第三十六話 普通
階段を上りきる前から、外の音が聞こえていた。
荷車の車輪が石畳を擦る音に、店主の呼び声が混ざっている。少し離れたところでは犬が吠え、誰かがそれを叱っていた。
どれも王都では珍しくもない音だ。
けれど青鐘通りが外と切り離されている間、俺たちはそうした音をほとんど聞いていなかった。
通りの中には人がいて、店も開いていた。暮らしが完全に止まったわけではない。それなのに、外の世界から流れ込んでくるはずの気配が、いつの間にか欠けていた。
失って初めて、その大きさに気づくことがある。
ここ数日で、嫌というほど思い知らされたことだった。
「セイン、歩くの速いです」
隣からリゼに声をかけられた。
「そうか?」
「はい。さっきより随分速いです」
「どれくらい?」
「三割くらい」
「測ったのか?」
「気持ちの問題です」
「じゃあ数字にするなよ」
リゼは笑ったが、すぐに俺の右腕へ目を向けた。
「走るのは禁止ですよ」
「分かってる」
「絶対ですからね」
「そんなに信用できない?」
「信用しています。ただ、セインの足と頭が、ときどき別々に動くので」
否定しようとして、やめた。
たぶん、そうなのだろう。
昨日からずっと気になっていたことがある。
あの〈返却〉は本当に成功したのか。
接続群が元の場所へ戻っていくのは確かに見た。白い返却票にも不適合とは出なかった。
しかし、実際に住民が外へ出られるか、失われた関係がどこまで戻ったのかは、まだ分からない。
期待が大きいぶん、確かめるのが怖かった。
「セイン」
今度は前を歩いていたリオルが振り返った。
「そんな顔してると、地上の人間まで怖がるぞ」
「今度はどんな顔だよ」
「試験結果を待ってる時の顔」
「お前は試験前日に寝てた側だろ」
「だから結果を待つのは得意なんだ」
「全然説得力ないな」
リオルは肩をすくめ、また先へ進んだ。
軽口を交わしているうちに、階段の終わりが見えてきた。
石壁の向こうから、明るい光が差し込んでいる。
俺たちは最後の段を上がった。
◇
青鐘通りは、いつもと変わらない姿をしていた。
並んだ家々の窓から明かりが漏れ、鐘楼のそばでは何人かの住民が立ち話をしている。広場には昨日までに集めた記録の紙が残り、風を受けて端が揺れていた。
名前、仕事、家族、行き先。
失われる前に残しておこうと、人々が書き続けたものだ。
その向こう、南側の出口には、以前のような境界の異変が見当たらなかった。
「……壁がない」
リゼが呟いた。
もちろん、実際に石の壁が立っていたわけではない。
青鐘通りの住民が外へ進もうとすると、いつの間にか別の入口へ戻されてしまう。目に見えない境界が、人々を閉じ込めていたのだ。
今はその違和感が薄れているように思えた。
「試してみるか」
俺が言うと、リオルがすぐに首を振った。
「お前が最初に行く必要はない」
「何で?」
「その右腕で、また何か起きたらどうする」
「歩くだけだろ」
「歩くだけで戻されてたんだぞ」
言われてみれば、その通りだった。
リオルは警備隊の連絡札を取り出し、近くの調査員へ声をかけた。
「俺が先に確認する。何かおかしかったら、すぐに記録してくれ」
「了解です」
リオルは俺たちへ片手を上げた。
「じゃあ、行ってくる」
いつもなら、何でもない道を歩く時のような足取りだった。
境界があったはずの場所へ近づき、一歩踏み出す。
そのまま、もう一歩。
戻らない。
俺は思わず身を乗り出した。
リオルは通りの外で足を止め、振り返った。
「……出られたぞ」
声が少しだけ上ずっていた。
「本当に?」
リゼが尋ねる。
「本当だ。ほら」
リオルはさらに数歩進み、そこでくるりと向きを変えた。
今度は王都側から青鐘通りへ戻ってくる。
何も起こらなかった。
「……つながったんだ」
俺が呟くと、リオルはゆっくり頷いた。
「ああ。少なくとも、この道は普通に通れるようになってる」
その瞬間、後ろから歓声が上がった。
いつの間にか集まっていた住民たちが、俺たちの様子を見守っていたらしい。
「外へ出られるのか!」
「本当に戻ってこない?」
「もう大丈夫なのか?」
声が次々に重なった。
俺は慌てて両手を上げかけ、右腕の痛みに顔をしかめた。
「まず、落ち着いてください! 通れることは確認できました。ただ、ほかの異変が全部収まったかは、まだ調査が必要です」
少しだけ静かになる。
「じゃあ、出てもいいの?」
前の方にいた女性が尋ねた。
俺はリオルを見た。
彼は警備隊員として周囲の安全を確かめ、頷いた。
「少人数ずつなら大丈夫そうだ。念のため、向こう側にも調査員を配置する」
その答えを聞いた途端、住民たちの表情が変わった。
泣き出す人もいれば、隣にいた家族の手を握る人もいた。
どれだけ長く待っていたのか。
日数にすれば、決して何年も閉じ込められていたわけではない。
それでも、明日も外へ出られないかもしれないという恐怖は、簡単に数えられるものではなかった。
俺は出口を見つめた。
自分の仕事が、これほど目に見える形で誰かを喜ばせたことが、今まであっただろうか。
◇
最初に外へ出たいと言い出したのは、ガロだった。
「俺が行く」
青鐘亭の料理人は、集まった人々をかき分けて前へ出てきた。
大柄な身体には似合わず、その表情はひどく緊張している。
「大丈夫か?」
俺が尋ねると、彼は頷いた。
「ああ。行きたい場所があるんだ」
「妹さんのところですね」
リゼが言った。
ガロは一瞬驚き、それから苦笑した。
「……顔に書いてあるか?」
「少しだけ」
「だったら、仕方ないな」
彼は出口へ向き直った。
俺は何か声をかけようとして、やめた。
今必要なのは励ましより、実際に一歩を踏み出す時間なのだろう。
ガロはゆっくり歩き始めた。
以前なら、進んだつもりでも別の入口へ戻されていた場所だ。
その手前で一度足が止まる。
深く息を吸ってから、踏み出した。
一歩。
さらに一歩。
ガロは振り返らなかった。
王都側の石畳へ進み、少し離れたところでようやく足を止める。
「……出た」
声が震えていた。
「ガロ!」
俺が呼ぶと、彼はゆっくり振り返った。
「セイン。俺、外にいるぞ」
「見れば分かるよ」
「いや、そうじゃなくて」
ガロは自分の足元を見た。
「ちゃんと、外なんだ」
その言葉に、何も返せなかった。
彼は空を見上げ、それから人混みの向こうへ目を向ける。
「エマに会ってくる」
「ああ」
「もしまた、俺が誰か忘れてたら……」
そこで言葉が止まった。
俺は首を振った。
「その時は、もう一度探そう。でも、今は会いに行ってこいよ」
ガロは少し笑った。
「……ありがとう」
大きな身体が、王都の通りを走り出した。
今度は戻されない。
その後ろ姿が見えなくなるまで、俺たちは誰も声をかけなかった。
◇
ガロが外へ出られたという知らせは、すぐに通り中へ広がった。
二人目、三人目と境界を越え、そのまま王都側を歩いていく。
最初は恐る恐るだった足取りも、誰も引き戻されないと分かるにつれて軽くなっていった。
「本当に行ける!」
「向こうからも入れるぞ!」
「ちょっと市場を見てくる!」
「何か買ってきて!」
「金を渡してから言え!」
笑い声が上がった。
中には外へ出た途端、石畳へしゃがみ込んで泣き始める人もいた。
通りが再び王都の一部になったことを、理屈より先に身体で確かめているのだろう。
俺は少し離れた場所で、その様子を見ていた。
「笑ってるな」
リオルが隣に立った。
「そうか?」
「かなり」
「気のせいだろ」
「昔から、お前は自分の顔に興味なさすぎるんだよ」
「鏡を見ろって?」
「いや、今の顔は誰かに描いてもらいたいな」
「嫌だよ」
「あとで落ち込んだ時に見せてやれる」
「そんな使い方するなら、ますます嫌だ」
リオルは声を立てて笑った。
俺もつられて笑い、すぐに右腕の痛みで顔をしかめる。
「……大丈夫か?」
「ああ。笑うと響く」
「なら、少しは休め」
「お前が笑わせたんだろ」
「悪かったよ」
口では謝りながら、全然悪いと思っていない顔だった。
けれどリオルはそれ以上からかわず、再び出口へ目を向けた。
「……よかったな」
「ああ」
それだけで十分だった。
長い付き合いの中で、こいつとは何度もくだらない話をしてきた。
そのくせ、本当に大事な時には、案外言葉が少なくなる。
今もそうだった。
その時、王都側から女性の叫ぶ声が聞こえた。
「ガロ!」
俺たちは同時に振り返った。
◇
人混みの向こうから、一人の若い女性が走ってきた。
髪を乱し、息を切らしている。
その声を聞いたガロが振り向き、動かなくなった。
「……兄さん?」
エマだった。
名前を聞かなくても分かった。
ガロの顔が、そう教えていた。
「エマ」
彼は、はっきりと名前を呼んだ。
以前、妹の顔を一瞬だけ思い出した時は、すぐにその記憶を失ってしまった。
今は違う。
エマが走り寄り、二人は通りの真ん中で抱き合った。
「何してたのよ!」
エマが泣きながら叫んだ。
「急に連絡が取れなくなって、住んでた部屋も見つからなくなって、私、兄さんなんていなかったような気がして……」
「……悪かった」
「どうして謝るの!」
「分からん!」
「私も分かんないわよ!」
怒鳴り合っているのに、二人とも泣いていた。
ガロは妹の肩をつかみ、少し身体を離した。
「顔、見せてくれ」
「……何?」
「いいから」
エマは戸惑いながらも顔を上げた。
ガロはその頬を両手で包み、じっと見つめる。
「……覚えてる」
「何を?」
「お前の顔だ」
「そんなの当たり前でしょう」
ガロは首を横に振った。
「当たり前じゃなかったんだよ」
声が震えていた。
「目も、鼻も、笑った時の口元も、全部分からなくなった。名前だけは覚えてたのに、お前がどんな顔で笑うのか、どうしても思い出せなかったんだ」
エマは何も言わなかった。
ただ、兄の手を握った。
「……今は?」
「ああ。ちゃんと見えてる」
「じゃあ、忘れないでよ」
「努力する」
「そこは約束しなさいよ!」
ガロは泣きながら笑った。
「分かった。約束する」
エマはもう一度、兄へ抱きついた。
俺は二人を見ていた。
一度は返した接続が、目の前で再び失われた時のことを覚えている。
あの時ガロは、数秒でも妹の顔を思い出せたことが嬉しいと言った。
けれど、失われた直後の表情を見て、俺は本当にそれでよかったのか分からなくなった。
今、二人は互いの名前を呼び、抱き合っている。
あの数秒は、無駄ではなかったのだと思いたかった。
「……よかったですね」
リゼが隣で呟いた。
「ああ」
「セイン、泣きそうです?」
「お前は?」
「先に聞いたのは私です」
「ずるいな」
「セインの真似です」
横を見ると、リゼの目はすでに赤かった。
指摘するのはやめておこう。
俺の方も、人のことを言える状態ではなかったから。
◇
記憶の戻り方には、人によって大きな違いがあった。
デリクは家の前まで来た時、急に玄関の形を思い出し、その場で泣き崩れた。
パン屋の主人は店へ戻り、棚に並ぶパンを一つずつ確かめていた。自分が何年もここで働いてきたことを、手の動きが先に思い出したようだった。
亡くなった夫の名前を失っていた女性は、庭先でその名前を口にした途端、花鋏を持ったまま座り込んだという。
一方で、まだ戻らない記憶もあった。
戻った関係と、そこに伴う記憶が、必ずしも同じ速さで回復するわけではないらしい。
ティセラは住民の聞き取りを続け、返却前後の記録を照らし合わせていた。
「装置に保存されていた接続のうち、返せたものは確かにあると思う」
俺たちへ報告する声は慎重だった。
「ただ、失われた記憶が全部そのまま戻ったと考えるのは危険よ。接続が戻ったことで思い出せるようになった可能性もあるし、本人が新しく覚え直している部分もあるはずだから」
「つまり、元に戻った人と、戻りかけの人がいるってことか」
リオルが尋ねる。
「大まかにはそうね。でも、何が回復して何が残っていないかは、人によって違うの」
「じゃあ、引き続き調べる必要があるな」
「ええ。それと、強い頭痛や混乱がある人には休んでもらいたい。急に多くのことを思い出して、具合が悪くなる人もいるかもしれないから」
俺は頷いた。
成功したからといって、後片づけまで済んだわけではない。
返却された落とし物だって、持ち主が受け取るまでは仕事が終わらないのだ。
「……ところで、ネイは?」
近くで傷の手当てを受けている姿が見えた。
医者が肩の包帯を外し、傷口を確認している。
「お前、どうしてこれで歩いてたんだ?」
医者が呆れた声を出した。
「歩かないと帰れなかったから」
「そういう問題じゃない」
「じゃあ次は担架で来るよ」
「次があってたまるか!」
思わず笑ってしまった。
俺が近づくと、ネイはこちらに気づき、軽く手を上げた。
「お疲れ、返却士」
「お前こそ。肩は?」
「怒られた」
「傷の具合を聞いてるんだけど」
「結構痛いらしい」
「自分のことだろ」
「自分のことって、案外分からないんだよ」
相変わらずだった。
けれど、地下で聞いた言葉が気になっていた。
「……ネイ」
「何?」
「昨日、また間に合わないのは嫌だって言っただろ」
彼の表情が、ほんの少しだけ変わった。
「そんなこと言った?」
「言った」
「怪我してたからね。余計なこと喋ったのかも」
「本当のことだったんだろ」
ネイはすぐには答えなかった。
代わりに、包帯を巻いている医者へ顔を向けた。
「もうちょっと優しくできない?」
「動くな」
「……はい」
俺は無理に問い詰めなかった。
以前、似た現象の町で誰かを助けられなかったという話を聞いている。
それが何だったのか、まだ知らない。
ただ、ニコを助けた時も、地下で術式を守った時も、ネイは自分の怪我を後回しにしていた。
その行動まで嘘だとは思わなかった。
「今は聞かないよ」
俺が言うと、ネイが少し笑った。
「優しいね」
「治ったら聞く」
「全然優しくないじゃない」
「逃げるなら、せめて傷を治してからにしてくれ」
ネイは肩をすくめようとして、痛みに顔をしかめた。
「……検討する」
その返事だけは、妙に真面目だった。
◇
青鐘亭へ戻った時、食堂には温かい匂いが満ちていた。
厨房ではミレアが鍋をかき混ぜ、ニコはいつもの席に座っている。
昨日も見た光景だ。
けれど、昨日は二人の間に言葉にできない距離があった。
今はどうだろう。
「……セイン!」
ニコが俺を見つけ、椅子から飛び下りた。
「何してたの!」
「仕事だよ」
「遅い!」
「帰ってくるなりそれか」
「母さんが何回も外を見てたんだぞ」
俺はミレアを見た。
彼女は少し恥ずかしそうに笑う。
「帰ってきた人が食事を取らずに倒れたら困るでしょう」
「今日は倒れてませんよ」
「今日は、ね」
随分と信用を失ったものだ。
ニコが俺の右腕を見た。
「まだ痛い?」
「ああ。でも前よりましだ」
「だったら座って。俺、椅子持ってくる」
「お前の椅子はそこにあるだろ」
「俺のじゃなくて、セインの!」
ニコは得意そうに別の椅子を引いてきた。
俺はそれを受け取りながら、胸の奥が少し軽くなるのを感じた。
名前を呼んでくれた。
俺が誰なのか、思い出してくれている。
「……ニコ」
「何?」
「俺のこと、ちゃんと分かるんだな」
ニコは眉を寄せた。
「当たり前じゃん。セインだろ?」
「ああ」
「俺の靴、直してくれた人」
彼は右足を持ち上げて見せた。
「これ、まだ大丈夫だよ」
「今度は破れる前に持ってこいよ」
「分かってるって」
元気よく答えたあと、ニコはリゼを見た。
「あ、リゼもおかえり!」
その瞬間、リゼの表情が明るくなった。
「私のことも覚えてます?」
「覚えてるよ。名前の札、作ってくれたじゃん」
「……そうでしたね」
リゼは腰の真鍮札に触れた。
ニコが以前の記憶を取り戻したのか、それとも失った後に一緒に過ごした時間を覚えているのか。
今の会話だけでは、まだ分からない。
でも、どちらでもいいと思った。
少なくとも、今こうして相手を知っている。
「リゼ」
ニコが呼んだ。
「はい?」
「今度、もっと格好いい札も作ってよ」
「どんなのがいいですか?」
「剣の形!」
「そんなに大きいの、腰に下げたら歩きにくいですよ」
「小さい剣でいいよ」
「……考えておきます」
リゼは笑った。
俺は二人を見てから、厨房のミレアへ目を向けた。
まだ確かめたいことが残っていた。
「ニコ」
「何?」
「ミレアさんは?」
ニコは当然のように振り返った。
「母さんだよ」
言い終えてから、彼は不思議そうにこちらを見る。
「何でそんなこと聞くの?」
俺は答えられなかった。
ミレアも、鍋をかき混ぜる手を止めている。
「……ニコ」
母親が呼んだ。
「何?」
ニコは振り向いた。
ミレアは少し迷ったあと、尋ねた。
「今日の夕飯、何が食べたい?」
「卵!」
「また?」
「だって好きなんだもん」
「野菜も食べなさいよ」
「さっき食べた!」
「一枚だけでしょう」
ニコは口を尖らせた。
「どうして知ってるの?」
「見てたからよ」
「ずるい!」
ミレアが笑った。
笑いながら、目元を押さえた。
ニコは怪訝そうに顔を上げた。
「……母さん?」
「何でもないの」
「また泣いてる?」
「少しだけ」
「何で?」
ミレアは答えず、息子の髪を撫でた。
ニコはされるがままになっている。
母親の手を、もう知らない人のものとして怖がることはなかった。
俺は静かに息を吐いた。
記憶がどこまで戻ったのかは分からない。
けれど、この二人は再び母と息子として同じ食卓にいる。
昨日、互いを忘れたまま手を握り直した時間も、無意味ではなかったのだ。
「セイン」
ミレアが顔を上げた。
「ありがとう」
「……まだ、全部解決したわけじゃありません」
「分かってるわ」
彼女は頷いた。
「でも、今日はありがとうって言わせて」
俺はしばらく黙ったあと、頭を下げた。
「……はい」
その言葉を、今は素直に受け取ろうと思った。
◇
食堂を出ると、青鐘通りは夕食の時間を迎えようとしていた。
店の戸を閉める音が聞こえ、窓からは料理の匂いが漂ってくる。外から帰ってきた住民たちが、互いに今日の出来事を話していた。
「普通ですね」
リゼが言った。
「ああ」
「こんなに大変だったのに、元に戻ったら本当に普通なんですね」
彼女は少し不思議そうだった。
俺も通りを見渡した。
買い物帰りの男が荷物を落とし、そばにいた人が拾ってやっている。
通りの端では子供が走り、店主が危ないと叱っていた。
誰も世界の帰属について考えているようには見えない。
それでいいのだと思った。
「普通に戻すためにやったんだろ」
俺が言うと、リゼは少し考えた。
「……そうですね」
「毎日、何か大事件が起きてたら困るよ」
「セインは仕事がなくなりますね」
「普通の落とし物くらいは残るだろ」
「そっちは残ってほしいんですか?」
「生活がかかってるからな」
リゼは笑った。
その笑い声を聞くと、妙に安心する。
最初に出会った頃、彼女は自分の名前さえ持っていなかった。
今は真鍮札を腰に下げ、俺の隣を歩いている。
失ったもののすべてが戻ったわけではない。
それでも、自分で選んだ名前で笑えるようになった。
「……セイン」
「何?」
「一つ、言い忘れてません?」
「何を?」
「私へのお礼です」
「さっき言っただろ」
「言いましたけど、ちゃんと褒めてくれてないです」
「そこ、別勘定なのか」
「もちろんです」
リゼは胸を張った。
俺は思わず笑った。
「分かった。ちゃんと言うよ」
少し考えてから、彼女へ向き直る。
「お前がいなかったら、失われたものの痕跡に気づけなかった。地下でも、俺には分からない違和感を何度も教えてくれた」
リゼは黙って聞いていた。
「怖いこともあっただろうに、最後まで自分で考えて動いてくれた。本当に助かったよ」
「……はい」
「だから、ありがとう」
彼女はすぐには返事をしなかった。
珍しいこともあるものだ。
やがて、少しだけ頬を赤くして笑った。
「どういたしまして」
それだけだった。
いつものように冗談を重ねるわけでも、得意そうに言い返すわけでもない。
ただ嬉しそうに笑っている。
その表情を見て、俺は妙な気持ちになった。
最近、リゼが笑っていると安心する。
それは分かっていた。
けれど、今はその笑顔をもう少し見ていたいと思ってしまった。
どうしてなのか考えかけて、やめた。
今すぐ答えを出さなくてもいいことだってある。
「……何です?」
リゼが俺の顔を覗き込んだ。
「何でもない」
「またそれですか」
「便利な言葉だからな」
「ずるいですね」
彼女は少し不満そうにしたあと、また歩き始めた。
「お腹空きました」
「さっき青鐘亭にいたのに?」
「ニコたちの邪魔をしたくなかったので」
「じゃあ、パン屋でも行くか」
「蜂蜜焼き、ありますかね」
「ニコが好きなやつ?」
「私も好きになりました」
「いつ食べたんだよ」
「秘密です」
俺は笑った。
こういうところは、何が起きても変わらないらしい。
それが、今はありがたかった。
◇
パン屋へ向かう途中、広場を横切った。
人々はそれぞれ家路へ向かい、夕方の光が石畳を長く照らしている。
広場の端には、木製の椅子が一脚残されていた。
その前を通りかかった時、俺の足が止まった。
「……セイン?」
リゼも立ち止まる。
椅子のそばには、小さな盤遊びの台がある。
ここには、以前誰かが座っていた。
俺たちはその人と話し、何かの約束を交わしたはずだった。
夜にまた来る。
盤を挟んで勝負をする。
そんなことを、確かに約束した。
けれど、相手の名前が思い出せない。
顔も、声も、どんなふうに笑ったのかさえ分からなかった。
俺は鞄から木製の駒を取り出した。
誰のものだったのか分からないまま、ずっと持っているものだ。
「……まだ、戻ってないんですね」
リゼが静かに言った。
「ああ」
彼女は真鍮札を一枚取り出した。
そこには、失われたものについて以前書き留めた言葉が残っている。
『広場にいた誰か』
『盤遊びが好きだった』
『セインと約束があった』
文字は消えていない。
しかし、それを読んでも、相手の顔は浮かばなかった。
「名前が分からないと、探すのも難しいな」
俺は呟いた。
「でも、何かがなくなったことは分かります」
リゼは空いた椅子を見つめていた。
「私にも、そこに大きな欠落があるように感じます。何があったのかまでは分からないですけど」
「ああ」
俺は駒を握り直した。
青鐘通りは戻った。
ガロはエマと再会し、ミレアとニコも再び同じ食卓にいる。
多くの住民が、昨日まで失っていたものを取り戻し始めていた。
それなのに、この椅子だけは空いたままだ。
第三保全槽のことが頭をよぎった。
取り外された容器に何が入っていたのか、誰が持ち去ったのかは分かっていない。
ここに座っていた誰かの消失と関係があるのか、それすらまだ確かめられなかった。
俺は木の駒を鞄へ戻した。
「……行こうか」
リゼがこちらを向いた。
「いいんですか?」
「今、ここで考えても答えは出ない。明日、ティセラたちと続きを調べよう」
「はい」
彼女は頷き、先に歩き始めた。
俺も後に続いた。
全部が戻ったわけではない。
その事実を忘れるつもりはなかった。
けれど、戻ったものを喜ぶことまで、我慢する必要はないはずだ。
通りの向こうから、焼きたてのパンの匂いが流れてくる。
リゼがそれに気づき、歩調を少し速めた。
「セイン、蜂蜜焼きが売り切れるかもしれません」
「走るなよ」
「セインじゃないんですから」
「俺が言われる側だったのに」
彼女は振り返って笑った。
俺も、その後を追う。
誰かが仕事を終え、誰かが家へ帰り、誰かが夕飯のためにパンを買う。
何でもない一日が、また青鐘通りに戻ってきた。
その普通の景色を守れたことが、今は何より嬉しかった。




