第三十話 不適合
地上へ戻ると、青鐘通りは奇妙な静けさに包まれていた。
警告鐘はすでに鳴りやんでいる。それでも店先に出ている人は少なく、軒下で立ち話をしていた住民たちも、どこか落ち着かない様子で周囲を見回していた。
夕食の支度を知らせる匂いが漂い、窓辺には明かりが灯り始めている。見慣れた街並みなのに、誰かとすれ違うたびに相手の顔を確かめている自分がいた。
向こうから歩いてきた老夫婦が、互いの名前を呼んで安心したように手をつなぐ。
その姿を見て、胸が苦しくなった。
昨日まで当たり前だったことを、今日は無事だったと喜ばなければならない。
通りの入口で、リオルが俺たちへ振り返った。
「俺は広場を見てくる。警告鐘が鳴った理由も確認したいし、何か分かったら知らせる」
「頼む。こっちは青鐘亭へ寄る」
「分かった。無理に動くなよ、セイン」
「お前まで言うのか」
「お前だから言うんだよ」
リオルは軽く肩を叩いてから、人の集まり始めた広場へ走っていった。
俺たちが青鐘亭へ近づくと、入口から小さな影が飛び出してきた。
「セイン!」
ニコだった。
俺の名前をはっきり呼んで駆け寄ってくる。それだけのことが、今はひどく嬉しかった。
「遅い!」
「帰ってきたばかりの人間に、もう少し優しくできないか?」
「母さんが待てって言うんだよ」
「何を?」
「パン」
ニコが不満そうに言うと、後ろからミレアが姿を現した。
「その子、さっきから焼きたてのパンに手を伸ばしてるの。お客様の分まで食べそうになって」
「二つだけだよ」
「三つよ」
「三つ目は触っただけ!」
「触った時点で駄目でしょう」
ミレアに睨まれ、ニコが俺の後ろへ隠れた。
「セイン、母さんに言ってよ」
「そうだな。育ち盛りなんだから、もう少し食わせてやってもいいんじゃないか」
「だろ!」
「ただし、人の分まで取るのは駄目だ」
「……裏切った」
「いつお前の味方になったんだよ」
リゼが隣で笑った。
ニコがむくれ、ミレアが呆れながら息子の髪を整える。母親の手を払いのけようとしたニコは、結局されるがままになっていた。
何でもない親子のやり取りだった。
それが、失われるかもしれない。
地下で見た切離進行率の数字が、また頭をよぎった。
「……セイン?」
ミレアが俺の表情に気づいた。
「何かあったの?」
「調べていた施設で、いくつか手がかりを見つけた」
「止める方法は?」
「まだ分からない。ただ、誰かが最近あの施設を操作した形跡がある。それに、保管されていたらしいものが一つなくなってる」
ミレアの顔が強張った。
「じゃあ、事故じゃないかもしれないってこと?」
「ああ。でも、その人物が異変を起こしたとは限らない。今はそこを確かめてる」
彼女はすぐには返事をしなかった。
青鐘亭の奥から、焼き上がったパンの匂いが漂ってくる。厨房ではガロが鍋をかき混ぜているらしく、金属が触れ合う小さな音が聞こえた。
「……分かったわ」
ミレアはニコの肩へ手を置いた。
「調べてくれてありがとう。でも、あなたたちも食事くらいは取って。顔色がよくないわ」
「大丈夫。もう少ししたら」
「その『もう少し』が、いつまで経っても終わらないんでしょう?」
どうやら見抜かれているらしい。
ミレアは苦笑することもなく続けた。
「私にできるのは、ここで食事を作って、帰ってきた人が温かいものを食べられるようにすることくらいよ。それでも、何もできないよりはいいと思ってる」
彼女の固有術〈保温〉は、温かいものの温度を保つ。
冷めた料理を熱くできるわけではない。それでも今の青鐘亭では、母親が息子のために用意した夕食を、帰ってくるまで温かく保っておける。
そんな小さな術が、ひどく頼もしく思えた。
「だから、あなたたちもちゃんと帰ってきて。食事を無駄にするのは許さないわよ」
「……分かった」
ミレアの後ろで、ニコが真剣な顔をしていた。
「セイン」
「何だ?」
「俺、まだ学校に戻れる?」
不意に尋ねられて、返事が詰まった。
以前ニコが消えかけた時、俺のことを思い出せなくなっていた。あの時の恐怖は、まだ彼の中に残っているのだろう。
「友達もさ、俺のこと忘れてたらどうしようって思って」
ニコはつま先で石畳を軽く蹴った。
「また会えば思い出すかな」
「……分からない」
「そっか」
落胆したように俯く。
俺はしゃがみ、ニコと目線を合わせた。
「でも、お前が友達に会いたいって思ってることは、今ここにあるだろ」
「うん」
「だったら、その気持ちまでなくなったことにしなくていい。俺たちも、ちゃんと探してる」
ニコは少し考えてから、俺の顔を見た。
「じゃあ、早く見つけてよ」
「努力する」
「約束は?」
その問いに、軽々しく頷くことはできなかった。
俺にはまだ、何を返せばいいのかさえ分からない。
するとミレアが、息子の肩を優しく引いた。
「ニコ。困らせるために聞いたんじゃないでしょう?」
「……うん」
「だったら、今はこの人たちを信じて待ちましょう」
ニコはしばらく黙っていたが、やがて小さく頷いた。
俺は立ち上がった。
「必ずまた来る。今度は、もう少しいい報告を持って」
「パンが冷めないうちにね」
ミレアの言葉に、ようやく少し笑えた。
◇
青鐘亭を出て間もなく、広場の方からリオルが駆けてきた。
その表情を見ただけで、嫌な報告だと分かった。
「セイン、数字が動いた」
「いくつに?」
「九十一。さっき地下から連絡が来た。警告鐘は異変を訴えた住民が鳴らしたらしい」
九十から九十一。
地下を離れ、青鐘亭へ立ち寄ったわずかな間にも、切離は進んでいた。
「誰が何を失った?」
「まだ分からない。聞き取りは続けてるけど、数字が一つ増えたから一人が何かを忘れたとは限らない」
「……そうだったな」
頭では分かっている。
ただ、数字が変わるたびに誰かの顔を思い浮かべてしまう。
リゼが連絡の内容を確かめながら、俺へ目を向けた。
「進むのが速くなっていませんか?」
「ティセラもそう考えてるらしい。もう一度、記録を確認したいと言ってた」
リオルは一度青鐘亭の方を見た。
入口では、ニコが母親の隣に立っている。
「……九十一って何?」
話を聞いていたらしいニコが尋ねた。
ミレアが何か言おうとしたが、息子は俺を見つめたままだった。
「地下にある装置の数字だよ」
「増えると悪いの?」
「今起きている異変と関係しているのは確かだと思う。でも、どんな意味の数字なのかは調べている途中なんだ」
「百になったら?」
「それもまだ分からない」
ニコは納得できない様子だった。
当然だろう。俺だって同じ答えを聞き続けたら、いい加減にしろと言いたくなる。
「じゃあ、百になる前に止めればいいじゃん」
ニコはあっさりと言った。
「簡単に言うなよ」
「難しく言っても変わんないだろ?」
思わず口を閉じた。
リオルが横で吹き出す。
「一本取られたな」
「笑うな」
「いや、いいこと言うじゃないか。お前よりずっと分かりやすい」
「お前までニコの味方かよ」
「昔から説明が長いんだよ、お前は」
そんなことを言いながらも、リオルの目は真剣だった。
「俺は地上に残って住民の確認を続ける。何かあればすぐ連絡するから、そっちはティセラと合流してくれ」
「頼んだ」
「あと、セイン」
「何だ?」
「急ぐのと、考えずに動くのは別だからな」
リオルはそれだけ言うと、再び広場へ戻っていった。
俺はその背中を見送ってから、地下への道へ向き直った。
「リゼ、行こう」
「はい」
「ただし、お前は」
「一緒に行きます」
「まだ何も言ってないだろ」
「顔に書いてあります」
「俺の顔、そんなに読みやすいか?」
「最近はかなり」
どうやら俺の〈返却〉より、よほど使い勝手のいい能力らしい。
◇
地下施設へ戻ると、ティセラは石台の前で記録を整理していた。
周囲には術式を書き写した紙が並び、切離進行率と時刻を照合した表も作られている。彼女は俺たちに気づくと、記録の一枚を差し出した。
「九十一になったわ」
「リオルから聞いた。止める方法は?」
「まだ見つかっていない」
落ち着いた返事だったが、筆記具を握る指に力が入っていた。
「最初は数字の変化にかなり間があったのに、今は短い間隔で進んでいるの。切離の対象や処理の順番が変わったのかもしれない」
「百になったら終わるのか?」
「そう見える表示ではあるけれど、確証はないわ。百が完了を意味するのか、それとも別の段階へ移るのかも分からない」
俺は石台に刻まれた数字を見た。
九十一。
百という区切りを考えれば、残りは九つしかない。
だからといって、残り九人だとか、九つの記憶だとか、勝手に意味を決めるわけにはいかなかった。
「認証具があれば止められる?」
「操作できる可能性はある。でも、くぼみに合う認証具は見つかっていないし、第三保全槽が外されていることとの関係も不明よ」
「だったら、装置を壊せば」
「駄目」
ティセラは即答した。
「内部に預託された情報が残っているなら、壊したことで取り戻せなくなるかもしれない。何を保存しているのか分からないまま手を出すのは危険すぎるわ」
「それは分かってる。でも、ほかに手があるのか?」
自分でも思った以上に強い声になった。
ティセラが顔を上げる。
「今、それを調べているのよ」
「その間にも数字は進んでる」
「だからって、間違った方法で全部失ったら意味がないでしょう」
互いに黙った。
彼女が正しいことは分かっていた。
ティセラは決して調査を後回しにしているわけではない。休む間もなく資料を読み、術式を写し取り、俺たちが見逃した細かな違いを拾い続けている。
それでも、焦りだけは抑えられなかった。
俺は石台へ視線を向けた。
『原帰属 王都南三区』
その文字が頭から離れない。
青鐘通りは、王都が造った道ではなかった。共同井戸へ向かう住民たちの往来から生まれ、後に公共路として登録された。
けれど、何十年もの間、王都南三区の一部として存在していたことも事実だ。
だったら。
その帰属先へ、俺の〈返却〉で戻せないだろうか。
「ティセラ」
「何?」
「青鐘通りそのものに〈返却〉を使うことはできると思うか?」
筆記具の動きが止まった。
「……やめなさい」
「まだ何もしてない」
「使うつもりだから聞いたんでしょう?」
返事ができなかった。
リゼも険しい表情になった。
「セイン、それは危険です」
「分かってる。でも、青鐘通りが王都南三区に属していたのは確かだろ。装置がそのつながりを切っているなら、逆に戻すことができるかもしれない」
「帰属先を決める根拠が足りないわ」
ティセラは共同井戸の帳面を示した。
「あなたが見つけた記録には、王都に登録される前から道があったと書いてあるでしょう。『原帰属』という言葉自体も、正確な意味が分かっていないのよ」
「でも、王都の一部だった時期は長い」
「長く所属していたことと、返却先として正しいことは同じじゃない」
分かっている。
俺の術は、持ち主や帰属先を当てずっぽうで指定して成功するものではない。間違えれば反動があり、対象によっては身体に大きな負担がかかる。
今まで何度も経験してきたことだった。
「だったら、このまま九十九まで進んだらどうする?」
俺の言葉に、ティセラは口を閉じた。
「百になって何が起きるか分からないんだろ?」
「そうよ。だから調べてる」
「間に合わなかったら?」
「セイン」
「俺の術なら、今ここで試せる」
言ってしまってから、自分の考えがどれほど危ういものか分かった。
返却先が正しい保証はない。
青鐘通りという場所そのものが、そもそも〈返却〉の対象として適切なのかも分からない。
それでも、何もせずに数字を見ているよりはましだと思いたかった。
「ほかにできることがあります」
リゼが一歩前へ出た。
「何だよ」
「探すことです。まだ調べていない記録も、分からない仕組みもあるでしょう」
「それで間に合わなかったら?」
「じゃあ、セインが倒れたら間に合うんですか?」
その言葉に詰まった。
リゼは真っすぐ俺を見ていた。
「さっきも約束したじゃないですか。勝手に危ないことをしないって」
「一回だけだ」
「その一回が危ないんでしょう」
「反動が来るかもしれないだけだよ」
「だけ?」
彼女の声が低くなった。
「この前だって倒れたでしょう。もし今回は起き上がれなかったら、どうするつもりなんですか?」
「そんな大げさな」
「何で大げさだって分かるんです?」
俺は黙った。
リゼが俺の右腕をつかむ。
「セインは、人の落とし物なら傷つけないように扱いますよね」
「……仕事だからな」
「ニコが危なかったら助けに行くし、私が地下で変なものに近づいたら、すぐに止めるでしょう」
「ああ」
「なのに、自分のことになると急に雑になるんですね」
予想していなかった言葉だった。
「雑って……」
「そうです。自分なら痛い目に遭ってもいいと思ってる」
「俺の術だから」
「そんなの、理由になりません」
彼女の手には思った以上に力が入っていた。
リゼの目を見ていると、地下で俺の名前を思い出せなくなった時のことが頭をよぎった。
あの時は、すぐに彼女を施設から離した。
名前を呼べなくなっても、俺との関係が全部消えたわけではないと分かっていた。それでも、二度と同じことが起きてほしくなかった。
なのに、今は自分から危険へ近づこうとしている。
「……ごめん」
俺は言った。
リゼの指から、少しだけ力が抜ける。
その瞬間、俺は腕を引いた。
「セイン!」
「それも、ごめん」
石台へ向かう。
背後でティセラが何か叫んだ。
聞こえていた。
リゼが怒っていることも、ティセラが止めようとしている理由も、全部理解していた。
それでも足を止めなかった。
俺一人が反動を受ければ済むなら、百人近くの住民を救えるかもしれない。
そんな計算を、頭のどこかでしていた。
正しい選択だとは思わない。
けれど、今何もしないまま誰かが失われることに耐えられなかった。
石台の前で立ち止まり、右手を伸ばす。
冷たい表面に指先が触れた。
青鐘通りは、王都南三区の一部だった。
地図に載り、住民が行き来し、そこで生きてきた人々がいる。ならば、切り離された道を、元の場所へ戻せるはずだ。
だが、心の奥に引っかかるものがあった。
元の場所とは、どこだろう。
この道が最初から王都のものではなかったと、俺自身が確かめたばかりではないか。
疑問は消えなかった。
それでも俺は、右手へ意識を集中させた。
「〈返却〉」
術が動いた。
石台の下から低い振動が伝わり、壁に刻まれた文字が薄く光り始める。
一瞬、身体が軽くなったように感じた。
成功したのかもしれない。
そう思った直後、右腕に激痛が走った。
「ぐっ……!」
骨の内側から熱した金属を押し込まれたような痛みが、手首から肘、肩へと駆け上がる。
慌てて引こうとしたが、石台から手が離れなかった。
息が詰まり、目の前の景色が白く滲む。
「セイン! 手を離して!」
リゼの声が聞こえた。
離そうとしている。
それなのに、指先が動かない。
胸の奥まで痛みが広がった瞬間、視界の中央に白い返却票が浮かび上がった。
『返却対象:青鐘通り』
『返却先:不適合』
その文字を見た時、ようやく理解した。
間違えた。
帰属先を間違えたのか。それとも、青鐘通りそのものを返そうとしたことが間違いだったのか。
確かめる余裕はなかった。
術式の光が消え、身体が石台から離れる。
膝が床へ落ちた。
「セイン!」
駆け寄ってきたリゼが、俺の身体を支えようとする。
何か答えたかったが、うまく息を吸えない。
視界の端でティセラが連絡札を取り出すのが見えた。
その向こうで、石台の数字だけが変わらず光っていた。
九十一。
止まっていない。
結局、何一つ解決できなかった。
薄れていく意識の中で、リゼの声が何度も俺の名前を呼んでいた。
こんな時まで名前を呼んでもらえているのに、俺は返事一つ返せない。
あれほど止めろと言われたのに。
今度こそ、本気で怒られるだろうな。
最後にそんな場違いなことを考えて、意識が途切れた。
◇
次に目を開けた時、見慣れた木の天井があった。
地下ではない。
青鐘亭の客室だった。
枕元には水差しと温かな布が置かれ、開いた窓から夕暮れの名残を含んだ風が入ってくる。
右腕を動かそうとすると、肘から肩へ鈍い痛みが走った。
「……起きました?」
声のした方を見る。
リゼが椅子に座っていた。
腕を組み、こちらをじっと見つめている。
その表情を見て、俺は反射的に天井へ視線を戻した。
まずい。
「何分?」
「第一声がそれですか」
「どれくらい寝てた?」
「一時間ちょっとです」
「進行率は?」
リゼはすぐに答えなかった。
その沈黙が、何より嫌だった。
「……九十三です」
胸の奥が冷えた。
俺が意識を失っている間にも、数字は進んでいた。
「何が起きた?」
「一つは分かっています。靴屋のミナさんが、亡くなった旦那さんの名前を思い出せなくなったそうです」
「ほかには?」
「まだ調べてます。九十三になったことと、ミナさんの記憶が消えたことが、どう対応しているのかも分かりません」
俺は上半身を起こそうとした。
その途端、頭が揺れ、寝台の端へ手をつく。
「寝ててください」
リゼが肩を押した。
「頭は動く」
「身体が動いてません」
「少し休めば」
「セイン」
名前だけで止められた。
リゼは俺から手を離さなかった。
「まだ何をするつもりですか?」
「ティセラに確認したいことがある」
「寝たままでもできますよね」
「……そうだな」
素直に答えると、彼女は少し驚いたようだった。
けれど、表情は緩まない。
「私、怒ってます」
「見れば分かる」
「だったら、どうして怒ってるかも分かりますよね」
俺は枕へ頭を戻した。
「約束を破ったから」
「それもあります」
「無茶をしたから」
「それも」
「……他には?」
リゼは唇を結んだ。
よく見ると、目の下が少し赤い。
泣いたのかもしれない。
あるいは、眠らずに俺を見ていたのかもしれなかった。
「怖かったんです」
声が少し震えた。
「セインが石台から倒れた時、何をしても返事をしてくれなくて。ティセラさんが呼びかけても、リオルが運んでくれても、ずっと目を閉じたままで……」
リゼは一度言葉を切った。
「私、名前をなくすのが怖かったんです。誰にも覚えてもらえなくなるのが怖くて、ずっとそればかり考えてました」
俺は黙って聞いていた。
「でも、さっきは違いました」
「……何が?」
「私がセインの名前を覚えていても、セインがいなくなったら、どうすればいいんですか」
息が止まりそうになった。
「名前を呼んでも返事がなくて、その人が戻ってこなかったら……覚えている方だって、苦しいじゃないですか」
リゼは俺の右手を見た。
「セインは何でも返そうとするくせに、自分が帰ってこなくなることは考えないんですね」
返す言葉がなかった。
確かに俺は、百人を救えるかもしれないという計算をした。
自分一人が痛い目に遭うだけなら、安いものだと思った。
だが、その計算の中には、俺を待つ人間がいなかった。
心配するリゼも、助けに来るリオルも、一緒に調べていたティセラも、最初から数に入れていなかった。
自分が傷つくことは自分だけの問題だと思っていた。
それが、どれだけ身勝手だったか。
「……ごめん」
俺は言った。
「本当に、悪かった」
リゼは少し黙ったあと、俺の顔を見た。
「二回謝ったら許されると思ってます?」
「思ってない」
「じゃあ、あと一回」
「ごめん」
彼女が目を丸くした。
「……本当に言うんですね」
「言えって言ったのはお前だろ」
「そうですけど」
リゼは困ったように眉を寄せ、やがて視線を逸らした。
まだ怒っている。
でも、さっきほど身体を強張らせてはいなかった。
「もう、一人で答えを出さないでください」
少し間を置いて、リゼが言った。
「私もいます。ティセラさんも、リオルもいます。セインが考えるより、きっとたくさんの方法を思いつけます」
「ああ」
「一回だけなら大丈夫、とかも禁止です」
「分かった」
「本当ですか?」
「本当だよ」
俺は自分の右腕へ目を落とした。
まだ指先が痺れている。
この腕が使えなくなったら、靴を修理することも、落とし物を拾うことも難しくなるだろう。
自分の身体を道具のように考えていたが、そもそも壊していい道具などない。
まして、誰かが帰りを待っている人間なら。
「……俺、結構ひどいことしたな」
「今さらですか」
「もっと怒ってもいいぞ」
「もう十分怒りました」
「そうか」
「ただし、次やったらもっと怒ります」
俺は思わず笑ってしまった。
「それは怖いな」
「本気ですよ」
「分かってる」
リゼはしばらく俺を睨んでいたが、やがて小さく息を吐いた。
「……本当に、面倒な人ですね」
「最近よく言われる」
「誰にですか?」
「主にお前」
「でしょうね」
ようやく少しだけ、いつもの調子が戻ってきた。
俺は安心すると同時に、自分がどれだけ彼女を心配させたのか、改めて思い知らされた。
◇
しばらくして、ミレアが温かいスープを運んできた。
湯気の立つ器を寝台の脇へ置き、俺の右腕を見てから、何も言わずに椅子へ座る。
「……すみません」
先に謝ると、ミレアは眉を上げた。
「どうして私に謝るの?」
「迷惑かけたので」
「宿の客が倒れたら面倒を見るのは当然よ。まして、あなたたちはうちの子を助けてくれたんだもの」
彼女は器を俺の近くへ寄せた。
「でも、息子を助けてくれた人が、今度は自分を壊そうとするのは見たくないわね」
俺は顔を上げた。
ミレアは穏やかな声のまま続けた。
「ニコが消えかけた時、私はあの子を離したくなかった。どんなことをしてでも助けたかったし、代われるものなら代わりたいと思ったわ」
膝の上で組んだ手に、少しだけ力が入る。
「でも、あの子が私の代わりに自分を傷つけようとしたら、絶対に止めると思うの」
「……はい」
「あなたのことを心配している人も、同じ気持ちなんじゃないかしら」
何も言い返せなかった。
リゼが隣で静かに頷いている。
ミレアは立ち上がると、俺の肩へ手を置いた。
「急がなきゃいけないのは分かってる。でも、何かを守るために自分まで失くしてしまったら、きっと悲しむ人がいるわ」
その言葉は、予想していたより深く胸に残った。
「……ありがとうございます」
「なら、まずスープを飲んで」
「はい」
「それと、ニコには倒れたことを詳しく話していないから、心配させないようにね」
「分かりました」
「もっとも、あの子はさっきから『セインが起きたら説教する』って張り切ってるけど」
「……説教する側なのか」
「あなたが約束を守らないなら、僕が見張るんだって」
リゼが笑い出した。
俺もつられて笑いそうになり、右腕の痛みで顔をしかめた。
ミレアは呆れたように首を振った。
「まったく。似た者同士ね」
そう言って部屋を出ていく後ろ姿を、俺はしばらく見送っていた。
ミレアはニコの実の母親だ。
あの子の靴も、学校へ通う毎日も、帰ってくる食卓も、誰より大切にしている。
その関係が、術式の上では切り離せるものとして扱われている。
考えるほど、腹が立った。
けれど、その怒りだけで動いてはいけない。
今度こそ、ちゃんと考えなければならなかった。
◇
スープを飲み終えたあと、俺はリゼに共同井戸の帳面を持ってきてもらった。
「まだ調べるつもりですか?」
「寝ながら見るだけだよ」
「……その言い方、嫌いです」
「俺も好きじゃない」
「だったら休んでください」
「でも、さっきの失敗で一つ気づいたことがある」
リゼは疑うように俺を見た。
「本当に、無茶なことじゃないですか?」
「今度は考えるだけだ」
「……それなら」
彼女は帳面を開いて、枕元へ置いてくれた。
古い紙には十二軒の家と共同井戸が描かれ、そこへ続く細い道が何本も伸びている。
青鐘通りという名前が付くより前の記録だった。
最初から整った一本の道があったわけではない。
井戸へ水を汲みに行く人がいて、隣の家を訪ねる人がいて、仕事へ出かける人たちがいた。その往来が積み重なり、やがて道として認識されるようになった。
王都が公共路として認めたのは、それより後のことだ。
「……そっか」
思わず呟いた。
「何か分かったんですか?」
「まだ答えじゃない。でも、たぶん俺は質問を間違えてた」
「質問?」
俺は地図の線を指でなぞった。
「ずっと青鐘通りを、誰かの持ち物みたいに考えてたんだ。王都のものなのか、住民のものなのかって」
「違うんですか?」
「分からない。ただ、誰かが道を所有していなくても、人はそこを歩けるだろ」
リゼは地図へ目を落とした。
「最初は、道に名前もなかったんですよね」
「ああ」
「でも、そこに住んでいた人たちは、ちゃんと家へ帰れた」
「そういうことだと思う」
彼女は古い図をゆっくり見つめていた。
「じゃあ、セインが返そうとしたのは……」
「道そのものだ。でも本当に失われたのが道そのものなのか、もう一度考え直さなきゃいけない」
俺は石台の上で見た返却票を思い出した。
『返却対象:青鐘通り』
『返却先:不適合』
あれは、王都南三区という指定が誤っていたという意味なのか。それとも、返そうとした対象の捉え方が違っていたのか。
まだ判断できなかった。
ただ、ひとつ確かなことがある。
道は今も存在している。
石畳は残り、家も建っていて、人々はその上を歩いている。
失われているのは、地図上の線だけではなかった。
家を自分の家だと思うこと。大切な人の名前を呼べること。いつもの道を通って、いつもの場所へ帰れること。
そうしたつながりが、少しずつ断たれている。
俺は、目の前の道を返そうとして失敗した。
ならば次に調べるべきなのは、道の持ち主ではなく、そこから切り離されたものなのかもしれない。
「……リゼ」
「はい?」
「ティセラとリオルを呼んでくれるか」
彼女は少しだけ顔をしかめた。
「寝てるんじゃなかったんですか?」
「寝ながら話す」
「それ、休んでることになりませんよ」
「今度はちゃんと相談したいんだ。俺だけで決めないって約束しただろ」
その言葉に、リゼは黙った。
しばらく俺の顔を見つめてから、ゆっくり頷く。
「……そうですね。それなら呼んできます」
「ありがとう」
彼女は立ち上がり、扉へ向かった。
だが、取っ手へ手をかけたところで振り返った。
「セイン」
「何?」
「私、最近セインのことが前より分かるようになってきました」
「そうか? 面倒なところばかり見せてる気がするけど」
「そうですよ」
「否定してくれないのか」
「でも、その方がいいです」
リゼは少し考え、言葉を選んだ。
「最初は、何を考えてるか分からない人だと思ってました。人のものは何でも返そうとするし、自分のことは全然話さないし」
「そんなに分かりにくかったか?」
「はい。でも今は、ちょっと分かります」
彼女の赤い瞳が、まっすぐ俺を捉えた。
「セインが帰ってこないと困る人が、ここにもいるってこと。忘れないでくださいね」
それだけ言うと、リゼは扉を開けて出ていった。
返事をする間もなかった。
いや、何と答えればいいか分からなかったのだと思う。
俺はしばらく閉じた扉を見つめ、それから枕元の帳面へ視線を戻した。
十二軒の家から、共同井戸へ続く細い線。
誰かの許可を得て生まれたわけではない道。
それでも人はそこを歩き、隣人と出会い、自分の家へ帰っていた。
返すべきものは、青鐘通りそのものではないのかもしれない。
では、何を、どこへ返すべきなのか。
まだ答えは出ない。
けれど、今度は俺一人で決めるつもりはなかった。
窓の外では、青鐘通りの夕餉の匂いが夜風に混じって流れてくる。
誰かが食卓を整え、家族の帰りを待っている。
そんな当たり前の営みが、明日も続くように。
俺はもう一度、古い地図の線を指で追った。




