回収係は中身を聞かない
「それ、あなたの記憶じゃないでしょう」
女にそう言われてから、ロット・ファーナーはしばらく黙っていた。
路地を抜ければ夜市がある。
木柵を二つ越えれば、逃げ込める民家も知っている。
しかし今、逃げるために使うはずの頭の中には、自分の知らない暮らしが入り込んでいた。
黒髪の女の笑顔。
パンの端を残す男の子。
雨に濡れた石畳。
真鍮の札に刻まれた『第七係』と『四十四』。
どれも自分の記憶ではない。
それなのに、ロットは女の笑顔が消えることを怖がっていた。
「……どうすればいい」
尋ねると、目の前の女は手を差し出した。
「まず瓶を返して」
「それで?」
「必要な処置をする」
「俺は死なない?」
「そのつもりはない」
「もう少し安心できる言い方、ないのかよ」
「死なせる必要がないの」
少しも安心できなかった。
ロットは上着の内側へ手を入れた。
出てきたのは一本だけだった。
「……あれ?」
もう一度探る。
右も左も確かめたが、二本目はない。
倉庫でつかんだ時には、確かに二本あった。
逃げる途中、背中へ何かがぶつかった感覚を覚えている。その前後の記憶は、今も誰かの雨の夜と混ざって曖昧だった。
「もう一本は?」
女が尋ねた。
「落としたらしい」
「どこで?」
「それが分かれば、俺も困ってない」
女は少しの間、ロットの顔を見ていた。
怒鳴られるかと思った。
だが、返ってきたのは疲れたようなため息だった。
「……そう。じゃあ、一つずつ片づけよう」
「俺も拾いに行くのか?」
「今のあなたを連れて行ったら、もっと失くしそう」
反論できなかった。
ロットは残っていた瓶を差し出した。
女は封蝋と底の刻印だけを確認し、革袋へしまった。
中身を調べる様子はない。
「見ないのか?」
「私は回収係だから」
「回収するなら、中身くらい知っておいた方がいいだろ」
「知らない方がいいものもあるの」
女は外套から薄い銀色の札を取り出した。
小指の爪ほどの大きさで、片面には小さな刻印がある。
「これを舌の下へ置いて」
「毒か?」
「毒なら、こんな面倒なことしない」
ロットは嫌な顔をした。
しかし、ほかに選べる方法も思いつかなかった。
銀の札を舌の下へ入れる。
金属の味はしなかった。
むしろ、何も感じないことが奇妙だった。
「何が起きる?」
「今夜、倉庫へ入ってからの記憶を薄くする。完全に消えるとは限らないけど、少なくとも思い出しにくくなるはず」
「割れた瓶の中身は?」
「それは別」
「別って何だよ」
「もうあなたの中に入り込んでいるから。どの部分が残るかは、処置が終わるまで分からない」
女は慎重な口調になった。
「無理に全部抜こうとすれば、あなた自身の記憶まで傷つけるかもしれない」
「……だったら、余計なことするなよ」
「何もしなければ、記憶が混ざったままになる可能性もある」
ロットは頭を抱えた。
盗みに入る前の自分へ手紙を送れるなら、間違いなく帰れと書くところだった。
「……分かった」
「目を閉じて」
「開けたままじゃ駄目か」
「気持ち悪くなると思う」
「先に言えよ、そういうことは」
女は何も答えなかった。
ロットは目を閉じた。
舌の下が温かくなる。
倉庫の床が遠ざかる。
棚も、帳簿も、割れた瓶も、初めから何年も前の出来事だったように曖昧になっていく。
追手から逃げた道順も、薄い霧の向こうへ消えた。
けれど。
黒い髪の女は、まだ笑っていた。
左の目の下のほくろも、少し鼻を鳴らす癖も、はっきり分かる。
ロットは目を開けようとした。
その前に、身体から力が抜けた。
◇
エルセ・ヴァンデルは、眠った泥棒を路地の壁へ座らせた。
呼吸は正常。
脈も安定している。
意識が戻れば、今夜の出来事は夢のように曖昧になっているはずだった。
少なくとも、処置はそのように設計されている。
「……はず、ね」
エルセは自分の言葉に眉を寄せた。
人間を扱う仕事で、できれば使いたくない言い方だった。
回収係の仕事は、容器を所定の場所へ戻すことだ。
保存係が中身を扱い、記録係が分類し、移送係が別の施設へ運ぶ。
一人の人間が何をどこへ移したのか全部知ってしまえば、秘密を守る意味がない。
そう教えられ、十年近く働いてきた。
実際、その仕組みは便利だった。
容器が何を保存しているのか知らなければ、盗もうとも思わない。誰のものだったのか知らなければ、余計な情も湧かない。
ただし、今日のように瓶が割れた時だけは事情が変わる。
見えないはずの中身が、他人の口から語られるのだ。
黒い髪の女。
目の下のほくろ。
男の子と、食卓。
エルセは眠るロットを見た。
「……面倒なもの、割ったなあ」
彼は処置の直前、知らない女性の顔を忘れたくないと言った。
自分の記憶でもないものを。
エルセには、それが妙に引っかかっていた。
普通なら、見知らぬ人生が頭へ流れ込んできたら恐ろしいはずだ。
実際、ロットは怯えていた。
それなのに、女の顔を手放すことだけは嫌がった。
回収係には関係のない話だった。
中身の持ち主に誰がいたのかも、なぜそんな記憶が保存されたのかも、調べる必要はない。
必要なのは一本足りない瓶を回収することだ。
エルセはその場を離れようとして、足を止めた。
眠ったロットの指が、何かをつかむように動いた。
「……待って」
小さな声だった。
夢の中で誰へ話しかけているのか、エルセには分からない。
男が再び静かになるのを確かめ、今度こそ路地を後にした。
◇
夜明け前、エルセは旧倉庫街から離れた仕立屋へ入った。
昼間なら、ごく普通の服屋だった。
老夫婦が店を営み、表の棚には色とりどりの布地が並んでいる。
奥の試着室の鏡を外すと、地下へ続く階段があった。
下へ進むにつれて、染料の匂いが薄くなり、紙と金属、それから古い封蝋の匂いが強くなる。
地下の廊下には分類棚が並んでいた。
『名称』
『記憶片』
『帰属』
『記録』
『未分類』
さらに奥にも区画はあったが、そこには黒い布が掛けられている。
エルセは見なかった。
見ないことは、とうの昔に仕事の一部になっていた。
「遅かったですね」
受付に座っていた男が声をかけた。
エルセより若く、いつ見ても眠そうな顔をしている。
「泥棒が走ったから」
「回収係なら追いつけるでしょう」
「追いついたわよ。瓶が足りなかっただけ」
帳簿を書く手が止まった。
「……何本?」
「倉庫から二本。回収できたのは一本」
「もう一本は?」
「逃走中に落としたらしい。正確な場所は分からない」
「封の状態は?」
「追跡印が拾えない。割れてるか、妨害されてるか」
男は嫌そうな顔をして、別の帳簿を取り出した。
「番号は?」
「分からない。盗まれた二本のうち、どちらが残ったかも特定できていない」
「在庫を確認します」
二人で棚の記録を照合した。
番号順に瓶を確かめ、封蝋の印を台帳へ書き込んでいく。
途中までは問題なかった。
だが、ある箇所で男の手が止まった。
「……おかしいですね」
「何が?」
「一本足りないのは確かです。でも、台帳の番号がつながっていない」
エルセは差し出された帳簿を覗いた。
三十七。
三十八。
三十九。
その次が、四十五だった。
「四十から四十四は?」
「頁がありません」
「泥棒が?」
「いえ。綴じ目が古い。かなり前に抜き取られてます」
エルセは黙った。
ロットが漏らした言葉を思い出した。
第七係。
四十四。
聞かなかったことにしたはずだった。
しかし、記憶そのものまで消してはいない。
「……主任は?」
「奥にいます」
「報告する」
「嫌な案件ですか?」
「たぶん」
「最近、その答えが多いですね」
「私も嫌いになってきた」
◇
主任の部屋は、いつも異様なほど整っていた。
机の上に書類が積み上がっているのを見たことがない。必要なものは必要な場所にあり、不要なものが目に入ることもなかった。
四十代半ばほどの男で、白いものが混じった短髪と、皺のない服が印象に残る。
エルセが入ると、男は読んでいた紙を裏返した。
「報告を」
彼女は簡潔に説明した。
倉庫への侵入。
容器の破損。
二本の持ち出し。
一つの回収と、もう一つの紛失。
そして、侵入者が破損した容器から、何らかの記憶を受け取ったらしいこと。
「内容は?」
主任が尋ねた。
「聞いていません」
「なぜ?」
「回収係なので」
男は彼女を見つめた。
短い沈黙のあと、小さく笑った。
「正しい」
「ただ、本人が勝手に話したことはあります」
「それは?」
エルセは少し迷った。
規則を守ることと、報告すべき異常を隠すことは違う。
「知らない女性と子供の記憶が見えたそうです。それから、真鍮札に文字があったと」
「何と?」
「第七係。四十四」
主任の指が止まった。
わずかな変化だった。
しかし、この人が反応を表に出すことは珍しかった。
「……そう」
それだけ言い、男は机の引き出しから薄い資料を取り出した。
「なくなった一本について、心当たりがある」
「在庫の場所ですか?」
「行き先の方だ」
男は資料を広げた。
王都西側の旧倉庫街を示す地図だった。
そこから延びる通りがいくつか印で囲まれている。
その先には、王立遺失物管理局があった。
「……どういうことです?」
「紛失した瓶が、王立遺失物管理局の第七係へ持ち込まれる可能性がある」
エルセは黙って続きを待った。
「古いガラス瓶。一点」
心臓が少しだけ強く打った。
「番号は?」
「記録にはない」
「同じものだという根拠は?」
「今のところ、紛失した場所と周辺の経路から考えた可能性にすぎない。だから確認が必要なんだ」
主任は別の紙を重ねた。
そこには、若い男の名前が記されていた。
『セイン・アルケット』
『王立遺失物管理局 第七係』
『固有術:返却』
エルセは顔を上げた。
「……返却?」
「そう。落とし物を本来の帰属先へ戻す力だ」
「記憶の瓶も?」
「対象を正しく認識できれば、可能性はある」
続いて示されたのは、青鐘通りの調査記録だった。
切り離された通り。
地下施設。
帰属接続群。
そして、その接続をまとめて元の帰属先へ返したという報告。
「……そんなことができるんですか」
「できたらしい。だから困ってる」
「困る?」
主任は答えず、さらに紙を一枚出した。
今度は少女の資料だった。
『仮称:リゼ』
正式な名前の欄は空白だった。
首元にある赤い封蝋の図と、名称預託状態という記述がある。
エルセは思わず身を乗り出した。
「この形式、まだ残っていたんですか」
「見たことがある?」
「資料でだけです。実物はありません」
「僕も最近までそうだった」
主任は二人分の資料を並べた。
「この二人が、今は同じ第七係にいる」
エルセは改めてセインの名前を見た。
世界から失われたものを、本来の場所へ戻す人間。
そのすぐそばに、名前を失った少女がいる。
しかも、普通なら見分けられない痕跡を感じ取るらしい。
「……問題ですね」
「そうだね」
「容器だけ回収しますか?」
「できれば」
「抵抗されたら?」
主任は彼女の顔を見た。
「今は、彼らへ手を出さないでほしい」
「それだと回収できない可能性があります」
「なら、まず所有者の確認を申し出る。話す余地はあるはずだ」
「……随分穏やかですね」
「壊せば何も残らないからね」
主任は資料を揃えた。
「返却士がどこまで理解しているのか、まだ分からない。こちらにも分からないことがある以上、急いで結論を出したくないんだ」
エルセは納得しかけて、やめた。
この男が慎重なのはいつものことだ。
だが、慎重な理由まで教えてもらえるとは限らない。
「では、接触禁止ですか?」
「当面はね」
「監視は?」
「構わない。ただし気づかれないように」
「回収係に監視までやらせるんですか」
「君、人を見るのが得意でしょう」
「中身は見ませんけどね」
主任は笑った。
それから資料をしまいかける。
その下に、もう一枚だけ紙があった。
エルセには端の文字しか読めなかった。
『四十四号』
その下に、もう一行。
『記憶帰属者――』
主任が紙を重ねた。
「何か?」
「いいえ」
エルセは答えた。
聞かなければ、答えを知ることもない。
それが仕事を長く続けるための決まりだった。
◇
地上へ戻る頃、王都は夜明けを迎えようとしていた。
パン屋が窯に火を入れ、朝市へ向かう荷車が少しずつ増え始める時間だった。
エルセは仕立屋の裏口を出ると、路地の角で一度足を止めた。
王立遺失物管理局。
第七係。
セイン・アルケット。
リゼ。
覚える必要のない名前だった。
仕事なら、容器を回収して報告すれば終わる。
持ち主を探すのは別の人間の役割だ。
まして、そこに保存されているものを本来の相手へ返すことなど、彼女の仕事ではなかった。
しかし、今朝見せられた資料が頭から離れない。
青鐘通りで、百人近い住民のつながりを返した男。
名前を失っても、自分で別の名前を選んだ少女。
主任は二人に触れるなと言った。
何を知っているのか、確かめもしないうちに。
エルセは外套の内側から、回収係の身分札を取り出した。
裏には、最初に仕事を教わった日に刻まれた三つの規則がある。
『中身を見ない』
『由来を問わない』
『戻す先を決めない』
今まで、そのどれも破ったことはなかった。
だが、今夜は泥棒の口から、瓶の中にあったものを聞いてしまった。
聞くつもりはなかった。
相手が勝手に話しただけだ。
そう言い訳することはできる。
けれど、黒い髪の女のことを忘れたくないと、あの泥棒が言った時の顔まで覚えている。
知らない人の記憶でも、誰かが守りたいと願うことがある。
そんなことは、帳簿にも規則にも書かれていなかった。
エルセは身分札をしまった。
もう一本の瓶は、どこかで返却士に拾われたかもしれない。
もしそうなら、あの男は持ち主を探そうとするだろう。
自分たちの組織が、長い間、保存し、分類し、移動してきたものの持ち主を。
それを見つけた時、彼は何を返すのだろう。
誰かが忘れたかったものか。
誰かから奪われたものか。
あるいは、本来なら戻ってはいけないものか。
エルセは歩き出した。
まだ主任の命令がある。
今は接触しない。
ただ、いずれ回収は必要になる。
その時、第七係の返却士が瓶を手放さなければ。
彼女は初めて、持ち主を探す人間と向き合うことになる。
その相手へ、きっとこう告げるだろう。
回収係は、中身を聞かない。
だが、それに対して返却士が何と答えるのか。
エルセには、まだ想像できなかった。




