第三十八話 記憶を拾いました
王立遺失物管理局へ戻ったのは、青鐘通りが王都とつながり直してから二日後の昼だった。
第七係の扉を開けると、見慣れた机には未処理の書類が積まれ、壁際には拾得物の木箱が並んでいた。窓辺の鉢植えは葉を垂らしていて、誰も水をやっていなかったらしい。
ここを離れていたのは、ほんの数日だ。
それなのに、油と古紙の混ざった匂いを嗅いだ途端、ようやく帰ってきたという気分になった。
少し癪だった。
「帰ってきましたね」
背後からリゼが室内を覗き込んだ。
「ああ。書類の山まで俺の帰りを待ってたみたいだ」
「人気者ですね」
「全部お前に譲ってやろうか」
「お給料が出るなら考えます」
「職員でもないのに?」
「これだけ働いてるんですから、そろそろ雇ってもらってもいいと思うんです」
リゼはそう言って、俺の隣に置かれていた椅子を引いた。
そこは書類を一時的に積むための場所だ。
「何してる?」
「座ります」
「見れば分かる。何でそこなんだ」
「空いていたので」
「今から使う予定なんだけど」
「じゃあ半分ずつ使いましょう」
「椅子を?」
「机をです」
当然のような顔で言われ、俺はため息をついた。
もう何度目か分からない。
リゼと知り合ってから、俺の仕事場には少しずつ彼女の持ち物が増えていた。書き損じの紙や細工用の工具、小さな真鍮札。今では古い木箱の一角まで占領されている。
「係長に何か言われても知らないぞ」
「係長さんなら、もう一つ椅子を持ってきてくれそうです」
「……否定しにくいな」
あの人ならやりかねない。
俺は諦めて自分の机へ向かった。
昨日、係長から見せられた古い記録と地図は、管理局側でも調査が続いている。
青鐘通りの地下施設と同じような仕組みは王都内だけでも七ヶ所の記録があり、似た印は王国各地にも残っていた。そして二十八年前、四十二人が同じ一人の記憶を失った事件があった。
今回の報告書には、そのことも書かなければならない。
まずはペンを取り、冒頭へ日付を記した。
『青鐘通り帰属接続切離事案・経過報告』
そこまで書いて、手が止まった。
「……名前が長い」
「何のですか?」
「事件名」
リゼが身を乗り出して覗き込む。
「青鐘通り事件、でいいんじゃないですか?」
「公式の報告書なんだぞ」
「長ければ詳しいってわけじゃないでしょう」
「それはそうだけど」
言い返そうとしたところで、彼女が机の端に置かれていた木製の駒へ目を向けた。
昨夜、広場から持ち帰ったものだ。
持ち主は分からない。
〈返却〉を使っても、返却先は『存在しない』と表示されたままだった。
「……それも、報告するんですよね」
「ああ。青鐘通りが戻っても、まだ返せないものがあるからな」
「誰かが忘れてしまったことも?」
「それも書く」
リゼはしばらく木の駒を眺めていた。
「じゃあ、ちゃんと書かないといけませんね」
「何を?」
「誰がいたのか分からない、ってことです」
俺は頷いた。
名前の分からない人間について報告書を書くのは、妙な気分だった。
それでも、分からないからといって記録から除外してしまえば、その人が存在した痕跡をさらに一つ減らすことになる。
俺は新しい紙を一枚取り、木の駒とともに机の端へ置いた。
忘れずに調べ続けるための目印だった。
◇
報告書を半分ほど書き進めたところで、リゼが妙なことを言い始めた。
「セインの札も作っておきましょうか」
「……何で?」
「念のためです」
「念のために、俺の名前を金属に刻むのか?」
「そうです」
彼女は腰の真鍮札を持ち上げた。
そこには、自分で選んだ名前が刻まれている。
『リゼ』
最初は、なくした名前の代わりに自分のものを持ちたいという気持ちから作った札だった。
青鐘通りでは、ニコの名前も刻んでいた。記憶が消えかける中で、誰かが確かに存在したことを残すためだ。
「俺の名前なら、管理局の記録にあるだろ」
「それが消えたら?」
「住民登録もある」
「そっちも消えたら?」
「……靴屋の実家には、俺のことを知ってる人がいるよ」
「みんな忘れてしまったら?」
リゼは真顔だった。
俺は口を閉じた。
以前なら、そんなことは起こらないと言い切っていたはずだ。
だが、今は違う。
俺たちは実際に、世界から存在が抜け落ちたような人物の痕跡を見ている。名前も顔も思い出せないまま、木の駒だけを持っている。
「……そうなったら、札があっても俺のことを思い出せるとは限らないぞ」
「分かってます」
「じゃあ、どうして?」
「探す理由が残るからです」
リゼはそう答えた。
「何かがなくなったって分かれば、探せるでしょう?」
俺は彼女を見た。
最初に第七係へ来た頃のリゼなら、こんなことは言わなかったかもしれない。あの時は、自分の名前を見つけることだけで精いっぱいだった。
今は、誰かのために記録を残そうとしている。
「……分かった。好きに書けよ」
「本当ですか?」
「ただし変なことは書くなよ」
「では、正式な情報から」
リゼは新しい札と細工用の針を取り出した。
「セイン・アルケット、二十一歳。王立遺失物管理局、第七係」
「うん」
「靴を見ると、まず傷んだところを探す」
「職業病だな」
「人の心配はするのに、自分の怪我は後回し」
「その項目いる?」
「重要です」
彼女は迷いなく刻み始めた。
「愛想が悪い」
「おい」
「たまに口が悪い」
「悪口になってるぞ」
「でも、困っている人を見ると放っておけない」
その一言で、俺は黙った。
リゼは針を動かしながら続けた。
「あと、靴を直すのが上手。約束したことを、たとえ忘れてしまっても探そうとする」
「……それは褒めすぎじゃないか」
「そうですか?」
「俺が忘れてた約束だぞ。守れてもいない」
「でも、探すのはやめてません」
彼女は顔を上げた。
「そういうところを残しておきたいんです」
妙に照れくさくなった。
「……なら、一つ追加してくれ」
「何ですか?」
「面倒なことを言ってくる同行者がいる」
「それは削除します」
「何でだよ」
「私の悪口だからです」
「記録は正確じゃなきゃ駄目だろ」
「書く人にも選ぶ権利があります」
随分と都合のいい権利だった。
俺は笑いながら、途中まで仕上がった札を眺めた。
この札が本当に必要になる日など、来なければいい。
そう思いながらも、作るなとは言わなかった。
もし俺が誰からも忘れられたら、机の引き出しや古い箱から、誰かがこの札を見つけるのだろうか。
知らない名前を読み、そこに一人の人間がいたことだけを知る。そんな光景を想像すると、少しだけ胸が冷えた。
「……完成するまで持っててくれよ」
「もちろん」
リゼは札を掌へ収めた。
「忘れませんから」
俺は何も言わず、報告書へ視線を戻した。
◇
午後、ティセラが大量の資料を抱えて現れた。
「セイン、机を貸して」
「今使ってる」
「半分でいいわ」
「半分はリゼが使ってる」
「私の席なので」
「いつ決まったのよ」
「今日です」
ティセラは俺を見た。
「許可したの?」
「してない」
「じゃあ片づけて」
「……何で俺に言うんだよ」
結局、隣の机まで借りて資料を広げることになった。
ティセラが持ってきたのは、第三保全槽の固定具から写し取った刻印と、二十八年前の事件に関する資料だった。
「追加で分かったことがあるの」
そう言って、彼女は二枚の紙を並べた。
一枚には、俺たちも何度も見た文字が書かれている。
『第三保全槽』
『預託種別:記――』
「最後の二文字、読めたのか?」
「いいえ。それはまだ」
ティセラは首を振った。
「ただ、周囲の術式を見直したら、ほかの十一基とは封の構造が少し違っていたの」
「どう違うんだ?」
「ほかの保全槽は、帰属接続を保持する仕組みと一致していた。でも三番目には、それとは別の情報を封じるための術式が組み込まれていた可能性がある」
「情報?」
「そう。文字や記録だけじゃなく、別の形で保存されるものかもしれない。ただ、対象が何だったのかは断定できないわ」
リゼが紙を覗き込んだ。
「やっぱり、記憶でしょうか」
「候補の一つね」
ティセラはもう一枚の資料を指した。
『調査対象:集団記憶欠損』
『対象者数:四十二名』
昨日、係長から渡された記録の写しだ。
「この下に、薄く残った文字があるの」
俺は顔を寄せた。
『欠損記憶総量――』
「……総量?」
思わず聞き返した。
「記憶を、量で数えてるのか?」
「そう読めるわ。少なくとも、被害者の人数とは別に何かを計測していたらしい」
「病院の記録でも、そんな書き方するのか?」
「一般的ではないわね」
ティセラは眼鏡を直した。
「記憶を失った人間の数ではなく、失われた記憶そのものを扱っていた可能性がある」
俺は紙を見つめた。
人間の記憶は、頭の中にあるものだと思っていた。
何かを忘れたら、それはもう思い出せない。忘れたものを見つけるのは、自分の中を探す行為だと思っていた。
だが、青鐘通りで見つかった装置は、人と人、人と場所とのつながりを切り離し、保存することができた。
もしそれと似たことが、記憶に対しても行われていたとしたら。
「……数えられるなら、保存もできるのか?」
「その可能性はある」
「持ち運ぶことも?」
「保存の方法によるわ」
「別の人間に渡すことは?」
ティセラはすぐには答えなかった。
机の上の記録を見つめ、慎重に言葉を選ぶ。
「不可能とは言い切れない。でも、だからといって誰にでも使える記憶になるわけではないと思う。どう保存され、どう扱われているのかが分からない以上、そこはまだ想像の域を出ないわ」
俺は頷いた。
記憶が物のように扱われる。
そう考えただけで、妙に落ち着かなかった。
誰かが大切にしていたものを、本人の知らないところで持ち出す。それを別の人間が持ち、場合によっては売り買いする。
そんなことができるのだろうか。できてしまうなら、誰がそれを許すというのだろう。
「……嫌な話ですね」
リゼが呟いた。
俺も同じことを考えていた。
「リゼ?」
ティセラが声をかける。
「もし記憶が瓶や箱に入るなら、私がなくした名前も、どこかに入っているんでしょうか」
彼女は腰の真鍮札へ触れた。
「分からないわ」
ティセラは静かに答えた。
「名前と記憶は同じものではないし、あなたの場合は、本人の名前がどこかへ移されたというだけでは説明できない部分がある」
「……そうですよね」
「でも、調べる価値はあると思う」
リゼは顔を上げた。
「本当ですか?」
「ええ。調べるための材料が、少しずつ増えてきたから」
彼女は小さく頷いた。
俺はその様子を見ていた。
リゼが自分の名前を取り戻したいと願うのか、それとも選んだ名前のまま生きたいのか。
その答えを、俺が勝手に決めるつもりはない。たとえ何かが見つかったとしても、返すかどうかを選ぶのは彼女自身だ。
「……もし何か見つかったら」
俺が言いかけると、リゼがこちらを向いた。
「はい?」
「まず、お前に話す」
彼女は少し不思議そうにした。
「当たり前じゃないですか」
「そうだな」
自分でも、変なことを言ったと思った。
けれど、その当たり前を忘れないようにしたかった。
◇
ティセラと資料を調べているうちに、午後の時間は過ぎていった。
係長は青鐘通りの報告を受け取った後、関連資料の照合のために上階へ出向いているらしい。
俺の報告書はまだ終わらない。
書こうとすればするほど、分からないことが増えていく。
切離装置を動かした人物も、地下で襲ってきた黒い外套の人間も、まだ正体が分からない。取り外された第三保全槽と、広場の誰も覚えていない人物についても同じだ。
さらに、二十八年前の四十二人の記憶欠損が、今回の事件とどうつながるのかも調べなければならない。
ひとつの事件を片づけたはずなのに、机の上には新しい調査対象が増えるばかりだった。
「セイン」
リゼが机の端から顔を出した。
「休みません?」
「報告書が終わったら」
「それ、あと何枚ですか?」
「三枚くらい」
「さっきも三枚って言ってました」
「書いた分だけ、追加で必要になったんだよ」
「便利な仕組みですね」
「俺もそう思う」
リゼは立ち上がり、窓辺へ向かった。
しおれた鉢植えを持ち上げ、水差しを探し始める。
「何してる?」
「この子にも帰ってきたって教えてあげようと思って」
「植物に話しかけるなよ」
「ちゃんと世話してあげてください」
「してるよ」
「葉っぱが垂れてます」
「……数日いなかっただけだって」
「その数日が大事なんです」
リゼは水をやり、窓辺へ鉢を戻した。
俺はその姿を眺めた。
青鐘通りから戻ってきた俺たちは、どうやら少し変わったらしい。
少なくとも、以前なら一人で書類に向かっていたはずの時間に、今は誰かが植物へ水をやっている。
それが悪いことだとは思わなかった。
むしろ、随分と自然に見えた。
その時、扉が二度叩かれた。
「失礼。ここが第七係?」
聞き覚えのある声だった。
俺は顔を上げた。
扉のところに立っていたのは、ネイだった。
右肩には新しい包帯が巻かれている。
「……お前、本当に来たのか」
「昨日、約束したでしょう」
「ああ。落とし物を持ってくるってな」
ネイは笑った。
「ちゃんと覚えててくれたんだ」
「忘れ物を扱う仕事だからな」
「いい仕事だね」
相変わらず、何を考えているのか分からない返事だった。
それでも、今日は少しだけ安心した。
昨日、危ないところへ行くなと話した時、ネイは珍しく素直に頷いていた。約束どおり来てくれたらしい。
「肩は大丈夫なのか?」
「まだ痛いけど、医者には診てもらったよ」
「だったら無理するな」
「君に言われるとは思わなかった」
「最近、みんなそれ言うな」
ネイは楽しそうに笑った。
それから、机の上の書類へ視線を向ける。
「忙しそうだね」
「おかげさまで」
「じゃあ、少しだけ仕事を増やしてもいい?」
「……帰ってくれない?」
「ひどいな。せっかく拾ったものを届けにきたのに」
そう言って、上着の内側へ手を入れた。
◇
ネイが机に置いたのは、片手に収まるほどの小さなガラス瓶だった。
古いものらしく、表面には細かな傷がある。口元には黒ずんだ封蝋がわずかに残り、底の方には見慣れない印が刻まれていた。
そして、中には何も入っていないように見える。
「……空瓶?」
俺が尋ねると、ネイは曖昧に笑った。
「そう見えるよね」
「これが落とし物?」
「たぶん」
「誰が落としたんだ?」
「そこまでは分からない」
俺は瓶を持ち上げた。
光にかざしても、中には何も見えない。少し揺らしてみたが、音もしなかった。
「どこで拾った?」
「王都西側の旧倉庫街。青鐘通りの地下から逃げた人が、通ったかもしれない場所の近く」
俺は瓶から目を離した。
「……追いかけるなって言ったよな」
「追いかけてないよ」
「じゃあ、何をしてた」
「帰り道を確かめてた」
「それを追いかけるって言うんじゃないか?」
リゼが横から口を挟んだ。
ネイは少し考えてから頷いた。
「確かに」
「素直に認めるなよ」
「でも、本人には会ってないからね」
「そういう問題じゃない」
俺はため息をついた。
この男には、言い聞かせるだけでは足りないらしい。
ネイは笑っていたが、包帯の下にある傷がまだ痛むのだろう。上着を直す時、ほんの少し顔をしかめていた。
「……とにかく、勝手に動くな。拾った場所も詳しく記録させてくれ」
「分かったよ」
予想外に素直な返事だった。
俺は瓶を机に置き、拾得場所と時刻を尋ね始めた。
ネイは分かる範囲で答えたが、誰が瓶を落としたのか、どうしてその場所にあったのかについては、はっきりしたことを言わなかった。
偶然拾ったようにも聞こえる。けれど、ネイがただの偶然でここへ来たとは、どうしても思えなかった。
「……ティセラ」
俺が呼ぶと、彼女はすぐに近づいてきた。
「見せて」
瓶を受け取り、灯りへかざす。
口元の封蝋、側面の細かな傷、底の刻印を順番に確かめていった。
「古いわね」
「分かるのか?」
「細工の形式が今のものとは違う。ただ、これだけではいつ作られたかまでは判断できない」
そう言って、底の印へ顔を近づけた。
その時だった。
「……待ってください」
リゼの声がした。
見ると、彼女が机の前で立ち尽くしている。
さっきまでネイと軽口を交わしていた顔から、笑みが消えていた。
「リゼ?」
呼んでも、すぐには返事がない。
彼女はティセラの手元を見つめている。
「……それ、空じゃないです」
俺は瓶を見た。
「何か入ってるのか?」
「分かりません。でも……」
リゼは言葉を探していた。
「何か、変なんです」
「いつもの空白みたいな感じか?」
俺が尋ねると、彼女はゆっくり頷いた。
「似ています。でも、同じじゃない」
リゼは瓶のすぐ近くへ顔を寄せた。
ティセラが落とさないように、机の中央へ置く。
「青鐘通りで感じたのは、何かがあったところに穴が残っているような感じでした。人のことを忘れている時も、場所とのつながりが失われている時も、なくなった跡がどこかにあったんです」
「今回は?」
「……瓶の中に、その跡があるように感じます」
俺はもう一度、何も入っていないように見えるガラス瓶を見た。
「なくなったものの跡が、瓶の中に?」
「はい。何がなくなったのかは分かりません。でも、何かがここに閉じ込められているような……」
リゼはそこで口を閉じた。
「すみません。うまく説明できなくて」
「いや、十分だ」
俺は首を振った。
「何もないように見える瓶に、お前は何かの痕跡を感じてるんだな」
「……そうです」
ティセラが瓶の周りを確かめる。
「その感覚が正しいとしても、中身が何かは別に調べる必要があるわね」
「ええ」
リゼは頷いた。
俺たちは、彼女がなぜこうした痕跡を感じ取れるのか知らない。本人にも説明できない。
それでも、青鐘通りでは何度もその感覚に助けられてきた。
今度も、無視していいものではなかった。
◇
ちょうどその時、上階から戻った係長が第七係へ顔を出した。
「……随分にぎやかだね」
「係長、ちょうどよかった」
俺は机の瓶を指した。
「ネイが持ち込んだ落とし物だよ」
「落とし物?」
「ああ。旧倉庫街で拾ったらしい」
係長はネイを一度見た。
ネイはいつもの薄い笑みを浮かべ、軽く頭を下げる。
「どうも」
「……君が拾ったんだね」
「はい」
係長はそれ以上追及せず、瓶へ目を向けた。
ティセラが口元の封蝋と底の刻印を示す。
「王家系統の古い封術に似ています。ただ、青鐘通りの施設で使われていたものとは印が違うんです」
係長は瓶を持ち上げた。
底の印をしばらく見つめる。
「……確かに」
「見覚えある?」
俺が尋ねると、係長は首を振った。
「似たものはある。でも、これと同じ形式は知らないな」
ティセラも頷いた。
「昨日見せてもらった王都内七ヶ所の施設記録とも一致しません」
俺は顔をしかめた。
「じゃあ、別の施設のものってこと?」
「可能性はある。ただ、同じ系統の技術が使われているからといって、必ず同じ施設で作られたとは限らない」
係長は瓶を机へ戻した。
「王国の記録にない工房で作られたものかもしれないし、古い時代の別形式かもしれない」
「つまり?」
「まだ分からない、ということ」
「……またか」
「うちの仕事らしいだろう?」
係長はいつもの調子で笑った。
俺は苦笑しながらも、瓶から目を離せなかった。
青鐘通りの地下では、人と人、人と場所とのつながりが容器に保存されていた。
二十八年前の資料には、失われた記憶の総量を測ったような記述がある。そして今、空に見えるガラス瓶が、俺たちの机の上に置かれている。
もし、本当に何かが入っているのなら。
「……これ、記憶だったりするのかな」
口にすると、部屋が少し静かになった。
ティセラが答えた。
「まだ証拠はないわ」
「分かってる。でも、もしそうだったら……」
俺は瓶を見つめた。
誰かが生きてきた時間には、忘れたくないこともあれば、できるなら忘れてしまいたいこともあるだろう。
それが、目に見えないまま瓶に封じられているかもしれない。
想像しているだけなのに、急に重く感じられた。
「……俺の〈返却〉なら、持ち主が分かるかな」
そう呟くと、リゼとティセラが同時にこちらを見た。
「セイン」
「まだ使わないって」
「使うつもりの顔でした」
リゼが言う。
「顔で分かるのかよ」
「最近、分かるようになりました」
ティセラは瓶を自分の方へ引き寄せた。
「対象を特定できていないのよ。封の仕組みも分からない。ここで無理に〈返却〉を使って、中身や封に何が起こるかも予測できないわ」
「……分かった」
俺は左手を引っ込めた。
以前なら、試してみれば分かると考えていたかもしれない。
だが、青鐘通りでの失敗を忘れたわけではない。
誰かの記憶かもしれないものを、確かめもせずに扱っていいはずがなかった。
「調べよう」
俺が言うと、ティセラは頷いた。
「ええ。まずは封の形式と、保存されているものの性質を確かめる。それまでは不用意に開けない」
係長も同意した。
「拾得物として受理して、保管の記録を残そう。触れた人間や移動先も分かるようにしておきたい」
「了解」
俺は新しい拾得物票を取り出した。
拾得者、場所、日時に加え、外見の特徴を記していく。所有者は不明で、中身についても確認できていない。
普通の落とし物なら、最後の二つが分からなくてもそれほど珍しくない。
それなのに、この小さな瓶だけは、記入する手が妙に重かった。
◇
ネイは俺の仕事ぶりを、面白そうに眺めていた。
「ちゃんとしてるんだね」
「何が?」
「落とし物の仕事」
「ちゃんとしてなかったら困るだろ」
「青鐘通りじゃ、走り回ってるところばかり見てたから」
「普段はこういうことばかりだよ」
俺は拾得物票に最後の項目を書き込んだ。
「……ところで、ネイ」
「何?」
「本当に偶然拾ったのか?」
彼はすぐには答えなかった。
瓶を一度見てから、俺に視線を戻す。
「どうして?」
「お前が何となく歩いて見つけたにしては、出来すぎてる」
「そうかな」
「地下の襲撃者が通ったかもしれない場所に、こんな瓶が落ちてたんだぞ」
「だから、届けに来たんじゃない」
間違ってはいなかった。
けれど、聞きたいことに答えているとも思えない。
「……何か知ってるなら、教えてくれ」
俺が言うと、ネイは一瞬だけ真面目な顔になった。
「知ってることが、全部正しいとは限らないよ」
「何だよ、それ」
「僕も確かめたいんだ」
彼は机の瓶を見た。
「これが、本当に何なのか」
その声には、いつもの軽さがほとんどなかった。
俺は言葉を探した。
ネイが何を知っているのか、何を隠しているのか。まだ分からない。
それでも、何かを確かめるためにここへ来たということは、伝わってきた。
「……分かった」
俺は拾得物票を整えた。
「じゃあ、分かったことがあれば話す。その代わり、お前も一人で危ないことをするなよ」
「交換条件?」
「そうだ」
「厳しいね」
「普通だろ」
ネイは少し笑った。
「考えておくよ」
「そこは約束してくれ」
「……努力する」
相変わらず、すぐには信用できない返事だった。
ただ、今日はこれ以上追い詰める気にはなれなかった。
ネイは自分から第七係へ瓶を持ってきた。それが何かの手がかりになるなら、まずは調べるべきだった。
◇
夕方、第七係の窓から差し込む光が赤くなり始めた頃、ようやく報告書がひと区切りついた。
机の上には、新しく受理したガラス瓶がある。
ティセラが調べ終わるまでは、封を壊さずに保管することになった。
「……仕事、増えましたね」
リゼが言った。
「ああ」
「青鐘通りで全部終わると思ってました?」
「少しは」
「私もです」
彼女は瓶を見つめた。
中には何も見えない。
それでも、リゼはまだ何かの痕跡を感じ取っているらしい。
「セイン」
「何だ?」
「これ、誰かがなくしたものなんでしょうか」
「まだ分からない」
「そうですよね」
彼女は少し考えてから、続けた。
「でも、もし本当に誰かの記憶だったら、返してほしい人ばかりじゃないかもしれませんね」
俺は彼女を見た。
「……どうして?」
「思い出したくないことだって、あるでしょう?」
リゼは静かに言った。
「私は、自分の本当の名前をまだ知らない。でも、それを知ったとしても、今の名前までなくしたくはありません」
彼女は真鍮札を手に取った。
『リゼ』
自分で選んだ名前だ。
以前、俺はその名前を返すかどうかを彼女に尋ねた。リゼは返さないことを選んだ。
今も、その意思は変わっていないらしい。
「……そうだな」
俺は頷いた。
「持ち主が分かったとしても、返すかどうかは別の話だ」
「はい」
「まずは、何が入っているのか確かめる。それから考えよう」
リゼは笑った。
「最近、セインの返事が慎重になりましたね」
「悪いことか?」
「いいえ。安心します」
俺は窓の外へ目を向けた。
王都では、仕事を終えた人々が家路についている。
昨日まで青鐘通りの住民を閉じ込めていた異変は、ひとまず収まった。ガロとエマは再会できたし、ミレアとニコもまた同じ食卓を囲んでいる。
けれど、広場の空いた椅子にはまだ誰も戻ってきていない。第三保全槽も見つかっていない。
そして今、俺たちの目の前には、空に見える瓶が一つある。
青鐘通りの事件は終わりへ向かった。
しかし、そこで知ったことまで終わったわけではなかった。
「……名前の次は、道。その次は記憶か」
俺が呟くと、リゼが首を傾げた。
「何です?」
「いや。変な仕事だと思って」
「今さらですね」
「そうだな」
「でも、私は嫌いじゃないです」
彼女は真鍮札を腰へ戻した。
「なくしたものを探すのって、少し怖いですけど」
「けど?」
「見つけられた時、嬉しいでしょう?」
俺は机の上の瓶を見た。
誰が落としたのかも、何が入っているのかも分からない。
だから、今すぐ返すことはできない。
けれど、調べることならできる。
誰のものだったのか、どこから来たのか、どうしてここにあるのかを、一つずつ確かめていけばいい。
「……そうだな」
俺は新しい書類を引き寄せた。
表題を書く。
『拾得物調査記録』
その下に、対象物を記した。
『古いガラス瓶 一点』
これだけ見れば、ごく普通の仕事だった。
ただ、瓶の向こうに何があるのかは、まだ誰にも分からない。
リゼが肩越しに書類を覗き込む。
「大事なこと、書き忘れてません?」
「何を?」
「中身です」
「不明、だろ」
「そうですけど」
彼女は机の上の瓶を見た。
「空っぽとは書かないでくださいね」
俺はペンを止めた。
何も入っていないように見える。
でも、それが本当に空なのかどうかは、まだ確かめられていない。
俺は少し考えてから、書類の最後に一行を加えた。
『内容物:外見上確認できず。空と断定しない』
リゼはそれを読み、満足そうに頷いた。
「はい。それでいいと思います」
「上司みたいに言うなよ」
「将来のために練習してます」
「俺の上司になる気か?」
「どうでしょうね」
彼女は楽しそうに笑った。
俺はもう一度、透明な瓶へ目を向ける。
名前を落とした少女が、最初にこの部屋を訪ねてきた日のことを思い出した。
あの日、俺は自分の仕事が世界のこんなところまでつながっているなんて、想像もしていなかった。
そして今日、誰かの記憶かもしれないものが、落とし物として第七係へ届けられた。
もし、この瓶の中に何かが残されているのなら、それを失った誰かが今もどこかにいるのかもしれない。
俺は書類を揃え、瓶のそばへ置いた。
外では夕暮れの鐘が鳴り始めていた。
青鐘通りの鐘とは違う音だったが、今はその響きが不思議と似て聞こえた。
世界には、まだ知らない落とし物がある。
そして、そのすべてが返されることを望んでいるとは限らない。
だからこそ俺は、まず持ち主を探そうと思った。
返すかどうかを決めるのは、それからでいい。




