第三十一話 誰のものでもない
ティセラとリオルが青鐘亭へやってきたのは、リゼが呼びに行ってから十分ほど経った頃だった。
俺はまだ寝台に横になっていた。右腕の痛みは少し和らいだものの、指先には痺れが残っている。起き上がろうとすると頭も重くなるので、今は大人しくしておくしかなかった。
「……生きてるな」
部屋へ入るなり、リオルが言った。
「残念だったな」
「残念なわけあるか。お前が倒れたって聞いて、こっちは仕事を放り出して来たんだぞ」
「仕事を放り出すなよ、警備隊員」
「誰のせいだと思ってる」
リオルは椅子を引き寄せ、寝台の脇へ腰を下ろした。いつもの軽い調子だったが、俺の右腕を確認する目は笑っていない。
ティセラも近づいてきた。地下で記録を取っていたせいか、指先には黒いインクが付いている。
「痛みは?」
「動かさなければ、そこまででもない」
「じゃあ、動かさないことね。少なくとも、原因の分からない術の反動を受けた直後に、もう一度試すような真似はしないで」
「……分かってる」
「本当に?」
三人がほとんど同時に俺を見た。
「信用がないな」
「実績の問題でしょう」
リゼが枕元の椅子に座りながら答えた。
どうやら、俺に対する監視体制はすでに整っているらしい。
「それで、何を見せたいの?」
ティセラが尋ねる。
俺は左手で共同井戸の帳面を開き、枕元へ寄せてもらった。
「さっき、少し考えたんだ。俺が失敗した理由について」
「術を使う前に相談しなかったこと?」
「それはもう反省した」
「なら、続きを聞くわ」
ティセラは真面目な顔で頷いた。
研究者というのは、時々こういうところが容赦ない。
俺は帳面の古い地図を示した。
「青鐘通りが公共路として登録される前の記録だ。最初は共同井戸を使う人たちが行き来するうちに、道になったらしい」
「ええ。そこは確認したわ」
「俺は、その道を王都南三区へ返そうとした。地下の装置にも、原帰属が王都南三区だと書いてあったからな」
リオルが腕を組んだ。
「でも、〈返却〉は失敗したんだろ?」
「ああ。返却票には『不適合』と出た」
「それで?」
「もしかすると、返す相手を探すところから間違っていたのかもしれない」
ティセラが少し身を乗り出した。
「詳しく聞かせて」
「今までは、青鐘通りが誰のものかを考えてた。王都のものなのか、ここに住む人たちのものなのか。けど、そもそも道そのものを、誰かの持ち物として考える必要があるのかなって」
リオルは地図を覗き込んだ。
「公共路なら、王都が管理してるんじゃないのか?」
「管理はしてるだろうな。でも、管理していることと、持ち主であることは同じじゃない」
「……ああ、そういうことか」
リオルは窓の外へ目を向けた。
「警備隊は王都の道を巡回するけど、俺たちが道を持ってるわけじゃない。それと似てるな」
「そう。俺は、管理している相手に返せばいいと思ってしまった」
ティセラが帳面を開き直した。
「ただし、『不適合』の理由はまだ特定できないわ。返却先が違ったのか、青鐘通りそのものを返却対象にしたことが違ったのか。それとも、術が扱えない状態だったのかもしれない」
「分かってる。だから、今度は決めつけずに考えたい」
「……それならいいわ」
彼女は少しだけ表情を緩めた。
俺は改めて、井戸へ伸びる古い道を眺めた。
十二軒の家から延びた細い線が、途中で重なり合っている。そこには青鐘通りという名前も、王都が決めた道路番号もなかった。
それでも、人々はこの道を使って暮らしていた。
「俺は、道には持ち主が必要だと思ってたんだ。でも、そうじゃないのかもしれない」
「誰のものでもない、ということ?」
リゼが尋ねた。
「ああ。少なくとも、誰か一人の持ち物として扱うのは違う気がする」
言葉にすると単純だった。
けれど、この単純なことに気づくまで、俺は随分と遠回りをしたらしい。
「……それ、人間にも似てますね」
リゼが呟いた。
「人間?」
「はい。セインは前に、人を〈返却〉することはできないって言ってましたよね」
「ああ。親のもとへ子供を返すとか、そういう使い方はできない。人間を誰かの持ち物として扱う術じゃないからな」
「だったら、道も同じなのかなって」
リゼは地図の端を押さえ、井戸へ伸びる細い線を目で追った。
「この道は誰かが持っていたから道になったんじゃなくて、みんなが歩いていたから道になったんですよね」
「そうだと思う」
「じゃあ、王都が後からここを公共路として登録したのも、道に持ち主ができたというより……」
そこで一度考え込み、彼女は窓の外を見た。
「王都の中に、ちゃんと居場所ができたってことじゃないですか?」
俺はすぐに答えられなかった。
居場所。
その言葉は、帰属という難しい文字よりも、ずっと自然に胸へ入ってきた。
「……そうかもしれないな」
「珍しく素直ですね」
「たまには褒めるよ」
「今の、褒めました?」
「たぶん」
「そこは言い切ってください」
リゼは不満そうに眉を寄せたが、その口元は笑っていた。
すると、彼女の腰で真鍮の小さな札が触れ合い、澄んだ音を立てた。
「そういえば、それ」
俺は一枚の札を指した。
「前から気になってたんだけど、何て書いてあるんだ?」
「私の名前です」
リゼは腰から札を外し、こちらへ向けた。
『リゼ』
二文字だけが、少し不揃いに刻まれていた。
「自分で作ったのか?」
「昨日、道具を借りて作りました。ちょっと曲がってますけど」
「何でまた?」
「また名前がなくなったら困るので」
冗談のように言い、彼女は札を指先で揺らした。
けれど俺には、その言葉を笑うことができなかった。
リゼは本当に、自分の名前を失っている。
家族と思われる人間にも知らないと言われ、住民証明書にさえ名前が残っていなかった。
それでも今、彼女は自分で選んだ名前を名乗っている。
「……リゼ」
「はい?」
「その札があれば、また名前を失っても思い出せると思うか?」
少し意地の悪い質問だったかもしれない。
リゼは札を見下ろし、しばらく考えた。
「分かりません。もし本当に名前が消えたら、この文字まで消えるかもしれませんし、読めても自分の名前だと思えなくなるかもしれない」
「そうだな」
「でも、何もしないよりはいいかなって」
彼女は札を握り直した。
「それに、この名前は誰かから返してもらったわけじゃありません。私が選んだんです」
「ああ」
「お父さんが付けてくれた名前じゃないし、役所の記録にあった名前でもない。それでも今の私は、リゼとしてここにいます」
赤い瞳が、俺を見つめた。
「誰かの持ち物じゃなくても、誰かに名前を決めてもらわなくても、人はちゃんと生きていけるでしょう?」
不思議なものだ。
この子は、失ったものが多い。
本当の名前も、家族との関係も、以前どこで何をしていたのかさえ、まだ曖昧なところがある。
なのに時々、俺よりずっと確かなものを持っているように見える。
自分で決めたことを、簡単には手放さない強さだ。
「……そうだな」
俺が答えると、リゼは少し得意そうに笑った。
「今日の私は、結構いいこと言ってますね」
「自分で言うと台無しだぞ」
「セインがあまり褒めてくれないからです」
「さっき褒めただろ」
「曖昧でした」
リオルが横で笑い、ティセラも小さく息を吐いた。
俺はもう一度、真鍮札を見た。
何でも返すことが正しいわけではない。
なくしたものが戻らなくても、自分で選び直せるものがある。
それを、俺はリゼから教わったのかもしれない。
◇
「今の話、少し整理してもいい?」
ティセラが手帳を開いた。
その声で、俺たちは机の上へ視線を戻した。
「これまで調べた術式には、『所有』よりも『帰属』や『接続』に関係する文字が多く残っていたわ」
「所有と帰属って、そんなに違うものなのか?」
リオルが尋ねる。
ティセラはすぐに説明を始めず、窓の外の青鐘亭の看板へ目を向けた。
「例えば、あのお店はミレアさんが営んでいるでしょう」
「ああ」
「でも、ニコが青鐘亭を自分の家だと思うのは、彼が店の持ち主だからではないわよね」
「母親がいて、そこで暮らしているからだろ」
「そういうことよ。誰のものかという話と、どこが自分の居場所なのかという話は、重なることもあるけれど同じではないの」
リオルが納得したように頷いた。
いつもなら小難しい用語が三つ続いた時点で話を遮っていただろうが、今は違った。
「じゃあ、デリクさんが家を自分の家だと思えなくなったのも……」
「建物を失ったわけじゃない。本人とその家とのつながりに異変が起きている可能性がある、ということね」
「なるほどな」
俺は二人のやり取りを聞きながら、青鐘通りで起きた事件を思い出していた。
デリクは家へ帰る道を失った。
パン屋の主人は、自分の店を他人のもののように感じ始めた。
ガロは妹エマとの記憶が薄れ、ニコは俺のことを一時的に認識できなくなった。
建物が壊れたわけでも、人間が別の場所へ運ばれたわけでもない。
そこにあるもの同士の関係が、少しずつ損なわれている。
「……俺たちは最初から、道の持ち主を探す必要なんてなかったのかもしれない」
思わず口にすると、ティセラが頷いた。
「可能性は高いわ。ただし、装置が具体的に何を処理しているのか、まだ確かな資料が足りない」
「地下に戻れば調べられる?」
「今まで写した術式を、違う観点から読み直す価値はあるわ」
彼女はそこまで言って、俺の右腕へ目を向けた。
「でも、あなたが行く必要はないでしょう?」
俺は返答に迷った。
正直に言えば、すぐにでも地下へ戻りたい。
ただ、リゼとの約束を破ってまで動くつもりはなかった。
「できれば自分の目でも確かめたい。でも、無理ならここで待つ。今の身体でどこまで動けるか、俺には判断しきれないから」
ティセラが少し驚いたように俺を見た。
「……やっとまともなことを言ったわね」
「俺だって成長するんだよ」
「一時間で?」
「人間、追い込まれると早いらしい」
リオルが立ち上がった。
「じゃあ、少し歩いてみろ。階段を下りられそうになければ、俺たちだけで行く。途中で具合が悪くなっても引き返すぞ」
「分かった」
「それから〈返却〉は使うな。少なくとも原因が分かるまでは」
「使わない」
俺の返事に、リゼが目を細めた。
「今の、ちゃんと聞きましたからね」
「分かってるって」
寝台から足を下ろすと、身体が少し重かった。
しかし壁へ手を添えて立ち上がっても、先ほどのように視界が揺れることはない。
右腕はまだ痛むが、歩くだけならどうにかなりそうだった。
「行けるか?」
リオルが尋ねる。
「ああ。ただ、帰り道は少し手を貸してもらうかもしれない」
「最初からそのつもりだよ」
そう言って、彼は何でもないように俺の左側へ回った。
昔からこういう男だった。
必要以上に心配している顔は見せず、気づけば一番近くにいる。
俺はそのありがたさを、もう少し素直に認めてもいいのかもしれない。
◇
地下施設の石台には、まだ九十三という数字が浮かんでいた。
地上と地下を行き来している間に変化がなかったことに、少しだけ安堵する。しかし数字が止まっている理由も分からない以上、安心しきることはできなかった。
ティセラは持参した紙を床へ広げ、これまで写し取った術式を順に確かめ始めた。
「今度は、対象の種類を分けて見てみるわ。所有者を示す文字なのか、それとも何かとの関係を示す文字なのか」
リオルが石台の裏側へ灯りを向けた。
「俺は周囲を調べる。まだ見落としてる刻印があるかもしれないからな」
俺は入口近くの石壁へ腰を下ろし、共同井戸の帳面を開いた。
リゼは少し離れたところで、石台の周囲を見回している。
「無理するなよ」
「セインにだけは言われたくありません」
「それはそうだな」
今の俺には反論する資格がなかった。
ティセラが術式の写しへ線を引く。
「……やっぱり、おかしいわ」
「何が?」
「以前は『原帰属』という言葉から、土地の所属を中心に考えていたの。でも、周辺には境界や接続に関係する術式がいくつもある」
「接続って、人と家みたいな?」
「ええ。それだけとは限らないけれど」
彼女は二枚の写しを並べた。
「たとえば、ある人が家族の一員であることと、家を自分の住まいだと認識することは、別の関係よね。装置は、そうした複数の関係を個別に扱っているのかもしれない」
「……面倒な仕組みだな」
「人間の暮らしが、それだけ多くのものと結びついているということよ」
ティセラは淡々と答えたが、その指先はいつもより速く動いていた。
彼女も何かに近づいていると感じているのだろう。
「セイン」
リゼが俺を呼んだ。
「少し、いいですか?」
「ああ。どうした?」
「前に、失われたものの跡がこの場所へ集まっているようだって言いましたよね」
「覚えてる」
「でも、あれは少し違っていたのかもしれません」
彼女は石台を見つめた。
その赤い瞳が、何もない空間をゆっくりと追っている。
「ここへ集められていると思っていたんです。でも、よく見ると……途中でなくなっている、という感じの方が近いかもしれません」
「途中で?」
「うまく説明できないんですけど、ほら、布が途中で破れたら、その先がなくても、そこに続きがあったことは分かるでしょう?」
「ああ」
「そんな感じです。ここには、何かの続きが失われたような跡が、たくさん残ってます」
ティセラが顔を上げた。
「その先に何があったかは分かる?」
「いいえ。どこへつながっていたのかは見えません」
「数は?」
リゼは困ったように眉を寄せた。
「とても数えられません。百人分より多い気がしますけど、それも正確には……」
「人間だけのものじゃないのかもしれないわね」
ティセラが呟いた。
リゼも頷いた。
「そうだと思います。人が失われた跡だけじゃなくて、場所がそこにあったことや、何かと結びついていたような跡も混ざっている気がするんです」
彼女は言葉を選びながら話している。
リゼには失われた跡が分かるものの、そこに何があったのかまでは見えない。
リゼ自身、見えている痕跡から何が失われたのかを推測するしかないのだ。
それでも、彼女の観察は重要だった。
「……青鐘通りが、外と結んでいたものか」
俺が呟くと、リゼがこちらを向いた。
「外だけとは限らないですけど……たぶん」
「分かった。ありがとう」
彼女が少し照れたような顔をした、その時だった。
「おい、こっちに来てくれ」
リオルの声が石壁に響いた。
彼は石台の反対側でしゃがみ、床へ灯りを向けている。
「何か見つけた?」
「この下、文字がある」
リオルは足元の埃を手袋で慎重に払い、灯りの角度を変えた。
石の継ぎ目に沿って、薄い刻印が残っていた。
長い年月の間に摩耗しているものの、いくつかの文字はまだ読める。
ティセラが膝をついた。
「待って。私が確認する」
彼女は灯りを近づけ、指で埃を避けながら、文字を一つずつ確かめた。
『帰属対象』
その下に、もう一行。
『接続群』
「……接続群?」
俺は声に出して読んだ。
ティセラの動きが止まった。
「なるほど。だから単数の対象として考えると合わなかったのかもしれない」
「どういうことだ?」
リオルが尋ねると、彼女は床の刻印を示した。
「接続群というのは、一つのつながりじゃなくて、複数のつながりをまとめたものを指している可能性があるわ」
「青鐘通りと王都を結ぶ一本の線じゃなくて?」
「ええ。青鐘通りに暮らす人たちが、それぞれ別の場所や人と結んでいる関係まで含んでいるのかもしれない」
俺は石台へ目を向けた。
帰属切離。
あの装置に刻まれていた文字だ。
俺たちは、青鐘通りという場所が王都から切り離されているのだと思っていた。
だが、切り離されていたのが一つの場所ではなく、その場所から伸びる数えきれないほどの関係だったとしたら。
「……そうか」
少しずつ、頭の中でつながり始めた。
デリクが家を忘れたのは、家そのものが消えたからではない。
パン屋の主人が店を他人のもののように感じたのも、店が失われたわけではなかった。
ガロと妹エマの関係も、ニコが俺を認識できなくなったことも、同じ仕組みによって起きている可能性がある。
どれも、そこにあるもの同士を結んでいた何かが失われている。
「青鐘通りを返そうとしたのが間違いだったのかもしれないな」
俺が言うと、ティセラが頷いた。
「少なくとも、調べるべき対象は見えてきたわ。装置が扱っているのは、道路そのものではなく、複数の帰属関係なのかもしれない」
「なら、切られた関係を返せばいい?」
リゼが尋ねた。
「そう簡単にはいかないわ。接続群という文字だけでは、何が保存されているのか、どこへ返すべきなのかも分からないもの」
その答えに、俺は黙って頷いた。
以前の俺なら、ここで〈返却〉を使えるか試したくなっただろう。
けれど、今は違う。
俺の術は、人の記憶や人生を自由に作り直せる力ではない。そもそも、切り離された関係が返却できる形で残っているのかさえ不明なのだ。
帰属先が分からないまま使えば、さっきの失敗を繰り返すだけかもしれない。
「じゃあ、何を調べればいい?」
俺が尋ねると、ティセラは少し考えた。
「それぞれの関係が、どこと結びついていたか。その情報が必要だと思う」
「……家なら、そこに住んでいた人。仕事なら、働いていた場所か」
「そうね。ただ、一つの場所に関係する人が何人もいる場合もあるし、同じ人に複数の関係がある場合もあるわ」
リオルが腕を組んだ。
「つまり、青鐘通りって一つにまとめて返すより、住民が何とつながっていたのかを一つずつ確かめろってことか」
俺はリオルを見た。
妙に分かりやすい。
「……お前、たまにいいこと言うな」
「たまに余計だろ」
「褒めてるんだよ」
「もっとちゃんと褒めろ」
リゼが楽しそうに笑った。
ティセラも少し肩の力を抜いたが、すぐに床の刻印へ目を戻した。
「ただし、まだ仮説よ。接続群が具体的にどう処理されているのか、もっと調べる必要がある。第三保全槽がなくなっていることも気になるわ」
「ああ」
「それに、もし返却できる対象が見つかったとしても、本人が望んでいるかどうかは別の問題でしょう?」
その言葉に、俺はリゼを見た。
かつて彼女が、自分の本当の名前を取り戻さないと決めた日のことを思い出した。
正しい帰属先があることと、そこへ返すべきかどうかは同じではない。
それは、俺たちが最初に学んだことだった。
「分かってる。勝手に返すつもりはない」
俺が答えると、ティセラは安心したように息を吐いた。
俺たちはようやく、何を探すべきなのか、その入口に立ったのかもしれない。
◇
「問題は、誰が何とつながっていたかだな」
リオルは地下へ来る前に取った住民の聞き取り記録を開いた。
そこには、デリクが家を認識できなくなったことや、パン屋の主人が店との関係を失いかけていることが書かれている。
「こういう記録を、もっと集められないかな」
俺が言うと、リオルは考え込んだ。
「通りの住民は百人近くいるぞ。しかも一人につき、つながっている相手や場所は一つじゃない」
「分かってる」
「お前、今の身体で全員回るつもりじゃないだろうな」
「……座って話を聞くくらいなら」
「先にそれを言え」
リオルは呆れながらも、手帳の余白へ何かを書き始めた。
「俺も手伝う。警備隊として住民の状況を調べる必要があるし、名前や住所を確認するくらいなら、ほかの調査員にも頼める」
「助かる」
「ただし、全員が覚えているとは限らない。デリクさんみたいに、忘れたこと自体をうまく説明できない人もいるだろ」
俺は頷いた。
「だから、覚えているうちに聞いておきたいんだ。青鐘通りの外で大切にしている場所とか、会いたい人とか、普段どこへ行くのかとか」
「そういう話なら、住民も答えやすいかもしれないな」
リゼが言った。
「この通りが誰のものかって聞かれたら、私も困ります。でも、どこへ行きたいかって聞かれたら、考えられますから」
「確かにな」
「それに、私も何か手伝えます。なくなった跡を見つけたら、その場所を覚えておくことくらいはできます」
彼女は腰の真鍮札を指で鳴らした。
「ただ、何がなくなったのかを決めるのは、私じゃない方がいいですね」
その言葉を聞いて、少し嬉しくなった。
リゼは自分の力でできることと、できないことを、きちんと分けて考えようとしている。
俺よりずっと慎重かもしれない。
「十分だよ。見つけたことを教えてくれれば、あとはみんなで調べよう」
「はい」
リゼは嬉しそうに頷いた。
その時、石台の方から低い音が響いた。
ティセラが顔を上げる。
「……待って」
俺たちは一斉に振り返った。
石台に浮かんでいた数字が、ゆっくり変化している。
九十三。
それが淡く揺らぎ、次の瞬間には九十四になった。
誰もすぐには口を開かなかった。
地下室は静かなままだ。
壁が崩れたわけでも、何かが現れたわけでもない。それなのに、数字が一つ増えただけで、胸の奥が冷たくなった。
「……また進んだ」
リゼが呟いた。
「地上で何か起きたかな」
俺が尋ねると、リオルはすぐに連絡札を取り出した。
「確認する。まだ何も報告はないけど、見落としてる異変があるかもしれない」
ティセラは数字と時刻を書き留めた。
「九十四。ただし、今の変化が何に対応しているのかは不明よ」
俺は石台を見つめた。
残り六つで百になる。
だが、百が何を意味するのかさえ分かっていない。
どれだけ危険な数字なのか、まだ正確には判断できなかった。
それでも、安心していられる状況ではない。
「……戻ろう」
俺は立ち上がった。
すぐにリゼが近づいてくる。
「ゆっくりですよ」
「分かってる」
今度は逆らわず、左側を支えてもらった。
「まず青鐘亭で話を聞こう。ミレアさんなら、この通りの人たちに声をかけてくれると思う」
「広場にも知らせる。俺が警備隊として協力を頼もう」
リオルが答えた。
ティセラは術式の写しをまとめながら頷いた。
「私は接続群について、もう少し調べる。どこへ返すべきかが分かっても、返せる状態なのかどうかを確かめないといけないから」
「頼む」
リゼも真鍮札を腰へ戻した。
「私も一緒に聞きます。何がなくなったのか分からなくても、まだ覚えていることなら話してもらえるかもしれません」
「ああ。そうだな」
俺は三人の顔を見た。
地下へ来る前と、状況が劇的に変わったわけではない。
装置は止まらず、第三保全槽の行方も分からない。何者かが最近この施設を操作した痕跡も、そのまま残っている。
けれど、探すべきものが少しずつ見えてきた。
青鐘通りという一本の道を、どこかへ返そうとするのではない。
その道を歩いてきた人々が、何を大切にして、どことつながっていたのかを調べる。
誰か一人が持ち主になる必要はない。
それでも、誰かの暮らしの一部になっているものはある。
リゼが自分で名前を選んだように、人には自分自身の意思で結んできた関係があるのだ。
それを無視して、すべてを元に戻せばいいとは思わない。
まずは一人ずつ話を聞こう。
何を失ったのか。何を覚えているのか。そして、どこへ帰りたいと思っているのか。
必要な答えが百通りあるなら、百通り探せばいい。
面倒な仕事だ。
係長なら、もっと効率のいい方法を探せと言うかもしれない。
だが、落とし物を扱ってきた俺には、一つずつ確かめるやり方が性に合っている。
「……セイン」
リゼが隣から声をかけた。
「何?」
「今度は、私たちもちゃんと数に入れてくださいね」
俺は彼女を見た。
「何の?」
「助ける側の人数です」
その言葉に、思わず笑ってしまった。
「……そうだな。今度は四人で考えよう」
「はい」
リゼが満足そうに頷く。
リオルは先に階段へ向かい、ティセラは持ち出す記録を確認していた。
俺は二人の後ろ姿を見ながら、胸の奥に残っていた重さが少しだけ軽くなったのを感じた。
誰のものでもない道。
そこには、人の数だけ違う行き先がある。
そして帰ってくる理由も、きっと同じ数だけあるのだろう。
全部を一度に返す方法は、まだ分からない。
だが、少なくとも今度は、何を確かめるべきかを間違えたくなかった。
階段の上から、青鐘通りの人々の声が聞こえてくる。
俺はその声を確かめるように耳を澄ませ、それからゆっくりと歩き出した。




