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王都の返却士 ~その落とし物、世界のものです~  作者: 紙森 灯
幕間②

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泥棒は空瓶を盗まない

 

 ロット・ファーナーは、自分の仕事を泥棒と呼ぶ人間が嫌いだった。


 たしかに、他人の家や倉庫へ勝手に入り、持ち主に断らず物を持ち出すことはある。しかし、使われずに眠っている品を、必要としている人間のところへ移しているだけだと考えれば、それほど悪いことでもない。


 以前、酒場でそんな理屈を披露したところ、隣席の男に財布を盗られた。


 抗議すると、男は言った。


「必要な人間のところへ移しただけだ」


 それ以来、ロットは仕事の理念を他人へ語らないことにしていた。


 盗む品にも、それなりの決まりがある。


 子供のいる家には入らない。食べ物には手をつけない。結婚指輪や遺品らしきものは避ける。金になるとしても、人の血が流れる仕事は引き受けない。


 そして、知らない倉庫には入らない。


 その最後の決まりを、今夜のロットは破ろうとしていた。


「……帰るなら今だよな」


 王都西側の旧倉庫街は、日が落ちると急に静かになる。


 昼間は荷車と職人で混み合う道も、今は風に吹かれた木箱が軋む音しかしない。倉庫の扉には錆が浮き、窓には板が打ちつけられていた。


 それなのに、目の前の建物の足元だけは、泥が新しく踏み荒らされている。


 最近、何台も荷車が出入りした跡だった。


 表向きは空き倉庫。


 実際には使われている。


 そういう場所には、たいてい高価なものがある。


 もっとも、もっと危険なものがある場合も多い。


「……少し見るだけだ」


 誰もいない道で自分に言い聞かせ、ロットは扉へ手を当てた。


 固有術〈消音〉。


 触れているものが立てる小さな音を、短い間だけ抑えられる。


 特別に強い力ではない。足が速くなるわけでも、姿が消えるわけでもなかった。剣のぶつかる音のような大きな衝撃まで消せるわけではないし、手を離したものには効かない。


 ただ、錆びた蝶番が鳴るのを防ぐには十分だった。


 針金で錠を探り、手応えが変わる瞬間に扉を押す。


 音もなく、隙間が開いた。


「……親父には見せられないな」


 父親は家具職人だった。


 息子の固有術が分かった時、夜中でも赤ん坊を起こさず椅子を修理できると本気で喜んでいた。


 まさか、その力が夜中に人の倉庫へ入るために使われているとは思わなかっただろう。


 ロットは身体を滑り込ませ、背後の扉を閉めた。


 油と埃の匂い。


 その奥に、薬品のような甘い刺激臭が混じっている。


 窓は塞がれているのに、廊下の先には灯りがあった。


 誰かがいる。


 ここで帰るべきだった。


 そう思いながら、ロットは足元の荷車の跡を見た。


 重い積荷を運んだ車輪が、奥の部屋まで続いている。


 金貨かもしれない。


 銀塊かもしれない。


 王家の倉庫から持ち出された品かもしれない。


 帰った方がいい理由は一つずつ増えているのに、帰りたくない理由だけが妙に魅力的だった。


     ◇


 奥の部屋には、誰もいなかった。


 魔導灯の下に長い棚が四つ並び、その上には掌ほどのガラス瓶が整然と置かれている。


 丸い瓶、細長い瓶、口の広い瓶。


 大きさは少しずつ違うが、どれも黒い封蝋で密封され、底には小さな番号が刻まれていた。


 ロットはしばらく立ち尽くした。


「……薬屋か?」


 一本を持ち上げる。


 軽い。


 灯りに透かしても、中には何も見えない。


 隣の瓶も同じだった。


 さらに奥の瓶も。


「空瓶をこんなに集めて、何が楽しいんだよ」


 値段を想像しただけで、気持ちが萎んでいく。


 空の薬瓶など、闇市へ持ち込んでもまともな金にはならない。せいぜい、洗って再利用する店に安く引き取ってもらえるくらいだろう。


 しかし、瓶を戻そうとして違和感に気づいた。


 棚の並びは番号順で、鍵のついた保管箱まで置かれている。


 一本ずつ封蝋を使い、専用の台座へ固定していた。


 空瓶に払う手間としては、どう考えても異常だ。


 机には分厚い帳簿が置かれている。


 ロットは少し迷ってから、それを開いた。


『保全番号 三十一』


『抽出量 六・二』


『帰属確認 済』


『転送 保留』


 次の頁。


『保全番号 三十二』


『抽出量 九・八』


『帰属確認 不完全』


 文字は読める。


 意味は分からない。


「……何を六・二も取ったんだ?」


 瓶の重さか。


 液体の量か。


 だが、どの瓶も空に見える。


 頁をめくると、番号が三十三、三十四、三十五と続き、四十四のところで途切れた。


 その頁だけが、綴じ目から丁寧に抜き取られている。


 間違えて破れたのではない。


 誰かが、その記録だけを必要として持っていったのだ。


 ロットは帳簿を閉じた。


「……やっぱり帰ろう」


 ようやく決心した、その時だった。


 袖が棚の端に触れた。


 一つの瓶が台座から傾き、ゆっくりと落ちていく。


「待っ……」


 反射的に手を伸ばす。


 間に合わない。


 〈消音〉は、もう触れていない瓶には届かなかった。


 ガラスが石床へぶつかり、乾いた音を立てて砕けた。


 ロットは息を止めた。


 割れた瓶の中には、やはり何も見えない。


 床に散ったのはガラスと黒い封蝋だけだった。


「……空じゃないか」


 安堵しかけた瞬間、知らない雨の匂いがした。


     ◇


 腕の中に、誰かがいた。


 黒い髪の女だった。


 左の目の下に、小さなほくろがある。


 女は濡れた前髪を払い、笑いながらこちらを見上げた。


『遅い』


『悪かった』


 返事をしたのはロットではなかった。


 声の低さも、言葉の癖も違う。


 そもそもロットは、この女を知らない。


 そう考えた途端、足元の石畳が揺らぎ、景色が変わった。


 古い家の食卓。


 小さな男の子が、パンの端を皿に残している。


『食べなさい』


 女の声がする。


『そこが一番硬いんだよ』


 子供が言い返す。


 何でもない朝のやり取りだった。


 ただ、ロットはその家へ入ったことがないし、子供にも会ったことがなかった。


 それなのに、窓の外に見える屋根の色も、床板の傷の場所も、以前から知っていたように思えた。


 記憶が切り替わる。


 夜の王都を走っていた。


 胸が痛むほど息が苦しい。


 背後には追手の足音がある。


 右手には真鍮の札。


 文字が二つ見えた。


『第七係』


『四十四』


 その先を読もうとした時、景色がまた変わった。


 薄暗い部屋。


 一脚の椅子。


 そこに座る男の顔は、どうしても見えない。


『本当に全部消すのか』


 誰かが尋ねた。


 椅子の男は、しばらく黙っていた。


 そして、ひどく静かな声で答えた。


『全部じゃない』


 何の話だ。


 何を消す。


 ロットが聞こうとした時、男はもう一言だけ続けた。


『一人分でいい』


 そこで景色が消えた。


     ◇


 ロットは石床へ膝をついていた。


 胃がひっくり返るような吐き気がして、立ち上がれない。


 額から汗が落ちる。


 目の前には割れた瓶があり、さっきまでの倉庫が何事もなかったように広がっている。


「……何だよ、これ」


 黒い髪の女。


 パンの端を残す子供。


 真鍮札。


 知らない男の声。


 どれも、自分には関係のないものだ。


 そう断言できる。


 なのに、女が笑う時に鼻を少し鳴らすことや、子供が硬いパンの端だけを選んで残すことまで知っていた。


 知らないはずの思い出が、昨日食べた夕飯より鮮明だった。


 気味が悪い。


 だが、それ以上に怖いことがあった。


 黒髪の女の顔を思い浮かべた時、自分でも説明できないほど胸が苦しくなったのだ。


 会ったこともない人間を、失いたくないと思っている。


「……俺のじゃないだろ」


 言葉にしてみた。


 何も変わらなかった。


 廊下の向こうから靴音が近づいてくる。


 今度は記憶の中ではない。


 本物だ。


 ロットは棚へ手を伸ばした。


 手ぶらで逃げた方が安全だと分かっている。


 それでも、ここまで来て何も持ち帰らないのは泥棒として腹が立った。


 隣り合う瓶を二本つかみ、上着の内側へ押し込む。


 軽い。


 見た目も、手触りも空瓶と変わらない。


「……二本だけだぞ」


 誰へ向けた言い訳なのか、自分でも分からなかった。


 入口へ戻ろうとしたが、足音がもう廊下のすぐ近くまで来ている。


 反対側の窓へ走り、留め金へ〈消音〉を使った。


 窓が開く。


 二階だった。


 下には木箱が積み上げられている。


「……最悪だ」


 背後で声がした。


「待って」


 女の声だった。


 怒鳴っていない。


 むしろ、忘れ物をした客へ声をかけるような穏やかさだった。


 それが怖かった。


 ロットは振り返らず、窓から飛び降りた。


     ◇


 木箱の角が背中に当たり、息が詰まった。


 骨が折れていないことだけを確かめ、ロットは走り出した。


 旧倉庫街の裏道なら詳しい。


 人通りの少ない路地を選び、閉まった酒場の脇を抜け、洗濯物の下をくぐる。


 〈消音〉で木柵の金具や足元の板が鳴る音を抑えながら、追手の気配を振り切ろうとした。


 背中が痛む。


 頭には、知らない家の食卓が浮かび続けている。


 黒い髪の女の笑顔まで現れた。


 そのたびに、走っているはずの王都の道が、一瞬だけ別の道と重なる。


 自分がどこを走っているのか分からなくなりそうだった。


 角を曲がる。


 誰もいない。


「……逃げ切っ……」


「便利な術だね」


 前から声がした。


 ロットは急停止した。


 女が立っていた。


 灰色がかった髪を短くまとめ、薄い外套を着ている。


 武器は見えず、呼吸も乱れていなかった。


 さっき倉庫で声をかけた女だ。


 どんな近道を使えば、音もなく走ってきた自分の前へ出られるのか。


 ロットには想像もつかなかった。


「何の話だ」


 とぼけてみる。


「瓶を返して」


「酒瓶なら盗んでないぞ」


「お酒は入ってないから」


「じゃあ知らないな」


「一本、割ったでしょう」


 背中に冷たい汗が流れた。


 女は怒っていない。


 それどころか、困った届け物を受け取る係員のような顔をしていた。


「弁償ならする」


「お金では買えないの」


「じゃあ、何なんだよ」


「あなたが持っているもの」


 女は一歩近づいた。


 ロットは後ろへ下がる。


「返せば終わりか?」


「瓶はね」


「……瓶は?」


 女は少し首を傾げた。


「割れた方の中身は、返せないでしょう」


 ロットの喉が鳴った。


 黒い髪の女。


 パンを残す子供。


 雨の路地。


 四十四という数字。


 自分の知らない人生が、頭の中でまだ動いている。


「……消せるのか」


「何を?」


「これだよ。俺の頭の中に入ってきた、知らない奴の思い出だ」


 女の目がわずかに細くなった。


「消せるものなら」


「何だよ、それ」


「あなたの記憶じゃないものが、混ざっているだけならね。ただ、深く結びついてしまったものを無理に外すと、元からあった記憶まで傷つくことがある」


「そんな話、聞きたくなかった」


「でも、聞いたでしょう」


 女は静かに答えた。


 ロットは上着を押さえた。


 確かに瓶を二本持ち出した。


 だが、逃走の途中で片方が身体へ当たった感覚しか、今は思い出せない。


 もう一本が残っているかどうか、確かめる余裕もなかった。


「……返したら、帰してくれるか」


「私の仕事は回収だから。あなたを捕まえることじゃない」


「俺が誰かに喋っても?」


「その時は別の人の仕事になる」


 女は笑った。


 ロットはそれ以上聞くのをやめた。


 この女が何者なのか。


 あの倉庫が何のためにあるのか。


 それを知ったところで、自分が助かるとは思えなかった。


「……頼む。忘れさせてくれ」


 女はロットの目を見た。


「あなたが盗んだのは、ただの瓶じゃない」


「分かってる」


「その中で見たものは?」


「俺のじゃない」


 答えた途端、黒髪の女が浮かんだ。


 ロットは顔をしかめた。


 記憶の持ち主が誰なのかも知らない。


 なのに、あの人の顔だけは、なぜか忘れたくない。


 女が静かに言った。


「それ、あなたの記憶じゃないでしょう」


 ロットは返事をしなかった。


 その通りだった。


 正しいと分かっていた。


 それでも、自分の中からあの笑顔が消えることを想像すると、誰かをもう一度失うような気がした。


 名前も知らない女なのに。


 そもそも、会ったことすらないのに。


 彼は初めて、自分が何を盗んでしまったのか、その恐ろしさを少しだけ理解した。

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