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王都の返却士 ~その落とし物、世界のものです~  作者: 紙森 灯
第二章 地図から消えた通り

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第三十四話 百人分の帰る場所

 

 翌朝、青鐘亭の食堂へ下りると、ニコは昨日と同じ席に座っていた。


 目の前には焼きたてのパンと卵料理が並び、皿の端には苦手な青菜が綺麗に寄せられている。ミレアは向かいの席から、その様子を静かに見守っていた。


「……これ、好きなんだ」


 ニコが卵を口へ運びながら言った。


「知ってるわ」


「何で?」


「ずっと作ってきたから」


「僕に?」


「ええ」


 ニコは少し不思議そうに彼女を見た。


 昨夜、あの子はミレアをお母さんと呼んでもいいかと尋ねた。


 けれど、それで十年間の記憶が戻ったわけではない。今朝も彼女を見つめる目には、まだ知らない相手への戸惑いが残っている。


「じゃあ、こっちを残すのも知ってた?」


 ニコが皿の端の青菜を指さした。


「もちろん。昔からそうよ」


「すごいね」


「……そうかしら」


「僕より僕のこと知ってるみたい」


 ミレアの手が止まった。


 彼女は何かを言いかけ、代わりに小さく笑った。


「十年も見てきたからね」


「十年って、僕が生きてる間ずっと?」


「そうよ」


 ニコはしばらく考え、それから青菜を一枚、口へ放り込んだ。


「……苦い」


「だから嫌いなのよ」


「でも食べたら喜ぶと思って」


 ミレアは目を丸くした。


「誰が?」


「お母さんが」


 ニコは少し照れたように笑った。


「昨日、そう呼んでもいいって言ってたから」


 ミレアは口元を押さえた。


 泣きそうになったのだろう。それでも今度は涙をこらえ、息子の皿へ新しいパンを一つ置いた。


「ありがとう、ニコ」


 昨日、何度も紙を見て覚え直した名前だった。ミレアは今も十年間の思い出を取り戻せていない。それでも、目の前の息子を呼ぶために、その二文字を大切にしているのだと思った。


「……ニコ?」


「あなたの名前よ」


「そっか。まだ慣れないな」


 ニコは小さく呟き、もう一度卵を口へ運んだ。


 名前を聞いても、自分のものだと実感できない。そんな不安があるのかもしれない。


 それでも彼は、自分に親切にしてくれる女性のために、苦手な野菜を食べようとした。


 俺は入口に立ったまま、そのやり取りを見つめていた。


 失われた十年間は、まだ戻らない。


 しかし、その先の時間まで失われたと決まったわけではなかった。


「セイン」


 背後からリゼに声をかけられた。


 振り返ると、彼女は両腕いっぱいに紙と真鍮札を抱えている。


「おはようございます。よく眠れました?」


「おかげさまで。お前は?」


「寝ましたよ。ちゃんと」


「何時間?」


「……質問が細かいですね」


「昨日、ほとんど休んでなかっただろ」


「五時間くらいです」


「足りないんじゃないか?」


「セインに心配されるほどではありません」


 そう言って笑ったものの、目の下には薄い影があった。


 俺は紙の束を半分受け取ろうとした。


「右腕、まだ痛むでしょう」


「左手なら使える」


「じゃあ、軽い方をお願いします」


 リゼは迷わず真鍮札を数枚渡してきた。


 紙の束の方が軽そうだったが、そこは黙っておく。


「それで、何を持ってきたんだ?」


「昨日集めた記録です。名前が分かるものと、分からなくなったものを分けました」


 彼女は食堂の隅にある机へ紙を広げた。


 真鍮札には、人の名前や場所の名前が刻まれている。中には『学校』『市場』といった、行き先だけを書いたものもあった。


「この札は?」


「誰のものか分からない接続の痕跡です。『学校』との関係が失われたらしいことは分かっても、誰が通っていた学校なのかまでは読み取れませんでした」


「なるほど」


「ただ、昨日より曖昧になってるものもあります。見えるはずの輪郭が、少しずつ薄くなっているような……」


 リゼはそこで言葉を切った。


「今日中に何かしないと、もう見つけられなくなるものがあるかもしれません」


 俺は紙の束を見下ろした。


 昨日まで、俺たちは失われたものを一つずつ追いかけていた。


 だが、消える速さに記録する速さが追いつかなくなっている。


 今日も昨日と同じことを繰り返すだけでは、間に合わないかもしれなかった。


     ◇


 午前中、青鐘通りの広場には多くの住民が集まった。


 前日から貼り出していた記録を整理するためだ。


 もちろん全員ではない。外出を怖がって家にいる人もいれば、家族が誰なのか曖昧になり、一人で歩くことが難しくなった人もいる。


 リオルは警備隊の調査員とともに広場を回り、住民が無理に移動しなくても話を聞けるよう手配していた。


「セイン、こっちは済んだぞ」


 彼が差し出した紙には、三軒分の聞き取りがまとめられていた。


「早いな」


「警備隊には聞き取りが得意な奴も多いからな。それに、今回は住民の方が協力的だ」


「そうなのか?」


「自分のことだけじゃなく、隣の家のことまで書いてくれてる」


 リオルは少し離れた場所を指さした。


 そこでは二人の老人が、広げた紙を前に言い争っていた。


「お前、昔は北市場へ通ってただろ」


「違う。南市場だ」


「北だって。毎週帰りにうちへ寄って、魚を自慢してたじゃないか」


「……魚?」


 片方の老人が首を傾げた。


 もう一人は、急に黙った。


「お前、あの魚のことも忘れたのか」


「何の話だ?」


「俺がいつも羨ましがってたやつだよ」


 言い返しているうちに、老人の声が震え始めた。


 俺は二人へ近づき、紙を見せてもらった。


「北市場と南市場、両方書いておきましょう」


「どっちか間違ってるかもしれんぞ」


「後で確かめればいいんです。今は覚えていることを残しておきたい」


 老人は少し迷ったあと、頷いた。


「そうか。じゃあ、北市場で魚を買ってたって書いてくれ」


「分かりました」


「あと、こいつは魚が嫌いなんだ」


 もう一人が口を挟む。


「それは違う。骨を取るのが面倒なだけだ」


「昔から同じこと言ってるな」


 二人は顔を見合わせた。


 ほんの短い間だったが、そこには長年の付き合いが戻ってきたような空気があった。


 俺は記録を受け取りながら、ふと思った。


 本人が忘れてしまったことを、別の誰かが覚えている。


 当たり前のようで、これまで十分には考えていなかったことだった。


 記憶は、その人の頭の中にだけ残っているわけではない。


 毎朝挨拶していた隣人も、仕事で喧嘩した相手も、何十年も会っていない友人も、ある人の人生の一部を覚えている。


 失われたものを探すなら、本人だけを調べる必要はないのかもしれない。


「リオル」


「何だ?」


「聞き取りの方法を少し変えたい」


「どう変える?」


「本人の記憶だけじゃなく、周りの人が覚えていることも集めよう。いつ、どこへ行っていたか。誰と会っていたか。小さなことでもいい」


 リオルは一度考えてから、すぐに頷いた。


「なるほど。自分のことを忘れても、隣人が覚えてるかもしれないってことか」


「ああ」


「なら、組を作った方が早いな。家族と近所の人を一緒に調べてもらおう」


「頼む」


 リオルは調査員を呼び、必要なことを伝え始めた。


 こちらの意図をすぐ理解し、仕事として形にするのがうまい。


 俺が考え込んでいる間に、こいつはもう次の手を打っている。


 昔から、そういうところには敵わなかった。


     ◇


 最初に大きな変化があったのは、中央市場へ通っていたという女性だった。


 彼女は自分が市場へ行っていたことを覚えているのに、何のためだったか分からなくなっていた。


「……私、何を買っていたのかしら」


 困ったように笑う。


 隣にいた男性が答えた。


「買い物じゃないよ。仕入れだろ」


「仕入れ?」


「あんた、店をやってるじゃないか」


 女性の表情が変わった。


「……店?」


 男性はそこで口を閉じた。


 俺は女性の手元にある記録を確かめた。


 中央市場という文字だけが残り、その下は白くなっている。


「どんなお店か覚えていますか?」


 女性は眉を寄せた。


「何かを売っていた気はするんだけど……」


「朝は何時に起きていました?」


「夜明け前だったと思うわ」


「市場から戻ったあと、何をしていました?」


 今度は答えられなかった。


 俺が質問を続けようとした時、リゼがそっと袖を引いた。


「セイン、この人の周りにいくつも痕跡があります」


「何が失われたか分かる?」


「そこまでは。でも、一つじゃありません。何本も重なっていて……」


 リゼは女性の手元から、少し離れた通りの方へ目を向けた。


「この人と何かとのつながりが、いくつも失われたように感じます」


 俺には何も見えない。


 ただ、彼女が注意深く観察していることは分かった。


「……店との関係だけじゃないのかもしれないな」


 呟くと、リゼが頷いた。


「店へ通った道も、そこで出会った人も、別々のつながりだったのかもしれません。ただ、それが今見えている痕跡と一致するかは、まだ分かりません」


 俺は女性の隣にいた男性へ向き直った。


「この人のお店について、知っていることを教えてもらえますか?」


「ああ。青鐘通りで小さな店をやってる。俺も何度か買い物したことがある」


 彼は場所と扱っていた品物を話し始めた。


 女性は自分のことを聞いているはずなのに、まるで他人の暮らしを教えられているような顔をしていた。


「……そんな店、私が?」


 その声に胸が痛んだ。


 俺は記録を受け取り、彼女へ見せた。


「まだ思い出せなくても大丈夫です。今は、周りの人が覚えていることを残しておきましょう」


「それで、戻るの?」


「戻せるかどうかは、これから調べます。でも、何を探すべきかは少しずつ分かってきました」


 女性はしばらく紙を見つめ、やがて小さく頷いた。


 俺たちは広場の人々へ、もう一度協力を呼びかけた。


「自分のことだけじゃなくても構いません。隣の家の人が何をしていたか、誰と話していたか、どこへ通っていたか。知っていることがあれば、教えてください!」


 しばらくして、あちこちから声が上がり始めた。


「ミナさんなら南市場よ!」


「デリクは家具工房へ行ってただろ!」


「あそこの親父さんは、毎朝鐘楼の下で煙草を吸ってた!」


「それ、店の前じゃなかったか?」


「両方だよ!」


 誰かが笑った。


 別の誰かは、笑いながら泣いていた。


 話している途中で名前が出なくなる人もいる。それでも隣の人間が補い、三人目が別の思い出を付け足した。


 間違いがあれば訂正し、確信がなければそのまま記録する。


 そうして広場に集まるものは、少しずつ変わっていった。


 最初は一人ひとりの失われた記憶を調べていた。


 今は、この通りの人々が互いに知っていることを集めている。


「……すごいですね」


 リゼが隣で呟いた。


「何が?」


「さっきまで、自分のことを思い出せなくて困っていた人たちが、今はほかの人のことを教えてるんです」


 彼女は広場を見回した。


「自分のことは忘れても、誰かのことは覚えているんですね」


「ああ」


「全部消えてしまったわけじゃない」


 リゼは真鍮札を握り直した。


 その横顔には、いつもの好奇心とは違う、真剣な強さがあった。


     ◇


 昼を過ぎる頃には、紙が広場の机から溢れ始めていた。


 学校へ通っていた子供、橋の向こうへ仕事に行く職人、墓地へ花を供える老人。毎朝わざわざ遠回りして、朝日が綺麗に見える道を歩いていた女性もいる。


「それ、必要かしら?」


 女性は少し恥ずかしそうに尋ねた。


「仕事でも何でもないの。ただ、あの道を歩くと気分がよかったから」


「大切な場所だったんですね」


 俺が答えると、女性は驚いたようだった。


「……そうね。そうだったと思う」


「なら、書いておきましょう」


 紙には『東通り 朝日』と記した。


 次の男性は、北区の料理屋を挙げた。


「あそこの料理、正直あんまりうまくないんだけどな」


「じゃあ、どうして通ってたんです?」


「親父が好きだったんだよ。死んでからも、たまに行きたくなる」


 俺は店の名前と理由を書いた。


 誰かにとって重要かどうかを、俺が決める必要はない。


 その人がそこへ行きたいと思ったこと自体に、意味があるのだ。


 リオルが隣で記録を整理しながら言った。


「こうして見ると、同じ場所へ通ってる人が結構いるな」


「市場や病院は特に多いな」


「でも理由は違う。仕事の人もいれば、家族に会いに行く人もいる」


「ああ」


 俺は集めた紙を見渡した。


 青鐘通りは、地図の上では一本の道だ。


 しかし、そこに暮らす人々は、それぞれ違う目的地へ向かっていた。


 仕事へ行き、学校へ通い、友人を訪ねる。亡くなった人に花を供えるために遠くまで歩く人もいれば、ただ気に入った景色を見たいだけの人もいた。


 そして一日の終わりには、またこの通りへ戻ってくる。


 それを何十年も繰り返してきたのだ。


「……なあ、リオル」


「何だ?」


「俺たち、青鐘通りが王都のどこに属しているかばかり考えてたよな」


「ああ。南三区って記録もあったからな」


「でも、この通りを王都の一部にしていたのは、行政の登録だけじゃなかったんだと思う」


 リオルが紙をめくる手を止めた。


「住民が王都の中で暮らしてたから?」


「そう。毎日外へ出て、いろんな場所と関わって、それから帰ってきた。道がここにあるだけじゃなく、人が行き来していたことが大事なんじゃないか」


 リオルはしばらく紙の束を見つめていた。


「……俺たちが警備隊として道を守るのも、そこを歩く人がいるからだしな」


「そういうことだと思う」


「だったら、もう少し集めたいな」


「ああ。まだ覚えていることがあるなら、できるだけ残しておこう」


 俺たちは再び住民の話を聞き始めた。


     ◇


 午後の遅い時間になって、ティセラが地下から戻ってきた。


 広場へ入るなり、壁一面に貼られた紙を見上げて足を止めた。


「……何をしたら、こんなことになるの?」


「住民調査」


「それは見れば分かるわ」


 彼女は机の上に積まれた紙を数枚手に取った。


「どうしてこんなに増えたの?」


「自分のことだけじゃなく、周りの人が覚えていることも集めたんだ」


「……なるほど」


 ティセラは記録を読み進めた。


 場所の名前だけでなく、そこへ行く理由や関係する人物まで書き加えられている。


 その表情が少しずつ変わった。


「これ、接続の特定に使えるかもしれないわ」


「本当に?」


「ええ。ただし、書かれた内容が全部正しいとは限らないから、術式の記録とも照合する必要がある」


 ティセラは紙を二枚並べた。


「今までは一つの記録から、一つの接続を探そうとしていた。でも、こうして複数の証言があれば、同じ関係を別の方向から確かめられるかもしれない」


「本人が忘れていても、周りの人が覚えていれば?」


「そう。それだけで失われた情報を復元できるわけではないけれど、返却先を特定する手がかりにはなる」


 俺は頷いた。


 ガロの妹エマとの関係を一度だけ返せた時も、術式の中に保持されていた接続を対象としていた。


 しかし、返した直後に装置が再び切り離してしまった。


 だから必要なのは、返却先を見つけることだけではない。


 装置の切離を止め、その間に保存されている接続を元の場所へ返す方法を考えなければならなかった。


「ティセラ、これだけ集めても、一つずつ返してたら間に合わないと思う」


「そうでしょうね」


「まとめて扱う方法はないかな」


 彼女はすぐには答えなかった。


「接続群という術式は見つかっているわ。ただ、それが複数の接続を一度に返せるという意味なのかは、まだ確かめられていない」


「分かってる」


「それに、第三保全槽がないことも忘れないで。そこに保存されていたものが別の場所へ持ち去られているなら、ここに残った術式だけでは全部を戻せないかもしれない」


「……ああ」


 欠けた第三保全槽。


 誰かが最近操作した痕跡。


 正体の分からない認証具。


 青鐘通りの異変を止めるには、まだ調べなければならないことが山ほどあった。


「それでも、考える価値はあると思う」


 俺が言うと、ティセラは小さく頷いた。


「ええ。ただし、次に術を使う時は必ず相談して」


「分かってる」


「本当に?」


「昨日、あれだけ怒られたんだぞ」


「一度で学ぶ人なら、こんなに心配しなくて済むんだけど」


 横で聞いていたリオルが吹き出した。


「まあ、今回は俺も見張るよ」


「お前は俺の護衛なのか、監視役なのか、どっちなんだ」


「両方かな」


 随分と頼もしい幼なじみだった。


     ◇


 夕方になると、広場の仕事はいったん区切ることになった。


 聞き取りが済んでいない家には、リオルが調査員を派遣する。集まった紙は青鐘亭の空いた部屋へ移し、消失や書き換わりがないか確認することにした。


 記録そのものが術式の影響を受ける可能性がある以上、一枚だけに頼るのは危険だった。


 書き写せるものは複数の紙に残し、ティセラの〈転写〉でも現存する文字を複製する。


 ただし、すでに消えてしまった内容を〈転写〉で取り戻せるわけではない。


 そのため、何より重要なのは住民の証言だった。


 俺は青鐘亭へ戻り、食堂の様子を確かめた。


 ミレアとニコが、同じ机を挟んで夕食を取っている。


 ニコの前には、温かな煮込み料理が置かれていた。


「これ、おいしい」


「そう。よかった」


「お母さんが作ったの?」


「ええ」


 ニコは匙を止めた。


「前にも食べたことある?」


「何度もあるわ」


「じゃあ、僕これ好きだった?」


「大好きだったわよ」


 ニコは満足そうに頷き、また食べ始めた。


 ミレアはその姿を見つめている。


 記憶は戻っていない。


 彼女はまだ息子の名前をうまく思い出せない時があるし、ニコも母親と過ごした十年間を、自分の記憶として取り戻せていない。


 それでも、二人は昨日より少し自然に話していた。


「ありがとう」


 食べ終えたニコが言った。


 ミレアの目が潤んだ。


 けれど、今度は泣かなかった。


「どういたしまして」


 彼女はそう答え、息子の空になった器を受け取った。


 俺は食堂の入口から、静かに離れた。


 戻せるものがある。


 そして、戻せなくても新しく結び直せるものがある。


 その二つを、同じものとして考えてはいけないのだと思った。


     ◇


 外へ出ると、リゼが青鐘亭の階段に座っていた。


 手元には真鍮札が一枚あり、まだ刻み終えていない文字を眺めている。


「休憩?」


「五分だけです」


「何分目?」


「九分です」


「増えてるじゃないか」


「疲れてるんです」


「じゃあ、もう少し休めばいい」


 俺が隣へ座ると、リゼは少し驚いたようだった。


「珍しいですね」


「何が?」


「セインが自分から休憩するなんて」


「俺だってたまには休むよ」


「右腕を壊しかけたばかりですからね」


「……しばらく言われそうだな」


「忘れたら困りますから」


 リゼは真鍮札を指で回した。


 それから、通りの壁に貼られた紙へ目を向ける。


「ほとんど全員の分が集まりましたね」


「ああ。覚えている範囲だけどな」


「百人近くの、帰る場所ですね」


 俺はその言葉を聞き、顔を上げた。


「……もう一回言って」


「百人近く?」


「その後」


「帰る場所?」


「ああ」


 俺は青鐘通りを見渡した。


 家々の窓から明かりが漏れ、夕食の匂いが細い道を流れてくる。仕事を終えた人が店の戸を閉め、子供を呼ぶ声がどこかから聞こえた。


 この通りを青鐘通りにしているのは、石畳だけではない。


 ここから王都のいろいろな場所へ出かけ、そして戻ってくる人たちがいる。


 共同井戸の時代から、ずっとそうだった。


「……そうか」


 俺は呟いた。


「どうしたんです?」


「俺たち、ずっと青鐘通りをどこへ返すか考えてたよな」


「はい。またその話ですか?」


「今度は少し違うんだ」


 俺は壁に貼られた紙を指した。


「今日集めたのは、人がどこへ行っていたかだけじゃない。どうして行ったのか、誰に会ったのか、それからどこへ帰ってきたのかもある」


「そうですね」


「全部違う場所に向かってる。でも、戻ってくる先は共通してる」


 リゼは少し考えた。


「青鐘通り?」


「ああ」


 俺は頷いた。


「王都が後から登録したから、この道が王都の一部になったわけじゃない。ここに暮らす人たちが、王都の中で日々の生活を続けていた。そのつながりが、青鐘通りという場所を形づくっていたんだと思う」


 言葉にしながら、ようやく自分の考えが整理されてきた。


「つまり、返すべきなのは青鐘通りという一本の道じゃない」


「……一人ひとりのつながり?」


「そう。ただ、別々に返すことばかり考える必要もないのかもしれない。みんながこの場所へ帰ってくる、その関係をまとめて捉えられるなら……」


 リゼは俺の顔を見つめた。


「接続群ですか?」


「ああ。ティセラが見つけた術式に、つながる可能性がある」


 俺は手元の紙を見た。


 百人近い住民の帰る場所。


 一つひとつの人生は違う。それぞれが持っている関係も違う。


 だが、その多くが青鐘通りという共通の場所へ結びついている。


 ならば、それらをまとめて特定するための手がかりになるかもしれなかった。


「……セイン」


 リゼが小さな声で呼んだ。


「何?」


「さっきまでと、少し見え方が違います」


 彼女は石畳へ目を落とした。


「何が?」


「空白です。今までは、何かがなくなった跡があちこちに見えていただけでした。でも、今日みんなの話を聞いてから、それぞれの痕跡を別々に考えなくてもいいのかもしれないって……」


 リゼはそこで口を閉じ、もう一度周囲を見渡した。


「……ごめんなさい。うまく説明できません」


「大丈夫。ゆっくりでいい」


「見えないものが見えるようになったわけじゃないんです。誰の接続だったのかも分かりません。ただ、今まで別々だと思っていた欠落が、同じ場所で起きている現象の一部なのかもしれないと感じて」


 俺は頷いた。


「それで十分だよ」


「本当に?」


「ああ。決めつけなければ、次に何を調べればいいか考えられる」


 リゼは少し安心したように息を吐いた。


「……じゃあ、みんなを呼びましょう」


「ティセラとリオル?」


「はい。セインがまた一人で何か始める前に」


「もうやらないって」


「知ってます。でも、確認は大事です」


 彼女は立ち上がり、こちらへ手を差し出した。


「行きましょう、返却士さん」


 俺はその手を取り、ゆっくり立ち上がった。


 右腕にはまだ痛みが残っている。


 だからこそ、今度は絶対に焦ってはいけない。


 集めた記録を使って、失われた接続をどこまで特定できるのか。装置を止める方法と、接続を返す方法をどう組み合わせるのか。第三保全槽がない状態で、何が戻せて何が戻せないのか。


 答えはまだ出ていなかった。


 けれど、これまでとは違う。


 俺たちは今、青鐘通りの住民が守りたいものを、本人たちの言葉で知っている。


 それを勝手に一つの持ち物として扱うつもりはなかった。


「リゼ」


「はい?」


「もし返す方法が見つかったら、みんなにも説明しよう。何が戻る可能性があって、何が戻らないかもしれないのか」


「そうですね」


「その上で、どうするか決めたい」


 リゼは少し笑った。


「セイン、前よりちゃんと相談するようになりましたね」


「そこまで信用がなかったのか?」


「今さら聞きます?」


 言い返せなかった。


 俺たちは階段を下り、青鐘通りへ歩き出した。


 広場には、まだ紙を整理している人たちがいる。


 誰かの記憶が消えれば、別の誰かが書き足す。分からなくなった場所があれば、覚えている人を探す。


 たとえその記録が完全でなくても、何もせずに待っている人はほとんどいなかった。


 その姿を見て、ようやく俺にも分かった気がした。


 この通りを返す仕事は、最初から俺一人のものではなかったのだ。


 リオルが遠くからこちらへ手を上げた。


 ティセラも紙の束を抱え、広場の端へやってくる。


 俺は二人のところへ向かった。


 もう一度、地下へ行こう。


 今度は、百人近い人々が自分たちの帰る場所を守ろうとしている、その意思を確かめた上で。


 そして、もし〈返却〉が届く道を見つけられたなら。


 俺たちが失ったものを、誰か一人の持ち物としてではなく、それぞれが結んできた関係として返したかった。

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