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王都の返却士 ~その落とし物、世界のものです~  作者: 紙森 灯
第二章 地図から消えた通り

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第三十六話 普通

 

 階段を上りきる前から、外の音が聞こえていた。


 荷車の車輪が石畳を擦る音に、店主の呼び声が混ざっている。少し離れたところでは犬が吠え、誰かがそれを叱っていた。


 どれも王都では珍しくもない音だ。


 けれど青鐘通りが外と切り離されている間、俺たちはそうした音をほとんど聞いていなかった。


 通りの中には人がいて、店も開いていた。暮らしが完全に止まったわけではない。それなのに、外の世界から流れ込んでくるはずの気配が、いつの間にか欠けていた。


 失って初めて、その大きさに気づくことがある。


 ここ数日で、嫌というほど思い知らされたことだった。


「セイン、歩くの速いです」


 隣からリゼに声をかけられた。


「そうか?」


「はい。さっきより随分速いです」


「どれくらい?」


「三割くらい」


「測ったのか?」


「気持ちの問題です」


「じゃあ数字にするなよ」


 リゼは笑ったが、すぐに俺の右腕へ目を向けた。


「走るのは禁止ですよ」


「分かってる」


「絶対ですからね」


「そんなに信用できない?」


「信用しています。ただ、セインの足と頭が、ときどき別々に動くので」


 否定しようとして、やめた。


 たぶん、そうなのだろう。


 昨日からずっと気になっていたことがある。


 あの〈返却〉は本当に成功したのか。


 接続群が元の場所へ戻っていくのは確かに見た。白い返却票にも不適合とは出なかった。


 しかし、実際に住民が外へ出られるか、失われた関係がどこまで戻ったのかは、まだ分からない。


 期待が大きいぶん、確かめるのが怖かった。


「セイン」


 今度は前を歩いていたリオルが振り返った。


「そんな顔してると、地上の人間まで怖がるぞ」


「今度はどんな顔だよ」


「試験結果を待ってる時の顔」


「お前は試験前日に寝てた側だろ」


「だから結果を待つのは得意なんだ」


「全然説得力ないな」


 リオルは肩をすくめ、また先へ進んだ。


 軽口を交わしているうちに、階段の終わりが見えてきた。


 石壁の向こうから、明るい光が差し込んでいる。


 俺たちは最後の段を上がった。


     ◇


 青鐘通りは、いつもと変わらない姿をしていた。


 並んだ家々の窓から明かりが漏れ、鐘楼のそばでは何人かの住民が立ち話をしている。広場には昨日までに集めた記録の紙が残り、風を受けて端が揺れていた。


 名前、仕事、家族、行き先。


 失われる前に残しておこうと、人々が書き続けたものだ。


 その向こう、南側の出口には、以前のような境界の異変が見当たらなかった。


「……壁がない」


 リゼが呟いた。


 もちろん、実際に石の壁が立っていたわけではない。


 青鐘通りの住民が外へ進もうとすると、いつの間にか別の入口へ戻されてしまう。目に見えない境界が、人々を閉じ込めていたのだ。


 今はその違和感が薄れているように思えた。


「試してみるか」


 俺が言うと、リオルがすぐに首を振った。


「お前が最初に行く必要はない」


「何で?」


「その右腕で、また何か起きたらどうする」


「歩くだけだろ」


「歩くだけで戻されてたんだぞ」


 言われてみれば、その通りだった。


 リオルは警備隊の連絡札を取り出し、近くの調査員へ声をかけた。


「俺が先に確認する。何かおかしかったら、すぐに記録してくれ」


「了解です」


 リオルは俺たちへ片手を上げた。


「じゃあ、行ってくる」


 いつもなら、何でもない道を歩く時のような足取りだった。


 境界があったはずの場所へ近づき、一歩踏み出す。


 そのまま、もう一歩。


 戻らない。


 俺は思わず身を乗り出した。


 リオルは通りの外で足を止め、振り返った。


「……出られたぞ」


 声が少しだけ上ずっていた。


「本当に?」


 リゼが尋ねる。


「本当だ。ほら」


 リオルはさらに数歩進み、そこでくるりと向きを変えた。


 今度は王都側から青鐘通りへ戻ってくる。


 何も起こらなかった。


「……つながったんだ」


 俺が呟くと、リオルはゆっくり頷いた。


「ああ。少なくとも、この道は普通に通れるようになってる」


 その瞬間、後ろから歓声が上がった。


 いつの間にか集まっていた住民たちが、俺たちの様子を見守っていたらしい。


「外へ出られるのか!」


「本当に戻ってこない?」


「もう大丈夫なのか?」


 声が次々に重なった。


 俺は慌てて両手を上げかけ、右腕の痛みに顔をしかめた。


「まず、落ち着いてください! 通れることは確認できました。ただ、ほかの異変が全部収まったかは、まだ調査が必要です」


 少しだけ静かになる。


「じゃあ、出てもいいの?」


 前の方にいた女性が尋ねた。


 俺はリオルを見た。


 彼は警備隊員として周囲の安全を確かめ、頷いた。


「少人数ずつなら大丈夫そうだ。念のため、向こう側にも調査員を配置する」


 その答えを聞いた途端、住民たちの表情が変わった。


 泣き出す人もいれば、隣にいた家族の手を握る人もいた。


 どれだけ長く待っていたのか。


 日数にすれば、決して何年も閉じ込められていたわけではない。


 それでも、明日も外へ出られないかもしれないという恐怖は、簡単に数えられるものではなかった。


 俺は出口を見つめた。


 自分の仕事が、これほど目に見える形で誰かを喜ばせたことが、今まであっただろうか。


     ◇


 最初に外へ出たいと言い出したのは、ガロだった。


「俺が行く」


 青鐘亭の料理人は、集まった人々をかき分けて前へ出てきた。


 大柄な身体には似合わず、その表情はひどく緊張している。


「大丈夫か?」


 俺が尋ねると、彼は頷いた。


「ああ。行きたい場所があるんだ」


「妹さんのところですね」


 リゼが言った。


 ガロは一瞬驚き、それから苦笑した。


「……顔に書いてあるか?」


「少しだけ」


「だったら、仕方ないな」


 彼は出口へ向き直った。


 俺は何か声をかけようとして、やめた。


 今必要なのは励ましより、実際に一歩を踏み出す時間なのだろう。


 ガロはゆっくり歩き始めた。


 以前なら、進んだつもりでも別の入口へ戻されていた場所だ。


 その手前で一度足が止まる。


 深く息を吸ってから、踏み出した。


 一歩。


 さらに一歩。


 ガロは振り返らなかった。


 王都側の石畳へ進み、少し離れたところでようやく足を止める。


「……出た」


 声が震えていた。


「ガロ!」


 俺が呼ぶと、彼はゆっくり振り返った。


「セイン。俺、外にいるぞ」


「見れば分かるよ」


「いや、そうじゃなくて」


 ガロは自分の足元を見た。


「ちゃんと、外なんだ」


 その言葉に、何も返せなかった。


 彼は空を見上げ、それから人混みの向こうへ目を向ける。


「エマに会ってくる」


「ああ」


「もしまた、俺が誰か忘れてたら……」


 そこで言葉が止まった。


 俺は首を振った。


「その時は、もう一度探そう。でも、今は会いに行ってこいよ」


 ガロは少し笑った。


「……ありがとう」


 大きな身体が、王都の通りを走り出した。


 今度は戻されない。


 その後ろ姿が見えなくなるまで、俺たちは誰も声をかけなかった。


     ◇


 ガロが外へ出られたという知らせは、すぐに通り中へ広がった。


 二人目、三人目と境界を越え、そのまま王都側を歩いていく。


 最初は恐る恐るだった足取りも、誰も引き戻されないと分かるにつれて軽くなっていった。


「本当に行ける!」


「向こうからも入れるぞ!」


「ちょっと市場を見てくる!」


「何か買ってきて!」


「金を渡してから言え!」


 笑い声が上がった。


 中には外へ出た途端、石畳へしゃがみ込んで泣き始める人もいた。


 通りが再び王都の一部になったことを、理屈より先に身体で確かめているのだろう。


 俺は少し離れた場所で、その様子を見ていた。


「笑ってるな」


 リオルが隣に立った。


「そうか?」


「かなり」


「気のせいだろ」


「昔から、お前は自分の顔に興味なさすぎるんだよ」


「鏡を見ろって?」


「いや、今の顔は誰かに描いてもらいたいな」


「嫌だよ」


「あとで落ち込んだ時に見せてやれる」


「そんな使い方するなら、ますます嫌だ」


 リオルは声を立てて笑った。


 俺もつられて笑い、すぐに右腕の痛みで顔をしかめる。


「……大丈夫か?」


「ああ。笑うと響く」


「なら、少しは休め」


「お前が笑わせたんだろ」


「悪かったよ」


 口では謝りながら、全然悪いと思っていない顔だった。


 けれどリオルはそれ以上からかわず、再び出口へ目を向けた。


「……よかったな」


「ああ」


 それだけで十分だった。


 長い付き合いの中で、こいつとは何度もくだらない話をしてきた。


 そのくせ、本当に大事な時には、案外言葉が少なくなる。


 今もそうだった。


 その時、王都側から女性の叫ぶ声が聞こえた。


「ガロ!」


 俺たちは同時に振り返った。


     ◇


 人混みの向こうから、一人の若い女性が走ってきた。


 髪を乱し、息を切らしている。


 その声を聞いたガロが振り向き、動かなくなった。


「……兄さん?」


 エマだった。


 名前を聞かなくても分かった。


 ガロの顔が、そう教えていた。


「エマ」


 彼は、はっきりと名前を呼んだ。


 以前、妹の顔を一瞬だけ思い出した時は、すぐにその記憶を失ってしまった。


 今は違う。


 エマが走り寄り、二人は通りの真ん中で抱き合った。


「何してたのよ!」


 エマが泣きながら叫んだ。


「急に連絡が取れなくなって、住んでた部屋も見つからなくなって、私、兄さんなんていなかったような気がして……」


「……悪かった」


「どうして謝るの!」


「分からん!」


「私も分かんないわよ!」


 怒鳴り合っているのに、二人とも泣いていた。


 ガロは妹の肩をつかみ、少し身体を離した。


「顔、見せてくれ」


「……何?」


「いいから」


 エマは戸惑いながらも顔を上げた。


 ガロはその頬を両手で包み、じっと見つめる。


「……覚えてる」


「何を?」


「お前の顔だ」


「そんなの当たり前でしょう」


 ガロは首を横に振った。


「当たり前じゃなかったんだよ」


 声が震えていた。


「目も、鼻も、笑った時の口元も、全部分からなくなった。名前だけは覚えてたのに、お前がどんな顔で笑うのか、どうしても思い出せなかったんだ」


 エマは何も言わなかった。


 ただ、兄の手を握った。


「……今は?」


「ああ。ちゃんと見えてる」


「じゃあ、忘れないでよ」


「努力する」


「そこは約束しなさいよ!」


 ガロは泣きながら笑った。


「分かった。約束する」


 エマはもう一度、兄へ抱きついた。


 俺は二人を見ていた。


 一度は返した接続が、目の前で再び失われた時のことを覚えている。


 あの時ガロは、数秒でも妹の顔を思い出せたことが嬉しいと言った。


 けれど、失われた直後の表情を見て、俺は本当にそれでよかったのか分からなくなった。


 今、二人は互いの名前を呼び、抱き合っている。


 あの数秒は、無駄ではなかったのだと思いたかった。


「……よかったですね」


 リゼが隣で呟いた。


「ああ」


「セイン、泣きそうです?」


「お前は?」


「先に聞いたのは私です」


「ずるいな」


「セインの真似です」


 横を見ると、リゼの目はすでに赤かった。


 指摘するのはやめておこう。


 俺の方も、人のことを言える状態ではなかったから。


     ◇


 記憶の戻り方には、人によって大きな違いがあった。


 デリクは家の前まで来た時、急に玄関の形を思い出し、その場で泣き崩れた。


 パン屋の主人は店へ戻り、棚に並ぶパンを一つずつ確かめていた。自分が何年もここで働いてきたことを、手の動きが先に思い出したようだった。


 亡くなった夫の名前を失っていた女性は、庭先でその名前を口にした途端、花鋏を持ったまま座り込んだという。


 一方で、まだ戻らない記憶もあった。


 戻った関係と、そこに伴う記憶が、必ずしも同じ速さで回復するわけではないらしい。


 ティセラは住民の聞き取りを続け、返却前後の記録を照らし合わせていた。


「装置に保存されていた接続のうち、返せたものは確かにあると思う」


 俺たちへ報告する声は慎重だった。


「ただ、失われた記憶が全部そのまま戻ったと考えるのは危険よ。接続が戻ったことで思い出せるようになった可能性もあるし、本人が新しく覚え直している部分もあるはずだから」


「つまり、元に戻った人と、戻りかけの人がいるってことか」


 リオルが尋ねる。


「大まかにはそうね。でも、何が回復して何が残っていないかは、人によって違うの」


「じゃあ、引き続き調べる必要があるな」


「ええ。それと、強い頭痛や混乱がある人には休んでもらいたい。急に多くのことを思い出して、具合が悪くなる人もいるかもしれないから」


 俺は頷いた。


 成功したからといって、後片づけまで済んだわけではない。


 返却された落とし物だって、持ち主が受け取るまでは仕事が終わらないのだ。


「……ところで、ネイは?」


 近くで傷の手当てを受けている姿が見えた。


 医者が肩の包帯を外し、傷口を確認している。


「お前、どうしてこれで歩いてたんだ?」


 医者が呆れた声を出した。


「歩かないと帰れなかったから」


「そういう問題じゃない」


「じゃあ次は担架で来るよ」


「次があってたまるか!」


 思わず笑ってしまった。


 俺が近づくと、ネイはこちらに気づき、軽く手を上げた。


「お疲れ、返却士」


「お前こそ。肩は?」


「怒られた」


「傷の具合を聞いてるんだけど」


「結構痛いらしい」


「自分のことだろ」


「自分のことって、案外分からないんだよ」


 相変わらずだった。


 けれど、地下で聞いた言葉が気になっていた。


「……ネイ」


「何?」


「昨日、また間に合わないのは嫌だって言っただろ」


 彼の表情が、ほんの少しだけ変わった。


「そんなこと言った?」


「言った」


「怪我してたからね。余計なこと喋ったのかも」


「本当のことだったんだろ」


 ネイはすぐには答えなかった。


 代わりに、包帯を巻いている医者へ顔を向けた。


「もうちょっと優しくできない?」


「動くな」


「……はい」


 俺は無理に問い詰めなかった。


 以前、似た現象の町で誰かを助けられなかったという話を聞いている。


 それが何だったのか、まだ知らない。


 ただ、ニコを助けた時も、地下で術式を守った時も、ネイは自分の怪我を後回しにしていた。


 その行動まで嘘だとは思わなかった。


「今は聞かないよ」


 俺が言うと、ネイが少し笑った。


「優しいね」


「治ったら聞く」


「全然優しくないじゃない」


「逃げるなら、せめて傷を治してからにしてくれ」


 ネイは肩をすくめようとして、痛みに顔をしかめた。


「……検討する」


 その返事だけは、妙に真面目だった。


     ◇


 青鐘亭へ戻った時、食堂には温かい匂いが満ちていた。


 厨房ではミレアが鍋をかき混ぜ、ニコはいつもの席に座っている。


 昨日も見た光景だ。


 けれど、昨日は二人の間に言葉にできない距離があった。


 今はどうだろう。


「……セイン!」


 ニコが俺を見つけ、椅子から飛び下りた。


「何してたの!」


「仕事だよ」


「遅い!」


「帰ってくるなりそれか」


「母さんが何回も外を見てたんだぞ」


 俺はミレアを見た。


 彼女は少し恥ずかしそうに笑う。


「帰ってきた人が食事を取らずに倒れたら困るでしょう」


「今日は倒れてませんよ」


「今日は、ね」


 随分と信用を失ったものだ。


 ニコが俺の右腕を見た。


「まだ痛い?」


「ああ。でも前よりましだ」


「だったら座って。俺、椅子持ってくる」


「お前の椅子はそこにあるだろ」


「俺のじゃなくて、セインの!」


 ニコは得意そうに別の椅子を引いてきた。


 俺はそれを受け取りながら、胸の奥が少し軽くなるのを感じた。


 名前を呼んでくれた。


 俺が誰なのか、思い出してくれている。


「……ニコ」


「何?」


「俺のこと、ちゃんと分かるんだな」


 ニコは眉を寄せた。


「当たり前じゃん。セインだろ?」


「ああ」


「俺の靴、直してくれた人」


 彼は右足を持ち上げて見せた。


「これ、まだ大丈夫だよ」


「今度は破れる前に持ってこいよ」


「分かってるって」


 元気よく答えたあと、ニコはリゼを見た。


「あ、リゼもおかえり!」


 その瞬間、リゼの表情が明るくなった。


「私のことも覚えてます?」


「覚えてるよ。名前の札、作ってくれたじゃん」


「……そうでしたね」


 リゼは腰の真鍮札に触れた。


 ニコが以前の記憶を取り戻したのか、それとも失った後に一緒に過ごした時間を覚えているのか。


 今の会話だけでは、まだ分からない。


 でも、どちらでもいいと思った。


 少なくとも、今こうして相手を知っている。


「リゼ」


 ニコが呼んだ。


「はい?」


「今度、もっと格好いい札も作ってよ」


「どんなのがいいですか?」


「剣の形!」


「そんなに大きいの、腰に下げたら歩きにくいですよ」


「小さい剣でいいよ」


「……考えておきます」


 リゼは笑った。


 俺は二人を見てから、厨房のミレアへ目を向けた。


 まだ確かめたいことが残っていた。


「ニコ」


「何?」


「ミレアさんは?」


 ニコは当然のように振り返った。


「母さんだよ」


 言い終えてから、彼は不思議そうにこちらを見る。


「何でそんなこと聞くの?」


 俺は答えられなかった。


 ミレアも、鍋をかき混ぜる手を止めている。


「……ニコ」


 母親が呼んだ。


「何?」


 ニコは振り向いた。


 ミレアは少し迷ったあと、尋ねた。


「今日の夕飯、何が食べたい?」


「卵!」


「また?」


「だって好きなんだもん」


「野菜も食べなさいよ」


「さっき食べた!」


「一枚だけでしょう」


 ニコは口を尖らせた。


「どうして知ってるの?」


「見てたからよ」


「ずるい!」


 ミレアが笑った。


 笑いながら、目元を押さえた。


 ニコは怪訝そうに顔を上げた。


「……母さん?」


「何でもないの」


「また泣いてる?」


「少しだけ」


「何で?」


 ミレアは答えず、息子の髪を撫でた。


 ニコはされるがままになっている。


 母親の手を、もう知らない人のものとして怖がることはなかった。


 俺は静かに息を吐いた。


 記憶がどこまで戻ったのかは分からない。


 けれど、この二人は再び母と息子として同じ食卓にいる。


 昨日、互いを忘れたまま手を握り直した時間も、無意味ではなかったのだ。


「セイン」


 ミレアが顔を上げた。


「ありがとう」


「……まだ、全部解決したわけじゃありません」


「分かってるわ」


 彼女は頷いた。


「でも、今日はありがとうって言わせて」


 俺はしばらく黙ったあと、頭を下げた。


「……はい」


 その言葉を、今は素直に受け取ろうと思った。


     ◇


 食堂を出ると、青鐘通りは夕食の時間を迎えようとしていた。


 店の戸を閉める音が聞こえ、窓からは料理の匂いが漂ってくる。外から帰ってきた住民たちが、互いに今日の出来事を話していた。


「普通ですね」


 リゼが言った。


「ああ」


「こんなに大変だったのに、元に戻ったら本当に普通なんですね」


 彼女は少し不思議そうだった。


 俺も通りを見渡した。


 買い物帰りの男が荷物を落とし、そばにいた人が拾ってやっている。


 通りの端では子供が走り、店主が危ないと叱っていた。


 誰も世界の帰属について考えているようには見えない。


 それでいいのだと思った。


「普通に戻すためにやったんだろ」


 俺が言うと、リゼは少し考えた。


「……そうですね」


「毎日、何か大事件が起きてたら困るよ」


「セインは仕事がなくなりますね」


「普通の落とし物くらいは残るだろ」


「そっちは残ってほしいんですか?」


「生活がかかってるからな」


 リゼは笑った。


 その笑い声を聞くと、妙に安心する。


 最初に出会った頃、彼女は自分の名前さえ持っていなかった。


 今は真鍮札を腰に下げ、俺の隣を歩いている。


 失ったもののすべてが戻ったわけではない。


 それでも、自分で選んだ名前で笑えるようになった。


「……セイン」


「何?」


「一つ、言い忘れてません?」


「何を?」


「私へのお礼です」


「さっき言っただろ」


「言いましたけど、ちゃんと褒めてくれてないです」


「そこ、別勘定なのか」


「もちろんです」


 リゼは胸を張った。


 俺は思わず笑った。


「分かった。ちゃんと言うよ」


 少し考えてから、彼女へ向き直る。


「お前がいなかったら、失われたものの痕跡に気づけなかった。地下でも、俺には分からない違和感を何度も教えてくれた」


 リゼは黙って聞いていた。


「怖いこともあっただろうに、最後まで自分で考えて動いてくれた。本当に助かったよ」


「……はい」


「だから、ありがとう」


 彼女はすぐには返事をしなかった。


 珍しいこともあるものだ。


 やがて、少しだけ頬を赤くして笑った。


「どういたしまして」


 それだけだった。


 いつものように冗談を重ねるわけでも、得意そうに言い返すわけでもない。


 ただ嬉しそうに笑っている。


 その表情を見て、俺は妙な気持ちになった。


 最近、リゼが笑っていると安心する。


 それは分かっていた。


 けれど、今はその笑顔をもう少し見ていたいと思ってしまった。


 どうしてなのか考えかけて、やめた。


 今すぐ答えを出さなくてもいいことだってある。


「……何です?」


 リゼが俺の顔を覗き込んだ。


「何でもない」


「またそれですか」


「便利な言葉だからな」


「ずるいですね」


 彼女は少し不満そうにしたあと、また歩き始めた。


「お腹空きました」


「さっき青鐘亭にいたのに?」


「ニコたちの邪魔をしたくなかったので」


「じゃあ、パン屋でも行くか」


「蜂蜜焼き、ありますかね」


「ニコが好きなやつ?」


「私も好きになりました」


「いつ食べたんだよ」


「秘密です」


 俺は笑った。


 こういうところは、何が起きても変わらないらしい。


 それが、今はありがたかった。


     ◇


 パン屋へ向かう途中、広場を横切った。


 人々はそれぞれ家路へ向かい、夕方の光が石畳を長く照らしている。


 広場の端には、木製の椅子が一脚残されていた。


 その前を通りかかった時、俺の足が止まった。


「……セイン?」


 リゼも立ち止まる。


 椅子のそばには、小さな盤遊びの台がある。


 ここには、以前誰かが座っていた。


 俺たちはその人と話し、何かの約束を交わしたはずだった。


 夜にまた来る。


 盤を挟んで勝負をする。


 そんなことを、確かに約束した。


 けれど、相手の名前が思い出せない。


 顔も、声も、どんなふうに笑ったのかさえ分からなかった。


 俺は鞄から木製の駒を取り出した。


 誰のものだったのか分からないまま、ずっと持っているものだ。


「……まだ、戻ってないんですね」


 リゼが静かに言った。


「ああ」


 彼女は真鍮札を一枚取り出した。


 そこには、失われたものについて以前書き留めた言葉が残っている。


『広場にいた誰か』


『盤遊びが好きだった』


『セインと約束があった』


 文字は消えていない。


 しかし、それを読んでも、相手の顔は浮かばなかった。


「名前が分からないと、探すのも難しいな」


 俺は呟いた。


「でも、何かがなくなったことは分かります」


 リゼは空いた椅子を見つめていた。


「私にも、そこに大きな欠落があるように感じます。何があったのかまでは分からないですけど」


「ああ」


 俺は駒を握り直した。


 青鐘通りは戻った。


 ガロはエマと再会し、ミレアとニコも再び同じ食卓にいる。


 多くの住民が、昨日まで失っていたものを取り戻し始めていた。


 それなのに、この椅子だけは空いたままだ。


 第三保全槽のことが頭をよぎった。


 取り外された容器に何が入っていたのか、誰が持ち去ったのかは分かっていない。


 ここに座っていた誰かの消失と関係があるのか、それすらまだ確かめられなかった。


 俺は木の駒を鞄へ戻した。


「……行こうか」


 リゼがこちらを向いた。


「いいんですか?」


「今、ここで考えても答えは出ない。明日、ティセラたちと続きを調べよう」


「はい」


 彼女は頷き、先に歩き始めた。


 俺も後に続いた。


 全部が戻ったわけではない。


 その事実を忘れるつもりはなかった。


 けれど、戻ったものを喜ぶことまで、我慢する必要はないはずだ。


 通りの向こうから、焼きたてのパンの匂いが流れてくる。


 リゼがそれに気づき、歩調を少し速めた。


「セイン、蜂蜜焼きが売り切れるかもしれません」


「走るなよ」


「セインじゃないんですから」


「俺が言われる側だったのに」


 彼女は振り返って笑った。


 俺も、その後を追う。


 誰かが仕事を終え、誰かが家へ帰り、誰かが夕飯のためにパンを買う。


 何でもない一日が、また青鐘通りに戻ってきた。


 その普通の景色を守れたことが、今は何より嬉しかった。

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