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王都の返却士 ~その落とし物、世界のものです~  作者: 紙森 灯
幕間②

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回収係は中身を聞かない


 「それ、あなたの記憶じゃないでしょう」


 女にそう言われてから、ロット・ファーナーはしばらく黙っていた。


 路地を抜ければ夜市がある。


 木柵を二つ越えれば、逃げ込める民家も知っている。


 しかし今、逃げるために使うはずの頭の中には、自分の知らない暮らしが入り込んでいた。


 黒髪の女の笑顔。


 パンの端を残す男の子。


 雨に濡れた石畳。


 真鍮の札に刻まれた『第七係』と『四十四』。


 どれも自分の記憶ではない。


 それなのに、ロットは女の笑顔が消えることを怖がっていた。


「……どうすればいい」


 尋ねると、目の前の女は手を差し出した。


「まず瓶を返して」


「それで?」


「必要な処置をする」


「俺は死なない?」


「そのつもりはない」


「もう少し安心できる言い方、ないのかよ」


「死なせる必要がないの」


 少しも安心できなかった。


 ロットは上着の内側へ手を入れた。


 出てきたのは一本だけだった。


「……あれ?」


 もう一度探る。


 右も左も確かめたが、二本目はない。


 倉庫でつかんだ時には、確かに二本あった。


 逃げる途中、背中へ何かがぶつかった感覚を覚えている。その前後の記憶は、今も誰かの雨の夜と混ざって曖昧だった。


「もう一本は?」


 女が尋ねた。


「落としたらしい」


「どこで?」


「それが分かれば、俺も困ってない」


 女は少しの間、ロットの顔を見ていた。


 怒鳴られるかと思った。


 だが、返ってきたのは疲れたようなため息だった。


「……そう。じゃあ、一つずつ片づけよう」


「俺も拾いに行くのか?」


「今のあなたを連れて行ったら、もっと失くしそう」


 反論できなかった。


 ロットは残っていた瓶を差し出した。


 女は封蝋と底の刻印だけを確認し、革袋へしまった。


 中身を調べる様子はない。


「見ないのか?」


「私は回収係だから」


「回収するなら、中身くらい知っておいた方がいいだろ」


「知らない方がいいものもあるの」


 女は外套から薄い銀色の札を取り出した。


 小指の爪ほどの大きさで、片面には小さな刻印がある。


「これを舌の下へ置いて」


「毒か?」


「毒なら、こんな面倒なことしない」


 ロットは嫌な顔をした。


 しかし、ほかに選べる方法も思いつかなかった。


 銀の札を舌の下へ入れる。


 金属の味はしなかった。


 むしろ、何も感じないことが奇妙だった。


「何が起きる?」


「今夜、倉庫へ入ってからの記憶を薄くする。完全に消えるとは限らないけど、少なくとも思い出しにくくなるはず」


「割れた瓶の中身は?」


「それは別」


「別って何だよ」


「もうあなたの中に入り込んでいるから。どの部分が残るかは、処置が終わるまで分からない」


 女は慎重な口調になった。


「無理に全部抜こうとすれば、あなた自身の記憶まで傷つけるかもしれない」


「……だったら、余計なことするなよ」


「何もしなければ、記憶が混ざったままになる可能性もある」


 ロットは頭を抱えた。


 盗みに入る前の自分へ手紙を送れるなら、間違いなく帰れと書くところだった。


「……分かった」


「目を閉じて」


「開けたままじゃ駄目か」


「気持ち悪くなると思う」


「先に言えよ、そういうことは」


 女は何も答えなかった。


 ロットは目を閉じた。


 舌の下が温かくなる。


 倉庫の床が遠ざかる。


 棚も、帳簿も、割れた瓶も、初めから何年も前の出来事だったように曖昧になっていく。


 追手から逃げた道順も、薄い霧の向こうへ消えた。


 けれど。


 黒い髪の女は、まだ笑っていた。


 左の目の下のほくろも、少し鼻を鳴らす癖も、はっきり分かる。


 ロットは目を開けようとした。


 その前に、身体から力が抜けた。


     ◇


 エルセ・ヴァンデルは、眠った泥棒を路地の壁へ座らせた。


 呼吸は正常。


 脈も安定している。


 意識が戻れば、今夜の出来事は夢のように曖昧になっているはずだった。


 少なくとも、処置はそのように設計されている。


「……はず、ね」


 エルセは自分の言葉に眉を寄せた。


 人間を扱う仕事で、できれば使いたくない言い方だった。


 回収係の仕事は、容器を所定の場所へ戻すことだ。


 保存係が中身を扱い、記録係が分類し、移送係が別の施設へ運ぶ。


 一人の人間が何をどこへ移したのか全部知ってしまえば、秘密を守る意味がない。


 そう教えられ、十年近く働いてきた。


 実際、その仕組みは便利だった。


 容器が何を保存しているのか知らなければ、盗もうとも思わない。誰のものだったのか知らなければ、余計な情も湧かない。


 ただし、今日のように瓶が割れた時だけは事情が変わる。


 見えないはずの中身が、他人の口から語られるのだ。


 黒い髪の女。


 目の下のほくろ。


 男の子と、食卓。


 エルセは眠るロットを見た。


「……面倒なもの、割ったなあ」


 彼は処置の直前、知らない女性の顔を忘れたくないと言った。


 自分の記憶でもないものを。


 エルセには、それが妙に引っかかっていた。


 普通なら、見知らぬ人生が頭へ流れ込んできたら恐ろしいはずだ。


 実際、ロットは怯えていた。


 それなのに、女の顔を手放すことだけは嫌がった。


 回収係には関係のない話だった。


 中身の持ち主に誰がいたのかも、なぜそんな記憶が保存されたのかも、調べる必要はない。


 必要なのは一本足りない瓶を回収することだ。


 エルセはその場を離れようとして、足を止めた。


 眠ったロットの指が、何かをつかむように動いた。


「……待って」


 小さな声だった。


 夢の中で誰へ話しかけているのか、エルセには分からない。


 男が再び静かになるのを確かめ、今度こそ路地を後にした。


     ◇


 夜明け前、エルセは旧倉庫街から離れた仕立屋へ入った。


 昼間なら、ごく普通の服屋だった。


 老夫婦が店を営み、表の棚には色とりどりの布地が並んでいる。


 奥の試着室の鏡を外すと、地下へ続く階段があった。


 下へ進むにつれて、染料の匂いが薄くなり、紙と金属、それから古い封蝋の匂いが強くなる。


 地下の廊下には分類棚が並んでいた。


『名称』


『記憶片』


『帰属』


『記録』


『未分類』


 さらに奥にも区画はあったが、そこには黒い布が掛けられている。


 エルセは見なかった。


 見ないことは、とうの昔に仕事の一部になっていた。


「遅かったですね」


 受付に座っていた男が声をかけた。


 エルセより若く、いつ見ても眠そうな顔をしている。


「泥棒が走ったから」


「回収係なら追いつけるでしょう」


「追いついたわよ。瓶が足りなかっただけ」


 帳簿を書く手が止まった。


「……何本?」


「倉庫から二本。回収できたのは一本」


「もう一本は?」


「逃走中に落としたらしい。正確な場所は分からない」


「封の状態は?」


「追跡印が拾えない。割れてるか、妨害されてるか」


 男は嫌そうな顔をして、別の帳簿を取り出した。


「番号は?」


「分からない。盗まれた二本のうち、どちらが残ったかも特定できていない」


「在庫を確認します」


 二人で棚の記録を照合した。


 番号順に瓶を確かめ、封蝋の印を台帳へ書き込んでいく。


 途中までは問題なかった。


 だが、ある箇所で男の手が止まった。


「……おかしいですね」


「何が?」


「一本足りないのは確かです。でも、台帳の番号がつながっていない」


 エルセは差し出された帳簿を覗いた。


 三十七。


 三十八。


 三十九。


 その次が、四十五だった。


「四十から四十四は?」


「頁がありません」


「泥棒が?」


「いえ。綴じ目が古い。かなり前に抜き取られてます」


 エルセは黙った。


 ロットが漏らした言葉を思い出した。


 第七係。


 四十四。


 聞かなかったことにしたはずだった。


 しかし、記憶そのものまで消してはいない。


「……主任は?」


「奥にいます」


「報告する」


「嫌な案件ですか?」


「たぶん」


「最近、その答えが多いですね」


「私も嫌いになってきた」


     ◇


 主任の部屋は、いつも異様なほど整っていた。


 机の上に書類が積み上がっているのを見たことがない。必要なものは必要な場所にあり、不要なものが目に入ることもなかった。


 四十代半ばほどの男で、白いものが混じった短髪と、皺のない服が印象に残る。


 エルセが入ると、男は読んでいた紙を裏返した。


「報告を」


 彼女は簡潔に説明した。


 倉庫への侵入。


 容器の破損。


 二本の持ち出し。


 一つの回収と、もう一つの紛失。


 そして、侵入者が破損した容器から、何らかの記憶を受け取ったらしいこと。


「内容は?」


 主任が尋ねた。


「聞いていません」


「なぜ?」


「回収係なので」


 男は彼女を見つめた。


 短い沈黙のあと、小さく笑った。


「正しい」


「ただ、本人が勝手に話したことはあります」


「それは?」


 エルセは少し迷った。


 規則を守ることと、報告すべき異常を隠すことは違う。


「知らない女性と子供の記憶が見えたそうです。それから、真鍮札に文字があったと」


「何と?」


「第七係。四十四」


 主任の指が止まった。


 わずかな変化だった。


 しかし、この人が反応を表に出すことは珍しかった。


「……そう」


 それだけ言い、男は机の引き出しから薄い資料を取り出した。


「なくなった一本について、心当たりがある」


「在庫の場所ですか?」


「行き先の方だ」


 男は資料を広げた。


 王都西側の旧倉庫街を示す地図だった。


 そこから延びる通りがいくつか印で囲まれている。


 その先には、王立遺失物管理局があった。


「……どういうことです?」


「紛失した瓶が、王立遺失物管理局の第七係へ持ち込まれる可能性がある」


 エルセは黙って続きを待った。


「古いガラス瓶。一点」


 心臓が少しだけ強く打った。


「番号は?」


「記録にはない」


「同じものだという根拠は?」


「今のところ、紛失した場所と周辺の経路から考えた可能性にすぎない。だから確認が必要なんだ」


 主任は別の紙を重ねた。


 そこには、若い男の名前が記されていた。


『セイン・アルケット』


『王立遺失物管理局 第七係』


『固有術:返却』


 エルセは顔を上げた。


「……返却?」


「そう。落とし物を本来の帰属先へ戻す力だ」


「記憶の瓶も?」


「対象を正しく認識できれば、可能性はある」


 続いて示されたのは、青鐘通りの調査記録だった。


 切り離された通り。


 地下施設。


 帰属接続群。


 そして、その接続をまとめて元の帰属先へ返したという報告。


「……そんなことができるんですか」


「できたらしい。だから困ってる」


「困る?」


 主任は答えず、さらに紙を一枚出した。


 今度は少女の資料だった。


『仮称:リゼ』


 正式な名前の欄は空白だった。


 首元にある赤い封蝋の図と、名称預託状態という記述がある。


 エルセは思わず身を乗り出した。


「この形式、まだ残っていたんですか」


「見たことがある?」


「資料でだけです。実物はありません」


「僕も最近までそうだった」


 主任は二人分の資料を並べた。


「この二人が、今は同じ第七係にいる」


 エルセは改めてセインの名前を見た。


 世界から失われたものを、本来の場所へ戻す人間。


 そのすぐそばに、名前を失った少女がいる。


 しかも、普通なら見分けられない痕跡を感じ取るらしい。


「……問題ですね」


「そうだね」


「容器だけ回収しますか?」


「できれば」


「抵抗されたら?」


 主任は彼女の顔を見た。


「今は、彼らへ手を出さないでほしい」


「それだと回収できない可能性があります」


「なら、まず所有者の確認を申し出る。話す余地はあるはずだ」


「……随分穏やかですね」


「壊せば何も残らないからね」


 主任は資料を揃えた。


「返却士がどこまで理解しているのか、まだ分からない。こちらにも分からないことがある以上、急いで結論を出したくないんだ」


 エルセは納得しかけて、やめた。


 この男が慎重なのはいつものことだ。


 だが、慎重な理由まで教えてもらえるとは限らない。


「では、接触禁止ですか?」


「当面はね」


「監視は?」


「構わない。ただし気づかれないように」


「回収係に監視までやらせるんですか」


「君、人を見るのが得意でしょう」


「中身は見ませんけどね」


 主任は笑った。


 それから資料をしまいかける。


 その下に、もう一枚だけ紙があった。


 エルセには端の文字しか読めなかった。


『四十四号』


 その下に、もう一行。


『記憶帰属者――』


 主任が紙を重ねた。


「何か?」


「いいえ」


 エルセは答えた。


 聞かなければ、答えを知ることもない。


 それが仕事を長く続けるための決まりだった。


     ◇


 地上へ戻る頃、王都は夜明けを迎えようとしていた。


 パン屋が窯に火を入れ、朝市へ向かう荷車が少しずつ増え始める時間だった。


 エルセは仕立屋の裏口を出ると、路地の角で一度足を止めた。


 王立遺失物管理局。


 第七係。


 セイン・アルケット。


 リゼ。


 覚える必要のない名前だった。


 仕事なら、容器を回収して報告すれば終わる。


 持ち主を探すのは別の人間の役割だ。


 まして、そこに保存されているものを本来の相手へ返すことなど、彼女の仕事ではなかった。


 しかし、今朝見せられた資料が頭から離れない。


 青鐘通りで、百人近い住民のつながりを返した男。


 名前を失っても、自分で別の名前を選んだ少女。


 主任は二人に触れるなと言った。


 何を知っているのか、確かめもしないうちに。


 エルセは外套の内側から、回収係の身分札を取り出した。


 裏には、最初に仕事を教わった日に刻まれた三つの規則がある。


『中身を見ない』


『由来を問わない』


『戻す先を決めない』


 今まで、そのどれも破ったことはなかった。


 だが、今夜は泥棒の口から、瓶の中にあったものを聞いてしまった。


 聞くつもりはなかった。


 相手が勝手に話しただけだ。


 そう言い訳することはできる。


 けれど、黒い髪の女のことを忘れたくないと、あの泥棒が言った時の顔まで覚えている。


 知らない人の記憶でも、誰かが守りたいと願うことがある。


 そんなことは、帳簿にも規則にも書かれていなかった。


 エルセは身分札をしまった。


 もう一本の瓶は、どこかで返却士に拾われたかもしれない。


 もしそうなら、あの男は持ち主を探そうとするだろう。


 自分たちの組織が、長い間、保存し、分類し、移動してきたものの持ち主を。


 それを見つけた時、彼は何を返すのだろう。


 誰かが忘れたかったものか。


 誰かから奪われたものか。


 あるいは、本来なら戻ってはいけないものか。


 エルセは歩き出した。


 まだ主任の命令がある。


 今は接触しない。


 ただ、いずれ回収は必要になる。


 その時、第七係の返却士が瓶を手放さなければ。


 彼女は初めて、持ち主を探す人間と向き合うことになる。


 その相手へ、きっとこう告げるだろう。


 回収係は、中身を聞かない。


 だが、それに対して返却士が何と答えるのか。


 エルセには、まだ想像できなかった。

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