第三十七話 戻らなかったもの
蜂蜜焼きを買って青鐘亭へ戻る頃には、広場の人通りもまばらになっていた。
パン屋の主人は店先の看板を片づけており、少し離れた家からは夕食の支度をする音が聞こえてくる。通りの出口にはもう警備隊の調査員が立っていない。何日も人々を閉じ込めていた境界が、今では特別な注意を払う必要もない道に戻っていた。
リゼは紙袋の底に残った蜂蜜を指で集めながら、満足そうに歩いている。
「……お前、本当に好きだな」
「おいしいものを嫌いになる理由がありません」
「それはそうだけど」
「セインも一つ食べたでしょう?」
「ああ」
「おいしかったですよね?」
「おいしかったよ」
「なら、何も問題ありません」
ずいぶん強引な理屈だった。
けれど、こうして何でもない話をしながら帰れることが、今は嬉しかった。
広場を横切ろうとした時、俺は足を止めた。
古い椅子が一脚、盤遊びの台の前に置かれている。そこに座る人間はいなかった。
昼間も見た景色だ。それどころか、青鐘通りへ入ってから何度も目にしているはずなのに、俺はいつも同じところで足を止めてしまう。
「……セイン?」
リゼが振り返った。
「ちょっとだけ、いいか」
「はい」
彼女は食べ終わった紙袋を畳み、俺についてきた。
盤には、木製の駒がいくつか残っている。
俺は鞄から、以前拾った駒を取り出した。古い木目が指先に触れる。特別な細工があるわけでも、高価なものでもない。
それでも捨てられずに持っている。
「何か思い出します?」
リゼが尋ねた。
「いや。相変わらず何も」
俺は駒を見つめた。
名前も顔も、どんな声で話す人間だったのかも分からない。ただ、誰かがここにいて、俺はその相手と盤遊びをする約束をしていたらしい。
そのことすら、今の俺には記憶として残っていなかった。
リゼは腰に提げた真鍮札のうち、一枚を外した。そこには、以前書き残した言葉が刻まれている。
『広場にいた人』
『盤遊びが好きだった』
『セインと約束があった』
俺は最後の一行を指でなぞった。
「……俺、本当に約束したんだな」
「はい。少なくとも、これを書いた時にはそう聞いています」
「何で盤遊びなんかすることになったんだろう」
「セインが負けず嫌いだからじゃないですか?」
「それは否定できないな」
軽く笑ってみたが、気持ちは晴れなかった。
忘れてしまった誰かを思い出せないことより、忘れている自分が何も不自由していないことの方が嫌だった。
この椅子が片づけられ、木の駒も誰かに捨てられてしまえば、俺はいつかここを何の疑問もなく通り過ぎるようになるのかもしれない。そして、それでも毎日は続いていく。
そのことが、どうにも気に入らなかった。
「……セイン」
リゼが俺の顔を覗き込む。
「何だ?」
「今すぐ全部思い出さなくても、いいと思います」
「そうかな」
「だって、探すために残しておけるものがあるでしょう」
彼女は真鍮札を持ち上げた。
「これも、木の駒も」
俺は駒を掌へ戻した。
彼女の言う通りだった。ただ、残っているものがあるからこそ、確かめたいこともある。
「もう一度だけ、試してもいいか」
「〈返却〉ですか?」
「ああ。この駒の返却先を確かめたい」
リゼはすぐには頷かなかった。
「腕は?」
「痛みは残ってる。でも、駒一つの返却先を調べるだけなら、いつもの仕事と変わらないと思う」
「思う、ですね」
「絶対に大丈夫とは言えないからな。おかしな反応があったらすぐにやめる」
リゼは俺の右腕を見てから、ゆっくり頷いた。
「分かりました。私も見ています」
「頼む」
木の駒を左手へ乗せる。
以前、この駒へ〈返却〉を使った時には、奇妙な表示が現れていた。青鐘通りが王都から切り離され、住民の記憶が次々に失われていた頃のことだ。
今は条件が違う。
装置の切離は止まり、保存されていた接続の一部は元の帰属先へ戻った。ならば、この駒の行き先にも何か変化があるかもしれない。
「〈返却〉」
いつもの感覚が指先に生まれた。
白い返却票が現れる。
『返却対象:遊戯駒』
ここまでは普通だった。
やがて、その下に文字が浮かび上がる。
『返却先:存在しない』
変わらなかった。
「……そうか」
俺は思わず呟いた。
リゼも文字を見つめていた。
「青鐘通りは戻ったのに」
「ああ」
「じゃあ、その人が戻らなかったのは、通りが切り離されていたからだけじゃないんでしょうか」
「少なくとも、そう考える必要はありそうだ」
俺は返却票が消えるのを待って、駒を握り直した。
この表示が何を意味するのか、断定はできない。
帰属先の人物がもう存在しないのか。それとも、持ち主を世界が認識できない状態にあるのか。
以前、リゼの名前の返却票には、俺の知らない帰属先が示されていた。返却先が分からないことと、存在しないと表示されることは、同じではないのかもしれない。
「……明日、地下へもう一度行こう」
俺が言うと、リゼは大きく息を吐いた。
「休むという選択肢は?」
「今日は休む。調べるのは明日だ」
「ティセラも呼びます?」
「もちろん。今回は俺一人で何とかできる話じゃないからな」
リゼは少し驚いたように俺を見たあと、笑った。
「ちゃんと覚えていてくれて、よかったです」
「そこまで心配されると複雑だな」
「心配させるようなことをした人が言ってます?」
言い返せなかった。
俺たちは木の駒をしまい、青鐘亭へ向かった。
振り返ると、空いた椅子の向こうには夕食の明かりが灯っている。
青鐘通りは戻った。けれど、あの席に座っていたはずの人だけは、まだ帰ってこない。
◇
翌朝、ティセラとリゼを伴って地下施設へ下りた。
リオルは警備隊の報告があるらしく、午後に合流する予定だ。ネイは傷の手当てを受けているはずだったが、朝から姿を見ていない。
石段を下りると、湿った空気が肌に触れた。
昨日まで赤い光を放っていた装置は、今は静かになっている。床に刻まれた線はただの古い溝に戻り、棚に並ぶ十一基の保全槽も反応を示さなかった。
それでも、三番目の固定具だけが空いているという事実は変わらない。
「……で、駒の表示が変わらなかったのね」
ティセラが尋ねた。
「ああ。青鐘通りが戻った後でも、返却先は『存在しない』だった」
「対象そのものは認識できた?」
「遊戯駒としてはな。返却先だけが同じだった」
ティセラは顎へ手を当て、しばらく考えた。
「少なくとも、装置が停止しただけでは解決しない欠落が残っているのね」
「それと第三保全槽、関係あると思うか?」
「可能性はある。でも、今のところ二つを結びつける証拠はないわ」
彼女は慎重だった。
俺はその慎重さをありがたく思った。
こういう事件では、何か一つ説明がつきそうになると、残りも全部同じ理由だったと思いたくなる。
しかし、青鐘通りへ戻ってきた人たちの記憶が一様ではなかったように、失われたものにも違う状態があるのかもしれない。
「もう一度、三番目の固定具を見せてくれ」
「いいけど、何も増えてないわよ」
「分かってる。確認したいだけ」
「その言葉は信用しにくいのよね」
「今日は術を使わない」
「それならいいわ」
ティセラは棚のそばへ近づいた。
空いた固定具には、容器を抜き取った痕跡が残っている。ほかの十一基と比べても、三番目だけが明らかに不自然だった。
誰かが取り外した。
それは最初にここを調べた時から分かっていたことだ。ただ、俺たちは中身が何なのかを十分に調べられていなかった。
「……ここの刻印、読める?」
ティセラが石台の下を指した。
「どこ?」
「右の端。粉塵が溜まってるところ」
俺は身をかがめたが、うまく見えない。
横からリゼが覗き込んだ。
「もう少し離れてください。三人じゃ狭いです」
「お前まで来るからだろ」
「セインが一番場所を取ってるんですよ」
ティセラが呆れたように言った。
「二人とも、少し静かにして」
彼女は布を取り出し、石台の縁を丁寧に拭った。
灰色の粉塵の下から、細い文字が現れる。
『第三保全槽』
その下にも、一行刻まれていた。
『預託種別:記――』
後半は削り取られている。
「……記?」
俺は声に出した。
「記録か、記憶か」
ティセラが言う。
「どっちか分かる?」
「この状態では無理ね。ほかの候補もあるだろうし、勝手に補うわけにはいかない」
彼女は指先で刻印の縁をなぞった。
「ただ、帰属接続を保存する施設に『記』という分類があるなら、調べる価値は十分あると思う」
リゼが空の棚を見つめる。
「記憶って、容器に入れられるものなんでしょうか」
「普通はそう考えないわよね」
ティセラは答えた。
「でも、ここでは人と人の関係を、元の帰属先の情報ごと預けていた。記憶の一部を記録として扱う仕組みがあったとしても、完全には否定できない」
「……随分嫌な話だな」
俺は呟いた。
靴職人だった父の手や、兄が革を切る時の癖が頭に浮かぶ。子供の頃、祭りの帰りにリオルへ渡した安物のお守りのことも覚えていた。
そんな記憶まで、どこかの容器に入れられるのだろうか。持ち運ばれ、誰かの手に渡るところを想像すると、気分が悪くなった。
「もし本当に記憶が入っていたら、それを持ち去った人間は何に使うんだ?」
俺が尋ねると、ティセラは首を振った。
「分からないわ。そもそも記憶かどうかも確定していない」
「売ることだってできるのかな」
リゼが言った。
俺は思わず彼女を見た。
「記憶を?」
「大切な思い出だったら、欲しがる人がいるかもしれません。誰かの秘密だったら、なおさら」
その考えは、気持ちのいいものではなかった。けれど、否定する理由も見つからない。
「……盗まれた側は、自分が何を失ったかも分からないかもしれないな」
俺が言うと、リゼは唇を結んだ。
名前をなくした彼女には、その恐ろしさがよく分かるのだろう。
ティセラが口を開いた。
「一つ、はっきりしていることはあるわ。容器は壊れて消えたんじゃない。取り外されている。つまり、誰かが持ち運ぶつもりでここから出した可能性が高い」
俺たちは空の固定具を見つめた。
誰かが装置を動かし、青鐘通りを王都から切り離した。そして、その間に第三保全槽が持ち去られている。
二つの出来事が同じ目的で起きたかどうかは、まだ分からない。
しかし、もし第三保全槽を持ち去ることが目的だったとしたら。
「……道を消したのは、目を逸らさせるためだった?」
口にした途端、嫌な想像が広がった。
百人近い人間の暮らしを巻き込み、王都の地図と記憶から通りを消す。その騒ぎの裏で、本当に欲しかったものだけを持ち去る。
そんなことを考える人間がいるとしたら、俺には到底理解できなかった。
「その可能性はあるわ」
ティセラが答えた。
「でも今は仮説として記録しておきましょう。断定すると、別の手がかりを見落とす」
「ああ」
俺は頷いた。
空席に残った駒と、空になった第三保全槽。二つの欠落が同じ事件に属しているのかどうかも、これから確かめなければならない。
◇
午後になると、係長が青鐘通りへ姿を見せた。
王都警備隊の隊員を二人連れている。
数日間、世界から隔てられていた通りへ入ってきたというのに、表情はいつも通りだった。少し曲がった襟も、眠そうな目も変わらない。
「お疲れ」
俺たちを見つけて、片手を上げた。
「……それだけ?」
「何が?」
「もう少し何かないの?」
係長は少し考えた。
「生きててよかった」
「軽いな」
「真面目に言おうか?」
「それはそれで怖いからいい」
係長は小さく笑った。
その笑顔を見て、俺はようやく少し安心した。
この人には、ずっと世話になっている。
俺が失敗した時も、普通なら面倒に思われるような仕事を持ち帰った時も、最後には必ず話を聞いてくれた。
何を考えているか分からないところはあるが、それでも俺にとっては頼りになる上司だった。
「報告は受け取ったよ」
係長が言った。
「接続群の返却と、第三保全槽の件も?」
「どちらも」
「仕事が早いな」
「たまにはね」
リオルが後ろから現れ、敬礼した。
「王都警備隊からの報告も上がっています。境界の通行は現在のところ正常。残存する記憶障害については、引き続き調査中です」
「ありがとう。そちらの隊にも手間をかけたね」
「いえ。住民が無事で何よりです」
係長は頷き、周囲を見渡した。
掲示された記録や片づけられた警備用の柵、広場に集まる人々を、一つひとつ確かめているようだった。
「……中で話そうか」
係長は鞄を軽く叩いた。
「少し見せたいものがある」
◇
青鐘亭の空いている部屋へ移ると、係長は机の上に古い資料を並べた。
何冊かの記録簿と、折り畳まれた地図。紙の端は黄ばんでいる。
「第七係の旧記録だよ」
係長が言った。
「今まで見られなかったもの?」
「一部はね。青鐘通りが再び王都の行政記録と接続されたことで、関連する封印指定に変化が出たらしい」
「そんな仕組みまであるの?」
ティセラが眉を寄せた。
「あるらしい、というところまでしか分かっていない」
係長は地図を広げた。
そこには、現在の王都とは違う古い区画が描かれていた。
南三区に、小さな印がある。
青鐘通りの地下で見たものと同じ形だった。
「……これ」
俺が指を置くと、係長が頷いた。
「今回見つけた施設だね」
地図をよく見る。
しかし、同じ印はそこだけではなかった。
城壁の北側にも一つあり、旧市場の近くにも別の印がある。ほかの区画まで確かめていくと、全部で七つ見つかった。
「……七ヶ所?」
「王都内で確認できるだけでね」
係長は別の紙を広げた。
今度は王国の広い範囲が描かれた地図だった。
街道沿いの町や山間部、国境近くにも、同じ形の印が点々と記されている。
俺はしばらく言葉を失った。
「これ、全部同じ施設なの?」
「可能性の高いものと、記録上だけのものが混ざっている。すべてが現存しているとは限らないよ」
「王国の外にもあるんでしょうか」
リゼが尋ねた。
係長は少しだけ間を置いた。
「分からない」
即答しなかったことが、かえって印象に残った。
俺たちはずっと、青鐘通りを王都へ戻すことを考えていた。その中で見つかった奇妙な装置と同じようなものが、ほかの場所にもある。
王国の各地で同じようなことが起きても、不思議ではないということだ。
「……誰が造った?」
俺が聞いた。
「王家が関わった記録はある」
「何のために?」
「肝心な部分が欠けてるんだ」
「……またか」
「うちの仕事は、そういうものだろう?」
係長は肩をすくめた。
俺は地図へ目を戻した。
王都内の七つの施設と、国境近くまで続く印。それぞれが本当に何を預かり、何を切り離してきたのか。
考え始めると、今までの事件がまったく別の大きさに見えてくる。
「それと、もう一つ」
係長が別の記録簿を開いた。
途中の一枚だけが、綴じ糸の根元から抜けている。
「……破れてますね」
ティセラが顔を近づけた。
「最初から?」
俺が尋ねると、係長の表情がわずかに変わった。
「昨日まではあった」
「昨日?」
「保管庫へ戻す前の目録に記載されている。今日取り出した時には、この状態だった」
リオルが腕を組んだ。
「閲覧できる人間は?」
「俺を含めて六人」
「……内部に関係者がいる可能性もありますね」
「否定できないね」
係長は淡々と答えた。
俺は抜き取られた跡を見つめた。
地下で俺たちを妨害した黒い外套の人物に、装置を動かした誰か。そして持ち去られた第三保全槽。
今度は、管理局の資料から一枚の記録が抜き取られている。
これまでは、世界から何かがなくなる現象ばかりを追いかけていた。だが、その陰で明らかに誰かが動いている。
しかも、こちらが調べていることを知っている可能性まである。
嫌な予感がした。
「係長」
「何?」
「二十八年前の件、新しい記録はある?」
「ローディス・フェンが調べていた件?」
「ああ」
名前を聞いたリゼが少し身を乗り出した。
係長はしばらく古い資料をめくり、薄い報告書を一枚取り出した。
「青鐘通りの事件そのものじゃない。ただ、似た記録がある」
紙の上には、かろうじて読める文字が残っていた。
『調査対象:集団記憶欠損』
『対象者数:四十二名』
「……四十二人?」
俺が尋ねた。
係長は頷いた。
「二十八年前、王都で四十二人が同じ一人の人間を忘れた」
部屋の空気が静かになった。
「家族も、仕事仲間も、近所の人も?」
「記録によればね。その人を知っていたはずの人々が、同じ時期に記憶を失ったらしい」
「本人はどうなった?」
リゼが聞く。
「分からない。名前もほとんど残っていない」
俺は広場の空席を思い浮かべた。
そこにいた誰かの名前を、俺たちは覚えていない。顔も声も分からず、木の駒と真鍮札だけが残っている。
二十八年前にも、似たようなことが起きていた。
「ローディスは、その人を調べてた?」
「ああ」
「それから?」
係長は報告書の末尾を示した。
文章が途中で途切れている。
「ローディス自身も、記録から消えた」
俺は紙を見つめた。
「失踪したという記録は?」
「はっきり残っていない。調査を進めていた記録官が、ある時点から資料上に現れなくなる」
リゼが息を呑んだ。
記録から消える。
その言葉は、彼女にとって決して他人事ではない。名前を失い、父親の記録を探し続けているリゼのことが、俺も気になった。
彼女は腰の真鍮札へそっと触れていた。
「……係長」
俺は報告書から顔を上げた。
「こういうこと、ほかにも起きてるの?」
「可能性はあるね」
「どれくらい?」
「そこまでは分からない」
係長は俺の方を見た。
「今回の青鐘通りの件を、単なる一つの通りの事件として終わらせない方がいいと思う」
その言葉には、普段の気の抜けた調子がなかった。
「残っているものを調べて、報告して。ほかの記録とのつながりは、こちらでも探す」
「分かった」
俺は頷いた。
係長が何を知っていて、何を知らないのか。今は分からない。
ただ、この人が持ってきた地図には、俺たちがまだ足を踏み入れていない場所がいくつもあった。
その先でも、誰かが何かを失っているのかもしれなかった。
◇
夕方、俺は再び広場の空席へ戻った。
リゼはティセラと資料を照合している。リオルは警備隊の報告へ戻った。俺も手伝うべきだとは思ったが、少しだけ一人で考えたかった。
木の盤の向かいに腰を下ろす。
駒は昨夜と同じ場所に並んでいる。
誰が置いたものなのか、分からない。
俺は鞄から、手元に残していた一つを取り出した。
「……悪いな」
空いた椅子へ声をかける。
当然、返事はなかった。
「約束したことも覚えてないんだ」
自分で言ってみると、情けなかった。
覚えていない相手へ謝っても、何が変わるわけでもない。それでも何も言わずに帰るのは、違う気がした。
「今は名前も分からない。でも、ここに誰かがいたって証拠は残ってる」
駒を盤の上に置く。
「だから、もう少し探してみるよ」
その時だった。
「ずいぶん難しい顔をしてるね」
背後から声がした。
振り返ると、ネイが立っていた。
肩には新しい包帯が巻かれている。
「……お前、安静にしてろって言われなかった?」
「言われたよ」
「なら、どうしてここにいる」
「少し歩きたくなって」
「医者に見つかったら、また怒られるぞ」
「セインが言う?」
返す言葉がなかった。
ネイは俺の向かいにある空席へ目を向けた。
「ここなんだ」
「何が?」
「誰かがいなくなった場所」
「ああ」
ネイはしばらく椅子を見ていた。
いつもなら、面白そうに何か尋ねてくるところだ。しかし今日は黙っている。
「……覚えてないんだね」
「何も」
「嫌だね」
その声は、思いがけず静かだった。
「何が?」
「誰かを忘れるのって」
俺はネイの顔を見た。
普段は軽口ばかりのこいつが、そんなことを言うのは珍しい。
「……経験があるのか?」
尋ねると、ネイは少し笑った。
「忘れてたら、自分でも分からないんじゃないかな」
「またそういう答えか」
「便利だからね」
俺は木の駒を指で回した。
「お前、何歳なんだ?」
「急だね」
「何となく気になった」
「二十二くらいに見える?」
「質問で返すなよ」
「じゃあ、秘密」
ネイは楽しそうに笑った。
けれど、笑い始めるまでにほんの短い間があった気がした。追及するには、あまりにも小さな変化だった。
「それで、今日は何をしてたんだ?」
俺が聞くと、ネイは上着のポケットへ手を入れた。
「ちょっと調べ物」
「怪我人が?」
「怪我してても頭は動くよ」
「そういう問題じゃないんだけどな」
ネイは何かを取り出しかけ、途中で手を止めた。
「……そうだ。落とし物を拾ったんだ」
「何を?」
「まだ確認したいことがあるから、明日持っていくよ」
「どこへ?」
「第七係」
俺は顔をしかめた。
「今見せればいいだろ」
「手続きがあるじゃない。ちゃんと持ち込むよ」
「お前が手続きなんて言うと、余計に怪しい」
「ひどいな」
ネイは笑いながら立ち上がった。
「じゃあ、明日ね」
「待て」
「何?」
「一人で危ないところへ行くなよ」
言ってから、自分でも少し驚いた。
ネイも目を丸くする。
「……心配してくれてる?」
「また怪我して戻ってこられると困るだけだ」
「それって、心配じゃない?」
「違う」
「即答するんだ」
俺はため息をついた。
「昨日も肩をやられてるんだぞ。少しは身体を大事にしろよ」
ネイはしばらく俺を見ていた。
それから、さっきより静かに笑った。
「……そうだね」
珍しく素直な返事だった。
「今日はもう追いかけたりしないよ」
「本当か?」
「たぶん」
「その返事は信用できない」
「リゼにも同じこと言われてたね」
「何で知ってるんだよ」
「聞こえたから」
ネイは肩をすくめかけ、すぐに痛そうな顔をした。
俺は思わず立ち上がる。
「ほら、そういうことになるだろ」
「……うん。今日は帰って寝る」
今度は言葉に軽さがなかった。
俺はそれ以上引き止めず、彼が王都側へ歩いていくのを見送った。
信用しているわけじゃない。
まだ何を隠しているのか分からないし、ネイの話はいつも肝心なところで途切れる。ただ、あいつが自分の怪我を後回しにして誰かを助けたことも、確かだった。
人のことは妙に気にするくせに、自分のこととなると無茶をする。
俺はそういう人間を一人知っている。
俺自身だった。
「……人のこと言えないな」
小さく呟き、もう一度空席を見た。
◇
王都の空が、ゆっくりと夕暮れに染まっていく。
青鐘通りでは、夕食の支度をする音が聞こえ始めていた。
帰ってきた日常があり、再び名前を呼べるようになった人々がいて、家族との再会を喜ぶ声も聞こえる。それでも、目の前の椅子は空いたままだった。
俺は今日見た資料を思い返した。
二十八年前、四十二人が同じ一人を忘れ、その事件を調べていた記録官も資料から消えている。
青鐘通りの地下には第三保全槽がなく、同じような施設が王都にも王国各地にも存在するらしい。
名前をなくしたリゼと、地図から消えた通り。誰にも覚えられていない人と、持ち去られたかもしれない記憶。
これまで、俺はそれぞれを別の事件として追ってきた。だが、同じような仕組みがいくつもの場所にあるのなら、偶然だと考える方が難しくなってくる。
誰かが失われたものを預かっているのかもしれないし、意図的に奪っているのかもしれない。
今のところ、何も確定していない。
ただ、少なくとも今回の事件では、装置が勝手に動いていただけではなかった。誰かが保全槽を外し、地下で俺たちの作業を妨害した。さらに第七係の資料から、一枚の記録が抜き取られている。
そこには確かに、人間の意思が介在していた。
俺は木の駒を手に取った。
持ち主が誰なのか、まだ分からない。返却先も『存在しない』のままだ。
でも、この駒は残っている。
俺たちが知らない誰かと、ここで何かを約束した証拠として。
「……少し、待っててくれ」
誰もいない椅子へ言った。
今度は、必ず返すとは言わなかった。
俺の術で何ができるのか、できないのか。そのことを、以前より少しだけ分かるようになったからだ。
返す先が見つからないものを、無理やりどこかへ押し込むわけにはいかない。
それでも探すことならできる。誰も覚えていないなら、残っている手がかりを集めればいいし、何を忘れたのか分からなくても、そこに空白があるという事実から始めればいい。
明日、ネイが持ってくるという落とし物。第三保全槽に刻まれていた、途中で途切れた文字。各地の地図に残された、七つ以上の印。
今はただの手がかりにすぎないが、手がかりがあるなら追っていける。
俺は駒を鞄へしまい、椅子から立ち上がった。
広場の向こうで、リゼが俺を呼んでいる。手には紙袋を持っていた。
きっと、また何か食べ物を見つけたのだろう。
「セイン! 戻ってこないんですか?」
「今行く!」
俺は返事をして、彼女の方へ歩き出した。
世界からなくなったものが、すべて元の場所へ戻るとは限らない。そのことは、もう知っている。
けれど、戻らなかったものを忘れてしまうのは、やっぱり嫌だった。何もできないと決まったわけではないのだから。
俺は、返却士だ。
それなら、まだ探す理由はある。




