第二十七話 帰属を切る装置
「……セイン?」
小さな扉の向こうから、もう一度声がした。
間違えようがない。昨日まで何度も聞いていた、ニコの声だった。
「ニコ!」
俺は半開きの扉へ駆け寄った。
肩をぶつけるようにして中を覗き込んだところで、背後からリオルに上着をつかまれる。
「待て、セイン。先に足元を見ろ!」
その声に、踏み出しかけた足を止めた。
扉の内側は暗く、床には古い金属片がいくつか落ちている。勢いよく入っていたら、踏んで転んだかもしれない。
「……悪い」
「声が聞こえたのは分かる。でも、ニコは青鐘亭にいるんだろ」
「ああ。今朝も会った」
「なら、ここに本人がいると決めつけるな」
分かっているつもりだった。
それでも、さっきの声を聞いた瞬間、体が勝手に動いてしまったのだ。
リオルは俺の上着を離すと、灯りを扉の内側へ向けた。
「俺が先に確認する。何かあったら下がれよ」
「分かった」
彼が慎重に扉を押し広げる。
金属の蝶番が低く軋み、その音が部屋の奥で小さく反響した。
中は、倉庫のような場所だった。
左右の壁には金属製の棚が並び、中央には腰ほどの高さの黒い石台が置かれている。大人が四人入っても歩ける程度の広さはあるが、隠れられそうな場所はほとんどない。
そして、どこを見てもニコの姿はなかった。
「……ニコ?」
俺は入口から声をかけた。
返事はない。
代わりに、右側の棚から小さな音が聞こえた。
『……セイン』
思わず振り向く。
棚には手のひらほどの金属板が何十枚も並んでおり、そのうち一枚が、かすかに震えていた。
「……何だ、これ」
俺が呟くと、リオルも近づいてきた。
金属板は黒ずんだ真鍮でできていて、表面には細かな文字が刻まれている。
昨日までニコが口にしていたような、何気ない呼びかけ。
それが今、目の前の金属板から聞こえてくる。
「セイン、触らないで」
後ろからティセラの声がした。
彼女は扉のところで立ち止まり、室内を見回している。
「まだ触ってないよ」
「だったら、そのまま。何が保存されているか分からないし、触れたことで術式が動く可能性もあるわ」
ティセラは灯りを受け取ると、俺たちの横から金属板を確かめ始めた。
リゼも部屋へ入ってきたが、入口を越えたところで足を止めていた。
「……ここです」
その声が、いつもより小さかった。
「何が見える?」
俺が尋ねると、彼女は棚ではなく、部屋の四隅へ視線を向けた。
「昨日、ニコの周りから地下へ伸びていた空白です。さっきの大きな部屋では、ここへ向かって集まっている感じがしたんですけど……」
リゼは慎重に言葉を探していた。
「この部屋では、その先が見つかりません。壁の向こうを見ているわけじゃないのに、なくなったものの跡が、ここで途切れているように感じるんです」
「つまり、ここが終点?」
「そうかもしれません。ただ、何があるのかまでは見えません」
俺は金属板の列を見た。
ニコの声が聞こえたことと、リゼの見ている空白がこの部屋へ集まっていること。
二つを合わせれば、無関係とは考えにくい。
しかし、だからといって何でも触っていいわけではない。
「ティセラ。分かることから調べよう」
「ええ。今、表面の文字を読んでいるところよ」
彼女は頷き、灯りの角度を変えた。
その時、隣の棚から別の声がした。
『……兄ちゃん』
女性の声だった。
俺たちは一斉に動きを止めた。
◇
「今の、エマさんか?」
リオルが低い声で尋ねた。
ガロの妹。
外の王都に暮らし、兄の存在を忘れてしまった女性だ。
俺は首を振った。
「似ている気はするけど、短すぎて分からない」
声の主がエマ本人とは限らない。誰かが彼女について思い出した声なのかもしれないし、俺たちが知らない別の兄妹のものかもしれなかった。
それでも、ガロがここにいたらどう思うだろう。
自分の名字を忘れ、妹の顔まで思い出せなくなった男が、こんな場所で『兄ちゃん』という声を聞いたら。
俺は想像しかけて、やめた。
今は、その声をガロへ聞かせるべきかどうかさえ判断できない。
ほかの棚からも、時折小さな声が聞こえ始めていた。
『明日も学校に……』
『帰ったら、店の……』
『母さん、あのね……』
どれも途中で途切れる。
誰かと会話しているわけではない。一つの金属板から言葉が漏れたかと思うと、次はまったく別の場所で声がする。
まるで、長い会話から一部分だけを切り取って並べたようだった。
「……嫌ですね、これ」
リゼが呟いた。
普段なら、もう少し柔らかい言い方をするのに。
俺も同じ気持ちだった。
ここにある声は、誰かが毎日の暮らしの中で交わしたものなのだろう。
学校へ行く前の約束だったり、仕事を終えたあとの会話だったり、家族へ呼びかける言葉だったり。
本来なら、こんな地下室へ並べられるものではない。
「ティセラ」
俺が呼ぶ。
「これ、何を保存してるんだ?」
「……少し待って」
彼女は石台の周囲へ刻まれた文字を読みながら、何度か棚と見比べていた。
やがて、手帳の一頁に簡単な図を描く。
「声そのものを保存する装置、というわけではなさそうね」
「じゃあ、何を?」
ティセラは筆記具を置いた。
「人や場所の、つながりよ」
俺は眉を寄せた。
「……つながり?」
「例えば、ガロとエマのことを考えてみて」
ティセラは二つの点を紙へ描き、その間に一本の線を引いた。
「二人は兄妹でしょう。でも、ガロがエマを所有しているわけでも、エマがガロを所有しているわけでもない」
「当たり前だろ」
「そうね。それでも、二人の間には兄妹という関係がある。互いの名前を知っていて、子供の頃の出来事を覚えている。そうしたものが積み重なって、一つの関係になっているの」
ティセラは二つの点をつなぐ線へ指を置いた。
「この施設は、その線を一時的に切り離している可能性があるわ」
俺は図を見た。
「人を消してるんじゃなくて?」
「少なくとも、最初から人間そのものを消すためだけの施設には見えない」
「じゃあ、ガロさんが妹の顔を忘れたのも……」
リゼが口を開く。
「二人の関係の一部が切り離されたから?」
「そう考えると、説明できることが増えるわ」
ティセラは金属板へ目を向けた。
「ここに保存されているのは、関係そのものかもしれない。さっき聞こえた声も、その関係に結びついていた記憶の断片なら不思議じゃない」
俺は、棚に並ぶ真鍮板を見た。
青鐘通りの住民は、外側の家族から忘れられている。
名前が帳簿から失われ、学校では生徒だったことまで消されてしまった。
けれど、それらが完全になくなったのではなく、どこかへ預けられているとしたら。
「……取り戻せるのか?」
思わず尋ねた。
ティセラは少し考え、首を横へ振った。
「まだ分からない。預けてあるものが元の形で残っているかも、今は確認できていないもの」
その返事に、落胆しかけた。
しかし、彼女は続けた。
「ただ、消去と預託では調べ方が変わるわ。消えてしまったものを探すのと、預けられたものの返還条件を調べるのでは、必要な記録も違うでしょう?」
「……そうだな」
俺は頷いた。
少しだけ、考える方向が変わった気がした。
◇
ティセラは黒い石台の側面を拭い、さらに古い文字を見つけた。
『原帰属 王都南三区』
その下には、もう一行が残っている。
『外部帰属 段階切離』
「原帰属っていうのは、元々属していた場所のことか?」
俺が尋ねると、ティセラは頷いた。
「そう読めるわ。青鐘通りが、王都南三区の一部として扱われていたことを示しているのね」
「段階切離は?」
「外側とのつながりを、少しずつ切り離すという意味だと思う」
リオルが腕を組んだ。
「一度に消さないのか」
「ええ。順番に処理しているように見えるわ」
俺は地下へ来てから見たものを思い返した。
青鐘通りへ入る地上の道は、外へ進もうとすると別の入口へ戻される。けれど、水道管はまだ王都の設備とつながっていた。
道や記録は消えたのに、そこに暮らす人々の生活まで一度に失われたわけではなかった。
つながりによって、失われる時期が違う。
その理由が、ようやく見えてきた。
「……王都から青鐘通りを切り離すために、外へ続くものを順番に外してる?」
俺が言うと、ティセラは頷いた。
「かなり近いと思う」
「でも、どうして人の記憶まで?」
リゼが尋ねた。
「道を隠したいだけなら、地図から消せば十分じゃないですか」
「人が覚えていたら、そこにはまだ道があると分かってしまうからでしょうね」
ティセラの返事は静かだった。
「学校へ通う子がいる。店へ仕入れに来る人がいる。ここに家族を残している人もいる。そういう関係が残っていれば、青鐘通りを完全に切り離したことにはならないのかもしれない」
俺は唇を噛んだ。
ニコには学校がある。
ガロには妹がいる。
ミレアには毎日の仕入れ先があり、青鐘亭には店を訪れる客がいる。
その一つ一つを、何かが邪魔なものとして取り除いているのだとしたら。
「……ひどい話だな」
俺が呟いた。
リオルが頷く。
「道を一本なくすために、そこに住む人間の人生まで削ってるようなものだ」
「装置から見れば、同じつながりとして扱われているのかもしれないわね」
ティセラは石台を見つめた。
「土地の所属も、人と人との関係も、術式にとっては切り離せる対象なのかもしれない」
リゼが自分の首へ触れた。
赤い封蝋が、灯りを受けて鈍く光っている。
「……私の時と、似ていますね」
誰もすぐには返事をしなかった。
彼女は続けた。
「私の名前も、世界へ預けられていました。お父さんとの関係も、元々の名前で残っていた記録も、見つけにくくなっていた」
「ええ。同じ系統の術式である可能性は高いわ」
ティセラが答える。
「ただし、あなたに使われたものと、ここにある装置が同じ契約で動いているとは限らない。規模も目的も違うから」
リゼは頷いた。
その顔には、不安だけでなく、何かを確かめようとする真剣さがあった。
「じゃあ、調べる価値がありますね」
「もちろん」
「私の名前のことも?」
そう尋ねられたティセラが、一瞬だけ目を丸くした。
俺はリゼを見る。
「そっちも、まだ終わった話じゃないだろ」
リゼは少し驚いたようだった。
「……セイン、覚えてたんですね」
「当たり前だろ」
口にしてから、この場所でその言葉を使うことの重さに気づいた。
リゼも同じことを思ったのか、少しだけ笑った。
「そうですね。今は、その言葉が一番嬉しいかもしれません」
俺は何と返せばいいか分からず、もう一度石台へ目を向けた。
その時だった。
右側の棚から、またニコの声が聞こえた。
『……リゼ』
リゼが振り向く。
ほんの少し、体が前へ動いた。
「ニコ……?」
呼びかけた直後、彼女の首元で赤い光が瞬いた。
◇
「リゼ?」
最初は、灯りが反射したのかと思った。
けれど、そうではなかった。
首元の封蝋から、細い赤い光が漏れている。
リゼはそれに気づいていないようだった。
棚の方へ手を伸ばし、何かをつかもうとしている。
「リゼ、待て!」
俺が声をかけると、彼女は振り返った。
その顔を見て、胸が冷たくなった。
目の焦点が合っていない。
俺の顔を見ているのに、どこか遠くを見ているようだった。
「……どうした?」
答えがない。
リオルが近づいてきた。
「セイン、首の封蝋が光ってる」
「見えてる」
ティセラもすぐに気づいた。
「リゼ、そこから離れて!」
しかし、リゼは動かなかった。
俺は一歩近づき、右手を差し出した。
「リゼ。俺が分かるか?」
彼女は俺の顔を見た。
しばらくして、ゆっくり頷く。
「……分かります」
安心しかけた。
けれど、そのあとで彼女は眉を寄せた。
「分かるんですけど……」
言葉が続かない。
「名前が……」
その一言で、何が起きているのか理解した。
リゼは俺を知っている。
俺たちが一緒に過ごしてきたことも覚えている。
けれど、今は俺の名前を口にできない。
「……出るぞ」
俺は言った。
リゼが顔を上げる。
「でも、まだ調査が」
「続きはあとだ」
「セイ……」
そこで彼女の言葉が途切れた。
俺は差し出していた右手を下げ、彼女の背中へ回った。
「歩けるか?」
「……はい」
「じゃあ、一緒に出よう」
リオルが先に扉を開け、周囲を確かめる。
ティセラは石台から離れながら、声を上げた。
「封蝋がここの術式へ反応しているのかもしれない。距離を取って!」
俺はリゼの歩調へ合わせ、扉の外へ向かった。
彼女の足取りは少し不安定だったが、自分で歩いている。
無理に引っ張る必要はなかった。
部屋を出て、さらに数歩離れたところで、首元の赤い光が弱まり始めた。
「……あ」
リゼが小さく声を上げた。
そのまま壁へ手をつき、深く息を吐く。
「大丈夫か?」
俺が尋ねると、彼女は頷いた。
「……少し、変な感じがしました」
「俺のこと、分かる?」
「分かりますよ」
返事は速かった。
「名前は?」
リゼは一度まばたきをした。
それから、少し困ったように笑った。
「セイン・アルケット。二十一歳。王立遺失物管理局、第七係」
胸の奥で、何かがほどけた。
「……よかった」
「ただし、時々無茶をします」
「それは今、確認する必要ないだろ」
「大切な情報ですよ」
リゼが笑った。
いつもの声だった。
俺は壁へ背中を預け、ようやく息を吐いた。
「本当に焦った」
「顔に出てましたよ」
「そりゃ出るだろ」
「いつもはあまり出ないのに」
「今回は無理だった」
そう答えると、リゼは少しだけ黙った。
それから、自分の首元へ手を伸ばした。
「……私も怖かったです」
彼女は赤い封蝋を指先で確かめた。
「セインのことは分かっているのに、名前だけが出てこないんです。顔も、一緒にいたことも覚えているのに」
その声がわずかに震えた。
「思い出そうとするほど、頭の中が空っぽになっていく感じがしました」
俺はしばらく黙っていた。
どんな感覚だったのか、俺には分からない。
ただ、目の前にいる人の名前さえ呼べなくなることが、どれほど怖いかは想像できた。
「……今日はもう、あの部屋へ入らなくていい」
俺が言うと、リゼは少し驚いた。
「調査は?」
「ティセラと相談する。ここから先は、別の方法を考えよう」
リゼは少し迷ったあと、頷いた。
「分かりました。でも、私に見えることが必要なら言ってくださいね」
「ああ。その時は、ちゃんと頼む」
彼女はようやく笑った。
俺も少し笑い返した。
その時、奥の部屋から戻ってきたティセラが、厳しい顔で口を開いた。
「二人とも、少し聞いて」
俺たちは顔を上げた。
◇
「封蝋と装置が反応し合った可能性があるわ」
ティセラはそう言いながら、黒い石台の写しを広げた。
「あなたの封蝋は、名前と帰属に関わる術式でしょう。ここも同じ系統だから、近づいたことで何かが干渉したのかもしれない」
リゼが少し眉を寄せた。
「また名前を失う可能性もあるんですか」
「否定はできない。だから、今は距離を取っておいてほしいの」
ティセラは慎重に答えた。
今回の反応を利用すれば何か分かるかもしれない。
けれど、それを確かめるためにリゼへ危険を負わせるつもりはないようだった。
「……分かりました」
リゼは素直に頷いた。
ティセラはそれを確認すると、手帳の別の頁を開いた。
「それと、石台の外周に切り離しの対象を並べた記録があったわ。読めるところだけ、写してきた」
俺とリオルは紙を覗き込んだ。
最初に記されていたのは、土地の登録に関する項目だった。
その次に物品や契約、外部の人間との関係、本人の記憶に関する記述が続いている。
いくつかの文字は擦り減っていたが、段階を示す番号らしきものも残っていた。
「……順番に処理するための表か?」
リオルが尋ねる。
「そう思う。ただし、この通りで起きたことが、すべてこの順番どおりとは限らないわ。複数の処理が同時に進む仕組みかもしれない」
「最後は?」
俺が尋ねる。
ティセラは紙の下端を指した。
「ここが、ほとんど読めないの」
消えかけた文字が二つだけ残っている。
『自己帰属』
「……どういう意味だ?」
リオルが首を傾げる。
ティセラは少し考えた。
「自分が、自分自身であるというつながり。そういう意味だと思う」
「名前とは違うのか」
「名前は、誰かから呼ばれるものでもあるでしょう。でも、自分がここにいること、自分が誰なのかを感じることは、それだけじゃない」
ティセラは俺たちを見た。
「もし、それまで切り離せるのだとしたら……」
そこで言葉を止めた。
俺は、広場の椅子を思い出した。
誰かが座っていた。
俺たちはその人と話し、今夜また会う約束までしていたはずだった。
それなのに、顔も名前も思い出せなくなった。
持ち主の分からない木の駒へ〈返却〉を使った時には、白い紙が現れた。
『返却先:存在しない』
「……広場の人も?」
俺が尋ねる。
ティセラはゆっくり頷いた。
「そういう段階まで進んでいた可能性はある。でも、その人が今どんな状態なのかは、まだ分からないわ」
分からない。
その言葉に、少しだけ救われた。
少なくとも、俺たちはまだ何も確かめていない。
いなくなったからといって、どこにも存在しないと決まったわけではない。
けれど、同時に別のことも考えてしまった。
ニコが昨日、地面へ沈みかけた時。
もしネイが間に合わなかったら。
あの子も、自分が誰なのかさえ失っていたのだろうか。
「……止める方法を探そう」
俺は言った。
ティセラが顔を上げる。
「もちろん。でも、装置を壊すのは駄目よ」
「どうして?」
「ここに預けられているものが、本当に元へ戻せる状態で残っているなら、装置を壊した瞬間に失われる可能性があるの」
彼女は写した術式を示した。
「預託と保全は、同じ仕組みの中に組み込まれているように見える。片方だけ止められるのか、止めれば預けたものがどうなるのか、今は分からない」
「……下手に壊したら、戻せるものまで戻せなくなる?」
「そういう危険があるわ」
俺は頷いた。
「じゃあ、壊さない」
リオルが少しだけ笑った。
「今日は判断が早いな」
「危ないと分かったことを試す必要はないだろ」
「そうだな」
彼は素直に頷いた。
俺はティセラへ向き直った。
「調べたいことは二つある。これ以上つながりを切らせない方法と、もう預けられたものを元へ戻す方法だ」
「ええ」
「両方とも、同時に調べられる?」
「やってみるわ。ただ、ここにある文字だけじゃ足りない。王家の古い記録も必要になると思う」
「それなら、係長へ報告しよう」
リオルが言った。
「第七係の記録だけじゃなく、王家が管理していた施設の資料も探してもらう。警備隊からも正式に調査を依頼できるはずだ」
俺は頷いた。
その時、ふと思い出した。
俺たちは、この地下室へ何者かを追いかけて来たのだった。
「そういえば、逃げた人間はどうなった?」
リオルが苦い顔をする。
「まだ見つかってない。この施設へ続く道を知っていたのは確かだろうが、どこへ逃げたかは分からない」
「装置を動かしてる本人なのかな」
「それも不明だ。勝手に決めつけると、足元をすくわれるぞ」
その言い方は、いかにもリオルらしかった。
俺は少し笑った。
「分かってる」
今までなら、目の前の謎へすぐに飛びついていたかもしれない。
でも、今回は違う。
調べるべきものは分かった。
そして、分からないまま触れてはいけないものも分かった。
まずは、それを守らなければならなかった。
◇
俺たちは大きな封印室へ戻り、持ち帰る記録を整理した。
ティセラは術式の写しと、自分で書いた読み取り結果を分けて鞄へしまっている。見えている文字と、そこから推測した内容を混同しないためだという。
「こっちが原文の写し。こっちは私の仮説」
彼女が二冊の手帳を見せた。
「一緒にすると、あとで誰かが本当に書いてあったことだと思い込むから」
「なるほどな」
俺が答えると、ティセラは少しだけ笑った。
「研究者の基本よ」
その間、リオルは二枚の境界調査札が革袋にそろっていることを確認していた。
この札がなければ、俺たちは地下の入口を使って外へ連絡することができない。
だからこそ、施設の調査で何か分かっても、今は札をほかの装置へ差し込んだりするつもりはなかった。
リゼは大きな封印室の入口付近で休んでいたが、顔色はかなり戻っていた。
「セイン」
彼女が呼ぶ。
「今度は何?」
「さっきの部屋、もう一つ気になることがあります」
俺は隣へ腰を下ろした。
「何だ?」
「金属板から、声が聞こえましたよね」
「ああ」
「あれって、誰かが話した言葉そのものなんでしょうか。それとも、記憶の中に残っていた声なんでしょうか」
少し考えた。
「……確かめる必要があるな」
「もし記憶なら、そこにあった関係を戻せた時、声だけじゃなくて、その時の気持ちも戻るんでしょうか」
リゼは自分の膝へ目を落とした。
「ガロさんがエマさんの顔を思い出せなくなったことも、ニコが私たちを知らなくなりかけたことも、元へ戻せる可能性があるなら……」
その続きを、彼女は言わなかった。
俺にも分からなかったからだ。
ただ、彼女が何を望んでいるのかは伝わってきた。
「リゼ」
俺は言った。
「仮にここから何か取り戻せたとしても、勝手に誰かへ戻していいとは思わない」
彼女が顔を上げる。
「……はい」
「ガロさんなら、エマさんのことを思い出したいと言ってる。ニコも、学校へ戻りたいと言ってる。でも、全員が同じとは限らない」
リゼは少し考えてから頷いた。
「私の名前みたいに、取り戻さないことを選ぶ人もいるかもしれませんね」
「ああ。だからまず、何を預かっているのかと、どうやって戻すのかを確かめたい」
それが、俺たちの仕事になるのだと思った。
〈返却〉を使えば、何でも元通りにできるわけではない。
まして、人間を物のように扱うことはできない。
でも、本人が取り戻したいと願うものがあり、それがどこかへ預けられているなら。
その帰り道を探すことは、できるかもしれない。
「……セインって、変わりましたね」
リゼが言った。
「何が?」
「前なら、返せるかどうか先に試してた気がします」
「俺もそう思う」
素直に答えると、彼女が笑った。
「否定しないんですね」
「失敗したからな」
「痛かったですか?」
「結構」
「ガロさんも痛かったでしょうね」
「……それは、本当にそう」
リゼは少しだけ笑った。
「じゃあ、ちゃんと覚えててください」
「ああ」
俺は頷いた。
失敗したことまで忘れてしまったら、同じ間違いを繰り返す。
この通りにいる間は、そのことを何度も思い出さなければならない気がした。
◇
帰る準備を始めたところで、リゼがふと立ち上がった。
「……セイン、あれ」
彼女が指したのは、封印室の奥にある金属棚だった。
先ほどの小部屋から続く壁の一角に、少し大きな真鍮板が取り付けられている。
ほかの金属板よりかなり大きく、中央に太い線が一本刻まれていた。
「さっき、ありましたっけ」
俺が尋ねると、ティセラが顔を上げた。
「棚の奥に隠れていたんじゃない? 灯りの角度が変わって見えるようになったのかもしれないわ」
俺たちは近づきすぎない位置で立ち止まり、灯りを向けた。
文字は、これまで見つけたものより新しい形式だった。
俺にも読める。
『預託対象 青鐘通り』
その下に、もう一行。
『原帰属 王都南三区』
ティセラが息を呑んだ。
「……一致した」
「何と?」
俺が尋ねる。
「さっき読んだ石台の文字よ。対象も、原帰属も同じ」
彼女は手帳を開き、記録と見比べた。
「少なくとも、この板が青鐘通りの預託に関わる表示である可能性は高いわ」
俺は頷き、その下の文字へ目を移した。
『切離進行率』
さらに数字が刻まれている。
八十三。
「……進行率?」
俺が呟く。
リオルが隣へ来た。
「百分率なら、かなり進んでることになるな」
「何が八十三なんだろう」
リゼが尋ねた。
「分からないわ」
ティセラが答える。
「対象となる関係の数かもしれないし、術式の処理段階かもしれない。数字だけで時間や人数へ置き換えることはできない」
俺は真鍮板を見つめた。
八十三。
それが何を意味するのか、今は判断できない。
ただ、もしこの数字が増えているのなら、装置はまだ動いていることになる。
「……ティセラ」
俺が呼びかけた時だった。
小さな音がした。
金属の内部で、何かがかみ合うような音だった。
俺たちは一斉に真鍮板を見る。
数字の一部が、ゆっくり動き始めていた。
「……待って」
ティセラが呟く。
八十三。
その文字が崩れるように薄れ、すぐ隣に新しい線が浮かび上がった。
八十四。
俺は息を止めた。
誰も触れていない。
術式を動かした覚えもない。
それなのに、数字が一つ増えた。
「……今、変わったよな」
俺が尋ねると、リオルが頷いた。
「ああ。見てた」
ティセラもすぐに手帳へ書き込む。
リゼは真鍮板を見つめたまま、何も言わなかった。
その顔を見て、少しだけ不安になった。
「リゼ、大丈夫か?」
「……はい」
彼女はゆっくり頷いた。
「ただ、今の瞬間、少しだけ空白が増えた気がしたんです」
「この部屋で?」
「違います」
リゼは顔を上げた。
「もっと上の方で」
俺たちは天井を見た。
高い石壁の隅には、細い換気の通路が伸びている。
その奥から、かすかに人の声が聞こえた。
最初は何を言っているのか分からなかった。
しかし、すぐに聞き間違いではないと気づいた。
女性の悲鳴だった。
「……誰かいる!」
俺が顔を上げる。
声は、上の通りから響いているようだった。
リオルがすぐに動いた。
「戻るぞ! ティセラ、記録は持ったか!」
「ええ!」
「札もある。全員、来た道を引き返す!」
俺はリゼへ目を向けた。
彼女はもう鞄を肩へ掛け直していた。
「セイン、行きましょう」
「ああ」
俺たちは石台から離れ、地下室の出口へ走り出した。
背後には、八十四という数字が残っている。
それが何を数えているのかは、まだ分からない。
けれど、あの数字が変わったのとほとんど同時に、地上で誰かが悲鳴を上げた。
偶然だと片づけるには、あまりにも嫌な重なり方だった。
石段を駆け上がりながら、俺は青鐘亭のことを考えていた。
ミレアは今日も店を開けているはずだ。
ガロは右手首をかばいながら、仕込みを手伝っているだろう。
ニコは二階で休んでいて、ネイも一緒に残っている。
今朝、俺たちが出ていく時には、確かにそうだった。
でも、今は。
その誰かが、また何かを失っているかもしれない。
「セイン!」
先頭のリオルが振り返る。
「遅れるなよ!」
「分かってる!」
俺は足元の段差を確かめ、速度を上げた。
背後では、ティセラが灯りを掲げてリゼの歩調へ合わせている。
全員がいる。
今はまだ、四人ともそろっている。
倉庫へ続く階段が見えた。
上からは、かすかなざわめきが聞こえ始めている。
俺たちは息を切らしながら階段を上り、開いた床板の向こうへ手を伸ばした。
その先にある青鐘通りで、今度は誰が何を失ったのか。
確かめるのが怖かった。
それでも、確かめないままにはできなかった。




