第三十五話 〈返却〉
地下へ続く階段の途中で、俺は足を止めた。
右腕にはまだ鈍い痛みが残っている。先日、青鐘通りそのものを返そうとして失敗した時の反動だ。階段を下りるたびに肘の奥が痺れるが、今のところ歩くのに支障はない。
それでも足が止まったのは、痛みのせいではなかった。
「セイン?」
数段下からリゼが振り返った。
「どうしました?」
「……少し怖くなった」
口にしてみると、思っていたより普通の言葉だった。
リゼは一瞬きょとんとして、それから俺の隣まで戻ってきた。
「珍しいですね」
「怖がることが?」
「怖いって、ちゃんと言ってくれることがです」
俺は手すりに左手を置いた。
これから試すのは、百人近い住民と王都とのつながりを取り戻すための〈返却〉だ。正確には、今まで地下施設に預けられていたいくつもの帰属接続を、元の場所へ戻そうとしている。
成功する保証はない。
まして、これほど多くの対象を一度に扱った経験など、一度もなかった。
「前は自分一人で何とかなると思って失敗したからな。今度は、ほかの人まで巻き込むかもしれない」
リゼは黙って聞いていた。
「もし間違えたらと思うと、さすがに怖い」
「……よかった」
「何が?」
「怖いって思ってくれて」
予想外の返事だった。
「安心するところじゃないだろ」
「安心しますよ。前のセインなら、怖くても何も言わずに進んでいたでしょう?」
否定できなかった。
少し下から、リオルの声が聞こえる。
「昔からそうだぞ、こいつ。平気な顔で無茶をして、あとから自分だけ痛い目を見てる」
「聞こえてるぞ」
「聞こえるように言ってるんだ」
リオルは笑ったが、その目は真剣だった。
「今回は俺たちにも仕事がある。お前だけで全部背負うなよ」
「分かってる」
「本当か?」
「……そこまで信用ない?」
「右腕を見ろ」
実に説得力のある返答だった。
リゼが笑い、俺も思わず肩の力を抜いた。
「行こうか」
「はい」
彼女は先に階段を下り始めた。
俺はその背中を追いながら、今度は一人じゃないという当たり前のことを、改めて胸に刻んだ。
◇
地下施設では、ティセラがすでに準備を進めていた。
石台の周りには、これまで彼女が書き写した術式の記録が並んでいる。線と印を使って接続関係が整理され、中央から部屋の反対側へ、いくつもの紙が並べられていた。
保全槽の棚には、十一基の容器が収まっている。
本来は十二基だった。
三番目の固定具だけが空いたままで、そこに何が保存されていたのか、誰が持ち去ったのかも分かっていない。
「遅かったわね」
ティセラが顔を上げた。
「怪我人には優しくしてほしい」
「怪我を増やさない努力をしてくれたら、考えてあげる」
「検討の余地はあるんだな」
「ほとんどないわ」
彼女は俺の右腕を一度確かめてから、机の上の記録へ視線を戻した。
「作戦を説明する前に、悪い話があるの」
「できればいい方から聞きたいんだけど」
「残念ながら、そっちはまだ確定してない」
ティセラが指したのは、第三保全槽の空いた場所だった。
「今日、ここに残された接続を全部返せたとしても、取り外された保全槽に保存されていたものまで戻るとは限らないわ」
「……やっぱりそうか」
「中身も、持ち去られた目的も不明。あそこに何も残っていない以上、この施設だけでできることには限界がある」
俺は空の固定具を見た。
広場で誰かが消えた後、俺たちはその人物の名前も顔も思い出せなくなった。
木製の盤遊びの駒だけが残り、誰のものだったのかも分からない。
あれと第三保全槽が関係しているのかは不明だが、消えたものすべてがここに保存されていると考えるのも危険だった。
「分かった。今あるものを返すことに集中しよう」
ティセラは頷いた。
「そのための方法を考えたわ」
彼女が二枚の術式の写しを並べる。
「最初に、装置を止めるだけでは駄目なの。接続が切り離されたまま固定される可能性があるから」
「じゃあ、どうする?」
「一度、保管されているものを取り出せる状態にする。預託の封を開いて、保持されている接続を〈返却〉で扱えるようにするのよ」
「倉庫を開けて、預かった荷物を取り出す感じか」
「そう考えてもらって構わないわ。ただ、開けたまま放置すれば安全というわけでもない」
ティセラは石台の中央と、反対側の壁にある差込口を示した。
「境界調査札を二枚、同時に使う必要があるの」
リオルが腰の革袋を開いた。
中から取り出したのは、二枚の古い調査札だった。
七・二八五。
七・二八六。
これまでも、地下と地上の出入りを調べるために使ってきたものだ。二枚ともリオルが管理しており、使用するとき以外は常に一緒に保管している。
「俺が持ってきた。どっちを使う?」
ティセラは番号を確かめた。
「七・二八五を中央へ。七・二八六は奥の差込口にお願い」
「了解」
リオルは七・二八五をティセラへ渡し、もう一枚を自分の手に残した。
「終わったら二枚とも回収するからな。返し忘れたら警備隊の書類仕事が増える」
「世界が戻っても、役所の仕事は減らないらしいな」
「お前の職場も同じだろ」
その通りだった。
ティセラは石台へ近づき、差込口の形をもう一度確認した。
「二人が同時に札を差し込めば、預託の封を開く操作ができるはずよ。でも、一度開いたものをどう制御するかは、まだ完全には分かっていない」
「危険はあるってことか」
「あるわ。だから、おかしな反応が出たら中断する。いい?」
ティセラは俺を見た。
続いてリゼとリオルにも視線を向ける。
俺たちは頷いた。
「それから、セイン。返却先は決めつけないで。青鐘通りという場所に全部戻せばいいわけではないんだから」
「ああ。一人ひとりの接続先は違う」
「住民から集めた記録は、そのための手がかりになるはずよ。ただ、記録があるからといって、それだけで正しい帰属先が確定するわけじゃない」
「分かってる」
俺は答えてから、リゼへ目を向けた。
「お前の方は、どうだ?」
「何がです?」
「空白のこと。ここで何か感じるか?」
リゼは少し考え、石台の周囲を見回した。
「まだ、はっきりしません。前より痕跡が集まっているようには感じますけど、それが何の跡なのかは……」
彼女は言葉を選び直した。
「ただ、もし封を開いたことで何か変化があれば、気づけるかもしれません」
「十分だ」
「何を見ているのか、間違えてしまうかもしれませんよ?」
「その時は、みんなで確かめればいい」
リゼは一瞬驚いたあと、少し笑った。
「……最近のセイン、相談上手ですね」
「その褒め方は初めて聞いた」
「いい意味ですよ」
俺たちが話している間に、リオルは反対側の足場を確かめていた。
下には暗い水路が流れている。足場は一人が歩ける程度の幅しかなく、表面には湿気が残っていた。
「こっちは俺に任せろ」
「滑るなよ」
「〈均衡〉がある。足元を安定させるくらいなら得意だ」
「無理に空間ごと動かそうとするなよ」
「できるか、そんなこと」
リオルは呆れたように答え、足場へ踏み出した。
固有術〈均衡〉は、身体や物の釣り合いを安定させる力だ。
どんな場所でも自由に歩けるわけではないが、こうした狭い足場では頼りになる。
俺はその背中を見送り、ふと周囲を見回した。
「……ネイは?」
返事はなかった。
さっきまで入口の近くにいたはずなのに、いつの間にか姿が消えている。
「またか」
リオルが顔をしかめた。
「あいつ、こういう時に限っていなくなるな」
「探し物でもしてるんじゃないですか?」
リゼが言う。
「何を?」
「そこまでは……」
俺も答えを持っていなかった。
ネイが何を考え、何のために青鐘通りへ来たのかは、まだよく分からない。
それでも、ニコが消えかけた時、あいつは自分の身を危険にさらして助けに入った。
右腕を負傷してまで、ためらわずに。
あの行動まで疑うつもりはなかった。
「来ると思う」
俺が言うと、リオルがこちらを見た。
「信用してるのか?」
「全部は信用してない」
「なら、どうして?」
「……あいつが、ニコを助けたことは本当だから」
リオルは何か言いかけたが、結局それ以上は尋ねなかった。
◇
準備が整ったのは、それから少し後だった。
ティセラは中央の石台へ立ち、リオルは反対側の差込口で待機している。
俺とリゼは、封が開いた時に接続の痕跡を確認できるよう、石台の近くへ移動した。
「始める前に、一つだけ」
リゼが言った。
「何?」
「もし、私が何も感じられなかったら?」
「その時は、別の方法を考える」
「時間がないですよ」
「分かってる。でも、感じられないものを感じろって言っても仕方ないだろ」
彼女は少し眉を寄せた。
「セインは?」
「俺?」
「今度は、ちゃんと待てますか?」
俺は右腕へ目を落とした。
まだ痛い。
それが、何より分かりやすい教訓だった。
「待つよ。勝手には使わない」
「約束ですね」
「ああ」
リゼは頷き、石台へ向き直った。
その指先が震えている。
怖いのは俺だけではなかった。
「リゼ」
「はい?」
「頼りにしてる」
彼女は顔を上げた。
「……それ、ずるいです」
「何が?」
「そんなこと言われたら、頑張るしかなくなるじゃないですか」
「無理はするなよ」
「頑張るのと、無理するのは違います」
俺は思わず笑った。
確かに、そうだった。
「始めるわよ!」
ティセラの声が響いた。
石台の表面で、細い赤い線が光り始める。
「リオル!」
「準備できてる!」
「三つ数えたら、同時に!」
部屋の空気が張り詰めた。
ティセラが数を数える。
三。
二。
一。
離れた二つの差込口へ、境界調査札が同時に差し込まれた。
石台の奥から重い音が響き、赤い光が床を走り始める。
最初は細かった線が枝分かれし、壁や天井へ広がっていった。長く眠っていた仕組みが、ひとつずつ動き始めたようだった。
俺は息を呑んだ。
「……開いてる?」
ティセラは術式の文字を追いながら答えた。
「一部は。でも、まだ完全じゃない」
リゼが一歩踏み出した。
「……待ってください」
「何か見えた?」
「あります。さっきより、ずっとたくさん」
彼女は部屋の中央を見つめていた。
俺にはただ赤い線が広がっているように見えるだけだ。
「どういうものだ?」
「いろんな場所に、何かが抜け落ちたような跡があります。重なっているところもあるし、途中で途切れているように感じるところも……」
リゼは額へ手を当てた。
「多すぎて、うまく説明できません」
「全部を見ようとするな。気になるところからでいい」
「……はい」
その返事は弱かった。
俺は肩に触れようとして、途中で手を止めた。
今は彼女に集中してもらう方がいい。
「ティセラ、状態は?」
「封は開き始めてる。でも、下段にまだ閉じた術式が残ってるわ」
「どこだ?」
「今、確認してる!」
彼女の声に焦りが混じっていた。
赤い線の奥で、別の模様がゆっくり光を帯び始める。
その時、部屋の奥から金属が擦れる音がした。
◇
最初に反応したのはリオルだった。
狭い足場の向こう、暗い通路に人影が立っている。
黒い外套を着た人物だった。
「……またお前か」
リオルの声が変わった。
以前、地下で追いかけた人影とよく似た体格をしている。ただし、同一人物かどうかはまだ分からない。
相手は何も答えなかった。
代わりに腰から小さな金属片を取り出し、石台へ向かって投げた。
「伏せて!」
ティセラの声と同時に、俺はリゼの肩を引いた。
金属片が石台の縁へ当たり、甲高い音を立てる。
その直後、広がっていた術式の線が激しく揺れた。
「何をされた!」
「閉鎖の操作を入れられた!」
ティセラが叫んだ。
「このままだと、開きかけている接続がもう一度閉じ込められる!」
彼女は石台の刻印を確かめながら、術式の動きを食い止めようとしていた。
リオルは剣を抜き、濡れた足場を走った。
踏み込むたびに身体の重心を調整し、狭い場所でも速度を落とさずに相手へ近づいていく。
刃がぶつかった。
地下室に金属音が響き、黒い外套の人物が一歩退く。
「リオル、無理するな!」
「こっちは任せろ!」
返事は短かった。
俺は石台へ視線を戻す。
赤い線が少しずつ薄くなっていた。
「セイン、空白が……!」
リゼが声を上げる。
「消えるのか?」
「さっきまで感じていたところが、また遠くなってます!」
焦りが胸へ広がった。
今ここで〈返却〉を使いたくなる。
しかし、封が閉じている状態で術を使っても、保存された接続へ正しく届く保証はない。
それどころか、再び不適合の反動を受けるかもしれなかった。
ティセラは装置を調べ、リオルは襲撃者を防いでいる。
リゼは失われた痕跡を見失わないよう、必死に確かめている。
俺だけが、まだ何もできない。
その事実が苦しかった。
それでも、手は伸ばさなかった。
昨日、仲間と約束したのだ。
自分一人で何とかしようとしないと。
「……遅くなった」
背後から声がした。
振り返ると、ネイが立っていた。
「どこへ行ってた!」
俺が尋ねると、彼はいつもの調子で肩をすくめた。
「ちょっと探し物」
「こんな時にか?」
「こんな時だからだよ」
それ以上は説明しなかった。
ネイは石台を見て、すぐに状況を察したらしい。
「閉じられそうなの?」
「ああ。ティセラが押さえてるけど、向こうの奴が何か仕掛けた」
「なるほどね」
軽い返事だった。
けれど、その目だけは笑っていない。
ネイは石台の反対側へ回ると、手の届く範囲で金属片の位置を確かめ始めた。
「おい、危ないぞ!」
「知ってる」
彼は振り返らなかった。
◇
術式の線が、突然大きく揺れた。
黒い外套の人物が、再び金属片を取り出したのだ。
リオルが剣で腕を弾こうとする。
しかし相手は身体をひねり、もう一枚を石台へ投げた。
「まずい!」
ティセラの声が響いた。
その直後、ネイが動いた。
彼は石台の前へ飛び出し、飛んできた金属片の軌道へ身体を入れた。
鈍い音がした。
ネイの肩から血が流れる。
「ネイ!」
俺が叫ぶと、彼は片膝をついたまま顔を上げた。
「……痛いな、これ」
「何やってるんだ!」
「邪魔した」
「見れば分かる!」
血は止まらない。
以前ニコを助けた時には右腕を負傷している。その傷も、完全に治っているとは思えなかった。
俺は駆け寄ろうとしたが、ネイが手を上げて止めた。
「そっち、やって」
「でも、お前……!」
「今やめたら、また閉じるんだろ」
その声には、いつもの軽さがなかった。
ネイは石台の方を見た。
「……また間に合わないのは、嫌なんだよ」
一瞬だけ、誰も言葉を返さなかった。
以前にも、似た現象が起きた町で誰かを助けられなかったと言っていた。
その出来事が今の行動とどうつながっているのか、俺は知らない。
だが、ネイが何かを思い出し、それを繰り返したくないと思っていることだけは伝わってきた。
「セイン!」
リオルの声が飛ぶ。
剣で相手を押し返した直後、黒い外套の人物が奥の通路へ退いた。
「追うか!」
俺は一瞬迷った。
犯人を捕まえたい。
誰が装置を動かし、何のために青鐘通りを切り離したのか、今すぐ問いただしたかった。
だが、目の前では術式の封が開きかけている。
「追うな! 今はこっちを頼む!」
「……了解!」
リオルは剣を構えたまま、通路を警戒する位置へ戻った。
相手の足音が遠ざかっていく。
逃がした悔しさは残った。
しかし、今の俺たちには先に守るべきものがあった。
「ティセラ!」
「もう少し!」
彼女は石台に残る術式を追い、下段の封を慎重に開いていた。
やがて、赤い線の形がゆっくり変わり始める。
「……開いた!」
ティセラが叫んだ。
次の瞬間、部屋の空気が変わった。
◇
石台から広がっていた赤い光が薄れ、その代わりに白い光が浮かび上がった。
最初は細い線に見えた。
それが一本、また一本と増え、部屋の中いっぱいに広がっていく。
俺にも見えた。
白い糸のようなものが、天井や壁へ向かって伸びている。
「……何だ、これ」
思わず呟く。
リゼは俺の隣で目を見開いていた。
「さっき感じた空白の近くに、何かが現れてます」
「これが接続なのか?」
「分かりません。でも、何かが欠けていたところに、今は別のものがあるように感じます」
彼女は慎重に言葉を選んだ。
白い糸が見えるからといって、どこから来て誰とつながっていたものなのかまで分かるわけではない。
ティセラが石台の記録を確認する。
「預託状態が開いた。少なくとも、保存されていた接続を術で扱える状態になっているはずよ!」
俺は白い光を見つめた。
住民から集めた記録が頭に浮かぶ。
毎週市場へ通っていた男。
亡くなった息子を思い出すため、北門へ行っていた老婆。
毎朝、朝日を見に遠回りしていた女性。
妹の顔を忘れたガロ。
そして、ミレアとニコ。
みんな、違う場所で違う時間を生きてきた。
それぞれに大切なものがあって、誰かと出会い、別れ、また家へ帰ってきた。
白い光のすべてが、その記録と対応しているかどうかは分からない。
だが、ここにあるものが、切り離されていた帰属接続なのだとしたら。
俺たちが探してきたものは、今この場所にある。
「セイン!」
リゼが手を伸ばした。
「こっちです。さっきまで特に大きな空白を感じていたところが、変わっています!」
彼女の指す方向へ進む。
白い線がいくつも重なる場所だった。
「何があるか分かる?」
「いいえ。でも、ほかとは違う感じがします」
俺は慎重に左手を伸ばした。
指先が白い光へ触れた瞬間、何かの存在を認識するような感覚があった。
物を拾った時とも、普通の返却票が現れる時とも違う。
だが、ガロとエマの接続を返した時の感触には似ていた。
「……届くかもしれない」
俺は呟いた。
「ティセラ、どう思う?」
「対象として認識できるなら、可能性はあるわ。ただし規模が違いすぎる。反動がどれくらいになるかは分からない」
「分かってる」
「少しでも異常があれば、すぐに止めて」
「ああ」
俺はリオルの方へ顔を向けた。
「そっちは大丈夫か!」
「通路は押さえてる! やれ、セイン!」
ネイは壁に背を預け、肩の傷を押さえていた。
「お前も大丈夫か?」
「今のところはね」
「無理するなよ」
「それ、君が言う?」
いつもの軽口が戻っていた。
血の気の引いた顔を見れば、平気なはずがない。それでも彼は、こちらへ向かって片手を上げた。
俺はもう一度、白い光へ向き直った。
怖さは消えていない。
今でも、間違えたら何が起きるのか分からない。
けれど、今回はここまで来るために、みんながそれぞれの役割を果たしてくれた。
その事実が、俺の背中を支えていた。
「……やるぞ」
リゼが頷いた。
「はい」
俺は白い光へ左手を当てた。
「〈返却〉」
術が動いた。
◇
白い返却票が、目の前に浮かび上がった。
『返却対象:帰属接続群』
そこまでは、俺が認識していたものと一致している。
しかし、次の行を見て息が止まった。
『返却先:』
何も書かれていなかった。
「……空白?」
リゼが覗き込む。
俺は頷いた。
返却先が示されない。
青鐘通りを王都南三区へ返そうとした時は『不適合』と出た。
今回は、正しい帰属先をまだ特定できていないのかもしれない。
焦りかけたところで、ティセラの声を思い出した。
返却先は一つではない。
百人近い人々の人生は、決して同じ場所へつながっていたわけではないのだ。
俺は返却票を見つめ直した。
青鐘通りへ返す?
いや、それでは以前と同じだ。
王都へ返す?
それも違う。
青鐘通りは多くの人にとって帰る場所だが、彼らのすべての関係の帰属先ではない。
「……一つじゃないんだ」
呟いた声が、自分でも驚くほど静かに聞こえた。
住民から集めた紙には、何百もの行き先が書かれていた。
学校、市場、仕事場、親戚の家。
亡くなった人を思い出す墓地や、ただ朝日が綺麗だからという理由で通った道まである。
どれも、誰かの人生の一部だった。
それらを全部、一つの場所へ押し込む必要などない。
「セイン?」
リゼが俺を見る。
「俺、また同じ間違いをするところだった」
「何がです?」
「全部を、青鐘通りに返そうとしてたんだ」
俺は白い光を見つめた。
「でも、みんなが失ったのは、それぞれ別のつながりだ。だったら、元々つながっていた先も、一つじゃない」
ティセラが顔を上げた。
「……原接続点を、それぞれ別に指定するつもり?」
「できるかどうかは分からない。でも、接続群として預けられているなら、元のつながりを一つずつ識別する仕組みが残っているかもしれない」
俺は彼女を見た。
「どう思う?」
ティセラは少し考え、術式の記録を確かめた。
「理屈としてはあり得るわ。預託されている接続が元の帰属先の情報を保持しているなら、その情報を使える可能性がある」
「全部を一度に返せる?」
「保証はないわ。ただ、一つの場所へまとめて返すよりは筋が通っていると思う」
俺は頷いた。
何度も確認してきたことだ。
帰属先は、誰かの都合で決めるものではない。
そこへ確かにつながっていたという事実が、返却の手がかりになる。
「……それぞれ、元の場所へ帰れ」
白い光に向かって、静かに告げた。
返却票の空白が揺れた。
俺は息を止める。
やがて文字が浮かび上がった。
『返却先:原接続群』
胸の奥が熱くなった。
ただし、これだけで成功したと決まったわけではない。
術式の中に保存されているものだけを対象に、元の帰属先へ戻す。
それが今、俺にできることだった。
「ティセラ!」
「封は開いてる! 今なら大丈夫!」
「リオル!」
「こっちは任せろ!」
リゼが俺の隣へ立った。
「セイン」
「何?」
「一人じゃないですよ」
その言葉に、俺はようやく笑えた。
「ああ。知ってる」
白い返却票へ意識を集中させる。
「……返せ」
光が動いた。
◇
最初の一本が、壁の向こうへ伸びていった。
続いて別の線が天井へ向かい、さらにいくつもの光が違う方向へ流れ始める。
どれも同じ場所へ向かうわけではない。
それぞれが、かつて結ばれていた先を探すように離れていく。
俺は左手を伸ばしたまま、動かなかった。
腕の内側から熱が広がる。
前回のように身体を拒絶される痛みではない。それでも、これほど多くの接続を一度に扱う負担は想像以上だった。
「セイン、大丈夫ですか?」
リゼが声をかける。
「……まだ、いける」
「無理してません?」
「限界が来たら言う」
「絶対ですよ」
「ああ」
彼女は少しだけ俺の腕を支え、すぐに手を緩めた。
ティセラは石台の前で術式を維持している。
反対側では、リオルが差込口を押さえながら暗い通路を警戒していた。
ネイは血のにじむ肩を押さえ、それでもこちらを見守っている。
誰も、俺だけに仕事を押しつけてはいない。
そのことがありがたかった。
白い光が少しずつ減っていく。
いくつもの線が壁や天井の向こうへ消え、やがて最初に見た時の半分ほどになった。
俺には、どの光が誰の接続だったのかは分からない。
ガロとエマの関係が戻ったのか、ミレアとニコの記憶がどれほど回復するのかも、ここからでは確かめられなかった。
それでも、術は止まらずに動いている。
失敗を知らせる文字も現れなかった。
「……もう少し」
息を整えながら呟く。
「あと少しです」
リゼが答えた。
最後の数本になったところで、右腕の奥に鋭い痛みが走った。
思わず顔をしかめる。
「セイン!」
「大丈夫。右腕の古い痛みが出ただけだ」
「本当に?」
「左手は離してない」
リゼは心配そうだったが、俺の様子を確かめてから頷いた。
今度は、自分だけが痛い目に遭えばいいとは思っていない。
帰るべき場所へ帰るためにも、まず俺自身がここから無事に戻らなければならないのだ。
やがて最後の光が動いた。
石台の奥へ消えていくものもあれば、壁の向こうへ流れていくものもある。
白い返却票の文字が薄れ、少しずつ透け始めた。
俺はそれを見届けてから、ようやく手を離した。
身体の力が抜ける。
「……終わった?」
リゼが尋ねた。
「たぶん」
彼女が眉を寄せた。
「その言い方、禁止したいです」
「まだ地上を確かめてないだろ」
「……それは、そうですね」
俺は石台の前へ腰を下ろした。
足に力が入らない。
けれど、意識ははっきりしていた。
少なくとも、前のように倒れることはなさそうだ。
リゼが隣へ座った。
「お疲れさまです」
「お前もな」
「私、そんなに働いてませんよ」
「そんなことない。お前がいなかったら、どこに痕跡があるのか分からなかった」
リゼは一度目を伏せた。
「……そうですか」
「ああ」
少し黙ったあと、彼女は小さく笑った。
「じゃあ、役に立てたんですね」
「十分すぎるくらい」
その時になって、リゼの頬に涙が流れていることに気づいた。
「……泣いてるぞ」
「今、言います?」
彼女は慌てて目元へ触れた。
「別に、泣くつもりじゃなかったんですけど」
「俺も、ちょっと安心した」
「ちょっと?」
「かなり」
リゼは涙を拭いながら笑った。
俺も笑いかけたところで、リオルが戻ってきた。
「お前ら、何してる?」
「休憩」
「……そうか」
リオルは俺たちを見下ろし、それ以上は何も言わなかった。
ただ、少しだけ目元を擦っている。
「リオル」
「何だ」
「お前も泣いてる?」
「見間違いだ」
「そうか?」
「そうだ」
昔から付き合いの長い相手だ。
今くらいは、その言葉を信じてやってもいい。
「七・二八五は?」
俺が尋ねると、リオルはティセラへ顔を向けた。
「そっちの札、抜いても大丈夫か?」
「封の状態を確認してからにして。急に抜くとどうなるか分からない」
「了解」
リオルは二枚の調査札をそのまま管理し、ティセラが安全を確認するのを待った。
やがて装置の光が完全に落ち着いたところで、中央と反対側から札を抜き取り、二枚とも革袋へ戻した。
「よし。これで紛失はなし」
「お前が一番返却士向きかもしれないな」
「仕事は譲るよ」
そう言って笑う顔を見て、ようやく少しだけ日常に戻った気がした。
◇
地上へ戻る前に、俺は保全槽の棚をもう一度確かめた。
十一基の容器は静かになっている。
さっきまで浮かんでいた光も、今はほとんど見えなかった。
ただし、三番目の固定具は空のままだ。
そこにだけ、変化がなかった。
「……やっぱり、全部じゃないんだな」
俺が呟くと、ティセラが隣へ来た。
「ええ。今回返せた可能性があるのは、この施設に残っていたものだけよ。第三保全槽の中身については、まだ何も分からない」
「ここから持ち去られたものは、別に探さないといけないかもしれない」
「そうね」
俺は空の固定具を見つめた。
青鐘通りが元に戻ったとしても、すべてが解決したとは限らない。
誰かがここへ来て装置を操作した理由も、持ち去られた容器の行方も不明だ。
あの黒い外套の人物も逃げたままだった。
ネイが肩の傷を押さえながら近づいてくる。
「……まだ何かあるの?」
「第三保全槽のことを考えてた」
「ああ、あれね」
彼は空の場所を一度見た。
その目つきが変わったように感じたが、すぐにいつもの表情へ戻ってしまった。
「何か知ってる?」
俺が尋ねると、ネイは少し考えた。
「知らないことの方が多いよ」
「そういう答え、便利だな」
「本当だからね」
それ以上は何も言わなかった。
俺も今は追及しなかった。
まずは地上へ戻り、青鐘通りがどうなったか確かめる必要がある。
「ネイ、肩は大丈夫か?」
「大丈夫、とは言えないかな」
「だったら早く医者に診せろ」
「出られるようになってたらね」
ネイは傷口を押さえたまま、軽く笑った。
血はまだ止まりきっていない。
俺はティセラに応急処置を頼み、ネイ自身にも無理に歩かないよう伝えた。
その後、全員で階段へ向かった。
俺が立ち上がると、リゼがすぐに隣へ来る。
「歩けます?」
「ゆっくりなら」
「なら、ゆっくり歩いてください」
「分かってる」
先頭はリオルだった。
足場や階段の安全を確かめながら進み、後ろから俺たちが続く。
階段を上がるにつれて、地下の湿った空気が少しずつ薄れていった。
そして途中で、音が聞こえた。
鐘だった。
青鐘通りの古い鐘が、遠くで鳴っている。
いつもなら、それだけで何も気にしなかっただろう。
けれど今は、少し違った。
鐘の音の向こうから、別の音が聞こえてくる。
荷車の車輪が石畳を走る音。
遠くで犬が吠える声。
誰かが店先で笑っている声。
青鐘通りの中だけではない。
王都の向こう側から、音が流れ込んできている。
「……セイン」
リゼが足を止めた。
「聞こえますか?」
「ああ」
彼女は目を見開いていた。
リオルも階段の途中で振り返り、しばらく耳を澄ませた。
「外の音だな」
「そうだな」
俺たちは顔を見合わせた。
まだ出口を確かめたわけではない。
住民が実際に外へ出られるかどうかも分からないし、失われた記憶がどこまで戻ったのかも確かめていない。
それでも、何日も欠けていた王都の音が、今は青鐘通りまで届いていた。
俺は階段の上へ目を向けた。
地下で失われた接続を追い続けた時間が、急に長いものだったように感じられた。
「……行こう」
リゼが頷いた。
誰も急かさなかった。
今度は、何かが戻っているかもしれないという期待を、きちんと自分たちの目で確かめたかった。
俺は一段ずつ階段を上がった。
まだ確かめなければならないことは山ほどある。
それでも今だけは、聞こえてくる鐘の音を信じてみたかった。
青鐘通りは、もう一度、王都とつながり始めているのかもしれない。




