第三十二話 九十四〜九十九
翌朝、青鐘亭の食堂は、いつもの食事時より騒がしかった。
机を三つつなぎ合わせても足りず、ミレアが厨房から予備の机を運んできた。椅子も足りないので、立ったまま順番を待っている住民がいる。
誰かが集会を呼びかけたわけではない。昨夜、地下の切離進行率が九十四になったという噂が広がり、不安を抱えた人たちが自然と青鐘亭へ集まってきたのだ。
困ったことに、その数字が何を意味するのか、俺たち自身もまだ正確には分かっていない。
「これで足りる?」
ミレアが帳面の予備と紙の束を机へ置いた。
「助かります。ただ、もう少し必要になるかもしれません」
「これだけあって?」
「百人近くから話を聞くつもりなので」
ミレアは紙の束を見下ろし、それから俺の顔を見た。
「……セイン、身体は大丈夫なの?」
「昨日よりは。腕も少し動くようになりました」
「その答え、昨日倒れた人が言っても信用しにくいわね」
「ですよね」
「自覚があるなら結構」
ミレアはため息をつくと、さらに奥から帳簿を持ってきた。
「宿の予備よ。足りなかったら使って」
「ありがとうございます。費用は管理局へ請求してください」
「もちろん、あなたの名前で請求するわ」
「そこは係長宛てでお願いします」
「それだと、あなたに怒られないの?」
「……どちらにしても怒られそうです」
ミレアが笑うと、近くで聞いていた住民たちからも笑いが起こった。
こんな時でも冗談を言える人がいる。
それがどれほどありがたいことか、以前の俺なら考えもしなかっただろう。
俺は椅子に座り、右腕をなるべく動かさないようにして紙を広げた。
「皆さん、少し聞いてください」
食堂に集まっていた人々が、こちらへ顔を向ける。
「これから、青鐘通りの外にある大切な場所や、関わりのある人について話を聞きます。仕事先でも、親戚の家でも、買い物に行く店でも構いません」
「何のために?」
年配の男が尋ねた。
「地下で起きている異変は、この通りそのものより、人や場所のつながりを失わせている可能性があります。だから、皆さんが何とつながっていたのか、今のうちに記録しておきたいんです」
「それを書けば元に戻るのかい?」
「まだ約束はできません。でも、何を失ったのか分からなければ、取り戻す方法も探せません」
正直に答えると、男はしばらく考え、やがて頷いた。
「じゃあ、うちの女房の実家も書いてくれ。結婚してから毎年、冬にはあそこへ行くんだ」
「もちろんです」
「女房が嫌がっても?」
隣にいた女性が、男の脇腹を小突いた。
「私が嫌がってるのは、行くたびにあなたが飲みすぎることよ」
また笑い声が起きた。
俺は紙に二人の名前を書き、話を聞き始めた。
失われそうになっているのは、記録の中の線や数字だけではない。
ここにいる人たちの、何十年も続いてきた暮らしなのだ。
◇
俺とリオルは、住民の聞き取りを担当することになった。
ティセラは地下へ戻り、接続群に関する術式を詳しく調べるという。リゼは少し迷ってから、彼女と同行すると申し出た。
「地下に残っている空白を、もう一度確かめたいんです」
「住民の話を聞く方はいいのか?」
「セインとリオルがいれば大丈夫でしょう。私にしか見えないものがあるなら、そっちを調べた方が役に立てると思います」
確かにその通りだった。
分かっているのに、ついリゼの顔を見てしまう。
「……何です?」
「いや、別に」
「まさか、離れるのが寂しいとか?」
「そんなわけないだろ」
「まだ何も言ってませんよ」
「今、言っただろ」
リゼは楽しそうに笑うと、真鍮札の位置を直した。
「ちゃんと働いてきます。セインも無理しないでくださいね」
「分かってる。何かあったら連絡してくれ」
「はい」
ティセラと一緒に出ていく姿を見送り、俺は机へ向き直った。
その横から、リオルが妙に感心した声を出した。
「成長したな、お前」
「何が?」
「前なら、危ないから一緒に行くとか言ってただろ」
「昨日あれだけ怒られたんだぞ」
「よく学んだじゃないか」
「子供扱いするな」
「まあ、世話の焼ける幼なじみではあるけどな」
反論しかけたところへ、次の住民がやってきた。
仕事に戻れるのが少しだけありがたかった。
最初は八百屋の女主人だった。
「外で大事な場所ねえ。中央市場と、姉の家。それから南門の薬屋かしら」
「薬屋も?」
「腰の薬を買うのよ。あそこの店主が作る湿布じゃないと効かないの」
「ほかの薬屋では駄目ですか?」
「若い人には分からないだろうけどね、歳を取ると馴染みの店が一番なのよ」
彼女は真剣な顔で言った。
俺はすぐに薬屋の名前を書き加えた。
「夫の墓もお願い」
その声だけ、少し穏やかになった。
「毎月、花を替えに行くの。あの人、生きてる頃は花なんて一度も買ってこなかったくせに」
「それでも、持っていくんですね」
「そうよ。私の方がずっと気が利くって、今でも教えてやらなきゃ」
女主人は照れたように笑った。
俺は墓地の場所を確かめて、紙へ書き込んだ。
次に来たのは、毎週木曜日に西市場へ行くという男だった。
「仕入れですか?」
「いや、魚屋の向かいに用がある」
「何のお店で?」
「……店じゃない」
男は声を落とした。
「気になってる女がいるんだ」
リオルが顔を上げる。
「それで毎週通ってるんですか?」
「ああ」
「どれくらい?」
「六年」
「六年?」
リオルの声が大きくなった。
男は気まずそうに頷く。
「向こうは俺の顔くらい知ってると思うんだが、なかなか話す機会がなくてな」
「六年も通ってるなら、話す機会くらい作れますよ」
「お前に何が分かる」
「少なくとも六年待つよりは、声をかけた方が早いです」
妙に真面目な顔でリオルが答えた。
俺は紙へ西市場と記入し、その脇に相手がいる場所を書き足した。
「……そこまで書くのか?」
男が慌てる。
「大事なのは市場じゃなくて、そこへ行く理由ですから」
リオルが先に答えた。
俺は思わず手を止めた。
市場という場所は同じでも、そこで何を求めているかは人によって違う。
魚を買いに行く人もいれば、仕事をしに行く人もいる。そして、この男のように、まだ声もかけられない相手に会いたくて通う人だっている。
「……なるほどな」
「何だよ」
「お前、たまに鋭いこと言うよな」
「たまに余計だろ」
リオルが俺の肩を軽く小突いた。
右腕でなくてよかった。
続いてやってきた老婆は、北門を挙げた。
「息子が兵士だったからね。あそこは何度も迎えに行った場所なんだよ」
「今も会いに行くんですか?」
尋ねてから、少しだけ言い方を間違えた気がした。
老婆は穏やかに首を振る。
「十年前に死んだよ。戦じゃなくて病気でね」
「……すみません」
「謝ることじゃないさ。今でも北門を通ると、あの子が若かった頃を思い出すんだ」
老婆は遠くを見るように微笑んだ。
「背ばっかり高くなって、帰ってくるたびに食べ物をねだる子だったよ」
俺は北門と書き、その下に息子との思い出があることを添えた。
死んだ人間を〈返却〉で戻すことはできない。
けれど、誰かを待った場所や、その人を思い出す時間まで奪われていいはずがなかった。
聞き取りを続けるほど、紙の上には場所の名前だけでなく、人々がそこへ向かう理由が増えていった。
◇
昼を過ぎる頃には、机の上が記録で埋まっていた。
住民たちは交代で話をし、ミレアは厨房から茶を運び続けている。俺の右腕を見て、字を書く仕事を代わろうと申し出る人もいた。
途中からリオルが筆記を引き受け、俺は話を聞く方へ回ることになった。
「字、読めるように書いてくれよ」
「お前よりは綺麗だ」
「俺の字を知ってるのか?」
「十年近く見てるんだぞ。知ってて当然だろ」
悔しいが、こいつの方が字は上手かった。
集まった記録には、学校、市場、病院、墓地、親戚の家、かつて働いていた店など、数えきれないほどの場所が並んでいた。
それでも、まだ足りない。
すでに忘れてしまったものは、本人にも説明できないのだ。
俺が考え込んでいると、列の後ろからガロがやってきた。
「次、俺でいいか?」
「ああ。座ってくれ」
ガロは大柄な身体を椅子へ沈めた。
厨房ではいつも豪快に笑っている男だが、今日は妙に静かだった。
「青鐘通りの外で、関係のある場所や人を教えてほしい」
「……妹だな」
「エマ?」
「ああ。名前はまだ覚えてる」
その言い方に、胸が詰まった。
「顔は?」
ガロは目を伏せた。
「分からない。何度思い出そうとしても、そこだけ妙に抜けてる」
膝の上で握った手が、ゆっくり開かれる。
「妹がいたことは分かるんだ。子供の頃に喧嘩したのも、一緒に飯を食ったのも覚えてる。でも、顔を思い出そうとすると、そこだけ白くなる」
「ほかに覚えていることは?」
「家だ。白樫館の二〇三号室。それから昔の学校と、親父が亡くなった病院」
「病院も書いていいんだぞ」
「行きたい場所じゃないけどな」
「行きたい場所だけじゃなく、関わりのあった場所を集めてるから」
ガロはしばらく机の上の紙を眺めていた。
「セイン。こんなものを集めて、本当に何か分かるのか?」
「まだ全部は分からない。でも、地下の施設は人と人や、人と場所のつながりを切り離している可能性がある。だから、元は何とつながっていたのかを調べてるんだ」
「……難しいな」
「俺もそう思う」
「役人なのに?」
「役人だから余計に難しく考えてるのかもしれない」
ガロは少しだけ口元を緩めた。
「そりゃありそうだ」
そして、自分の名前を書いた紙へ視線を戻した。
「エマの顔、取り戻せるかな」
その問いに、すぐ答えることはできなかった。
俺の〈返却〉は、失われた記憶を好きなように作り直せる術ではない。
ただ、もし地下の施設に彼らの関係が返せる形で残っているなら、何かできるかもしれない。
「方法は探してる。だから、もう少し待ってくれ」
「……頼む」
ガロは立ち上がり、厨房へ戻っていった。
その背中は、いつもより少し小さく見えた。
◇
午後になって、ティセラが青鐘亭へ戻ってきた。
俺は反射的に、その後ろへ目を向けた。
リゼの姿はない。
「リゼは?」
「地下よ。調査員の近くで、空白の痕跡を確認しているわ」
「一人で大丈夫なのか?」
「体調が悪くなったら止めるように伝えてある。それに、本人がもう少し調べたいと言ったの」
分かっている。
リゼには自分で判断する力があるし、俺が何でも決めていいわけではない。
それでも気になるものは気になる。
「何かあった?」
尋ねると、ティセラは少し言葉を選んだ。
「詳しいことは本人から聞いて。でも、無理をしていないかは私も気をつける」
「……分かった」
立ち上がりかけた俺を、リオルが視線だけで止めた。
何も言われなくても、考えていることは伝わったらしい。
俺は座り直した。
「それで、何か分かったのか?」
ティセラは持ってきた写しを広げた。
『帰属接続を分割し、個別に預託する』
「この部分よ。刻印として残っていた文字を確認できたわ」
「預託ってことは、切り離したものをどこかに預かっている?」
「その可能性が高い。装置は青鐘通りを丸ごと一つの対象として切り離しているのではなく、人と人、人と場所の関係をそれぞれ別に扱っていると考えられる」
彼女は住民から集めた紙を示した。
「たとえば、ガロとエマの関係。デリクと家の関係。そうしたものを分けて保存しているとしたら、こちらの記録ともつじつまが合うわ」
「……なら、切られた接続を返せばいいんじゃないか?」
「試す価値はあると思う。ただし、術式が保持している対象を正しく特定できることが条件よ」
ティセラは言葉を続けた。
「〈返却〉は失った記憶を作り直す力ではないでしょう。でも、関係そのものが術式の中に保持されているなら、その保持されたものを元の接続先へ返せるかもしれない」
俺は紙へ目を落とした。
意味は分かった。
ただ、可能性があるということと、成功するということは別だ。
「危険は?」
「青鐘通り全体を対象にするよりは限定できる。でも、安全とは言い切れない」
「誰かに試してもらう必要がある?」
「ええ。本人の同意も必要だと思う」
リオルが静かに言った。
「ガロに話してみるか」
俺は頷いた。
今度は、俺一人で結論を出すつもりはなかった。
◇
ガロは説明を聞き終えると、迷わず頷いた。
「やってくれ」
「待ってくれ。まだ成功するとは限らないんだ」
「分かってる」
「反動がどこへ出るかも、完全には分かっていない。俺も前に術を使って倒れたばかりだ」
ガロは俺の右腕へ目を向けた。
「それでも頼みたい」
「……理由を聞いてもいいか?」
彼はしばらく黙っていた。
そして、ぽつりと答えた。
「妹の顔を忘れたまま、妹に会いたくないんだよ」
俺は言葉を失った。
「もし目の前にエマが立っても、俺はあいつだと分からないかもしれないだろ。向こうが兄ちゃんって呼んでくれても、俺は他人を見るみたいな顔をするかもしれない」
ガロは両手を握りしめた。
「それだけは、嫌なんだ」
厨房の料理人として働く姿からは想像できないほど、声が弱々しかった。
俺はティセラとリオルを見た。
二人とも真剣な顔で頷いた。
「分かった。ただし、少しでも異常があったら止める。ガロも、嫌になったらすぐ言ってくれ」
「ああ」
地下の保全室へ戻り、ティセラが調べていた真鍮板の前に立った。
術式の記録から、ガロの外部血縁に関わる可能性が高いものが見つかっている。
ただし、それが確実にエマとの接続を指すのかはまだ断定できない。
「対象を特定するための手がかりは、ここまでよ」
ティセラが真鍮板の文字を示した。
「これ以上は、術がどう反応するか見なければ分からない」
俺は左手を伸ばした。
右腕にはまだ痛みが残っている。今回は無理をしないと決めていた。
「ガロ、本当にいいんだな?」
「ああ。頼むよ、セイン」
深く息を吸い、真鍮板へ意識を集中させる。
「〈返却〉」
冷たい金属の奥で、小さく何かが動いた。
以前、青鐘通りそのものを返そうとした時のような激痛はない。指先へ細い振動が伝わり、空気の中に白い返却票が浮かび上がった。
『返却対象:帰属接続』
『返却先:原接続点』
俺はその文字を見つめた。
今度は不適合ではなかった。
帰属先が存在する。
切り離される前に、確かにつながっていた場所へ戻ろうとしている。
「……ガロ?」
呼びかけても、彼は動かなかった。
真鍮板の表面に淡い光が走り、すぐに消える。
長い沈黙のあと、ガロが口を開いた。
「……エマ」
声が震えていた。
「どうした?」
「髪が……」
彼は自分の額へ手を当てた。
「長かったんだ。子供の頃、あいつは髪を切るのが大嫌いでさ。母さんに怒られても逃げ回って……俺が捕まえる役だった」
ガロの口元がゆっくり緩んだ。
「笑う時、右の頬に小さなえくぼができて……」
その声が、途中で途切れた。
俺は彼の顔を見た。
笑っている。
けれど目には涙が滲んでいた。
「……思い出したのか?」
「ああ。顔が見える。ちゃんと、エマの顔だ」
俺の胸にも、熱いものが込み上げた。
返せた。
ほんの一つかもしれないが、失われた関係に再び手が届いたのだ。
「よかった……」
そう言いかけた瞬間、真鍮板が低く震えた。
ティセラが顔色を変える。
「待って。術式がまだ動いてる」
ガロが突然、額を押さえた。
「……あれ?」
「どうした?」
「待ってくれ」
彼の声が掠れた。
「今、見えたのに」
笑顔が消えていく。
「エマの顔が、また……」
ガロは目を閉じ、何かを必死に思い浮かべようとした。
「長い髪で、右の頬に……」
そこで言葉が止まった。
額を押さえていた手が、ゆっくり下がる。
「……分からない」
部屋が静まり返った。
「さっきまで、ちゃんと見えてたんだ。目も、鼻も、笑った顔も……なのに、もう分からない」
俺は真鍮板へ手を伸ばしかけた。
「セイン、触らないで!」
ティセラが制した。
「装置の切離処理が続いているの。戻した接続が、また切り離された可能性がある」
「……じゃあ、もう一度返せば」
「今は駄目。原因を確かめないまま繰り返しても、同じことが起きるかもしれない」
その言葉に、手を止めた。
ガロは俯いたままだった。
数秒だけ、妹の顔を取り戻した。
けれど、それがかえって残酷な結果になってしまったのかもしれない。
「……すまない」
俺が言うと、ガロは首を振った。
「謝るなよ」
「でも」
「一度は思い出せたんだろ」
彼は涙を拭い、無理に笑おうとした。
「ちゃんと戻ってきたんだ。俺の妹の顔が」
俺は何も言えなかった。
「だったら、まだ希望はあるじゃないか」
ガロはそう言った。
きっと、自分に言い聞かせるためでもあったのだと思う。
その言葉を、俺は簡単に否定できなかった。
◇
ガロが地上へ戻ったあと、俺たちは保全室に残って話し合った。
ティセラは真鍮板の記録を確認し、術の前後で変化した部分を書き留めている。
「少なくとも、術式に保持されていた接続の一部を返すことはできたと考えられるわ」
「でも、すぐに切られた」
「ええ。装置が稼働したままだからでしょうね」
リオルが腕を組む。
「じゃあ、装置を止めればいい?」
「止めるだけで全部が戻るとは限らないわ。切り離された接続がどう保存されているかも、まだ不明な部分が多い」
「なら、止めることと返すことの両方が必要かもしれないな」
俺が言うと、ティセラは頷いた。
「その可能性がある。でも、全部を一度に返せるという根拠はないわ。どうすれば切離を止められるのかも分かっていない」
真鍮板を見つめた。
ほんの一つの接続を戻すだけでも、これだけの準備が必要だった。
青鐘通りには百人近い住民が暮らしている。そして一人ひとりが、家族や友人、仕事や場所といくつもの関係を結んでいる。
それらを全部調べ、正しい接続先を見つけるだけでも膨大な時間がかかるだろう。
「……難しいな」
俺が呟くと、リオルが笑わずに答えた。
「簡単だったら、もう終わってるさ」
「そうだな」
「でも、ガロの顔を見ただろ。一度は戻った。あれは無駄じゃない」
俺は頷いた。
もし何の手がかりもなかったなら、ガロは妹の顔を再び思い出すことさえできなかっただろう。
それでも、数秒でまた失われた現実は重かった。
「……まず装置を止める方法を探そう」
「ええ。第三保全槽の欠落も、操作した人物の痕跡も、まだ調べる必要があるわ」
ティセラは記録をまとめた。
「ただ、もう一つ気になることがあるの」
「何?」
「リゼの様子よ。地下で空白の痕跡を追っていたけれど、途中から数が多すぎて、ひどく疲れていたみたいなの」
俺は立ち上がった。
「今どこにいる?」
「保守通路の方。調査員には様子を見てくれるよう頼んである」
「迎えに行く」
ティセラは一瞬だけ俺を見た。
だが、止めはしなかった。
「そうしてあげて。ただし、あなたも無理しないで」
「ああ」
俺はリオルとともに保守通路へ向かった。
◇
リゼは階段の途中で休んでいた。
石壁に背を預け、膝の上へ手を置いている。俺たちの足音に気づくと顔を上げたが、いつものような勢いはなかった。
「……セイン」
「大丈夫か?」
「大丈夫です。少し疲れただけなので」
近づいてみると、顔色が悪かった。
「無理してないか?」
「セインにだけは言われたくありません」
いつもの返しだった。
ただ、その声が弱い。
俺は隣の段へ腰を下ろした。
「何が見えた?」
リゼは少し迷ってから、石壁の奥へ視線を向けた。
「たくさんの空白です。人だけじゃありませんでした。家も、店も、井戸も……もっと細かいものまで」
「接続の痕跡?」
「たぶん、そうだと思います。でも、どれが何につながっていたのかは分かりません。見ようとすると、あまりにも多すぎて」
彼女は目を閉じた。
「途中から、何を見ているのか自分でも分からなくなりそうでした」
その言葉に、俺は少し考えた。
リゼには、失われたものの跡が分かる。なぜそんなことができるのか、俺たちはまだ知らない。だが、どんなものでも自由に読み取れるわけではないし、たくさんの痕跡を見続ければ、身体への負担もあるのかもしれない。
「今日はもう休もう」
「でも」
「無理するなって言っただろ。俺も昨日、同じことを言われた」
リゼがこちらを向いた。
「……それ、自分に言い聞かせてます?」
「半分くらいは」
少しだけ笑ってくれた。
俺は、ガロの身に起きたことを最初から説明した。
真鍮板へ〈返却〉を使ったこと。帰属接続を原接続点へ戻す反応があったこと。ガロが一瞬だけエマの顔を思い出し、すぐに再び失ったこと。
リゼは最後まで黙って聞いていた。
「……返せたんですね」
「ああ。でも、守れなかった」
「そうですか」
彼女はしばらく考え込んだ。
「じゃあ、まだ返せるものはあるんですね」
俺は顔を上げた。
「そうだと思う。ただ、装置が動いている限り、また失われるかもしれない」
「……意地悪な仕組みですね」
「本当にな」
リゼは壁へ頭を預けた。
「せっかく思い出したのに、また忘れるなんて。最初から思い出せなかった方が楽だったのかな」
俺には、すぐ答えられなかった。
ガロは一瞬だけ笑っていた。
妹の顔が戻った時、確かに嬉しそうだった。
それを再び失ったことが、どれほど苦しいのかは俺には分からない。
「……本人がどう感じたかは、ガロにしか決められないな」
俺が答えると、リゼはゆっくり頷いた。
「そうですね」
しばらくして、彼女は立ち上がった。
「戻りましょう。ミレアさんも心配してると思います」
「ああ」
今度は俺が手を差し出した。
リゼは少し驚いた顔をしたあと、その手を取った。
「右腕じゃなくてよかったです」
「まだ痛いからな」
「ちゃんと治してくださいね」
「努力する」
「約束ですよ」
「……約束する」
彼女は満足そうに頷いた。
こんな状況でも、俺たちはまだ互いの名前を呼べる。
その当たり前のことを、失いたくなかった。
◇
青鐘亭へ戻ると、ミレアが食堂の中央に立っていた。
顔色が悪い。
机の上には、俺たちが住民から集めた紙が広げられている。
「セイン、これを見て」
彼女が差し出した一枚に、俺は目を落とした。
ところどころ、文字が消えていた。
名前や場所を書き込んだはずの欄が、最初から何もなかったかのように白くなっている。
「……いつから?」
「さっき気づいたの。ほかの紙も確認したら、何枚か同じようになっていて」
俺は急いで机の上を調べた。
西市場、北門、学校、墓地。
記録された場所の名前が、いくつか抜け落ちている。
今朝は確かにあったはずの文字だ。
「リオル、進行率は?」
彼は連絡札を取り出した。
「……九十六」
地下では九十四だった。
俺たちが調べている間にも、二つ進んでいる。
「九十六になったから二つの記録が消えた、ということ?」
リゼが尋ねた。
「まだ分からない。数字と消えた文字がどう対応しているのか、確かめようがない」
俺が答えた直後、リオルの連絡札が震えた。
「……九十七」
食堂の空気が凍りつく。
誰も声を出さない。
また札が震えた。
「九十八」
ミレアが息を呑んだ。
その時、奥の厨房で皿の割れる音がした。
全員が振り向く。
ニコが立っていた。
床には砕けた皿が散らばっている。
「ニコ!」
ミレアが駆け寄った。
「怪我はない?」
「……うん」
ニコは俯いたまま答えた。
俺も近づき、膝をついた。
「大丈夫か? 皿は俺たちが片づけるから、そこを動くなよ」
ニコが顔を上げた。
その目が、俺を捉える。
けれど、いつものような反応はなかった。
「……誰?」
身体が冷たくなった。
「俺だよ。セイン」
ニコは困ったように首を傾げる。
「セイン?」
「ああ。さっきも話しただろ」
「……ごめん。知らない人だと思った」
笑っていない。
冗談ではないのだ。
「俺の顔、思い出せないか?」
ニコはしばらく俺を見つめた。
必死に考えているのが分かった。
それでも、答えは変わらなかった。
「……分かんない」
背後からリゼが近づいてきた。
「ニコ」
彼女が声をかけると、ニコはそちらを向いた。
その目に、ほんの少しだけ見覚えのようなものが浮かんだ。
「あ……」
リゼの表情が明るくなる。
「分かります?」
ニコは首を傾げた。
「壁のところにいた人?」
リゼの笑顔が止まった。
「……そうです。前に一緒にいたでしょう」
「うん。たぶん」
「名前は?」
彼女は静かに尋ねた。
ニコは眉を寄せ、何度も考え直した。
「……ごめん。分かんない」
リゼはしばらく動かなかった。
腰に下げた真鍮札へ、そっと手を伸ばす。
そこには、自分で選んだ名前が刻まれている。
彼女は札を握りしめ、それからニコと同じ高さへしゃがんだ。
「もう一度言いますね」
声は穏やかだった。
「私、リゼです」
「……リゼ」
「はい」
ニコはその名前を何度か口の中で繰り返した。
「ごめんね。忘れちゃって」
リゼはゆっくり首を振った。
「謝らなくていいです」
「怒ってない?」
「怒ってませんよ」
その声は優しかった。
けれど、俺には彼女がどれほど傷ついているのか、分かるような気がした。
忘れられることは、知っている人がいなくなることと同じではない。
目の前にいる相手が、自分との思い出だけを失ってしまう。
それでも相手は、何も変わらない顔でそこにいるのだ。
ミレアがニコの肩を抱いた。
「ニコ、母さんのことは分かる?」
声が震えている。
ニコは不思議そうに母親を見上げた。
「……母さん?」
「そうよ」
「何で泣いてるの?」
その言葉で、ミレアの顔が歪んだ。
彼女は息子を強く抱きしめた。
「何でもない。何でもないのよ」
ニコは少し困った顔をしたが、母親の背中へ腕を回した。
俺はその光景を見つめていた。
ミレアはニコの実の母親だ。
生まれてから十年間、何度も食事を作り、叱り、笑い、病気の日には眠らず看病したのだろう。
その積み重ねが、今はまだ残っている。
ニコは母親を母親だと分かっている。
けれど、次もそうだとは限らない。
その考えが頭に浮かんだ時、連絡札がまた震えた。
リオルが表示を確かめる。
彼の顔から、表情が消えた。
「……セイン」
俺は振り向いた。
「九十九だ」
それだけだった。
たった一つ、数字が増えただけだ。
それなのに、食堂の誰も動けなかった。
ニコはまだ母親の腕の中にいる。
「母さん、苦しいよ」
「……ごめんね」
ミレアは腕の力を緩めた。
けれど、手だけは離さなかった。
俺はその姿を見ながら、地下の石台を思い出していた。
青鐘通りを返そうとして失敗したこと。
接続群という言葉を見つけたこと。
ガロが一瞬だけ妹の顔を思い出し、再び失ったこと。
何も分からなかった頃より、今は確かに前へ進んでいる。
それでも、数字は九十九まで来てしまった。
百になれば何が起きるのか。
最後の一つで何が切り離されるのか。
誰にも分からない。
ミレアの指が、息子の肩を握りしめている。
ニコはその手を不思議そうに見つめ、それから母親の顔を見上げた。
まだ、分かっている。
まだ、呼べる。
その二つの事実が、こんなにも頼りなく感じられたことはなかった。
俺は初めて、本気で思った。
このままでは、間に合わないかもしれない。




