第二十八話 地図より古い帰り道
旧倉庫の床板を押し上げた時、外から人の声が流れ込んできた。地下の換気口を通して聞いた悲鳴と同じ方向から、今度は大勢が話し合うざわめきが聞こえる。
先に地上へ上がったリオルが道を確かめ、俺はリゼとティセラが階段を登りきるのを待った。四人がそろってから広場へ向かうと、人垣の中央に四十代ほどの夫婦が立っていた。
女性が男性の上着を握りしめ、何度も同じことを尋ねている。男性は逃げようとも怒ろうともせず、ただ途方に暮れた顔で妻を見つめていた。
「警備隊です。怪我をした人はいますか」
リオルが身分札を示すと、人々が道を空けた。
「怪我じゃないんです。夫が家へ帰れなくなって……」
女性の声は震えていた。
「お名前を教えてください」
俺が尋ねると、男性はデリク・モーゼンと名乗った。隣にいるのは妻のサラで、結婚して二十年ほどになるという。その説明には何の迷いもなかった。
「奥さんのことは、覚えているんですね」
「ええ。けれど家へ帰ろうとしたら、どこを歩けばいいのか分からなくなったんです。この広場も店も知っているのに、帰り道だけが思い出せなくて」
サラが夫を見上げる。
「うちは広場からすぐなのよ。今朝もそこから出てきたじゃない」
「そう言われれば分かる気はするんだ。でも、家を思い浮かべようとすると、知らない建物が混ざってくる」
彼は言葉を切り、顔を伏せた。妻が横にいるのに、二十年間帰ってきた場所だけが遠くなってしまったらしい。
リゼは二人から少し離れたところで道を見つめていた。
「何か見えるか?」
「デリクさん本人の輪郭がなくなっているわけではありません。ただ、あちらへ向かう道の途中に空白があって、そこから先のつながりが見えないんです」
彼女が指したのは、住宅が並ぶ南側の道だった。
「さっき地下で進行率が一つ増えた。これも同じ異変なのかな」
俺が呟くと、ティセラが首を振った。
「関連する可能性はあるけれど、数値が何を数えているのか分かるまでは断定できないわ。一つ増えたから一人に異変が起きるとは限らないもの」
そのとおりだった。地下では八十三だった表示が八十四へ変わり、その直後に悲鳴を聞いた。しかし、目の前のデリクが失ったものだけで、数字の意味を決められるはずはない。
「リオル、二人に付き添ってくれるか。家へ着いても違和感が続くか、確認したい」
「ああ。ほかにも異変があれば報告してもらう。お二人とも、俺と一緒に歩けますか」
サラは頷き、デリクの手を握り直した。
「……帰れるんでしょうか」
男性が尋ねたのは、道順のことだけではないのだと思った。
「まず家まで行きましょう。そのあとで、覚えていることと分からなくなったことを一緒に確かめます」
俺が答えると、デリクは妻に促され、ゆっくり歩き始めた。リオルは二人を急がせず、その隣についていった。
◇
人々が散ったあとも、広場の空気は落ち着かなかった。俺は地上へ戻る前に見た石台の文字が頭から離れず、ティセラへ尋ねた。
「『原帰属 王都南三区』って、いつ決まったことなんだろう」
「王都が青鐘通りを登録した時期、という意味?」
「そう。そもそも通りは、最初から公共の道だったのかな」
ティセラは古い見取り図を開き、広場に立つ境界標を示した。
「前に確認した石柱は、今の道路制度より古い形式だったわね。道が正式に登録される前から使われていたとしても不思議じゃないわ」
「だったら、その頃のことを知りたい」
「古い共同施設に記録が残っているかもしれない。ここなら井戸か鐘楼ね」
俺は広場の中央へ目を向けた。石畳に囲まれた井戸は、今では目立たない施設になっているが、通りが小さかった頃には人々が毎日集まった場所だったのかもしれない。
「私も記録を調べたいけれど、今は地下の術式を整理する必要があるわ。リオルが戻ったら、状況を共有してから倉庫へ戻る」
ティセラはそう言って、写し取った文字と自分の仮説を別々の手帳へしまった。
「一緒に行く?」
リゼが尋ねると、ティセラは首を振った。
「二人は井戸を調べて。古い帳面を見つけても、原本は勝手に持ち出さないこと。管理している人に聞いて、写しを取らせてもらって」
「分かった」
ティセラは先に倉庫へ向かい、管理人のいる地上で資料を整理しながらリオルを待つことになった。俺とリゼは広場へ向かった。鐘楼の下を通ると、青く塗られた鐘が夕方の光を受け、少しだけ光っている。
◇
井戸の近くには、盤遊びの机が置かれていた。
椅子は今も三脚ある。二人の老人が向かい合って盤を囲み、残る一脚には誰も座っていなかった。俺は鞄の中にある木の駒へ意識を向けたが、その持ち主の顔を思い出すことはできなかった。
「また役人さんかい」
口髭の老人が声をかけてきた。昨夜、俺たちが広場へ戻った時にはもう帰っていた人だ。
「ええ。今日はこの通りの昔のことを知りたくて」
「古い話なら、少しくらいは分かるぞ」
老人は盤から手を離し、井戸の縁へ腰をかけた。
「祖父から聞いた話じゃ、この辺りには昔、十数軒の家しかなかったそうだ。今みたいな石畳も店もなくて、皆が水を汲みに来るうちに草が踏まれ、道らしいものができたんだとさ」
「誰かが最初から道を造ったわけじゃないんですか」
「少なくとも祖父の話ではそうだな。荷車が通るようになってから幅を広げ、石を敷いたんだ。使う人が増えるたび、少しずつ形が変わったらしい」
リゼは井戸から周囲の家々へ目を向けていた。
「じゃあ、この道は井戸へ来る人たちの足跡から始まったんですね」
「そういうことだ。鐘の方も、火事や大雨を知らせるため皆で据えたと聞いてる。青く塗ったのは昔かららしいが、今の色は何度も塗り直したものだよ」
俺は鐘楼を見上げた。いま吊るされている鐘も、代々の住民が守ってきたものなのだろう。
「その頃の記録は残っていますか」
「共同井戸の帳面なら、鐘楼の物置にあるかもしれん。修理代を各家で分けてたからな」
老人は町内で交代して管理を任されているらしく、鍵を持ってきてくれた。俺たちは許可を得て鐘楼の一階へ入り、埃をかぶった木箱を調べ始めた。
俺が高い棚から箱を下ろすと、細かな埃が舞ってくしゃみが出た。リゼは一歩下がり、口元を覆っている。
「セイン、もっとそっと動かしてください」
「これでもそっと動かしたつもりなんだけど」
「じゃあ、次は私が下の箱を調べます。上の方は任せました」
「随分うまく役割を分けたな」
リゼが笑った。俺たちは修理道具と古い帳面を順に分け、管理人の老人にも中身を確かめてもらった。やがて一番奥から、『共同井戸記録』と彫られた薄い木箱が出てきた。
◇
帳面には井戸の修理代や桶の交換費、水汲み当番など、住民の暮らしを支えてきた細かな記録が並んでいた。目立つ事件の記録などなく、誰が金具を直し、誰が水汲みの当番を代わったかといった話が、何年分も書き継がれている。
「古いほど、名前が少ないな」
俺は帳面を並べ、年代を順に確かめた。最初は十軒ほどだった家が少しずつ増え、商売を始めた人の名前も混ざるようになっている。
「ここ、地図があります」
リゼが開いた頁には、井戸を中心とした家々の簡単な配置図が描かれていた。家から井戸へ細い線が延び、途中で重なり合って一本の太い線になっている。今の通りの曲がり方と比べると、ほぼ同じ位置だった。
「……昔から、この場所を歩いてたんだな」
「そうですね。最初はただ、皆が井戸へ行くための道だったんですね」
余白には『共同通路』とだけ記されていた。青鐘通りという名前も、王都の公共路であることを示す番号も見当たらない。
さらに新しい帳面を調べていくと、一枚の公文書が綴じられていた。紙の端は傷んでいるが、王都の印章と本文はまだ読める。
『南三区共同通路を公共路として認定する』
俺はその文言を何度も確かめた。
「造った、とは書いてないな」
リゼも頷く。
「認定したんですね。道はもうあったのに」
役所の記録へ載る前から、そこには人々の行き来があった。井戸へ水を汲みに来て、仕事に出かけ、隣家を訪ねるうちにできた道を、後から王都が公共路として認めたのだ。
俺は、以前青鐘通りの敷石で〈返却〉を試みた時のことを思い出した。道を構成する石が何に属するのかを考えようとしても、一人の所有物として扱ってよいのかさえ分からなかった。
「ニコが言ってたな。この道は皆が歩くから、皆のものなんじゃないかって」
「覚えてます。あの時は子供らしい答えだと思ったけど、今は少し違って聞こえますね」
「この記録があるからって、道の持ち主が全員だと決まるわけじゃない。でも、最初から役所が線を引いて造ったわけでもないんだ」
リゼは古い図に描かれた線を見つめていた。
「皆が何度も通ったから、帰り道になったんですね」
俺は頷いた。
地下の封印施設では、青鐘通りの原帰属が王都南三区だと示されていた。しかし今、目の前にある記録は、その所属が決まる前から道と暮らしが存在していたことを示している。
「装置は、役所の登録を基準にしてるのかな」
「違うかもしれません。でも、調べてみる価値はあります」
「そうだな」
もし術式が登録上の帰属だけを扱っているなら、登録以前の道や、そこに暮らした人々との関係をどう認識しているのか。考え始めると、確かめたいことが次々に出てきた。
ただし、この帳面が今も残っている理由はまだ分からない。ほかの記録は消えているのに、古い帳面の一部が読めるのは、対象から外れているからなのか、別の条件があるからなのか。ティセラに見せる時には、そこも一緒に尋ねようと思った。
「持って帰れますかね」
リゼが尋ねる。
「まず管理人さんに聞こう。大事な記録だし、勝手に持ち出せない」
俺たちは老人へ事情を話した。原本は一冊だけ借り、確認できる文字を手帳へ写したうえで、傷めないよう布に包んだ。返却する日を決めることはまだできなかったが、調査が終われば必ず返すと約束した。
「返却士だもんな」
老人が笑った。
「だからこそ、無事に返したいんです」
俺が答えると、リゼも笑った。
◇
鐘楼を出た頃、リオルが広場へ戻ってきた。デリク夫妻を家まで送り、無事に到着したことは確かめられたという。ただ、玄関へ立ったデリクは、そこが自分の家だとすぐには思えなかったらしい。
「サラさんが一緒にいるから、今日は落ち着いて過ごせそうだ。でも記憶が戻ったとは言えない」
「……そうか」
「ほかにも異変がないか聞き取ってみた。その結果はティセラにも知らせる」
俺は古い共同井戸の帳面を見せた。リオルは頁を開いて読んだあと、驚いたように顔を上げた。
「王都が造った道じゃなくて、後から公共路として認めたのか」
「少なくとも、この記録ではそうなってる。地下の『原帰属』と照合したいんだ」
「なるほど。なら、ティセラに見せよう」
リオルはそこで時刻を確かめた。
「先に倉庫へ戻って、ティセラと一緒に地下の記録を整理してくる。二人は青鐘亭で待っていてもいい」
「俺たちも行けるよ」
「分かってる。でも、一度に全員が地下へ戻るより、地上にも連絡役がいた方がいい。俺がティセラを途中まで付き添って、あとは倉庫の管理人にも声をかけておく」
リゼが首元の封蝋へ触れた。
「私は、あの声が聞こえた部屋には近づかない方がいいですね」
「そうしてくれ。地下で起きたことはまだ説明できないからな」
リオルはティセラと連絡を取るため、倉庫へ向かった。俺たちはその足で青鐘亭へ寄り、ミレアにデリクの件を伝えた。彼女は息子を休ませながら、困った住民が立ち寄れば知らせてくれると言っていた。
日が傾き、広場へ戻ると、リオルが慌ただしく駆けてきた。さっきまで一緒にいた時とは違い、表情が硬い。
「セイン。地下の進行率が、また変わった」
「いくつに?」
「八十六だ」
俺は鞄の紐を握った。八十四から、さらに二つ増えている。
「パン屋の主人が、自分の店を他人のものだと思い始めたらしい。仕事のやり方や鍵の場所は覚えてるのに、主人だという実感がなくなってるそうだ」
「もう一つは?」
「分からない。そもそも一つの変化が一人に対応している保証もないし、誰かが自分で異変に気づけなくなっている可能性もある」
リオルは言葉を選んで答えた。
「ティセラは?」
「倉庫の管理人へ状況を伝えながら、地下の記録と数字を照合している。今は離れたところで確認を続けてるが、長く一人にはしない。俺たちが戻ったら、全員で動くつもりだ」
「分かった。なら、急ごう」
リゼも頷いたが、すぐに俺の鞄へ目を向けた。
「その帳面、大切にしましょうね」
「ああ。ここにしか残っていない情報かもしれないから」
俺たちは旧倉庫へ向けて歩き出した。通りの両側には、いつもどおり家が並んでいる。だがデリクは、その中の一軒を自分の家だと思えなくなった。パン屋の主人も、自分の店とのつながりを失いかけている。
井戸の周りを歩いた人々の足跡から生まれた道が、今はそこに暮らす人を帰らせようとしない。
ならば、この古い帳面には何が書かれているのか。道と人の関係を、術式は何として扱っているのか。
確かめるべきことは増えるばかりだったが、何もないところから探し始めるよりはいい。少なくとも俺の鞄には、地図に線が引かれる前から人々がここで暮らしていた証拠が残っていた。




