覗き込んだ。
昨日は、こんな小さな紙のせいで部屋中を走り回る羽目になった。
古いからといって、侮れるものではないらしい。
「じゃあ、使える場所は限られる?」
「少なくとも、これを継続して作ったり管理したりできる組織なら、それなりの技術と資金を持っているはずよ」
その一言で、少し見方が変わった。
俺たちはセヴァンを、突然現れた怪しい男としてしか知らない。
だが、昨日の道具を揃えるためには、作る人間も保管する場所も必要だったはずだ。
一人の思いつきで動いているとは考えにくい。
「……エルセも、その組織の人間なんだよな」
「本人は回収係だと言っていたわね」
「中身を知らないって」
「本当かどうかは分からないけど、役割を分けている組織ならあり得る話よ」
ティセラは資料を揃えた。
「保管する人、運ぶ人、回収する人。それぞれが担当分だけを知るようにすれば、組織の全体像を知らない人間も出てくる」
俺はエルセの顔を思い出した。
回収係は中身を聞かない。
彼女は当然の規則のように、そう言っていた。
もし本当に中身を知らないなら、誰のものかも分からない瓶を、どうして危険を冒してまで持ち帰ろうとするのだろう。
「……そんな仕事、俺にはできないな」
「でしょうね」
ティセラが即答した。
「何で?」
「あなたなら、何を返しているのか気になって、途中で開けようとするもの」
「最近はしないよ」
「最近は、ね」
リゼまで頷いている。
昔の俺は、そんなに信用がなかっただろうか。
いや、あったのだろう。
ただ、最近の失敗については十分に自覚している。
〈返却〉で扱えるものが増えたからこそ、触れていいものまで増えたと思い込まないようにしなければならなかった。
◇
ティセラは古式術の資料を開き、机の上に三つの図形を描いた。
「少しだけ、仕組みの話をしていい?」
「少しだけなら」
「セインの場合、少しの基準が信用できないのよね」
「何で俺のせいになるんだよ」
彼女は笑って、最初の図を指した。
「普通の術式は、特定の現象を起こすための条件を、材料や文字や図形へ分けて組み立てるの。例えば火を起こすなら、熱を出す条件と、燃える対象と、止める条件が必要になる」
「固有術の〈着火〉を、道具で真似する感じ?」
「分かりやすく言えばね。今の研究では、固有術の現象を観察して術式が発展したという考え方が主流よ」
「でも、古式術は違うのか?」
ティセラが嬉しそうに顔を上げた。
「そう。そこが面白いところなの」
「……聞き方を間違えたかもしれない」
「もう遅いわ」
彼女は二つ目の図を示した。
そこには、名前を表す古い文字と、何かを結びつけるような曲線が描かれている。
「王国ができるより前の術式には、物だけじゃなく、名前や帰属や記録のような、形のないものを直接扱おうとした痕跡があるの。青鐘通りの装置も、その系統に近い」
「つまり、昔の人は今より詳しかった?」
「そうとも限らないわ。ただ、世界を分類する考え方が違っていたのかもしれない」
ティセラは紙の余白に、小さな山を描いた。
「古い創世譚には、世界が最初から今の形だったわけじゃないという話がある。山に名前がつけられ、人にも名前がつけられ、それぞれがどこに属するのか定められて、ようやく世界になったというの」
「誰が決めたんだ?」
「伝承によって違うわ。神だったり、最初の王だったり、昔の術師だったり」
「随分意見が分かれてるな」
「伝承だからね。でも、名前と帰属が結びついているところは共通している」
リゼが自分の首元へ触れた。
赤い封蝋が残っている場所だ。
彼女は何も言わなかったが、ティセラの説明を聞き逃すまいとしているのが分かった。
「じゃあ、固有術は?」
俺が尋ねる。
「世界にある規則の一部分だけを、本人が普通とは違う方法で扱える。そう考える研究者もいるわ」
「一部分だけ?」
「例えばリオルの〈均衡〉なら、身体や物の釣り合いを普通より自由に調整できる。でも、何でも動かせるわけじゃないでしょう?」
「そうだな」
「あなたの〈返却〉も同じ。帰属先のあるものを返すことはできるけど、存在しないつながりを新しく作ったり、好きな場所へ勝手に返したりはできない」
俺は青鐘通りでの失敗を思い出した。
あの通りを王都南三区へ返そうとした時、返却先は『不適合』と表示された。
俺が正しいと思う場所と、対象が実際に帰属していた場所は、必ずしも同じではない。
「……世界に頼んでるようなものなのかな」
考えながら言った。
「帰属先が正しいかどうか、確かめてもらうみたいに」
「面白い考え方ね。術を命令ではなく、条件つきの要求と見るわけだ」
「まあ、俺もよく分かってないけど」
リゼが横から口を挟んだ。
「世界に、一つだけわがままを聞いてもらえるみたいですね」
ティセラが一瞬黙った。
それから笑った。
「……その表現、案外いいわね」
「本当ですか?」
「ええ。正確な学術用語ではないけど、考え方としては面白い」
リゼは少し得意そうに俺を見た。
「褒められました」
「聞こえてたよ」
「セインより素直に褒めてくれました」
「俺だって褒めるだろ」
「たまにです」
「今日それ二人目だぞ」
彼女が楽しそうに笑う。
その笑顔を見ていると、俺まで少し気持ちが軽くなった。
つい先日まで、リゼは名前をなくした少女として第七係を訪ねてきたばかりだった。
今では資料を覗き込み、研究者と冗談を交わしている。
自分のことですら分からない部分が多いはずなのに、それでも知らないことを知ろうとする。
そういうところを、俺は結構好きだと思う。
「……セイン?」
名前を呼ばれ、我に返った。
「何?」
「今、何か考えてました?」
「いや」
「顔に書いてあります」
「お前ら、何でそんなに俺の顔を見るんだよ」
リゼが笑い、向こうのリオルまで口元を押さえている。
あまり長く考えていると、余計なことまで見抜かれそうだった。
俺はティセラの資料へ目を戻した。
「それで、今回の瓶も古式術なのか?」
「その可能性はある。でも今は、瓶そのものの仕組みを全部読めたわけじゃない。名前や帰属を扱う古い技術に似ている、というところまでね」
「……了解」
分かったような、分からないような話だった。
ただ、ひとつだけはっきりしている。
俺たちが相手にしているのは、ただの空瓶ではない。
しかも、その技術を扱う組織が今も存在しているらしい。
ならば、古い資料を読むだけではなく、実際にその組織がどこで何をしているのか調べる必要がある。
◇
午後になると、係長が大きな地図を持ってきた。
「調べたよ」
そう言って机へ広げる。
王都の古地図とは違い、王国の西部全体が描かれていた。
「早いな」
「働いてるからね」
「普段も働いてるだろ」
「そう言ってもらえると嬉しい」
係長はわざとらしく感心した顔をしている。
この人の冗談には、真面目に答える方が損なのだ。
俺は地図を覗き込んだ。
見慣れた王都から、西へ一本の街道が延びている。
その途中で大きな川と交わり、丘陵を抜け、やがて広い水域へ出ていた。
地図の端には、長く入り組んだ海岸線が描かれている。
その河口に、大きな都市名があった。
『ラヴェル』
「ここが、例の港町?」
「ああ。王国西部では一番大きな港だよ」
係長が地図へ指を置いた。
「内陸から来る河船と、外海からの船が同じ港へ入る。外国の商館も多いから、王都とは随分雰囲気が違うはずだ」
「行くとしたら、何日くらい?」
「馬車だけなら六日か七日。途中から河船へ乗れば、天候次第で二泊三日くらいかな」
「結構遠いな」
「王都から見ればね」
その言葉に、俺は改めて地図を見た。
子供の頃は、王都が世界の中心なのだと何となく思っていた。
王家も王立機関もここにあり、実家の靴屋も、働いている第七係もある。
そこから外へ出なくても、困ることはほとんどなかった。
だが、地図の中の王都は、思っていたよりずっと小さい。
川を辿れば知らない町があり、さらに先には海がある。その向こうでは、聞いたことのない言葉を使う人々が、きっと俺たちと同じように暮らしている。
「ラヴェルって、どんな町ですか?」
リゼが尋ねる。
係長は少し考えた。
「臭い」
「……え?」
「魚と塩と油、それから香辛料。船の木材も濡れてるし、人も多い。港だから、いろんな匂いが混ざる」
リゼの顔が少し曇った。
「美味しそうな匂いもあります?」
「そこかよ」
俺が言うと、彼女は真面目に頷いた。
「旅先では重要でしょう?」
「まだ旅行に行くって決まったわけじゃないぞ」
「でも、調べに行くかもしれないんですよね」
「そうだけど」
「だったら食事も必要です」
何も間違っていなかった。
係長が笑いながら地図をなぞる。
「港の市場は面白いよ。魚を焼く店もあれば、南方の香辛料を使う店もある。王都じゃ見かけない料理だって多い」
リゼの表情が明るくなった。
「……行ってみたいです」
「目的が変わってるぞ」
「変わってません。増えただけです」
増やすな。
そう言いかけたところで、ティセラが地図の一角を指した。
「固有術の登録所もあるはずよね」
「登録所?」
俺が聞くと、彼女は頷いた。
「ラヴェルでは、港の仕事に固有術を使う人間を登録する制度があるの。例えば、荷物を浮かせる人や、温度を保つ人、水分を抜く人なんかね」
「能力を登録するのか?」
「本人と仕事内容をね。船会社や商人が必要な時に契約するのよ」
「それ、術を貸すってこと?」
「契約上はそういう扱いをすることもあるわ」
リオルが少し嫌そうな顔をした。
「……人間を道具みたいに聞こえるな」
「契約の仕方によるでしょうね。本人が納得して仕事を選べるなら、職人の技術を買うのと近い。でも、能力が珍しいというだけで条件を押しつけられることもあるらしいわ」
俺は靴屋の父を思い出した。
どんなに上手な職人でも、仕事を受けるかどうかは本人が決める。
靴を直す腕があるからといって、誰かが勝手に父の時間を持ち出していいわけではない。
固有術も、本当なら同じはずだ。
「……俺の〈返却〉も需要あるのかな」
「もちろんでしょうね」
ティセラが答えた。
「港なら、荷物の取り違えや誤配送は毎日のように起きるでしょうから」
リゼがこちらを見た。
「セイン、現地でも働くことになりそうですね」
「俺は調査に行くんだけど」
「困ってる人がいても、断れます?」
「……場合による」
「ほら」
「今のは断れないって意味じゃないぞ」
リゼは何も言わずに笑った。
どうやら最近の俺は、口より先に顔が返事をしているらしい。
あまり嬉しい発見ではなかった。
◇
「それで、こっちが少し気になる場所なんだ」
係長がラヴェルの南側を指した。
街の中心から少し離れたところに、地図上では薄く塗られた区域がある。
「何?」
「昔の市街地だよ。百数十年前の地盤沈下と水害で、一部が沈んだ」
「街が沈んだのか?」
「ああ。その上に今の町が広がった場所もある。地下に残った通路と、水の下にある区画が入り組んでいるらしい」
係長は古い資料を一枚重ねた。
『水底街』
「現地では、今でもそう呼ぶそうだよ」
その名前を見た途端、青鐘通りの地下施設を思い出した。
街の下に、別の時代の構造物が残っている。
ただ、それだけで何か関係があると決めることはできない。
「そこにも保全施設がある?」
俺が尋ねると、係長は首を振った。
「まだ確認できていない。古い地下区画があるという情報だけだね」
ティセラが資料へ身を乗り出した。
「王国成立以前の建築も残ってる?」
「記録上は」
「行きたい」
「まだ行くとも決めてないけど」
俺が言うと、ティセラは眼鏡を直した。
「古式術の資料が現地に残っている可能性があるのよ。見たいに決まってるじゃない」
「先に瓶の持ち主を探すんだぞ」
「分かってるわ。調べるべき場所が増えた時、私の知識が必要になるって言ってるの」
そこは否定できなかった。
ラヴェルには、セヴァンたちの足跡があるかもしれない。
だが、今の段階で確実なのは、彼らの道具に旧税関の印が残っていたということだけだ。
いきなり水底街へ潜っても、目的の人物や瓶に近づけるとは限らない。
「……まず印の出所だな」
俺が言うと、ティセラが頷いた。
「旧税関の記録が残っていれば、道具を扱っていた組織まで辿れるかもしれない」
「その先に瓶の持ち主がいるかどうかは、まだ分からないけど」
「だから調べるのよ」
話が一つ、まとまった。
ラヴェルへ向かうことになれば、最初に調べるのは旧税関印の出所。
水底街は、その調査で関係が見つかった時に考えればいい。
少なくとも、何も分からないまま古い地下施設へ飛び込む必要はなさそうだった。
「……で、行くとしたら誰が行くんだ?」
リオルが尋ねた。
係長は机の端に腰を預けた。
「正式な出張命令は、まだ出せないよ。今あるのは疑わしい道具の印と、未確認の保管先の情報だけだからね」
「じゃあ、もう少し調べる?」
俺が聞く。
「ああ。瓶の封と、旧税関の記録をもう少し照合してみよう。現地でしか確認できないと分かれば、その時に申請すればいい」
俺は頷いた。
リゼもティセラも、異論はないらしい。
ただ、リオルはすでに腕を組んでいた。
「行くことになったら、警備隊の同行を申請する」
「お前も?」
「当然だろ。昨日襲撃されてるんだぞ」
「第七係の仕事なのに?」
「警備が必要なら警備隊の仕事だ」
言い切ったあと、リオルは俺の右腕へ目を向けた。
「それに、お前だけで行かせたら、また帰ってきた時にどこか怪我してそうだ」
「最近、その評価ばっかりだな」
「積み重ねた実績ってやつだよ」
返す言葉がなかった。
俺は最後にリゼを見た。
「……お前はどうする?」
彼女は少し驚いた顔をした。
「行くなら、一緒に行きますけど」
「危ないかもしれないぞ」
「分かってます」
「仕事でもないし、無理についてくる必要はないからな」
俺がそう言うと、リゼは少しだけ考えた。
それから自分の腰の真鍮札へ触れた。
「……四十二人から忘れられた人がいるんですよね」
「ああ」
「その人が、本当に忘れられたかったのかどうか、まだ誰も分からない」
「そうだな」
「私も、自分の名前をなくした時は、何が起きたのか分かりませんでした」
彼女はゆっくり言葉を続けた。
「誰かが私の代わりに決めてしまったことも、たぶんあったんだと思います。でも、これからどうするかは自分で決めたいんです」
俺は黙って聞いていた。
「だから、あの瓶の持ち主のことも、ちゃんと知りたいです。返してほしい人なら助けたいし、返してほしくない人なら、その理由を聞きたい」
彼女は最後に、少しだけ笑った。
「それに、港町も見てみたいです」
「やっぱりそっちも大きいだろ」
「両方本音です」
即答だった。
そういうところが、リゼらしい。
「……分かった」
俺は頷いた。
「ただし、向こうでも勝手な行動はしないこと」
「セインに言われるとは思いませんでした」
「最近はちゃんと相談してるだろ」
「二日くらいですね」
「二日だって成長だよ」
「では、褒めてあげます」
「子供扱いするな」
リゼが笑う。
俺もつられて笑った。
以前なら、一緒に来ることを当然だと思っていたかもしれない。
彼女は役に立つし、自分には感じられない痕跡を見つけてくれる。
けれど、役に立つからといって、危険な場所へ連れていっていい理由にはならない。
そのことに、ようやく気づけた気がした。
◇
夕方、係長は古い地図の照合へ、ティセラは術式の検査へ戻った。
リオルも警備隊への報告を済ませると言って席を外している。
俺は一人で、西部地方の地図を眺めていた。
王都から西へ伸びる道を指で辿る。
途中に宿場町があり、川を渡り、知らない地名をいくつも通り過ぎる。
やがて、指先がラヴェルへ着いた。
その先には海が描かれている。
行ったことのない場所だった。
父親の工房で扱っていた革が、あの港を通ってきたことはある。それでも、その革がどんな船に積まれ、誰の手を経て王都まで運ばれてきたのか、考えたことはなかった。
俺の世界は、ずいぶん狭かったらしい。
王都の中だけでも知らないものは多い。
それなのに、今はその外側へ行く理由ができようとしている。
しかも、観光ではない。
誰かの記憶が入っているかもしれない瓶を調べ、回収しようとする人々の正体を確かめるためだ。
二十八年前に四十二人が忘れた男。
その事件を追っていた記録官。
持ち去られた第三保全槽。
全部がラヴェルでつながっているという保証はない。
それでも、今の俺たちが調べられる場所の一つとして、あの港町が浮かび上がってきた。
知らない町へ行くことは少し怖い。
でも、正直に言えば楽しみでもあった。
まだ見たことのない海には、どんな船が浮かんでいるのだろう。
港の朝は、どんな音がするのだろう。
王都では聞いたことのない言葉で、誰かが落とし物の持ち主を探していることもあるのだろうか。
「……楽しみですか?」
横から声がして、俺は顔を上げた。
いつの間に戻ってきたのか、リゼが肩越しに地図を覗いている。
「何が?」
「ラヴェルです」
「別に」
「嘘ですね」
「何で?」
「さっきから、ずっとそこを見てます」
「調べてるんだよ」
「口元も、ちょっと楽しそうです」
「そんなところまで見るなよ」
リゼは笑い、俺の隣へ来た。
地図の端に広がる青い海へ視線を落とす。
「セイン、海を見たことあります?」
「ない。お前は?」
「……多分、ないです」
「多分?」
「覚えていないので。見ていたとしても、分からないんです」
軽い口調だった。
けれど、その言葉が胸の奥に残った。
リゼには、これから先もこういうことが何度もあるのだろう。
知らない場所へ行くたび、それが本当に初めてなのか、以前来たことがあるのを忘れているだけなのか、分からない。
誰かと話していても、前に会ったことがあるのかもしれない。
好きだったものや、嫌いだったものさえ、自分では確かめられない場合がある。
俺だったら、きっと疲れてしまう。
それでもリゼは、地図の海を楽しそうに眺めている。
俺は少し考えてから言った。
「……じゃあ、今度見る海を最初にすればいい」
リゼがこちらを向いた。
「最初に?」
「ああ。前に見ていたかどうかは、今すぐ決めなくてもいいだろ。ラヴェルで見た海を、リゼになってから最初に見た海にすればいい」
言ってから、少し気恥ずかしくなった。
そんなに格好のいいことを言うつもりではなかった。
でも、リゼは笑わなかった。
しばらく俺を見つめてから、地図へ視線を戻した。
「……それ、いいですね」
「そう?」
「はい」
彼女は海岸線へ指を添えた。
「じゃあ、セインも初めてなんですよね」
「ああ」
「一緒ですね」
たったそれだけの言葉だったのに、妙に嬉しそうだった。
俺も少し笑った。
もしかしたら、まだ決まってもいない旅を、俺は思っていた以上に楽しみにしているのかもしれない。
怖くないわけではない。
セヴァンたちの組織が何をしているのかも分からないし、あの瓶の中に本当に記憶が入っているのなら、それを扱うことには危険が伴うだろう。
それでも、知らないものを見に行くことまで怖がる必要はないはずだ。
「セイン」
「何?」
「海って、しょっぱいんですよね」
「……そうらしいな」
「どれくらい?」
「知らない」
「少し舐めれば分かります?」
「飲むなよ」
「舐めるだけです」
「それもやめとけ」
リゼは不満そうだった。
「初めての海なのに」
「初めてだからって、何でも口に入れるな」
「じゃあ、港で何か食べます」
「最初からそっちにしろよ」
彼女が笑う。
俺も笑いながら、地図へ目を戻した。
王都から西へ延びる道の、その先にある海。
いつか誰かがなくしたものを探しているうちに、ここまで来てしまった。
今の俺にはまだ、瓶の中に何が入っているのか分からない。
四十二人から忘れられた男が誰なのかも、セヴァンが語った「自分で忘れられることを選んだ」という話が本当なのかも知らない。
だから調べる。
相手がどんな組織なのかを確かめ、持ち主の手がかりを探す。
返すかどうかを決めるのは、それからだ。
「……明日、もう一度瓶を調べるよ」
俺が言うと、リゼが頷いた。
「はい。私も手伝います」
「無理はするなよ」
「セインもですよ」
「分かってる」
今度は、素直にそう答えた。
窓の外では、いつもの王都の鐘が鳴っている。
海なんて見えないし、港の風が届くはずもない。
それでも、地図の青い部分を眺めていると、魚や塩や濡れた木材が混ざったという、まだ知らない匂いが少しだけ近づいてくる気がした。
王都にはない潮の匂いを、俺はいつの間にか想像していた。
その先で何が待っているのかは分からない。
でも、リゼと一緒に海を見る日が来たら、きっと忘れたくないと思うのだろう。




