第二十九話 誰が動かした
旧倉庫へ戻る途中、リゼが何度も鞄の中を覗いていた。
「まだありますよ」
「何が?」
「井戸の帳面です。さっきから気にしてるでしょう」
図星だった。鐘楼の物置で見つけた古い帳面は、今はリゼが布に包んで抱えている。俺の鞄へ戻そうとしたところ、彼女が自分で持つと言い張ったのだ。
「落としたら大変だぞ」
「返却士の前で落とし物をしたら、すぐに返してもらえるじゃないですか」
「落とす前に気をつける方が、よっぽど簡単なんだけど」
「それだとセインの仕事がなくなりますね」
「なくなって困る仕事じゃないさ。誰も何もなくさないなら、その方がいい」
リゼは少し意外そうに俺を見上げた。
「……そういうこと、さらっと言うんですね」
「そんなに変なこと言ったか?」
「いいえ。だから、困るんです」
何が困るのかは教えてくれなかった。
俺が聞き返す前に、彼女は帳面を胸へ抱き直して歩き始めた。白い髪が夕方の風に揺れ、その先に見える青鐘通りの店々には、いつもと変わらず明かりが灯り始めている。
ただ、道を行き交う人々の表情は、昨日までとは違っていた。
顔見知りに声をかけようとして立ち止まる人がいる。自分の店の前で、入るかどうか迷っている男もいた。少し前なら何でもなかった光景が、今はひどく不穏に見える。
地下の切離進行率は八十六まで上がっていた。
その数字が何を意味するのか、まだ誰にも分からない。それでも、何かが進んでいることだけは確かだった。
「セイン」
リゼが俺の袖を引く。
「そんな顔で歩いてると、通りの人たちまで怖がりますよ」
「どんな顔?」
「これから悪い役人を捕まえに行く顔です」
「心当たりが多すぎるな」
「セインも役人でしょう」
「だから怖いんだよ。身内だったらどうしようって」
リゼは呆れたように息を吐いたあと、帳面を抱える腕に少しだけ力を込めた。
「……ちゃんと見つけましょうね。なくなったものも、こんなことを始めた人も」
「ああ」
その返事だけは、冗談にできなかった。
◇
旧倉庫の床下から地下施設へ戻ると、ティセラは石台の前で手帳を広げていた。
足元には術式を写した紙が何枚も並び、石壁の刻印と照らし合わせられるよう、細かな印が付けられている。彼女は俺たちの足音を聞いて顔を上げたが、挨拶より先に手元の記録へ視線を戻した。
「地上は?」
「落ち着いてるとは言えないな。デリクさんは家へ帰れたけど、自分の家だという実感が戻っていない。それと、パン屋の主人も店とのつながりを失いかけてる」
「そう……。数字は今も八十六よ」
ティセラは記録していた時刻を指で示した。
「ここへ戻ってから表示に変化はない。ただ、止まったと判断できるほど時間は経っていないわ」
「分かってる。こっちは、見せたいものがあるんだ」
リゼが共同井戸の帳面を取り出すと、ティセラの目つきが変わった。
「見つかったの?」
「正式な道路になる前の記録です」
リゼは少し得意そうに答え、折り目を付けないよう帳面を開いた。
井戸を中心に十二軒ほどの家が描かれ、そこから伸びる細い線が何本も重なっている。現在の青鐘通りとほぼ同じ形をした、古い共同通路の図だった。
さらに後年の頁には、王都による公共路の認定記録が残されている。
ティセラは二つを見比べ、何度も年代を確かめた。
「……なるほど。王都が青鐘通りを造ったわけじゃないのね」
「少なくとも、この帳面ではそうなってる。井戸を使う人たちが行き来するうちに道ができて、後から公共路として認められたらしい」
「それなのに、装置には『原帰属 王都南三区』とある」
ティセラが石台へ顔を向けた。
「これ、かなり重要な違いかもしれないわ」
「どういうことですか?」
リゼが尋ねる。
「この施設に記録された帰属が、必ずしも道の最初の状態を表しているわけではない、ということよ。少なくとも、王都の行政上の登録とは別に、それ以前から道が使われていた証拠がある」
「じゃあ、装置の方が間違ってる?」
「そこまでは言えないわ。そもそも『原帰属』が何を基準に決められているのか分からないもの。王都に登録された時点を基準にしているのかもしれないし、もっと別の意味があるのかもしれない」
ティセラは帳面の年代と石台の文字を別々の欄に書き留めた。
彼女はいつも、分かったことより、まだ分かっていないことを大切に扱う。
俺なら一つの手がかりを見つけただけで答えに飛びついてしまいそうになるが、ティセラはそのたびに立ち止まる。その慎重さに何度助けられたか分からない。
「でも、役所が後から決めたことを、最初から決まっていたものとして扱っている可能性はあるんだな」
「ええ。もしそうなら、この術式が扱う帰属と、人々が実際に築いてきた関係は一致していないかもしれない」
リゼが図に描かれた井戸を指した。
「じゃあ、この道は誰のものなんでしょう。最初に水を汲んだ人? 井戸を造った人? それとも、毎日そこを歩いた人たち?」
「すぐには決められないな」
俺が答えると、リゼは不満そうに口を尖らせた。
「返却士なのに?」
「返却士だからだよ。持ち主が分からないものを、適当な誰かに渡すわけにはいかないだろ」
彼女はしばらく帳面を見つめ、それから納得したように頷いた。
「じゃあ、ちゃんと探さないといけませんね」
何気ない返事だったが、その声が少し嬉しそうだった。
名前をなくした時のリゼなら、自分のことで精いっぱいだったかもしれない。今はこうして、ほかの誰かの帰る場所を気にかけている。
本人が気づいているかどうかは分からないが、俺にはそれが頼もしく思えた。
「ところで」
リオルが石台の裏側を覗き込んだ。
「古い帳面も大事だけど、こっちも見た方がよくないか?」
その声に、ティセラが顔を上げる。
「ええ。ちょうど確認してほしかったところよ」
彼女は帳面を傷まない場所へ移し、俺たちを石台の反対側へ案内した。
◇
石台の背面には、腰ほどの高さに金属製の操作板が取り付けられていた。
小さなレバーと円形のくぼみがあり、周囲には何本もの細い傷が走っている。最初に地下へ入った時は石壁の刻印ばかり調べていたせいで、こんな場所があることに気づかなかった。
リオルは身をかがめ、灯りを低い位置から当てた。
「……この傷、新しいな」
「分かるのか?」
「周りは錆びてるのに、削れたところだけ金属の色が残ってる。いつ付いたかまでは言えないけど、少なくとも長い間放置されていた傷には見えない」
リオルは指で触れず、傷の向きを確かめている。
警備隊では侵入者の痕跡を調べることもあるらしい。俺が気づかなかった小さな違いを、彼は迷いなく拾い上げていた。
「ほら、こっち。傷の幅がほとんど同じだろ」
「何度も同じものを差し込んだってこと?」
「その可能性はある。一度失敗して、向きを変えながら何度か試したのかもしれない」
ティセラが円形のくぼみを示した。
「私は、ここに認証具のようなものを差し込む仕組みだと考えているわ。王家か施設の管理者が使ったものかもしれないけれど、まだ断定できない」
「認証具がないと動かせないのか?」
「本来は必要だった可能性が高い。ただ、今も同じ仕組みなのか、ほかの起動方法があるのかまでは分からないわ」
「肝心の認証具は?」
「見つかっていない」
俺はもう一度、円形のくぼみを見つめた。
古い施設が勝手に壊れたのではなく、誰かがここへ来て操作したのかもしれない。
そう考えた瞬間、腹の奥に重たいものが沈んだ。
これまでは、青鐘通りに起きている異変を災害のように捉えていた。
古い術式が劣化したのかもしれないし、何かの拍子に封印が崩れたのかもしれない。原因を探すにしても、誰かを責める相手がいるとは考えていなかった。
だが、もし誰かが自分の意思で装置を動かしたのなら、話は違ってくる。
ガロは妹エマとの記憶を失いかけ、デリクは二十年暮らした家へ帰る道が分からなくなった。ニコは俺の顔さえ思い出せなくなり、石畳の下へ消えかけた。
あの時のニコの声を、俺はまだ覚えている。
自分が消えるのかと尋ねられた時、何も起こらないとは約束できなかった。背中に感じた小さな身体の重みだけが、あの子が確かにそこにいる証拠だった。
青鐘亭へ帰った時、ミレアは息子を叱ろうとしていた。けれど実際には、その顔を何度も確かめ、抱きしめることしかできなかった。
もし次に同じことが起きたら。
その時も、母親は息子を見つけられるだろうか。
俺は操作板から目を離せなかった。
「……ふざけるなよ」
思ったより低い声が出た。
「セイン?」
リゼがこちらを見る。
「誰かが動かしたのかもしれないんだろ。ここの仕組みも、何が起きるかも知っていた人間が」
「そうとは限らないわ」
ティセラが静かに言った。
「最近操作された痕跡はある。でも、その人物が現象を起こしたのか、止めようとしたのか、あるいは別の目的で触れたのかは、まだ分からない」
「……そうだな」
俺は息を吐いた。
そのとおりだった。
腹を立てるのは簡単だが、証拠が足りないうちから犯人を決めつけてしまえば、調べるべきことを見落とす。
リオルが隣へ来て、操作板を覗き込んだ。
「怒るのはいいさ。俺もこんなことをした奴がいるなら捕まえたい。でも、今は手がかりを集めよう。相手が何をしたのか分からなきゃ、止める方法も見つからない」
「警備隊らしいこと言うな」
「たまには仕事してるところを見せないとな」
リオルは普段どおりの声で返した。
昔からそうだ。俺が先走りそうになると、こいつは妙に冷静になる。逆に俺が考え込んで動けなくなった時は、先に身体を動かしてくれる。
腹の立つほど、よくできた幼なじみだった。
「セイン」
今度はリゼが口を開いた。
「怒ってくれて、ちょっと安心しました」
「何で?」
「私だけじゃないんだなって思ったので」
彼女は操作板を見ていた。
「この通りで、何かがなくなるたびに怖かったんです。でも、怖がってるだけじゃ駄目ですよね。誰かがやったことなら、何か分かるかもしれない」
そこで一度、俺へ顔を向けた。
「だから、ちゃんと調べましょう。私にもできることがあります」
リゼはもう、ただ俺の後ろについて歩く少女ではなかった。
「分かった。ただし、危ないものには勝手に触るなよ」
「それはセインにも言ってください」
ティセラが即座に口を挟んだ。
「……俺?」
「あなたが一番危なっかしいのよ。さっきもレバーへ手を伸ばしかけていたでしょう」
リオルが声を立てて笑った。
「まさか全員に注意される日が来るとはな」
「お前も笑ってないで調べろよ」
「はいはい、返却士殿」
どうやら俺には、心配してくれる仲間が少し多すぎるらしい。
ありがたいことではある。
それを素直に認めるのは、少し悔しかった。
◇
操作板の周囲を調べていると、石台の奥に細い通路が続いていることが分かった。
入口は古い棚の陰になっており、灯りを近づけなければ見落としてしまうほど狭い。リオルが先に内部を確かめ、危険な段差がないことを確認してから、俺たちも後に続いた。
通路の先には、細長い部屋があった。
壁に沿って金属製の固定具が並び、透明な筒状の容器が収められている。見た目は硝子に近いが、灯りを当てると内部に淡い線が浮かんで見えた。
「……何ですか、これ」
リゼが一歩踏み出しかけたところで、俺は肩へ手を添えた。
「少し待って。ここの術式がお前の封蝋に反応する可能性もある」
「分かってます。近づくだけでも危ないですか?」
「それもまだ分からないからな」
リゼは不満を言わず、俺の隣で足を止めた。
以前なら、ここでも一つくらい文句が出たかもしれない。地下で起きたことを覚えているからこそ、慎重になっているのだろう。
ティセラは容器に触れず、固定具の脇に残された文字を読み始めた。
「……保全槽」
「知ってるもの?」
「似た言葉は資料で見たことがあるわ。でも実物を見るのは初めてよ」
「何を保全するんですか?」
リゼが尋ねた。
「この施設が帰属や預託を扱っているなら、切り離した関係の情報を一時的に保持するためのものかもしれない。あくまで推測だけれど」
「関係の情報?」
「たとえば、ある人がどこに住んでいるか、誰と家族だったか、といったつながりよ。そうした情報を術式が扱えるなら、保管する仕組みがあっても不思議ではないわ」
リゼが眉を寄せた。
「……人と人との関係って、しまっておけるものなんですか」
「私も、それを確かめたいところなの」
ティセラの声には、研究者らしい興味と、それだけでは済まない戸惑いが混ざっていた。
俺は並んだ容器を見た。
もし本当にそんなものが保存されているなら、そこに入っているのは、ただの文字や数字ではない。
ある人が誰かを家族だと思えること。長年暮らした家へ帰ろうとすること。毎朝通っていた道を、迷わず歩けること。
それらが術式で切り離せるという事実そのものが、俺には恐ろしかった。
「待ってくれ」
リオルが棚の前でしゃがんだ。
「数が合わない」
固定具は十二基分あった。
しかし、実際に収められている容器は十一基しかない。
リオルが灯りを当てた先には、金属製の支えだけが残されていた。固定具の一部が開いたままになっており、周囲の埃もほかより薄い。
「最初から空いていた場所には見えないな」
リオルは床へ目を向けた。
「ここだけ埃の残り方が違う。最近、何かを動かした可能性がある」
ティセラが固定具の番号を確かめた。
「……第三保全槽」
「三番目がないのか」
「ええ。容器そのものが見当たらない。中に何があったのかも、ここに残っている記録だけでは分からないわ」
俺は空いた固定具を見つめた。
認証具を差し込んだような新しい傷。そして、十二基あるはずの保全槽のうち、一基だけがなくなっている。
二つに関係があるのかはまだ分からない。
だが、どちらも偶然として片づけるには引っかかるものがあった。
「……変ですね」
リゼが呟いた。
「何が?」
「もし青鐘通りを消すことだけが目的なら、わざわざここから何かを持っていく必要があるんでしょうか」
俺は彼女を見た。
リゼは空いた固定具と、残された十一基の容器を交互に眺めている。
「もちろん、本当に誰かが持っていったのかは分かりません。でも、ここにあったものが目的で、通りの異変はそのために起きている、という可能性はありませんか?」
その考えは、俺の中にはなかった。
これまで俺たちは、青鐘通りそのものが消されようとしているのだと思っていた。
通りを構成する場所や人々のつながりを切り離すこと。それ自体が、誰かの目的なのだと。
けれど、もし違ったら。
「第三保全槽にあった何かを取り出すために、装置を動かした……?」
俺が口にすると、ティセラが慎重に答えた。
「可能性の一つとしては考えられるわ。ただ、どちらが先なのかも分からない。装置が動いてから保全槽が外されたのか、外したことで術式に異変が起きたのかさえ不明よ」
「だとすると、まず確かめるべきは、そこに何が入っていたかだな」
リオルが言った。
俺は頷こうとして、ふと別の考えに行き当たった。
第三保全槽の中身を手に入れるために、誰かが施設へ入り込んだのだとしたら。
その人物にとって、青鐘通りに暮らす百人近い住民は、何だったのだろう。
失われていく名前も、記憶も、家族との関係も、目的を果たすために生じた結果にすぎないのだろうか。
それとも、誰かが意図的に切り離しているのか。
答えはなかった。
リゼが小さく息を吐いた。
「……もしそうなら、嫌な話ですね」
「本当にな」
俺は空いた固定具へ目を戻した。
失くしたものを探す仕事は、何度もしてきた。
けれど今回は、何が失われたのかを知る前に、何かを奪ったかもしれない人間を探さなければならない。
しかも、その間にも通りの異変は進み続けている。
「リオル、ここから何かを運び出した痕跡はないか?」
「ああ。調べてみよう」
彼はすぐに灯りを床へ向けた。
◇
古い埃の上には、薄い靴跡が残っていた。
保全槽の固定具から出入口へ向かうように、かかとの形がいくつか続いている。どの時期に付いたものか正確には分からないが、ほかの古い足跡より輪郭がはっきりしていた。
リオルはしゃがみ込み、靴底の模様を確かめた。
「……前に地下で追った人影と、靴の大きさは近いかもしれない」
「同じ人物?」
「そこまでは言えない。あの時はまともに足元を確認できなかったからな。ただ、調べる価値はありそうだ」
以前、地下で複数の人影を追ったことがある。
一人は壁の向こうへ消え、もう一人は古い通路へ逃げていった。あの時は追い切れなかったが、もし今もその先へ通じているなら、何か残っているかもしれない。
リオルは足跡の向きを追いながら、保守通路の入口へ移動した。
「途中までなら追えそうだ」
「行こう」
俺が答えると、ティセラが顔を上げた。
「全員で?」
「いや。ティセラにはここで調査を続けてほしい。進行率が変わったら連絡してくれ」
「分かった。ただ、装置は勝手に触らないで。容器もね」
「俺がそんな無茶をすると思う?」
三人が同時にこちらを見た。
「……分かった。しない」
信用がないにもほどがある。
ティセラはほんの少しだけ口元を緩めたあと、すぐに真剣な表情へ戻った。
「連絡札は使える状態にしておくわ。こちらでも変化があれば知らせる。そっちも、追跡に夢中になって戻れなくなるようなことはしないで」
「俺が一緒なら大丈夫だよ」
リオルが答えた。
「その自信はどこから来るの?」
「十年近く、こいつを無事に帰してきた実績」
「俺の知らないところで、そんな仕事をしてたのかよ」
「報酬の出ない仕事ばっかり増えるんだ」
リゼが笑った。
しかし俺が彼女へ目を向けると、その笑みが少し引っ込んだ。
「何です?」
「リゼはティセラと一緒にいた方がいいかもしれない」
「嫌です」
「返事が早いな」
「私も一緒に行きます。なくなったものの痕跡なら、役に立てるかもしれません」
「分かってる。でも、お前の封蝋が地下の術式に反応したことを忘れたわけじゃないだろ」
「忘れてません。だから、むやみに近づかないようにします」
リゼはまっすぐ俺を見た。
「セインは私を守ろうとしてくれますけど、私だって何もせずに待っているだけなのは嫌なんです」
その言葉には、いつもの軽口がなかった。
俺は少し考えた。
リゼには、何かが失われた痕跡を感じ取れる不思議な感覚がある。ただ、それが何なのか本人にも分かっていないし、失われたものの正体を直接知ることもできない。まして、危険な場所を安全に歩けるわけでもなかった。
それでも、俺たちだけでは見落とすものに気づける可能性はある。
「……分かった。ただし、無理はしないこと。体調に異変があったらすぐ止まる」
「はい」
「あと、勝手に一人で動かない」
「分かりました」
「本当か?」
「そこまで信用ないですか?」
俺が何も言わずにいると、リゼは少し頬を膨らませた。
「じゃあ、セインも一人で危ないことをしないって約束してください」
今度は俺が黙る番だった。
リオルが横で笑いをこらえている。
「何だよ」
「いや。いい相棒ができたなと思って」
その言葉を否定しようとして、やめた。
どうやら本当に、そうなのかもしれない。
リゼは俺の返事を待っている。
「分かった。約束する」
「よろしい」
「何でお前が上司みたいになってるんだよ」
「セインが心配だからです」
あまりに当然のように言われて、返す言葉が見つからなかった。
リオルはとうとう声を立てて笑い、先に保守通路へ入っていった。
◇
保守通路は、以前よりも暗く感じられた。
古い石壁には湿気が染み込み、ところどころに水滴が浮かんでいる。足元には細かな砂が積もり、歩くたびに乾いた音が響いた。
先頭を行くリオルは、一定の間隔で立ち止まっていた。
床に残る泥、壁の擦れ、金具についた傷。俺には見落としてしまいそうな痕跡を、一つずつ慎重に確かめていく。
「普段はずいぶん適当なのに、仕事になると変わるな」
俺が言うと、リオルは振り返らずに答えた。
「適当な奴が警備隊に入れると思うか?」
「試験の前日まで寝てた人間なら知ってる」
「あれは効率がよかったんだ」
「結果がよかっただけだろ」
「結果が出ればいいのさ」
昔から、そういうところがあった。
ただ、今はその器用さがありがたい。
リゼが後ろから感心したように言った。
「リオルって、思ってたよりちゃんとした人なんですね」
「今までどう思ってたんだ?」
「セインのパンを勝手に食べる人です」
「……それ、まだ覚えてたの?」
「忘れてほしいんですか?」
「できれば」
「じゃあ、返してください。パン」
リゼが真面目な顔で言う。
俺は思わず笑ってしまった。
「お前が返してもらってどうするんだよ」
「セインに返します。落とし物なので」
「食べたものは返せないだろ」
「そこは〈返却〉で何とか」
「無理な注文をするな」
リオルまで笑い始めた。
こんな地下通路で何を話しているんだと思いながらも、そのやり取りが少しだけありがたかった。
俺たちは疲れている。
ずっと緊張したままでは、何かを見落とす。時々こうしてくだらない話を挟まなければ、考えなくていい最悪の想像まで頭を占めてしまいそうだった。
しばらく進むと、リオルが急に足を止めた。
「ここだ」
通路の突き当たりには、古い床板があった。
以前、人影がこの辺りから床下へ消えたのを見ている。
リオルは金具の周囲を調べてから、慎重に留め具を動かした。
鈍い音とともに板が浮き上がる。
「……開いた」
下には石段が続いていた。
「前は開かなかったよな」
「あの時は留め具の位置が分からなかったからな。力ずくで開けたら何が起きるか分からなかったし」
「よく見つけたな」
「褒めてもパンは返らないぞ」
「まだ根に持ってたのかよ」
「お前がな」
リオルはそう言って、先に階段へ灯りを向けた。
十段ほど下りたところに、小さな部屋が見える。
誰かがいる気配はなかったが、床には新しい泥の跡があり、奥の壁際には木製の机が置かれていた。
俺たちは互いの位置を確認してから、慎重に部屋へ入った。
◇
部屋には、人が使っていた痕跡が残っていた。
机の上には短くなった蝋燭があり、壁際には何かを包んでいたらしい紙が落ちている。古い地下施設にしては埃が少なく、少なくとも完全に放置されていた部屋には見えなかった。
リオルは入口から順に調べ、足跡と物の位置を手帳へ書き込んでいく。
「誰かがここを使っていた可能性は高そうだな。いつまでいたかは分からないけど」
「保全槽を持ち去った人物か?」
「それを確かめたい。まだ同じ人物と決めるなよ」
俺は頷き、机の周囲を見回した。
その時、リゼが部屋の中央で立ち止まった。
「……セイン」
声が変わっていた。
「どうした?」
「ここ、何かがなくなった跡があります」
彼女は床の一角を見つめていた。
そこには何も置かれていない。古い石床があるだけで、俺には特別な違いも見えなかった。
「第三保全槽があったのか?」
俺が尋ねると、リゼはゆっくり首を振った。
「そこまでは分かりません。何かが失われた感じはするんですけど、それが容器なのか、ほかのものなのか……」
彼女は言葉を探しながら、自分の足元を確かめた。
「さっきの固定具が空いているのとは、少し違う気がします。あれは見れば分かりますけど、ここは何もないのに、そこだけ何かが抜け落ちている感じがするんです」
「つまり、単に物を運び出した跡とは限らない?」
「はい。普通に片づけただけなら、こんなふうに感じるとは思えません」
リゼが感じ取る、この奇妙な空白の正体については、まだ分からないことが多い。
何かが失われた痕跡に気づくことはできる。しかし、それが何だったのか、誰のものだったのかまで分かるわけではない。
だからこそ、彼女の言葉を勝手な答えに変えてはいけないのだと思った。
「分かった。ここに何か異変があったことは覚えておこう」
俺は手帳を取り出し、場所とリゼの説明を書き留めた。
それを見て、彼女は少しだけ安心したようだった。
「……ちゃんと書いてくれるんですね」
「お前が見つけた手がかりだからな」
「じゃあ、役に立てました?」
「十分」
リゼは何も言わなかったが、どこか嬉しそうに見えた。
リオルが机の上から一枚の紙を見つけたのは、その直後だった。
「二人とも、こっちを見てくれ」
紙はほとんど白紙だった。
端には細かな折り目があり、何かを書き込んで使っていたようにも見える。だが表面に文字はなく、裏返しても特別な印は見当たらない。
リゼが近づき、紙をじっと見つめた。
「……ここにもあります」
「空白?」
「はい。でも、何が書かれていたかは分かりません」
「ティセラの〈転写〉で調べられるかな」
俺が言うと、リオルは紙の表面へ灯りを近づけた。
「残っている文字があれば写せるだろうけど、消えたものを取り戻せるわけじゃないんだよな」
「ああ。ただ、見落としてるものがあるかもしれない。持って帰って調べてもらおう」
紙を折らないよう持ち上げると、端に赤黒い染みがあることに気づいた。
乾いて固まった蝋のようなものだった。
「……封蝋か?」
リゼも覗き込んだ。
彼女の首元には、王家に関わる赤い封蝋が残っている。
俺は思わず、そちらへ目を向けた。
色は似ていた。
ただし、こちらの方がずっと黒ずんでいる。表面は潰れ、紋章があったのかどうかさえ判別しにくい。
「同じものだと思うか?」
リゼは慎重に首を振った。
「分かりません。色も違いますし、模様が見えませんから」
「そうだな」
「でも、偶然にしては気になりますね」
俺も同感だった。
リゼの首に残る封蝋。五年前の返却記録に残されていた同じ紋章。そして、この地下室で見つかった赤黒い蝋の痕跡。
今はまだ、それぞれがどうつながっているのか分からない。
同じ王家の封蝋だと決めつけることもできなかった。
それでも、調べない理由にはならない。
「紙はこのまま保管しよう。地下へ戻ったらティセラに見せる」
俺が鞄から布を取り出した、その時だった。
遠くで鐘が鳴った。
一度目は低く、二度目は少し長く響いた。
石壁を伝わる音が地下室に満ち、俺たちは思わず顔を上げた。
「青鐘通りの鐘ですか?」
リゼが尋ねる。
リオルは耳を澄ませていたが、すぐに表情を引き締めた。
「いや、警告鐘だ」
「何が起きた?」
「まだ分からない。とにかく地上へ戻った方がいい」
その直後、腰に下げていた連絡札が小さく震えた。
ティセラからだった。
俺は札を手に取り、表面へ浮かび上がる文字を確かめた。
『切離進行率 九十』
しばらく、その数字から目を離せなかった。
「……セイン?」
リゼが俺の顔を覗き込む。
「九十になった」
「九十?」
「ああ。さっきまでは八十六だった」
リオルがすぐに時刻を確認した。
「四つも進んだのか。随分早いな」
「進行速度まで変わってるってこと?」
「その可能性はある。でも、まだ何が進んでいるのか分からない」
俺は連絡札を握ったまま、今まで見てきた住民たちの顔を思い浮かべた。
ガロは妹のことを思い出せず、デリクは帰り道を失った。ニコは俺を知らないと言い、石畳の下へ沈みかけた。
ミレアは、息子が帰ってくるのを待っていた。
そして広場には、誰のものだったか思い出せない木の駒が残されている。
鞄の中には、今もその駒が入っていた。
誰かと交わした約束がある。
相手が誰だったのか分からないまま、約束だけが残っている。
もし、こんなことがもっと続いたら。
俺たちは、何を失ったのかさえ分からなくなるのではないか。
「……戻ろう」
俺は布に包んだ紙を鞄へしまった。
「第三保全槽は?」
リゼが尋ねる。
「気になる。でも今は地上の様子を確かめたい」
「犯人を追うのは?」
「後だ。誰が装置を動かしたのかも、何を持ち去ったのかも必ず調べる。ただ、その前に守らなきゃいけない人たちがいる」
リオルが先に階段へ向かった。
「俺が先行する。二人とも足元に気をつけろ」
「分かった」
俺が答えると、リゼもすぐ後ろへ続いた。
階段を上がる途中、彼女が小さな声で尋ねた。
「セイン。九十って、百になったらどうなるんでしょう」
「分からない」
「……そうですよね」
俺は足を止めずに続けた。
「でも、何を意味するか分からないからって、放っておいていい数字じゃない。地上で何が起きてるか確かめて、止める方法を探そう」
「はい」
リゼの返事が、すぐ後ろから聞こえた。
その声を聞きながら、俺は手にした灯りを少し高く掲げた。
これまで俺が扱ってきた落とし物には、たいてい持ち主がいた。
探せば見つかることもあれば、見つからないまま保管期限を迎えることもあった。それでも、誰かが失くしたと覚えている限り、探す理由は残っていた。
だが、青鐘通りで起きているのは、それとは違う。
人が家を忘れ、家族とのつながりを失い、自分の暮らしてきた場所を知らないものとして見つめ始めている。
そして、消えた誰かの名前すら思い出せなくなった俺たちは、何を返せばいいのかさえ分からない。
それが、たまらなく悔しかった。
旧倉庫へ続く階段が見えてきた。
上から聞こえるざわめきは、さっきより大きくなっている。
青鐘通りには、まだミレアがいて、ニコがいて、ガロやネイもいるはずだった。
次に会った時も、俺は彼らの名前を呼べるだろうか。
そんなことを考えなければならない街に、いつの間になってしまったのだろう。
俺は足を速めた。
誰が始めたのかは、必ず突き止める。
だが今は、その名前を知ることよりも先に、青鐘通りへ帰ろうとしている人たちのために、できることを探したかった。
たとえ〈返却〉で何もかも元に戻せなくても。
まだ覚えている名前があるうちに、守れるものを守らなければならない。
そう思った時、階段の上から差し込む夕方の光が、ようやく見えた。




