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王都の返却士 ~その落とし物、世界のものです~  作者: 紙森 灯
第二章 地図から消えた通り

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第三十話 不適合

 地上へ戻ると、青鐘通りは奇妙な静けさに包まれていた。


 警告鐘はすでに鳴りやんでいる。それでも店先に出ている人は少なく、軒下で立ち話をしていた住民たちも、どこか落ち着かない様子で周囲を見回していた。


 夕食の支度を知らせる匂いが漂い、窓辺には明かりが灯り始めている。見慣れた街並みなのに、誰かとすれ違うたびに相手の顔を確かめている自分がいた。


 向こうから歩いてきた老夫婦が、互いの名前を呼んで安心したように手をつなぐ。


 その姿を見て、胸が苦しくなった。


 昨日まで当たり前だったことを、今日は無事だったと喜ばなければならない。


 通りの入口で、リオルが俺たちへ振り返った。


「俺は広場を見てくる。警告鐘が鳴った理由も確認したいし、何か分かったら知らせる」


「頼む。こっちは青鐘亭へ寄る」


「分かった。無理に動くなよ、セイン」


「お前まで言うのか」


「お前だから言うんだよ」


 リオルは軽く肩を叩いてから、人の集まり始めた広場へ走っていった。


 俺たちが青鐘亭へ近づくと、入口から小さな影が飛び出してきた。


「セイン!」


 ニコだった。


 俺の名前をはっきり呼んで駆け寄ってくる。それだけのことが、今はひどく嬉しかった。


「遅い!」


「帰ってきたばかりの人間に、もう少し優しくできないか?」


「母さんが待てって言うんだよ」


「何を?」


「パン」


 ニコが不満そうに言うと、後ろからミレアが姿を現した。


「その子、さっきから焼きたてのパンに手を伸ばしてるの。お客様の分まで食べそうになって」


「二つだけだよ」


「三つよ」


「三つ目は触っただけ!」


「触った時点で駄目でしょう」


 ミレアに睨まれ、ニコが俺の後ろへ隠れた。


「セイン、母さんに言ってよ」


「そうだな。育ち盛りなんだから、もう少し食わせてやってもいいんじゃないか」


「だろ!」


「ただし、人の分まで取るのは駄目だ」


「……裏切った」


「いつお前の味方になったんだよ」


 リゼが隣で笑った。


 ニコがむくれ、ミレアが呆れながら息子の髪を整える。母親の手を払いのけようとしたニコは、結局されるがままになっていた。


 何でもない親子のやり取りだった。


 それが、失われるかもしれない。


 地下で見た切離進行率の数字が、また頭をよぎった。


「……セイン?」


 ミレアが俺の表情に気づいた。


「何かあったの?」


「調べていた施設で、いくつか手がかりを見つけた」


「止める方法は?」


「まだ分からない。ただ、誰かが最近あの施設を操作した形跡がある。それに、保管されていたらしいものが一つなくなってる」


 ミレアの顔が強張った。


「じゃあ、事故じゃないかもしれないってこと?」


「ああ。でも、その人物が異変を起こしたとは限らない。今はそこを確かめてる」


 彼女はすぐには返事をしなかった。


 青鐘亭の奥から、焼き上がったパンの匂いが漂ってくる。厨房ではガロが鍋をかき混ぜているらしく、金属が触れ合う小さな音が聞こえた。


「……分かったわ」


 ミレアはニコの肩へ手を置いた。


「調べてくれてありがとう。でも、あなたたちも食事くらいは取って。顔色がよくないわ」


「大丈夫。もう少ししたら」


「その『もう少し』が、いつまで経っても終わらないんでしょう?」


 どうやら見抜かれているらしい。


 ミレアは苦笑することもなく続けた。


「私にできるのは、ここで食事を作って、帰ってきた人が温かいものを食べられるようにすることくらいよ。それでも、何もできないよりはいいと思ってる」


 彼女の固有術〈保温〉は、温かいものの温度を保つ。


 冷めた料理を熱くできるわけではない。それでも今の青鐘亭では、母親が息子のために用意した夕食を、帰ってくるまで温かく保っておける。


 そんな小さな術が、ひどく頼もしく思えた。


「だから、あなたたちもちゃんと帰ってきて。食事を無駄にするのは許さないわよ」


「……分かった」


 ミレアの後ろで、ニコが真剣な顔をしていた。


「セイン」


「何だ?」


「俺、まだ学校に戻れる?」


 不意に尋ねられて、返事が詰まった。


 以前ニコが消えかけた時、俺のことを思い出せなくなっていた。あの時の恐怖は、まだ彼の中に残っているのだろう。


「友達もさ、俺のこと忘れてたらどうしようって思って」


 ニコはつま先で石畳を軽く蹴った。


「また会えば思い出すかな」


「……分からない」


「そっか」


 落胆したように俯く。


 俺はしゃがみ、ニコと目線を合わせた。


「でも、お前が友達に会いたいって思ってることは、今ここにあるだろ」


「うん」


「だったら、その気持ちまでなくなったことにしなくていい。俺たちも、ちゃんと探してる」


 ニコは少し考えてから、俺の顔を見た。


「じゃあ、早く見つけてよ」


「努力する」


「約束は?」


 その問いに、軽々しく頷くことはできなかった。


 俺にはまだ、何を返せばいいのかさえ分からない。


 するとミレアが、息子の肩を優しく引いた。


「ニコ。困らせるために聞いたんじゃないでしょう?」


「……うん」


「だったら、今はこの人たちを信じて待ちましょう」


 ニコはしばらく黙っていたが、やがて小さく頷いた。


 俺は立ち上がった。


「必ずまた来る。今度は、もう少しいい報告を持って」


「パンが冷めないうちにね」


 ミレアの言葉に、ようやく少し笑えた。


     ◇


 青鐘亭を出て間もなく、広場の方からリオルが駆けてきた。


 その表情を見ただけで、嫌な報告だと分かった。


「セイン、数字が動いた」


「いくつに?」


「九十一。さっき地下から連絡が来た。警告鐘は異変を訴えた住民が鳴らしたらしい」


 九十から九十一。


 地下を離れ、青鐘亭へ立ち寄ったわずかな間にも、切離は進んでいた。


「誰が何を失った?」


「まだ分からない。聞き取りは続けてるけど、数字が一つ増えたから一人が何かを忘れたとは限らない」


「……そうだったな」


 頭では分かっている。


 ただ、数字が変わるたびに誰かの顔を思い浮かべてしまう。


 リゼが連絡の内容を確かめながら、俺へ目を向けた。


「進むのが速くなっていませんか?」


「ティセラもそう考えてるらしい。もう一度、記録を確認したいと言ってた」


 リオルは一度青鐘亭の方を見た。


 入口では、ニコが母親の隣に立っている。


「……九十一って何?」


 話を聞いていたらしいニコが尋ねた。


 ミレアが何か言おうとしたが、息子は俺を見つめたままだった。


「地下にある装置の数字だよ」


「増えると悪いの?」


「今起きている異変と関係しているのは確かだと思う。でも、どんな意味の数字なのかは調べている途中なんだ」


「百になったら?」


「それもまだ分からない」


 ニコは納得できない様子だった。


 当然だろう。俺だって同じ答えを聞き続けたら、いい加減にしろと言いたくなる。


「じゃあ、百になる前に止めればいいじゃん」


 ニコはあっさりと言った。


「簡単に言うなよ」


「難しく言っても変わんないだろ?」


 思わず口を閉じた。


 リオルが横で吹き出す。


「一本取られたな」


「笑うな」


「いや、いいこと言うじゃないか。お前よりずっと分かりやすい」


「お前までニコの味方かよ」


「昔から説明が長いんだよ、お前は」


 そんなことを言いながらも、リオルの目は真剣だった。


「俺は地上に残って住民の確認を続ける。何かあればすぐ連絡するから、そっちはティセラと合流してくれ」


「頼んだ」


「あと、セイン」


「何だ?」


「急ぐのと、考えずに動くのは別だからな」


 リオルはそれだけ言うと、再び広場へ戻っていった。


 俺はその背中を見送ってから、地下への道へ向き直った。


「リゼ、行こう」


「はい」


「ただし、お前は」


「一緒に行きます」


「まだ何も言ってないだろ」


「顔に書いてあります」


「俺の顔、そんなに読みやすいか?」


「最近はかなり」


 どうやら俺の〈返却〉より、よほど使い勝手のいい能力らしい。


     ◇


 地下施設へ戻ると、ティセラは石台の前で記録を整理していた。


 周囲には術式を書き写した紙が並び、切離進行率と時刻を照合した表も作られている。彼女は俺たちに気づくと、記録の一枚を差し出した。


「九十一になったわ」


「リオルから聞いた。止める方法は?」


「まだ見つかっていない」


 落ち着いた返事だったが、筆記具を握る指に力が入っていた。


「最初は数字の変化にかなり間があったのに、今は短い間隔で進んでいるの。切離の対象や処理の順番が変わったのかもしれない」


「百になったら終わるのか?」


「そう見える表示ではあるけれど、確証はないわ。百が完了を意味するのか、それとも別の段階へ移るのかも分からない」


 俺は石台に刻まれた数字を見た。


 九十一。


 百という区切りを考えれば、残りは九つしかない。


 だからといって、残り九人だとか、九つの記憶だとか、勝手に意味を決めるわけにはいかなかった。


「認証具があれば止められる?」


「操作できる可能性はある。でも、くぼみに合う認証具は見つかっていないし、第三保全槽が外されていることとの関係も不明よ」


「だったら、装置を壊せば」


「駄目」


 ティセラは即答した。


「内部に預託された情報が残っているなら、壊したことで取り戻せなくなるかもしれない。何を保存しているのか分からないまま手を出すのは危険すぎるわ」


「それは分かってる。でも、ほかに手があるのか?」


 自分でも思った以上に強い声になった。


 ティセラが顔を上げる。


「今、それを調べているのよ」


「その間にも数字は進んでる」


「だからって、間違った方法で全部失ったら意味がないでしょう」


 互いに黙った。


 彼女が正しいことは分かっていた。


 ティセラは決して調査を後回しにしているわけではない。休む間もなく資料を読み、術式を写し取り、俺たちが見逃した細かな違いを拾い続けている。


 それでも、焦りだけは抑えられなかった。


 俺は石台へ視線を向けた。


『原帰属 王都南三区』


 その文字が頭から離れない。


 青鐘通りは、王都が造った道ではなかった。共同井戸へ向かう住民たちの往来から生まれ、後に公共路として登録された。


 けれど、何十年もの間、王都南三区の一部として存在していたことも事実だ。


 だったら。


 その帰属先へ、俺の〈返却〉で戻せないだろうか。


「ティセラ」


「何?」


「青鐘通りそのものに〈返却〉を使うことはできると思うか?」


 筆記具の動きが止まった。


「……やめなさい」


「まだ何もしてない」


「使うつもりだから聞いたんでしょう?」


 返事ができなかった。


 リゼも険しい表情になった。


「セイン、それは危険です」


「分かってる。でも、青鐘通りが王都南三区に属していたのは確かだろ。装置がそのつながりを切っているなら、逆に戻すことができるかもしれない」


「帰属先を決める根拠が足りないわ」


 ティセラは共同井戸の帳面を示した。


「あなたが見つけた記録には、王都に登録される前から道があったと書いてあるでしょう。『原帰属』という言葉自体も、正確な意味が分かっていないのよ」


「でも、王都の一部だった時期は長い」


「長く所属していたことと、返却先として正しいことは同じじゃない」


 分かっている。


 俺の術は、持ち主や帰属先を当てずっぽうで指定して成功するものではない。間違えれば反動があり、対象によっては身体に大きな負担がかかる。


 今まで何度も経験してきたことだった。


「だったら、このまま九十九まで進んだらどうする?」


 俺の言葉に、ティセラは口を閉じた。


「百になって何が起きるか分からないんだろ?」


「そうよ。だから調べてる」


「間に合わなかったら?」


「セイン」


「俺の術なら、今ここで試せる」


 言ってしまってから、自分の考えがどれほど危ういものか分かった。


 返却先が正しい保証はない。


 青鐘通りという場所そのものが、そもそも〈返却〉の対象として適切なのかも分からない。


 それでも、何もせずに数字を見ているよりはましだと思いたかった。


「ほかにできることがあります」


 リゼが一歩前へ出た。


「何だよ」


「探すことです。まだ調べていない記録も、分からない仕組みもあるでしょう」


「それで間に合わなかったら?」


「じゃあ、セインが倒れたら間に合うんですか?」


 その言葉に詰まった。


 リゼは真っすぐ俺を見ていた。


「さっきも約束したじゃないですか。勝手に危ないことをしないって」


「一回だけだ」


「その一回が危ないんでしょう」


「反動が来るかもしれないだけだよ」


「だけ?」


 彼女の声が低くなった。


「この前だって倒れたでしょう。もし今回は起き上がれなかったら、どうするつもりなんですか?」


「そんな大げさな」


「何で大げさだって分かるんです?」


 俺は黙った。


 リゼが俺の右腕をつかむ。


「セインは、人の落とし物なら傷つけないように扱いますよね」


「……仕事だからな」


「ニコが危なかったら助けに行くし、私が地下で変なものに近づいたら、すぐに止めるでしょう」


「ああ」


「なのに、自分のことになると急に雑になるんですね」


 予想していなかった言葉だった。


「雑って……」


「そうです。自分なら痛い目に遭ってもいいと思ってる」


「俺の術だから」


「そんなの、理由になりません」


 彼女の手には思った以上に力が入っていた。


 リゼの目を見ていると、地下で俺の名前を思い出せなくなった時のことが頭をよぎった。


 あの時は、すぐに彼女を施設から離した。


 名前を呼べなくなっても、俺との関係が全部消えたわけではないと分かっていた。それでも、二度と同じことが起きてほしくなかった。


 なのに、今は自分から危険へ近づこうとしている。


「……ごめん」


 俺は言った。


 リゼの指から、少しだけ力が抜ける。


 その瞬間、俺は腕を引いた。


「セイン!」


「それも、ごめん」


 石台へ向かう。


 背後でティセラが何か叫んだ。


 聞こえていた。


 リゼが怒っていることも、ティセラが止めようとしている理由も、全部理解していた。


 それでも足を止めなかった。


 俺一人が反動を受ければ済むなら、百人近くの住民を救えるかもしれない。


 そんな計算を、頭のどこかでしていた。


 正しい選択だとは思わない。


 けれど、今何もしないまま誰かが失われることに耐えられなかった。


 石台の前で立ち止まり、右手を伸ばす。


 冷たい表面に指先が触れた。


 青鐘通りは、王都南三区の一部だった。


 地図に載り、住民が行き来し、そこで生きてきた人々がいる。ならば、切り離された道を、元の場所へ戻せるはずだ。


 だが、心の奥に引っかかるものがあった。


 元の場所とは、どこだろう。


 この道が最初から王都のものではなかったと、俺自身が確かめたばかりではないか。


 疑問は消えなかった。


 それでも俺は、右手へ意識を集中させた。


「〈返却〉」


 術が動いた。


 石台の下から低い振動が伝わり、壁に刻まれた文字が薄く光り始める。


 一瞬、身体が軽くなったように感じた。


 成功したのかもしれない。


 そう思った直後、右腕に激痛が走った。


「ぐっ……!」


 骨の内側から熱した金属を押し込まれたような痛みが、手首から肘、肩へと駆け上がる。


 慌てて引こうとしたが、石台から手が離れなかった。


 息が詰まり、目の前の景色が白く滲む。


「セイン! 手を離して!」


 リゼの声が聞こえた。


 離そうとしている。


 それなのに、指先が動かない。


 胸の奥まで痛みが広がった瞬間、視界の中央に白い返却票が浮かび上がった。


『返却対象:青鐘通り』


『返却先:不適合』


 その文字を見た時、ようやく理解した。


 間違えた。


 帰属先を間違えたのか。それとも、青鐘通りそのものを返そうとしたことが間違いだったのか。


 確かめる余裕はなかった。


 術式の光が消え、身体が石台から離れる。


 膝が床へ落ちた。


「セイン!」


 駆け寄ってきたリゼが、俺の身体を支えようとする。


 何か答えたかったが、うまく息を吸えない。


 視界の端でティセラが連絡札を取り出すのが見えた。


 その向こうで、石台の数字だけが変わらず光っていた。


 九十一。


 止まっていない。


 結局、何一つ解決できなかった。


 薄れていく意識の中で、リゼの声が何度も俺の名前を呼んでいた。


 こんな時まで名前を呼んでもらえているのに、俺は返事一つ返せない。


 あれほど止めろと言われたのに。


 今度こそ、本気で怒られるだろうな。


 最後にそんな場違いなことを考えて、意識が途切れた。


     ◇


 次に目を開けた時、見慣れた木の天井があった。


 地下ではない。


 青鐘亭の客室だった。


 枕元には水差しと温かな布が置かれ、開いた窓から夕暮れの名残を含んだ風が入ってくる。


 右腕を動かそうとすると、肘から肩へ鈍い痛みが走った。


「……起きました?」


 声のした方を見る。


 リゼが椅子に座っていた。


 腕を組み、こちらをじっと見つめている。


 その表情を見て、俺は反射的に天井へ視線を戻した。


 まずい。


「何分?」


「第一声がそれですか」


「どれくらい寝てた?」


「一時間ちょっとです」


「進行率は?」


 リゼはすぐに答えなかった。


 その沈黙が、何より嫌だった。


「……九十三です」


 胸の奥が冷えた。


 俺が意識を失っている間にも、数字は進んでいた。


「何が起きた?」


「一つは分かっています。靴屋のミナさんが、亡くなった旦那さんの名前を思い出せなくなったそうです」


「ほかには?」


「まだ調べてます。九十三になったことと、ミナさんの記憶が消えたことが、どう対応しているのかも分かりません」


 俺は上半身を起こそうとした。


 その途端、頭が揺れ、寝台の端へ手をつく。


「寝ててください」


 リゼが肩を押した。


「頭は動く」


「身体が動いてません」


「少し休めば」


「セイン」


 名前だけで止められた。


 リゼは俺から手を離さなかった。


「まだ何をするつもりですか?」


「ティセラに確認したいことがある」


「寝たままでもできますよね」


「……そうだな」


 素直に答えると、彼女は少し驚いたようだった。


 けれど、表情は緩まない。


「私、怒ってます」


「見れば分かる」


「だったら、どうして怒ってるかも分かりますよね」


 俺は枕へ頭を戻した。


「約束を破ったから」


「それもあります」


「無茶をしたから」


「それも」


「……他には?」


 リゼは唇を結んだ。


 よく見ると、目の下が少し赤い。


 泣いたのかもしれない。


 あるいは、眠らずに俺を見ていたのかもしれなかった。


「怖かったんです」


 声が少し震えた。


「セインが石台から倒れた時、何をしても返事をしてくれなくて。ティセラさんが呼びかけても、リオルが運んでくれても、ずっと目を閉じたままで……」


 リゼは一度言葉を切った。


「私、名前をなくすのが怖かったんです。誰にも覚えてもらえなくなるのが怖くて、ずっとそればかり考えてました」


 俺は黙って聞いていた。


「でも、さっきは違いました」


「……何が?」


「私がセインの名前を覚えていても、セインがいなくなったら、どうすればいいんですか」


 息が止まりそうになった。


「名前を呼んでも返事がなくて、その人が戻ってこなかったら……覚えている方だって、苦しいじゃないですか」


 リゼは俺の右手を見た。


「セインは何でも返そうとするくせに、自分が帰ってこなくなることは考えないんですね」


 返す言葉がなかった。


 確かに俺は、百人を救えるかもしれないという計算をした。


 自分一人が痛い目に遭うだけなら、安いものだと思った。


 だが、その計算の中には、俺を待つ人間がいなかった。


 心配するリゼも、助けに来るリオルも、一緒に調べていたティセラも、最初から数に入れていなかった。


 自分が傷つくことは自分だけの問題だと思っていた。


 それが、どれだけ身勝手だったか。


「……ごめん」


 俺は言った。


「本当に、悪かった」


 リゼは少し黙ったあと、俺の顔を見た。


「二回謝ったら許されると思ってます?」


「思ってない」


「じゃあ、あと一回」


「ごめん」


 彼女が目を丸くした。


「……本当に言うんですね」


「言えって言ったのはお前だろ」


「そうですけど」


 リゼは困ったように眉を寄せ、やがて視線を逸らした。


 まだ怒っている。


 でも、さっきほど身体を強張らせてはいなかった。


「もう、一人で答えを出さないでください」


 少し間を置いて、リゼが言った。


「私もいます。ティセラさんも、リオルもいます。セインが考えるより、きっとたくさんの方法を思いつけます」


「ああ」


「一回だけなら大丈夫、とかも禁止です」


「分かった」


「本当ですか?」


「本当だよ」


 俺は自分の右腕へ目を落とした。


 まだ指先が痺れている。


 この腕が使えなくなったら、靴を修理することも、落とし物を拾うことも難しくなるだろう。


 自分の身体を道具のように考えていたが、そもそも壊していい道具などない。


 まして、誰かが帰りを待っている人間なら。


「……俺、結構ひどいことしたな」


「今さらですか」


「もっと怒ってもいいぞ」


「もう十分怒りました」


「そうか」


「ただし、次やったらもっと怒ります」


 俺は思わず笑ってしまった。


「それは怖いな」


「本気ですよ」


「分かってる」


 リゼはしばらく俺を睨んでいたが、やがて小さく息を吐いた。


「……本当に、面倒な人ですね」


「最近よく言われる」


「誰にですか?」


「主にお前」


「でしょうね」


 ようやく少しだけ、いつもの調子が戻ってきた。


 俺は安心すると同時に、自分がどれだけ彼女を心配させたのか、改めて思い知らされた。


     ◇


 しばらくして、ミレアが温かいスープを運んできた。


 湯気の立つ器を寝台の脇へ置き、俺の右腕を見てから、何も言わずに椅子へ座る。


「……すみません」


 先に謝ると、ミレアは眉を上げた。


「どうして私に謝るの?」


「迷惑かけたので」


「宿の客が倒れたら面倒を見るのは当然よ。まして、あなたたちはうちの子を助けてくれたんだもの」


 彼女は器を俺の近くへ寄せた。


「でも、息子を助けてくれた人が、今度は自分を壊そうとするのは見たくないわね」


 俺は顔を上げた。


 ミレアは穏やかな声のまま続けた。


「ニコが消えかけた時、私はあの子を離したくなかった。どんなことをしてでも助けたかったし、代われるものなら代わりたいと思ったわ」


 膝の上で組んだ手に、少しだけ力が入る。


「でも、あの子が私の代わりに自分を傷つけようとしたら、絶対に止めると思うの」


「……はい」


「あなたのことを心配している人も、同じ気持ちなんじゃないかしら」


 何も言い返せなかった。


 リゼが隣で静かに頷いている。


 ミレアは立ち上がると、俺の肩へ手を置いた。


「急がなきゃいけないのは分かってる。でも、何かを守るために自分まで失くしてしまったら、きっと悲しむ人がいるわ」


 その言葉は、予想していたより深く胸に残った。


「……ありがとうございます」


「なら、まずスープを飲んで」


「はい」


「それと、ニコには倒れたことを詳しく話していないから、心配させないようにね」


「分かりました」


「もっとも、あの子はさっきから『セインが起きたら説教する』って張り切ってるけど」


「……説教する側なのか」


「あなたが約束を守らないなら、僕が見張るんだって」


 リゼが笑い出した。


 俺もつられて笑いそうになり、右腕の痛みで顔をしかめた。


 ミレアは呆れたように首を振った。


「まったく。似た者同士ね」


 そう言って部屋を出ていく後ろ姿を、俺はしばらく見送っていた。


 ミレアはニコの実の母親だ。


 あの子の靴も、学校へ通う毎日も、帰ってくる食卓も、誰より大切にしている。


 その関係が、術式の上では切り離せるものとして扱われている。


 考えるほど、腹が立った。


 けれど、その怒りだけで動いてはいけない。


 今度こそ、ちゃんと考えなければならなかった。


     ◇


 スープを飲み終えたあと、俺はリゼに共同井戸の帳面を持ってきてもらった。


「まだ調べるつもりですか?」


「寝ながら見るだけだよ」


「……その言い方、嫌いです」


「俺も好きじゃない」


「だったら休んでください」


「でも、さっきの失敗で一つ気づいたことがある」


 リゼは疑うように俺を見た。


「本当に、無茶なことじゃないですか?」


「今度は考えるだけだ」


「……それなら」


 彼女は帳面を開いて、枕元へ置いてくれた。


 古い紙には十二軒の家と共同井戸が描かれ、そこへ続く細い道が何本も伸びている。


 青鐘通りという名前が付くより前の記録だった。


 最初から整った一本の道があったわけではない。


 井戸へ水を汲みに行く人がいて、隣の家を訪ねる人がいて、仕事へ出かける人たちがいた。その往来が積み重なり、やがて道として認識されるようになった。


 王都が公共路として認めたのは、それより後のことだ。


「……そっか」


 思わず呟いた。


「何か分かったんですか?」


「まだ答えじゃない。でも、たぶん俺は質問を間違えてた」


「質問?」


 俺は地図の線を指でなぞった。


「ずっと青鐘通りを、誰かの持ち物みたいに考えてたんだ。王都のものなのか、住民のものなのかって」


「違うんですか?」


「分からない。ただ、誰かが道を所有していなくても、人はそこを歩けるだろ」


 リゼは地図へ目を落とした。


「最初は、道に名前もなかったんですよね」


「ああ」


「でも、そこに住んでいた人たちは、ちゃんと家へ帰れた」


「そういうことだと思う」


 彼女は古い図をゆっくり見つめていた。


「じゃあ、セインが返そうとしたのは……」


「道そのものだ。でも本当に失われたのが道そのものなのか、もう一度考え直さなきゃいけない」


 俺は石台の上で見た返却票を思い出した。


『返却対象:青鐘通り』


『返却先:不適合』


 あれは、王都南三区という指定が誤っていたという意味なのか。それとも、返そうとした対象の捉え方が違っていたのか。


 まだ判断できなかった。


 ただ、ひとつ確かなことがある。


 道は今も存在している。


 石畳は残り、家も建っていて、人々はその上を歩いている。


 失われているのは、地図上の線だけではなかった。


 家を自分の家だと思うこと。大切な人の名前を呼べること。いつもの道を通って、いつもの場所へ帰れること。


 そうしたつながりが、少しずつ断たれている。


 俺は、目の前の道を返そうとして失敗した。


 ならば次に調べるべきなのは、道の持ち主ではなく、そこから切り離されたものなのかもしれない。


「……リゼ」


「はい?」


「ティセラとリオルを呼んでくれるか」


 彼女は少しだけ顔をしかめた。


「寝てるんじゃなかったんですか?」


「寝ながら話す」


「それ、休んでることになりませんよ」


「今度はちゃんと相談したいんだ。俺だけで決めないって約束しただろ」


 その言葉に、リゼは黙った。


 しばらく俺の顔を見つめてから、ゆっくり頷く。


「……そうですね。それなら呼んできます」


「ありがとう」


 彼女は立ち上がり、扉へ向かった。


 だが、取っ手へ手をかけたところで振り返った。


「セイン」


「何?」


「私、最近セインのことが前より分かるようになってきました」


「そうか? 面倒なところばかり見せてる気がするけど」


「そうですよ」


「否定してくれないのか」


「でも、その方がいいです」


 リゼは少し考え、言葉を選んだ。


「最初は、何を考えてるか分からない人だと思ってました。人のものは何でも返そうとするし、自分のことは全然話さないし」


「そんなに分かりにくかったか?」


「はい。でも今は、ちょっと分かります」


 彼女の赤い瞳が、まっすぐ俺を捉えた。


「セインが帰ってこないと困る人が、ここにもいるってこと。忘れないでくださいね」


 それだけ言うと、リゼは扉を開けて出ていった。


 返事をする間もなかった。


 いや、何と答えればいいか分からなかったのだと思う。


 俺はしばらく閉じた扉を見つめ、それから枕元の帳面へ視線を戻した。


 十二軒の家から、共同井戸へ続く細い線。


 誰かの許可を得て生まれたわけではない道。


 それでも人はそこを歩き、隣人と出会い、自分の家へ帰っていた。


 返すべきものは、青鐘通りそのものではないのかもしれない。


 では、何を、どこへ返すべきなのか。


 まだ答えは出ない。


 けれど、今度は俺一人で決めるつもりはなかった。


 窓の外では、青鐘通りの夕餉の匂いが夜風に混じって流れてくる。


 誰かが食卓を整え、家族の帰りを待っている。


 そんな当たり前の営みが、明日も続くように。


 俺はもう一度、古い地図の線を指で追った。

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