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王都の返却士 ~その落とし物、世界のものです~  作者: 紙森 灯
第三章 誰も覚えていない男

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第三十九話 回収に来ました

【これまでの返却記録|第二章「地図から消えた通り」】


王都に存在しないはずの道。その標識をきっかけに、セインたちは地図から消えた「青鐘通り」を探し始めた。


調査の末にたどり着いた通りでは、人々が外の世界から切り離され、少しずつ存在を失いかけていた。


青鐘亭を営むミレアと息子のニコ、謎めいた青年ネイ。そこには、忘れられてもなお帰る場所を守ろうとする人々がいた。


地下で見つかったのは、人と場所の帰属を切り離す装置。セインたちは危険を冒しながら、その仕組みに立ち向かう。


やがて青鐘通りは王都へ戻り、住民たちも日常を取り戻した。


しかし事件の後、所有者の分からない倉庫から、記憶を収めたらしい小さな瓶が見つかる。


名前、道、そして記憶。


世界から失われたものは、いったいどこへ運ばれているのだろうか。

 

 昨夜、拾得物票を書き終えた時点で、分かっていることは驚くほど少なかった。


 拾得物は、古いガラス瓶が一本。王都西側の旧倉庫街でネイが拾い、第七係へ届けた。瓶には封蝋が残っているが、中身は見えず、持ち主も不明だ。


 そこまでは、普通の落とし物と変わらない。


 厄介なのは、その先だった。


 リゼは瓶の内側に何かが失われたような痕跡を感じている。底の印は古い封術に似ており、青鐘通りの第三保全槽には『預託種別:記――』という刻印が残されていた。


 さらに、二十八年前には四十二人が同じ一人の人間を忘れたという記録まで見つかっている。


 どれも関係があるように思えるのに、同じ事件だと証明できるものは一つもない。


 だから、今日の仕事は決まっていた。


 瓶を開けずに調べる。そして、本当の持ち主を探す。


 そのはずだった。


「……何でお前がここにいるんだ?」


 第七係の入口に立つリオルを見て、俺は尋ねた。


「仕事だから」


「警備隊の仕事って、管理局の壁に寄りかかることだったっけ」


「お前がまた勝手に何か開けないように見張ることも、今日から加わった」


「そんな職務あるかよ」


「係長から警備の要請が来たんだよ。昨日まで襲撃されてた連中が、正体不明の瓶を持ち込んでるんだから当然だろ」


 見ると、入口の外にはもう一人、王都警備隊の隊員が立っている。


 どうやら本当に警備がついたらしい。


「係長、何で俺に一言も言わないんだよ」


 奥の机へ声をかけると、係長は書類から顔も上げずに答えた。


「言ったら断るだろ」


「断るかどうかは聞いてから決めてよ」


「じゃあ、警備をつけていい?」


「……今さら断れないだろ」


「よかった。話が早い」


 その人は満足そうに頷いた。


 俺はため息をつき、自分の机へ向かった。


 係長とは、入局して以来こんな調子だ。頼りになる人なのだが、肝心なことほど何でもない顔で決めてしまう。


 もっとも、今回は反論しきれなかった。


 青鐘通りでは独断で〈返却〉を使い、倒れかけた。そのことを考えれば、警備どころか見張りが一人増えても文句は言えない。


 机の中央には、昨日のガラス瓶が置かれていた。


 ティセラが夜の間に簡易封印を施し、瓶の周囲には細い銀線が三重に張られている。封を壊した時に何が起こるか分からない以上、勝手に触れられないようにするための措置だった。


「その銀線、触っても大丈夫?」


 俺が尋ねると、資料を整理していたティセラが顔を上げた。


「触らないで」


「だから聞いたんだろ」


「質問する前に手が動く人だから」


「信用ないな」


「昨日までの実績を考えて」


 今日は味方が多いはずなのに、誰も俺の側に立ってくれなかった。


「セイン」


 隣からリゼが呼んだ。


「何?」


「まだ何か感じます」


 彼女は銀線の外から瓶を見つめていた。


「昨日と同じか?」


「似ています。でも、少し違うような気もして……」


 リゼは角度を変えて確かめた。


「うまく説明できません。何かがなくなった跡が、瓶の中に残っている感じです。ただ、それが何なのかまでは分からなくて」


「無理に答えを出さなくていいよ」


「いいんですか?」


「分からないことは、分からないまま記録する。それも大事な仕事だろ」


 リゼは少し考えてから頷いた。


「じゃあ、今は『昨日とほぼ同じ。ただし、少し違和感あり』ですね」


「そうだな」


「書いておきます」


 彼女は用紙の端へ丁寧に文字を書き始めた。


 俺も拾得物票を引き寄せる。


 その途中で、机の隅に置かれた真鍮札が目に入った。


 昨日、リゼが俺のために作り始めたものだ。まだ仕上がっていないらしく、表には名前と所属だけが刻まれている。


『セイン・アルケット』


 自分の名前が金属に残っているのを見るのは、妙な気分だった。


「……それ、持ち歩くの?」


「完成したら私が持ちます」


「俺にくれるんじゃないのか」


「セインがなくなったら、セインは持てないでしょう?」


「まあ、そうか」


 何とも縁起の悪い話だが、青鐘通りを経験した後では笑い飛ばせない。


 俺はそれ以上何も言わず、報告書へ向き直った。


 入口のベルが鳴ったのは、その時だった。


     ◇


「落とし物の受け取りに来ました」


 入ってきた男は、穏やかな声でそう言った。


 三十歳を少し過ぎたくらいだろうか。短く整えた茶色の髪に、皺のない灰色の上着を着ている。


 王立機関の職員にも商人にも見える、ごく普通の身なりだった。


 その後ろには、もう一人、女が立っていた。


 短くまとめた灰色がかった髪と、薄い外套。年齢は俺より少し上に見える。


 自然と靴へ目が向いた。


 踵の外側が擦り減っている一方、爪先には大きな傷がない。泥のつき方からして、昨夜から相当な距離を歩いていたらしい。


 父親なら、まず靴底を交換しろと言うだろう。


 そこまで考えて、自分がまた人の靴を観察していたことに気づいた。


 リゼが俺の札へ余計なことを書き足す理由も、少しは分かる。


「いらっしゃいませ。どんなものですか?」


 受付用紙を引き寄せながら尋ねた。


「ガラス瓶です」


 ペンを持つ手が止まった。


 隣ではリゼも顔を上げている。


「特徴を教えてください」


「掌に収まる程度の透明な瓶です。表面には細かな傷があり、口元に黒い封蝋が残っている。底には古い形式の刻印があります」


 どれも、机の上にある瓶と一致していた。


 しかも、その細かな特徴は公開していない。


「それは、あなたの持ち物ですか?」


 俺が尋ねると、男は軽く首を振った。


「いいえ」


「じゃあ、持ち主の代理?」


「それも少し違います」


「……どう違うんです?」


「本来あるべき保管先へ戻すために来ました」


 言葉だけ聞けば、俺の仕事と似ている。


 だが、保管先を知っていることと、その物の持ち主であることは同じではない。


「所有者か、正当な受取権限を確認できるものはありますか?」


 男は一瞬だけ目を細めた。


「徹底していますね」


「仕事なので」


「評判どおりだ」


 妙な言い方だった。


「俺のこと、知ってるんですか?」


「ええ。セイン・アルケット。二十一歳。王立遺失物管理局第七係の返却士」


 年齢まで言い当てられ、背筋が少し冷えた。


 俺たちが相手のことを知らないうちから、向こうは俺を調べている。


 入口近くのリオルが、壁から身体を離した。


「名前を聞こうか」


 男は素直に答えた。


「セヴァン・ロークです」


「隣の人は?」


 女が一歩前へ出た。


「エルセ・ヴァンデルと申します」


「身分証を」


 リオルが求めると、セヴァンは革の書類入れから一枚取り出した。


 印章を確かめたリオルが眉を寄せる。


「ラヴェル商業組合?」


「ええ」


「……ラヴェル」


 思わず呟いた。


 王国西部の大きな港町だ。


 行ったことはないが、実家の靴屋では何度かあそこの革を仕入れていた。父親が、港の商人は値切る時だけ王都語が上手くなる、と愚痴をこぼしていたのを覚えている。


「商業組合の人が、古い瓶を取りに来たんですか?」


「組合には少し協力してもらっているだけです」


 セヴァンは笑みを崩さなかった。


「つまり、組合の人間じゃないのか」


 リオルが問い直す。


「正確には」


「それ、身分証の意味ある?」


「王都へ来るには便利なんですよ」


 悪びれる様子がなかった。


 俺は書類を机へ置いた。


「それで、結局何者なんです?」


 今度はエルセが答えた。


「回収係です」


「何を回収する係?」


「管理対象となっている容器です」


「中身は?」


「知りません」


「知らない?」


「回収係は中身を聞かないので」


 即答だった。


 冗談を言っているようには見えない。


 むしろ、本当にそれが仕事上の決まりなのだろうと思わせる口ぶりだった。


「じゃあ、誰のものかも分からないんですか?」


「私の担当ではありません」


「……便利な仕事ですね」


「分担しているだけです」


 エルセは落ち着いて答えた。


「保管先が正しいかを確認して戻す。それが私の役目です」


「俺たちは持ち主を確認して返す。似てるようで、全然違うな」


「ええ。最後のところが違いますね」


 彼女は少しだけ笑った。


 その笑い方には、相手を馬鹿にするようなところがなかった。


 だからこそ、妙に気になった。


 こちらも向こうも、何かを本来の場所へ戻す仕事をしているつもりなのだ。


 ただ、その本来の場所を誰が決めるのかが違う。


「瓶は渡せないよ」


 奥から係長の声がした。


 係長は席を立ち、俺の隣へ来た。


「正当な権限が確認できない以上、第七係では引き渡せない。保管先を知っているというだけじゃ足りないからね」


「王立機関らしいですね」


 セヴァンが言う。


「役所だからね」


 係長はいつもの口調だった。


 だが、俺は少し安心した。


 この人がいる。


 リオルも、ティセラもいる。


 少なくとも、今ここで瓶を簡単に持ち去られることはないはずだ。


 そう思った時、エルセがセヴァンへ顔を寄せた。


「……確認だけのはずでは?」


 小声だったが、すぐ近くにいた俺には聞こえた。


 セヴァンは答えず、机の上の銀線を眺めている。


「昨夜の指示では、接触を避けることになっていました」


「覚えていますよ」


「だったら……」


「状況が変わりました」


 セヴァンは彼女を見た。


「ここからは私の判断です。責任も私が負います」


 エルセの表情が硬くなった。


 その直後、男の指先に細長い紙札が現れた。


     ◇


「リオル!」


 俺が呼ぶより早く、リオルが剣を抜いた。


「全員、下がれ!」


 セヴァンは紙札を落とした。


 床へ触れる直前、それが赤く光る。


 石畳ではなく、第七係の古い板張りの床に細い線が走り、机の脚と椅子を取り囲むように広がっていった。


「拘束式!」


 ティセラが叫んだ。


「線を踏まないで!」


 俺はリゼの腕をつかんで引いた。


 彼女を机の後ろへ移し、自分も赤い線から離れる。


 床の一角で、椅子の脚が持ち上がった。目に見えない何かに引かれ、そこへ固定されようとしているらしい。


「何のつもりだ!」


 リオルが剣を構えた。


 セヴァンは穏やかな顔のままだ。


「瓶を受け取りたいだけですよ」


「人の職場で術式を使っておいて、その言い方はないだろ!」


「手続きを待っていたら、永遠に返してもらえなさそうなので」


「だったら諦めろよ!」


 俺の言葉に、セヴァンは少し笑った。


「それができれば、苦労しません」


 次の瞬間、リオルが床を蹴った。


 拘束式の境界に足を取られかけたが、身体の釣り合いを保ったまま姿勢を立て直す。


 固有術〈均衡〉。


 物や身体に働く力の偏りを安定させる能力だ。拘束そのものを消せるわけではないが、重心を乱されても倒れにくい。


 剣先がセヴァンへ向かった。


 そこで、止まった。


 リオルが止めたのではない。


 振り下ろされる途中の剣が、不自然な角度のまま空中に留まっていた。


「……何だ?」


 リオルが目を細める。


 エルセが手を上げている。


「三秒です」


「何が?」


「二」


 リオルはためらわず剣から手を放した。


「一」


 止まっていた剣が勢いを取り戻し、床へ叩きつけられた。


 板が割れ、乾いた音が響く。


 リオルは身を引いてそれを避けた。


「……動きを一時的に止めるのか」


 エルセが眉を上げた。


「早いですね」


「三秒数えてくれたからな」


「あなたに怪我をさせるつもりはありません」


「だったら、そこをどいてくれ」


「それもできません」


 二人の目が合った。


 エルセの顔には、攻撃を楽しむような表情がない。


 しかし退くつもりもなさそうだった。


 俺は机の下へ視線を落とした。


 赤い拘束式はゆっくり広がっている。


 このままでは、瓶を守る前に部屋の中を自由に動けなくなる。


「ティセラ、あの札をどうにかできるか!」


「封を崩せば止まると思う。でも、私が直接触ると下段の術式まで起動するかもしれない!」


「……つまり?」


「勝手に引き抜かないでってこと!」


 分かった。


 分かったが、分かってもどうしようもない。


 俺は床の紙札を見た。


 誰かが持ち込んだものには、元の帰属先があるはずだ。


 青鐘通りの保全槽から取り出した接続を返した時とは違う。


 相手が持ってきた道具なら、もっと小さな対象として扱えるかもしれない。


 だが、むやみに術を使うわけにはいかない。


「ティセラ!」


「何!」


「あの札、壊すより返した方が安全かもしれない。封の構造、どう思う?」


 ティセラは一瞬だけこちらを見て、すぐ術式へ視線を戻した。


「札そのものを動かせるなら、外側の接続は切れると思う。でも、どこへ戻るかは分からないわよ!」


「分かった」


 俺は左手を伸ばした。


 対象は、床へ落とされた一枚の紙札。


 その帰属先が本当に存在しているかを、確かめる。


「〈返却〉」


 白い光が札の縁を包んだ。


 次の瞬間、赤い線が一度だけ強く光り、紙札が床から跳ね上がる。


 セヴァンの方へ戻ると思った。


 しかし、札は途中で方向を変えた。


 開いていた窓を通り抜け、外へ飛び出していく。


 赤い拘束線が、床から一つずつ薄れていった。


「……あれ?」


 俺は思わず声を出した。


 セヴァンも初めて、少しだけ驚いた顔になった。


「その札、お前のじゃないのか?」


「備品ですから」


「どこの?」


「さあ」


 嘘をついているのか、本当に知らないのか。


 いずれにせよ、術が向かった先を俺自身が知ることはできなかった。


 〈返却〉は、物を本来の帰属先へ戻す力だ。


 帰属先を教えるための便利な追跡術ではない。


「でも、戻った先には何かある」


 俺が呟くと、リオルがこちらを見た。


「組織の拠点か?」


「そこまでは分からない。ただ、セヴァン個人の持ち物じゃなかった可能性は高い」


 その間にも、セヴァンは新しい紙札を取り出していた。


「……随分厄介な術ですね」


「こっちの台詞だよ」


 男が手を振る。


 今度は三枚の札が床へ向かった。


「止めて!」


 ティセラが叫んだ。


 リオルが前へ出る。


 俺はリゼを見た。


「瓶の箱、持てる?」


「はい!」


「奥の資料室へ。封を壊さないように気をつけて!」


「分かりました!」


 リゼは銀線ごと瓶を覆っていた保護箱を抱え、奥へ走った。


 セヴァンが彼女へ視線を向ける。


 俺は進路に立った。


「瓶を持ち主でもない奴へ渡すつもりはない!」


「だから、持ち主が望んでいない場合もあると言っているんです」


「……何だって?」


 その言葉が引っかかった。


 しかし、問い直す余裕はなかった。


 リゼの足元へ、新しい赤い線が伸びていく。


 俺が手を伸ばすより先に、エルセが動いた。


「〈保留〉」


 足元へ落ちようとしていた金具が、空中で止まる。


 続けて彼女はリゼの近くへ飛んだ別の術具も止めた。


 守ったのか、足止めしたのか。


 どちらとも取れる動きだった。


「エルセさん!」


 セヴァンが呼ぶ。


「瓶を押さえてください」


「……拘束するだけ、と聞いています」


「今は回収を優先してください」


 エルセは一瞬だけ動きを止めた。


 その迷いを、リオルが見逃さなかった。


     ◇


「セイン、こっち!」


 リオルが短く叫んだ。


 俺は机の上にあった文鎮を手に取る。


 リオルは剣を拾い直すと、セヴァンとの距離を詰めた。


 エルセが剣を止める。


 さっきと同じだ。


 ならば、その間に別のものを動かせばいい。


 俺は文鎮と鍵束を、少し離れた方向へ投げた。


「ちょっと、私の資料!」


 ティセラが叫んだ。


「後で拾う!」


 文鎮が止まる。


 鍵束も、途中で不自然に静止した。


 だが、リオルの剣は自由になっていた。


「……二つか」


 俺が言うと、リオルが頷く。


「今のところ、同時には二つまでだな」


 完全に見抜いたとは言えない。


 ただ、エルセが何かを止めるたび、それまで止まっていた別の物が動き始める。


 少なくとも、無制限ではなさそうだった。


「リオル、あと一つ試す!」


「分かった!」


 俺は近くにあった木箱を床へ滑らせた。


 エルセはそれを止めなかった。


 代わりに、リオルが振り下ろした剣をもう一度空中に固定する。


 リオルはすぐに手を放し、身を低くして踏み込んだ。


 剣が使えないなら、素手で間合いを詰める。


 昔からそういう判断の早い奴だった。


 エルセが腕を上げ、拳を受ける。


 リオルは〈均衡〉で身体を立て直し、相手の重心がずれた瞬間に距離を取った。


「なかなかやるな」


「あなたも」


 エルセが答える。


「でも、そろそろやめませんか」


「そっちが始めたんだろ!」


 リオルが呆れた声を上げた。


 俺も同感だった。


 ただ、彼女の声は冗談に聞こえなかった。


 ここまでの動きを見ても、エルセは致命傷を負わせる攻撃を避けているように思える。


 だからといって、信用できるわけではない。


 仕事としてなら、人を閉じ込めることもできる。


 その線引きが、俺には気に入らなかった。


「セイン!」


 リゼが奥から叫んだ。


「箱は守れました!」


「そこにいて!」


「でも、こちらから赤い線が来ています!」


 見ると、セヴァンの術式が資料室の入口へ伸び始めている。


 瓶そのものを狙われていた。


 俺は再び左手を伸ばしかけたが、すぐに止めた。


 返却できる紙札と、封じられた瓶は違う。


 瓶に何が入っているのかさえ分からない状態で術を使えば、持ち主とは違う誰かのところへ戻してしまうかもしれない。


 今必要なのは、無理に返すことではなかった。


「ティセラ!」


「分かってる!」


 彼女は封印用の銀線を取り、床へ素早く図形を描き始めた。


 それは〈転写〉で現存する術式の一部を写し取り、封じるための線へ組み直したものだった。


「今から入口を閉じる! リオル、セイン、扉から離れて!」


「了解!」


 俺たちは同時に下がった。


 青い線が床を走り、入口と窓枠を覆う。


 セヴァンが扉へ手をかけたが、開かない。


「……なるほど」


 男が初めて笑みを消した。


「研究者を怒らせない方がいいですよ」


 ティセラが言った。


「できれば戦闘中に知りたかったですね」


「今知ったでしょ」


 俺は少し笑いかけた。


 しかし、セヴァンはまだ諦めていなかった。


 懐から黒い針のような道具を取り出し、青い封の一点へ突き立てる。


 光が歪んだ。


「……それ、何?」


 ティセラの顔つきが変わる。


 研究者として興味を惹かれたのだろう。


「今は感心してる場合じゃない!」


「分かってるわよ!」


 封に細い亀裂が入った。


 セヴァンはそこを押し広げ、扉へ手を伸ばす。


 俺は追いかけようとしたが、目の前を小さな金属片が横切った。


 エルセが投げたものだ。


 反射的に避けたところで、それが空中に静止する。


 嫌な予感がした。


 さっきの剣も、止まった後で動き始めた。


 この金属片も、再び勢いを取り戻す。


「セイン、動くな!」


 エルセの声が飛んだ。


 俺が足を止めると、彼女が先に手を伸ばし、俺の腕を強く引いた。


 金属片が直前まで俺のいた場所を通り抜け、後ろの壁へ当たった。


 乾いた音がした。


「……助けた?」


 俺が尋ねると、エルセは手を離した。


「怪我をさせる必要はありません」


「でも、今のはお前が投げたんだろ」


「……そうですね」


 彼女は否定しなかった。


 どこか苦しそうに見えた。


 その一瞬のやり取りの間に、セヴァンが封を破った。


「エルセ、退きます!」


 男が叫ぶ。


 エルセは俺を見た。


 何か言おうとして、やめたらしい。


 そのままセヴァンの後を追った。


「待て!」


 リオルが追いかけようとした。


 しかし扉の外へ紙札が一枚落ち、強い風が吹き込んできた。


 書類が舞い上がる。


 俺が書きかけた報告書も、リゼの描いた小さな絵も、窓辺の鉢植えの葉まで巻き上げられた。


「俺の報告書!」


「今それですか!」


 奥からリゼが叫んだ。


 俺だって、何でその言葉が最初に出たのか分からない。


 風が収まった時、扉の向こうには誰もいなかった。


     ◇


「追うか?」


 俺はリオルへ尋ねた。


 以前なら、考える前に走り出していたかもしれない。


 しかし今は、リゼのいる資料室も、ティセラの封術も、目の前の瓶も気になる。


 それに、相手は逃げ道を用意していた。


 警備隊の人数が少ないまま追えば、また別の場所へ誘い込まれる可能性もある。


 リオルは短く考え、首を振った。


「今は人員確認と瓶の保護が先だ。外の隊員に報告させる」


「分かった」


 素直に頷けた。


 追いかけたい気持ちは残っている。


 だが、誰かと相談して決めたからといって、行動が遅れるわけではない。


「リゼ!」


 俺が呼ぶと、彼女が資料室から顔を出した。


「無事です!」


「箱は?」


「持ってます。ちゃんと封もあります」


「よかった」


 その返事を聞いて、肩の力が抜けた。


 係長もティセラも無事だった。入口の隊員にも大きな怪我はなく、リオルはすでに追跡の指示を出している。


 ところが、銀線を調べていたティセラが顔をしかめた。


「……待って」


「何?」


「一本足りない」


 俺たちは瓶を囲んだ。


 三重に張られていた銀線のうち、一つが外されている。


 封自体は維持されていたが、端の留め具に不自然な傷があった。


「切れたのか?」


「違うわ。抜き取られてる」


「誰が?」


「さっきの二人以外にいる?」


 俺は扉を見た。


 結局、瓶は持ち去られなかった。


 それでも、相手は手ぶらでは帰っていない。


「……何に使うんだろうな」


「術式の構造を調べることはできると思う。ただ、どう使われるかまでは分からないわ」


 ティセラは慎重に答えた。


 それから瓶の封を確認し、足りなくなった銀線を補う準備を始めた。


「セヴァンって男、知ってる?」


 俺が係長へ尋ねると、係長は拾い集めていた紙から顔を上げた。


「名前だけでは分からない。ただ、ラヴェル商業組合の印は本物に見えた」


「組合員じゃないって言ってたよ」


「ああ。だからこそ、どこから持ち込まれた身分証なのか調べたいね」


 俺は机の下へ屈み、落ちていた紙札の切れ端を拾った。


 さっき〈返却〉で外へ飛ばした札とは別のものだ。


 角に小さな印が押されている。


 波の上を飛ぶ鳥と、その向こうに立つ塔。


「……これ、分かる?」


 係長へ渡すと、彼は少し目を細めた。


「ラヴェル港の旧税関印に似ているね」


「じゃあ、やっぱりラヴェルから来たのか」


「そう考える根拠にはなる。ただし、印だけなら別の場所でも使える。すぐに結論を出すのは早いかな」


「……分かった」


 俺は切れ端を受け取った。


 ラヴェルという港町の名前が、初めて具体的な手がかりになった。


 とはいえ、まだ行き先を決めるには早い。


 紙札の出所を調べ、二人の身分を確認する。瓶を拾った場所と照合すれば、何か分かるかもしれない。


 そこまで考えたところで、リゼが近づいてきた。


「セイン」


「何?」


「さっきの二人、瓶を見ても驚いていませんでしたね」


「ああ」


「中に何があるか、知っていたんでしょうか」


「少なくとも、見慣れてるんだろうな」


 リゼは少し黙った。


「私たちは、何も見えない瓶を前にして大騒ぎしてるのに」


「向こうにとっては、普通の仕事なんだろ」


「……それが少し怖いです」


 俺も同じことを思っていた。


 誰かが失ったものを保存し、分類し、保管場所へ戻す。


 そこに持ち主の意思が入る余地はあるのだろうか。


 エルセは中身を知らないと言った。


 だが、セヴァンは持ち主が返却を望まない場合があると話していた。


 矛盾しているようにも思えるし、それぞれ違う仕事をしているからこそ知識に差があるのかもしれない。


「……まず、向こうが何をしている組織なのか調べたいな」


 俺が言うと、リゼが頷いた。


「それと、瓶の持ち主ですね」


「ああ。その二つは、分けて調べよう」


 瓶を回収したい人間がいるからといって、その人間が持ち主とは限らない。


 昨日までなら、当たり前すぎて考えもしなかった区別だった。


     ◇


 片づけが一段落した頃、廊下の奥から声がした。


「一つ、言い忘れていました」


 全員が振り返った。


 開いた扉の向こうに、セヴァンが立っていた。


 先ほどまでと同じ穏やかな顔だが、今は両手を見える位置に上げている。


 リオルが剣へ手をかけた。


「……まだいたのか」


「長居するつもりはありません」


「だったら、今度こそ捕まってくれ」


「できれば遠慮したいですね」


 セヴァンは俺を見た。


「セイン・アルケット。瓶について、一つ忠告しておきたいことがあります」


「……何だよ」


「なくしたものを返すことが、いつも正しいとは限りません」


 俺は答えなかった。


 リゼの名前が頭に浮かんだ。


 彼女には、もともとの名前を取り戻す機会があった。


 それでも今の名前を選び、返さないと決めた。


 その意思を尊重することも、返却士の仕事なのだと俺は知っている。


「それくらい、分かってる」


「本当に?」


 セヴァンは少しだけ首を傾けた。


「二十八年前、四十二人が同じ一人の人間を忘れた事件は、ご存じですね」


 部屋が静かになった。


 係長が一歩前へ出る。


「どこでそれを知った?」


「記録です」


「どこの?」


「あなたたちが、まだ持っていない記録ですよ」


 セヴァンは俺へ視線を戻した。


「もし、あの事件で失われた記憶が瓶に保存されていたとして」


 その言葉に、胸の奥が冷えた。


 第三保全槽の刻印。


 二十八年前の集団記憶欠損。


 そして、目の前のガラス瓶。


 今までは、すべて可能性だった。


「もし、忘れられた当人が、自分でそれを選んだのだとしたら?」


 セヴァンの声が少し低くなった。


「あなたは、それでも元へ戻すんですか?」


「……本人が?」


「ええ」


「本当に、そう望んだのか?」


 セヴァンは答えなかった。


 ただ、俺の反応を確かめるように見ている。


「その人は、今どうしてる?」


「それを知るためにも、瓶を渡していただきたかったんですが」


「持ち主でもないのに?」


「……だから、厄介なんですよ」


 セヴァンは困ったように笑った。


 廊下の向こうから、警備隊の足音が近づいてきた。


 彼はそれを確かめると、一歩後ろへ下がった。


「では、また」


「待て!」


 リオルが駆け出した。


 俺も追おうとしたが、扉の外へ出た時にはセヴァンの姿が見えなくなっていた。


 警備隊員が廊下の両側を確認している。


 リオルが悔しそうに舌打ちした。


「逃げるのだけは上手いな」


「……ああ」


 俺は、それ以上追わなかった。


 頭の中に残っているのは、セヴァンの最後の言葉だった。


 忘れられた当人が、自分でそれを選んだのだとしたら。


 その言葉が事実なのか、俺たちを止めるための嘘なのかは分からない。


 だが、もし本当なら、事件の意味そのものが変わってくる。


 四十二人から記憶が奪われたというだけでなく、忘れられることを選ばなければならなかった誰かがいるのかもしれない。


 もちろん、そう考えるにはまだ証拠が足りなかった。


 本人が選んだことと、本人が望んだことも、必ずしも同じではない。


 今の俺には、その違いを確かめる材料がなかった。


     ◇


 第七係へ戻ると、リゼが瓶のそばに立っていた。


「……セイン」


「何?」


「開けますか?」


 透明なガラスの内側には、相変わらず何も見えない。


 けれど、そこへ誰かの記憶が保存されているかもしれないことは、もう単なる思いつきではなくなっていた。


 あの二人は、明らかに何かを知っていた。


 しかも、それを知られる前に回収しようとしている。


 俺はしばらく瓶を見つめた。


「……開けない」


 リゼが驚いたように顔を上げた。


「いいんですか?」


「いいかどうかは分からない。でも、今はまだ駄目だ」


 俺は拾得物票を引き寄せた。


 所有者欄には『不明』と書かれている。


 勝手に開けて中身を確認すれば、何かが分かるかもしれない。


 しかし同時に、戻せないことが起こる可能性もある。


「まず、この瓶が誰のものかを調べる。それから、セヴァンたちが何のために回収しようとしたのかを確かめたい」


「……二十八年前の事件も?」


「ああ。あの四十二人の件と関係があるなら、調べる理由はなおさらだ」


 リゼは少し考えてから頷いた。


「じゃあ、やることは決まりましたね」


「そうだな」


 俺はさっき拾った紙札の切れ端を机へ置いた。


 波と鳥と塔の印。


 ラヴェル港の旧税関。


 次に調べるべきものが、ようやく一つ見つかった。


 その印の出所が分かれば、セヴァンたちのいた場所へ近づけるかもしれない。そこに瓶の持ち主を知る人間がいるかどうかは、まだ分からないけれど。


「……ラヴェルって、どんな町なんでしょう」


 リゼが尋ねた。


「港町だよ。王国の西の方にある」


「海があるんですか?」


「ああ。俺も行ったことはないけどな」


「じゃあ、いつか行ってみたいです」


 彼女は窓の外を見た。


 王都の向こうにある海を、想像しているのだろう。


「美味しいものも、たくさんありますかね」


「まずそこかよ」


「大事でしょう?」


 いつもの会話だった。


 けれど俺は、少しだけ別のことを考えていた。


 王都の地図から青鐘通りが消えた時、俺たちはそこにあるものを取り戻そうとした。


 今度の手がかりは、まだ一度も行ったことのない町につながっている。


 誰かの名前も、顔も、記憶も分からないまま、その町へ行くことになるのかもしれない。


 怖さはあった。


 だが、何を追うべきかさえ分からなかった昨日までとは違う。


 まず瓶の持ち主を探す。


 そのために、瓶を回収しようとする人間たちの足跡を追う。


 そして、二十八年前に何が起きたのかを確かめる。


 すべて一度に解く必要はない。


 今は、残された手がかりを一つずつ辿ればいい。


「セイン」


 リゼが呼んだ。


「何?」


「お仕事、増えましたね」


「ああ。やっと青鐘通りの報告書が終わりそうなのに」


「また新しい書類を作ります?」


「作るしかないだろ」


「今度は短い名前にしてくださいね」


 俺は拾得物票の上に新しい紙を重ねた。


 少し考え、題名を書く。


『記憶瓶・所有者調査』


「……これなら短いだろ」


 リゼが覗き込んで頷いた。


「はい。分かりやすいです」


「だろ?」


「最初からそうすればよかったのに」


「一言多いな」


 彼女が笑った。


 俺も笑い返し、それから紙札の印を見た。


 波の向こうに立つ塔。


 まだ見たことのない港町に、俺たちの探している答えがあるのかもしれない。


 もしそうなら、今度はこちらから確かめに行けばいい。


 誰のものか分からないまま、誰かへ渡してしまう前に。

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