第三十三話 母親
切離進行率、九十九。
リオルが告げた数字を聞いてから、青鐘亭の食堂はひどく静かになっていた。
誰も席を立とうとせず、壁際にいた住民たちも互いの顔を見合わせている。厨房では煮込み鍋が小さな音を立てていたが、いつもなら聞き逃すようなその音が、妙にはっきりと耳に届いた。
ニコは母親の腕の中にいた。
「母さん、もう大丈夫だよ」
「……うん」
「だから、そんなにぎゅっとしなくても」
「もう少しだけ」
ミレアはそう言って、息子の背中をゆっくり撫でた。
ニコは困ったような顔をしながらも、離れようとはしなかった。さっきまで俺やリゼの名前を思い出せなくなっていたのに、母親のことだけはまだ分かっている。
その事実に安堵しながら、俺は同時に怖くなった。
このまま異変が進めば、最後に残ったつながりさえ失われるかもしれない。
「ニコ、少しだけ聞いていいか?」
近づくと、彼はミレアの腕の間から俺を見上げた。
「……お兄さん、誰だっけ」
「セイン。王立遺失物管理局で働いてる」
「落とし物の人?」
「そう。前にお前の靴を直したんだ」
ニコは自分の右足を見下ろした。
「これ?」
「ああ。なかなか手強い靴だった」
「そうなんだ」
以前なら、俺の修理の仕方について生意気なことを言っただろう。今は素直に頷くだけだった。
その違いが、思いのほか堪えた。
「自分の名前は覚えてる?」
「ニコ」
「名字は?」
彼は少し考え、それから母親を見上げた。
「……何だっけ」
「ベルエンよ。ニコ・ベルエン」
「そうだった?」
「ええ」
ミレアはできるだけ普通の声で答えた。
「十歳になったばかりでしょう。誕生日にも、自分の名前をちゃんと書けたじゃない」
「十歳は覚えてるよ」
「そうね。ケーキを二切れ食べたものね」
「三切れだよ」
「最後の一切れは私のだったでしょう」
「半分もらっただけ!」
いつもの調子で言い返すニコに、ミレアは少しだけ笑った。
けれど、笑い終えたあとも彼女の手は息子の肩を離れなかった。
「学校のことは覚えてる?」
俺が尋ねると、ニコは今度こそ困った顔をした。
「……行ってると思う」
「友達は?」
「いるよ。たぶん」
「名前は分かる?」
ニコは答えなかった。
目を閉じ、何かを探すように眉を寄せる。
やがて小さく首を振った。
「ごめん」
謝らせたかったわけじゃない。
俺は慌てて言葉を探した。
「いや、責めてるんじゃない。覚えてることを確かめたかっただけだ」
「でも、知らないことばっかり聞かれるから」
ニコは少し不満そうだった。
「俺、何か悪いことした?」
「してないよ」
ミレアが先に答えた。
「何も悪くない。あなたは何も悪くないの」
母親は息子の髪を整えた。
ニコはその手を当たり前のように受け入れていた。
俺は二人を見ながら、胸の奥で膨らんでいく焦りをどうにか押さえ込んだ。
ここで再び〈返却〉を使っても、動き続ける装置によって接続が切り離されるかもしれない。ガロの妹エマとの関係で、それはすでに経験している。
今必要なのは、できるかどうか分からない術をもう一度試すことではなかった。
「ティセラ。地下の装置を調べてほしい」
俺が声をかけると、彼女はすぐに振り向いた。
「九十九のまま動いていない理由ね」
「ああ。数字が変わらなくても異変が続くかもしれない。内部で何が起きているのか、分かる範囲で確認してくれ」
「分かったわ」
「リオルは一緒に行ってくれるか? 地下で何かあった時、ティセラ一人では危ない」
「もちろん。ただ、お前は?」
「ここに残る。住民の変化を記録しておきたい」
リオルは一度俺の右腕を見た。
「無茶しないな?」
「しない。何か見つけても、まず連絡する」
「よし。それなら任せた」
軽く肩を叩いてくる。
俺は顔をしかめた。
「右腕に響くんだけど」
「左肩だろ」
「振動は伝わるんだよ」
「大げさな奴だな」
そう言いながらも、リオルの手はすぐに離れた。
ティセラと二人で出ていく背中を見送り、俺は食堂へ向き直った。
ミレアはニコの隣に座り、何か小さな声で話していた。
俺には、その時間をできるだけ長く残してやりたかった。
◇
進行率が九十九になっても、異変は止まらなかった。
最初に報告してきたのは、パン屋の主人だった。
「女房の誕生日が思い出せないんだ」
「誕生日だけですか?」
「ああ。女房だってことは分かるし、一緒に店を始めたのも覚えてる。でも、毎年祝ってた日付だけが出てこない」
彼は困った顔で笑った。
「今年は忘れないって約束したばっかりなのにな。これじゃいつもと同じだ」
冗談めかして言ったものの、手元の帽子を握る指が震えていた。
続いて来た女性は、娘が通っていた学校を思い出せなくなっていた。
ある老人は三十年以上使ってきた仕事道具を手にし、その使い方を尋ねた。最初は周囲も笑って説明していたが、老人が何度教わっても困惑したままでいると、誰も笑わなくなった。
「……数字は変わっていないんですよね」
リゼが小声で尋ねた。
「ああ。今のところ九十九のままだ」
「だったら、九十九という数字は、失われたものの数じゃないんでしょうか」
「そうかもしれない」
俺は記録を取りながら答えた。
「一人につき一つ増えるとか、一つの記憶が消えるたびに進むとか、そんな単純な仕組みじゃなさそうだ」
「じゃあ、今まで数えていたものは?」
「それをティセラたちが調べてる」
リゼは食堂を見回した。
さっきまで隣人と話していた男が、今は相手の名前を思い出そうとしている。失われるものの種類も、順番も、誰にも予想できなかった。
「数字が変わらないと、少し安心してしまいますね」
「俺もだよ」
「でも、安心できないんですね」
「ああ」
俺は手元の記録を見た。
九十九という数字の向こう側で、いくつもの人生が静かに削られている。
何も起きていない時間など、最初からなかったのかもしれない。
◇
午後の遅い時間になって、ミレアが俺たちのところへ紙を持ってきた。
「セイン、これを見てくれる?」
渡された紙には、同じ文字がいくつも並んでいた。
『ニコ・ベルエン』
少し右へ傾いた字もあれば、最後の文字が妙に大きいものもある。どれも子供らしい筆跡だった。
「ニコが書いたのか?」
「ええ。自分の名前を忘れないように」
奥の机では、ニコが新しい紙へ文字を書いていた。
ペン先を何度も持ち直しながら、真剣な顔をしている。
「これで七回!」
「あと三回ね」
ミレアが声をかける。
「十回書いたら、本当に忘れなくなる?」
「……そうだといいわね」
「母さん、さっきは絶対大丈夫って言ったじゃん」
「そうだったかしら」
「言った!」
ニコは口を尖らせ、また紙へ向かった。
俺はミレアを見た。
彼女は息子に見えないところで、小さく首を振った。
「ごめんなさい。私にも、こんなことで何とかなるとは思えないの」
「謝る必要はありませんよ」
「でも、何もしないで見ているなんてできなくて」
その声は、疲れ切っていた。
「もし名前が消えたら、紙を見ればいいでしょう。字が消えても、また書けばいい。十回で足りなければ百回でも……」
途中で言葉が止まった。
ミレアは唇を噛み、息子の方へ目を向けた。
「馬鹿みたいよね」
「そんなことありません」
俺が答える前に、リゼが言った。
彼女は腰の真鍮札を外し、掌へ乗せてみせた。
「私も、同じことをしていますから」
札には、彼女が選んだ名前が刻まれている。
「名前がなくなるのが怖くて作ったんです。でも、これがあれば絶対に大丈夫だなんて、思ってません」
「……そうなの?」
「はい。ただ、何かを残しておきたかったんです」
リゼは真鍮札を見つめた。
「自分がそこにいたことも、誰かと会ったことも、何もなかったことにしたくないから」
ミレアはしばらく彼女を見ていた。
「強いのね、あなた」
「そんなことないですよ。怖いものだらけです」
「でも、怖がりながら続けているんでしょう」
リゼは照れたように目を逸らした。
それから新しい真鍮札を一枚取り出した。
「ニコの名前も、刻んでいいですか?」
「いいの?」
「はい。私が持っておきます」
ミレアは少しだけ笑った。
「お願いできるかしら」
「もちろん」
リゼは机の端へ腰を下ろし、小さな工具で札に文字を刻み始めた。
ニコが興味深そうに近づいてくる。
「何してるの?」
「あなたの名前を書いてます」
「それ、金属なの?」
「真鍮です。紙よりは丈夫ですよ」
「じゃあ、それに十回書けばよかったじゃん」
リゼの手が止まった。
俺は思わず笑ってしまった。
「……確かに」
「セインまで!」
リゼがこちらを睨む。
ニコは自分が何を言ったのか分かっていない様子で、工具の先を眺めていた。
「でも、ありがとう」
彼はぽつりと言った。
「知らないお姉さんなのに、俺の名前を書いてくれるんだね」
リゼの笑顔が少しだけ揺れた。
「……ええ」
彼女は札へ視線を戻した。
「知ってる子なんですけどね、本当は」
その言葉は、ニコには聞こえなかったらしい。
俺には聞こえた。
彼女が自分の名前を刻んだ時と同じように、今はほかの誰かが存在していたことを守ろうとしている。
それが、何よりもリゼらしいと思った。
◇
地下から連絡が来たのは、その少し後だった。
リオルの連絡札に文字が浮かび、続けてティセラからの説明が送られてきた。
『表示九十九のまま、内部術式が次段階へ移行』
『新たな術式名を確認』
『自己帰属』
俺は何度も文字を読み返した。
自己帰属。
これまでの術式は、人と人、人と場所の関係を切り離していた。
だが今度は、もっと深いところに触れようとしているらしい。
『何を意味する?』
連絡札で問い返すと、しばらくして返事が届いた。
『本人が自分自身を認識するための帰属に関係する可能性』
『具体的な効果は未確認』
俺はゆっくり息を吐いた。
「セイン?」
リゼが近づいてくる。
「どうしたんです?」
「装置の中で、新しい段階が始まっているらしい」
「数字は九十九のままなのに?」
「ああ。どうやら、表示されている数字だけでは内部の動きが分からないみたいだ」
リゼが連絡札を覗いた。
「自己帰属……」
「自分が何者なのか、というところに関係する術式かもしれない」
「名前や家族を忘れるのとは違うんですか?」
「まだはっきりしない。でも、今までは自分と周りのものとの関係が失われていた。今度は、自分が自分だと分かることまで影響を受ける可能性がある」
言葉にすると、恐ろしさが増した。
自分の名前を忘れる。
家を忘れる。
家族を忘れる。
そして最後には、自分自身のことさえ分からなくなるかもしれない。
それが、さらに存在の消失と結びつくのかどうかは分からない。
ただ、以前広場で誰かが消え、名前も顔も思い出せなくなったことが脳裏をよぎった。
「……セイン」
ミレアが俺を呼んだ。
「それは、どうなるの?」
ニコはまだ机で文字を書いている。
ミレアは息子に聞こえないよう、声を落としていた。
「正確には分かりません。ただ、自分自身とのつながりにも異変が起きる可能性があります」
「それって、あの子が自分のことを忘れるかもしれないってこと?」
「……はい」
ミレアの顔から血の気が引いた。
彼女はすぐに息子の方を見た。
「ニコ」
「何?」
「こっちへ来て」
「まだ十回書いてないよ」
「いいから。お願い」
ニコは不満そうに椅子を下りた。
ミレアが両腕を広げると、彼は自然にその中へ入った。
「どうしたの、母さん」
「何でもないわ」
「また泣くの?」
「泣かないわよ」
「嘘だ」
「……そうね。少しだけ、嘘かもしれない」
ミレアは息子の額へ頬を寄せた。
その姿を見て、俺はようやく分かった気がした。
彼女にとって恐ろしいのは、ニコが自分を忘れることだけではない。
この子が、自分のことさえ分からなくなってしまうことなのだ。
「ニコ」
ミレアが優しく呼んだ。
「あなたはニコよ」
「知ってる」
「十歳になったばかりで、右の靴ばっかりすり減らすの」
「それは走るからだよ」
「学校から帰ったら手も洗わずにパンを食べようとするし、嫌いな野菜はいつもお皿の端へ寄せる」
「今日はちゃんと食べた!」
「昨日は残したでしょう」
ニコは少し考え、反論を諦めたらしい。
「……ちょっとだけ」
ミレアが笑った。
笑いながら、涙をこぼした。
「母さん?」
「大丈夫。あなたは何も心配しなくていいの」
ニコは母親の顔を見上げた。
しばらく、じっと見つめていた。
その目に、わずかな戸惑いが浮かぶ。
「……母さん?」
「そうよ」
ミレアは頷いた。
「私は母さん」
ニコの眉が寄った。
彼は母親の腕を見てから、顔へ視線を戻した。
「母さん、って……」
言葉が続かない。
ミレアの表情が強張った。
「ニコ?」
「……誰?」
その一言を聞いた時、食堂の景色が遠ざかったように感じた。
ニコは母親を押しのけなかった。
ただ、どうして知らない人に抱きしめられているのか分からないという顔で、相手を見つめていた。
ミレアはしばらく動かなかった。
笑顔を浮かべようとしたまま、息子の目を見返している。
「……ニコ。私よ」
「僕のこと知ってる?」
「もちろん」
「どうして?」
ミレアの唇が震えた。
「だって、私は……」
その先を言いかけた時だった。
彼女が自分の胸へ手を当てた。
何かを探すように、目を見開く。
「私は、あなたの……」
声が止まった。
俺は嫌な予感がした。
「ミレア」
呼びかけると、彼女はこちらを向いた。
「ニコの名前は分かりますか?」
「分かるわよ」
「言ってみてください」
ミレアは少し怒ったような顔をした。
「何よ、そんなこと。ずっと呼んできたんだから」
それでも名前は出てこなかった。
彼女は息子の方へ向き直り、もう一度口を開こうとした。
「ニ……」
そこで止まる。
目の前にいる男の子の顔を、必死に見つめている。
「待って。今、出てくるから」
ニコが一歩下がった。
「どうしたの?」
「大丈夫。お母さん、ちゃんと知ってるから」
そう言ったあと、ミレア自身がはっとした。
お母さん。
口にしたその言葉の意味まで、揺らいでいるようだった。
「……私の子なの」
彼女は呟いた。
「この子は、私が産んだの。十年間ずっと一緒にいて、毎日ご飯を作って、熱を出したら朝までそばにいて……」
言葉が途切れ、指先が震え始めた。
「なのに、何で……」
ミレアは息子の名前をもう一度呼ぼうとした。
出てこない。
ニコは彼女から距離を取り、不安そうに俺の方を見た。
「ねえ、お兄さん。この人、どうしたの?」
その問いに、胸の奥が痛んだ。
ニコは悪くない。
ミレアだって悪くない。
十年間積み重ねてきたものが、二人の意思とは関係なく引き裂かれている。
ミレアはその場に膝をついた。
「お願い……」
俺は彼女の前へしゃがんだ。
「ミレアさん」
「この子なの。私の子なのよ」
「分かっています」
「お願い、セイン」
彼女は俺の袖をつかんだ。
「この子を返して」
答えようとして、言葉が出なかった。
俺の〈返却〉は、人間を誰かの持ち物として返すことはできない。
けれど、ミレアが欲しがっているのは、息子という所有物ではなかった。
母親として過ごしてきた時間と、その時間を息子と分かち合っていた確かなつながりだ。
その違いが、今は痛いほど分かった。
「……必ず、方法を探します」
俺は彼女の手を握った。
「もう一人で何とかしようとはしません。みんなで調べて、何を戻せるのか、どうすれば守れるのか、必ず確かめます」
ミレアは涙に濡れた顔で頷いた。
俺は立ち上がり、リゼへ振り向いた。
「住民から集めた記録を、全部まとめてくれるか」
「はい」
「まだ残っているものも、文字が消えてしまったものも、区別して残したい」
「分かりました。見えない部分は私が確認します」
「中身まで分からなくてもいい。痕跡がある場所を教えてほしい」
「任せてください」
リゼはすぐに動き始めた。
俺は連絡札を取り出し、地下のリオルたちへ状況を知らせた。
誰かが装置を動かした痕跡、取り外された第三保全槽、そして新たに現れた自己帰属の術式。
まだ何一つ解決していない。
だが、今ここで見てきたものを、ただ悲しい出来事として終わらせるつもりはなかった。
◇
その夜、青鐘通りの壁という壁に紙が貼られた。
名前や住所、家族のことを書いた紙だけではない。
初めて買い物へ行った店。嫌いな食べ物。喧嘩した友達。借りたまま返していない本。ずっと会いたかった人のことまで、住民たちは思い出せる限りのことを書き始めた。
市場の女主人は夫との初めての喧嘩を話し、向かいに住む老人は若い頃に飼っていた犬の名前を思い出した。
リオルが地上へ戻ると、聞き取りを手伝ってもらった。
「これ、事件が終わったら全部返すのか?」
彼は壁に貼られた紙を眺めて尋ねた。
「本人が望むならな」
「望まないなら?」
「勝手に読んだり残したりせず、処分する。個人的な話もあるから」
リオルは頷いた。
「そこはお前らしいな」
「何だよ、その言い方」
「いい意味だって」
彼はそう言って、次の住民へ声をかけに行った。
ティセラは地下の記録と住民の証言を照らし合わせ、接続を特定するための手がかりを探していた。まだ返却可能な形で残っているものと、すでに失われているものを区別する必要があるという。
リゼは紙が貼られた壁の前で、何度も立ち止まっていた。
何かが失われた痕跡を感じるたびに、その場所を記録していく。
『ここに欠落の痕跡がある』
『内容不明』
『周囲の証言と照合が必要』
彼女の札には、そうした言葉が増えていった。
「……地味な仕事ですね」
リゼが呟いた。
「嫌になった?」
「いいえ。ただ、私たちが何か格好いい術で一気に解決するところを想像していたので」
「俺も少しは考えたよ」
「結果は?」
「右腕が痛い」
「でしょうね」
彼女は呆れたように笑った。
それから、貼られた紙の一枚へ目を向ける。
「でも、こうして見るとすごいですね」
「何が?」
「青鐘通りって、ただの道じゃなかったんだなって」
俺も壁を見た。
百人近い住民が暮らすこの場所から、数えきれないほどの関係が伸びている。
それを一つの名前で呼んでいたのだ。
「……そうだな」
俺は頷いた。
「戻すべきものが何なのか、少しずつ分かってきた気がする」
リゼは真鍮札を握り直した。
「でも、まだ分からないものもあります」
「ああ」
「だったら、見つかるまで探しましょう」
その言葉に、俺は少しだけ笑った。
「返却士みたいなこと言うな」
「誰の影響でしょうね」
「困ったもんだ」
リゼは得意そうに胸を張った。
こういうところは、何が起きても変わらないらしい。
◇
夜が深くなってから、俺は青鐘亭へ戻った。
食堂にはミレアとニコが残っていた。
二人は同じ机に座っていたが、椅子の間には少し距離があった。
ミレアは手元の布巾を畳み直している。すでに綺麗に畳まれているのに、何度も角を合わせていた。
ニコは彼女の方を気にしながら、俺が近づくと顔を上げた。
「お兄さん」
「どうした?」
「あの人、ずっと泣いてるんだ」
ミレアの指が止まる。
「俺、何かしたのかな」
ニコは不安そうだった。
俺は椅子を引き、彼の隣に座った。
「お前が悪いことをしたわけじゃないよ」
「でも、俺がいると泣くんだよ」
「あの人は、お前にとって大事な人だったんだ」
ニコはミレアを見た。
「……そうなの?」
「ああ。生まれた時から、ずっと一緒にいた」
「どれくらい?」
「十年」
「十年って、俺が生きてる間ずっと?」
「そうだよ」
ニコは驚いたように瞬きをした。
「じゃあ、すごく仲よかった?」
「喧嘩もしてたと思うぞ。今日だってパンを食べすぎて怒られてたし」
「俺が?」
「ああ。三つ目を食べようとして」
「……そんなに食べられるかな」
「お前なら食べる」
ニコは少し笑った。
俺はミレアへ目を向けた。
彼女は静かにこちらを見ていた。
息子の名前を思い出せないまま、それでも話の続きを聞こうとしている。
「ねえ」
ニコが言った。
「そこにある紙、俺が書いたの?」
机の端には、同じ名前が十回並んだ紙が残されていた。
『ニコ・ベルエン』
文字はまだ消えていない。
「そうだよ」
「ベルエンって?」
「お前の名字だ」
ニコは文字を指でなぞった。
「この人も?」
ミレアを指す。
「……そうよ」
答えたのはミレアだった。
ニコが顔を上げる。
「私も、ベルエン」
彼女はゆっくり続けた。
「同じ名字なの」
「じゃあ、家族?」
「ええ」
ミレアの声が震えた。
「家族よ」
ニコはしばらく彼女を見ていた。
知らない人だと思っている相手から、家族だと告げられている。
きっと、どう受け止めればいいのか分からないのだろう。
「……お母さん?」
ミレアの目が大きく開いた。
「そうよ」
彼女は椅子から少し身を乗り出した。
「私は、あなたのお母さんなの」
けれど、ニコはまだ首を傾げていた。
名前を聞いたからといって、失われた関係が戻るわけではない。
それを、俺たちはもう知っている。
「そっか」
ニコは紙へ目を落とした。
「……じゃあ、僕って、この人のこと好きだった?」
ミレアは答えなかった。
何かを言おうとして、唇を震わせる。
その目から涙がこぼれた。
ニコが慌てて顔を上げる。
「あ、ごめん。変なこと聞いた?」
ミレアは何度も首を振った。
「違うの。違うのよ」
声を整えようとしても、うまくいかなかった。
「あなたは……私の作るパンが好きだった。熱を出した時は、いつも私の手を握って眠ったし、怖い夢を見た夜には、何度も名前を呼んでくれたの」
彼女は涙を拭おうとしたが、次から次へと溢れてくる。
「誕生日には大きなケーキを作って、食べきれないって笑って……学校へ行くようになってからは、前みたいに抱きついてくれなくなったけど、それでも……」
途中で言葉が途切れた。
彼女は息を吸い直し、ニコの顔を見つめた。
「私は、あなたが大好きだった。今も大好きなの」
ニコは黙って聞いていた。
十年分の記憶を語られても、その情景は彼の中へ戻ってこない。
それでも、目の前の女性が自分のために泣いていることだけは分かるのだろう。
ニコは少し迷ってから椅子を下りた。
ミレアのそばへ行き、小さな手を伸ばす。
「……泣かないで」
ミレアは顔を上げた。
「僕、まだ思い出せないけど」
ニコは困ったように眉を寄せた。
「でも、お母さんって呼んでもいい?」
ミレアは声を上げて泣いた。
息子の手を両手で包み、何度も頷く。
「いいの。もちろん、いいのよ」
ニコは少し驚いていたが、その場から離れなかった。
ミレアが泣き続ける間、彼はずっと手を握られていた。
何が起きているのか、すべて分かっているわけではない。
それでも、自分の手が誰かを安心させていることだけは、感じ取っているようだった。
俺は二人を見つめていた。
失われた記憶は戻っていない。
ミレアもニコの名前を思い出せず、ニコも母親と過ごした十年間を思い出せない。
なのに今、二人はもう一度手をつないでいる。
それが術式から切り離されずに残っていた感情なのか、新しく生まれた気持ちなのか、俺には分からなかった。
ただ、返却すべきものを考える時、忘れてはいけないことがある。
人間は、失ったものだけでできているわけではない。
失ったあとにも、何かを選び直すことができる。
それは、リゼが自分の名前を選んだ時から、何度も俺に教えてくれたことだった。
ミレアは息子の手を握ったまま、泣いていた。
俺はその姿を、最後まで見ていようと思った。
いつか二人が何を失ったのか確かめるために。
そして、もし取り戻す方法が見つかったなら、今度こそ本人たちの意思を聞いてから、そのつながりを返すために。
食堂の窓の外では、青鐘通りの灯りが夜風に揺れていた。
この通りがまだ誰かの帰る場所であることを、俺たちは諦めていなかった。




